第2章、ユダヤと世界戦争その1

 (れんだいこのショートメッセージ)
 愛宕北山氏は章を改め、「ユダヤ主義による世界戦争の実態」の解析に向う。当時の情勢分析をそのままに伝えており、そういう意味でも貴重な実録である。

 2006.1.17日 れんだいこ拝


 U ユダヤと世界戦争
 本第二部は、ユダヤの人類殲滅戦としての世界戦争を今次の世界戦争を中心として検討したものである。従ってそれはその世界戦争の一部としての支那事変に関する論稿をも含み、全体としては時日の古いものより後に配列されている。時局の進展にも拘らず、これらの諸篇に一貫するものが現在にもなお妥当することを筆者は確信している。これらの諸篇によって総力戦の本家がユダヤであり、而してそれがその四千年の歴史の当初から実行されて来ていることを、我々は自覚し得るであらう。最後の小篇も今後の我々に何ものかを示唆すると思われるので採録した。

 一、ユダヤの人間還元
 ・ユダヤ問題研究根本原則十箇条・・
第一条  ユダヤ人は有史以来、少くとも旧約聖書とタルムード以来、かの著名な選民思想に生きている。そしてその内容は、エホバの命に依る世界征服の信仰と、同じくエホバの命による非ユダヤ人動物視とを根本としている。それ故にユダヤ人にとっては、その世界支配に役立つ限りに於ては、動物としての非ユダヤ人を強圧し、殺戮し、掠奪し、搾取することは神命であり、また嘘言と詐欺と詭弁も神命である。ユダヤの本質として世界周知の「底知れぬ憎悪」がまた神命に基づくことも自明である。またユダヤ人が非ユダヤ人に対して何らかの「責任」を持たないのも同じ理由によるのである。然してこれらの神命に背く時、ユダヤ人自身がエホバのために殺戮され、殲減されることになっている。
第二条  ユダヤ人が拜金主義に於て天下無敵であることは周知であるが、往々、ユダヤ人が「知力」に於ても偉大であるとされることがある。しかしユダヤ人のこれら二方面に於ける偉大さが、いわゆるマイナスの偉大さであり、破壞に於ける偉大さであり、悪魔的な偉大さであることは、第一条を想起する時、直ちに理解される。

 「金儲けが上手」ではなく、「詐欺が巧み」なのであり、「頭がよい」のではなく、「嘘がうまい」のである。旧約聖書及びタルムード以来、同一事を四十幾種かづつに肯定もし否定もすることを訓練されて来ているのであり、しかもそれをエホバの神命として行って来ているのであるから、以上の偉大さは当然であらう。赤色帝国主義理論、桃色法学乃至社会学理論、黒色哲学理論等のあらゆる国境抹殺主義と、世界の金の7割乃至8割の集積とは、同じ本質の二つの方向への発展にすぎない。
第三条  従って非ユダヤ人にとっては、反ユ主義は単に正当なる自己防衞であるにすぎない。而してもしその反ユ主義が、世界十幾億の非ユダヤ人を暴圧と殺戮と掠奪と搾取から救い出し、嘘言と詐欺と詭弁とから守る意味を有し得る場合には、それは全く人道的である。世界の言論通信機関を独占するユダヤの宣伝に躍らされて、反ユ主義は少数民族の排斥であるとオウム返しに言う如きは、冷靜なる批判力のある非ユダヤ人のなすべきことではない。古今東西、ユダヤ人の集る所に必ず排ユ現象の生起することを正視せよ。

 あらゆる場合にユダヤ人のみを正当なりとする立場は、世界支配を目標とするユダヤ人自身のそれとしては意義あるものであろうが、非ユダヤ人の立場としてはこれ以上に無批判にしてまた屈辱的なものはあり得ないのである。非ユダヤ人みづから自己を獸類なりとし、ユダヤの世界支配に協力することによって人間ユダヤ人の仲間となることを光栄と感ずるのでない限り、かかる宣伝に盲目的に躍って、いわゆる人爲的ユダヤ人の仲間入りをしてはならぬ。
第四条  ユダヤの金力と知力とを見て、或る者はそれを恐れ、或る者はそれを利用せよと主張する。しかしこれは二つながらにユダヤの本質を認識せざる所より来るのである。恐怖することは、迎合の場合と同じく、ユダヤを増長せしめる以外に何の效もないことは歴史の証するところであって、いわゆる『人情』などという如きは、この憎悪の民には薬にしたくもないのである。情をかける事によって改悛せしめ得るなどというが如きは甘き感傷に捉われてはいけない。況んやそれを利用しようというに至っては、全く言語同断である。これは単にユダヤ人がそれ程に甘からずまた頭もそれ程に悪くはないという為ではなくて、それが実に盜金と贓品との利用又は分配を求むる事に外ならないからである。世界に実例がしばしばある如くに、黄金と鉄と石油とに目が眩んで、かかる恥辱に甘んじ、操を売ってはならない。殊に迎合し共謀する事によって自己の利益を図ろうとする如きは、ユダヤ人以下に墮せるものと言われても、弁明の余地はないであろう。
第五条  ユダヤ人利用は殺人者乃至盜人との協力であるが、反対にユダヤ人によって利用されることもまた身を彼と同列に置くことになるのである。特に注意すべきことは、前条の利用説が多くの場合に、卑賎なる拜金宗乃至唯物論者に見られるのに反して、これは善良なる非ユダヤ人に多く見られる現象であるということである。このうち最も恐るべき場合は、ユダヤの世界攻略の是も巧妙なる手段としての内面的侵寇である。英帝国に於て為したように、征服せんとする国の主権者とユダヤとが同祖同種族なりとする遣り方と、アメリカ合衆国の場合に於て為しつつあるように、攻略せんとする国を自由と正義との国なりとして賞讚する遣り方とは、この場合の最も代表的なものである。そして前の場合には、多くは愛国主義を装う者又は国粹主義を自負する無批判者流を利用し、それによって目標国の上層部と愛国陣営とを無意識的なるユダヤの援兵と為そうとする。次に後の場合は、現代に於ては殆ど世界的に最も時代後れであり、最も無批判的である所のいわゆるインテリ層に働きかけることによって、彼らを無批判なるユダヤの傭兵としようとするのである。
第六条  戦争と革命とを欲しないならば、殊にユダヤの世界制霸に役立つ以外の意味なきそれらを避けんと欲するならは、万国の非ユダヤ人よ団結せよ。しかしてユダヤの本質を明らかにし、その策謀を暴露せよ。そして単に黄金帝国主義のみならず、トロツキーの第四インター等に至るまでの総ての国際主義が、意識すると否とに拘らず、直接又は間接に、ユダヤの世界征服の機関であることを確認せよ。あらゆる平和団体、社交団体にして、奇怪なる国際的伝播力を有するものもまた然ることを確認せよ。

 フリ−メイソン祕密結社(主として主権者の側近・外務・政党・軍部を目標とする)乃至ロータリー・インターナショナル(主として財界・学界・司法部を狙い、フリ−メイソン結社の禁止されている国に於てはその代理を勤める)よりオックスフォード・グループ・ムーヴメント(主として宗教界に食い入らうとする)に至るまで、その本質が上述のものなることを知れ。而してそれらの会員は、かなりに上級の者にあっても、特にその会員が国家又は社会に於て上層部に属する者である場合には、結社の真の祕密に何ら関与させられていないことを銘記せよ。この謀略の場合にこそ、ユダヤ人の偉大さを認識すべきである。また、あらゆる流派のキリスト教徒もまた、ルターの誤訳を未訂正のままに盲信してエホバを「神」乃至「宇宙神」なりと信ずる限りに於ては、上記の結社の会員達と同じく、いわゆる「人爲的ユダヤ人」である。
第七条  ユダヤ問題は結局思想問題である。従ってそれは、自由主義に「自由」ありなどという考え方をする無批判者や、自由主義の発展が赤色帝国主義であることを認識し得ぬ程度の樂天主義者には、その存在さえも理解し得られぬ難問題である。それ故に、彼らがそれを否定し、それに反対することそのことが、既にこの問題の真実性と重要性とを証明する。あらゆる合理主義者、相対主義者、唯物主義者、利己主義者にとっても、それはその理解を超える。彼らすべてに取っては、この問題を理解することは、否、単にそれの存在を認めることその事だけが、既に彼等の存在を根柢まで搖がせるのである。その理由は、彼らの大部分は、何等かの意味に於て、前条の「人爲的ユダヤ人」であるか、あるいはそれに近似する思想史上の位置を占めているからである。
第八条  ユダヤの本質と歴史に通じない人は、以上の諸箇條に於けるユダヤ批判に対して、ユダヤ人と雖も全部がかかる世界支配欲に生きているのではなく、従ってユダヤ人全部をかように批判するのは不当である、と主張するのが常である。しかしこれは、軍隊に於て全兵員が統帥本部の計画の詳細に通じていないが故にその兵員は戦闘員ではないとするのと同一の論法であって、旧約全書とタルムードがユダヤ法師によってユダヤ教会に於てユダヤ民衆に講ぜられている限りは、たとえ指導的地位にあるユダヤ人の場合のようではないとしても、なお、各ユダヤ人には「本能的に」以上の諸箇條に記述された傾向が存するのである。これは全日本人(時局便乘の僞裝的転向者をも含めての赤色人のみは例外とした方が適当であるかも知れない)が、「本能的」に忠君愛国の精神を持つのと正に同樣である。
第九条  然らばユダヤ人は人間に非ずして、動物であるか。非ユダヤ人としての吾人の立場より言えば、ユダヤ人と雖も動物ではなく、人間であって、この点に於ては吾人の立場はユダヤ人のそれと対蹠的である。それ故に吾人は、この人非人種族もまた何時かはその本来の「人間」としての資格を回復することを信ぜんとする者である。但し、このユダヤの「人間」への還元は、次の如き諸条件が完全に実現するまでは絶対に不可能である。
 旧約聖書を根本的に改〓サクし、タルムードの大部分を燒却し、エホバ信仰を棄て、ユダヤ法師職を廢し、ユダヤ教会堂を破棄し、加えて割礼を廃止すること。
 少なくとも四分の一ユダヤ人に至るまでの全ユダヤ人が同一場所に集って国家を形成すること。
 而してその世界征服の悪夢に生きた幾千年間と同一の年数が経過すること。
第十条  日本とユダヤとの間には、その本質に於て、その歴史に於て、その性格に於て、その道義に於て、その人間性と人倫とのあらゆる点に於て、百八十度、否、三百六十度の差がある。即ち存在の次元が全く異なるのである。それ故に、日本的原理が世界的に認識されるまでは、ユダヤ人の世界征服の欲望は断絶されることはなく、従ってまた世界に真の平和と正義とはないであろう。しかもその日の以前に於て、日本とユダヤとの正面衝突は必然の運命であると考えられる。

 
非ユダヤ人とユダヤ人との戦いの序幕戦である今次欧州大戦に続くものは、如何なる形式となるかは別として、不可避的に日本とユダヤとの戦いである。而して真にユダヤ問題を解決し、全人類を「悪」の手より解放し得るものは、八絋爲宇の精神を奉ずる日本以外にはないのである。しかもその八絋爲宇の精神とは、糞味噌一視的悪平等人道主義ではなく、前世紀的空想たるユダヤ人東洋人説の如き安価なる感傷ではなく、何らの根拠なきユダヤ教盲信者の日ユ同祖説の如きお目出たき神話ではなくて、まつろはざる者は之を討ち平らげるところのものでなくてはならぬ。而してその後に於てのみユダヤ其者も「人間」に還元され得る秋が来るであらう。ユダヤのお先棒として「世界戦争」を目指す「人爲的ユダヤ人」の群であるフリ−メイソン結社支配下の重慶政府を討つことが聖戰であるならば、その本拠を覆滅することがより大にしてより崇高なる聖戦であることは、論証の要のないことであろう。(16・5)

 二、大東亞戦勃発後の世界情勢
 
 某閣僚は先般の中央協力会議に於て、米英は今年中(昭和17年)を期して反撃に出でんとする気配を示していると説き、またその後の閣議に於ては、米国最近の中間選挙の結果としてルーズヴェルト政権の地盤に搖ぎを生ずることはないと述べたが、前の発言は今年も11月に入った今としては既に多少の見当外れの感を與えぬでもないが、緒戦の勝利の爲にややもすれば弛緩し勝ちな人心を引緊めるためには、かかる発言も必要であったと考えられるし、殊にソロモン海戦以後の南方の状況をも考慮する時には、それはあながち見当外れとも言い得ない事情もあったのであろう。

 これに反してその第二の発言は全く肯綮に中ったものであって、ユダヤ宣伝機関の一つであるギャラップ輿論研究所の宣伝調査の発表に一喜一憂することの愚を知っている者には、その輿論調査なるものが伝える所が如何であろうとも、某閣僚の指摘する如き事情の生ずることは前以って予想されたのである。それ故に、もしその報告に「予想通りに」という如き言明があってならば、そのユダヤ祕密力に及ぼす威力は誠に大なるものがあったと想像せられる。

 
ルーズヴェルト三選の時のギャラップ輿論研究所を先頭とするユダヤ機関の巧妙な掛引に一喜一憂せしめられた愚かな経験にも懲りずに、今なおこの方向より伝えられる報道をそのまま伝えるわが国報道機関の無批判性にも驚かざるを得ないが、しかし思想戦の掛け声の喧しいにも拘らず、責任ある指導的地位の者が今なお適宜の時に敵の急所を突くことを忘れているかの如くに見えるのは、その理由が奈辺にあるかは知る由もないとしても、とにかく大東亞戦完遂途上の我が国の前途になお相当大なる難関が世人の想像だにもせざる方面に潛在しおることを感ぜしめないではおかぬのである。吾人のしばしば説き来った如くに、みづから戦線に出る勇気はなくまた現在では最早その必要をも認めない・・古来もまた然りであったが・・ユダヤは、世界に張り巡らしたる通信社宣伝機関を用いて自己の支配下にある連合国は勿論のこと、中立国のみならず敵性国をも巧みに自己の影響下に置く手段を心得えているからである。

 しかし、時代の怪奇性はいよいよ複雜となって来て、昨今わが国の報道機関さえ外電記事のうちにしばしばユダヤの名を見せることがあるが、それすらも却ってユダヤ方面の策謀の結果であると見做さるべき場合・・多くはこの電報の系統によって弁別し得るが・・のあることを否定し得ないのである。我が国に於て、日支事変以来、特に大東亞戦以来、赤化主義者が東亞新秩序を論じ、民族問題を論ずるのみか、団体論までに手を出して、時局の先頭に立ちつつある場合がかなり見られるが、それと怪奇性を等しくするかの如くに、今やユダヤは自己の名の覆い難いのを知るに至ったものか、その名を隱見せしめつつ適当の方策を講じつつあるかに見えるのである。

 例えば本年11月9日の某大新聞の第一頁の記事の如きもその一種と見做され得よう。即ちユダヤとアングロサクソンとの不一致を殊更に強調することは、アングロサクソンのみを敵視する我が国朝野をたぶらかすには最勝の方便なのである。ルーズヴェルトのユダヤ血統が真実であるとすれば、世人の眼を欺くためには或いは機会を見て彼を第一線より退けることが既にユダヤ指導層で決定されているのかも知れない。ルーズヴェルトによって事態が現在の所まで進められて来たのであるから、一面に於ては彼のユダヤ的使命は達成されたとも見得るからである。利用価値が消失する時に容赦なくその傀儡的人物を捨て去る・・殺害その他の「清算」手段によって・・ことは、これユダヤの常套手段であることを我々は銘記しなくてはならない。

 
従って我々は、米議会に於ける少数の「孤立派」の勝利などに有頂天になる愚を避けねばならぬ。この場合にも我々は、ユダヤの両建戦術の巧妙さを忘れてはならない。我々の常に主張し来った如くに、嘘を吐くにも算盤玉をはじく術を心得ているユダヤは、世界の趨勢を打診しまた敵性国の内部情勢を察知する為には、世界及び敵性国の幾割が真実を認識する能力を有するかを前以って計算し、その上にて嘘の宣伝をぬるのである。この間の事情に通曉しない限り、ユダヤ的否定原理の支配的地位に就いている現代に於ては、歴史の運行さえも把握は困難であると考えられる。勿論ユダヤのこの動向に徴することによって世界情勢の全部が把握され得るとは言い得ないであろうが、しかしその正常な認識なき施策は、政治・経済・学身の方面は勿論のこと、軍事の方面に至る迄も迂濶の譏を免れることはできないであろう。殊に現代の如き急激なる過渡の時代に於ては、その指導的階級と呼ばれるインテリ層こそもユダヤ性に富み、その感情・思索・志向に於てユダヤ化されて来ているから、この点の考慮は特に重要なのである。
 

 今次世界大戦の性格は、ユダヤ問題を研究する者の立場より見るならば、ユダヤ人の人類殲減戦である。ユダヤ人がその旧約聖書の日以来一日として忘れることのなかった日が遂に到来したのである。少なくともユダヤ人の主観から見ればそう感ぜられ考えられているらしく見える。而してその第一の根拠は、今次大戦の世界的規模への進展が、エホバの年1941(昭和16)年であったことである。勿論今次大戦は、なお第四幕、第五幕を殘していると考えられるが、それが既に頂点としての第三幕に到達したことは否定し得ないことであらう。エホバ信仰に厚い狂信家としてのユダヤには、大東亞戦が昨年中に勃発したことはエホバの庇護の印として感激の的となっているであろう。而してその後の戦況の経過は、恐らくユダヤのその信仰を益々強化しつつあるものと考えられる。

