赤い盾1

 更新日/2018(平成30).4.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 そうだ、広瀬隆・氏を失念していた。広瀬氏の「赤い盾」は衝撃のロスチャイルド研究書であり、その意義は高い。ここで、広瀬氏の総合的把握をしておくことにする。

 2010.05.24日 れんだいこ拝


 赤い盾@ 『赤い楯』(広瀬 隆 著)より要約します。
 序章 ワイトハイムの秘密−白い人名録−

 オーストリアの権威ある人名年鑑の1987年・1988年版の1152頁から1153頁にかけて一部が空白になっている。 問題の箇所の前後を見るとWaldhauslとwaldhorというふたりの人物について書かれている。この空白箇所にあるべきであった名前を推測するならWaldheim−1987年・1988年現在のオーストリア大統領、クルト・ワルトハイムを措いて他にいない。人名録から国家元首が抜け落ちているのだ。正しくは、削除され、故意に白紙のまま印刷されたのであろう。ワルトハイムは、かつてナチス党員であったことが暴露され、アウシュビッツ強制収容所におけるユダヤ人の虐殺にかかわっていた疑いが今日もまだ晴れていない。国連の1、事務総長として10年もの長い歳月、世界外交のトップにいた男が、ナチス親衛隊SSのアイヒマンと連動していたという疑惑である。アドルフ・アイヒマンは「数百万人のユダヤ人虐殺」の責任者として、1962年、アルゼンチンで絞首刑にされた。それからちょうど10年後、アイヒマンと行動に共にしたはずのワルトハイムが国連の事務総長に就任し、その年の7月7日には問題のアウシュビッツ収容所後を訪れ、何事もない表情で花を捧げている。アイヒマンがオーストリアの首都ウィーンで「ユダヤ人の粛清」に没頭していた当時、この虐殺人SS少尉が働いていた場所は、ユダヤ系巨大財閥ロスチャイルド家の屋敷を利用したユダヤ人移送局の本部であった。

 ロスチャイルド家の系譜図を描いていくとアクション映画『007』シリーズの原作者イアン・フレミングがいる。イアン・フレミングはただのスパイ小説家ではなく、現実の世界でも英国の海軍少佐としてスパイ活動をしていた。『ゴールドフィンガー』『ダイヤモンドは永遠に』『女王陛下の007』などのタイトルに表される金銀ダイヤや女王を裏で操る世界最大のウラン採掘会社「リオ・チント・ジンク」の重役が、フレミングの従兄なのである。南アフリカから金・銀・ダイヤ・ウランなどの鉱物資源を掘り出しては全世界に販売してきた巨大企業の代表が、ロスチャイルド財閥の「リオ・チント・ジンク社」である。

 英国で最大の富豪であるエリザベス女王が、なぜかこのロスチャイルド−007−リオ・チント・ジンクの系図に登場する。したがってダイアナ妃もこの系図に入ってくるが、このダイアナ妃の先祖は、父方・母方とも南アフリカを支配した白人の代表者であったという闇に隠された史実をジャーナリストは誰も伝えていない。ダイヤ王として今日の人種隔離政策の礎を築いた19世紀の伝説の人物セシル・ローズから、ダイアナ妃の父方の高祖父はある企業の支配権を譲り受けて財を成した。母方の曾祖父ファミリーは、南アフリカに直接出征し、自ら武力を持ってイギリス利権に奔走した人物である。

 1989年にサッチャー政権の閣僚として外相・蔵相に就き、翌年は首相となったジョン・メージャーが、また判明する限り、そのほとんどの閣僚が、ワルトハイムとダイアナも登場する一枚の系譜図に関係している。正確にヨーロッパの文化・歴史・ビジネスを掌握するには、そしてこれから未来にかけての動きを自分の思索によって推測するには、何よりも過去ヨーロッパ200年の史実と登場人物を、ある特殊な方法で結びつけ、まったく新しい歴史観を導入しなければならない。その方法とは、産業革命のあと人類を支配するようになった工業力とビジネスを中心に据えてこの世の事件を解析し、その中心人物の財産の流れを系図の中に読み取っていく作業になる。

 たとえば、ジェームズ・ミシェル・ゴールドスミスという“巨人”がいる。この男はイギリスとフランスの両国籍を持ち、ウォール街とロンドンのシティを股にかけ、投資家として世界最大のタバコ会社「ブリティッシュ・アメリカン・タバコ」を買収しようとしてきた。彼は、アメリカの貴金属商ハンディー・ハーマンを動かし、イギリスのマーチャント・バンカーとして南アフリカに大きな利権を持つハンブローズ銀行をパートナーとしている。ヨーロッパ第三位の食品会社カヴェナムをまたたく間に創り出し、フランスの雑誌「レクスプレス」を買収し、なぜかフランスが猛進する原子力発電に反対する。全世界の富豪が脱税のために利用するタックス・ヘイブンとして悪名高いカリブ海のケイマン諸島で「ケイマン・アイランズ社」の社長でもある。1987年のウォール街「暗黒の月曜日」の暴落の危機にも、すでにジェームズ・ゴールドスミスは売り逃げていて莫大な利益を得た。ゴールドスミス家はロシア皇帝に莫大な資金を貸し付けてきたファミリーであり、ジェームズの父は今世紀初頭からヨーロッパの豪華なホテル群を支配したきた、ジェームズの祖父アドルフ・ゴールドスミスは、もともとドイツ・フランクフルトの出身で、イギリスに渡る前の姓はゴールドシュミットであった。英語名ゴールドスミスとドイツ語名ゴールドシュミットは同じ姓で、金の細工師を意味する。このアドルフ・ゴールドシュミットの兄マクシミリアンの妻が、ミンナ・ロスチャイルドだったのである。ルイ・ヴィトンやディオール、セリーヌなど、こうしたファッション業界の多くはロスチャイルド財閥の手の中にある。

 スイス銀行の秘密口座を動かす男たち、NATOの最高幹部、ハリウッドのユダヤ人、中東に戦乱の絶えない謎、バチカン銀行の正体、統一ドイツの黒幕、南アフリカにうごめくシンジケート団、スターリンとクレムリンの秘史、パリ・ファッション界の帝王、穀物と食品に群がる不思議な船団、スパイ機関の目的、商人と銀行家と植民地、マルコスやチャウシェスクたち独裁者の友人、そして何より、このメカニズムを隠し続けてきた欧米のジャーナリズムの真相。この全体がひとつの閨閥によって組み立てられている。この200年、歴代のイギリスとフランスの首脳と大富豪は、たった一家族の中から誕生したきたのだ。(つづく)

 赤い盾A

 第一章 金銀ダイヤの欲望に憑かれた男たち

 1 ウォール街13日の金曜日

 18世紀末、ドイツのフランクフルトに誕生したロスチャイルド財閥は、人類の歴史上きわめて稀なことだが、今日の20世紀末を迎えてなお世界最大の財閥として地球上に君臨している。かつて栄華を誇ったフィレンツェのメディチ家に取って代り、200年の歳月にわたって金融界の王座を守り続けてきた。それは異常な支配力というほかない。しかもただの銀行家でなく、王室と全世界の独裁者を掌中に握り、商工業界に底知れぬ力を及ばしているのである。

 しかしその2世紀のあいだ、ロスチャイルド家はたびたび危機に襲われてきた。とりわけ今世紀に入って地球全体を見舞ったファシズムの嵐の中で、ユダヤ人絶滅のための蛮行がヨーロッパ中に展開されたあと、第二次世界大戦が終わってみれば「ユダヤ人のロスチャイルド財閥はすでに消滅した」と語られるほどの大打撃を受けた。ところが1960年代を迎えてその姿は不死鳥のように甦り、新大陸アメリカの金融王モルガン家と石油王ロックフェラー家が手にした新兵器・原水爆に標的を絞ると、カナダ、オーストラリア、アメリカの三大陸にウランの鉱物資源を確保し、いまや原子力の最大財閥として王者の座を取り戻したのである。

 このロスチャイルド家は、かつてロシアの皇帝からヨーロッパすべての王室、皇帝ナポレオン一族までを動かしながら、一方で、誕生の地フランクフルトの本家は消滅してしまった。今日まで生き延びてきたのは、イギリスとフランスのパリにあるロスチャイルド家だけである。しかし1989年末、ベルリンの壁崩壊と同時に、発祥の地フランクフルトに「ロスチャイルド銀行」が復活する、と金融界に衝撃のニュースが伝えられた。ヨーロッパの統合が、いまや最強の通貨マルクによって演じられ、その中心的な役割を果たすのがロスチャイルド銀行になろうとしているのであろうか。この発表の直後、ドイツの軍事力と全産業を支配するドイツ銀行の頭取ヘルハウゼンが爆殺された。

 今世紀に起こった三度のウォール街大暴落は、“暗黒の木曜日(1929.10.24)”“ブラック・マンデー(1987.10.19)”“13日の金曜日(1989.10.13)”と、不思議なことにいずれも10月に発生している。“暗黒の木曜日”は、その後の恐慌と失業者の大量発生から、ファシズムの台頭、世界大戦へと発展する重大なものであった。これに対して“ブラック・マンデー”と“13日の金曜日”は、ここ数年来の異常な投機ブームによるもので、一過性のものと見られているが、その火付け役となった買収合戦で主役を演じてきたのは、ルパート・マードック、アイヴァン・ボウスキー、カール・アイカーン、カール・ポラード、サウル・スタインバーグ、T・ブーン・ピケンズ、アーウィン・ジェイコブズ、そしてジェームズ・ゴールドスミスら、大物の乗っ取り屋と投機屋である。大物とは、アメリカの財界紙などがマークしている人物で、大きな企業買収の裏には必ずこれらの男が隠れているという。ひそかに株を買い占めるには、大きな投資銀行が動くより、現金を持つこれらの財政家が部下を使って敏捷に、買収の素振りも見せずに裏取引きする方が成功率は高い。世界は、これら八人の黒幕について、どれほどの事実を知っているのだろう。

 ルパート・マードックは、マスコミ界の革命児と呼ばれ、イギリスの権威“タイムズ”紙を買収、一方で“サン”紙を最も人気のある新聞に仕立て上げたオーストラリアの男。マードックの母はエリザベス・グリーンだが、シドニー・グリーンという男爵がマードックの買収した“タイムズ”紙の重役で、この貴族はロスチャイルド支配下の鉱山業者「リオ・チント・ジンク」の重役だった。リオ・チント・ジンク社は、南アフリカだけでなくオーストラリアにも金鉱、ダイヤ、ウランの子会社を持っている。マードック家によってロンドンの新聞社とオーストラリアの鉱山が深く結び付けられているのではないかという疑いが湧いてくる。

 アイヴァン・ボウスキーはロシア系ユダヤ人で、映画『ウォール街』のモデルとなった相場師であり、1985年には収入トップを記録した大物だが、同年、ガルフ&ウェスタン社株のインサイダー取引で牢獄に閉じ込められる身となった。ボウスキーは、ニューヨークのL・F・ロスチャイルド商会でアナリストとして働いて礎を築いた。問題の1985年にボウスキーが現金を融通したのがジェームズ・ゴールドスミスであった。この金を使ってゴールドスミスは別の企業の買収に成功し、広大な森林資源と土地をアメリカで手に入れた。

 カール・アイカーンは、トランス・ワールド航空の会長というポストを株の買占めによって手に入れた金融ブローカー。汗水たらして働くのではなく、金の力で一夜にして企業のトップの座を占めた。ボウスキーがインサイダー取引でガルフ&ウェスタン社の株を大量に買い占めた時のパートナーが、このアイカーンだった。アイカーンは、1960年代にニューヨークの投資会社ドレフェス商会でブローカーとして活動し、ウォール街の投機屋としてのし上がってきた。

 カール・ポラードは、テキサス航空の重役としてアイカーンと共同作業をおこなってきた投機屋。サウル・スタインバーグは、母の姓がコーエン、妻の姓がヘルツォーク。コーエンはロスチャイルド家の結婚相手の姓であり、ヘルツォークはイスラエル大統領と同姓である。

 T・ブーン・ピケンズは、ロスチャイルド財閥と連動しているユダヤ系投資銀行ゴールドマン・サックスと深い関係にある。ゴールドマン家を調べていくと、南アフリカでダイヤを掘り当てたチャールズ・ゴールドマンという伝説的人物がいる。この男は、のちにダイヤを支配したロスチャイルド家のパートナーとなった。アーウィン・ジェイコブズは、カール・ポラードのパートナーで、ウォルト・ディズニー社の買収では3000万ドルを稼いだ。

 イギリスのジョン・ジェイコブズ商会はロスチャイルド財閥と連動するユダヤ系投資銀行と一体となってビジネスを展開し、特に南アフリカの鉱物資源と深い関係にある。ジョン・ジェイコブズ商会はアーウィン・ジェイコブズ一族の会社かもしれない。そして、最後の一人は、あのジェームズ・ゴールドスミス。八人の大物投機家は、ロスチャイルド財閥と一体となって活動している可能性がある。

 ロスチャイルド財閥とユダヤ人を混同してはいけない。ロスチャイルド財閥には、ユダヤ教徒と対立してきたキリスト教徒だけでなく、全世界の宗教が含まれる。イギリス家当主ライオネル・ロスチャイルド自身がカトリックを体験したことがある。ライオネルの妹ハンナの結婚相手はプロテスタントのサザンプトン伯爵の息子であったし、フランス家五代目当主ギイ・ド・ロスチャイルドもプロテスタントの女性と結婚している。最も激しい対立関係にあるはずのアラブ・イスラム世界に目を転じれば、アラブ・プリヴェ銀行の経営者はジェームズ・ゴールドスミスの30年来のパートナーだし、アラブ投資銀行の重役室にもロスチャイルド家の人間が座っている。仏教界のアジアでは、東インド会社によって引き起こされた阿片戦争の時代から今日まで、紅茶、コーヒー、酒類の多くが香港やシンガポールを中継点として日本に流れ込んできたが、ここを取り仕切る最大の勢力がロスチャイルド財閥である。ジェームズ・ゴールドスミスは「私は、ユダヤ人に対する時はカトリックである。カトリックに対する時はユダヤ人である」と話している。通常なら「ユダヤ人に対する時はユダヤ人、カトリックに対する時はカトリック」だろう。だが、ゴールドスミス=ロスチャイルド家の感覚は、このように研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、ひとたび重要な局面を迎えれば外界と一線を画して独立し、ファミリーの利益と支配力を強固な壁で守り続けるために力を結集させる。ジェームズ・ゴールドスミスは1980年代のウォール街の二度の暴落で、なぜかますます資産を肥やしてきた。ジェームズ・ゴールドスミスひとりの財産が表面に見えるだけで数千億ドルを超えると評価されているが、これは海上に浮かぶ氷山の一角である。海中にはどれほど巨大なロスチャイルド家の氷塊が隠れているか、想像もできない。

 赤い盾B

 2 フランクフルトの『夜と霧』

 イエス・キリスト誕生の時代に、ローマ人によって中東の地−今日のパレスチナ−から追放されたユダヤ人は、全世界へ離散を余儀なくされ、ある者はアジアへ、ある者はロシアへ、ある者はヨーロッパへと散っていった。その中でユダヤの戒律を守りながら、同時に故国なき民として生存するための知恵を体得していった集団が、16世紀頃にはドイツのフランクフルトに大量に移住を始めた。その知恵とは、貨幣の交換や金貸しを専門とする職業で、こうした金貸し業者の一人がモーゼス・ゴールドシュミットであった。ゴールドシュミットとは、今日われわれが使っているような家名を表わす姓でなく、職業を示す店の看板であった。16世紀には“金貨取扱い業者”を意味する通称だった。このユダヤ人たちはフランクフルトの中で特別の区画でしか生活を許されず、ゲットーと呼ばれる地区に閉じ込められ、そこへキリスト教徒が借りに通ってくる。こうしてゲットーはユダヤ人居住区であると同時に、中世の金融街を形成していった。いかなる戦乱があっても貨幣を確保しておけば生きられるというこのユダヤ人の知恵が、今日の金投機の源となった。1989年“13日の金曜日”のあとベルリンの壁が崩壊し、金価格は急騰した。これから何が起こるか不安である、という時には必ず金価格が上昇する。札束や証券などはいつ価値がなくなるかもしれないという不安から、貴金属や不動産に換えておく。その金価格は歴史の定めにより、今日でもロンドンのロスチャイルド家が毎朝決定し、全世界がこれに従っているのである。キリスト教徒が古い時代にユダヤ人をゲットーに押し込め、そこで金貸し業を強制した時代から、このゲットーの原理は変わっていない。モーゼス・ゴールドシュミット家は、中世のゲットーの中で大きく育ち、18世紀に入ってからこの一族から一人の巨人を生み出した。

 1744年にユダヤ人街148番地に誕生したその人物は、父アムシェル・モーゼスの金貸し業を引き継ぎ、ある家紋を小さな看板に掲げて商売をおこなっていた。看板には“赤い盾”の絵が描かれていた。ドイツ語の赤い盾“ロートシルト”がフランス語では“ロチルド”と呼ばれ、ロンドンでは“ロスチャイルド”と発音されるようになり、その家紋は、のちに全世界の銀行家が一目見ただけで震え上がるようになった。

 
ドイツのフランクフルトの片隅にあるユダヤ人ゲットーで日を送っていた初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドには、五人の息子と五人(一説には七人)の娘があった。長男のアムシェル・マイヤーがドイツ家を継ぎ、次男サロモン(ザロモン)・マイヤーがオーストリアのウィーン、三男ネイサン(ナタン)・マイヤーがイギリスのロンドン、四男カール(カルル)・マイヤーがイタリアのナポリ、五男ヤーコブ(のちにジェームズと改名)・マイヤーがフランスのパリに散る形でヨーロッパ全土の主要都市をおさえた。この散在の仕方がロスチャイルド家の繁栄の鍵を握るものであり、絶妙だった。散ったようで、実は広く網を貼り、緊密な連携プレーを演じたのである。二代目の五人兄弟から三代目まで追っていくと、孫の代では19人のロスチャイルド・ファミリーが誕生している。見るべきは、この19人の結婚相手であり、一人は若死にしているので、18人のうち14人が同族結婚をしていた。この同族結婚は、投機筋から分析すると大変興味深い戦略になるはずだ。

 初代ロスチャイルドが生きた時代は、1744年からフランス革命をはさんで1812年までだった。当時、通信手段は郵便に限られていた。どこでどのような事件が起こったか知らせるスピードが、貴金属などの値動きに反映されることは言うまでもない。その利鞘を稼ぐ商人の立場にあって、ロスチャイルド家はドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、フランスの五カ国を、同族結婚によって固く結びつけていた。“自家用の郵便船”を絶えず出航準備完了の状態に保ち、一朝ことあれば、乗客を乗せずにニュースだけを運んだロスチャイルド家であった。当然、伝達能力は誰よりも早く、確実な内容が伝えられた。

 赤い盾−この看板には鷲とライオンとユニコーンに、五人の息子を示す“五本の矢を握り締める腕”が描かれている。この“五本の矢”は、ロシア南部のスキタイの王が死の床に息子たちを招き、矢を束ねると折れないことを示した故事が由来で、兄弟の結束を意味している。この“五本の矢”は今日でも“ファイブ・アローズ財団”や“ファイブ・アローズ証券”として生き続けている。

 中世の暗黒時代から近世へ突入しようとする時代、フランクフルトのゲットーに押し込められたロスチャイルド一族は、市民権さえ与えられず、細々と両替商を営んでいた。一般市民との交際が厳しく禁じられ、夜には居住区から出ることも許されず、日曜と祭日にも“賤しいユダヤ人”としてゲットーに閉じ込められていた。この時代に圧倒的に数の多かった貧しい人間が何を考えているかを、ロスチャイルド親子は身をもって知った。マイヤー・アムシェルは幼くして両親を失いながら、ドイツの名門貴族ヘッセン家の、貨幣に異常な収集癖を持つヴィルヘルム9世に目をつけた。マイヤー・アムシェルは、徒弟生活の中で、通貨の売買で利鞘を稼ぐ腕は若くして相当なものになっていた。こうしてコレクターの二人は古銭を扱う世界で知己となり、やがて大々的に貨幣を収集し始めた。高利貸しに身を転じたマイヤー・アムシェルは、戦乱のヨーロッパ大陸を走り回りながら、いつの間にか莫大な自己資金を蓄えることに成功した。それがもっぱら軍資金の調達と、兵士の調達という戦争目的に運用され、敵味方なく、儲かるところに投資されたのである。ここが商人と軍人の違うところであった。どちらが勝ってもよい。要は利益を得て、非難されないこと。そのため秘密の行動に徹し、各国の政府・王朝に貸し付けていく。その結果、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの名が、単なる金融業者ではなく、戦運の向背を決する救世主として上流社会に受け取られるようになった。この男は、金を握って、同時に背後から権力に一歩ずつ近づいてたのである。

 ネイサンがイギリス店を創設した時代は、ナポレオンの全盛時代に当たる。フランスを取り巻く列強諸国の支配者たちは、自由解放のフランス革命がわが身に飛び火する日に恐怖しながら、ギロチンの悪夢に怯え、ロスチャイルド商会に軍資金の融資を迫って来た。このときロスチャイルド家の投資先は、ナポレオン派と反ナポレオン派の双方であったから、各国に設立される商会が独立していなければ、世間から「矛盾している」という“誤解”を受け、激しい非難を浴びせられるだろう。ロスチャイルド家から見れば、すべての国や君主や実力者が、いつなんどきひっくり返るか分からない時代にあって、投資リスクの保険制度のような性格を帯びたものが、それぞれ独立した五人兄弟の五カ国連合商会であった。敵味方の両方に融資しておけば、必ず勝者から戦後の権益を分けてもらえる。ネイサンは、ナポレオンに敗れたヴィルヘルム9世−父親のパートナー−と裏で通じて、その財産をイギリスで安全に貯蓄しておくよう委託されていた。ネイサンは勝手にヴィルヘルム9世の資金を使って貴金属に投資し、自分の莫大な資産を生み出した。勿論、ヴィルヘルム9世には元金を戻したが、何年も返さなかった。

