第6節、「シオンの議定書」(「シオンの議定書」の成立、傳播、眞僞) |
(れんだいこのショートメッセージ) |
愛宕北山氏はここで、「シオンの議定書」の考察に向っている。偽書、史書の二説を紹介しながら、偽書派が内容吟味に向わない非を咎めている。類例の無い詳細研究という意味でも貴重である。 2006.1.17日 れんだいこ拝 |
「シオンの議定書」は、古今東西を通じての最大の怪文書と呼ばるべきものであって、内容的にそうであるばかりでなく、その著者、その成立史、その伝播の径路等から見てもまた然りなのである。即ち、この書は、内容的には世界革命と世界制覇とのプログラムであって、現在の世界の動きがそれを実証しているのであるが、それにも拘わらず、その僞作であることが問題とされるばかりか、著者も成立史も伝播史も深い闇に覆われているのである。 しかしこの書は、1901年以来公刊されていたロシアの国境を世界大戦後に超えてドイツ(1919年)その他で公刊されてからは、その怪文書たるに全くふさわしい速力をもって世界に普及されて行ったのである。またあらゆるユダヤ人側の否定にも拘らず、1905年のロシア語版(後述するニールス版)が大英博物館に翌年納入されており、その分類番号まで明らかになっていることも、この書の怪文書性を減ずることはないのである。 とにかくユダヤは、ドイツに於けるゴットフリート・ツール・ベークの訳及び米国に於ける自動車王フォードの著書によって、この書が急速に世界に伝播されて行くのを見て、極度に狼狽し、買占め又は威嚇乃至買収等によってそれの普及を妨げようとしたが、その方法が失敗に終ると、今度はそれが非ユダヤ人の僞作であることを主張するようになった。 そしてその試みは、1921年になって、計画的組織的なものとなり、米・仏・英の順序による三段構えの対策となって現れるに至った。それ故に我々は、多少長きに失する憂いはあるが、その三つの策謀の内容を略述して見たいと思う。現代の我々にとっては、この書の方がトーラ又はタルムードよりも直接の関係を持っているとさえ言い得るのである。但し、我々は、ユダヤ問題全般の研究にとっても「議定書」の方がトーラ又はタルムードより重要であると主張するのではない。 さて、その第一は、当時ニューヨークに在住したカタリーナ・ラートツィヴィルと称するロシア女を利用したものであって、北米に於ける有力なユダヤ雑誌アメリカン・ヒブリューの3月25日の誌上には彼女とユダヤ人アイザーク・ラントマンとの会見記が発表された。それによれば、議定書は日露戦争後の1905年に僞造されたものであって、当時パリに居た彼女が、ロシア諜報官ゴロヴィンスキーの口から、在パリロシア謀報部長ラチュコフスキーからユダヤ人の革命陰謀者を僞造するように依頼されたという話を聞いたばかりか、彼女は既に完成していたその原稿を見せて貰うことさえした、というのである。そして彼女は、その原稿の表紙には大きな青インキの斑点があったとも述べている。 我々はこの会見記の批刊は後に譲ることにして、ユダヤ側の第二の策謀を述べることにしよう。それはアルマン・テュ・シエラというフランスの伯爵を使ったものであって、在仏亡命ロシア人の機關誌ボスリエニドエ・ノヴォスティに5月12日から翌日にかけて伯爵自身が論文を発表しているのである。1909年にロシアで議定書の出版者であるニールスに面会したが、その時見せられた原稿には青インキの大きな斑点があったし、議定書の入手の径路に関しては、ラチェコフスキーからその筆写したものを貰ったK夫人から手に入れた、とニールス自身が言ったというのがその論旨である。 この第二説が第一説と連絡して巧妙に仕組まれた芝居であることは、青インキの大きな斑点というようなわざとらしい詭計によっても判明するのであるが、とにかくユダヤ側がこの二重の対策では満足し得ず、第一策と第二策との間の時日の隔りと全く同じ程の日数によって第二策と隔っている8月には、16、17、18の三日間にわたって、今度は国も新聞の種類も全く変更して、英国の有力紙タイムスを動かして第三の策謀に移っているのである。当時の事情から見ても、現在の事情から見ても、ユダヤ側の議定書爆撃が米・仏・英といういわゆる三大デモクラシー国に於てなされた事は注目に値するのであって、デモクラシーとは事実上ユダヤ支配の別名に外ならないことは、この簡単な一例によっても判明するのである。 