 
既にアメリカの有力ユダヤ新聞、アメリカン・ヒブリュー」は、一昨年12月4日に、

 「戦争の意義が現在ほど明瞭であったことはない。今や全人類は、その戦争観念をめぐって二つの陣営に分けられている。即ちこの戦争は、ユダヤ人を敵視する者を相手取ったユダヤ人生観の戦いである。全世界は今やユダヤ的な生存樣式が勝つか、ユダヤに敵対する者のそれが勝つかの戦に鎬を削っているのである」。

 と書いたし、また某英国紙もその頃この戦は「ユダヤの聖戦」であることを主張したが、その聖戦が「エホバの年」に本格的な世界戦へと進展したのであり、しかもその後の情勢がユダヤの希望通りに向いつつあるのであるから、今やユダヤが如何に滿々たる自信のうちに生きているかは推測に難くないのである。(約百五十字略)【原文のママ】

 
かく論ずる時、欧州戦線及び東亞戦線に於けるユダヤ支配国の敗退はユダヤに一大痛棒を與えているではないかとの疑問が提出されるかも知れないのであるが、これはユダヤ問題の怪奇性に徹せぬ単純な考えに過ぎないのであって、東西に於ける連合国の敗退こそはユダヤの喜ぶところであり、殊に大東亞戦の緒戦に於ける日本の勝利はユダヤにとっては全くのエホバの神助の結果であると感じられているのである。我々は既に以前より、大東亞戦に於ける緒戦の日本の勝利を喜ぶ者は日本人とユダヤ人であるという逆説めいたことを説いたのであるが、最近に至っていよいよその感の深まるのを覚えるのである。

 
その理由は、日本がそれを喜ぶのは当然の事であるが、ユダヤにとってもそれば滯留国民(米英等)の臨時体制を強化するに役立ち、ともすれば生起し勝ちであったユダヤに対する批判と不滿との念を外らせるに役立つからである。戦争の拡大が経済的に利益を齎すことは言うまでもないが、既に世界の富の大部分を所有しまた支配する位置を占めているユダヤとしては、今次大戦に於ては寧ろ自己の政治的地位の強化確立に対する関心が主になっているのであるから、この意味に於て緒戦に於ける連合国の敗北はユダヤにとっては誠に好都合のこととなるのである。

 
殊にみづから戦線へ出ることのないユダヤとしては、自己のために戦場へ出る傭兵を必要とするのであるが、米英人をその役目に就かせるためには、緒戦の敗北こそは天来の好機なのであって、ともすれば叫ばれた「戦争目的の不明」の言説は、緒戦の敗北を利用しての宣伝によって全く封じ去られ得たのである。枢軸軍による本国侵入とか、占領地に於ける枢軸側の殘忍なる行爲とかの宣伝によって、元来誇張された優越意識の持主である米英人は、この場合にもユダヤの策謀を見る余裕を失って、ここに戦場へと盲目的に駆り立てられるに至るのである。現在米国軍60万乃至80万が海外へ派遣されていると称せられているが、その実数の真偽はとにかくとして、かく大部隊の派兵の可能なるに至ったのは、ユダヤの煽動政策の成功の結果である。真の愛国者には売国奴の汚名を被せることにユダヤは成功したのである。ルーズヴェルト及びその一味の言行は、この間の事情を把握しない限り、その全幅的な意味が理解されることはないのである。

 

 以上で現大戦の性格とユダヤの動向の大略は明らかになったと考えるので、以下に於ては各交戦国の場合につき考察を加えることにしよう。

 先づ盟邦独伊の場合であるが、両国の情勢は、ユダヤ系の宣伝に敏感な宿命を持つインテリ層の危惧する程に不安のないことは自明であって、ユダヤ問題を研究する者より見れば、両国の国内情勢は相当に整備されていると考えられる。連合国側のユダヤ言論通信機関が殊更にファッショ諸国の暴政を説くのは、独裁と暴虐との点に於てユダヤ的殘忍性を実践しつつある自己の政策が民衆によって批判さるる事を防止するために外ならない。この事は米英ソ連重慶に於ける独裁支配者の行状の実際を知る者には自明のことである。いずれの側にも例外はあり、皇国に於てすらもいわゆるインテリ層の大部分は依然としてその唯物主義的個体主義的利己主義の為にユダヤ思想戦線の志願兵たるに甘んじているのと軌を等しくして、独伊に於てもかかる一群の徒・・殊に本国を捨てて亡命中の祕密結社の者・・の存在することは言うまでもないが、しかし独伊に見られる服従と隨順との精神は、米英重慶乃至ソ連に見られる屈従又は盲従とは対蹠的な存在であると言い得るであらう。後者に於ける形式上の服従の如きは、利害に依る結合又は威嚇に依る屈従以外の何ものでもないのである。

 独伊に於ける精神主義的全体主義体制と、最近に至って次第に完成されつつある米英等に於ける金権主義的全体主義形態及びソ連に於ける酷烈なる唯物主義的全体主義的形態とは、悪意ある短見者流が時としては故意にそれらの同一性を強調することもあるが、根本に於ては大きな差異を有するのであるから、我々としてはその根本的なる本質上の相違を認識して、盟邦の交りを益々堅くして共同の敵に当らねばならないのである。これこそ道義日本の使命でなくてはならない。一時的なる戦線の異状とユダヤ系通信機関の宣伝に躍らされて、直ちに利害の打算を始める如き賎しさに陷ってはならない。無節操なる者に最後の勝利のある筈はないからである。いずれにもせよ、この点に連関して今後とも中立国筋その他の通信宣伝機関を通し、あるいは外交乃至通商機関を通して種々の策謀が行われることは火を語るより明らかであるから、最後の勝利の日までは決して油断をしてはならぬのである。

 
去る9月30日の戦時冬季救済事業報告演説に於てもヒットラ−総統は、今次大戦がユダヤの策謀によって勃発せしめられたことを強調し、10月5日の收穫感謝祭に於てはゲーリング国家元帥もまた今次大戦のユダヤ性に論及している。しかしてこれらの言説が将来如何なる結果を示し得るかは、友邦日本の側に於けるこの点に於ける反応如何によるとも言い得るのであるが、この点に於ては久しきに亙るユダヤの巧妙なる宣伝と、時としてはそれに内応する祕密結社の策謀があるかの如き情勢の動きの結果として、いまだ日本の朝野にユダヤ問題の正当なる認識が欠如し、この最重要最根本の点に於ての協力を示すに至っていない。

 思想戦方面に於ける枢軸側の不如意の日が到来することが万一あり得るとすれば、その最大の原因は必ずこの点の認識不足に基くであろうことは容易に予言し得ることである。ユダヤ問題の認識も教育も徹底している独伊の場合は、戦略上の必要その他の理由によってその国内情勢等に就ても幾多の発表見合せのあることは言うまでもないが、しかし大戦によって連合国側の希望する如き動搖はあり得ないものと見られるのである。

 では何故にスターリンが最近の革命25年記念日に於て、独伊の指導者と国民との間を離間せんとする如き言辞を弄するに至ったかと言うのに、これは例のユダヤの怪奇性による術策であって、その演説の目標は、第一には自国内に於ける自己の政権に対する批判を封ずるためであり、第二には中立国及び日本に対する宣伝の為である。如何にソ連幹部の頭がどうかしているとは言え、ユダヤの智謀を背後に持っている彼らが、今次欧州戦当初に英国が用いて物笑いの種となったと同一の筆法で今に至って演説する以上は、かの場合とは別な意味がその背後に隱されていなくてはならない。この場合にはユダヤは算盤を弾きながらスターリンの口を通して嘘の言説をしていることを忘れてはならぬ。

 
同一事情は独伊の戦線に於ける事情についても言われ得るのであって、唯物論の影響下にある我が国のインテリ層はユダヤ系の報道には一喜一憂させられているが、これもまたユダヤの日独伊離間策に躍らされているものに外ならぬのである。わが国にしてもいまだ重慶を全面的に屈せしめ得ないことや、北支那に於ける共産軍の相変らぬ蠢動等の事象は、ユダヤ系の通信によって如何に誇張されて世界に伝播されているかを思わなくてはならない。強大なる陸海軍国を相手に敢闘する盟邦に体しては、一戦線の消長如何に拘らず、絶対の信頼を維持することこそ武士道国日本の真面目でなくてはならない。各個撃破を目標とする奸敵が幾千年の訓練を経た悪逆無道の猛者であることを我々は銘記しなくてはならない。

 ここにフランスについて一言しよう。近来の新聞紙によれば、ラヴァル首相はパリに於て「ユダヤ人がその存在するところの何處に於ても、一個の破壞的要素をなしていることは事実である」と言い、現在もフランスにはユダヤ人が氾濫しているが、この厄介者を除くことは困難である、と歎いたそうである。ドイツ占領地帯に於てはドイツに於けると同樣にユダヤ人マークを附けさせられたりしているが、非占領地域に於ては未だにユダヤ人は肩で風を切って闊歩しているのである。少数のフランス識者はユダヤ人とその支配者のフリ−メイソン祕密結社の為にフランスの敗北が惹起されたことを自覚しているにも拘らず、現在のフランスには最早この「解体の酵母」に対して真の対策を施す力が消失してしまったかに見える。恐らくフランスには、米英による植民地の強奪によって二等国三等国に身をおとす外に可能性はないらしくさえ見える。而してユダヤとしては、もともとフランス及びフランス人が可愛いいのではないから、フランスの利用価値が消失されるに至るならば、フランスの滅亡をも決していとうことはないであろう。ユダヤとしては、自己の独裁下にないフランスには何らの未練もないことは自明である。

 
従って現在のフランスには、ユダヤの走狗たるド・ゴール又はそれに類似のものが今後もなお相応に現われるかも知れない。このド・ゴールの如きは、英国謀報部のユダヤ人スピアス将軍の仲介によってその私生活の乱脈さを維持する為に英に身売りをしたのであり、従って彼はユダヤの奴隸に外ならないのであるが、同じ系統の売国奴が、祕密結社の勢力の浸潤しているフランスに於ては今後も何時如何なるところに現れるかは想像だに困難である。

 ラヴァル首相の言を引用した序に、同じ演説中にある次の言説にもここに一言論及しておきたい。

 「余が法王庁の使節団又はクェーカー派の派遣乃至は米国の外交団を接見すると、彼等は極ったようにフランス国内に於ける哀れなユダヤ人の負わされている運命を緩和するように余に向って説くのである」。

 とラヴァル首相は言っている。首相に向ってユダヤ擁護を要請するこれらの三つは、第一に加特力教であり、第二は米英系キリスト教徒であり、第三は注目すべきことにも米国の外交官であるが、これらすべてがユダヤ支配下にあることは今更縷説の要もないと思はれる。しかしこの点に於ける正当なる認識に於ても欠如するわが国に於ては、フィリッピン等に於ける施政に思わぬ暗影を生ずることを覚悟すべきであろう。新旧キリスト教のユダヤ支配の現状については今は説明の暇はないが、米国外交官のユダヤ性についてはその大使の十人以上、その公使の五人以上がユダヤ人であることによっても明瞭であらう。例えば前駐日大使グルーの如きも恐らく例外ではないらしく、在留中はロータリークラブ員達の讚歎の的となり、帰国しては戦争熱の煽動に狂奔していることによってもそれは証されるのである。

 

 緒戦の敗戦が米英ユダヤを狂奔せしめつつあることには既に論及した通りであるが、この際に我々日本人として特に反省すべき一大屈辱事件のあることに論及しておきたい。それが何處まで政府当事者によって自覚されているかは筆者に尚不明であるが、日本が道義国であり、武士道国である限りに於ては、次の一屈辱事件は決して闇に葬り去らるべきものではないであろう。皇国の栄誉を傷つけることこれにまさるものはないと考えられるからである。

 その醜悪なる一件とは、大東亞戦勃発の前日に至るまで継続されたところの対米借款交渉である。彼は平常よりユダヤ問題の否定者にして自称日本主義者の一人であるが、或る系統の親ユ主義者を継承しているらしく、殊にその旧式日本主義に共通の自覚せざる唯物主義は常に背後に金権系支持者を有しているために、現代に於てはその愛国主義的看板にも拘らず、実際の行動は売国的政策となり勝ちなのである。(以下約四百字略)【原文のママ】

 殊に彼が今なお一部の偽装唯物論者によってその権勢欲の強烈さの為に支持され、またその無責任なるが故に放胆なる文筆の才の為に若き無批判の徒の間に愛国者の名声を保持しているのを見る時、皇国の屈辱も正に極まれりの感なきを得ないのてある。これ米国が我が国を軽視して、かの理不尽の三大条件を我が国に押しつけんとした原因の一つであり、元来無責任なる捏造事件によってわが国を中傷する米英及びユダヤに最も適切な口実を得せしめたのである。米英が抑留邦人を虐待するのも、はたまた元来個人主義的利己主義者の米国民が相当の頑張りを見せるのも、上述の徒輩の非日本人的行爲がその直接原因となっていることを我々は忘れてはならない。ユダヤを識らざる者の行爲が如何にユダヤを益し、ユダヤに利用価値あるかは、この一例をもってしても判明するであろう。今にしてこの汚点の拭われざるに於ては、将来皇国の栄誉は如何なる曇を生ずるであろうか。怪奇なるはむしろ国内の情勢であると我々をして歎ぜしめた二、三年以前の不快なる経験が、いま大東亞戦下に於てまたも我々の良心を痛ましめるのである。

 かくて米(英)ユダヤは、最近伝えられる放送局の接收等に見らるる如くに、いよいよその独裁体制を整頓しつつあり、而して現在にては最早何らの掣肘を受けることはないのである。勿論世人を欺くため、また日独伊陣営を撹乱する為には、種々の策謀が国の内外の事件に関連して行われるであろう。例えば今度の選挙に於てニューヨーク州知事ユダヤ人レーマンが退いてデューイが出た如きも然りであって、この他民族第一線主義への転換はユダヤ地盤の確立の結果とも見られ得るのである。今や米(英)に於けるユダヤの地盤は、ソ連のそれの如く全く確固不拔のものとなったと言っても過言ではないであろう。たとえ今後敗戦が持続しようとも、又いよいよ長期戦となろうとも、この事情は容易には転換することはないであろう。これを思えば、枢軸側としても徒らなる掛け声に止まる所なく、真の総力戦体制を確立して、まずユダヤ的謀略の正体を究め、その上にて各般の施策を決定すべきであらう。

 以上の記述で、米(及び英)の国内情勢の現在に於ける大勢は察せられるであろう。従って既に昨年11月26日に汎米ユダヤ会議があり、その席上で「全世界に米国民法の採用を要請す」という決議がなされたのも、決して不思議ではなかったことが判明する。後述する如くに世界の赤化により世界支配を実現せんことを期しながらも、戦略上それを表面の旗印とすることの今では不利なるを自覚したユダヤは、先づ民主主義を以て世界を征服せんとしているのである。否、ユダヤの両建戦術は、赤化主義と黄金帝国主義との二つを併用しつつ進んで来ているのである。

 この連絡に於て英国の場合にも論及するならば、ユダヤとしては既に英国そのものには見限りをつけているのではないかと考えられる。勿論利用価値のある間は今後も英国の名を利用し続けるであろう。しかしこの場合にもフランスの場合と同樣であって、利用価値の消失と共に英国はユダヤによって捨て去られるであろう。而してその複線は、近来新聞紙上に散見する次の言説である。即ち、米国は英国の遺産の継承を狙っている、というのがそれである。ユダヤがかかる言説を直接間接に世界に普及させつつあるのは、これによって世界をそれに慣らせ、将来それが実現の段階に入っても世人をして異樣の感を抱かしめない為であろう。勿論英の遺産を狙う者が米のみでないことは、ユダヤ問題に多少の考慮を払う者には自明であって、ソ連もまた米と並んで英の遺産を狙いつつあるのである。しかしこれはユダヤの現在の戦術上隱されていると見るべく、インド問題が宣伝さるるにも拘らずソ連の動向がこれに関して少しも新聞報道に上らないことは、却ってこの事情の伏在することを確証するものと言えるであろう。英の遺産の問題に関しては、新聞紙上に散見する問題をこの見地より見ることによって充分な解答が得らるることを信ずるので、ここでは我が国とも直接の連関を持つ英の遺産のうち、インド問題のみにつきなお多少の補説をしておきたい。

 
我が国に於ては現今のインドの騷擾を余りにも表面的に解し過ぎ、従ってまた余りにも重大に見做しすぎているようである。我々より見れば、ガンヂーは別とするも、その他の指導者の如きは英国及びユダヤの走狗たるに過ぎないのであって、大言壯語好きの結社系言説に見られる如き「東亞解放者」ではないのである。彼らは必ず英国系フリ−メイソン結社の高級会員たるべく、この点は蒋介石等国民政府の要人と同一であって、その故にこそインドの指導者連は国民会議派と自称して来たのである。時代を操る為には、時代に通用する名を採るのはユダヤの方策である。従って、彼らの反英運動は、愚昧なる民衆を欺き、また一部の覚醒せる者の殺戮に機会を與える為になされる英国ユダヤとの八百長であるに過ぎない。