 1806年、ナポレオンが“大陸封鎖令”を発したため、ロンドンのロスチャイルド家は大規模な密輸団を組織して商売を続けなければならなくなった。怒ったイギリスのウェリントン将軍ではあるが、ナポレオン討伐のためには、その軍資金をどこかで調達しなければならなかった。この資金が、ネイサンを軸に、ドーバー海峡を越えて金貨と手形を密かに大量輸送しながら、五人兄弟の連携によって調達された。ロスチャイルドはナポレオンの本拠地パリを通って金塊を運び、ピレネー山脈を越えてウェリントン軍まで首尾よく届けたが、そのとき、ワーテルローの戦いにおける勝敗を見届ける者がすでにロスチャイルド家によって配置されていた。伝書鳩を使ったか、あるいは馬と密輸船を確保しておいたか、ウェリントン勝利の密書を誰よりも早く手にしたのがドーバー海峡の向こうにいたロンドンのネイサンだった。誰の仕業か、ロンドン中に“ナポレオン勝利”の誤報が流れたため。大英帝国破滅の日が近い、ということで公債は紙切れ同然の大暴落となった。それを密かに買い集めている一団があった。ネイサンの使用人である。翌日、“ウェリントン勝利”のニュースが将軍の使いから伝達された時には、公債がどれほどの値上がりをしただろう。ロスチャイルド家は、敵味方を分けない冷たい金融取引き、かかる秘密を尊重する行動、最大の資産家である大衆を味方に引き入れること、五人兄弟の固い結束、各国を股にかけた国際的活動による莫大な利益、通信と密輸による屈指の機動力…など、一級の商人として新境地を開拓した。

 赤い盾C

 3 シャーロック・ホームズロンドン

 イギリスの産業革命の真っ只中に飛び込んだネイサンは、英語さえ喋れないまま商売を始めた。ロンドン・シティ−現在ただ“シティ”と呼ばれる象徴的な証券界の聖地は、すでに無数の銀行家たちによって支配されていた。なかでもベアリング兄弟の力は群を抜き、東インド貿易による香辛料や紅茶、コーヒーから織物に至るまで、株式は値をつり上げながらこの一族を肥やしていた。資産は700万ポンドを超え、ヨーロッパ随一の商人となっていた。ベアリング家もまた、ドイツから海を渡ってやってきた。 最大の交易地が東インドであるなら、最後にはそこでの買付けに金銀が必要となることにネイサンは目をつけた。 ロンドンにロスチャイルド商会を開設して二年後、ネイサンはイギリスのユダヤ人富豪リーヴァイ・コーエンの娘と結婚した。この結婚で、ときのシティを動かしていたもうひとつのユダヤ商家モンテフィオーレ一族と閨閥が生まれ、これでネイサンは金銀の地金を自由に入手できるようになった。なぜならモンテフィオーレ家は、強敵ベアリング一族に金塊を運んできたモカッタ・ゴールドシュミット商会と婚姻関係を取り結んでいたからである。

 今日のロンドンで、毎朝、ロスチャイルド銀行に集まって額を寄せ合いながら密談を重ね、全世界の金価格の値決めをおこなっているのは、ロスチャイルド家の当主のほかに四人いる。そのうちの一人が金塊ブローカーとして長い歴史を誇るモカッタ・ゴールドシュミット商会の代表である。コロンブスがアメリカ大陸に向かった時代からスペインで活動していた一族がロンドンでモカッタ家を名乗り、シティの支配者ゴールドシュミット家と組んで創立したこの金塊銀行は、イングランド銀行のブローカーとしてすでに一大勢力を形成していた。ネイサンは、あとからロンドンにやってきて、その閨閥に入り込むと、財産をそっくりいただき、支配してしまった。

 1990年、イギリスの新首相に選ばれたジョン・メージャーは、このモカッタ・ゴールドシュミット商会から誕生した。しかも選挙参謀はロスチャイルド銀行であった。今日のロンドンは、ほぼ200年前のネイサンの結婚式のままに動いている。メージャー首相は、若い頃にアフリカのナイジェリアで活動したのち、スタンダード・チャータード銀行の幹部としてイギリスの旧植民地を金融支配する世界で暗躍してきた。

 ナイジェリアはアフリカで最大の人口1億を数え、石油の生産量第一位、天然ガスでも第二位という重要な資源国である。ナイジェリアを建設したのはイギリス人のジョージ・トーブマン=ゴールディで、この人物はイギリス王室の代理人としてロイヤル・ニジェール商会を創立して鉱山業から宝石の世界にまで君臨し、のちに南アフリカの黒人支配に多大な貢献をした。現在、美術品オークションの世界を動かすサザービーズの最大株主として君臨してきたのが、やはりトーブマン一族で、妻が“ミス・イスラエル”であった。この構造を要約すると、イギリスの王室や貴族にユダヤ人の宝石商が財宝を届けてきたのである。すべては王室の許可によってこのような事業が進められ、その特許状(チャーター)を与えられた銀行が、メージャー首相を創り出したスタンダード・チャータード銀行であった。

 19世紀の設立当初は、この銀行がインド、オーストラリア、中国などへの侵略貿易の中心となって活動していたが、その隠然たる勢力が海外の帝国銀行として残り、今日でも香港の紙幣は、この銀行と香港上海銀行によって発行されている。

 さて、このスタンダード・チャータード銀行は、親会社として持ち株会社スタンダード・チャータード社が頭にあり、ここを頂点として数々の重要な系列会社が傘下に収められている。そのひとつがロスチャイルド一族のモカッタ・ゴールドシュミット商会である。もうひとつが南アフリカの白人支配者の金庫スタンダード銀行グループ、そしてもうひとつがスタンダード・チャータード・マーチャント銀行で、1985年からこの最高経営責任者のポストについたパトリック・マクドゥーガルは1960年代にロンドン・ロスチャイルド銀行の支配人であった。つまりスタンダード・グループの細胞は、かつての奴隷貿易と金塊業を一手に握ったネイサン・ロスチャイルドの一族によって構成され、今日でも変わらない。金価格を決定する五大商人のうち、ロスチャイルド銀行とモカッタ・ゴールドシュミット商会の力が、多くの政治家を動かしているのである。では、残る三人は誰か。一社シャープス&ピクスレー商会。この親会社はイギリス最大のマーチャント・バンククラインウォート・ベンソン・ロンズデール」という。この最初の名前クラインウォートと最後の名前ロンズデール伯爵家が、オーナー一族を示し、いずれもロスチャイルド家の親戚である。もう一社はサミュエル・モンタギュー商会。これもイギリス有数のマーチャント・バンクである。創設者サミュエル・モンタギューの娘リリアンは“進歩的ユダヤ主義のための世界連合”で名誉会長をつとめるなど国際的に活躍した女性だが、現在は創設者のひ孫が銀行を経営している。四代目に当たるそのデヴィッド・モンタギューは、J・ロスチャイルド銀行で副会長のポストにいる。このモンタギュー家もロスチャイルド一族から誕生している。残る一社は、貴金属の世界で知らぬ者のいないジョンソン・マッセイだが、この親会社チャーターコンソリデーテッド社は、悪名高い世界一の金塊業者アングロアメリカンの黒幕で、その重役にはイヴリン・ロスチャイルドの名が記されている。同じ重役室の名簿にはニコラス・オッペンハイマーの名も書かれている。つまり五人のうち五人ともロスチャイルド家のメンバーで、この五人によって全世界の金価格が決定されていることになる。19世紀の初頭、ネイサン・ロスチャイルドが築きあげようとした金塊の独占形態は、ベアリング家が手当たり次第にあらゆる商品を扱う取引の中で、逆にその一切の急所をロスチャイルド家が握るものであった。金銀がなければ買付けは不可能になる。こうしてネイサンはシティで着々と地歩を固めてゆくと、そこへ1810年に天運が巡ってきた。ベアリング家総帥としてロンドン証券取引所を牛耳ってきたフランシス・ベアリングがこの世を去ってしまった。同じ年、ネイサンの一族のモカッタ・ゴールドシュミット商会のエイブラハム・ゴールドシュミット自殺してしまった。奇異なことに、エイブラハムの兄ベンジャミン・ゴールドシュミットも二年前に自殺を遂げていた。ロンドン・シティに君臨するベアリングとゴールドシュミット兄弟がいなくなったことで、ネイサンが無敵の王者としてシティを動かし始めた。

 ネイサンの名は「神が与える」という意味のヘブライ語に由来する。まさしく神が遣わしたこの男は、金融王としてヨーロッパ全土を支配するロスチャイルド王国を誕生させ、このファミリーが今日に至るまで全世界の金塊を一手に引き受け、動かし続けることになった。シティには、イングランド銀行の他に、ロイズ銀行バークレー銀行ウェストミンスター銀行ミッドランド銀行、スタンダード・チャーター銀行がある。イングランド銀行は、創業が1694年、今日ではイギリス中央銀行として国家の財産となっているが、ほんの半世紀前まで民間の大銀行であった。近代銀行として、実質的には世界で初めて“お札”を発行し、それまで金細工師に頼っていた金融界を一変させた。イングランド銀行商業銀行としてシティに力を振るっていた時代、この金庫が求める金銀の地金ブローカーとして活動していたのが、モカッタ・ゴールドシュミット商会であり、19世紀の初頭にはネイサンが大量の金をイングランド銀行に調達していた。このような関係から「ロスチャイルド家の存在しないイングランド銀行はない」と言われ、イギリスの国家的な大事業は、残忍な戦争であれ、貿易を支配するスエズ運河会社の株式取得であれ、直ちに資金を用意できるロスチャイルド銀行に頼ってきた。こうしてイングランド銀行の総裁や理事たちは、ある一定の傾向を示す人選の原則に従って、ロスチャイルド登場後は今日までその方針を変えていない。バークレー銀行は、イギリス最大の商業銀行としてロンバード街に君臨し、同時に世界中から非難を浴びてきたイギリス最大の問題=南アの貴金属に深く関与している。

 会長代行のマーティン・ジェイコムは、金価格を決定するクラインウォート・ベンソン・ロンズデールの重役である。同じく重役のアンソニー・テュークは、南アが侵略し続けてきたナミビアのウランを売りさばくリオ・チント・ジンクの会長で、このテューク一族は、バークレー銀行を創業したバークレー・ファミリーと共に代々この銀行を支配し、南アにある子会社バークレーズ・ナショナル銀行」の重役室に居座ってきた。「南アから撤退」とは、この子会社の持株をすべて売却するというものだったが、売却先が金塊業者として世界一のアングロアメリカ社とダイヤモンド業者として世界一のデビアス社などであり、シティとの関係には何の変化もなかった。これら南アの業者は、いずれもロスチャイルド銀行の支配下にある。バークレー銀行の重役陣の中で特に目を惹くのは、ナイジェル・モブズで、この人物はロスチャイルド一族の女性を妻としている。ウェストミンスター銀行は、イギリス商業銀行として第二位。創業メンバーのひとりデヴィッド・サロモンズは、ネイサンの愛妻の姪と結婚した人物である。したがって重役陣には、ぞろぞろとロスチャイルド閨閥の名が認められる。1989年、シティの株価を不正操作した疑惑のため引責辞任したボードマン会長は、N・M・ロスチャイルド社の最高幹部を務めるシェルボーン卿のパートナーであった。ミッドランド銀行の中核となる子会社は、金価格に決定する五つの銀行のうちのひとつ、サミュエル・モンタギュー商会である。1960年代に、このモンタギュー商会の会長を務めていたのが、ウェストミンスター銀行につながるシェルボーン卿であった。第四位のロイズ銀行は、本来、ロスチャイルド家をはるかにしのぐ歴史を持つロイド家によって創設された。東インド会社が初めての株式会社として発足し、この冒険的な商業につきまとう危険を請け負うため、保険ビジネスが誕生。大英帝国が世界一を誇るロイズ保険。この保険会社から誕生したのがロイズ銀行である。創業者から数えて四代目のロイド家が、バークレー銀行バークレー家と結婚した。ロイド家九代目に入って、イギリス政界の著名な人物ジョージ・ロイドを生み出し、これが植民大臣として大英帝国の海外侵略期に活躍し、ロスチャイルド家と縁戚関係を取り結んだ。スタンダード・チャーター銀行は、イギリスでは第五位だが、前述のようにアフリカではカメルーンボツワナ、ガンビア、ガーナケニア、シエラオネ、スワジランドザンビアジンバブエナイジェリアなどを支配し、一方、アジアでは香港シンガポールインドなどで強固な金融帝国を築く国際的な植民地銀行である。これだけの広範囲な世界に進出できるのは、怪物J・ゴールドスミス一族の力によるもので、姉妹会社が金価格決定銀行のモカッタ・ゴールドシュミット商会である。ざっとこの通り、今日のすべての国の銀行の母体とも言うべきイギリスの五大商業銀行とは、五大金塊銀行と同様、19世紀初頭に金融王ネイサン・ロスチャイルドが生み出した閨閥を細部まで編み上げ、20世紀末に至るまでにさらに緻密な資金の流れを完成したものである。すべてがわずかな一族によって支配されている。初期には強制的に閉じ込められたユダヤ人のゲットーという閉鎖的な社会にあって、ロスチャイルド家−コーエン家−モンテフィオーレ家−モカッタ家−ゴールドシュミット家のユダヤ富豪五大ファミリーの間で、驚くほど近親結婚が繰り返されていた。しかし、ネイサンが世界の王者として君臨した頃からイギリスの貴族社会に深く入り始め、やがてパートナーはユダヤ人であると非ユダヤ人であるとを問わず、一大金融帝国を築くためのものに変わっていった。ロスチャイルド家はユダヤ系である。しかしロスチャイルド閨閥ユダヤ系だけではない。そしてロスチャイルド財閥の資金の流れは、この閨閥の外へ一滴も漏れ出さないほど見事に構成されている。南アフリカに移り住んだオランダ系入植者ボーア人たちが、19世紀後半のダイヤ発見とゴールドラッシュによって、それまでの農民から山師に転じようとした時、イギリス人はその莫大な利権が黙って他人の手に握られるのを見逃すほど善人ではなかった。こうしてイギリス人南アに乱入した侵略戦争は、第一次ボーア戦争が1881年から84年、第二次ボーア戦争が1899年から1902年に繰り広げられた。これはイギリス人オランダ人が他人の土地に入り込んで利権を争奪する戦争であって、そこには原住民としての黒人は存在しない。

 アパルトヘイトは、このボーア戦争によって確立されたものである。オランダは、ロンドン・シティが繁栄する前にアムステルダムが金融王国であったことから分かるように、イギリスと緊密な関係を持っていた。17世紀末には、オランダ領主のオレンジ公ウィリアムスが今日のイギリス王室のウィリアム三世となって両国がひとつの国家を形成していたほどである。今日、石油会社のシェル食品会社ユニリーバイギリスオランダの二国籍を持つのは、このような歴史から誕生した商業文化の所産である。J・ゴールドシュミット(ゴールドスミス)家は、フランクフルトを母体に活動したが、そこからオランダに勢力を伸ばしたゴールドシュミット家が、のちにロンドンに姿を現し、姓の綴りを変えてゴールドスミスとなった。シティで自殺を遂げたベンジャミンとエイブラハムのゴールドシュミット兄弟はオランダ系であり、ウォール街を震撼させる乗っ取り屋J・ゴールドスミスフランクフルト系である。このようにオランダイギリスの金融界が同じファミリーの手で動かされ、世界の銀行史が描かれてきた。ボーア戦争では、莫大な戦争資金を必要とした。その資金を調達したイングランド銀行の総裁は、第一次の時はヘンリー・グレンフェル、第二次の時はヒュー・スミスという。前者グレンフェルの妻はアリシア・アディーンといい、後者スミスの妻はコンスタンス・アディーンという。アリシアとコンスタンスは姉妹であり、その義理の姉妹にあたるエリザベスヨーク兄は、ネイサン・ロスチャイルドの孫娘アニー・ロスチャイルドと結婚していた。ヒュー・スミス総裁の孫ランダル・スミスは、兵器会社ヴィッカースの重役として大きな力を振るってきた人物である。もう一人の総裁ヘンリー・グレンフェルの息子エドワード・グレンフェルは、ネイサンがロイズ保険に対抗して創設したアライアンス保険の重役として活動するかたわら、自らもイングランド銀行理事として大英帝国の金庫を動かしていた。このエドワード・グレンフェルが、新天地アメリカで急激に頭角を現してきた若き金融王ジョン・ピアモント・モルガンと手を組み、モルガン・グレンフェル商会を創設した。

 赤い盾D

 4 SOSタイタニック

 イングランド銀行総裁の息子エドワード・グレンフェルは、すでに1900年にはロンドンのモルガン商会の支配人となり、それから四年後にはロスチャイルド一族の代表として“パートナー”と呼ばれる最高幹部のポストに就いていた。J・P・モルガンの父が創設したこのジュニアス・スペンサー・モルガン商会は、全米一の富豪として君臨したモルガン家と、ヨーロッパの王者ロスチャイルド家が名実共に合体した成果を祝って、1909年にモルガン・グレンフェル商会と看板を書き換えた。このあとグレンフェルはインターナショナル商船の株を買い集めて重役室に居座ると、タイタニック号のオーナーであるイギリスのホワイトスター汽船を買収した。絶対に沈没しない構造になっていたはずのタイタニック号は、1912年、処女航海で氷山に衝突し、沈没した。ニューヨークタイムズは第一報の一面トップで救助された乗客ふたりの名前が載っていた。ひとりはホワイトスター汽船の社長イズメイ。もうひとりがアスター夫人である。これに続く著名人乗客の特集記事が「ジョン・ジェイコブ・アスター夫妻とイシドール・シュトラウス夫妻およびべンジャミン・グッゲンハイムも乗船していた」と続く。したがって社長のイズメイを除く次の三人が、当時最も重要な乗客であったと判断してよいだろう。アメリカの大富豪アスター、シュトラウス、グッゲンハイムは、不思議なことにいずれもユダヤ系とされている。べンジャミン・グッゲンハイムは、当時、南アフリカの金鉱に進出していたアメリカ一の鉱山王だった。一族は、金銀などの精錬事業では世界一の従業員の数を誇っていた。祖先はスイスのユダヤ人で、1847年にドイツからアメリカに渡って来たマイヤー・グッゲンハイムが、1881年にウォール街を襲ったパニックの中で、友人のコロラドの銀鉱山を安値で買い取ることができた。これが幸運の始まりで、すでに成人していた息子たちが次々と鉱山の開発に成功し、西部のゴールドラッシュが巨万の富をもたらした。しかし、この事業には莫大な資金が必要であった。グッゲンハイムの七兄弟はモルガン財閥の門を叩き、海軍長官を務めたウィリアム・ホイットニーから融資を得た。ホイットニー・ファミリーは、鉄道王ヴァンダービルトと閨閥を結ぶ大家族で、この両家の孫に当たるコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーが『風と共に去りぬ』『スター誕生』『レベッカ』などの大作をつくったプロデューサー、つまりスポンサーである。こうして「ユダヤ人嫌い」のモルガンから資金を得て、グッゲンハイムは自分の採掘会社を「アメリカ精錬」(ASARCO)という会社に成長させ、金属の流通部門を押さえてしまった。現代アメリカ最大の非鉄金属会社「アサルコ」として、今日ユタ州オーストラリアウランを採掘しているのが、この会社である。ユタ製銅とケネコット製銅を支配したグッゲンハイム家は、金銀をモルガン財閥に届けながら自ら富豪になっていった。ニューヨークにあるグッゲンハイム美術館は、グッゲンハイム家の自宅の敷地のほんの一部を利用して建てられたものだと言う。グッゲンハイム奨学金制度は、無数の学徒に資金を提供してきた。タイタニック号で死亡したベンジャミン・グッゲンハイムの弟ソロモンがイレーヌ・ロスチャイルドと結婚し、その娘もロンドンのネイサン一族と閨閥を取り結んでいた。これは、ヨーロッパロスチャイルド家がカリフォルニアメキシコから貴金属を買い入れ、貨幣を鋳造していた歴史から当然誕生すべき家系だった。アスター一族は、ニューヨーク開発の時代に土地を買占め、今日のウォール街マンハッタン全土を掌中に収めた“ニューヨークの土地の王様”である。