本論に帰って第三策を見るのに、それはタイムスのコンスタンチノープル特派員フィリップ・グレイヴスの文章であって、フランスの弁護士モーリス・ジョリーが前世紀の半ばにブリュッセルで出版した「マキァヴェリとモンテスキューとの冥府に於ける談話」を彼が同地へ亡命していたロシア地主から貰ったが、地主はそれが議定書の種本であると言った、というのがその内容である。 グレイヴスの文がこれだけで終っているとすれば、それはある程度まで間違いないのであるが、我々をしてこの一文をユダヤ政策の一つと認めしめないでおかないのは、筆者が以上の事実から次の如き結論を引出しているからである。即ちグレイヴスは、議定書がジョリーを種本としているのではそれは非ユダヤ人の僞作である、と主張するのであるが、これはユダヤ側が結論を急ぎ過ぎたが為の失敗であって、それは、非ユダヤ側がジョリーを種本として無根拠な世界政策を捏造することが可能であるとすれば、ユダヤ側の方でも同じジョリーを種本としてその世界革命のプログラムを作ることが可能である、ということさえ考慮しなかった軽率な結論である。 議定書とジョリーとの關係は、ドイツの半月刊ユダヤ問題専門情報誌ヴェルト・ディーンストのフライシュハウエルが平行的に印刷して比較研究しているのでも明らかなように、多くの内面的一致のみならず、文章上の表現に於ても一致している点があるので、ジョリーが直接の種本であるか、あるいは両者が共通の粉本を持っているのかは明らかでないとしても、両者の密接な連関は疑うべくもないのである。しかしこの事情は、ユダヤタルムード論理によって結論を急がない限りは、却って議定書がユダヤ側の革命陰謀者であることを、少なくとも内面的真実性の点では、証明することになるのである。 即ち、ジョリーはその自伝に於て、父はスペイン人であり、母はイタリヤ人であると言っているが、確かな調査によれば両親とも国籍をそれぞれ両国に持っていたユダヤ人なのであるし、なお特に注目に値することは、ジョリー自身ユダヤフリ−メイソン祕密結社の会員であるばかりか、フランスに於る有力なユダヤ人結社「イスラエル世界同盟」の創設者クレミューの親友であり、1870年の共産系暴動に自ら参加しているのである。ジョリーのこの経歴を考慮する時、それだけで議定書がユダヤ系フリ−メイソン祕密結社の世界支配のプログラムであることを信じても、グレイヴス等ユダヤ側の態度に比して決して軽率であるとは云い得ないのである。 とにかくユダヤ側は議定書が僞作であり剽窃であるという程度の外面的な拒否をするだけで、それの内容にまで説き及んで反駁することはないのであるが、これは非ユダヤ人には注目すべき点であって、内容に触れて論ずることは議定書の内容を一層世上に広布することになるのみか、19世紀末以来の世界の動きを多少ともユダヤの宣伝を盲信しないで見る人には、その真実であることが直ちに感得されるということを、ユダヤ側自身充分知っているからである。 しかし議定書のロシアに於ける出版者ニールスが非実在の人物であるとか、議定書そのものが世界大戦後の英国に於ける僞作であるとかいう程度の迷論(日本の自由主義的ユダヤ戦線の志願兵には、ユダヤ人自身さえも最早捨てて顧みないこれらの古い一時の浮説を宣説する者さえある)よりは、なおユダヤ側の上述の三説の方がまさっていることは認むべきであろう。 |
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1921年の三段構えの努力にも拘らず議定書が広布して行き、また一方そのプログラムに従ってユダヤの世界政策が進展して行くのにつれて、ユダヤの策謀に気の附く人が次第に多くなり、特にドイツに於てヒットラ−政府が次第に確立して行くのを見ては、今までユダヤ側の新聞その他による宣伝に躍らされていた人も、ある程度までは反省の機会を与えられるようになって来たので、ユダヤ側でもこの情勢を黙視することができず、他の反独的な種々の政治工作と共に、議定書に関しても21年に比較して一層有効と見える対策を購ずる決心をしたのであった。これが1933年から35年に亙るスイス国ベルンに於ける議定書訴訟である。