 従って、この反英抗爭は、インド民族の殲減を目標とするユダヤの運動であるに過ぎない。なおこのたびの反英抗争の持つ一つの重大なる意義は、この抗争によってビルマまで進攻せる日本軍のインド進攻を防止することである。今次反英抗争のこの性格は、インド指導者達・・例えばアザット・・がルーズヴェルト、蒋介石、スターリン等に仲介を求める態度を取っていることによっても裏附けされる。真の反英抗争は、現在に於ては枢軸との合作以外に道はないのである。如何に地理的制約があるとは言え、これは歴史の論理なのである。反英抗爭のかくの如き自明の性格に無智なるらしく見える日本朝野の認識不足の必然的結果である。インドの将来にとって殘る問題は、インドの民衆が如何なる程度の抗争力を持っているかによって決定するのであって、これさえ強力であれば指導者達の対英八百長もあるいは将来その仮面を剥がるるに至るかも知れないが、しかしこれは至難中の至難事であることを我々は忘れてはならない。ここに我々のインドに対する態度も定って来るのである。この適当なる対策なき時、英の遺産としてのインドはスターリンの手に帰するであろう。かってのチャーチルのスターリン訪問はこの点に関する談合をその重要なる課題としたのではないかとも考えられる。世界のユダヤ信網がこの点に触れなかったことこそそれを証すると言えるであろう。

 

 かくて問題はソ連であるが、ハルビンのユダヤ雜誌「ユダヤ生活」が誇らかに述べている如くに、「ユダヤ教はソ連の国教である」のであるから、このソ連が米国と並んでユダヤの二大牙城たることは言う迄もないことである。否、ソ連こそは、独ソ不可侵條約の頃に於て多少の変調はあったとはいえ、昔も今も全くのユダヤ国であって、ユダヤの地位の確立せる点では、現在の米と雖もなおソ連には及ばないと言い得るであらう。

 勿論かく言っても、米の反ユ団体が大東亞戦以前に於けるが如くその二百数十のものがそのまま健在であるというのではなく、またソ連に於て反ユ主義が皆無であるというのではないが、しかし独裁者專制者としてのユダヤ人の有する権力の強度に於ては、ソ連が米にまさることはなお相当のものがあるのである。それ故に米に於ては汎米ユダヤ会議であったところのものが、ソ連に於ては世界ユダヤ人代表会議となり、しかもそれが昨年8月24日と本年5月24日との両回に公然と行われているのである。

 ここに於てか我々は最早この会議の内容の詳細を検討するの要を認めないものであって、ただ「赤軍はユダヤの盾である」ということが明白に主張された一点を指示することで今は充分であると考える。古い話ではあるが、純ロシヤ人であったトハチェフスキー将軍等がその功績にも拘らず大根の如くに切り捨てられた謎もこの点より明白になるのである。マルクス主義乃至ボルシェヴィズムは、その実行はユダヤ人にのみ許されるのであって、その対象は非ユダヤ人であり、ただその実行の段階に至るまでは非ユダヤ人の協力を利用するに過ぎないのである。これは資本主義の場合も同一である。

 しかし前述した如くに、ソ連に於ても反ユ主義は根絶された訳ではなく、ユダヤ権力の強烈であるに連れて或る意味に於てはその反ユ主義もまた強烈であるとも言い得るであろう。而してこれが今次「独ソ戦」に於ける敗北によって時としてその発露口を見出そうとするかも知れないのは察知せられる。ここに本年10月初旬世界に宣伝せられた赤軍に於ける政治委員制の廃止の如き件が生ずるのであって、この再度目と思われる「廃止」は、対内的にはそれの形式的廃止と実質的強化を意味し、対外的には中立国及び日本等に対する宣伝に外ならない。元来スローモーのスラヴ人は、この宣伝によっても相当に乘ぜられるのである。赤化思想の処置に正当なる見識を示し得なかった日本がその宣伝の対象となされていることは名誉なことではないが、しかし事実であることは如何ともし難いのである。少なくとも日本の新聞はそれをそのまま掲載し、日本のインテリの一部がそれに感傷の涙を禁じ得ないことはユダヤの打算の通りである。

 なお日ソの関係は、現在としては日ソ条約によって規定されているが、これとてもソ連及びユダヤにそれが好都合なるために維持されて居ると見るべきであって、連合国の軍備拡張が予定の段階に達する時には、今次大戦の第四幕、第五幕としての××衝突の来るのは必至であると考えられる。それを避け得るのは、日本がユダヤ問題にも早く徹して枢軸国との協調をこの点に於ても実行するに至るか、枢軸国による完勝が早く実現されるかの二つの場合である。しかしなおその時にも世界からユダヤ問題が消滅したと見るのは尚早であることは言うを俟たないことである。

 ソ連と赤軍と言えば直ちに督戦隊が想像せられるが、同一のことは祕密結社藍衣社・・これはかのフリイ・メイスン祕密結社の支那化であろう・・の支配する重慶支那についても言われ得るのである。而してなお他に共通する重大なる要素に民族主義のあることは見のがし得ないのであるが、しかしこれは前述せる如くインドが時代の風潮に即応して国民の名を利用するのと同一の方策によるものであって、裏面に於ては祕密結社の力によって生命を威嚇して指導的地位にある者の自由を奪い、他方表面的には民族主義を利用して愚昧なる民衆を欺くのである。これは共にいわゆる「文明国」に於ては不可能であって、ソ連又は支那に於ける如き国に於てのみ実現され得る方策である。

 ソ連重慶に関しては、以上の二点の認識に於て欠ける所がないならば、他の諸点はおのづから明瞭になって来るであろう。それ故に我々はここに筆を改めて、現在に於けるユダヤ対策に関して一言して、この小論を終ることにしたいと思う。

 

 我々は既に国内の親ユ主義者について多少記述して、それが主としてユダヤ問題に対する認識不足に出来することにも論及し、ひいてその唯物論的志向が必要にかくならしめることをも暗示したのであった。現時局下として最も警戒すべき今一つの傾向は、同じく一面に於ては日本主義を標榜し、国体論を口にしながらも、結局唯物論の魅力圈内に彷徨する狂信日蓮宗の一群である。この外にも財界その他に親ユ主義が存在しており、特に表面的には解消したロータリー・インターナショナルの如き有力なるものもあるが、しかしここでは或る意味に於て現代の指導層に属するか、あるいは責任ある指導者層に直接の影響力を持ち、従って重大なる根本国策にも関係すべき憂のあ髀鼾のみを挙げるのである。(以下約百字略)【原文のママ】

 彼らによれは、ユダヤ問題はユダヤに国家を形成せしめる事によって解決するのであり、独伊のユダヤ排撃は道義に悖るものであるから、道義国日本は独伊に忠告して、その排撃を中止せしめ、八絋爲宇の精神によってユダヤをも救えというのである。彼らの言説が枢軸離間を目標とするものでなけれは幸であるし、また××事変を誹謗せんとする下心を有するものでないことを我々は道義日本のために祈らざるを得ないのである。而して何故にユダヤのみがかく慈愛の対象となるかについては或る種の妖氣の搖曳を感ずるのであるが、今はそれを語るべき時機ではないであろう。

 とにかくその代表者の某紙上その他に於けるあくどい論説は、その表現は、彼得意の美文調であるが内容に至っては親ユ主義の公式であって、いわゆるシオニズムとはかかる短見者流の無批判性を算盤に入れて形成されたユダヤの謀略である。従って内容的には問題とするには足り「五万歴、これか責任ある要路者に與えられたる一聯の論説の一つであることを思う時、問題は過小視されてはならないのである。この盟邦を侮辱する親ユ主義が万一にも責任ある爲政者によって考慮さるることがあるならば、その結果は前に論及した某の場合にも比すべき悪影響を持つに至るやも計り難いのであって、かかる言説の責任の大なることは、かの場合と同一である。この点に於ても道義日本としては事を曖昧に葬ることなきよう明断を望まざるを得ないのである。而して二つの場合ともに、それらの思想又は行爲の地盤となった陰の勢力にもまた適当なる処置の要請さるることは自明である。空想的観念的なる旧式日本主義が如何なる祕密力の策謀下にあるかは不明であるが、それが現下最大の危険なる存在と化していることはしばしばあるのである。赤色主義に対する批判がなく、ユダヤに対する認識のない為に、それは赤に利用され、ユダヤに駆使されるのである。(17.11.5)


 三、今次世界戦争の性格
 
 それがこの形に於てこの時期に來ることを阻止せんとして少数の憂国の士が声を嗄らして叫び続けて来たにも拘らず、遂に来るべきものが来たのである。或る世界的なる祕密力の計画通りに、それが久しく予定していた年に予定の世界大戦が予定の方向に向って進行しつつある。しかしそれは、恐らくは少なくとも二度は防止し得たと考えられるし、またそれが結局世界史的必然であるとしても、少なくともその時期の点ではかの祕密力の予定通りに運ぶことを阻止され得たと考えられる。しかし我々は、いまここにそれを詳述している暇はない。また徒らに死屍に鞭つにも忍びないにも拘らず、なお多少意のあるところを述べてみたいと思うのは、なお来るべき日にも、現在の状勢のままにて進むならば、同じ過誤を繰返し、また同じ無意義の戸惑いを繰返すことを恐れざるを得ないからに外ならない。
 既に我々によって幾度か指摘されたように、エホバの数15を形成する今年1941年こそは、かの祕密力にとってはその世界制霸の年である。もしこの年を逸するならば、1950年迄は機会がないのである。勿論1941年に失敗すれば1950年を待つであろうが、しかしこの年を無爲に終ることは、祕密力としては、旧約聖書申命記28章にエホバによって示されて居る通りに、祕密力そのものがエホバによって亡ぼされる事になるかも知れないのてある。有史以来エホバのこの命に恐れ戦き続けて来たかの祕密力は、最近事毎に自己の計画の齟齬するのを見て、これはエホバの罰が下りつつあるのではないかとの恐怖に捉われたるものの如く、今年を期して今や懸命に自己をエホバの罰より救わんとしつつあるのである。

 
かく言うとき、かかる迷信深い祕密力かいまだに地上に存在することを恐らく人は疑わざるを得ないであろうが、これは旧約聖書とタルムードを活眼を以て読む者には一点の疑をさしはさむ余地のない事実である。しからば我々はこの祕密力の努力をいま何と命名すべきであらうか。これに対して最も明瞭なる表現を用いるとすれは、ユダヤの人類他民族殲減戦と云うべきであろう。これを我々は在来ユダヤの世界制霸運動とか、世界征略戦とか言って来ているのであるが、最近の緊迫した状勢に於ては、今次のユダヤの計画せる世界大戦はその人類殲減戦の名をもって呼ぶとき最もその正当な呼称となるのである。従って今なお近視眼者流の言う如き欧州戦争と独立した独ソ戦争はないし、また欧州戦争又は独ソ戦争と独立した日支事変もないのであって、これらはその勃発の当時より、既に我々の指摘して来た通りに、一個の世界戦争の部分的事件である、今一度別の表現を用うるならば、かの1941年を目指すユダヤの世界殲減戦中の一幕又は一場なのである。

 かくて現在の世界には、多少とも世界の真の情勢と世界史の必然的運行とに理解を有する者にとっては、かの「複雜怪奇」などという漢語の成句に相応する現象はないのである。また世界史的な事件の起る毎に戸惑いして、敵も味方も見分け難くなり、世界情勢の変転極まりなきことのみを強調するのは、誠に無定見、無節操、無道義の井蛙の見の持主であるに過ぎない。田に耕す匹夫と雖も、日本人なる限りは、現在では今少しく世界情勢に通じ、いわゆる腹もできているのである。実に現在の世界には、あるいは複雜さはあっても、「怪奇」なるものはないのである。怪奇ならぬものを怪奇とすることこそ怪奇であって、ここにこそ現代日本の行詰りの総原因がある。

 しかしこれらの点については、我々の在来の主張に理解のある読者にはこれ以上の説明なくして明らかであると考えられるので、ここに本節の冒頭に論及した回顧に移ろうと思う。かって我々は日支事件が日ユ事件なることを既に事変後一年にして明らかにしたのであるが、その中で既に防共協定が防ユ協定であることを自覚しない限り、それか空念仏に終るべきことに論及しておいたのである。次には同じ観点より既に13年秋に日独伊の軍事同盟を要請したのであったが、近世日本史上の最大〇〇の歴史の一つとしての××××××より約半年先行するのである。今にして思えば、かの時かの××軍事同盟の件が内外の不可思議なる力の活躍によって流産しなかったとすれば、換言すれば防共協定が防ユであることを責任ある地位の者が自覚したならば、従って防共協定が単に対コミンテルン又は対ソのものでないことを自覚するだけの明識を持っていたとすれば、いわゆる欧州戦争はかの時期には起ることはなかったであろうし、また独ソ不可侵条約も勿論あり得なかったのである。

 しかし一度独ソ不可侵條約となり、欧州戦となった以上は、もし防共協定で防ユ協定であることに徹していたとすれば、その場合に取るべき策は寸刻も不明となる筈はなかったのである。不可思議なる力の策謀にひきずられた事こそ「怪奇」なのである。この点を暗示しようとして、我々はかって「複雜怪奇と不介入」なる短文を草し、その中に於て、当時に於てかの祕密力の正体が認識されたとすれば、そしてまた日独共同しての真剣の努力が重ねられたとしたならば、恐らくは戦わずしてソ連を改造し、ソ連をしてロシヤ人のロシヤたらしめ、そこに政権を独占するユダヤをして不戦敗に終らし得たかもしれないことに論及したのであった。しかしこの点の日独了解は成立せず、ユダヤ祕密力の英米を使嗾しての画策は、遂にソ連内部に於ても一時搖ぎを示したユダヤ勢力をして勢力を回復せしめ、ここに独ソ戦争となったのである。換言すれば独ソ不可侵条約は全体主義ドイツの共産主義ロシヤに対する思想戦の不戦勝であり、日本の援助によって確立さるべき運命のものであったのである。

 かく論じて来る時、現在の世界に於てわが国の一挙手一投足が如何に重大な意義を持つかが明瞭であらう。しかしながら、惜しむらくは、その我が国に現在の世界を動かしているユダヤ祕密(その機關としてフリ−メイソン祕密結社等を含むことは言うまでもない)に対する認識が欠けている為に、枢軸側による世界新秩序の建設は、その途上の大事件毎に最後の瞬間に於てユダヤ祕密力の為に側道へ外れさせられてしまうのである。既にユダヤとしてはかって我々が「世界大戦へと駆り立てるもの」に於て触れた通り、今次世界大戦は幾多の点に於て失敗に帰している。そしてそれが特に独伊に於けるユダヤ認識の結果であることは言うまでもないことである。この理由によって、我々は「前世界大戦に於ける敗戦ドイツの場合」なる短文を物して、我々の時代に処する參考としたのである。
 

 前述の通り、今はただ回顧のみに耽るべき時ではない。今は将来を見るべき時である。しかしながら我々は、永遠の平和とか世界最終戦論などという如き偽装唯物論を弄している程に呑氣ではないし、またかかる空言を弄することによってかの祕密力に意識的にも無意識的にも協力するほどにユダヤ化してもいない。我々はいま我々の足下に迫っている世界の現在の情勢について、我々が今まで見続けて来た観点よりの展望を展開しなくてはならないのである。未来を説くことが総て空想であると称せらるるならば、我々は空想の名も甘んじて受けるであろう。しかし生ける生は未来を含まぬものはないのである。政治も軍略も、生ける人間の世界のことはすべて然りである。

 いま世界の視聴を集めているのは、何と言ってもいわゆる独ソ戦争であるが、これはかのユダヤ祕密力の人類殲減戦に於て如何なる位置を占むるものであろうか。ここに我々は歴史の論理を示すために仮に戲曲の構造を借りて説明するならば、独ソ戦争は今次世界戦争の第二幕を占むるものと言わるべきであろう。第一幕は勿論東の日支事変、西の欧州戦争であって、スペイン内乱、チェッコ事変等は勿論第一幕以前の序曲であるに過ぎない。

 
しからばその第三幕は何であるかと言うに、これはユダヤ祕密力の予定では、日米戦ではないかと考えられる。しかしてそれに続く第四幕は枢軸国対英米ソ支等の文字通りの世界戦であり、第五幕はその決戦であって、ユダヤの人類殲減戦はここにその頂点に到達する。而してこれらの諸幕の何處までがエホバの年1941年たる今年中に来るべきであるかは、今は正確に豫言することは避けたいと考えるが、ユダヤの新年に当って、然も天界に異状のある筈の今秋初めが最も注意すべき時期ではないかと考えられる。

 有史以来エホバの命によって他民族の殲減を宗教的殲減を宗教的信仰として来たユダヤ人は、最近事毎に志のたがうのを見て、今度の世界戦争にては一挙にしてその頽勢を回復したいと考えているのであるから、その殲減戦の激烈さは恐らく有史以来のものであり、人の想像を超えるものでないかと考えられる。殊に欧州方面に於ては前に我々がしばしば論及した通りに、ニーチェの予言が実現して、ユダヤが欧州を去るべき日が来つつあるのを自覚したかにも見えるユダヤは、それだけその活路を東洋に求めんとしているかに見える。ここに最近の東洋情勢の真の原因があるのであって、ユダヤにとっては、英国そのものが大切に非ず、ソ連そのものが可愛いいのではなくて、自己の世界征略の手段になるものは何にても利用するに過ぎないのである。例えば本国を失ったオランダが蘭印に於て我国に反抗しているのは、オランダ本国よりは蘭印の方がユダヤに取って重要であることを証しているのである。