 このアスター家が“ニューヨークの王様”となるまでには、次のような物語があった。初代のジョン・ジェイコブ・アスターは、初代ロスチャイルドと同時代の1763年にドイツのウォルドーフに生まれ、兄ヘンリーと共に楽器商で働いていた。ある時、その商売のためにロンドンからニューヨークへと海を渡る船旅のなかで毛皮商と知り合い、楽器を売って毛皮に替え、さらにこれをロンドンで売って大儲けをした。かくしてイギリスアメリカを往復する商売が当たって、ニューヨークで土地と家の買い占めを始めたのが、すべての始まりだった。二代目ウィリアム・アスターはニューヨークの土地をさらに大掛かりに買い占めていったが、いよいよ銀行アメリカで繁盛し始めると、彼が持っていたニューヨークウォール街が爆発的な成長を遂げる幸運の時代によって、ニューヨークの土地の王様になったのである。さらに三代目、四代目となるまでに一族の資産は大きく膨れ上がった。ナイアガラ電力、ニューヨーク生命保険、ウェスタン・ユニオン通信社、数々の鉄道会社などに資本を投下し、1893年には遂にニューヨーク一のウォルドーフ・アストリア・ホテルを建設し、ホテル王となった。タイタニックと共に海中に没した四代目ジョン・ジェイコブ・アスターの遺産は、今から80年前で一億ドルに達していた。平均年収が500ドルか1000ドル程度の時代の一億ドルは、楽に一般市民の10万年分の生活費に相当する。イシドール・シュトラウスは、全米一の豪華デパート「メイシー」を育てた男であった。シュトラウス一族は、バヴァリアドイツバイエルン地方)で活動するユダヤ商人だったが、南北戦争前の1852年、アメリカに移り住んだ。初代ラザルス・シュトラウスが、ガラス細工や陶磁器を扱う有名なメイシー・デパートの仕事を引き受けるようになり、二代目のイシドールが弟ネイサンと共にこのデパートの重役に出世した。彼らはグッゲンハイムやアスターが入り込んだ上流社会とは違って、直接、大衆に物を売る商売の中で着実に財を築きあげ、遂には“高級デパート”という今日のセールス形態を確立した。イシドール・シュトラウスの実弟オスカーソロモンシュトラウスは、セルドア・ルーズベルトのもとで商務労働長官となり、米国で最初のユダヤ人閣僚となった。オスカーは、アカデミー賞で授与されるトロフィー“オスカー像”の由来にもなっている。このオスカーの息子が、グッゲンハイム家のグラディス・グッゲンハイムと結婚し、ロスチャイルド一族となった。

 アメリカで産業が大きく動き始めた19世紀末から今日まで、商業銀行はJ・P・モルガンシティバンク、チェース・マンハッタン銀行バンク・オブ・アメリカなどが全米を支配してきた。これらの多くは白人でアングロ・サクソンが主導権を握ってきたため、その頭文字をとってWASPと呼ばれる集団である。世間から見ればユダヤ系ではない。アスターのようなアメリカユダヤ人たちが富豪となっても、結局はこうした巨大銀行の株を部分的に所有していたにすぎないことになる。しかし、投資銀行の世界では、メリルリンチモルガン・スタンレー、ファースト・ボストンといった巨大投資銀行を除けば、異常なほどユダヤ系が活躍してきた。投資銀行家はマーチャント・バンカーと呼ばれ、一般の人々が訪れる貯蓄のための商業銀行とはまったく性格が異なる。彼らはサメと呼ばれ、金銀ダイヤの鉱山を開発し、アラブの砂漠に石油を掘り当て、ロールス・ロイスを走らせ、エッフェル塔を建て、空に海にコンコルドタイタニックを疾駆させてきた。戦争を勃発させるのは、彼らにとって最大のビジネスである。その買収資金やギャンブル・マネーを商業銀行証券会社保険会社、個人の資産家などからかき集め、鋭いキバを揃えた巨大な顎の力で世の中を変えていく。もしこのサメたちに慈悲の心というものが欠けていれば、地球はどこへ走ってゆくかわからない。ユダヤ人の世界を動かしているのが、このユダヤ投資銀行である。今日知られているものの名前を挙げると次の通りである。

 クーンローブ商会。ウォーバーグ銀行ソロモンブラザースレーマンブラザース。ラザール・フレール。J&W・セリグマン商会。ゴールドマン・サックス。ディロン・リード。ヒル・サミュエル。ハンブローズ銀行。ルイ=ドレフェス銀行。これらの名前は、業界の人が耳にすればいずれも目を見張る大物ぞろいだが、一方、市民と呼ばれるなかば善良な人びとは、このようなマーチャント・バンカーの活動に一向に関心がない。それでいて、戦争に狩り出されては悲憤し、莫大な税金をせしめられながらその原因を知ることがない。

 クーンローブ商会は、ジェイコブ・ヘンリー・シフによって育てられた投資銀行である。商会の創設者は、サミュエル・クーンソロモンローブ。この両家の名前を組み合わせてクーンローブ商会となったが、両家は事業で手を結んだだけでなく、クーン家の娘イーダとローブ家の息子モリスが結婚して、一族となっていた。そのソロモンローブの娘と結婚したのが、日露戦争日本に資金を調達したジェイコブ・シフであった。シフは1847年にフランクフルトで生まれた。ジェイコブ本人の両親は銀行家ではなかったが、シフ一族は早くから金融業を営んでいた。その62年前、初代ロスチャイルドがまだ40代の頃、引越しをすることになった。その家は“緑の盾”と呼ばれる建物で、内部が二つの区画に分かれていた。その一方に、扉に船の絵を掲げたユダヤ人家族が住んでいた。船をドイツ語でシフと言うが、この家族がジェイコブ・シフの祖先だった。ロスチャイルド家と同じ家の中で育てられたジェイコブは、目先の利く少年としてこの世界を早くから知り尽くし、18歳でアメリカに移住した。クーンローブ一族となってからは、アメリカ大陸横断鉄道を完成したユニオンパシフィック鉄道融資するなど、次々と鉄道事業で商会を成長させ、パートナーとしてオットー・カーン、あるいはウォーバーグ銀行のポール・ウォーバーグ、フェリックス・ウォーバーグらを迎えて、国際投資銀行としての地歩を築いていった。このカーンやウォーバーグを右腕として、ジェイコブ・シフはアメリカ大富豪と次々に親交を深めていった。それが鉄道王ジェームズ・ヒルやエドワード・ハリマン、さらにロックフェラー一族の銀行家ジェームズ・スティルマンたちであってみれば、これら産業界の大物は互いにビジネス戦争の渦中にあっても、クーンローブ商会はそのどちらからも利益をあげることができた。日露戦争の時、ロンドンロスチャイルド家は、ロシア皇帝の許可によってバクー油田の利権を獲得していたから、表向きはロシアに敵対する日本高橋是清を追い返し、裏ではシフの手を通じて日本の公債を買い付けた。さらに日露戦争の状況が明らかになってくると、パンミュア・ゴードン商会を通じて自ら日本公債を静かに買い集めた。J&W・セリグマン商会は、一族の家長ヨーゼフ・セリグマンが、デパート王シュトラウス家と同じくドイツバヴァリア地方からアメリカに移り住んで八人兄弟で築き上げた金融会社であった。ロスチャイルド家は五人兄弟が手を組んでヨーロッパを支配したが、セリグマン家は長男ヨーゼフと次男ジェシー、七男ジェームズがニューヨーク、三男ウィリアムがパリ、四男アブラハムと八男ヘンリーがフランクフルト、五男アイザックがロンドンと、それぞれの持ち場を守って国際的な金融会社を育てあげた。その出発点はカリフォルニアで金鉱を当てた1849年にあるが、これだけの連携プレーを成功させるには、それだけの智慧を授けてくれる者がいなければならない。ジョゼフの息子アイザック・ニュートンセリグマンが、クーンローブ商会創設者ソロモンローブの娘グータと結婚していた。投資銀行王と謳われたシフと義兄弟だったのである。また、フローレット・セリグマンは鉱山王べンジャミン・グッゲンハイムの妻だった。ゴールドマン・サックスは、これもクーンローブ商会と同じように、二家族の名前を組み合わせて創設された金融業者である。マーカス・ゴールドマンの娘ムコ、サミュエル・サックスが事業に加わり、それから急成長を遂げたのだが、サミュエルにはバーナードという弟がいた。このバーナードの娘へレンが、ネイサン・シュトラウスと結婚。つまり、イシドール・シュトラウスの実弟で全米ユダヤ人会議の会長となったネイサン・シュトラウスの息子で、やはりネイサンという名前を持つ者がゴールドマン・サックスと婚姻関係で結ばれていた。

 今ここで実証に手間取ることなく物語を先に進め、ひとつの大胆な推理を述べれば、さきほどのリストにあげた投資銀行はすべてロスチャイルド家のものではないかという疑いが生まれてくる。そうなればユダヤ系という表現は正しくない。すでに説明した通り、モルガン・グレンフェルというマーチャント・バンクは「ユダヤ人嫌いのモルガン」と「ユダヤ人ロスチャイルド」が合体した巨大な投資銀行だ。彼らは日本アジア全域、アフリカ南米などを侵略するために手を組んで活動してきた。「ロスチャイルド家は、重要な19世紀にアメリカ大陸への投資に意欲的ではなかった。そのためロックフェラーモルガンに出し抜かれた」このような俗説が巷に氾濫しているが、それは家系図を調べたことのない投資エキスパートが陥りやすい皮相的な結論である。秘密主義では史上最高の頭脳と機動力を持つロスチャイルド家がアメリカに送り込んだ兵器こそ、誰あろう伝説の富豪オーガスト・ベルモントであった。1837年、ベルモントはフランクフルトロスチャイルド商会で厳しい丁稚奉公を終えたあと「急いでニューヨークへ行ってくれ」と命ぜられたのである。彼は新天地に着くと、時の王者ロスチャイルドの代理人を名乗りながら、そちこちで女性の物色を始め、探し当てたのがペリー提督の娘キャロライン・ペリーだった。この結婚から四年後、ペリー提督は日本に姿を現し、和親条約の調印にこぎつけたのである。このペリー提督の兄オリヴァー・ハザード・ペリーは、イギリスを敵として戦ったアメリカ海軍の英雄で、アメリカでは“ペリー提督”と言えばこの兄を指すほどの存在であった。ロスチャイルド家はこの英雄一族を取り込むと、さらに閨閥を広げるよう、ベルモントに強く指示を与えた。ベルモント家の二代目オリヴァー・ハザード・ペリー・ベルモントは、鉄道王ヴァンダービルトに近づき、その夫人と結婚してしまった。そのあとベルモントは、ヴァンダービルト鉄道の証券を買うようロスチャイルドを焚きつけ、正式の三角関係を利用して事業をさらに発展させていった。それをロスチャイルド商会経由ではなく、クーン・ローブ商会のシフなどを通じて秘かに売りさばいていった。一方ヴァンダービルト家は、ベルモントに妻を寝盗られたウィリアムがめでたくラザフォード夫人と結婚を果たし、その弟のジョージ・ワシントン・ヴァンダービルトは、ロスチャイルド家をしのぐ世界一の個人住宅ニューヨークに構え、兄のコーネリアス二世はシカゴのギャング王アル・カポネと親密な関係を取り結びつつあった。このような手法を身内のベルモントから学んだペリー一族も、黙って見ていたわけではなかった。「意味のある結婚を!」を合言葉に他念なく営々たる努力を続けた結果、ペリー提督の兄のひ孫アリスが、ボストン上流社会のジョセフ・グルーと結ばれたのである。グルーは二年後輩の若き重要人物、フランクリン・ルーズベルトと親交を深めていた。時の大統領セルドア・ルーズベルトの一族であった。1931年満州事変が勃発し、翌年、グルーが公式に日本大使として着任した直後、フランクリン・ルーズベルト大統領に選ばれた。ベルモント一族のジョセフ・グルーは、日本大使となってから、もっぱら三井・三菱財閥を渡り歩き、軍人たちと親しく交流を深めていったが、やがて自分の狙っていた中国大陸石油利権を日本人から拒絶され、この時、両者の間に大きな溝が生まれた。その後、真珠湾攻撃から太平洋戦争となる。このグルー一族のジェーン・グルーは、当時全米一の富豪J・P・モルガンJrの妻となっていた。1989年4月、西ドイツでコール首相大蔵大臣を国防大臣のポストに据え、その後ドイツ銀行が動いてドイツ軍需産業を大統合したとみるまに、11月から東ヨーロッパ激動のクライマックスに突入した。ロスチャイルド家がフランクフルトに復活すると宣言した直後の9日に東西ベルリンの壁の取り壊しが開始され、27日にそのドイツ銀行モルガン・グレンフェルの買収を発表したのである。翌28日、コール首相が遂に東西ドイツの再統合を提案し、二日後の30日、ドイツ銀行頭取として軍需産業の統合とモルガン・グレンフェルの買収に全精力を傾けたヘルハウゼン頭取が爆殺されてしまった。現代の鍵をドイツ銀行ロスチャイルドが握っていることがわかる。今日、モルガン家は消滅したという話が定説になっている。しかし、彼らは姿を変えて生きている。ロスチャイルド家の代理人オーガスト・ベルモントと閨閥をつくり、モルガン・グレンフェルの中に融合している。モルガン家は統一ドイツの象徴「ドイツ銀行」の中に入り込んでいるのである。現在のこのマーチャント・バンクの重役室には、ジョン・アルフレッド・モルガンという人物が座っている。このジョン・アルフレッド・モルガンは、ウォーバーグ銀行の支配人、そしてロスチャイルド資産管理会社の重役という経歴を持っている。グルーが日本にやってきたモルガン家のアメリカ大使なら、同じ時期に東京に着任したイギリス大使はフランシス・リンドレーであった。リンドレーは1906年東京に来た経歴があった。日露戦争でシフやロスチャイルド日本に貸し付けたその返済の裏交渉のために、二年間、イギリス外交官として滞在していた男だった。そして1931年から1934年まで、グルーと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動したが、ロンドンに戻った1934年にリンドレーの三女サラがロスチャイルド一族のフィリップ・ヨーク結婚式を挙げた。日本からすれば満州事変直後の最も危険な行動をとった侵略時期に、アメリカからモルガン家の一族グルー大使を向かえ、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたという状況になる。誰も気づかなかったが、両人とも実はモルガン・グレンフェルの代理人であった。ここまでの物語を一枚の家系図におさめてみれば、タイタニックの三大富豪と、クーンローブ商会の育ての親シフ、セリグマン、ウォーバーグ、ベルモント、ペリー、ヴァンダービルト、モルガン、グルー、リンドレー、それにルーズベルトまでが登場する。ロスチャイルドからヨーロッパの潤沢な資金を託されたベルモントが、ヴァンダービルト財閥モルガン財閥と血縁関係を結びながら、海軍一族ペリー家や英米の大使をファミリーのメンバーとして近代史を動かしてきたのである。第二次世界大戦中にロスチャイルドモルガンの仲はファシズムの台頭によって引き裂かれたが、それも一瞬の出来事で、現在でもモルガン財閥のペン・セントラル鉄道の大株主ロスチャイルド財閥のリオ・チントジンク社である。フランスモルガン商会の社長メイニアルの弟はロスチャイルド財閥の大手金属会社ペナロヤの重役である。ロスチャイルド家の怪物J・ゴールドスミスが買収した大手スーパーマーケット投資しているのは、ほかならぬモルガン・スタンレーである。このほか無数に両家が密着している事例を発見できる。しかもこれが単純な欧米リンクでなく、総合的にはリオ・チントジンクという原子力企業があらゆる局面で大株主として顔を出し、この化け物のように大きなウラン採掘会社がニューヨークのL・F・ロスチャイルド商会の大株主として投資の動向を決定してきたのは何が目的であろうか。

 赤い盾E

 5 パンサー宝石

 ユダヤ系のマーチャント・バンカー、ソロモンブラザースは貴金属に深いつながりを持って成長した。ソロモン・ブラザースの大株主は、正式名は鉱物資源会社、通称「ミノルコ」という会社である。ミノルコの支配者は、ダイヤモンド世界一のデビアスで会長をつとめ、金塊世界一のアングロ・アメリカンでも会長のジュリアン・オギルヴィー・トンプソンといい、1990年現在、この男が世界一のダイヤモンド支配者であるようだ。このジュリアンの父親は、南アフリカで最高裁判所の所長を務めていた。パンサーの宝石は、その名の通り豹を形どったダイヤモンドやサファイヤ細工の最高級品で、カルティエのような特級の貴金属商が特別の富豪の注文に応じて、気の遠くなる価格で製造するものである。

 イギリスのファッション・モデル、ニーナ・ダイヤーは、イスラム教の首領アガ=カーン一族のサドルディン王子にみそめられ、王女の位についた。アガ=カーンとは名前ではなく、この宗派の肩書きを示し、初代がペルシャを追われてインドに渡たり、三代目はインドのヒンズー教との対立からパキスタンが分離独立する時に中心的存在となった人物で、その息子がこのサドルディン・アガ=カーン王子である。ちなみに三代目の甥が、四代目の王位につき、シリア首都ダマスカスに中央銀行を設立した。このファミリーは、ロスチャイルド家の親友だった。ニーナは、五年後にアガ=カーンと離婚し、その後、35歳で自殺した。サドルディン王子の再婚相手は、J・ゴールドスミスの愛人だった。ニーナの死後、パンサー宝石は何故かフランス動物愛護協会に寄付された。イタリアミラノにある動物愛護協会の金融顧問は、社長をエドモン・ロスチャイルドといい、ダイヤ商デビアスの支配者だった。動物愛護や自然保護の言葉は魔術のように人をたぶらかすが、かなり用心しなければならない世界である。

 モルガン家の双児の姉妹グロリアとセルマは共に夫を迎えようとしていた。グロリアの夫はヴァンダービルト家の御曹子レジナルド。セルマの相手はイギリス皇太子プリンス・エドワードだった。しかし、セルマにはマーマデューク・ファーネスという夫がいた。セルマは親友のウォリス・シンプソン夫人に恋の相談をしていた。それなのにウォリスはエドワード皇太子と恋に落ちてしまった。エドワードはイギリス国王の位についたあと、ウォリスとの結婚を申し出たが、他人の妻との結婚を認められず、結局、「王位よりも私を愛してくれる人を選ぶ」という演説をおこなって王位を捨ててしまった。即位後わずか10ヶ月で退位した元国王は肩書きがウィンザー公爵となり、1937年にウォリスと結婚。結婚後、“世紀の恋”と騒がれた二人を世間から遠ざけてくれたのがロスチャイルド家であった。ロスチャイルド家四代目のナサエルが、ケンブリッジ大学ウィンザー公の祖父エドワードと親友だったからである。二人が亡くなったあと、1987年に遺品のオークションがおこなわれた。主催は美術品の競売でクリスティーズと双璧をなす有名なサザビーズ。このオークションにかけられた宝石類は、64億円という個人所有物の競売としては世界最高のレコードを打ち立てた。ダイヤを掘り出しても、販売ルートを持たなければ一銭にもならない。しかもダイヤは、保証書と信用によって初めて価値をもつものだ。貴族の御用商人以外に、これを売りさばく者はいない。現在でも競売に名乗り出るのは、クリスティーズとサザビーズである。南アは黒人が何世紀にもわたって奴隷労働を強制され、地底の炎熱地獄の中でダイヤを掘り出しきた。“世紀の恋”の遺品をオークションにかけたサザビーズ社は、つい先年まで会長を務めていたのがジュリアン・トンプソンだった。ダイヤのデビアスの会長がジュリアン・オギルヴィー=トンプソンなのだから、これは随分と連想力をかき立てる名前だ。何よりも、サザビーズの株を5分の1も買った会社が、ロスチャイルド・インヴェストメント・トラスト(RIT)だった。ライバルのクリスティーズは、最近ではオーストラリアマーチャント・バンカーホームズ=アコートが大株主となっている。

 クリスティーズの重役にハンブローズ銀行の会長を務めるジョスリン・ハンブローがいる。息子のルパート・ハンブローは、アングロアメリカの重役。従兄のチャールズ・ハンブローは、ブリティシュ南アフリカ社の重役だった。ブリティシュ南アフリカ社の初代社長は、伝説のダイヤ王セシル・ローズであった。クリスティーズ美術品警備サービスという会社の株の3分の1を握っているのが、これもユダヤ投資銀行のヒル・サミュエル商会である。この会社の重役が、なぜかイギリスの歴代首相の個人秘書を務める例がきわめて多い。ヒル・サミュエルとは、ヒル・ヒギンソン・アーランジャーズ商会とマーカス・サミュエル商会が合体したもので、前者の社名に組み込まれているアーランジャーズは、ロスチャイルド家の代理人をつとめてきた商会で、特にデビアスに関しては最も古い業暦を持っている。幹部はイギリスマスコミの帝王、ロバート・マクスウェル。後者は、今世紀初頭にロンドン市長をつとめていた大物マーカス・サミュエルが創業者。ここでもう一度家系図を見ると、デビアスの会長−マーカス・サミュエル−ウィンザー公とエリザベス女王−ジョスリン・ハンブローズ−ホームズ=アコート−ジョン・ジェイコブ・アスターが実線で結ばれる。さらに、モルガン・グレンフェル、ヒル・サミュエル、サミュエル・モンタギュー、ラザール・フレールというユダヤ投資銀行の名も見える。この家系図に、南アボーア戦争を動かした二名のイングランド銀行総裁の後の総裁キャメロン・コボルドが加わっている。キャメロン・コボルドは、ハンブローズ銀行の一族だった。J・ゴールドスミスの顧問がこのハンブローズ銀行なのだ。さらに第二次世界大戦終戦時の総裁カットー卿も、モルガン・グレンフェル会長一族であり、カットー卿の前の総裁、24年間もトップの座にいたモンタギュー・ノーマンも母方の祖父がグレンフェル一族だった。現在のイングランド銀行総裁、1983年から要職についたロバート・リーペンバートンは、ロスチャイルド家が創設メンバーとして重要な役割を果たしたウェストミンスター銀行の会長から移籍した人物。ダイヤを最初に産出した国はインドだが、アパルトヘイトの問題を深く理解するためには、産出国より、誰がダイヤの原石を加工してきたか、誰が販路をおさえてきたかということのほうが重要になる。その人物がダイヤの支配権を握っているわけだ。