 最近にも独英の妥協がまことしやかに流布されているが、これは英に於けるユダヤ陣営の搖いだ場合かあるいは搖ぐ見込のある場合以外には絶対にあり得ないことである。この点の事情を知らぬならば、あるいはまたかの独ソ不可侵條約当時の如き戸惑いが来るかもしれない。しかし現在のチャーチル、イーデン、ダフ・クーパー等のユダヤ支配内閣の存続する限り、独英の妥協はあり得ないのである。またユダヤとしては、たとえ英本国を失うとも、その自治領又は植民地が従来の如くユダヤ支配下にある時は、決して独英の妥協はあり得ないであろう。そしてもしそれがあり得るとすれは、それは東洋乃至日本政府の為のユダヤ側より命ずる英ソの屈辱的な屈服の場合であるが、これを防止するためには何時までも我々に於て功利主義に立つことなく、真の道義と武士道との精神によって「志を同じくするもの」と協力し、裏面に於て常に祕密力と内応した・・たとえ多くの場合に無意識であろうとも・・過去の汚辱を再び犯さざる決心を要するのである。

 
現在のユダヤ祕密力による日本包囲を指して、祕密力の代弁者であるハル長官は、それは日本のせいである、と言っている。しかり、正にその通りであって、日本の存在は、祕密力にとっては目の上の瘤である。その世界征服の完成の一歩手前に於てそれを妨げるものか東洋に於ては常に日本であるからである。それ故にユダヤは、この日本討滅の為に米国人をして戦場の露と消ゆる覚悟をなさしめるために、あらゆる宣伝に憂身をやつしているが、現在の太平洋の彼岸に於ける狂躁曲の真相である。この度の英米二ヶ国の政治責任者の行政をくらましてのランデヴーもまたその曲の一節であるに過ぎない。それ故に、西に於てユダヤの決死の争闘が必然である如く、東に於ては日ユのそれが必然である。而してそれは、米国人がユダヤの為に身を犧牲にする決心をするだけに宣伝に躍り、また軍備が量的に日本の幾倍かになる時を待っているに過ぎない。而してその時が何時であるかは、我々素人には明らかではないか、そう遠いことでないことは我々の在来の記述で明らかであろう。

 かくて殘る所は、この不可避の運命に如何に處するかである。あるいは場合によっては、不戦勝ということも双方の側に於てあり得ることであろう。しかしながらそれは、より適切なる時のユダヤ祕密力の日本攻撃を予想したものであることを忘れてはならない。幾千年間人類全体に対して常時戦争状態にあるユダヤは、文字通りの世界制霸の日迄は、戦略的休戦以外には、エホバより他民族との和平を許されていないからである。ここまで論じ来たって、この筆は最早先へ動くことを肯んじないのである。坐視してゐることそのことが大苦痛であり、大罪悪である如き感のすることさえあるが、しかし今は忍ぶ外に道はないのである。ただ我々は祖国日本の悠久の生命を確信しつつ、しかも来たるべき幾年間の大苦難に当って天佑神助のあらんことを祈念して、この短かい展望を終りたいと思う。(16・8・10)


 四、世界大戦へと駆り立てるもの
 
 日支事変の当初以来少数の憂国の士が声を嗄らして、日支事変とは本質的に見て日ユ事変であることを強調し、以て朝野の正当な認識を要求して来たにも拘らず、永年のユダヤの宣伝とユダヤ的教養に災せられた朝野の自由主義者達は殆どその警告に耳を貸そうとしないばかりか、却ってそれをナチスドイツの模倣であるかの如くにさえ見做して、自己のユダヤ性を反省することを肯んじないのである。これは我が国に於けるユダヤ戦術の成功の証左であって、英米を除く欧州が既に次第にユダヤ支配を脱しつつあるにも拘らず、ユダヤ独裁下にある英米の宣伝下にある我が国の自由主義インテリ層は、今なお独伊が第一次世界大戦の前後にあったのと同じ状態に彷徨している。而してユダヤ問題の認識に関する日本朝野のこの落伍は、ユダヤにとっては最も好都合の状況であって、第二次世界大戦の危機の原因も正にこの点にあると言っても、さまで言い過ぎではないのである。それ故に我々は先づこの一小論の冒頭に当って、多くの場合に故意的であるかに見える日本朝野のユダヤ問題に關する認識不足の一例を拾って考えて見ることにしよう。

 それは、最近の我が国の読書界を賑わしているフランス系ユダヤ人モーロアの「フランス敗れたり」の場合である。出版社も訳者も金儲けの仕事であろうから深く咎めないとしても、その著の推薦者が、そのユダヤ的教養のためにユダヤの宣伝にのみ敏感なインテリ階級の者であるばかりでなく、最近その性格を諸方面より疑われているいわゆる新体制派の重要なるポストにある者等であるに至っては、日本的日本人は決して默視していることはできないのである。幾千年来、裏切・嘘・搾取・殺戮をエホバの神命として実行し来ったユダヤは、このモーロアの場合にもフランスの真の敗因を隱蔽して、浮薄にしてセンチメンタルな自由主義インテリ層の理解に適する如き事情のみ拾い上げ、その点のみを強調して自己の罪業を抹殺し去ろうとしている。それ故にその所説は、事実の点では嘘でない要素を含んでいるにもせよ、最も根幹的な事実を抹殺している点から言えば、全体としてはこれより大きな嘘はないのである。

 しからばこの場合に何が隱蔽され抹殺されているかと言うに、フランスの敗因の最大なるものがユダヤの専横に対するフランス人の反感であり、ユダヤの指令下にあるフリ−メイソン祕密結社の社会的独裁に依るフランス人心の委縮であったという事実である。その他混血による民族的素質の低下等の原因も加わっていたであろうが、何と言っても最大の敗因は上述の二つなのであって、ユダヤの専横の事実は、財界に於けるロスチャイルド一家を始めとするユダヤ独裁のことは論外とするにしても、なほ人民戦線政府首相ブルム、永年の植民相マンデル、前文相ジャン・ゼーの悪業のみを数えても充分明瞭であらう。

 ブルムの如きは、百万長者でありながらも社会党を率いることによって純フランス人を搾取することを企てて来たばかりでなく、フランス人を性的に腐敗させる為には我が国に於ても発禁となった「幸福論」をさえ書いたのであるし、マンデルは、その植民相時代にフランスの植民地を実質上のユダヤ植民地とし、日支事変下の我々としては未だ記憶に新たな仏印経由の重慶援助を敢行したばかりか、敗北フランスの最後のレーノー内閣にあっては内相の地位に据って、愛国フランス人を無数に投獄又は虐殺することによってフランスがユダヤ独裁を逃れて独伊に呼応しようとするのを防ごうとしたのである。ジャン・ゼーは教育のユダヤ化に依ってフランスを永久に骨拔きにしてユダヤ独裁の基礎を固めんとしたのであるが、そのフランス国旗を嘲罵し呪詛した詩に依ってフランス愛国陣営の憤激を買っていたのてある。

 なお、敗因の第二の原因として数えられた祕密結社に関しては、その歴史乃至性格に関しては今は敍述する紙面を持たないが、それがユダヤの世界政策の機関であることは現在では世界の常識であるから、ここにはそのフランスに於ける代表者の名を多少挙げることで滿足しよう。即ち多少過去に溯るならば、ポアンカレー、ブリアン等の大統領又は首相があり、近来ではショータン、ザロー、ダラジエ、レーノー等何れもそうでないものはないのである。大臣級に至っては、ユダヤ人に非ずんば祕密結社員であったというのであるから、今更名を挙げる暇はない。
かくて欧亜黒色混血の異民族ユダヤの独裁下にあったフランス人は、欧州民族であるドイツ軍を敵とは見ず、むしろ解放者として迎えたい衝動に驅られたのであって、この心理的の動きを知る事なしには、如何に装備の点では劣弱であったとは言え、幾十万の軍隊がかくも容易にドイツの軍門に降るということは不可能でなくてはならぬ。殊にこの後ペタン政府が国内改革の第一として先づユダヤ人を公的地位から退け、フリ−メイソン祕密結社を断乎として解散し、昨年11月以来その暴露的展覧会をパリに開いて喝采を博しているのみか、前述のブルム、マンデル、レーノー、グラジエのみならず、精神分析ユダヤ人フロイド、ドイツ系逃亡ユダヤ人ステファン・ツヴァイク、エミル・ルードヴィヒ、19世紀に溯ってはハイネに到る迄を発禁にしている事情も、上述のフランス人の心理を実証しているのである。そして之をドイツの強要であると言うのは、ユダヤ崇拜が不治の病となった盲目者流のみの場合である。

 勿論かく言っても、我々は敗戦の罪の全部をユダヤと祕密結社とに帰する者ではないのであって、フランス朝野が久しくユダヤのかかる專制を許し続けていた無気力さに大きな不満を感ずるのであるか、しかし幾千年に亙って裏切・嘘・搾取・殺戮を神命として来たユダヤの巧妙なる侵略戦術を想う時、深き同情を感じないでは居られぬのである。殊にモーロアの著作の如きわが国の朝野に無批判に読まれていることを顧みる時、敗北フランスの思想界が我々に取っても単に外国のそれであるとは感ぜられないのである。

 ユダヤ人にとっては、その在籍国そのものが自己に利を齎らし、従ってまた自己の世界支配の完成に役立つ場合には、それを愛する如く裝うのであるが、その見込の失われる場合には、昨日までの表面上の祖国をも今日は敵国として少しも良心に痛みを感しないないのが常であって、敗戦を待つ迄もなく「祖国」フランスを捨てて米国に逃避した「フランス軍人」モーロアの行動も、決して例外ではないのである。これは最近に於て英国系上海ユダヤ人の多くが、英本国の敗色を見て逸早く米国に国籍を移しつつあるのと揆を同じくしている。それ故にもしわが国の朝野にして真に欧州新秩序の目指す独伊との同盟に忠実であろうと欲するのであるならば、モーロアの如き者の著作に対しては必ず充分の批判を以て臨まなくてはならない。然るに殘念ながら日本に於けるユダヤ認識は、敗戰フランスに於けるインテリ層のそれと同一程度であり、前世界大戦に於ける敗戰ドイツのインテリ層のそれとも同一傾向であって、事変下数年の今になってもなお日本の対支出兵の全部を××主義とする東亞連盟論乃至国境抹殺の悪平等主義の東亞共同体論の如き祕密結社的敗戦主義乃至ユダヤ的超国家主義が横行する余地のある事さえ、丁度敗戦仏独の当時と同一の樣相を示しているのである。
 
 時局便乗の赤色乃至桃色主義者が僞裝して皇道主義又は国体科学等の名の下に横行しているわが国の現状が、上述のユダヤ認識の劣弱さに大いに起因することは、赤色乃至桃色主義の総本山がユダヤであることから推察されるであろうが、なおこのユダヤ認識の不足に由来する驚くべき他の錯覚の例が、これまた現在のわが国の重要識者層にある人に於て見られるに至っては、緊迫せる現下の世界情勢の真只中に東亞乃至世界新秩序に邁進しつつある我が国としては誠に心細い限りであると言われねばならない。

 
即ち、最近の米国の体日侵略攻勢を衝いてアングロ・サクソン民族のみの野望であるとする如き主張がそれである。これは現在の米国の真の支配者が何者であるかに対する認識不足から来るのであって、討英の場合ならばあるいは表面的にかく主張することも適切であろうが、本来欧州各国人の寄合世帶であり、また多くの黒人のみならず、五百万のユダヤ人をも含有する米国に対しては、たとえアングロ・サクソンが数に於て優勢であるとしても、かの野望をアングロ・サクソンのみに帰することは適切ではないであらう。

 殊に今では世界の常識である通りに、デモクラシー国の真の主人はユダヤ人であり、米国もまた例外でないことを知る場合には、かかる言説は由々しき不公正でもあるのである。而してもし万一にもこの場合のかかる言説が単なる認識不足に基くものではなくて、米国に於けるユダヤに節操と信義とを売るものであって、皇国の民としてはこれに過ぎる恥辱はないのてある。


 しかもこの後の場合も亦ユダヤの本質に対する無智から来るのであって、この民族幾千年の罪業史が明示している通りに、ユダヤは相手が劣弱であることを見れば、それによって必ず軽蔑と虐待とを増して来るのである。民族神エホバの数15を形成する1914年(1914=15)に第一次世界大戦を惹起せしめて味を占めたユダヤが、同じ数を形成する1941年(1941=15)に何を目論んでいるかを洞察する精神力なしに外交をすることは、子供の火弄り以上に危険である。防共協定が防ユ協定であることを知らなかったが爲にそれを空文化した過去の苦い経験を忘れて、日独伊同盟もまたその真の意味に於ては防ユ同盟である事を知らぬならば、それもまた或は空念仏に終るかも知れないのである。

 しからば最近の日米間の危機の真因は何であるかというのに、これまたユダヤの世界支配計画の一翼をなすところのユダヤの東洋攻略策の結果であるに過ぎない。即ちユダヤにとっては、自己の独裁下に置いたと確信した欧州が独伊の台頭によって自己の支配を脱せんかに見える状勢を有利に転回させるか、あるいは少なくとも欧州を喪失する代償として東洋を自己の勢力下に置きたいのである。それ故にこの爲には、フランスに於けると同じくユダヤ的フリ−メイソン結社の勢力を用いて、米国人を戦場へ駆り立てんとし、あるいはかの祕密結社員のみで形成されている重慶政府を援助して、ユダヤとこの結社との年来の予定である第二次世界戦争を勃発させ、以てユダヤの世界支配を完成しようとしているのである。

 かくて現在の米国が如何なる程度にユダヤ独裁の下にあるかを述ぶべき順序となったが、紙面の都合で極めて簡単に記述しなくてはならないのは殘念である。先づウォール・ストリートが完全にユダヤ支配下にあり、軍事工業もまた然りであることは、英仏等と同樣であるばかりか、新聞・ラジオ・映画等もまた然りであるが、特に我々の注目に値するのは、祕密結社の高級会員ルーズヴェルトを取り卷く者がユダヤ女を細君とするハル外相を除いては大部分ユダヤ人であることである。これは既にウィルソン大統領時代から然りであって、ジュー・ディールと称せられるニュー・ディールも発案実行共にユダヤの手でなされたのである。ジョンソン将軍によってアメリカの最有力と称せられる高等法院判事フランクフルター、実力上の大統領と称せられるバルーフ、ウォール街ユダヤ人の多くと姻戚関係にあるモーゲンソー財務長官、女労働大臣として各種労働組合の指導者であるパーキンス等の名は、それだけで既に米国のユダヤ支配の実状を語るに足るのである。ルーズヴェルト大統領の親戚の者で、彼の政府に反抗する者は必ず不慮の死を招くこと多くの実例を以て証明している者さえあるのである。ニューヨーク州知事もニューヨーク市長もユダヤ人であることは言うまでもないし、また世界的に強力な権限を有するユダヤ法師ワイズも米国に居住している。以上の米国の実状を知る時、かのユダヤの世界戦争への計画がどうして実現の可能性がないと言い得ようか。
 
 ここに於て我々は急ぎ筆を転じて、今回の欧州戦争の裏面の意義を明らかにし、それもまた日支事件が日ユ事件であるのに照応して、単なる独英・伊英戦争ではなく、結局は独ユ・伊ユ戦争であることを述べて見たいと思う。勿論かく言っても、今回の欧州戦争の意味が独伊対ユダヤの戦争であることで全部尽されるというのではないが、しかし英国の真の主人が、国際ユダヤ人であり、またクロムウェル以来のユダヤとの密接な関係からして血液的にもユダヤ化している英国貴族階級であり、更にまたかの英国を中枢とするところのフリ−メイソン祕密結社であることを知るならば、今回の戦争の意味はこれ以上の説明を俟たないでも明瞭であろう。しかしこれは、ヒットラー総統が口を開く毎に指摘している事実であるが、ユダヤ問題に関する認識のない日本通信員の手にかかる時には、英国の国情のみならずヒットラー総統が特に強調している事までもが多くの場合に不明になってしまっている。

 とにかく今回の欧州戦では、独伊の勢力の及ぶ所からはユダヤ勢力は容赦なく退却させられているのであるが、それが独伊の占領区域に於ては、その国人の熱心な支援を受けているので、単に前述の如きフランスの場合のみならず、例えば白耳義或いはルーマニアの場合もまた然りである。かくて既にニーチェが予言した通りに、20世紀の欧州は、全くユダヤの支配に屈するかあるいはユダヤの全部的撤退となるかの大変革期に到達していることが実証されつつあるのである。それ故に近来の米国の抗独狂躁と救英狂態とは、反日狂気とは意味を異にしているのであって、対日の場合にはユダヤの攻勢であるものが、対独伊の場合はユダヤの守勢となっているのである。しかしこれを経済的方面から言うならば、ドイツの金本位制経済組織脱却に対するユダヤの反撃に外ならない。即ちドイツの実行している如き新経済制度が次第に世界に拡大して行く時には、世界の金の7、8割とかを独占しているユダヤにとっては、神命による世界支配の資金として世界から掻き集めたこれらの金もその偉力を失ってしまうことになるので、ここにもユダヤが死力を尽くしてもドイツと争うべき理由があるのである。ここに於て自巳の軍隊を有せず、また自ら剣を取って前線に立つことを喜ばぬユダヤは、前大戦の時の英ユ協定の先例を踏襲して今回もまた英ユ祕密協定を結び、英国を先づ戦線へと駆り立てたのであるが、しかもその英国の形勢日に非なるを見ては、デモクラシー擁護の名の下に今や米国をも戦線へ駆り立てようと画策しているのである。しかし前の世界大戰の苦い経験を持つ米国には、二百数十の反ユ団体があると称せられる如くに、真の米国は参戦を欲しないので、ここにユダヤの代弁者であるルーズヴェルト政府の最近の狂態が生じているのである。

 
かくて我々はここに於ても英国に於けるユダヤ勢力の実情に関して一言するならば、その財界・言論界・軍事工業界に於けるユダヤ支配が勿論である外に、政治的方面に於ても事情は米国と全く同一であることが判明する。即ち、久しい以前から好戦的煽動政治家として著名であったチャーチル内閣には、ダフ・クーパー、アメリー、ハンキィ、アトリー、シンクレヤ等のユダヤ大臣が居るばかりでなく、ウッドの如くユダヤ祕書を有する者、アレキサンダーの如くユダヤ女を妻とする者、イーデン、グリーンウット、マクドナルドの如くフリ−メイソン祕密結社の幹部もあり、首相始め何らかの経路でユダヤと姻戚關係のない者のないことは、既に前に論及した如くに英国貴族の血液のユダヤ化の結果としては当然であらう。而してユダヤが有するブナイ・ブリスO密結社等の如き無数の国際機関を通じて、この英国はかの米国と連絡しているのである。

 ここに於て我々はなお筆を進めて、いま論及したユダヤ系諸国際機関の全機構を明らかにし、世界の全ユダヤが幾千年来の世界支配の夢の実現の為にエホバの年である1941年を期して世界戦争へと世界を駆り立てている実情にも言及すべきであるが、既に與えられた紙数も超過しているので、それの記述は他日を待ちたいと思う。しかし以上の記述によっても、世界戦争へと駆り立てるものが結局に於てユダヤであることは判明したであろう。かくて東西相応じての世界新秩序の建設が、その根幹に於て如何なる方向に向ってなさるべきであるかも判明したであろうが、この際に於ける我々の覚悟と準備は、既に充分であろうか。現在の独伊は、既に大世界大戦の前後に於てユダヤ禍を身を以て体験しているので、ユダヤ祕密結社に関する工作は徹底しているから、意識的には勿論無意識的にも内部からユダヤの世界支配に協力する者はないのであるが、わが日本は果してこの点に於て安心すべき状態にあるであろうか。マルクス主義を始めとするユダヤ系思想に対する対策を怠った結果は、事変後幾年にして未だ国内は思想的に混乱を極めているかに見える。而してこの際になお我々をして絶望せしめないのは、わが国体の偉力が最悪の場合にも我々を破滅から救うであろうと云う希望があるからである。切に有識者の反省と覚悟とを要請する。(16.2.8)

 五、日本とユダヤ

 日支事変が単なる日支事変でないことは世人の常識であって、蒋政権の背後が英米であり、ソ連であり、フランスであるとする考え方は、ほぼ世界の常識となっている。そしてこの事は一応は真実であって、我々もまた決してそれに反対するものではないが、しかし蒋政権の真の背景がこれらの諸国そのものではなくて、これらの諸国に支配的勢力を持っている国際的祕密力であることに思い及ばない時に、日支事変そのものの真相が充分に明らかになり得ないことを我々の主張したいのである。蒋政権を援助しているのは、表面的には英米であり、ソ連であり、フランスであるが、事実に於てもそれはこれらの国に国籍を有しているユダヤ民族に外ならないのである。

 
このユダヤは、日支事変に於ては、英・米系財閥として現われ、ソ連系共産党として登場し、フランスフリ−メイソン祕密結社として姿を見せているのである。そして特に注目すべきことは、これら三種のユダヤ政策の機関が、日支事変に関する場合にはそれぞれ国別に属しているように見えるにも拘らず、いずれも国際的性質のものであることであって、英・米系ユダヤ財閥と言えば既にその中に仏ソ等のそれを含み、ユダヤ系フリ−メイソンと言えば既にその中に英米ソ等のものを含み、ソ連系ユダヤ共産主義と言えば既にその中に仏英系のそれを含んでいるのである。かくて日支事変とは、結局上述の如き内容を有する日ユ事変に外ならないのてある。
 
 しかし或る人は、我々のこの説明に疑問を抱き、地底組織としてのフリ−メイソン結社のことは問題外とするも、国際財閥と国際共産主義とが同一祕密力の下に統一されているということは不可能であろうと主張するかも知れない。勿論、これらの三つの国際力は、必ずしもあらゆる時代に、あらゆる場所に於て、あらゆる問題に関して一致して来たものでないことは言うまでもないが、しかし団結心の強いユダヤ民族は、その世界支配を完成する為には手段の如何を選ばないのが常であって、共同の外敵のない限り内部に於ても文字通りに血で血を洗う闘争をも厭わないが、一度外敵が現れる時には、自己の陣営内のあらゆる相違を捨てて一致するのである。そしてこれはユダヤの歴史を多少とも知る者には自明の事であるが、なおこの点に関しては節を改めて記述することにして、ここではユダヤ的世界政策機関の国際性の謎を解くものとしてこの民族そのものの国際性に関して、その歴史的根拠と模範的実例とを挙げることにしたいと思う。

 さてユダヤ民族の国際性を知るためには、この民族が文字通りの国際的民族であることを知り、更にその原因と目的が何處にあるかを知らねばならない。そしてこの点の謎を解くものはユダヤ教聖典としてのトーラ及びタルムードであるが、これに関しては他の場所で論ぜられたことがあるので、ここでは極めて簡単に述べることで滿足したいと思う。

 「汝、寄寓人(やどりびと)として此の地にとどまれ。我、汝と共にありて汝を惠まん。我これらの国を尽く汝及び汝の子孫に與うべし」。

 ユダヤ民族の信仰によれは、「寄寓人」として逗留する国はやがてエホバの神の協力によってみづからの所有となる、というのである。この信仰は、幾千年かのユダヤの歴史が証する通りに19世紀までは文字通りに「寄寓人」として実現されて来たのであるが、実質上のユダヤ解放革命であったフランス革命以来は、表面的には「寄寓人」たることをやめて、寄寓する国の国籍を獲得しその国となりすましつつ、実行されているのである。また彼らは、

 「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅し盡すべし。彼らを憫み見るべからず、また彼らの神に事うるべからず」。

 というエホバの言を信じているので、その国籍を有する国に決して同化することはしないのである。かくてユダヤは、国籍上は英国人であり、ソ連人である、米国人であり、フランス人であり、支那人であり、日本人であっても、実質的には飽く迄もユダヤ人としての自覚を有しなから、その世界政策を実行するのである。

 以上がユダヤ民族の国際性の由って来たる根拠であるが、その目的が何であるかという点に関しては、改めてトーラ又はタルムードに典拠を求めるまでもなく、それが、これらの国を尽く自己の所有となし、その際にその民をことごとく滅し尽すところにあるのである。しかしこの過激な世界征服の手段は、非ユダヤ人の道徳観によっては到底想像だも能わないところであるが、ユダヤ人にとって手段が問題とならないことは、国際資本主義にせよ、国際共産主義にもせよ、国際フリイ・メイスン結社にせよ、常に陰謀と裏切りとテロとをその実行手段として来たことによって証明されるであろう。

 そしてユダヤ人にこれが可能であるのは、特にタルムードに明確に表明されているその人間観の為であって、「神より生れたのはひとりユダヤ人のみであって、他の民族は悪魔の子である」とか、「ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は人間と呼ばれず、動物と呼ばれる」とかいうのがその根本観念である。従ってこの民族にとっては、非ユダヤ人を殺戮することはエホバに忠実なる事であり、あらゆる非ユダヤ人に対しては、人間としてのユダヤ人に対する場合の如き対人責務は何ら存在しないというのである。勿論、ユダヤ人の非ユダヤ人に対して道徳的であることはあるが、しかしそれは、タルムードによれば、「非ユダヤ人の感情を害したり、その敵意を惹起しない為」であり、また「それによって損害を蒙らない為」であって、決して良心からではないのである。

 以上によってユダヤ民族の国際性とその根拠は大体に於て明らかになったであろう。それ故に我々はユダヤ人のかかる国際性が如何なる形態をもってその生活に示現し得るかを、現代の最も著しい例によって述べて見ることにしよう。 ユダヤ人トレービチュは1879年にハンガリーの一小邑で信仰の篤い金持の子として生れたが、親讓りで信仰心が厚く、ユダヤ聖典タルムードの熱心な研究家であった。ユダヤ人らしい「頭のよさ」と「俳優性」を持っていて、16歳の時には俳優になることを志望したが、父に許されず、商業上の用件で欧州各地へ送られた。しかしなおその志望を捨てず、遂にブタペストで俳優になった。そしてユダヤ人らしく文筆業にも手を出せば、政治にも関心を持つに至ったが、ユダヤ教がキリスト教徒間に好遇されないのを知って、ドイツのハムブルクに於て新教に改宗し、やがて新教の牧師としてカナダへ布教に出かけた。そこではそのタルムードによって練磨された論理によって牧師として成功したが、月給の問題でその教会を去り、敵方である英国教会へ転じた。この時彼は年漸く23歳であった。

 その後彼は英国へ渡り、親ユ反日独伊のカンタベリー僧正に取入って牧師生活を続けていたが、そのうちに父の遺産を手に入れると、地味な牧師生活を捨て、ユダヤ人得意の改名をしてティモシー・リンカーンと称し、1910には31歳で英国の代議士となりすましたのであった。しかし彼のユダヤ的放浪性がこの生活にも滿足を見出さしめなかったのか、彼は大陸に帰って、ガリシヤで採油業に手をつけ、百万長者となった。やがて世界大戰が勃発するや、彼は英国紳士の資格で再び英国に渡り、ドイツ語又はハンガリヤ語の書簡の検閲係となったが、ドイツ側の間諜と見做されるに至ったので、米国へ逃走した。米国では英国の請求によって投獄されたが、在獄中のままでドイツの暗号號電報の解読を引受け、囚人らしからぬ酒と女との生活をしていた。16年にはいよいよ英国へ引渡されたが、2年の刑の宣告を受けたにも拘らず、病気という理由の下に病院へ移され、刑期を終了すると、直ちにドイツへ移った。この国では旧王党と結び、やがてカップの右翼革命に加わって成功せず、ミュンヒェンに逃れてソビエット紙幣の大僞造計画を立てたが失敗したので、フランスの一通信社と關係をつけたり、チェッコに渡って僞造文書で政府を欺いて一儲けしたりした。

 しかし彼のユダヤ的放浪性は、欧米二大陸を股にかけることでは滿足せず、やがて支那へ移って某將軍の顧問となり、欧州に於て支那の為に借款を成立せしめようと、文那大使の資格で二三の支那人を引具して先づイタリーへ乘込んだが、ヴィーン市の家具商と称する男に生涯始めての経験として一杯食わされ、また旅券僞造の科で捕縛されるに至った。しかしやがてまた彼は支那へ帰り、三度目又は四度目の改宗をして仏教徒となり、西藏に草庵を設けて照空和尚の名の下に墨染の衣を纏うに至ったが、なお政治活動をも忘れることはなく、ガロンの名の下に活動していたユダヤ人と共に支那の赤化工作にも関与したが、最近はまた事変下に種々の策動をしているらしく報ぜられている。

 我々は必要以上にトレービチュ・リンカーン・照空の伝記を述べたようであるが、しかしこれではなお大網を記しただけであって、彼の半生はまだまだ波瀾に富んでいるのである。勿論彼の生涯に見られるような無責任な国際性は全ユダヤ人にあてはまるものではないであろうが、しかしなおこれが深い象徴的意義を持っていることは疑い得ないであろう。変名乃至偽装転向は実にあらゆるユダヤ人に常に認められる特質であって、例えば前ソ連外交ソ連の元締リトヴィノフの如きは、五つも六つもの名前を持っているのである。


 六、日ユ事変としての日支事変
 一
 ユダヤ問題を知る為にユダヤ人を知る必要のあることは言うまでもないことであろう。しかし、そのユダヤ人を知る為には何よりも先づユダヤ教聖典タルムードを知る必要のあることは、ユダヤ問題に多少の興味を持っている人も、なお十分に認識しているとは言い難いようである。現代の如くに宗教心の衰えている時代に於ては、或る民族の宗教聖典は、その民族の特性を知る十分な材料とはなり得ないかも知れない。

 しかし皮肉なことには、宗教排撃の急先鋒であるユダヤ人こそは最も宗教的信仰の強烈な民族であって、かの反宗教運動の正体なるものも、その主張の元祖としてのマルクスが最も熱心なユダヤ教徒であった・・表面上には政略的改宗をしていたにも拘らず・・という象徴的な場合が証明して余りあるように、ユダヤ教以外の宗教の排撃に外ならなかったのである。この事は、現在のロシアに於て、ユダヤ教とその教会堂とが革命前と殆ど同樣に保存され助長されている、という驚くべき事実によってもまた証明される。それ故に他の民族の場合はとにかくとするにしても、少なくともユダヤ民族の場合には、その宗教聖典はユダヤ魂の最もよき鏡であるのである。或る民族の特性はその宗教乃至宗教聖典に於て最もよく窺われる、という言葉は、ユダヤ民族の場合には文字通りに妥当するのである。

 
しかしユダヤ聖典タルムードは、いわゆるトーラの解釈とその再解釈とより成立しているのであるから、ユダヤ民族の真の姿を把握する為には、先づトーラそのものに就かねばならない。そしてトーラとは、旧約聖書の最初の五卷を言うのであって、これがユダヤ教の真の根本聖典なのである。勿論ユダヤ民族を知るためには、トーラとタルムードの外に旧約聖書の殘余の部分及び新約聖書、なお古くはマイモニデスの著作、新しくは「シュルハン・アルフ」(タルムードの抜粋並びに解釈より成る)、更に新しくはいわゆる「シオンの議定書」と称せられる怪文書等をも知ることが絶対的に必要であるが、しかしこれらが総てトーラ乃至タルムードの解釈、抜粋又は延長であることを考えるならば、トーラとタルムードを知ることのみでも大体に於て目的が達せられることがわかるのである。しかし我々は、この小論では、この問題のみを論じようとしているのではないから、ここではトーラ及びタルムードを中心として、最も根本的であると思われる幾つかの点に関し記述し、以下の考察の序論としたいと思う。

 そもそも宗教乃至宗教聖典に於て最も重要な点は、その神観と人間観とにあることは言うまでもないであろう。宗教とは、その根本を神と人間との関係の問題に持っているものだからである。それ故に我々は、トーラからはユダヤ人の神観を、タルムードからはその人間観を見ることにしよう。

 さて、トーラによれば、ユダヤの神エホバは、一言にして言えばユダヤの民族神であって、例えば新約聖書に於てキリストの説いている如き普遍唯一の宇宙神ではない。従ってその神は、人間的な過誤を犯し、心変りし、不公正であり、復讐心が強く、殘忍であるが、その神が一個の民族神に過ぎないことは、この神がユダヤ民族に世界支配を約している点に特に明瞭に見られるのである。
 「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅し尽くすべし、彼らを憫み見るべからず。また彼らの神に事ふるべからず、その事汝の罠となればり」(申命記七・一六)。
 「エホバは彼ら(異邦人)の王らを汝の手に付したまわん。汝、彼らの名を天が下より除き去るべし。汝には抗することを得る者なくして、汝ついに彼らを滅ぼしつくすに至らん」(申命記七・二四)。

 我々は今はこれ以上にトーラより引用することを避けるであらう。しかし以上のみをもっても言い得ることは、かくの如き神は一個の民族神としても決して高等なる種類のものでないということである。もし我々をして端的に言わしむるならば、エホバとは即ち一種の妖怪乃至悪魔にすぎないのである。而してこの妖怪乃至悪魔は、その殘忍性を発揮して、異邦人の神を排撃し、非ユダヤ人の王を廢止し、異民族のすべてを滅亡せしめようとするのである。

 ここに於て我々が思わずも想起するのは、赤色主義者の宗教排撃と君主制乃至王政転覆の運動であって、この種の運動が古来ユダヤ人によって指導されて来た事実を知る者は、共産主義者乃至革命主義者なるものがユダヤ的伝統の忠実なる遵守者であることをも容易に知ることができるのである。しかも同一の事は、ユダヤ人をその主体とする国際資本主義に関しても言われ得るのであって、ユダヤ資本国の独裁するいわゆるデモクラシーなるものも全く同一精神のものであることは今更説明の要はないであろう。而して以上のユダヤ神観から得られた認識は、ユダヤ人の人間觀を知るに至るとき、一層の確証を得るのである。

 ではユダヤ民族の人間観は如何なるものであるか。トーラに描かれたる所によれば、ユダヤ人そのものは既に物質主義者であり、嘘言と詐欺と竊盜とに長じ、性的には無恥で、奸策と詭計とにすぐれ、従って非社会的であり、また復讐心強く、殘忍性に於ては無比である。しかも最も注意すべき点は、タルムード(及びその解釈の書としての「シュルハン・アルフ」等)に見られる次の人間観乃至非ユダヤ人観である。

 「ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は人間とは呼ばれず、動物と呼ばれる」。

 ユダヤ民族から見れば、ユダヤ人のみが人間であって、非ユダヤ人は豚であり、馬であり、動物であり、時としては動物以下のもの(例えば糞尿)であるとさえ言われるのである。従ってユダヤ人と非ユダヤ人との間には人間と人間との間に成立する総ての関係は成立しない、という結論が生れるのも不思議はないであろう。

 この人間観からトーラに描かれている前述の如きユダヤ人の諸特質は生れて来るのであって、非ユダヤ人には所有権はなく、ユダヤ人は非ユダヤ人に対しては誓約を守る義務はないというのである。従って非ユダヤ人の所有物は当然ユダヤ人のものであるばかりか、非ユダヤ人のものは元来ユダヤ人のものであるから、如何なる手段によってもそれを奪取することは、神慮を行うものであり、なお一層進んでは、溺れんとする非ユダヤ人を救う義務はないのみか、むしろ彼の溺死を助力することこそ神慮に叶うというのである。非ユダヤ女の貞操を蹂躙する位のことが朝飯前のことであるのは、以上述べた事から容易に察せられるであろう。