 ところが、この「支配する」という表現は正しくない。インドからダイヤが運ばれた時代には、それを扱っていたのがユダヤ人商人であった。ユダヤ人=商人または金貸しとして“強欲人”扱いした中世暗黒時代にあって、この定義自体が“ユダヤ教ではないヨーロッパ人”つまりキリスト教徒の矛盾を示していた。彼らが当時ユダヤ人に許していた職業が“ダイヤの研磨”か“金貸し”しかなかったのだから、軽蔑する筋合いのものではなかった。しかも自分はそのユダヤ人からひそかに金を借り、金融業を育てていた。したがってユダヤ人は、ダイヤを支配していたのではなく、ヨーロッパ貴族によってダイヤの管理を委託されていたに過ぎない。問題は、その委託されたあとである。インドからエジプトを通ってフランクフルトへと、ユダヤ人の手で商品が運ばれた。ローマ人によって流浪を余儀なくされたユダヤ人には、天才的な流通能力と国際性が備わったのは当然で、ヨーロッパ人がこの商才を利用した。そこへ18世紀後半からアフリカの南端で巨大なダイヤモンド鉱脈が発見された。すでに“海賊王国”と言われていたイギリスは、インドカルカッタからエジプトカイロに向かうそれまでのダイヤ・ルートに南アケープタウンを加え、この頭文字をとった「3C政策」と呼ばれる世界戦略に乗り出した。

 赤い盾F

 6 南アフリカのゴールドフィンガー“ミルナー幼稚園”

 現代の南アフリカ共和国(南ア)は、恐怖政治をおこなって既に100年を過ごし、今なお「黒人も海岸で泳いでよろしい」という布告を出すほど暗黒時代にある。報道されるのは“黒人同士の争い”や“黒人過激派による白人への攻撃”といったものばかりで、本末転倒もはなはだしいニュースがヨーロッパの白人の手でわが国に送り込まれている。一体これまで白人は何百万人の黒人を殺し、それに抵抗して生きるため黒人は何人の白人を殺すことが許されたであろうか。これからその“白人”の正体を暴いてゆこう。白人による黒人の人種隔離政策−アパルトヘイト−に対し、イギリスではロック歌手たちが“黒人解放のリーダー”ネルソン・マンデラ牢獄から出すためのコンサートを開き、市民が銀行に圧力をかけて南アへの経済制裁を迫りながら、サッチャー南アとの貿易にしがみつき、イングランド銀行の強大な発言力の前に地球全土で孤独感を深め、後継者のメージャーもまたアフリカ支配銀行から誕生してきた。マンデラが釈放され、人種隔離法が全廃されても、問題は解決しない。白人側からの激しい反撃が、ジャーナリズムを通じて開始されているからである。南ア人種差別は、その原因となるものが単純な黒人軽蔑ではなく、産業界の深い底部にある。その陰に隠れた犯人をとらえなければ、本質的な解決にはほど遠く、これからも夥しい数の死体を見なければならない。その正体が、南アの地底に眠る金銀ダイヤ・ウランを始めとする異常なほど豊富な鉱物資源−これを企業名で表わせば「ミノルコ」となる−の利権略奪の暗闘である。南アがナンビアを侵略してきたのは、ナンビアに存在する豊かなウラン鉱山などの欲に憑かれたからであるが、南ア原爆開発とも無縁ではない。背後には、世界ユダヤ人会議の会長エドガー・ブロンフマンがいると言われる。現代ヨーロッパ軍需産業を動かしてきたNATOの事務局長ピーター・キャリントンや、シティの金融街を動かしてきたイングランド銀行の総裁リーペンバートンもここに奇怪な関係を持っている。そして、芋づる式に浮かび上がる要人たちの影が見える。アフリカの黒人が誰よりも恐れた“ミルナー幼稚園”とは何であろうか。この謎の軍団の組織を解き明かせば、南アの世界が手にとるようにわかる。この最強の軍団は、世界的にはほとんどの人に実態が知られていない。園長のアルフレッド・ミルナーは、1854年にドイツダルムシュタットで生まれた。その後、ヨーロッパを転々としたあと、ロンドンオックスフォード大学に入ったが、当時そこで、のちの経済学者アーノルド・トインビーと親しくなり、モーニング・スター紙などの主筆ジョン・モーレーのもとでジャーナリズム修行に励むことになった。このトインビーの甥が同姓同名の有名な歴史学者アーノルド・トインビーである。このトインビーはイギリス外務省の情報部や調査部で幹部を務め、イアン・フレミングたちに直接指令を与えてきた男であるから、その手で書かれた“歴史”というものには相当注意を払う必要がある。オックスフォードを中心とするこうした作業の中で帝国主義を体得したミルナーは、当代の作家H・G・ウェルズ、バーナード・ショウらと侵略論議を熱っぽく展開し、やがて大蔵大臣ゴーシェンの個人秘書として抜擢された。

 このゴーシェンから数えて四代あとに一族から生まれたのがダイアナ妃であった。ゴーシェン家は、ドイツ・ライプツィッヒの出版業者ゲッシェン家を祖先に持ち、1814年にロンドンに移るとたちまち商家として頭角を現わし、ペアリングと組んでロスチャイルドに対抗しながら蔵相ジョージ・ゴーシェンを誕生させ、その弟がロイズ保険の会長をつとめるなど、マーチャント・バンクとして威勢を誇った。ダイアナ妃が世界中を走り回り、絶えずジャーナリズムを狩り出して華やかな売込みがおこなわれてきたのも、この金融業界の娘を冷遇できないためで、また彼らはイギリスという国家をアパルトヘイトの問題から切り離すにも、慈善家ダイアナ妃を世界に印象づける必要があった。この一族が南アに出征し、キューバの砂糖で、またエジプトへ進出してどれだけ儲けたかを、ロスチャイルド家はよく観察していた。やがてゴーシェン家とロスチャイルドが結ばれ、今日のお姫様が創作された。人々は何も知らずに新女王に手を打ち振っていた。ミルナーが特殊な軍団を組織したのは、ゴーシェン蔵相の秘書となって10年後、大英帝国アフリカの南端に最大の財宝を発見し、3C政策の最後の拠点ケープタウンを本格的に侵略しようと画策しはじめた時であった。「比類なき冷酷さ」と囁かれたミルナーが、ケープ長官すなわち南アの総督に任命されたのだ。1866年に一農夫がダイヤを発見したあと、南アは天地をひっくり返すようなダイヤモンド・ラッシュに沸き、相次いで金鉱も発見されると、それまで穏健を装っていたディスレリが急進的な侵略者に衣替えし、さらにその植民地政策を受け継いだグラッドストーン首相が、イングランド銀行総裁グレンフェルと組んで第一次ボーア戦争に打って出たのである。同時代のイギリス国民は決して戦争を望んでいなかった。グラッドストーン首相の父はリヴァプールの豪商と言われているが、実は奴隷商人として財を成した男であった。また、この首相の息子が初代の南ア総督に就任して利権を握っていた。その一方では、当時のイギリス民衆が貧しい生活を送っていた様子を示す数々の記録が手許にある。われわれが“白人”と呼ぶ犯人は、一部の特殊なグループとしか考えられない。戦争によって得られる利権は、必ずしも国民の手に渡るものではない。むしろ絶対に渡らない、のである。では、誰の手に渡ったのか。

 第一次ボーア戦争の収穫だけで満足しなかったイギリス政府は、南アをそっくり自分のものにするため、冷酷なミルナーを送り込んだ。この人事を決定したのは、植民大臣ジョゼフ・チェンバレンであった。チェンバレンの前職はロイズ銀行の重役。チェンバレンミルナーはすでにエジプトカイロ荒らしまわった仲であった。ミルナーは、時のダイヤ王セシル・ローズから状況を聞くと、さっそくに鉱山の事業に熱中し、労働者の不足を解消するため中国から労働者を“輸入”した。こうしてロンドン中に「中国奴隷求む」のポスターが貼られた。ミルナーは一時帰国し、その足でリオ・チントという会社の重役会議に出て「大いに貢献した」という記録が残こされている。リオ・チントは、原子力産業リオ・チントジンクの前身である。密命を帯びて南アに戻ったミルナーは、予定通りボーア人との政治交渉を突然決裂させると、悲惨な第二次ボーア戦争を仕掛けた。ここにはインド人が大量に送り込まれた。しかし、簡単に征服できるというイギリスの目論見は外れ、ボーア人の雑兵が激しい抵抗を展開したため、死闘と、婦女子を巻き込むイギリス人の蛮行がアフリカ南部を揺るがし、大戦争に突き進んでいった。非常時でありながらミルナーは一時帰国すると、戦争を仕掛けている今こそダイヤと金の鉱山の所有権を掌中に握る絶好のチャンスと読んでいた。鉄道を敷いて大々的な侵略プランを完遂するための戦後処理にとりかかったのである。母校オックスフォード大学を訪れて若者を募り、計画を緻密に実行する部隊をつくった。それが“ミルナー幼稚園”と呼ばれる軍団であった。選ばれた精鋭は、まだ青白い世間知らずの子供たち。ところがこの幼稚園児たちは、それぞれが特異な才能を授けられた八名から成り、フランケンシュタインの頭に非情な脳細胞を埋め込んでいた。次の者たちである。ジョージ・ジェフリー・ドーソン。ウィリアム・ライオネル・ヒチェンズ。リチャード・フィータム。フィリップ・ヘンリー・カー。ライオネル・ジョージ・カーティス。パトリックダンカン。ジョン・バカン。ロバート・ヘンリー・ブランド。

 ジョージ・ジェフリー・ドーソンは、南アの植民局で働き、今日でも最大の発行部数を誇る大都市ヨハネスブルグのスター紙編集長を務め、ロンドンタイムズ紙の南ア特派員として活躍、現地の実態を正しくイギリス国民に伝えたという。後年、このドーソンはタイムズの編集長を二度つとめたが、同社のオーナーは、最初の時がバークレースクェアに住むノースクリッフ卿で、その隣に住み親しく交際していたのがブリムローズ家。同家の夫人は結婚前の名前をハンナ・ロスチャイルドという。このノースクリッフ卿の甥の妻を寝取ったのがイアン・フレミングである。二度目の時のオーナーは、ジョン・ジェイコブ・アスターといい、タイタニック号で死亡した同姓同名の人物の従兄の息子にあたるが、ロスチャイルド家の金塊商人であるハンブローズ銀行南ア政府に最大の資金援助をしてきたロンドンバークレー銀行で重役を務めていた。ドーソン自身は、南アフリカコンソリデーテッド・ゴールド・フィールズ、すなわち金鉱総合商社の重役だったが、この会社は今日、西側で第二位の産金会社であり、会長は第一位のアングロアメリカンで重役を兼務している。

 ウィリアム・ライオネル・ヒチェンズは、南アに出征後、エジプト財務省にポストを得て、さらにアングロアメリカンが本社を構えるヨハネスブルグで財務高官となり、イギリス企業のための利権獲得に全精力を注ぎ込んだ。このあと、インド、南ローデシアなどで略奪を繰り返しながら私腹を肥やし、大きな造船会社の会長となる。第一次ボーア戦争時の首相グラッドストーンダイヤモンドピットと呼ばれた東インド商人の一族)や第二次ボーア戦争直前のローズベリー首相とも閨閥をつくっているが、ローズベリーの妻は、ネイサンの孫娘ハンナ・ロスチャイルドだった。前述のドーソンの項に出てきたブリムローズという人物が、実は五代目ローズベリー伯爵で、ローズベリー首相と同一人物である。

 リチャード・フィータムは、ミルナーがケープ長官を辞任したあと、後継者として南アに着任したセルボーン卿の法律顧問となるが、以後、南ア司法界を支配して最高裁判所判事となり、黒人にとって最大の恐怖となった。フィータムはイギリス人ボーア人が手を組んでダイヤと金銀の利権を確保できるようにするため、アパルトヘイトの着想を司法界から定義づける新たなレールを敷いた。 黒人が鉱山利権に近づけないように定めた数々の法律を総称して「パス法」と言うが、金鉱業者の総本山ヨハネスブルグシャープヴィル警察前に「パス法を廃止せよ」と叫ぶ黒人が集まった時、この群集に対し、白人たちは無差別の虐殺を平然とおこなった。この虐殺がきっかけとなって、南アは形式的にはイギリス連邦から脱退することになったが、むしろ脱退を契機に何をするのも自由となり、黒人弾圧の法を矢継ぎ早に制定し、大弾圧に乗り出した。このフィータムを登用したセルボーン卿は、南アを去ってロイズ銀行の重役になったが、その妻はベアトリックス・セシルという。

 第二次ボーア戦争を起こした首相ソールズベリーだが、本名はロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン・セシル。ケープタウンを支配した長官とは、このイギリス首相の娘婿だった。ソールズベリー一族は、現在のイギリス政治を動かす保守党の最大勢力である。イングランド銀行総裁リーペンバートンは、EU統合の関係者として挙げられているが、その妻がソールズベリー・ファミリーである。イギリスで女王に次ぐ第二位の長者ウェストミンスター公爵も、この一族に入り、彼らは政界と王室に対して大きな発言力を有する。ソールズベリ首相の孫娘ベアトリスの結婚相手は、植民大臣として侵略を重ね、南アの高官をつとめたハーレック卿で、彼はロイズ銀行の創業一族であり、ミッドランド銀行の重役でもあった。大英帝国商業会議所の会頭デヴィッド・セシルも一族である。

 南アの隣国ジンバブエ首都はハラレというが、ほんの十年ほど前までローデシア首都ソールズベリーと呼ばれていた。ダイヤ王セシル・ローズ南アから次第に北上して自分の名前をつけた国家がローデシアであった。ローズはそこにブリティッシュ南アフリカカンパニーを設立し、自ら初代社長となった。ジンバブエは現在でもアフリカ第二位の金生産を誇り、その名もリオ・チントジンバブエという会社がある。近代工業に欠かせないクロム鉱も第二位の実績を持つため、アングロアメリカンが莫大な投資を続けている国だ。ローズのブリティッシュ南アフリカカンパニーの重役室で、ソールズベリ首相の孫ロバートがこれらの鉱物を動かしていた。首都ソールズベリーにローズの資金によって設立された財団は、ローズ・トラストと命名され、この運営に当たったのがロスチャイルド家とミルナーであった。フィリップ・ヘンリー・カーとライオネル・ジョージ・カーティスは、諜報活動に大きな力を発揮した。いずれも南ア侵略のあとインドに赴き、“アラビアのロレンス”の良き友として知られ、第一次大戦後のパリ和平会議に参加してドイツの取り扱いについて決定的な方向付けをおこなった世界史の重要人物である。カーは、グレンフェル一族に属し、ローズ・トラストの事務局をつとめた。リオ・チントジンクが大株主であるスコットランドロイヤル銀行を運営してきた大富豪ドナルド・キャメロンとも閨閥を組んでいる。パトリックダンカンは、ミルナー秘書として頭角を現わし、最高裁弁護士としてフィータムと共に司法界で暗躍した。一方が黒人を断罪し、一方が黒人を弁護するが、ふたりはミルナー幼稚園の親友で、黒人に何ひとつ希望はなかった。ダンカンは、ボーア戦争の渦中で南アの財務長官のポストを握ると予算を取り仕切り、私財と権力を蓄えるチャンスを握った。ダンカンは鉱山からあがる利益を鉄道建設に投資させていったが、ミルナー幼稚園の園児たちの多くが鉄道にかかわった背景には、当時ヨーロッパ一の鉄道王がロスチャイルド家であり、ダイヤ王セシル・ローズロスチャイルド家に働きかけ、ローズベリー首相を動かしてさまざまな鉄道を建設してきたという経緯がある。ことに「ローズ鉄道」と呼ばれるアフリカ大陸縦断鉄道は、ヨーロッパに通じる地中海南アを直結させるもので、彼らにとっての悲願だった。1890年のナタール鉄道、92年のケープ鉄道、95年のデラゴア湾鉄道、それに中央南アフリカ鉄道が絶対に欠かせない命題となっていた。その成果は、この一帯の土地が八割まで白人に占有されてきたという今日までの歴史に見られる通りである。鉄道線路が見事に支配網を実証してきた。ダンカンは、この鉄道委員会の委員長として計画を実行に移し、1937年から遂に南アの総督として全権力を掌中におさめた。スパイ小説作家として知られるジョン・バカンは、イギリス第二位の富豪ウェストミンスター公爵の娘を妻とし、ソールズベリー家とも結びつく要人だが、南アでの活動については、ほとんど隠されてきた。その後、第一次大戦で諜報機関の幹部をつとめ、1935年からはカナダ総督として、北米の巨大利権を掌中におさめた。カナダウラン鉱の世界最大資本リオ・チントジンクが支配する世界で、日本ウラン原料もかなりの部分はカナダ産である。総督バカン一族は、息子の一人が大英帝国商業会議所の会頭として、父親の利権を実業界に流したきた。別の息子はオブザーバー紙の外交・国防問題を担当し、核兵器原子力の効果を力説してきた。実に夥しい数の著作によって、軍事力原子力を「平和のために」売ってきた男である。バカンの孫娘は、軍事と原子力によって莫大な利益をあげる航空産業と土建業の支配ファミリー、ダグラス=ハミルトン家に嫁いでいた。ロバート・ヘンリー・ブランドは、「ミルナー幼稚園を首席で卒業した」と言われる大物のマーチャント・バンカー。ブラントは、ミルナーに見込まれて鉱山地帯の調整協議会で永久書記のポストを与えられた。一体何を調整したのか。

 セシル・ローズ南アダイヤモンド鉱山を一手に統合して巨大トラストデビアス」を誕生させた時、彼らにとっての脅威は、新しいダイヤ鉱山が発見されて値崩れを起こす事態だった。実際、ブランドが南アに本格的に介入した1902年に新しいプレミア鉱山が発見され、ここだけでデビアスとほぼ同じ量のダイヤが生産された。一攫千金を夢見る男たちが全世界から押し寄せ、鉱区の利権を得るため、「よーい、ドン」の合図で一斉に走り出し、「ここは俺の土地だ」と叫びながら杭を打ち込んだ。そのような欲望を操るのが“調整”の実態であった。ブランドはボーア戦争後に南アの地域戦でリーダーとして活躍し、遂にはボーア人の頭目ボタさえ懐柔してしまうと、ラザール・フレールに入社して、以後50年間も重役を務めた。カナダでは帝国軍需物資会議という機関を設立して弾丸の製造に励み、第一次大戦後のヴェルサイユ会議では、最高経済議会の議長をつとめた。全世界の戦後経済が、ブランドの腕に委ねられたのである。南ア経済代表という肩書きをもってロンドンのシティを動かし、やがてケインズと組んでIMF・世界銀行の設立に最大の貢献をした。ロイズ銀行の重役室に坐り、ボタ将軍のもとで中央南アフリカ鉄道の幹部をつとめ、タイムズ紙の重役でもあった。ブランドの兄トマスの孫が1990年現在のデビアス会長オギルヴィー=トンプソンの妻であり、ブランド家はホテル王アスター家とも結ばれている。地球上のダイヤの八割を支配するデビアスは、こうして誕生したのである。これまで南ア鉱物資源がダイヤ、金、ウランの三つだけのように書いてきたが、現代のアパルトヘイトの本質は、これ以外の工業的な分野での要素も加わって、われわれ自身が深く取り込まれている。確かに南アが全世界の七割の金を生産するなど群を抜いているが、ジンバブエザイール、ボツナワなど、アフリカ南部には貴重な金属が豊富に存在する。そのアフリカ全土の中で、南アは、宝石用ダイヤ一位、ウラン一位、金一位、銀一位のほか、石炭、錫、鉄、クロム、マンガンいずれも一位の生産量を記録している。しかもミルナー幼稚園の活躍によって敷設されたアフリカ南部の鉄道が、みな南アの東岸にあるダーバン港へ集中しているため、南アだけでなく、他の国の鉱物資源まで、ほとんどの生産物を南アが管理する構造に組み込まれている。例えば、エンジンの材料として欠かせないコバルトは、ザイールに世界最大の鉱山がある。ザイールザンビアだけで自由世界の七割近くまで生産され、これが南アのダーバンめがけて鉄道で出荷されてきたのである。ザイールは工業用ダイヤの生産でアフリカ一位、宝石用ダイヤでは二位、そのダイヤの販売を一手に引き受けているのが、やはりデビアスである。この王者には誰も抵抗できないし、抵抗してはならない。なぜなら、地球上には悪名高い中央販売機構(CSO)と呼ばれるダイヤモンドシンジケートが存在する。それはこの世のものとは思えぬ組織で、完全に実態を知る者は地球上に数人もいないし、知れば消えてゆくという。南アで最初にダイヤが発見されてから四年後の1870年セシル・ローズという青年がダーバンの港に降り立った。まだ17歳のローズは、兄と共にデビアス兄弟によって発見された鉱区へ行って働くようになった。兄は金鉱の発見を伝え聞いてそちらへ去り、原住民の焼き打ちにあって死んだが、ローズはわずか10年の間に次々と鉱区を買収し、遂にデビアス鉱山をすべて支配したのである。当時、キンバリー・セントラル鉱山を支配していたもう一人のダイヤ王バーネット・アイザックというユダヤ人と、フランス喜望峰ダイヤモンド会社が三つ巴の買収合戦を展開しようとしたとき、セシル・ローズに資金提供しようと申し出た者が出てきた。ほかならぬロスチャイルドであった。ローズはその資金でフランス会社を買収したあと、やがてバーナトを説得して合併の同意を取りつけ、1888年、今日のデビアスコンソリデーテッド・マインズが誕生した。ローズは大金を投じて自分の軍隊を組織し、南アの産物をすべて支配する最も野蛮な帝王となった。デビアス帝国建設から二年後の1890年には、ローズが植民地ケープの首相になり、それまで彼が私兵を使って黒人を働かせてきた残忍な手口も、公然とイギリス政府の代理人として実施できるようになった。悪法として有名なパス法の原形がすでにこの時に出来ていたのだ。セシル・ローズの登場によって、黒人差別農業労働のためでなく、ダイヤ採掘の地底作業に適用される時代を迎えた。1898年の記録を見ると、数十箇所の鉱山の平均値として、原住民労働者の月収が3ポンドに対して、同じ作業をした場合の白人労働者の月収は26ポンドだった。デビアスが設立されて四年後には、早くもこの会社が世界のダイヤ生産額の9割を独占する発展を遂げていたが、これはローズ一人の力ではなかった。掘り出されたダイヤを追っていくと、ロンドンのダイヤ・シンジケートの手に委ねられていたことがわかる。そこには、ギルド制度から締め出されたユダヤ人のダイヤ商人がいた。彼らはポルトガルリスボンベルギーアントワープオランダアムステルダム、次いで再びアントワープへと迫害の歴史の中で流浪し、いまでは輸入の窓口をロンドンに構えていた。ここでローズの右腕として活躍したのが、ユダヤ人のアルフレッド・バイトだった。実は「バイトなしにはローズのダイヤモンド帝国は存在しなかった」と言われるほどの男で、このバイトがすべてのダイヤ鉱を一つにまとめて今日のデビアス社を誕生させ、ロンドンからアムステルダムまでの流通機構を動かした。ローズ亡きあともデビアスの永久総裁として君臨したバイトは、ゴールドシュミットロスチャイルド家の一族であった。セシル・ローズロスチャイルドの化身として南アの帝王と呼ばれたにすぎなかった。ダイヤは、当時は神秘的な貴石として、上流階級のシンボルとして、その無色透明の輝きが驚嘆の声をあげさせた。他人より優位であることを人生唯一の誇りとしなければならない人種が、ダイヤを求めたわけである。ダイヤ商人の仕事は、それほど甘いものではない。その研磨技術をユダヤ人は代々秘術として伝え、できる限り知られないようにしてきた。ダイヤの研磨工の拠点がベルギーアントワープにあった。今日でも世界に18あるダイヤ取引所のうち4つがここにあり、全世界のダイヤ取引量の七割を占めている。こうしてダイヤの独占はユダヤ人に任されてきた。9割の原石を支配したシンジケートは、値崩れを防ぎ、自由に販売価格をコントロールできた。たとえべらぼうな売値であっても、この世に取って代わるものがない場合、あとは買い手さえ見つけることができれば莫大な利益を手にできる。中央販売機構(CSO)と呼ばれるダイヤ・シンジケートが結成されたのは1929年だが、デビアスの実動組織として悪名高いこの独占販売網は、すでに19世紀末から実質的に“ある家族”に握られていた。