 以上の略述によっても、ユダヤ民族が元来如何なる特性を持っているかは大体に於て理解ができるであらう。而してこれは、モーゼに率いられてエジプトを去った群衆が犯罪者と天刑病者であったという昔の史家の説や、ユダヤ民族が有史以来漂浪して行く處に於ては唯一の例外もなくいわゆる排ユ問題を惹起せざるを得なかったという事実を充分に説明するものではないかと、我々は考える。ユダヤ人が排ユ者を排斥する爲に常に宣伝する「人種的偏見」乃至「少数民族の虐待」などは、事実に於ては全くその逆であることが歴史の事実の証明する所であって、如何なる民族の如何なる宗教聖典に於てもトーラ乃至タルムードに見られる程の「人種的偏見」と「少数民族による多数民族の虐待」の例はないのである。

 排ユとは、人間のイデーを二重の意味に於て救わんが為に、キリストの語を借りて言えば、「剣を出す」所の聖業であるのである。即ち、一つには、ユダヤ人によって抹殺された非ユダヤ人の人間たる資格を回復し、今一つには、妖怪乃至悪魔を神として戴くことの迷妄さからユダヤ人そのものを救わんが為である。しかしこの聖業に際しては、相手が上述の神観と人間観とを持った特殊民族であることを充分に考慮して、非ユダヤ人の心理で事に当ってはならない。勿論我々と雖も、ユダヤ人もまた結局人間であるこを否定するものではないが、しかし上述の如きユダヤ人がその本来の人間に復帰する迄には、恐らくユダヤの過去の歴史四千幾百年に相当する年数が今後必要であるのではないかと考える。而してその条件としては、彼らがすべてのユダヤ教会を破棄し、トーラとタルムードとをすべて燒却することが絶対的のものでなくてはならない。要するに、ユダヤの歴史を構成すると言っても差支えない「嘘言・詐欺・謀叛・暗殺」が、トーラ及びタルムードに見られる神観と人間観とにその根底を持っていることを知ることが、ユダヤ問題研究の最も基本的な要諦である。

 

 しかしこの小論の目的は、日ユ抗爭としての日支事変であって、ユダヤ民族そのものに関する評論ではない。しかしそれにも拘らず我々が上述の論をなしたのは、日支事変の真の意味を明らかにすることは、ユダヤ民族の本質とその根本意欲とを明らかにする所なしには不可能だからである。防共をその最も神聖なる意義の一つとする日支事変は、しばしばラジオ等に於て報ぜられる通りに国民黨と支那共産党との抗爭が事実であるのみか、深刻でさえあるとすれは、我々としてはその重要目標の幾分かを失うことになるであろう。

 即ち共産党と抗爭する蒋政権は、たとえ排日侮日抗日の非道を犯したとは言え、この防共の一点では、今や我々と同一の線上に立つことになるので、この蒋政権を「相手とせず」と主張するのは、少くとも蒋政権の防共的側面を無視することにもなると考えられるからである。無批判になされるラジオ等のかかる通信放送は、それを是正することなく、そのまま許しておいて可であらうか。殊に万が一にも今後益々蒋政権と支那共産党との軋轢が甚だしくなるか、あるいは蒋政権及びモスコーがユダヤ的に共謀してこの種の有名無実の軋轢を捏造して宣伝放送する時、日ユの抗爭としての日支事変の真相を達観しえない者は、その日本人たると外国人たるとを問わず、今度の聖戰の意義に関する確信に動搖を来たすことがないであろうか。この悪質の宣伝放送によって日独伊の防共陣営に搖ぎが来ようとは思われないが、しかし世界の大衆は、国内に於ても国外に於ても、常にかかる確信に生くる者のみであるとは限らないのである。また国外は言うに及ばず国内に於ても、ユダヤの宣伝ならば何事もそれを真と信じ、ユダヤ戦線に躍ることを真理に忠実なる者と考える程のセンチメンタリストがいないとは限らないのである。

 それ故に精神總動員下に於ける最急務の一つは、日支事変の持つ日ユ抗爭としての意味を一般に徹底せしめる事である。ユダヤ人が日本の雜貨を世界に売り捌いてくれるという如き枝葉末節の唯物主義的言説や、日露役に於けるユダヤ人の資金融通を忘れてはならないという如き無暗と恩を着たがる性癖は、それ自身としては正しい要素を含んでいるかも知れないが、しかしそれらの事柄が事実に於ては我々が乘ぜられ、利用されていることを示すに過ぎないということは、ユダヤの歴史を多少なりとも知る者には自明のことであって、非ユダヤ人の心情をもって推察したこの種の甘い言説こそはユダヤ民族に取っては最も好都合のものであり、従ってユダヤ人はユダヤ人のお人好しから出て来るこの種の言説を当てにして、古来その世界政策を遂行して来たのである。

 ともすれば日本主義雜誌にさえもこの種の新説ならぬ珍説、名論ならぬ迷論が見られるので、聖戦の最後的勝利の確保の為には、この種のお人好しの無批判論説を先づなくすることを忘れてはならない。殊にかかるセンチメンタリズムの結果として、ナチスドイツの事業をして真に永久的価値を獲得せしめている重要要素としてのいわゆる排ユ・・その意義は前節に於て論及した通りである・・を邪念をもって眺め、時としてはそれを過激なる暴政と見做すに至っては、その人が単にマルクス主義の思想的批判の無能力者たることを証するばかりでなく、マルクス主義といわゆるファッショとの区別さえも出来ない程度の思想的未熟者であることを証明するので、防共を聖業の一端とする今事変下に於ては、これにまさる痛恨事は少ないのである。

 万一にもこの種の人々が今なお日本にありとすれば、彼らこそ最もユダヤが頼みとする徒党であって、いわゆる国内に於けるユダヤ戦線のうち、彼らこそ最も無害らしく見えながらも最も有害なる容共派であるのである。正面より排日侮日抗日の勢を見せる容共派はこれを防ぐことも容易であろうが、容ユ派ナチスの形式で押し寄せる容共派は、ともすればその巧みな明細の為に世人が欺かれるからである。殊にこれは、容ユ排ナチス主義の当人が、自己の容共主義に無意識である時には一層大きい害毒を齎らすのである。

 しからば、日支事変の真義が日ユの抗爭であることは、如何にして証明され得るであろうか。これに対しては、現在の世界が政治的にも経済的にも思想的にも極めて複雜であるのに照応して、極めて複雜した方面から回答がなされ得るのであるが、この小論に於てはそれをあらゆる角度から論ずることは不可能であるので、我々の視野に入って來る限りに於ける最も重要なる事項を選んで論ずることにしたいと思う。

 先づ最も注目すべき最近の事項の一つは、ユダヤ人トロツキーの日支事変に関する予言(?)である。それによれば、日支事変は、日本のあらゆる戦略上の勝利にも拘らず、結局は日本の敗北を以て終るであらう、というのである。この預言は、共産主義者トロツキーがユダヤ人であることを知る人には、それがユダヤ人の見解又は希望であることが直ちに看取され得るので、別に大した意義のないものであることが判明するのであるが、しかし彼の予言は、以上に続けて、英国はインドを失うに至るであろう、と言っているので、ここに一段とその意義を増して来るのである。

 ではユダヤ共産主義者トロツキーは何故に日支事変と関連させて、あるいは日支事変に関連する予言と同時に、英領印度のことに言及したのであろうか。殊に現在に於ては、英国もまた佛・米・チェッコと同じくいわゆるデモクラシーの国として完全なるユダヤの独裁下にあることを考慮する時に、日本と共に英国が問題にされるということは、大きな矛盾ではないであろうか。殊にトロツキーは、現在では第四インターの頭目であるから、たとえ第三インターが最近に英国に対して攻勢に出ることを決議し、例えばユダヤ人少佐の率いる勞働党等をお先棒として策動しているとしても、トロツキーの英国に関する言説は、少なくともこの連絡に於ては不合理ではないであろうか。

 しかしここに想起しなくれはならないのはトーラの神観に関する我々の前節の記述であって、ユダヤ人は、彼が国際資本閥に属しようと、第三インターに属しようと、他民族の神と君主とを排撃してそれを破滅に導くことが問題となる限りに於ては、皆直ちに一致するのである。この観点から見るとき、現在の米国乃至チェッコはユダヤ人を大統領とし、仏も先には生粹のユダヤ人(ブルム)を首相としたのみならず、今またユダヤ女を妻とする者(ダラヂエ)を首相としており、ソ連もまたこの点では同一(スターリン)であるのに反して、英帝国は、それが事実上ユダヤ独裁下にあるとは言え、形式的にはその元首はなおユダヤ人とはなっていないのであるが、これが、ユダヤ民族から見て、トーラに示されている神慮に叛くことは言うまでもないことであらう。殊にユダヤの有力なる代弁者であったフリイ・メイスン祕密結社員イーデン外相を退けた英現内閣に対しては、ユダヤの不満は各陣営を通じて大なるものがあることは察するに難くないのである。これらの点が、英国に比類なき日本国体に対するユダヤの深く激しい呪詛の表明の序に英国をも並べて論ぜしめるに至った最大の理由であらう。

 ここで我々は当然ユダヤの血を享ける亡命ソ連大將リュシコフ問題にも触れなくてはならないが、先づ我々は、日本の聡明なる新聞記者連が彼との会見に於て最も重大なる二点を充分に明らかにする労を取らなかったことに対する遺憾の意を表明したいと思う。即ちその第一は、大將がソ連を脱出した今日に於てもなおボルシェヴィズムの信者であるか否か、ということであり、その第二は、大將と第四インターとの関係如何である。「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」との国ソ連に関して同じく「嘘と詐欺と謀叛と暗殺」とをその歴史の本質とするユダヤ民族に属する一人が言うことは、その人が例外的に善良なる個人である場合にも、なお我々としては輕々しく直ちに文字通りには信ずることはできない。殊に大將と第四インター乃至トロツキーとの関係が明白にされない限りは、大將のソ連の内情に関して暴露する所も、そのまま信ぜられる訳には行かないのは当然であろう。

 特に我々ユダヤ問題に注目して来た者にとっては、大將がカガノーヴィッチ閨閥の独裁的地位に関して語らなかったことが大きな謎として殘るのである。以前に識者の間ではトロツキーとゲー・ペー・ウーとは連絡を持っていると信ぜられていたが、この説が最近の肅清工作の遂行の示す所によって或る程度まで真実であることが証明されたように見えるにも拘らず、今やユダヤ・・少なくともパレスティナ共産党・・はトロツキーに味方して、スターリンを見捨てたという噂に対しては、いま直ちに全幅の信頼をおく事はできないのである。その理由は、ソ連をも含めての「持てる国」としての侵略国の旦那衆は、多少の暇があれば互に「私刑」に陥るのは、その唯物論の当然の帰結であるからである。

 しか我々は、いま国内に亡命中の大將の件に関しては、上述の諸疑問が明らかにされるまでは論じないことにして、ここでは筆を転じて、近来行われたユダヤ諸会議のうち、特に注目すべき二つを取りあげて、日支事変が日ユ事変であることを明らかにすることに進みたいと思う。

 

 その一つは、昨昭和12年12月26日から28日にかけて滿洲国ハルピンに於て開催された極東ユダヤ人協会の第一回会議である。この会議に關しては種々の解釈が下されているようであるが、その議長がカウフマンであり、副議長がベルコヴィッチであり、顧問としてザイグレーフが挙げられている所から見て、この会議の決議もまたあらゆる他のユダヤ人会議のものと同じく、その正体が「宣言」でなく「宣伝」であることは、我々の確信する所である。殊にユダヤの幾千年の歴史を知り、またユダヤが東洋に於て英・仏・ロ等の名の下に久しきに亙って何を策謀して来たかを考える時、その「正義日滿支持」の宣言は、窮地に陷った場合に禍を転じて福となさんが為に、ユダヤが非ユダヤの正直さと正義心とを利用してなす常套的詐欺手段以外の何ものでもないことは直ちに判明する。

 殊に議長カウフマンが、この会議の前後に於て天津及び香港に赴いて、あるいは講演にあるいは会談に於て、アメリカユダヤ資本の北支流入を策動したことを知る者には、かの会議そのものの内容が日支事変によって動搖したユダヤの東洋に於ける地位を再確立せんとするものであり、そのまことしやかな決議宣言はその為の宣伝であることが理解されるのである。即ち皇軍による北支及び中支の占拠の為に受けた在支ユダヤ財閥の痛手、排日侮日抗日の暴挙に駆り立てた蒋政権の余りにも無力さによって明らかにされたユダヤの違算、ユダヤ勢力の表面的形態としてのソ連・英・米・仏等の我が国に於ける威信の失墜等、直接間接のユダヤ地盤の動搖のみならず、昨年末の迷彩日本共産党の検挙の結果として赤化宣伝の無力化に座視し得ざるは当然であって、これがかの極東ユダヤ人会議となり、その宣伝的宣言となったのである。

 殊にその宣伝文書中注目すべきは、「欧州数ヶ国及びソ連によってユダヤ人の一切の人権が蹂躙され、ユダヤ教が悉く絶滅され」と書かれている点であるが、これは英・米・仏・チェッコ等のユダヤ独裁国は勿論のこと、ソ連乃至赤色西班牙に於ても事実はその正反対であり、むしろ一切の人権を蹂躙されているのはこれらの諸国の多数民族であり、絶滅されようとしているのは特にソ連乃至西班牙に於けるキリスト教徒である。それ故にこの部分の真意は、ドイツ・イタリー・防共西班牙に対する毒矢にすぎないのであって、一言にして言えば防共諸国間の離間がその隱れたる目的であるのである。その際にユダヤ專制下にあるソ連を加えたのは、日本とソ連との緊張した関係を利用して、あわよくば日ソを相戦わしめ、それによってユダヤ民族の最近の目標たる第二次世界戦争を勃発せしめようとしているのである。

 以上に続いてその宣伝文は、彼らの紋切型の口上である「少数民族の迫害」を持ち出し、それによって彼ら自身の少数民族による世界多数民族の搾取の事実を隱蔽し、更にユダヤ民族の「道徳的長所」と「一般人類の文化に対する寄与」とを力説することさえもしているが、その「長所と文化に対する寄与」とが表面的形態はともあれ、結局本小論第一節の如き内容を持つものであることを知る者には、その余りにもユダヤ的なる厚顏無恥さに文字通り開いた口が塞がらぬのである。しかも更に「日滿両国はユダヤ民族にとっては唯一の平和郷である」と嘯き、コミンテルンを「世界的罪悪の根源」であると白ばくれ、「大家族主義的家主義」を日滿両国の使命であると煽動するに至っては、その言辞の尤もさに反比例する内容のユダヤ的悪逆さを痛感せしめられるので、如何に人の好い我々日本人と雖も、これをそのまま信ずる程に甘くある事はできないのである。爆撃せんとし又は利用せんとする相手に対してはその相手の長所を煽動する事によってその目的を果そうとするのは、これ実にユダヤの常套手段であつて、非ユダヤ人の心理を以てユダヤ人を推しはかる限りに於ては、過去現在の人類の歴史に証明している通りに、必ずユダヤ人をしてその野望を達成せしめる外はないのである。

 ここに我々は、この東洋ユダヤ人協会の第一回会議の決議文と並んで、同じく昨年の10月28日附パレスティナ発行のユダヤ新聞ハボケル紙上の次の宣言文に世人の注意を喚起したい。

 「チェッコは、他国に対する憎悪と圧政及び反ユダヤ主義の旺盛な諸国によって取囲まれているにも拘らず、それは岩の如く毅然として立ち、真の自由なる国として模範たることを世界に示している」。

 チェッコの内情を知る者は、この自由がユダヤ人の自由を意味することを直ちに知るであらう。大統領始めとしてユダヤ人が枢要な地位を独占し得ているチェッコこそは、他国に対する憎悪と他民族に対する圧政との模範たる国であって、これはチェッコが極悪非道のソ連と軍事条約を締結しているという一事のみからも、論壇され得ることであるが、そのチェッコを真の自由の国と称するユダヤ民族が東洋に於てのみコミンテルンを「世界の罪悪の根源」と主張することが如何に真実性を持ち得るであらうか。世界大戦の久しき以前にユダヤフリイ・メイスン祕密結社は、独・墺・ロの三帝国を壞滅させ、その中間地帶に一国を作って欧州撹乱の策源地とすることを決議していたことは文献的にも明らかであるが、その策源地として人爲的に生産されたのがチェッコであることを思えば、そのチェッコがユダヤの樂天地であるのは当然であるが、東洋にもまたチェッコを建設しようとするユダヤの策動に対しては、我々はその宣伝のままにそれを受入れることは出来ないのである。

 次に考慮したいのは、上述の極東ユダヤ人会議が日滿攻略の搦手戦法であるのに対して、同じ日滿攻略の遠距離間接射撃とも言うべき国際平和運動連盟主催の無防備都市空爆反対国際大会(本年7月24日パリにて開催)のことである。現在に於てもあらゆる国際会議が世界唯一の国際民族であるユダヤの指導下にあることは否定され得ない事実であるが、それと同時に注目されるべきことは、現代に於けるあらゆる平和団体が、事実に於てはユダヤの当面の目標としての第二次世界大戦惹起の手段化していることであって、巧妙なるユダヤの策動は、かかる団体を用いて自己の作り出す世界大戦の責を他へ轉嫁することを期しているのである。