 1902年、第二次ボーア戦争に疲れ果てたローズが死去し、南アアーネストオッペンハイマーという青年が現われた。この姓は、かねてからフランクフルトで知られたユダヤの有力な一族オッペンハイム家から派生した一族だが、初代ロスチャイルドが徒弟奉公に出たのが、そのオッペンハイム家であった。オッペンハイマー一族の多くは、ロンドンのダイヤ・シンジケートの中で働いていた。アーネストオッペンハイマー南アに送り込んだのは、アムステルダムのダイヤ市場を支配するダンケルスビューラーという人物であった。1910年南アフリカ連邦が成立し、初代総督にイギリス首相の息子グラッドストーンが就任し、オッペンハイマー1912年から1915年まで、鉱山の宝庫キンバリーで市長を務めた。そして、オッペンハイマー市長就任の年から、ミルナー幼稚園児たちの大々的な活動を背景に、人種差別の工場法・鉱山法、移民法、土地法と立て続けに世界一の悪法が制定されていった。オッペンハイマーは、セシル・ローズが築いた王国からダイヤの鉱山権を盗み取るのに、まず金塊に手を出して蓄財しはじめた。金鉱の株売買で代理人をつとめながら、その収入で自ら金鉱の株を買い占めてゆき、1917年アングロアメリカンという会社を設立した。オッペンハイマーは、ロンドンに帰ると何人かのアメリカ人実業家と接触し、全世界の鉱山に詳しいハーバート・フーヴァーと親しくなった。のちのアメリカ大統領フーヴァーは、世界各地で金鉱採掘に成功した山師で、ベルギーの利権にも深く関与していた。この山師フーヴァーが紹介したのが、ニューヨークモルガン商会であった。さらにオッペンハイマーは、イギリス商社からも金を借り、その敵国“ドイツ人投資家”からも金を集めた。その最大の貢献者が“赤い盾”ラザール・フレールの重役、ミルナー幼稚園の首席ロバート・ヘンリー・ブランドだった。今日世界一の金塊業者アングロアメリカンは、こうして設立され、本社をイギリスに構えた。さらに着々と乗っ取り作戦を進めたオッペンハイマーは、今度は第一次大戦を利用した。ドイツ人投資家に「ドイツ敗北後は財産が没収されるぞ」と婉曲な脅しをかけ、ダイヤの鉱山株を放出させては、自分が次々と買い占めていった。そして1929年、遂にデビアスの社長のポストも握った。そのとき、オッペンハイマーが頭を下げなければならない人物がいた。イギリス五代目当主ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドと、J・ゴールドスミスの祖父アドルフ・J・ゴールドシュミットであった。これらの大銀行家の認知が得られて初めて、オッペンハイマーは“キング・オブ・ダイヤモンド”と呼ばれるようになり、翌30年には会長となり、以後、一族が独裁体制を崩さず利権を守り続けてきた。1930年から、オッペンハイマーの本格的な世界支配組織の確立が実行に移されていった。ダイヤの中央販売機構をスタートさせ、その司令部としてダイヤモンドコーポレーションを設立。そのほか五つの組織を世界的に創設して、誰ひとりデビアスを通さずにはダイヤを販売できない今日の帝国を築き上げた。アパルトヘイトによる黒人の死者数は、国連の資料で判明している限り、1980年代のわずか10年間だけで150万人を超えている。この数字は南アに隣接するアフリカ諸国の犠牲者だけであり、当の南ア国内で殺された黒人は含まれていない。南アが侵略してきたナミビアも除外されている。その実数は誰にもわからないほど膨大である。サッチャー首相南ア問題について全世界から非難を浴びた。1989年に忽然と内閣に現われた弱冠46歳のメージャー外相は、その年のうちに蔵相となり、翌年には首相の座を射止めてしまった。こうして南ア政策はサッチャーからメージャーに受け継がれ、同じ閣僚がほとんどを占める新内閣が発足した。サッチャー政権を動かしたのは、蔵相・外相副首相を歴任したジェフリー・ハウであった。それに対しメージャー政権を誕生させたのがノーマン・ラモントであった。ラモントは自ら新内閣の蔵相という“EU統合の要”のポストに就任した。ハウとラモントが特に重要な人物である。この両人を含めて、両政権にわたる気がかりな閣僚を紹介しておこう。ジェフリー・ハウ。ネイサン・ロスチャイルドが設立したアライアンス保険が、現在はサン・アライアンスロンドン保険と変わり、ハウはこの重役室でイギリス六代目当主エドマンド・ロスチャイルドと共に仕事をしてきた。現在は南アに最大の貢献をしてきたバークレー銀行にいる。その子会社であったバークレーズ・インターナショナル銀行の副会長がデビアス会長のオギルヴィー=トンプソン、重役がニコラス・オッペンハイマー。ノーマン・ラモント。ロンドンロスチャイルド銀行マーチャント・バンカー。ダグラス・ハード外相(もと内相)。ロスチャイルド家の秘密クラブ“ビーフステーキクラブ”の会員。デヴィッド・ワッディントン内相。妻の父親アラン・グリーンがバークレー銀行重役。クリストファー・バッテン環境相ロスチャイルド家の“ビーフステーキクラブ”の会員。ケネス・ベーカー内相。妻メアリー・グレイ=ミューアがバークレー銀行重役。ジョン・ウェイカム エネルギー相。ロイズ保険出身。トム・キング国防相(もと北アイルランド相)。リオ・チントジンクの系列企業の会長。ニコラス・リドレー貿易産業相(もと環境相)。ロスチャイルド・ファミリー。ジョン・マクレガー下院院内内総務(もと農相・教育相)。ヒル・サミュエルの重役。 このような人間たちが閣議室に集まって鳩首会談を続ける姿を見て、南アの黒人問題が解決する日を迎えると確信できるだろうか。

 かつてのボーア人が今ではアフリカーナーと呼ばれ、イギリスに支配されることを好まず、1916年、アフリカーナーの白人が支配する社会をつくるため巨大な秘密結社が組織された。この秘密結社“ブルーデルボント”に活動資金を提供し、黒人虐殺に駆り立ててきた犯人は、圧倒的に鉱山系の企業家が多い。よく知られるスポンサーとして、ユダヤ人のアンソニー・ルパート。高級タバコ「ダンヒル」や「ロースマンズ」を生産するロースマンズ・インターナショナルというタバコ帝国を築いた人物である。この会社の、つい先年まで会長を務めてきたのが、デヴィッド・モンタギュー(J・ロスチャイルドホールディングス副会長)で、重役はエドマンド・ロスチャイルドである。南ア秘密結社に資金を提供してきたルパートは、世界野生生物基金(WWF)の副会長でもあったから、ニーナ・ダイヤーの“パンサー宝石”が動物愛護協会に遺贈されたのも、理由あってのことだろう。さらに付言すれば、ロースマンズ・インターナショナルの大株主は、リオ・チントジンクである。この企業関係の証明がなされなかったからこそ、今日まで「黒人差別の犯人はオランダアフリカーナーである。イギリスの財界人はアパルトヘイトの撤廃に努力を続けている」といった、実にもっともらしい流言蜚語が世界一流のジャーナリストの筆でわれわれに伝えられてきた。情報源が、みなイギリスだからである。現地に入る取材記者も、すでに洗脳されているため、疑ってかかろうともしない。1910年がアパルトヘイト元年だと言われてきたが、実は前の年の1909年イギリスで「南アフリカ法」が成立している。これは黒人の議会参加を禁ずる法律で、翌年に南アで制定された法律は、イギリスの法を追認したにすぎない。この南アフリカ法を制定したのは、アスキス首相で、その妻の父チャールズ・テナントは、イギリスの名門で、ブリティッシュ南アフリカ爆薬ノーベル爆薬など、南ア鉱山と黒人虐殺の両方を動かす会社の大株主だった。テナントミルナー幼稚園のカー一族と閨閥を組むキャメロンが重役だったスコットランドロイヤル銀行の会長で、南アばかりかインド金鉱にも莫大な投資をおこない、大英帝国ナショナル・ギャラリーの支配者となった。アフリカ全土の黒人が「アパルトヘイトを廃止させる唯一の手段は、経済制裁をただちに実行に移してくれることだ」と訴えている時に、日本は世界で最大量の金を輸入してきた。1986年の数字では、自由世界の50%を超える輸入を記録した。これは南アの年間総生産量に相当する。現在の南アにおける金鉱の占有率は、表面上はアングロ・アメリカンが50%だが、株の保有率を調べてみると、実質的にはほとんどの鉱山が傘下に入っていることがわかる。日本人が支払った金の代金は、そっくりアングロ・アメリカンの収入となっている。その間に入って収入を得ている南アの予算は、核兵器開発と兵器の購入にかなりの割合が占められ、1987年で4000億円ほどだが、ほかの国と事情が違うのが、その兵器が日常茶飯事のように実物の標的、つまり黒人に向けて使われていることだ。金塊のアングロアメリカン、ダイヤのデビアスウランのリオ・チントジンク、この三社は、いずれもロスチャイルド家の資金によって誕生したもので、姉妹会社である。地底に穴を掘る作業は三社とも同じで、そこで掘り出した鉱石を三姉妹がお互いに交換し合って、それぞれのエキスパートの業界とブランドを生み出してきたのである。具体的には、アングロアメリカンがデビアスの株を32.5%保有して支配し、逆にデビアスアングロアメリカンの株を38.1%保有して支配する。(数字は1988年現在)両者のロンドン支店は、同じ場所にある。リオ・チント・ジンクは、イギリスでロスチャイルド家がリオ・チント社を経営して鉱物全般を扱いながら、1962年にスペインのコンソーリデーテッド・ジンク(合同亜鉛)社を吸収して今日の姿になったものである。この合併からロスチャイルド家が原子力産業に突進しはじめたが、そのときの重役ロナウド・ターナーはマーカス・サミュエル商会のマーチャント・バンカーで、金塊業者クラインウォート・ベンソン・ロンデールの副会長とサザビースの重役も務めている。このようにウランと宝飾品は、同じ人間の右手と左手で商品として取り扱われてきた。アングロ・アメリカン−デビアス−リオ・チント・ジンク、それはアフリカの黒人にとって、一組を成す恐怖の代名詞となっている。ここまでに示した系図が、実はすべて一枚の系図として重なり合う巨大な閨閥を構成している。彼らは七つの海を巡りながら、ある日にはアメリカの西海岸でゴールドラッシュに奔走していたかと思えば、ある日にはロンドンで戴冠式に臨み、またある日には黒人に襲いかかりながら金銀ダイヤを掘り出し、ある日には鎖国するジパングにまで新しい財宝を求めてきた。その富をウォール街で、あるいはロンドン・シティで転がし、何倍にも肥えさせてきた。その人間たちがすべて同じ一族であったのだ。

 赤い盾G

 第二章 地球トンネル

 1 発禁書『金瓶梅

 香港は、ロンドンのシティ、ニューヨークのウォール街に次ぐ第三位の金融総本山であるが、わが国では“人口わずか600万足らずの国”と考えられ、その世界を動かす力は認識されていない。東京は巨大都市だが、それは資金の大きさを示すだけで、世界を変える力を持たない。香港と中国では政商と呼ばれる華僑が暗躍し、莫大な資金を大陸に運んで今日までの大国・中国を支えてきた。しかし、その背後には、さらに大きな支配者が立っている。ここを歩けば香港がわかるというNo.1メインストリートは、その名も「ネイザン・ロード」。つまりネイサンの道である。香港の免税店で買い物をして、得をした気分になるなら、さらに壮大なトリックがこの国にあることを気づいてもよいはずだ。免税店という税金を逃れるシステムがあるなら、大富豪にとっても税金を逃れる裏道があるであろう。それを日本人は利用できるだろうか。残念ながら、その道はほとんど閉ざされている。イギリス人は、それも特殊なグループに属するイギリス人であれば、その道を使って金を隠すことができるのである。天安門事件で民衆の虐殺を命じたケ小平が、香港の最大級の華僑財閥・包玉剛と親密に交わってきたことと、その包の娘アンナがオーストラリア人と結婚している事実が、一体いかなる意味を持つかを調べてみたい。人類は何度だまされれば気がつくのかわからないが、改めて最近の出来事を振り返ってみる必要がある。過去200年にわたって地球上のほとんどの独裁者を育ててきたのが一つのシステム−一つの地下組織だと仮定してみよう。

 スターリング・シーグレーブの著書『マルコス王朝』は、フィリピンの独裁者マルコスがいかにして財宝を地下の闇ルートで処理し、隠しおおせたかを追跡した貴重な資料だ。そこでは特に金塊が大きな役割を果たし、次のように密売ルートが記述されている。さるアメリカの財界人がマルコスの金塊売却にかかわり、フィリピンに飛んだ時のことである。「彼は金の延べ板を積んだ大きな地下倉庫に案内されたが、この延べ板の量は多くなかったものの国際規格サイズで国際取引き用の品質証明がついていた。これはマルコスが急いで売りにかかっていたマニラにある百トンの金塊を段階的に取引するための第一回の試験取引だった。香港の銀行が仲介役をし、その財界人がジャーナリスト氏に契約のコピーを渡したわけだが、そのコピーは著者のファイルにしまってある。この契約書によれば、残りの金塊はすでにフィリピン国外の金市場に移されたという。そのなかには1970年から83年にかけ、さまざまな方法でロンドンに移された金塊も含まれていた。それ以来、金塊はイングランド銀行やロスチャイルド、ジョンソン・マッセイ、モカッタ・ゴールドシュミットといったロンドン金市場のカルテル会員社の地下倉庫に眠っている。マルコス一族は、カルテルの会員とは非常に親しい関係にあり、子供たちがイギリスに留学したときは、ロスチャイルド家で使っていなかったロンドンマンションをわがもののように使っていた。金塊の量を総計すれば、75000トン。これは史上これまでに掘り出された金の公式総計量とほぼ同じになってしまう。このアメリカ財界人によれば、マルコスの友人であるオーストラリア大富豪が中心となったシンジケートが取引きのブローカーを引き受け、アメリカ人二人とヨーロッパ人のグループもこれに協力していたという」。これは同書が実証している膨大な資料のうち、ほんの一節を紹介しただけだが、すべてが凝縮されている箇所である。この後には、イングランド銀行総裁リーベンバートンらによるマルコス資産隠しの実態、そこにサッチャーも関与していた事実が指摘されている。そこに見えるのは実動部隊としてマルコスに協力したイギリス人の国家ぐるみの犯罪である。マルコスが金塊の密売に使った本拠地は香港であった。たとえばオーストラリアのヌーガン・ハンド銀行香港支店が暗躍し、やがてその経営者フランク・ヌーガンが何者かに射殺され、銀行そのものは倒産してしまう。また、香港上海銀行香港のハンルン銀行香港のオナーズ銀行三菱銀行香港支店などがゾロゾロと登場し、金塊の売り手、仲介役、買い手として実名を挙げられている。いま紹介した『マルコス王朝』に登場するロスチャイルド銀行ジョンソン・マッセイ銀行、モカッタ・ゴールドシュミット商会は、いずれも創成期から赤い盾一族の金塊商人である。

 中国民衆への無差別の発砲・虐殺を命じた三人の最高責任者、ケ小平、李鵬、楊尚昆は、このわずか三人の一族だけで基金会の主任、国防科学工業委員会の局長、武漢の市長、国家教育委員会の主任、軍総政治部の主任、総参謀長北京副市長、海南経済開発公司の副総裁、国防部の部長といった要職を占め、そのほかに三人自身が国家中央軍事委員会の主席、同副主席、首相、国家主席という最高権力を握っていた。ケ小平の形式的な辞任のあとを受けて軍事委員会の主席に選ばれた江沢民は、中国の金融界を動かす上海の市長から一躍トップの座を与えられた男だが、これも劉少奇のあとを継いだ主席・李先念の娘ムコだ。ケ小平の長男であるケ樸方は、統制物資の“ヤミの横流し”が暴露された康華公司の創設メンバーだが、やはり国外の銀行に莫大な金を貯めこんでいるという噂が絶えない人物だ。その銀行こそ、香港上海銀行中国銀行香港支店であろう。1990年上海中国で初めての証券取引所が開設されたが、ここから誕生した新しい経済メカニズムは、初めから一部の人間のためのものである。この中国に対して、アメリカブッシュ政権が1989年末、天安門事件を御破算にして再び歩み寄るという政策の変更を打ち出した。中国への通信衛星の輸出を承認したのである。これが実は政策の変更ではなく、個人的な利権の動きにすぎないことを知れば、世界は愕然とするだろう。その一ヶ月ほど前、キッシンジャー国務長官中国を訪れ、ケ小平と固い握手を交わしながら会談した。キッシンジャーの別の肩書きはアメリカ中国協会の会長であった。

 イギリス領である香港の歴史は、次のようにして始まり、今日までの歴史を描いてきた。ヨーロッパ人によるアジア侵略の歴史は、ポルトガルスペインによる大航海時代に扉を開いた。それ以前は陸路のシルクロードが貿易の幹線だったが、13世紀のマルコ・ポーロに続いて15世紀末にはディアスやヴァスコ・ダ・ガマのポルトガル探検隊、スペインから資金を得たユダヤ人コロンブス、16世紀にはマゼランといった史上に名を残す大冒険家が続出した。しかし、この連中はみな侵略者の頭目というのがその正体だった。先住民奴隷として使役しながら、大虐殺の歴史を繰り返した。ところが、この七つの海に16世紀から別の軍団が姿を現わした。フランス探検隊のカルティエイギリス探検隊のドレーク、オランダ探検隊のバレンツたちである。ポルトガルスペインの探検隊は有名だか、なぜか現代に直結する彼らの名前は、ほとんど忘れられている。ここから17世紀のオランダ東インド会社が誕生し、18世紀半ば過ぎにはイギリス東インド会社インド貿易を独占的に支配するようになり、ここからビルマラングーンシンガポール香港上海と大々的な侵略が始まった。ここから先は歴史の教科書には登場しないが、ロスチャイルド家の財力を切り離して論じられてきた歴史は、ほとんど信用がおけない。東インド会社から最大の利益を得たのがロスチャイルド家であったことは、経済原理の上から誰にでも推測できる。ところが、南アについての記述と同じく、東インド会社に関する本を何冊読んでも、ロスチャイルドの名を見つけることは至難の業である。実は、1833年東インド会社の独占的な貿易がイギリス議会で禁止され、1858年には正式に会社が消滅していた。しかし、東インド会社の商人が持っていた利権を正式に譲り受けたのがロスチャイルド家であり、そのために莫大な補償金を支払った。東インド会社資産は、20世紀末の今日もロスチャイルド家の腕に抱きかかえられて生き続けている。この系図を作りあげている要素には、商人、公爵、石炭、原子力、それに洋酒のギネス家まで入っているのだから尋常な世界ではないことがわかる。

 1986年、サッチャー政権で貿易産業大臣だったチャノンの長女が麻薬の飲みすぎで急死した事件で、ヘロインコカインを密売していたセバスチャンギネス逮捕された。洋酒のギネス御曹司である。昔のアヘンから今日のヘロインまで、金塊の流れと共に追跡してみよう。麻薬の売人は、現金を洗濯するために、札束を直ちに貴金属やダイヤに交換することをならいとしているからだ。パナマ麻薬将軍ノリエガの正体も、南米コロンビアに展開してきたコカイン麻薬戦争の謎も、すべて地球トンネルという鍵を使って解くことができる。これらの場所にはいくつかの共通項がある。それはパナマ運河から想像される海運業であり、もう一つはタバコやお茶の葉である。秘密結社のスポンサーとなった南アタバコ王が思い出される。高級葉巻には、その名もアルフレッド・ド・ロスチャイルドという銘柄がある。J・ゴールドスミスが執拗に買収攻撃を仕掛けてきたのもブリティッシュアメリカン・タバコだ。マルコス夫人のイメルダの保釈金およそ六億円を支払ってやったのはアメリカン・タバコのオーナー、ドリス・デュークだった。その一方、イギリスリプトン、ブルックボンド、トワイニング、フォートナム&メーソンといった高級紅茶は、今日でも世界で図抜けた支配力を持っている。もしそのお茶の葉が、麻薬の畑と同じ場所で栽培されていれば、両者の結びつきを推理することができる。事実、それを体現するユダヤ商人が存在した。その名をデヴィッド・サッスーンといい、アヘン戦争で莫大な富を築く一方、イギリス紅茶総元締めとして知られた。麻薬紅茶はサッスーンの手の中で同時に動かされていたが、この名を聞けばヘアー・スタイリストとして有名なヴィダル・サッスーンを思い起こす方もあろう。ヴィダルの父はネイサン、息子はデヴィッド、百年前の麻薬王と同姓同名である。サッスーン財閥は、18世紀に中東メソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣をつとめるほどの政商となっていた。1792年にこの一族に生まれたデヴィッド・サッスーンは、バクダッドで活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへと進出を始めた。その頃イギリスは、東インド会社の貿易を通じて、中国にアヘンを輸出してはアジアから銀を吸い上げる麻薬貿易に夢中になっていた。そのため中国の治安は乱れ、財政も傾きはじめた。サッスーンはその利権を狙ってインドに移住したのである。イギリスはすでに1773年からインドでのアヘン専売権を武力で獲得し、これがロンドンのシティにお茶と共に莫大な金を生み出していた。ロスチャイルド家には、たびたび東インド会社の幹部が招かれ、シティの支配者から助言を受けていた。一方の中国では、清朝政府麻薬の上陸を食い止めようと努力したが、中国人社会に誕生した秘密結社「洪門会」が暗躍し、それが特に台湾香港に潜在して東インド会社の手引きをしたため、アヘンの流入を防ぐことができなかった。この洪門会は、華僑の中核部隊として20世紀末の今日も生き続けている。こうして清王朝は、東インド会社華僑、洪門会の連合勢力を相手にまわしてアヘンと苦闘したが、結局その時代に洪門会が活動資金として手にした金は、世界の王ロスチャイルドから東インド会社に手渡されたものを握るという形で、シティからめぐりめぐってきたものである。今日の香港にあって地下組織として知られる三合会が、実はこの洪門会の別称である。ほかにも匕首会、剣仔会など数々の呼び名がある。麻薬売春など、裏では非合法の悪事を取り仕切り、その資金を使って表の顔で公然と政治活動や貿易を行ってゆく。

 さて、19世紀前半、清朝はついに堪忍袋の緒が切れて、特任の派遣大臣・林則徐にイギリスとの交渉に当たらせた。林はアヘンの厳禁論を貫き、東インド会社にアヘンの引渡しを命じ、これが断られるや、イギリス商館を閉鎖、強硬手段によってイギリス船からアヘン二万箱を押収すると焼いてしまった。しかし、一応の採算が合うようにと、アヘンの代償としてイギリスにお茶を与えて黙らせようとした。これに激怒したサッスーンやその背後に隠れたるシティの支配者の指示があって、1840年アヘン戦争が勃発したのである。しかし、1842年、清朝イギリスの猛攻の前に屈服し、香港イギリス植民地として敗戦条約に署名しなければならなかった。また同時に、上海などのいくつかの港を開いて、イギリス領事館を置くことに同意させられた。現在の香港を支配し、実質的な中央銀行としてお札を発行している香港上海銀行の起こりは、アヘン戦争の時代にあったのだ。サッスーン一族は、こうしてアヘン戦争によって巨大な財産をさらに一回り大きく膨らませ、インドから香港上海への本格的な進出を始めた。1864年、初代のサッスーンがこの世を去り、その年に初代の遺産としてサッスーン家がリーダーとなり香港上海銀行が設立された。アヘン王の五男アーサーが、この香港上海銀行の最大株主となって東洋貿易を支配した。サッスーン財閥は、この銀行金融業を任せると、中国の公債発行を引き受け、鉄道路線を張り巡らす本格的な事業に乗り出していった。二代目のアルバート・アブダラ・サッスーンはインド西岸に最初のドックを建設し、その名もサッスーン・ドックを足場にして海運業に乗り出していった。この男は当時のイギリスの諷刺漫画に「インドロスチャイルド」という栄光ある名称で描かれ、騎士の称号を受けるまでになり、イギリスユダヤ人協会では、ロスチャイルドと並んで副会長をつとめた。アルバート・アブダラの息子エドワード・サッスーンの妻は、アリーン・ロスチャイルド香港上海銀行のほとんどの株を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟が、ネイサンの孫レオポルド・ロスチャイルドだった。それだけではない。二代目のサッスーン兄弟の三男サッスーン・デヴィッド・サッスーンの息子の結婚相手がグンツブルグ男爵の娘であった。グンツブルグ家は「ロシアロスチャイルド」と呼ばれ、ロシアユダヤ人の政商エドガー・ブロンフマンやアーマンド・ハマーなどを掌中に収め、静かに地球を動かしてきた世界的富豪である。今日その一族のアレクシス・ド・グンツブルグがJ・ゴールドスミスと姻戚関係にあり、パートナーとして事業をおこなっている。香港を支配したのは、サッスーンだけではなかった。サッスーン家三代目がエドワード、四代目が“上海キング”の異名を取ったエリス・サッスーンだが、その頃には強力なライバルが台頭してきた。こちらは超高級コニャック“ヘネシー”を販売し、わが国では“ホワイト・ホース”の輸入業者として知られる大商社ジャーディン・マセソンである。サッスーンと同じインドの茶とアヘンを目玉商品として1832年マカオに開業していたジャーディン・マセソンは、アヘン戦争が終わるとさっそく香港に本社を移し、東インド会社末期の利権をめぐってサッスーンと激しく争いはじめた。ジャーディンもまた、三合会に資金を投入し、華僑を次々と買収していった。しかし、1877年、ジャーディン一族と結婚したケスウィックがサッスーン家との和解を申し出て、その一族のウィリアム・ケスウィックが香港上海銀行の重役として迎えられ、取締役として大きな権力を与えられた。実はこのケスウィック家もまた、ロスチャイルド一族であった。それからのロスチャイルド=サッスーン連合が、ジャーディン=ケスウィック連合と手を組んで何をしたかは想像に難くない。アヘン戦争後に香港総督として就任した人物は、いずれも東インド会社から出てきた男たちばかりだった。こうして香港は20世紀に突入し、1904年から総督に就任したのがロスチャイルド一族のユダヤ人マシュー・ネイサンであった。香港総督ネイサンは、前任がアフリカ奴隷貿易の中心地・黄金海岸(現ガーナ)の総督だった。香港の次には南アのナタール総督に就任し、1909年まで黒人を支配した。この年にイギリス議会南ア法が制定され、アパルトヘイト制度が確立されたのだ。世界は一つである。今世紀に入って香港を動かすもう一つのイギリス財閥が台頭してきた。スワイヤ兄弟である。紅茶のブルック・ボンドや香港の航空界を独占したきたキャセイパシフィックの支配一族で、香港上海銀行の特別顧問をつとめるスワイヤは、一体どこから生まれたのであろうか。華僑がその前にひれ伏すというスワイヤ家は、イングランド銀行モルガン・グレンフェル、バークレーズといった大銀行閨閥であり、アルフレッド・ミルナーの軍事秘書も一族に入っている。香港がなぜ金とダイヤと麻薬の取引きが盛んなのか、この系図が物語っている。日露戦争によって、わが国が初めての大戦争に勝った1905年とは、ちょうどネイサンが香港総督を務めていた時代に当たるが、それは偶然の符合ではなかった。高橋是清に軍資金を与えたのはクーンローブ商会のジェイコブ・シフだが、そのシフがロシアを打倒するために手を組んだのが香港上海銀行だった。結局、ユダヤ人のシフが、ユダヤ人のサッスーンと手を組み、日露戦争の開戦と同時に、この銀行を守護する香港総督としてユダヤ人のネイサンが急遽アフリカから呼び出された。ところがそのユダヤ人たちは、ただのユダヤ人ではなく、ともにロスチャイルドの家族だった。このあと日本の歴史は、大正から昭和にかけて朝鮮中国、さらにマレー半島フィリピンインドネシアへと侵略の手を広げ、大東亜共栄圏の旗を掲げる大日本帝国の時代を迎えた。洪門会などの地下組織を取り込んだ袁世凱たちが辛亥革命によって清王朝を倒したあと、やがて本格的な日本中国侵略が始まった。満州事変を引き起こし、清王朝の生き残り愛新覚羅家の溥儀を再び皇帝にまつりあげる「ラストエンペラー」の壮大な史劇によって、関東軍による武力制圧がおこなわれたのである。日本軍の主力の一つは上海からやってきた部隊であった。ここに、日本を倒すため、イギリス華僑の地下連合組織が強力な網の目を張り巡らせていった。こうしたゲリラによるレジスタンスの構造が、今日の華僑財閥の母体となったのである。今日の1990年代に、香港華僑財閥として最大の力を持つと言われるのが、李嘉誠と包玉剛である。李の所有する証券類は、すでに香港株式市場の五分の一に達している。包の方は、香港株価を示す“ハンセン株価指数”を発表する側に立っている。これは恒生銀行総元締めとなっているからで、包がその重役室に坐っていたのである。李嘉誠と包玉剛が、どこからその財産を手に入れたかを知るには、香港ビジネスが工業生産より貿易によって成り立っているという状況から分析するとよくわかる。貿易は海運と航空を制し、あとは通信網を握れば、ほかの誰にも手を出すことはできなくなる。東インド会社、サッスーン、ジャーディン・マセソンと名前は変わっても、みな同じ一族が動かしきた。この商人たちの手段は海運業である。李嘉誠の財閥は、長江実業という会社を母体として全産業に広がっているが、当然そこには海運業も含まれる。包はワールドワイド・シッピング=世界海運という財閥グループを生み出し、航空界にも圧倒的な力を及ぼしてきた。実は、李と包の二大財閥は、いずれも香港上海銀行の最高幹部である。包の恒生銀行の親会社も香港上海銀行である。スワイヤ兄弟もこの銀行の特別顧問である。ケスウィック家は、この銀行の会長と重役である。李嘉誠は副会長である。包玉剛とその娘ムコは重役である。では、この巨大銀行の本当の支配者とは誰かと問われれば、ロスチャイルドと答えるほかない。天安門事件のあとケ小平が形式的に引退し、背後から江沢民を支配する院政に入ったとき、アメリカ中国協会の会長ヘンリー・キッシンジャー中国に飛んできた。この男はかつて国務長官でありながら実際にはロックフェラー財閥使い走りをしていたユダヤ人だが、最近は何をしてきたかと言えば、自分の会社キッシンジャー・アソシエイツがあり、そこがシェアソン・リーマン社から小遣い銭を貰っていたことはあまりに有名である。シフのクーンローブ家と結婚したリーマン兄弟が今日のリーマンコーポレーションであるから、キッシンジャーの最近の仕事が、ロスチャイルド家の使い走りになっていたことになる。このキッシンジャー・アソシエイツの副会長スコウクロフトと社長のイーグルバーガーが、それぞれブッシュ政権の最高幹部として、大統領補佐官と国務省No.2の副長官のポストに就いてしまった。この状況の中で起こったのが天安門事件であるというところから解析を始めなければならない。アメリカ中国通信衛星の輸出を承認したのは、リーマンブラザースからキッシンジャーへ、次いでスコウクロフトとイーグルバーガーからブッシュへと、ひそかな耳打ちがおこなわれたルートによる。その指令の総本山は、香港九龍城の奥深い闇の中にある。香港上海銀行の目と鼻の先に中国銀行東洋一銀行ビルを建て、そこではケ小平の部下と、華僑財閥のリーダー包玉剛が取引きをおこなっていたのである。中国銀行香港支店は、年間70億ドルという外貨を手に入れる金の卵となり、「赤く貧しい銀行」どころか中国銀行グループの支店はすでに300にも達する勢いである。ただ、それが中国の市民に還元されているわけではない。実際には中国国民に何も知らせずに、一部の人間が利権を配分する「独裁政治」というほかない状況にある。かつて欧米の証券取引所を「悪魔の館」と罵った政界幹部が、上海証券取引所1990年に開設して大々的に祝う時代となった。香港通の人であれば、もう一つの発券銀行、スタンダード・チャーター銀行も気がかりだろう。これはすでに説明した通り、アフリカ全土に君臨する銀行である。その筆頭株主で副会長を務めるのが、やはり包玉剛。重役室では、マーチャント・バンカーホームズ=アコートが包と共に副会長の座にあって、パートナーの関係を結んできた。ホームズ=アコートの国籍は、オーストラリアである。ここに、マルコスの友人として金塊を密売した前述の“オーストラリア人富豪”の姿が見えてくる。ホームズアコートのほかに、一体誰がこれほど大量の金塊をロンドンまで運び、売りさばくことができたであろうか。包玉剛は、香港の海運王だが、その背後にいる本当のスポンサーとは、実はリオ・チントジンクであった。ここから先の物語は、インドに足を運ばなければならない。

 赤い盾H

 2 インディ・ジョーンズW

 読者はおそらく「この世界の激動期にインドのことなどに構っていられるか」と思うだろう。ところがインドがわからなければ、地球の激しい動きについて何一つ理解できないのである。インド人とアフリカ黒人の関係がわからずにアパルトヘイトの本質を理解することは難しい。中国インドの国境は、絶えず中印紛争によって戦火を交えてきた。なかでもチベットは、ダライ・ラマが亡命政府を樹立し、1989年にノーベル平和賞が授与されたが、ここにはアヘン戦争という鍵を使って、香港から解きほぐさなければわからない世界がある。ヨーロッパに目を向ければ、ルーマニアの流血後と、東西が統一されたドイツが全世界の大きな関心を集めている。

ルーマニアは北をカルパチア山脈によってソ連との国境を作り、南はドナウ川によってブルガリアとの国境を作っている。ところが西側ではハンガリーと接していながら、そこには自然の境界線がない。つまり人間が強引に国境線を引いたにすぎない。まさにその地帯の中心都市ティミショアラから打倒チャウシェスクの蜂起が始まった。ルーマニアの歴史はインド・ヨーロッパ語族のトラキア人に端を発し、二世紀にローマ皇帝トラヤヌスが金や穀物の豊かなこの王国に進軍して以来、複雑な人種混成国家をつくりあげてきた。

ソ連アゼルバイジャン共和国は、黒海を間に挟んでこのルーマニアと至近距離にあり、1990年を迎えて大暴動が発生した。そこにはロスチャイルドノーベルが利権を持っていた19世紀世界最大のバクー油田がある。

ルーマニアヨーロッパではソ連に次いで第二の産油国でありながら、国民はまったくの貧困のなかに生活を送ってきた。一体、石油が稼いだはずの莫大な金は、どこへ蓄えられてきたのか。チャウシェスクはなぜ急いで殺されねばならなかったのか。独裁者は何を知っていたのか。

これら無数の謎に対して“貿易”や“商人”と呼ばれる言葉が答えを用意して、われわれを待っている。キプロス問題も、アフガン紛争も、中東の危険な情勢も、あまりに“民族問題”と“宗教対立”という抽象的な言葉で語られすぎた。その実態は貿易の争いに根があって、ヨーロッパ人によって操られてきたのである。


インドでは原住民の多彩な宗教を何の矛盾もなく包み込むヒンズー教という不思議なものが、古代から衣食住の生活を支え、人間を養ってきた。ヒンズーはインド文化の土台である。ここにある輪廻霊魂不滅の思想は、われわれの日常の心情にも共通し、エーゲ海ギリシャ哲学にも類似したものがある。破滅に向かう目の前の地球を救うための哲学は、果てしない“改善また改善”という西欧文明の流儀ではなく、インド哲学仏教の底に流れる“沈思黙考”のほかにはない。人間が死後に再び甦るという輪廻。死者の霊魂は空へ吸い込まれてゆき、雨となって地上に降り注ぎ、再び受胎して生を受ける世界。

ヒンズー教との対立が絶えないと言われるシーク教も、一方では階級制度のカースト制を攻撃しながら、思想的にはヒンズーとイスラムの哲理を含んでいる。実際に民衆同士の殺し合いがおこなわれるのは、それぞれの哲学の対立が原因であることは絶対にない。そこにいる支配者同士の利権争いが、現地での憎悪を創作し、その戦いに民衆を狩り出しているのである。

とりわけ東インド会社によるイギリス人の侵略後は、インド第二次世界大戦後に独立しながら、今日もヨーロッパアメリカの金融支配から逃れられず、果てしない泥沼の闘争に引き込まれている。

カースト制度は、「司祭」「王侯と武士」「庶民」「奴隷」の四階級に差別し、さらに「不可触民」と呼ばれる奴隷以下の世界がある。

アパルトヘイトに近いものだが、このカーストインド人の産物である。しかし現実は、その五つの上に「白」が君臨する。上流社会の人間は、多くがイギリス学問を受け、インドに帰ってくる。1990年には、下層階級のための解放政策が発表されると、皮肉にも学生がそれに反対するという時代遅れの騒動を展開した。


1982年から86年にかけて、イギリス国内でコンピューター専門家11人が怪死した。それがすべて軍事関係者の“自殺”とされている。共通項としては、イギリス諜報部門の中でも特にエレクトロニクスなどの通信部門、とりわけその目的が、SDI(戦略防衛構想)の開発に密着している事実が明らかにされつつある。

この怪死事件の鍵として浮上してきたのが、通信軍需産業の中で群を抜くマルコーニ社であった。マルコーニは、ノーベル物理学賞を受けたイタリアグリエルモ・マルコーニが、ほぼ一世紀前に設立し、イギリスで成功を収めた企業である。

SDI連続怪死事件の死者に共通するもう一つの特徴は、異常なほどインド人が多いことである。なぜ、インド人がSDIのために“自殺”しなければならなかったのか。

1912年、通信技術が華々しい脚光を浴びると、その新しい金の卵の利権をめぐるイギリス政界の汚職“マルコーニ事件”が起きた。

当時のインド総督ルーファス・アイザックは、マルコーニ支配者のゴッドフリー・アイザックと兄弟であった。マルコーニとインドは今世紀初頭から切っても切れない関係にあった。アイザック兄弟がなぜそれほどの力を持つことができたか。この兄弟はスペインドイツ移民のストロ家と結合し、そのファミリーがアメリカに渡ってロスチャイルドと結婚していた。

この利権者アイザックは、オスマン帝国タバコ王の娘と結婚し、その女性がのちにイギリス公共放送のBBC総裁に就任した。

マルコーニ事件の主犯の一人である郵政大臣ハーバート・サミュエルは、ネイサン・ロスチャイルドが結婚したユダヤ大富豪一族である。郵政大臣BBC総裁のポストは、文字通りロスチャイルドの通信支配を実証している。

19世紀に財を成したこのタバコ王は、サッスーン家と手を組み、インドから香港へと進出するアヘン貿易と連動していた。海と陸のシルクロードを支配し、タバコとアヘンの貿易に従事していたことになる。その作業に狩り出されたのがアフリカの黒人奴隷であった。この根深い中東アジアの利権構造が今日も生き続け、放送界のBBCとそれを背後で操る通信業界のマルコーニ、そしてSDI怪死事件を招いたのである。

インドイギリスの結びつきを示す第二の例は、イギリス下院議員の助手が高級コールガールであった、しかも大臣や王室貴族までこの女性とベッドを共にしたと伝えられるセックススキャンダルである。問題の女性は、パメラ・ボルド嬢という元ミス・インドであった。彼女のために大英帝国は大騒動。アン王女がフィリップ大尉と別居することになった。パメラ嬢は、イギリス上流階級に大きな衝撃を与えたあと、交通事故にあって大怪我をし、香港の病院に入院したのである。

第三は、イスラム教を冒涜する小説悪魔の詩』がイギリスで発表され、そのときのイランの最高指導者ホメイニ師が作者に死刑宣告したため、国際的な政治問題にまで発展した事件がある。

作者は謝罪の声明を出したが、本人が莫大な金をイスラエルから受け取っているという記事が流れ、中東問題は新たな宗教戦争に火をつける結果となった。問題の作者は、サルマン・ラシュディーというイギリス国籍インド人。

こうしてわれわれは、さまざまなニュースや文化をヨーロッパから取り入れながら、その多くがインド原産であることに気づかない。

インドを理解するには、まず地形を頭に描き、日本の九倍近い広大な面積を呑み込むのが第一。

現在のインドに、西のパキスタン、東のネパールブータンバングラディッシュ、南のセイロン島(スリランカ)、そのすべてが大インド帝国の手の中にあったのが、イギリス支配の時代であった。

東インド会社が18世紀に進出して勢力を広げていったのは、東のベンガル地方からであった。ガンジス河の河口にあたるが、インダス河とガンジス河は共にヒマラヤ山脈に源を発し、そこに広がる平原に農業を発達させ、世界的な商業を生み出していた。インダス文明は実に五千年前に存在していたことが確認されているので、アーリア人の侵入よりはるかに前である。下水道もあり、金銀さまざまな合金、宝石などの装飾品、どれも取ってもインド人の優れた文明がそこにあり、木綿はきわめて古い時代から量産体制を組織していた。