 それは例えば、日支事変を勃発せしめたのも結局ユダヤであるが、しかしその責は專ら日本にあるかの如くに世界の無批判なる大衆に信ぜしめているのと、全く同一筆法である。ユダヤの息のかかったもののなす事であれば、ソ連に於ての如く幾百万幾千万の人間を殺戮することも正義であり、英・米・仏に於ける如くに少数国際資本が大多数の民族を搾取しても正義であり、また支那に於ける如く堤防を破壞することによって幾十万の自国の民を苦しめても正義であって、それらに対しては何處よりも一片の抗議も発せられないのであるが、ユダヤの世界支配の道を阻止するものは、自国を滅亡の淵から救うことも悪虐非道の暴挙であり、防備都市を爆撃することも人道を無視する行爲と称せられのである。

 パリに於けるこの国際会議の議決を見ても、この意味は余りにも明白に露呈されてゐる。殊にこの会議もまたユダヤの策動であることは、同大会にメッセージを寄せた者がユダヤフリイ・メイスン結社員蒋介石であり、西班牙人民政府ネグリン首相であり、チェッコのユダヤフリ−メイソン結社員ベネッシュ大統領であることによって明瞭であるばかりか、その会議からメッセージの送られたのがアメリカユダヤフリ−メイソン結社員米国大統領であることを思えば、思い半ばに過ぎるものがあるであろう。この会議に英仏のメッセージのないのは、フリ−メイソン結社員である仏前空相が司会しているためであり、英国ユダヤ人がこの平和連盟の中枢をなしているが為であろう。独伊を除く世界の言論通信機関の大部分を掌握するユダヤの動きは、その東の決議を常にその西の決議と連絡せしめ、その赤色系の策謀を常にその資本閥の意図と連絡せしめるのであって、このことを知る者には、以上の表裏をなす二会議の決議に現われたる所のみを見ても、ユダヤの動向を知るには充分である。この意味に於て、日支事変を誘因として行われたこの二つの会議は、日支事変そのものが日ユの抗争であることを充分に証するのである。

 

 上述のユダヤの近親遠攻の兩戦法を考慮する時、日支事変の日本に対するいわゆる世界の輿論の悪化の真因が直ちに判明するであろう。即ちユダヤは、その金力の独裁下にある世界各国の言論通信機関を総動員して、非事実を事実とし、事実を歪曲して、元来正義心に富む非ユダヤ人を煽動しているのである。それ故に日本が正しければ正しい程、強ければ強い程、日本に対する世界の輿論の悪化するのは必然であって、これは日支事変が日ユ事変であることの真相を掴むことによってのみ理解されるのである。

 従って、正義日本の立場は、一部正直なる日本人の考える如くに、事変の真相を対外的に宣伝することによって、正当な理解を得るということは殆ど不可能に属するのである。否、多くの場合には、日本は宣伝すればするだけ一層世界の輿論の悪化を期待しなくてはならないであろう。この事情は、独伊の場合と全く事情を同じくするのであって、この間の事情を明瞭に認識していない限り、日本の無批判なる自由主義者がユダヤの宣伝を鵜呑みにして真の独伊を解しないのに照応して、ともすればユダヤの宣伝のために自国をも見誤る者が生じないとは言えないのである。而してこの銃後の動搖こそは、ユダヤがその言論通信機関を総動員して世界の輿論を捏造している最大目的の一つでもあるのである。

 勿論かく言っても、我々は決して宣伝の不必要を説く者ではないのであって、真に強力且つ有效なる宣伝は、以上の事実を確認した上でなされない限り、単に無效果に終るのみか、逆效果をさえ生ずることを憂える者であるに過ぎない。第一節に述べた如き神観と人間観とを持つユダヤ人が同一線上のものとして論ぜられるという如き史上稀に見る不公正事さえ平気で犯されるに至るのである。
常に正義を口頭に唱える北米大統領が、ファッシズムを人類の敵であると宣伝して言えば、ユダヤの独裁乃至專制に服さないものは、すべて非人道的の汚名を浴せられるのであってこの事情の正常な認識がない限りは、例えばいわゆる「国民使節」乃至「交換教授」などのうちの自由主義者の場合にしばしば見られる通りに、事変下に外国に使しても、却って逆效果を挙げる外に道はないのである。

 さて我々は、以上の説が単に我々の想像に止まるものでないことを証明する一つの材料として、在来日本に於ては殆ど問題にされたことのない情報を提出することにしよう。1928(昭和3)年は、蒋政権がいよいよその地歩を確立し、排日侮日抗日の政策を表面的に掲げるに至った年に属するのであるが、この年の年頭に当ってスイス国チューリヒ発行の「ユダヤ中央通信」は、その年頭の辞の中で次の如き注目すべき記事を掲載している。

 「ヨーゼフとその兄弟達に関するあの聖書に見られる譬喩は、巨大に拡大された姿に於て、この大洋のかなたで演ぜられている。大洋の彼方へと追いやられた賦役奴隸が世界一の強力な国家の支配者となり、以前の富裕なる彼の兄弟を苦しい困窮から救う。このアメリカ移民は、ユダヤ民族全体の爲め礎石となったのである。アハスヴェールは夢想しつつ、ハドソン湾のほとりに雲表に聳え立つ無数のバビロン塔の默示録的な姿に見入っている。彼はまた、蜂のようにこの巨大な蜂房に群り入り、またそこから群り出る所の、またたかだか一世代の間にユダヤ特別区の住民からあらゆる時代の最大の建築者になった所の、彼の同族の子孫なるこの大衆の姿に見入り、そして主エホバの御心を認識するのである。そして彼には、その懸命な支配術を以て五大湖を自己の意のままに操っている所の、世界を支配してゐる英帝国の正体が分って来る。彼は外ならぬそこに、彼の同族の子孫が政治上の人気ある大家として登場して来るのを見る。そしてこの現象の最後の意味を悟る。未来の前にかかっている帳が裂ける。アハスヴェールは思いもかけなかった幻想を目撃する。即ち、強力なユダヤ人団がアジアの中央に頑張っていて、支那という巨人(それが落す影は全世界に伸びている)の更生を助ける者として贊歎されているのである。

 ユダヤ民族は、その散逸にも拘らず一体となったのである。イェルーザレムが確かに人類の精神的枢軸となったのである。精神上の、物質上の、また道徳上の諸力の強力な源泉は、合流してもとの故郷の方へ流れて行く。アハスヴェールは驚愕しつつも偉大なる事件の連関を納得する。そして新たなる勇気を以て5698年の一里塚を通り過ぎる。彼は以前よりも一層未来の希望に勇んで祝福の祈りを捧げる」。

 無国籍漂泊ユダヤ人の象徴であるアハスヴェールの幻想としてここに描かれているものは、ユダヤの世界支配の過去及び未来の姿である。即ち既に英米の二国は完全なるユダヤの支配下にあるが、今や巨大なる支那もまたユダヤの指導に入りつつあるというのである。勿論この点に於ては、英米と等しくあるいはより完全にユダヤの支配の下にあるソ連乃びフランスのことが問題とされていないが、これはユダヤ政策を知る者には自明のことであって、ソ連とその半属国としてのフランスがユダヤの世界支配のための片腕であることは、ユダヤとしてはできるだけ表面に出したくないのである。しかし現在の我々に特に興味あるのは、この文が引用した部分の第三節に於て支那を問題としていることであって、この象徴的なアハスヴェールの幻想のうちに我々は、その自誇と確信のために不用意にも早期に漏らされたユダヤの支那支配の計画を見ることができるのである。

 次に我々は、ユダヤ側のこの言説に照応する支那側の材料を一つあげることにしよう。それは、アハスヴェールのこの幻想が描かれた年より三年を経た昭和6年の1月元旦にユダヤフリ−メイソン結社員蒋介石がなした所の年頭講演である。その要旨は、「第二次世界大戦の時期が迫って来て、これには欧米諸列強も參加するし、日本も無論參加するのである。而してこれが為に一番多くの犧牲を払うものは我が中華民国である。しかしこの大犧牲を忍ばなければ、我が国威の回復は到底見込のないことであるから、我々は今よりその準備に取掛らなくてはならない」というのである。

 さて今このユダヤフリ−メイソン結社員蒋の年頭演説を考察するのに、最も注目すべき点は確信を以て表明されている第二次世界大戦の予言である。しかもこれは、既に我々が幾度か暗示しておいた通りに、ユダヤの現在の世界政策の第一の目標であるのであるから、この言辞に見られる蒋の確信は、彼がユダヤフリ−メイソン結社員としてユダヤの世界政策に呼応しているが為に外ならない。而して第二次世界大戦の舞台の中心の一つを支那においていることも、ユダヤの世界政策と完全に一致しているのである。ただこの引用の後の部分は、蒋の意図が中国の国威の回復にあるかの如くに見えしめるために、正確なる批判力のない者は、我々が既に第二節の冒頭に於て論及した如き錯覺を起させられる事があり得るかも知れない。そしてこれは、これまた既に第二節で論及された如くに、過去にも現在にも蒋政権及びその黒幕としてのユダヤが目標としている所であって、その巧みな迷彩によってユダヤフリ−メイソン結社はその世界支配を完成せんとしているのである。

 
ここに見られる蒋の老獪さは全くユダヤ一流のそれであって、蒋の意図は、インドに於ける国民会議派が国民の名に於てインドをより完全なるユダヤのインドとしようと努力しているのと全く一致しているのである。実に蒋政権は、表面的には国民政府と自称して、国民の眼を欺くために「新生活運動」の如く表面的には支那民衆の利益を計る如くに見せかけながらも、実際に於ては自己の閨閥の利益とユダヤの利益とを目標にして政治をなして来たのである。国民政府がその名にも拘らず、一朝事ある時には、ソ連のユダヤ共産主義とさえも握手し得るのも、その根底が同一のユダヤ戦線上のものであるからに過ぎない。

 しかし、英・佛・米・ソ連のユダヤ戦線の対支援助の理由は、なお単に以上では尽きないのであって、日支事変が日ユ事変であることは、なお一層深刻な意味があるのである。即ち蒋政権のユダヤとの関係は、今まで我々によって論ぜられまた世上に於ても論ぜられ来たって居る所の利益関係に基く結合関係の外に、今まで極めて稀にしか問題にされなかった蒋政権のユダヤフリ−メイソン性による連絡があり、なお一層重要であると共に今まで殆ど全く見逃されていたものに、孫逸仙(及び蒋閨閥)が支那ユダヤ人であることに基く民族的血による連絡が存在しているのである。蒋政権が軍事的には見当外れの敗戦に敗戦を重ねて居るにも拘らず、なお経済的その他に於て案外のねばり強さを示している真の理由も、実にこの最後の二点を明らかに認識することによって、その真の姿が掴み得られるのである。

 

 三民主義の開祖孫逸仙がフリ−メイソン祕密結社員であることは、我が国に於ても、苟もフリ−メイソン結社に関して多少とも知る限りの人に取っては常識である。しかし、今我々に問題であるのは、彼が単にフリ−メイソン祕密結社員であることではなくて、彼が如何なるフリ−メイソン祕密結社に属するかということである。恐らくフリ−メイソン結社に関する研究の諸先輩にとっては既に明白であったと考えられるが、しかし筆者にとって誠に重大な発見であったのは、ドイツのユダヤ問題研究雜誌「世界闘争」がその1935年の9月号に於て、孫逸仙が在上海のブナイ・ブリス祕密結社の高級社員であることを暴露していることである。なお孫逸仙が同時に支那の祕密結社「天地会」の有力会員であったことも、旧墺國首都ヴィーンで発行された国際フリ−メイソン結社百科全書に明記されている。

 ここで特に注目に値するのは、かのブナイ・ブリス祕密結社が本来はユダヤ人のみのフリ−メイソン結社であることと、かの天地会なる祕密結社が、古来祕密結社の跳梁甚だしきこと世界にその比なしとまで言われる支那に於てさえも最も優勢にして過激なものであり、その儀礼には西欧のフリ−メイソン結社と深い類似点があることとである。

 ここでユダヤそのものの歴史を回顧するならば、パレスティナに於けるユダヤ国の滅亡に当って、その十二支族の幾つかは東方に移り、その後杳としてその行方を消してしまったと伝えられているのであるが、少なくともその支族の一つ乃至幾つかは支那に入っているであろうと言われている。支那の開封には、今なおいわゆる支那ユダヤ人が明らかに存在しており、筆者の手許にその写真があるばかりでなく、本年ドイツ出版のユダヤ辭典にも、「支那ユダヤ人」なるものの肖像が掲載されてあるからであって、その服裝が全く支那式であるばかりか、その容貌もまた大体に於て支那人と見えるのである。ここに於て我々は、西欧に於けるフリ−メイソン結社の伝統が大部分ユダヤ伝統のものであることを考慮に入れ、またかの天地会の伝統がフリ−メイソン結社に類似することを考慮する時、孫逸仙は人種的にも純支那人ではなくて、支那ユダヤ人ではないかという結論に到達するのである。而してこの大胆にして突飛にも見える結論を肯定してのみ、彼がブナイ・ブリス祕密結社の高級社員であつた理由も判明するであらう。否、それのみではなく、この点よりのみ、彼の謀叛と革命とに対するユダヤ的熱情及びその三民主義の親ユ抗日性もまた充分に理解され得るのである。かくて三民主義とは、ユダヤフリ−メイソン主義の支那化に外ならないことが理解され得るし、その三民主義が結局今次の日支事変を導き出して来た理由も理解され得るのである。

 
次に現在の日支事変の当面の責任者である蒋介石は如何であるかと云うに、彼もまたフリ−メイソン祕密結社員であることは、我が国に於ては孫逸仙の場合ほどには広く知られていないらしい。しかし彼もまた三民主義を奉ずる大部分の政略家と同じくフリ−メイソン祕密結社員であることは、日支事変以来ドイツのユダヤ人問題研究雜誌がしばしば暴露しているばかりでなく、前にも論及した国際フリ−メイソン結社百科辞典がそれを証している。即ちそれによれば、蒋は米国系のフリ−メイソン祕密結社員であって、マサチュセッツ州に本部を有する在北京パゴーダ結社に属するのである。しかしこのパゴーダ結社が、孫逸仙の属したブナイ・ブリスの如くに純粹のユダヤ祕密結社であるか否かは、我々には最早重大な問題ではないのであって、現在に於ける世界のフリ−メイソン祕密結社が例外なくユダヤの支配下にあることを考慮する時、蒋もまた孫の如くに、その行動の根本がユダヤフリ−メイソン結社の綱領に従うものであることは疑う余地はないのである。

 しかしここに誠に興味深い事実は、以前よりしばしば蒋が支那人ではないとなされることである。これは蒋介石が普通の支那人に見られぬ力強さを持って事を処して行くことに対する感歎の念より生まれたものであるらしく、時としては彼が日本人に擬せられることさえもあるのである。この世に広く行われて来た噂は、それが何らの明確な根拠のない噂であるとしても、人間の本能、特に多数の人間の一致した本能なるものが、時としてはあらゆる理性の努力にもまさって事物の実相を把握するものであることを知る者には、この噂が単なる噂以上の意味を何處かに蔵しているのではないかという疑問が生れて来る。この連絡に於て筆者が事変以後になって経験した大きな驚きは、孫逸仙がユダヤフリ−メイソン祕密結社員であることと共に、蒋介石の顏貌のみならずその全体の身のこなし方に至るまでが、近来ソ連に於てその肅清工作の犧牲になってユダヤゲー・ペー・ウーの長官であったヤゴータと全く同一であるということである。筆者は念の為にヤゴータの肖像を多数の人に示したのであるが、一二の例外を除いては、皆なその像を蒋であると言うのであった。これを換言すれば、蒋の骨相その他は全く典型的なユダヤ型であるということである。

 この連想は、もしユダヤゲー・ペー・ウーの長官ヤゴータと国民政府の実権者蒋介石との間に以上のような偶然的相似が見られるばかであるとすれば、一顧の価値もないであろう。しかし我々には、例えば焦土戦術、雜軍整理、督戦隊、河川決潰等に見られる蒋の殘忍性のみならず、その藍衣社統率に見られる蒋の陰謀性をも考慮に入れて考察する時、蒋のやり方の根本的特質が全く本小論の第一節に略述された通りのユダヤ性に外ならないことが判明するので、ここに彼と殺人鬼ヤゴータとの偶然的相似は、その内面的真実性乃至必要性的根拠を得て来るのである。而して蒋と孫との関係も、この点までを把握する時に於てのみ充分な理解を得るであろう。またこの点を捕捉してのみ、三民主義とソ連との親近性、日支事変下に於ける蒋政権と支那共産党との共同戦線の真意も理解され得るであろう。実に蒋政権は、その権力獲得の手段としての国民党の名やファッシズム的政策の部分的採用にも拘らず、その実質は上述の如き幾重かの意味に於けるユダヤ戦線であるのである。而してこの点より蒋介石政権のねばり強さの謎も解け、また蒋政権に対する世界のユダヤ輿論の支持の謎も解けるのである。日支事変は日ユの抗争であるとの我々の主張は、ここに至ってその最も本質的な意味を明らかにしたであろう。