そこにイギリス海軍の大砲の音が響いた朝から、インドは変わった。インドの虐殺が始まったのである。

当初、香辛料とインド織物に熱中した東インド会社は、地元のインド商人と取引きしようとしたが、インドではヨーロッパの製品がほとんど興味を惹かなかったため、唯一の交換物が金銀の地金に頼るという形になった。こうして東インド会社の幹部であるキリスト教徒は、部下に必ずユダヤ人の貴金属商を抱え、ロンドンや現地でその取引きをする仲となった。

こうしたユダヤ人東インド豪商の一人にソロモンズという男がいた。このソロモンズの娘ジェシーが結婚した相手が、ベンジャミン・ゴールドシュミット。ネイサンの前にシティを支配したゴールドシュミット兄弟の一人であった。それぞれの孫の代で、ボンベイの財務長官とインド将軍を生み出し、ロスチャイルド家の一族が自ら侵略者として武器を手に握り締めていた。

ボンベイを支配していたのがアヘン王サッスーンで、1832年ボンベイに移住。その22年後にヘンリー・ゴールドシュミットが財務長官となり、さらに八年後、フレデリック・ゴールドシュミット将軍イギリス政府の代表として派遣されてきた。

こうしてすべての条件が揃ったところで、二代目サッスーンが当時最大級のドック、サッスーン・ドックを建設した。この港から出た船がインド兵を満載して、南アボーア戦争に向かった。

黒人の上に黄色人種があり、黄色人種の上に白人があり、さらに白人の頂点にロスチャイルド家があったのだ。

ロンドンコーヒーハウスは、東インド貿易によって急激な発展を示し、ロスチャイルドが台頭する百年も前から賑わっていた。なかでもエドワード・ロイドがロイズコーヒーを開業し、その店が船主や船員のたまり場となってからは、コーヒーハウスの役割が大きく変わった。貿易についてのニュースを伝える新聞の発行から、ギャンブル投機、郵便物の集配など、ありとあらゆるサービス業を経営し始め、遂にこれがロイズ保険という大事業を生み出した。世界最大の保険会社インド貿易から生まれたものである。


1798年、リチャード・ウェルズリーがベンガルの総督として着任した。この頃、東インド会社の勢力圏は、まだインドの一画にすぎなかったが、リチャードはベンガル地方の中心地カルカッタに到着すると9歳年下の弟アーサーと連絡をとった。アーサーは貿易港マドラスの指揮官として既に着任していたが、ここにはダイヤの鉱山があり、百年ほど前に、その巨大なダイヤを掘り当てた男はトマス・ピットという。このトマス・ピットは、第一次ボーア戦争を仕掛けた“奴隷商人の息子”グラッドストーン首相の一族で、のちに孫とひ孫がイギリス首相になっている。

ウェルズリー兄弟は、東インド会社インドを征服するのに、インド人の仲を引き裂くという方法を採用した。これが現代インドの病根となって残っている宗教戦争の出発点となった。

インド人を雇って軍隊として育て、この「セポイ」と呼ばれる傭兵に強奪を命じたのである。

東インド会社は一部のインド人をおだてあげ、この軍隊カースト制度の上層階級によって占められるよう巧妙に組織しながら、イスラム教とヒンズー教を配分してインド全域を襲うよう仕向けていった。インド人に、インド人を殺せ、と。

傭兵セポイは、自らイギリス人植民地拡大のために勲功を争ってインド部落に襲いかかった。このウェルズリー兄弟の軍隊は、西岸のサッスーン・ドックがあるボンベイからも侵攻し、東西の両側から攻めのぼって、最後にはインダス河とガンジス河の源流地帯パンジャブにまで達し、全インドを支配したのが1805年頃だった。

ほとんど無名でインドに渡ったウェルズリー兄弟がイギリスに帰国した時、初めは彼らの暴挙に怒って戦争の停止を命じた会社幹部も、獲得した財産のあまりの大きさに内心では狂喜していた。しかし一方では、その残忍さに市民の多くが怒り、結局、ウェルズリー兄弟はロンドンの支配層の中だけで英雄として奉られた。

弟アーサーは、1814年に貴族としての最高位、公爵爵位を授けられた。翌年にワーテルローの戦いナポレオンを打ち破ったウェリントン公爵である。

前述のように、ワーテルローの戦いウェリントン将軍のために金塊をひそかに運び、軍資金を調達したのが、ロスチャイルド兄弟であった。しかもその結末の一報がまず敗北の誤報としてシティに広められ、ネイサンがボロ儲けをしたのである。

ネイサン・ロスチャイルドウェルズリー兄弟の一族は、孫の代で見事につながっている。「インドから奪えるものはすべて奪いつくした」というウェリントン家がもたらした巨万の富は、ロスチャイルド家の持ち物として、その子孫にも分け与えられた。

イギリスの名門校の歴史教材には、今日も「インド総督は偉人」として礼讃されている。学問による権威が、実は学問自体“金”に操られる醜悪な殺人部隊の手先と変わっている現代社会を見るようで、これほど恐ろしいものはない。

さらに驚くべきことに、この家系図の中でナポレオンウェリントンは結びついている。こうなると、両者が戦火を交えたワーテルローの戦いとは何であったのか、という新たな疑問が湧き出してくる。この矛盾を追及していく中で、インド史に初めて光が差し込んだ。

ヨーロッパを征服した皇帝ナポレオンは八兄弟だったが、その末っ子の弟ジェローム・ボナパルトは放蕩男で、今日のドイツ西部で一地方の王国を与えられ、城主として君臨しながら不満ばかりを漏らしていた。そこに入り込んでいたある商人は、ナポレオンの侵入を知って逃げ出した以前のドイツ領主が莫大な財産を隠していることを知っていた。フランス軍はそれを発見したが、商人は現場で将校と取引きをおこない、財宝が入ったケースを四個、自宅に持ち帰り、地下室に隠してしまった。

この商人の名は、マイヤー・アムシェルロスチャイルド。ジェローム・ボナパルトは、ロスチャイルドの金にすがって放蕩を続けていたのである。

その一方でロスチャイルドは、ウェリントン将軍と密通して打倒ナポレオンを仕掛けるという策謀を巡らせていた。

ジェローム・ボナパルトの結婚した相手は、フランスドイツを新天地アメリカで結ぶ交易でポロ儲けした商人の娘であった。この女性の弟の妻を寝取った男が、後年のインド総督リチャード・ウェルズリーだった。ふたりは結婚前に既に五人の子供をこしらえていた。

これは登記所にも残されている公式な記録だが、非公式の記録によれば、ナポレオンを破ったウェリントン将軍フランスに進軍し、そこで女優マドモワゼル・ジョルジュと一夜を共にしたが、そのジョルジュが実はナポレオン情婦だった。

実は、無名のウェルズリーが総督としてインドに着任した当時、すでにこの兄弟はロスチャイルド家ときわめて親しい関係にあった。ウェルズリー兄弟は、ロスチャイルドによってイギリスで引き立てられ、ロスチャイルドによってインドへ送り込まれたのである。

この古い時代の物語に、現代史を重ね合わせてみていただきたい。

1989年に米軍が「ノリエガ将軍を捕える」と称してパナマに侵攻し、多くの市民が殺された。

翌年には米軍艦船コロンビア沖合に出動。いずれも麻薬の密輸を口実に内政に干渉した。

実はこのアメリカコロンビアによるパナマ争奪戦が始まったのは今世紀初頭の1903年のことであり、その時にも米軍パナマを確保するため、セルドア・ルーズベルト大統領の命令でコロンビアの沖合に海軍を出動させ、公式には「パナマの独立を達成させた」と美辞麗句が並べられた。

しかし、独立と同時にパナマ運河条約が結ばれ、アメリカの巨大な利権が約束されたのである。この直後に大統領候補となり、アメリカ海軍長官に就任したのが、ジェローム・ボナパルトの孫チャールズ・ボナパルトであった。

今日われわれが見ているのは、初代ロスチャイルドの時代にまかれた種が、百年後にも二百年後にも同じ花を咲かせるという侵略史である。それは大西洋を越えて、ヨーロッパの手で動かされるアメリカ合衆国の姿でもある。


往時のインドは世界の富の中心地で、タバコ、アヘン、キャラコ、茶、コーヒー、船舶、ダイヤなど、時代が求めたありとあらゆる商品を生み続け、ロンドンインド成金を作り出した。現代イギリス長者番付を調べて、先祖が南アインドに関係しなかった人物を見つけるのは至難の業である。

このインド成金を、イギリス国民はネイポップと呼んで馬鹿にしたが、ウェリントン公爵首相になり、その一族と結ばれたソールズベリ侯爵家の三代目も首相となっている。

今日もイギリス政界が組閣するときに、エリザベス女王首相ソールズベリー家の意向をうかがってから閣僚を決定しなければならないという現実をみれば、とても馬鹿にできるものではない。

ウェルズリー兄弟がロスチャイルド家の手先として全インドを支配した1805年から、インドが独立した1947年までのインド総督は全員で34名。それが全員“赤い盾”の紋章がゆらめく旗のもとに、一枚の家系図の中にまとまるのである。


現在のインド香港と同じように一握りの財閥がほとんどの産業を手中に収めている。なかでもタタ財閥とビルラ財閥が双璧をなす。

つい先年までは、タタ財閥が断然他を引き離し、軍事から政界まですべてをタタ一族が動かしてきた。

全世界を驚愕させたインド原爆実験も、インド原子力界を支配してきたタタ財閥の力によるものであった。

インド兵は、アヘン戦争ではイギリス人のために中国に斬り込み、ボーア戦争ではアフリカに襲いかかった。中印国境紛争の背景には、歴史の中でロスチャイルドによって仕組まれたこの憎悪がある。しかもインド人は、自らも傷つき、使い捨てられてきた。

アヘン戦争以後、サッスーンが支配するボンベイから台頭したのがタタ財閥である。つまりサッスーンの権益を受け継いだのがタタ財閥であり、今日では一族のナヴァル・タタがサッスーン商会の重役の座についてきた。

それまでの歴史を振り返ってみたい。1857年から59年にかけて、イギリス人への怒りがインド全土に広がり、“セポイの反乱”が勃発した。この反乱の土壌をつくったインド第12代総督ダルフージー侯爵は、シーク教徒と激しい戦闘を交えてパンジャブ地方を支配下におさめると、今度はビルマ南部に侵略を果たした。

この侯爵の本名はラムゼイといい、その一族が香港上海銀行とジャーディン・マセソンの歴史的な和解を果たしたケスウィック一族だったのである。この事実から、シーク教徒やビルマ人を虐殺した陰の張本人が、サッスーンとロスチャイルドだったことが明らかである。

インドベンガル政府が金に苦しんで中国アヘン戦争を仕掛けたとき、総監督官として中国の現地を指図していたのがチャールズ・エリオット。そのチャールズの伯父がインド総督であった。また、チャールズの従兄が海軍提督としてセポイを引き連れてアヘン戦争に駆けつけ、中国人を虐殺した。アヘン戦争の勝利後は、チャールズが実質的に香港の初代総督となり、さらに従兄の孫がインド総督の座を手にしていたのである。アヘン戦争についての歴史は、ロスチャイルド家の権益を中心に据えて書き直されるべきであろう。

この二つの例だけでなく、全34人全員にこのような重い歴史が隠されていることを知っておかれたい。


イギリス人からベンガル軍に対して新式のライフル銃が配備されたとき、ある兵士が奇妙なことに気がついた。口で噛み切って弾丸を銃口に装填する方式だったが、それに牛や豚の油が使われていたのである。

ヒンズー教徒にとって神聖な牛、イスラム教徒にとって不浄な豚、インド人にとってこれを口にしなければならない新式銃が、インド人を最後の感情に追い詰めていった。

1857年に口火を切った戦いは、血で血を洗う殺し合いがインド全土に展開する地獄図となり、飢えとコレラ、ナイフと銃剣、ありとあらゆる死が、軍人と市民とを問わず襲いかかった。

セポイの反乱は59年まで続いたが、イギリス火器と、インド人の内紛のため、結局は独立を勝ち取ることができずに制圧されてしまった。しかし、この戦乱によって東インド会社の看板は地に落ち、58年に会社は消滅したのである。

それからわずか11年後に、イギリス人経済支配に抵抗する形で、インド人のタタが紡績工場を設立し、新しいレジスタンスが始まったかに見えた。しかし、前述のように、タタ財閥はサッスーンの手の中にある。タタ財閥インド航空は、金塊の密輸入で有名であり、自動車関係ではドイツのダイムラー・ベンツが大株主となり、中核企業である製鉄もドイツのクレックナーに負うところが大きい。電機部門はイギリスゼネラル・エレクトリックカンパニーが大株主だ。

もう一つの雄ビルラ財閥は“独立の父”マハトマ・ガンジーらが組織したインド独立運動の母体に資金提供してきた。

ヒンドスタン自動車をはじめ、建設、繊維、木材、化学などを広範に支配し、商業会議所の会頭として君臨してきたビルラ一族。ところが、その中核となった繊維業はドイツのエンカ社と手を組んで発展してきたのだが、このエンカ社がネイサンの一族モンテフィオーレ家の系列会社であった。

農業を中心とする一次産業は、タバコ、お茶、コーヒー、砂糖などが、国際的な食品カルテルの中に呑み込まれて、当のインド農民の姿が見えない状態である。食品が貿易として成功するのは、輸送機関を握った場合だけである。

総合商社のインチケープ社は、つい先年まで会長だったオアが、リオ・チントジンクの重役であり、同時にユニリーヴァーの会長をつとめ、鉱物と農産物を一手に引き受けてきた。

見えざる手は今日も全インドに網をかけている。

赤い盾I

3 バーミューダー魔の三角海域

フィリピン独裁者マルコスの隠し財産がスイス銀行にあった、という報道に接しても誰ひとり驚かない。スイスが世界の大富豪の隠れ蓑であることは常識だからだろう。ところが、このように“常識”として定着することは恐ろしい結果を招く。本来は許しがたい大事件であるはずの現象が、歴史の中であまりにもたびたび繰り返されることによって、貧困の中に生死をさ迷う夥しい数の人間が放置されてゆくわけである。この一件に限らず、全世界の政治家に共通する金のスキャンダルが、いずれもその経過をたどり、常識として消されてきた。これは、われわれ自身の感覚が鈍くなっているからだ。

マルコスの場合、金塊を売って不当に得た利益を、そのままスイス銀行に預けていても面白くなかった。この男は大金を使って王侯のような生活にふけり、悪妻イメルダのためにニューヨークの豪華なビルの買収を思いつくと、バーンスタイン兄弟の仲介によって不動産を次々と手に入れた。ここまでがわれわれの“常識”の範囲に入る出来事だろう。では、その金をどのように動かしたか。実はこれが最大の問題でありながら野放しになっている地球トンネルである。

マルコスが大金を振り込んだのは、カリブ海にあるオランダアンティル諸島のさる会社だという。タックス・ヘイブンと呼ばれるこの一帯の島に入った富豪の大金は、バーミューダーの魔の三角海域に入った船のように、次々と消えてしまう。

北アメリカ大陸東海岸ニューヨークは昔、ニューアムステルダムと呼ばれていて、オランダ領だった。金融の中心地がアムステルダムからロンドンに移って、イングランド銀行が設立された時代は、アメリカでニューアムステルダムイギリスニューヨークとなった時代、アジアでは支配者がオランダ東インド会社からイギリス東インド会社に変わった時代、ヨーロッパではオランダから来たゴールドシュミット兄弟に続いてロスチャイルド家が台頭する直前、すべての力がオランダからイギリスへと移った時代になる。

ニューヨークから南下すると大富豪ヨットを浮かべるフロリダ半島マイアミ・ビーチに達する。ここはタックス・ヘイブンが目の前にある。

そこから左へ行くと黒人のディキシィランド・ジャズ発祥の地ニューオルリーンズがある。黒人と言えば奴隷南北戦争の前、1848年にフランスユダヤ投資銀行ラザール・フレールが、この土地で創業していた。

なぜ目ざといユダヤマーチャント・バンカーのラザール兄弟がこの地に目をつけたかと見れば、アメリカ中央部まで船で一直線に通じる貿易の要所が、ミシシッピー河の河口地帯ニューオルリーンズであった。オルリーンズはフランス語オルレアン地方を意味する。

ミシシッピー河を上流までたどるとマフィアが支配するセントルイスシカゴが見えてくる。現代では最大の穀倉地帯として知られる。

麦やトウモロコシが河を下ってニューオルリーンズから海外に送り出されてゆく流れを見れば、河口に陣取ったラザール・フレールが地球の穀物を動かしている可能性がある。農産物の“自由化”が全世界を揺るがす問題となっている現在、このマーチャント・バンカーの正体が大いに気になるところだ。

1848年、この地に開業したラザール・フレールは、投資銀行の宿命からニューヨークに進出することになったが、ここで彼らが手を組んだ相手は、ロスチャイルドではなかった。

当時ヨーロッパの五大投資銀行と呼ばれたのは、ロスチャイルドモルガンのほかに、セリグマン商会、それにユダヤ人のシュテルン(スターン)家とシュペヤー家であった。このうちシュテルン家は、サロモン・ロスチャイルドに嫁を出し一族になっている。

シュペヤー家だけがロスチャイルドと離れて、しかも同じフランクフルトを本拠地として活動していた。同じユダヤ人としては珍しい例である。18世紀までさかのぼると、驚いたことに、今日ではほとんど聞く機会さえないシュペヤー家が、ロスチャイルド家よりはるかに大金持ちで、当時フランクフルトユダヤ人として圧倒的な第一位を誇る富豪だった。

ラザール・フレールは、実はシュペヤー家と結婚してアメリカ進出を大掛かりに展開したのである。

1986年にウォール街投資家として最大の収入を得た人物が、ラザール・フレールの最高幹部マイケル・デヴィッド=ウェイルだった。わが国のアメリカ企業買収が話題になっているなら、そのかなりの部分を仕組んできたラザール・フレールを知らずに、日米経済摩擦の本質がわかるはずもない。ロックフェラー・センターの最上階にこの商会のオフィスがある、と言えば、なるほど世界の大企業が何を目論んで買収問題に火がついたかということも推測できるだろう。

さて、このマイケル・デヴィッド=ウェイルのルーツを辿っていくと曾祖父のアレクサンドル・ウェイルがラザール兄弟と血縁関係を結んでいた。ラザール家=シュペヤー家=ウェイル家が大合同して、もう一つのユダヤロスチャイルド家に立ち向かったかに見える。

ところで、ニューオルリーンズから更に左へ行けばメキシコがある。ここでイギリス人のピアソンが1908年に当時世界最大の油田をドス・ボカスに掘り当てた。1918年、ピアソンはロスチャイルドメキシコ石油利権を売り渡し、莫大な富を懐に入れた。ピアソンは、その大金を別なところに投資して、さらに大きな夢を描こうとした。ピアソンは、ラザール・フレールに自分の資金を投入し、資本の半分を握ってしまったのである。

フランスのジェームズ・ロスチャイルドは、ニューオルリーンズに支店を開き、ラザール・フレールの力によって南部の綿花を買い付け、両者は緊密な関係に入った。

こうしてロスチャイルドは、いつの間にか対抗勢力であったラザール・フレールとまんまと仲良くパートナーとなってしまった。ここまで話が進めば、あとはロスチャイルド家の18番、実生活でもベッドを共にするというしきたりが待っている。

ピアソンがラザール商会の経営権を握った1919年から四年後、新郎ジャン・デヴィッド=ウェイルと新婦アンヌ・グンツブルグの結婚式がおこなわれた。ロスチャイルド家とラザール家の血がつながった偉大なる儀式を持って、ロスチャイルド家は今日まで、ニューヨークパリのラザール・フレール、ロンドンのラザール・ブラザースを縦横に動かしてきた。

19世紀ヨーロッパの五大投資銀行は、こうして一つの力に糾合され、20世紀の金融戦争を演出することになった。


パナマに現われた出生不明のノリエガ将軍は、売春婦への暴行事件などを起こしながら、なぜか1968年には参謀本部の情報部長のポストに就き、税金などの機密情報を一手に握った。1989年に米軍がいきなりパナマへ侵攻し、ノリエガを捕えてみたが、この“知りすぎていた男”が余計なことを喋らずにいてくれればよいと全世界の富豪が脂汗を流しながら注目していたようである。

パナマは海運業にとって生命線の運河を持つ国、そして同時に、目の前には脱税天国の島々がカリブ海に浮かぶ。自ら法人税を免除する制度を持ち、香港日本の造船会社は多くが“船の国籍”をパナマに置くことによって巧みに会計帳簿をつけている。

このように船籍を売っているトンネル諸国は、ジャーディン・マセソン社、東インド会社と深い関係にある。

アヘン戦争の張本人ジャーディン・マセソン社は、なぜか本社を香港に構え、なぜか特別オフィスをバーミューダ島のハミルトン通りに登録している。アヘン戦争によって成長した会社が、今日の麻薬戦争と無関係だとは考えにくい。さらにロスチャイルド商会もバーミューダに支店を構えている。謎を解いてみよう。

ジャーディンの前身、東インド会社が西アフリカ奴隷海岸から大量の黒人を運び始めたのは17世紀だが、多くの奴隷船が向かったのは、このカリブ海域だった。

金とダイヤを求めたコロンブスは、1492年にアメリカ大陸に近づき、バハマ諸島とキューバハイチにまで達したが、そこで金を発見、ゴールドラッシュが起こった。そこで第二航海から原住民奴隷として使う残忍なコロンブスと変り、ドミニカジャマイカまで利権を広げると、第三航海では遂に南米に、第四航海ではパナマなど中米の一帯にまで至ったのである。コロンブスが蒔いた種は、実に500年後の今日も生き続けている。つまり密貿易船の出入り−奴隷制度−原産物の略奪−という大昔の話から何も変っていない。それが今日では、脱税貿易船の出入り−中南米諸国のアメリカイギリス軍隊出動−麻薬と農産物の独占的支配−となっているだけだ。