 蒋政權の究極の目的は、少なくとも彼の昭和6年の年頭演説以来彼自身によっても明らかに意識されている通りに、第二の世界大戦の誘発にあるのであって、これによって殆ど完成されようとしているユダヤフリ−メイソン結社の世界支配をして、その最後の完成を得せしめようというのである。例えば蒋介石の去る6月1日の対外声明の如きも、多少ユダヤフリ−メイソン結社問題を知る人には直ちに察せられる通りに、ユダヤフリ−メイソン結社員としての蒋が世界のユダヤフリ−メイソン結社に発した救助信号に過ぎないのである。而してそれに応じて表面的に立ったのが赤色系ユダヤフリ−メイソン祕密結社であって、フランスの西沙島占領及びソ連の張鼓峰占拠等は同一の隱れたる指令の下に連絡してなされている対日行動であるに過ぎない。これに対してユダヤフリ−メイソン結社の裏面的対蒋援助工作が今や何處に如何に運ばれており、また運ばれるであらうかは、いま我々の明らかにするを得ない所であるが、しかしそれが不日英米仏等の何等かの形式に依る武器供給及び対支借款を以て始まるであろうことは、我々が今日既に予言し得るところである。(13・8・5)


 七、前世界大戦に於けるユダヤの策謀とドイツの敗戦
 

 限られた紙面に於て課題を詳細に論じ得ないことは自明であるから、この小論では在来の歴史書に於ても見られるような表面的な事実の記述を略することにしたい。かくて我々は第一次世界大戦に於ける軍事的情況が大戦の終末に近い頃に於て如何であったかを見ることから始めよう。さて、当時英国の戦時内閣の一員で後にカナダ首相となったロバート・ボーデンによれば、「1918年の春には英国參謀本部はドイツに降伏する意図を持っていた。連合国側には、ドイツが早急に崩壞する見込は全く立たなかったのである。英国はドイツの戦線の背後で何が起っていたかをまだ知らなかった。ドイツに於て社会民主主義者達がフランスの間諜と共謀して、戦線を背後から撹乱しようとしていたこと、またこの祖国への叛逆行爲がフランスから資金の供給を受けていたことを、英国はまだ知らなかった。フランス首相クレマンソーがその間諜の手から、ドイツは秋には革命が起るという確かな情報を得るに至って、パリとロンドンとは再び勇氣を回復した。英国參謀本部はこの時になって降伏の意図を放棄するに至った」というのである。

 この記述は驚くべき事実を暴露しているが、これをドイツに於ける当時の文献によって見ると、 「社会民主党は大きなストライキのみでは革命が招致されぬのを知って、別の方途を選ぶことにしたが、これが成功したのである。我々は戦線へ出ている同志に脱走を勧め、この脱走兵達を組織化して、僞物の身分証明書と資金と宣伝ビラとを持たせて各方面へ送り、特に戦線へと潛入させ、それによって戦線を撹乱し、士気を阻喪させたのである」とユダヤ人アルベルト・ファーテルは述べている。

 また前者と同じく18年秋の革命の中心人物であるアイスネルが、翌年2月4日にベルン市に開催された社会民主主義者の国際会議で演説した所によれば、「ドイツに於ける革命は戦線の崩壊の結果起ったのてはなく、不撓不屈の裏面的暗躍の結果であって、ドイツが戦争に優勢になったその瞬間から準備されていたのである」というのである。また社民党の機関誌「前進」によれば「我々の堅き決心は、ドイツがその軍旗を勝利を得て持ち帰ることを阻止し、その軍旗を永遠に抹殺し去ることである」というのである。この最後のシュタムフェルの文に関して注目すべきことは、前二者が革命後のものであるのに対して、これが革命の約半月前即ち18年の10月20日のものであることである。

 以上によってドイツ敗戰の直接の責任者が赤色社会民主党にあることは明瞭であろう。勿論、如何に彼ら主義者連の策謀があろうとも、ドイツ人一般が4年に亙る長期戦にも拘らず精神的に毅然としていたとすれば、決して敗戦の憂目は見なかったであろうことはいう迄もないことであるが、しかし上述の如く真実の強敵が内部に巣食うていて、銃後より戦線を撹乱するに至ったのであるから、ドイツの敗戰がドイツ人自身にとって如何に不本意のものであったかが容易に理解されるであろう。実に当時のドイツにとって致命的であったのは、その銃後が単なる「ドイツ人」から成り立っていなかったことであって、宮廷には既にバーリン及びラテナウの如き有力なユダヤ人が君側の奸として勢を振っており、新聞界、金融界の主勢力はいうに及ばず、参謀本部の中に於てすらユダヤ人が主要なポストを占めていたのである。軍需品乃至戦時食糧品の供給もまたユダヤ人の一手引受であったことは周知である。また上述の社民党が全くユダヤ支配下にあったことも勿論であって、前述のファーテルもアイスネルもユダヤ人であることは、自明の理に属する。

 ここで想起しておきたいのは、第一次世界大戦の数年前である1910年9月1日にコペンハーゲンで開催された第8回第二インターナショナル会議である。その顔ぶれのうち注目すべきものを拾うならば、シャイデマン、エーベルト、ダーヴィッド(ユダヤ人)、カウツキー(ユダヤ人)、フランク(ユダヤ人)、シュタットハーゲン(ユダヤ人)、ローザ・ルクセムブルク(ユダヤ人)、クララ・ツェトキン(ユダヤ人)、カルル・リープクネヒト(ユダヤ人)等ドイツ人及びドイツ系のユダヤ人の外に、英国からは後の首相ラムゼー・マクドナルド、白耳義からは同じく後の首相ヴァンデンヴェルゲ、そしてロシアとしてはボルシェヴィズムの大立物である両ユダヤ人即ちレーニンとトロツキーがある。後のフランス大統領又は首相のブリアンは事故のため欠席したが、会議へ宛てて鄭重な祝電を寄せている。

 次に我々は眼を転じて、18年11月のドイツの赤色社民系革命の主役者の顔ぶれを見るに、ハーゼ、コーン、アイスネル、ヘルツ、ヒルファーディングを除けば、リープクネヒト、カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、シュタットハーゲン等は前記の会議と共通の名である。この著名の9人はすべてユダヤ人であるか、彼らユダヤ人を首謀者として成就された革命によって生れたドイツ共和國には、初代大統領としてニーベルトが選ばれ、首相はシャイデマンであつた。レーニン、トロツキーに関しては今は言葉を費す必要はないであろう。 かくてドイツの崩壞が主として何者の手によって遂行されたかは明瞭となったであろうし、またそれが少なくとも大戦数年前から計画されていたことも、かのコペンハーゲン会議の内容を見るまでもなく明白であろう。

 

 前述のコペンハーゲン会議が社会民主主義のユダヤ的性格を暗示していることは改めて説明するまでもないであろうが、なおそれが我々の重大関心の的とならざるを得ないのは、その会議の場所がフリイ・メイスン祕密結社の一種であるオッド・フェロー祕密結社の会堂であり、出席者の殆ど全部が、フリイ・メイスン結社員であったことである。換言すれは、社会民主主義は、ユダヤ的であると同時にフリイ・メイスン祕密結社と密接な連絡を持っているのである。これは赤色帝国主義の創始者のマルクス以来の伝統であって、既に1851年には、「デモクラシーとはフリイ・メイスン祕密結社の子供である」と結社員フィッシェルが主張しているのでも判明する。

 今、我々はこの祕密結社そのものについて詳言する紙面を持たないが、我々の記述の理解に必要なる程度に於て一言するならば、それは表面的には「自由・平等・博愛」をモットーとする相互扶助結社であるが、その本質は、このモットーを掲げてなされたフランス革命がフリ−メイソン革命と称せられる一事によっても明白なように、「世界共和国の建設」を目ざす政治的陰謀結社であって、「愛」を説くキリスト教の歴史が「戦争」の歴史であるのに類似して「自由・平等・博愛」の名の下にテロと戦争とを手段として用いるのである。そして少なくともフランス革命・・ユダヤ解放革命とも称せられる・・以来は、その上級結社員の大部分がユダヤ人であることによって、テロと詐欺とでユダヤ世界国を創設しようと旧約聖書の日以来努力し続けているユダヤの世界支配政策の一機関となっているのである。

 それ故に欧州識者の間では、この祕密結社員中の非ユダヤ人は「人爲的ユダヤ人」と称せられるのが常である。かくてユダヤとこの祕密結社との当面の目標は、世界戦争を繰返すことによってその大目標を実現することにあるのであるが、現在の英米に於ての如くに帝王又は大統領の地位までもがユダヤの血族によって占領されている場合以外は、かの「人爲的ユダヤ人」を利用して各国の政界の上層部、財界の中枢部、言論機関の首腦部を占拠しようと努めるのである。最も危険なのは、この勢力が軍部の上層部を侵略する場合であって、この例もさまで珍しくはないことを我々は銘記しなくてはならない。

 ここで急いで第一次世界大戦当時のドイツに眼を転ずるならば、大戦当初より17年迄のドイツ首相ベートマン・ホルヴェーヒはかの祕密結社員であったばかりか、その体内にはユダヤの血が流れていたとさえ言われている。特に当時優秀であったドイツ海軍の潛水艦を重用することに極力反対した彼の態度は、結社員としての彼の本質より説く以外には説明の道のない事柄の一つであるとされている。当時宮廷に勢力を持つていたバリーン、ラーテナウ等が結社員であったことは勿論であるから、これらの君側の奸と、かの政治責任者との間の関係を知る時には、戦時下ドイツとして不思議に見えた種々の現象も容易に理解し得るものとなるであらう。

 次に注目すべき出来事は、開戦間もなくパリを衝かうとしていたドイツ陸軍が何らの軍事的理由なしにマルヌ戦線より後退したことであって、これは祕密結社員ルードルフ・シュタイネルの策謀の結果とされている。即ち軍司令官モルトケは、シュタイネル崇拜の夫人と、戦線まで出勤して彼を説いたシュタイネル自身との歡告に従ったのである。これがフリ−メイソン祕密結社による軍部侵略の恐るべき一例である。

 かような実例を基礎として考える時、当時既にドイツにも劣らずユダヤとフリ−メイソン結社との支配下にあった英米仏等の連合国側が軍事的敗北にも拘らず敗戦の憂目を免れ、軍事的には勝利を得たドイツが崩潰の悲慘に陷れられるに至った理由も容易に明瞭になるであろう。即ちそれは、ユダヤ及びかの祕密結社の目標としての世界共和国建設に最も障害となる強力なる帝政としてのドイツ帝国の転覆の為に外ならない。従って名目上の帝政に過ぎぬ英国の場合は、皇室そのものが伝統的に全面的に結社員となるという事情も手伝って、倒壞の目標となることはなかったのである。記録によれば、前ドイツ皇帝は、かの祕密結社に入会しないという理由によって、1888年の即位の年に既にフリ−メイソン結社によって死の宣告を受けていた。とにかく英米仏の結社員は少なくとも対ドイツ関係に於ては、上述の理由から反祖国的となることなしにすむのである。フリ−メイソン結社の発祥地及び中枢が英国であり、その政治結社化の尖端がパリであることも、以上の事情を説明するに役立つであろう。

 なお、フリ−メイソン祕密結社が第一次世界大戦に於て演じた役割に関して、一二の注目すべき事柄を挙げておこう。その一は当時ドイツと同盟関係にあったイタリーの背信の問題であるが、これはイタリーフリ−メイソンの大棟梁でローマ市長であったナータン、外務大臣ソンニーノ、大蔵大臣ルツァッティの策謀の結果であって、三人ながら祕密結社員であると同時にユダヤ人であった。第二は日本の場合であって、時局下の我々にとっては必ずしも愉快な話ではないが、当時の爲政者が国民的感情を無視してまでも日英同盟の義務を果たしたのはフリ−メイソン結社の暗躍の結果であったと、この方面の文獻には必ず明記されている。日本人は国内に於てこの結社に入会することは禁止されているそうであるが、外国滯在中にそれに入会することは許されているらしく、特に英国滯在の長期に亙る重要なる個人の場合は結社よりの働きかけが成功することがしばしばあるらしい。日英同盟の立役者林子爵が英国のフリ−メイソン祕密結社の高級社員であったことは、世界的に有名な事実である。現在の日本に於ても、国民的感情を無視する根強き親英米派なるものがかかる「人爲的人ユダヤ人」でないとは何人も断言できないのは誠に遺憾である。

 かくて、敗戦後ドイツに共和国が実施されるや、結社員シャイデマンは、「ドイツ国民が全面的に勝利を得た」と意味深長な嘘を語り、バーデン国のマクス王子はオランダの新聞通信員に対して「今ドイツに行われていることは多年の潛行的準備仕事の結果である」と結社員に相応しい誇示をなし、プロイセン王子レオポルドは、その居城に赤旗を掲揚することさえして、ユダヤ的赤色祕密結社員の本領を発揮したのである。いずれの国に於ても無批判なる長袖者流こそ最も容易にユダヤと祕密結社の餌食となり易いのであって、亡国的なる「上よりの民主政」もまた帝政ドイツを崩潰させるのに功があったのである。

 敗戦ドイツの革命後の対外関係の理解に資するために、連合国側の著名の非ユダヤ人祕密結社員の名を列挙しておこう。英国側ではロイド・ジョージ首相、キッチナー元帥、チャーチル海相(現英首相)、グレイ首相、アスキス首相、リルラン大統領、米国側ではウィルソン大統領。この中にユダヤ人の名の見えないのは、表面的な最重要ポストには「人爲的ユダヤ人」を立てて世人を欺くのがユダヤの常套手段であるがためであって、その代りに著名人には必ず祕書にユダヤ人を配するのである。クレマンソーに於けるマンデル(最近までフランスの植民相であり、今次大戦中はフランス内相であり、仏印援蒋の指令者であつた)、ロイド・ジョージに於けるフィリップ・サスーン、アスキスに於けるモンターギュ、ウィルソンに於けるハウス大佐の如きはその好例である。不思議なことではあるが、某国の今は亡き元老の場合も或る意味では例外ではないようである。

 

 最後に我々は、ドイツ敗戦の責任者の第三として政治的カトリック、就中イェズイット結社を挙げたいと思う。而してこれもまた事実上ユダヤと関係深く、教祖キリストがユダヤ人であったことや、聖書(特に旧約聖書)がその本質に於てユダヤ民族の世界征服のプログラムであることを除外しても、法王そのものに幾人かのユダヤ人があり、殊にイェズイット結社は既にその第二代目の統領がユダヤであったのである。この国際的団体は、時としてはフリ−メイソン結社と激しい鬪爭をすることもあるが、しかし共同の敵のある時には直ちに共同戦線をしき易く、例えばかの著名な1922年のアーヘン会議の如きはその好例である。従ってプロテスタント国帝政ドイツがその世界政策の障害であることは自明であり、ユダヤの頭目ラーテナウとイェズイット結社の頭目エルツベルゲルとの間にはドイツ分割の協定さえあったと伝えられている。前者のことは前に論及した通りであるが、後者はユダヤ人であり、またフリ−メイソン結社員とイェズイット結社員とを兼ねていたのであった。その彼がフランスとの休戦協定のドイツ委員としてコンビエーヌの森へ赴いたことは、後の講和条約に際してドイツ代表としてヴェルサイユへ赴いた連中が全部ユダヤ人であったのと共に、なかなかに興味深い事柄である。

 「我々中央党がドイツの革命を遂行したのである」というのが、革命後のドイツカトリック政党たる中央党の頭首ヴァッケンの語である。かくてこの中央党と前述の社民党とが協同してドイツの「新体制」は成ったのであるが、その実権が何者の手にあったかは今改めて説く必要はないであろう。やがて登場して来たドイツ人民党もまた、その表面的主張にも拘らず、フリ−メイソン祕密結社員シュトレーゼマンに統率されることによって、真のドイツ人民とは関係の薄いものてあった。

 
かくて実権はユダヤの手に帰し、政治はスポーツ化され、家の子郎党に至るまで交代に大臣となって、私益のみをはかり、ドイツをいよいよ泥沼の底に突き落して行ったのである。而して戦線に於て最後まで勇敢であった軍部も、その統率者達の思想的無能と時代に対する認識不足の為に遂に祖国を内敵から救う道を知らず、ドイツ国民はヒットラーの出現を待つ外に道はなかった。実に当時は、ユダヤ人ドイチュが陸軍大臣となることさえ可能であった。而して共和国ドイツに於て如何にユダヤ人が得意の絶頂にあったかは、このドイチェの次の語で明示されている。

 「ドイツ、ハンガリー、オーストリアには革命が成就し、共和国が樹立された。我々が思考し得るようになって以来燃える如き心で夢想し憧憬して来たものが、今や実現したのである。今や我々ユダヤ人は全く上位にいる。今や我々が主人公なのである」。

 同じことをラーテルナウは、「皇帝が白馬に跨ってその股肱と共にブランデンブルグの門を通ることがあるとすれば、世界史はその意義を失うであろう」とその作品「皇帝」の中で述べ、ユダヤの世界支配の成就の過程としてのみ世界史には意義のあることを公言している。かくて旧約聖書以来のユダヤの夢は、戦敗国ドイツに於ては実現したのである。否、戦勝国英米仏に於ても事情は同一であって、第一次世界大戦の真の戦勝者はユダヤのみであったと称せられる所以はここにあるのである。

 
今や第二次世界大戦は二個に分裂して東と西とに於て戦われている。ユダヤはそれがアメリカ大陸をも含む文字通りの世界大戦に進展する迄はその裏面工作を続けるであろう。そしてその大戦こそは、ユダヤの世界支配を完全に実現するか、あるいは根本的に挫折せしめるかの何れかに到達する運命を持っていると思われる。かの純ユダヤ祕密結社員であった孫逸仙以來「人爲的ユダヤ人」のみが構成して来た重慶政府と戦いつつある我々は、以上の事情を確認して更に大なる決心を固むべきであろう。(15・8・7)





(私論.私見)