コロンブスの時代には、カリブ海ゴールドラッシュは長く続かず、次第に砂糖やタバコの生産に転じていった。

インド貿易がお茶とコーヒーヨーロッパにもたらすと、ロンドンの社交界はカップに砂糖を入れる味を覚えてしまい、中南米諸国の砂糖産業が一気に急成長を遂げることになった。それと同時に、アフリカ黒人奴隷の交易が著しい勢いを持ってきた。その主導的役割を果たしたのが『ロビンソン・クルーソー漂流記』の著者ダニエル・デフォーであった。

デフォーは、自ら東インド会社に対抗する貿易会社「南海会社」を設立し、大々的な奴隷貿易をおこなった。すでにイングランド銀行も誕生し、株券の売買がロイズなどで取り扱われる投機の時代でもあった。人々は南海会社の株を買おうと血眼になり、やがてこれは有名な南海泡沫事件に発展する。あっという間に、イギリス国民の莫大な財宝を呑み込んだ南海会社が倒産してしまったのである。

カリブ海には、砂糖やタバコの栽培をおこなうユダヤ人がかなり移り住み、アフリカにおける金銀ダイヤの世界とまったく同じメカニズムによって、キリスト教徒ユダヤ教徒−有色人種という階級の中で、ユダヤ人が現地の実作業をほとんど握る形となった。彼らもまた、ヨーロッパでの迫害を逃れてきたのである。

マルコスが密かに利用したオランダアンティル諸島の首都キュラソーは、年間四千人という奴隷を売買した悪名高い一大奴隷市場だった。現在でも住民の八割が17世紀から18世紀にかけて“輸入された”奴隷の子孫である。キュラソーには欧米の大企業がズラリと看板を並べ、オランダの総督が支配を続けている。

1915年、第一次世界大戦の最中、ロスチャイルド南米の利権を狙ってキュラソーに巨大な石油の精製工場を設立した。以来、カリブ海の船はキュラソーに立ち寄ることが慣例となって、今日では観光の島として異常なほどの人気を集めている。たとえば1990年ロスチャイルドの観光会社「地中海クラブ」が世界最大の帆船式豪華客船を就航させたが、船が目指した目的地は奇しくもアンティル諸島だった。

キュラソー財団の理事はフランス人のエリー・ロスチャイルドである。

石油バナナも砂糖もタバコも、みな欧米の不在地主が泥棒同然にかっさらってきたというのが、このカリブ海の実情であった。

海運業者にとって最大の利益を生むもの、それは石油と穀物である。

ラザール・フレールがニューオルリーンズに開業したというだけで、世界の穀物輸出の六割を占めるアメリカの小麦、大麦とうもろこし大豆の大量の収穫物をロスチャイルド家がおさえられるとは思えない。

アメリカの穀物を扱う商社は五つしかないと言われる。カーギル、コンティネンタル・グレイン、ブンゲ、ドレフェス、アンドレ、この五大穀物商社が九割近くを動かしているからだ。人間にとって最も重要な主食であるというのに、五社の事業内容は完全に秘密に保たれている。株式が非公開で、いずれも同族会社だからである。

このうちコンティネンタル・グレイン、ブンゲ、ドレフェスはユダヤ系として知られている。その三社を支配する家族を調べてみると次のようであった。

ブンゲ社は、オランダアンティル諸島のキュラソーにあるロス・アンデスという持株会社が、ブンゲのすべての株を握っている。

オランダからベルギーに移り、さらに南米にやってきたユダヤ系のブンゲ一族は、南米一の穀倉地帯になろうとするアルゼンチンで穀物を買占め、莫大な利益を手にし始めた。ここでパートナーとして手を組んだのが、ベルギー出身のボルンであった。

ブンゲとボルンが困ったのは、穀物を国際的に取引きする時で、いざ多額の金を動かすとなると、それほど容易ではないということを思い知らされた。どこへ行っても貿易と金融の支配者が目を光らせ、大々的な穀物取引きは不可能だった。しかし“ユダヤの王”に頼むという手が残されていた。

実はアルゼンチン鉄道に対して1888年から密かに大掛かりな投資をしてきたのが、ロスチャイルド家であった。ブンゲは1927年ドイツからアルフレード・ヒルシュを迎え、やがて会社をアルゼンチン最大の企業としたのである。

ヒルシュ家はドイツ金融業者として知られている以上に、新天地アメリカへのユダヤ人移民に莫大な金を注ぎ込んだヒルシュ男爵として、大陸では多くの人に知られている。また、ロシアに住むユダヤ人南米に何千人も移住させ、穀倉地帯アルゼンチン農業植民者を育てもした。

ヒルシュ男爵は、16世紀に起源を持つドイツのゴールドシュミット家が金融商会に育てあげたパートナーの一人であり、ヨーロッパ全土に君臨する鉄道王の一人であった。北米大陸をジェイコブ・シフ、南米大陸をヒルシュが主に担当する形で、両人が手を組み、鉄道建設に最大の貢献をしながらロスチャイルド家に産物を届けてきた。

コンティネンタル・グレイン社は、世界一位のカーギルに次ぐ第二位の輸出量を誇っている。

この巨大会社の株を九割握っているのがマイケル・フライバーグ一族。ヨーロッパではミシェル・フリブールとして知られるこの人物は、ブンゲと同じくベルギーからやってきたがユダヤ人だが、ヨーロッパ中の資料を集めても、この家族についての体系的な記録は見つからない。

しかし、ベルギーブリュッセルに、EUNATOの本部が置かれ、つまり経済と軍事の中枢がベルギーにあり、ベルギー金融機関をすべて支配してきたのがロスチャイルド家であるということを思えば、ただのユダヤ人ではないだろう。

ジュールとルネのフリブール兄弟は、第一次大戦の直前にベルギーからロンドンに移り、さらにパリに出て次々と店を開いた。彼らが狙った穀物はトウモロコシで、当時世界最大規模の生産量を誇ったのが、なんとルーマニアだった。

ルーマニアの物語は次のようなものであった。

アゼルバイジャン首都バクーは、19世紀末に世界最大の産油量を誇る油田が発見され、ダイナマイトノーベル兄弟と手を組んだロスチャイルドが、この採掘権を手に入れた。

ヒルシュ男爵が貧しいユダヤ移民救世主となることができたのは、この地方からトルコへの鉄道を建設し、その輸送力によってバクー油田の莫大な利益を手にしたからであった。

ロスチャイルドがそのとき大きな石油会社を建設したのが、バクーから西ヨーロッパへの経路にあたるルーマニアであった。

やがてルーマニアは、自らもモルダヴィア地方に巨大油田と天然ガスを掘り当て、ドナウ川沿いの肥沃なワラキア地方の穀物と、トランシルヴァニア地方の金銀ウランなどの鉱物資源に恵まれ、東ヨーロッパ随一の資源国となっていった。

その豊かな資源を誰かが奪わなければ、ルーマニア国民がパン屑を求めてゴミ箱をあさるという1989年に見た悲劇は決しておこらなかったはずである。

犯人は果たして独裁者チャウシェスクだけだったのだろうか。チャウシェスクスイスに莫大な資産を隠していた。その手引きをした者が、マルコスの場合と同じく真犯人になる。

穀物商人フリブールは、このルーマニア油田投資するようロスチャイルド一族に奨められ、ここから本格的に“赤い盾”の傘下に組み込まれた。

しかもこの時期に、アメリカ大陸に進出しようと考えたフリブール兄弟が手を借りた人物こそ、ジャンとアルフレッドのゴールドシュミット兄弟であった。そのアルフレッドの息子ミッシェル・ゴールドシュミットは、GATTの国際会議で、日本へのコメの自由化を迫った政治家の裏にいた人物で、コンティネンタル・グレイン社の実力者であった。

事業が国際的に広がったため、フリブールが次に力を借りなければならなかったのが、穀物を運ぶ船の手配だった。ロスチャイルドに相談するとイスラエルのレカナティ一族を紹介された。

デビアスを動かすエドモン・ロスチャイルドは、イスラエルディスコン銀行のレカナティ会長ときわめて親しかった。イスラエル経済制裁を受ける南アのダイヤを全世界に運び出すトンネルであり、その運び屋をレカナティ一族がつとめてきたからである。

現代では、テルアビブバークレーズ・ディスコン銀行を開き、「ダイヤと金の取引きは、わが銀行にお任せ下さい」という生々しい宣伝をしている。このバークレーズ・ディスコン銀行の株を50%保有するのがロンドンバークレー銀行で、すなわちリオ・チントジンクの傘下に入るというメカニズムである。エドモン・ロスチャイルド男爵は、この銀行イスラエル系列会社のそちこちで重役室に坐っていた。

ドレフェス社の一族の姓は、正しくはルイ=ドレフェス。

ルーマニアの王制が確立したのは1866年だが、1914年にフェルディナンド一世が王位に就くと、イギリス王室からエジンバラ公の娘マリー・アレクサンドラ・ヴィクトリアを妻に迎えた。ロンドンバッキンガム宮殿ロスチャイルド家の金に頼って生きていたので、否応なくルーマニア王室もロスチャイルド一族と親しくなり、前述のようにロスチャイルド鉄道石油の事業で利権を獲得できた。この先代のカロル一世の時代から王室に取り入り、ルーマニアの穀物をほとんど独占してきたのが、ルイ=ドレフェス家であった。

しかし結局、ルイ=ドレフェスもアルゼンチン進出した際、ヒルシュ男爵の手を借りなければならなかった。そしてアメリカの穀倉地帯に本格的に進出を果たしたあと、1974年にルイ=ドレフェスが会長に迎えたのは、ナサニエル・サミュエルズであった。

サミュエルズ会長は、クーンローブ商会で顧問会議のトップにいた男で、アメリカン・エクスプレス社(通称アメックス)でもNo.1のポストにあった。

アメリカン・エクスプレスは、金融と旅行の専門会社だが、その国際的なビジネスの広さは世界一だろう。この銀行は名前が示す通り輸送会社としてスタートしたが、やがて金塊などの輸送から自ら金融業者となり、モルガン財閥の重要な機関として全米に君臨してきた。

ところがアメリカを離れた海外での投資や金融は、子会社アメリカン・エクスプレス銀行クーンローブ商会、リーマンブラザースが中核となってやってきた。

後者の二つは、すでにロスチャイルド一族の持ち物であることは知っているが、アメリカン・エクスプレス銀行は、サミュエルズが穀物商社に移った1974年までロスチャイルド・インターコンティネンタル銀行の看板を掲げていた。重役はフランス家の当主ギイ・ロスチャイルド男爵である。

国務長官を退任したキッシンジャーに金を与えていたのがアメリカン・エクスプレスであった。したがって最近のキッシンジャーに首輪をつけてきたのが、ロスチャイルド銀行であったことがわかる。

香港にパトリック・マクドゥーガルという男がいる。スタンダード・チャータード・マーチャント銀行のNo.1だが、彼はケニアの学校を出たあとオックスフォードを経て、1967年からロンドンロスチャイルド銀行の支配人となった。次いで70年からアメリカン・エクスプレス銀行の重役となり、77年には最高経営責任者、78年からは香港のジャーディン・マセソンに移って最高幹部の座についた。そのジャーディンが魔の三角海域に農産物の子会社を構えている。この男の履歴だけで、アフリカロンドンアメリカ香港、バーミューダがつながり、金と商品の流れが目に浮かぶ。

五大穀物商社のうちロスチャイルドの三社を除くと、アンドレ社はスイスの会社なので最初からトンネルは必要ない。

ガーギルは世界最大のアメリカ商社だが、子会社パナマに設立し、その株の50%をスイス銀行に売却した。

ニューオルリーンズの穀物積み出し港からパナマタックス・ヘイブンに渡り、最終的に利益はスイスに運ばれるルートが完成している。

カリブ海トンネルを調べるのに穀物商社を代表例として選んだのは、農産物という共通項から、お茶、コーヒータバコ、酒、さらに麻薬まで一気に見渡すことができるからである。

この全体を動かすのが、船である。


現代の深刻な社会問題となっているコカインの源を探ってみたい。ボリビアからペルーコロンビアに通じる麻薬天国は次のようにして誕生した。

ボリビアは、コカインの原料となるコカの栽培が合法化され、農民は黙々と麻薬の製造に従事してきた。黙々と?実はそうではない。

革命エルネストチェ・ゲバラが反政府ゲリラとして最後に活動し、CIAの手に落ちて殺された国ボリビア。この土地の支配者は、かつてシモン・パティーニョという男だった。パティーニョは今世紀初頭から、一大鉱山帝国を作り上げ、ボリビア最大の銀行を設立した世界屈指の大富豪であった。

パティーニョがボリビアの鉱山王となった背景は定かではないが、1932年には自ら軍隊を組織して隣国パラグアイに侵入し、チャコと呼ばれる秘境地帯を奪い取ろうと戦争を仕掛けたのだから、その悪どさはインド総督並みであった。このチャコ戦争は、死者が一説には10万人、一説には100万人とも記されている残虐なものであった。

パティーニョの名がウォール街まで届きはじめた1907年、鉱山王グッゲンハイムから鉱山を買い取る話が持ちかけられ、鉱山利権の49%を売却した。それからのパティーニョは、ヨーロッパ社交界に乗り込んで贅の限りをつくし、チャウシェスクマルコス、ノエリガなど足元にも及ばない独裁的な経済支配を続け、放蕩に明け暮れた。

二代目のセニョール・ドン・アンテノール・パティーニョはスペイン王室の一族から妻を貰い、ボリビア大使としてロンドンに駐在した。

1952年ボリビアの鉱山で労働者の不満が爆発し、これが革命となって遂にパティーニョの鉱山は国有化されてしまった。

ボリビアは1825年に独立して以来、およそ200回ものクーデターがあった国である。二世紀に渡りボリビアを混乱させてきたのは、輸出の大部分を占める鉱山の利権であった。その混乱による経済的な疲弊が、農民にコカを栽培させるまでの窮地に追いやってきた。

鉱山が国有化されても、実はパティーニョ鉱山の経営者は二代目のアンテノール・パティーニョに変わりなかった。その娘のイザベルがJ・ゴールドスミスと駆け落ちの末に結婚。こうしてボリビア経済ロスチャイルド家の手に直接握られた。今日のコカイン経済の正体がここにある。


奴隷の密貿易の中心地であったキューバのすぐ南にイギリス領のケイマン諸島がある。

このケイマン諸島の小綺麗なビルに入ってみると、ニューヨークロンドンの有名な銀行が、ほとんどここにある。

ところがそれはいずれも名ばかりで、総督に管理された小さなネームプレートがかかっているだけだ。

日本銀行が全世界のランキングで上位を占めたと言っても、アメリカヨーロッパ銀行家はケイマン特急スイスに金塊を蓄えているのだから比較にならない。表の帳簿と裏の帳簿を混同しないほうが賢明だろう。

大事なことは、ケイマン諸島のようなトンネル会社やペーパーカンパニー、巨大銀行のネームプレートが山のようにあって、密かにそれを管理している一族がいるという点にある。

ケイマン諸島は金融界の一大機密センターである。わが国の国家予算に相当するほどの金が、この小さな島の銀行群に隠され、行政命令によって一切の帳簿内容を外に漏らしてはならない、という厳密な法律が制定されている。

ケイマン諸島には、銀行が500以上も数えられるが、これがみな世界の投機市場を動かしてきた。

ケイマン島での脱税事件は、イギリスの国家ぐるみの犯罪である。

それが特定の一族にだけ許され、すべてがロスチャイルドの掌の上でおこなわれていることになる。


ICI(大英帝国化学工業)は、多国籍企業を除けばイギリス最大の企業で、これから東ヨーロッパ社会の自由化を進めるなかで中心的な役割を果たすだろうと言われている。

今世紀初頭のイギリスは世界一の国家で、19世紀から目覚しい発展を見せていた化学工業が大きく産業全体を支配し始めた。

ドイツ生まれのユダヤ人ルートヴィッヒ・モンドは、酢酸、アンモニア硫黄といった基本的なものを製造、回収する技術を開発し、やがて世界に冠たるソルヴェイ法を確立して、この世で最大のアルカリメーカー「モンド社」を設立した。エルネスト・ソルヴェイが食塩・アンモニア炭酸ガスという人体の三大要素を使って生み出したソーダの製造法は、ソーダ水やパンを焼く時の膨らし粉“重曹”をつくり出した。これを実用化したのがモンドで、さらに彼は鉱石からニッケルを抽出する方法も発明し、この技術によってカナダにモンド・ニッケル社を設立。のちにこれが世界最大のニッケル会社としてCIA長官ダレスの兄弟やロックフェラーたちが重役室に暗躍し、ウランと結ぶカルテルを誕生させるのである。その会社は、現在はただINCO(インコ)と呼ばれているが、インターナショナルニッケル社の略称である。

二代目のアルフレッド・モンドは無煙炭の利権を買占め、そのほとんどの炭田を糾合すると自分の傘下に収めてしまった。これで鉄鋼産業の溶鉱炉も支配することになった。

ヒットラーが台頭しファシズムヨーロッパ全土に広がりつつあった1925年ドイツに世界最大の化学トラストIGファルベンが誕生した。

モンドは、ユダヤ人でありながら、後年アウシュビッツを経営することになるIGファルベンに合併を申し入れるという行動をとった。

しかし、モンドは断られてしまい、そこへバクー油田ロスチャイルドと手を組んだノーベルが大合同を申し入れた。ここにノーベルとモンド、さらに二社を加えて四社合併、ICIが誕生した。

ICI初代会長のアルフレッド・モンドの兄ロバートは、グッゲンハイム一族の寡婦と結婚した。アルフレッドの娘とインド総督ルーファス・アイザックの息子も結婚している。

IGファルベンとICI、当時のヨーロッパを二分する超マンモス企業の誕生と対立が、第二次世界大戦の大きな誘因となった。

ロシア革命が起こってもクレムリンの新しい指導者たちはロスチャイルドの資本を手離さなかった。革命後のソ連は、共産主義になっても、産業を動かす富豪と商人には手をつけず、それを利用してきた。外貨獲得と貿易のためである。

今日まで、国有化されたバクー油田が生み出した石油化学産業は、国有化前と同じファミリーが支配するICIの技術に委ねられてきたのである。帝政ロシアのツァーに大金を貸し付けてきたのが、ジェームズの祖父アドルフをはじめとするロスチャイルド一族であった。そして今日、1990年アゼルバイジャンアルメニアの紛争によって東ヨーロッパの産業が麻痺しかかったのは、バクー精油所が動かなくなったからであるが、その共産主義国の生命を握ってきたのが、今日でも資本主義の王様ロスチャイルドである。

この同じメカニズムが、ソ連に次ぐヨーロッパ第二の産油国ルーマニアにも脈々と生き続けてきた。チャウシェスク独裁を知りながら支えてきたのが、これも“赤い盾”であった。一方では石油を扱い、もう一方では独裁者の宮殿を飾り立てる金銀ダイヤを扱ってきた。

収入と脱税について最後の詰めに入ろう。

ジェームズ・ゴールドスミスは一連の買収によって天文学的な金を手にした。税率の高いヨーロッパで、それを自分のものにするには一度カリブ海に飛ばす必要があるのだ。

ジェームズはトンネル会社を三つ持っている。その一つはパリにあるジェネラル・オクシデンタル(西方会社)。西方会社の重役陣には、ジャック=アンリ=グーゲンエイム(グッゲンハイムの仏語読み)、ダヴィッドロスチャイルド(ギイの息子でフランス家の当主。現在の“地球の王者”)、ジルベルト・ボー(セリグマン銀行重役。パティーニョ社重役)の三人の大物がいる。

もう一つが香港にあるジェネラル・オリエンタル(東方会社)。最後の一つがパナマにあるリド社である。

ジェームズはまず利益をパリの西方会社に振り込む。ここを支配しているのが、持株会社トロカデロ社で、大株主はラザール・フレールで、ラザールに対してはロスチャイルドが支配力を持つ。トロカデロの大株主があと二つあり、一つはジェームズ本人が30%、残りの一つが東方会社で、これも30%を握っている。

東方会社は、ジェームズ本人が社長で、この会社の大部分の株をリド社が所有している。

リド社の大株主は二つあり、一つはジェームズ本人で40%、残りの60%をリヒテンシュタインのブルネリア財団が持っている。リヒテンシュタイン銀行王国スイス使い走りをする王国で、ブルネリア財団のオーナーは、ジェームズ本人である。

要するに、フランスの西方会社に流れ込んだ莫大な利益は、まず最初にダヴィッドロスチャイルド、ジャック=アンリ=グッゲンハイム、ジェームズ・ゴールドスミスたちが分け合った後、フランスのトロカデロに流れ、世話になったラザール・フレールに分け前を与えて、東方会社でアジアの金に生まれ変り、念には念を入れてパナマのリド社に引き渡されるとマフィアの世界に入ってしまい、パティーニョ財閥が金の流れの痕跡を跡形もなく消してしまう。最後にリヒテンシュタインのブルネリア財団に運ばれて、ヨーロッパで新しい金として甦り、スイスの大銀行の秘密金庫に保管されるのである。ここではゴールドスミスの物語りを述べたが、全世界の独裁者たちは同じような手口によって脱税と資金隠しをおこなってきた。このバーミューダ海域全体を支配する者が、“全世界の富豪と大富豪”の財産を管理してきた黒幕である。1899年、バーミューダのイギリス利権を守るため、当時争っていたアメリカと激しい交渉を重ねたのが、キャヴェンディッシュ・ボイルであった。このボイルの妻はルイーズ・サッスーン。アヘン王デヴィッド・サッスーンの孫娘である。ロスチャイルド家に断りなく、バーミューダ・トライアングルに財産を隠せる富豪はいないであろう。





(私論.私見)