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今や我々の課題は、前に論及しておいた通りに、議定書がその世界大戦前に於ける唯一の伝播国であるロシアに於て既に1895年にズホーティン及びステパノフ等の手にあった、ということを明らかにすることである。この点に関しては、「水、東へ流る」又は「我らの主ユダヤ人」等の著書によって議定書問題及び一般ユダヤ人問題に関して功績のあるアメリカの女流文筆家フライ夫人が、かってモスコーの宗教会議の代表者であったフィリップ・ペトロヴィッチ・ステパノフから1927年4月17日に貰った手紙の内容であるとして発表しているところが最も確実な資料となっている。 |
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議定書の著者に関しては、その内面的真実さの点では、前述の問題よりも確実であるにも拘らず、その外面的証拠は一層その確実性が欠けている。この点に於ても現在では、フライ夫人の説が最も多く容認されているのであって、夫人によれば、彼女がフォードの財政的援助によってロシアで調査した結果は、大体に於てアハト・ハームことアシェル・ギンスベルクがその著者であるというのである。彼の名は非ユダヤ人の間では余り著名ではないが、ユダヤ人間には尊崇の的となっており、幼時から天才的で、1884年からはオデッサに住み、1905年のロシア革命に活躍したが、後にはパレスチナに移り、衆望を荷いつつ死んだのであった。その学識は実に古今に通じ、語学もまたユダヤ人らしく堪能であったと云われている。そしてこの彼が1889年にオデッサでベネ・モシェ(「モーゼの子等」の意)と称するユダヤ的フリ−メイソン祕密結社を設立したが、議定書は彼がそこで講演したユダヤの世界征服政策のプログラムであるというのが、今では一般に信ぜられている説である。 前に論及したユダヤ人ベルンザインの説は、アハト・ハームのこのプログラムのことを指すものであるらしく、それがヘブライ語で書かれていたというのは、ユダヤ人祕密結社内の習慣であると見做しても差支えないであろう。それ故に、フライ夫人の説いているように、これがフランスのユダヤ的フリ−メイソン結社で用いられていたということも可能であり、そこからそのフランス語訳がロシアへ入ったということも考えられるのである。その理由は、フリ−メイソン祕密結社は、純粋にユダヤ的であると否とに拘らず、殆どその創立以来全くユダヤの支配下にあり、また、全世界のこの結社は相互に密接な連絡を持っているからである。なおニールスが入手した議定書の写しには、最後の部分に「第三十三階級のシオンの代表者達によって署名されてある」との書入れがあったということである。この点から考えても、議定書がフリ−メイソン祕密結社中でも純粋にユダヤ的であるものの世界政策のプログラムであることがわかるのである。換言すれば、アハト・ハームが設立したベネ・モシェの親結社とも見らるべき純ユダヤ祕密結社ブナイブリスの世界征服のプログラムに外ならないのである。 ここで我々は、近来に到るまで議定書がいわゆるシオニズムの世界政策のプログラムで、1897年の第一回バーゼル会議に於てそれは決定されたのである、と信ぜられていたことに関しても一言しておきたい。勿論、或る意味に於てそれがシオニズムのプログラムであるというのは正しいのであるが、しかしシオニズムには二種あって、普通シオニズムと称せられているものは、ヘルツル等の主張する「実際的シオニズム」又は「政治的シオニズム」と呼ばれるものであり、アハト・ハームの創設したベネ・モシェあるいはかの凶悪なブナイ・ブリス祕密結社の如きは「象徴的シオニズム」又は「精神的シオニズム」と称せられているのである。 そして前者は、シオンの回復を文字通りに実行しようとするものであって、ユダヤ人のパレスティナへの復帰を目標としているが、後者は、シオンへの復帰を象徴的に行おうとするものであって、現在の如くに世界の諸国に寄生虫として存在しながらも、その世界征服を完成しようとするのである。議定書が議決されたという97年の第1回シオン会議は、少なくとも表面的には「実際シオニズム」の会議であったのであるから、種々の調査にも拘らずその会議関係の記録に議定書に関する事が少しも見当らないのは当然であろう。 我々はしかしこの「実際的シオニズム」もまたユダヤの世界征服政策の一つの手段であって、「象徴的シオニズム」の一つの僞装であるに過ぎないとさえ考える者であるが、この点に関しては今は詳述することを差し控えることにして、ただ一つ次の事実だけをここに記して世人の注意を促しておきたいと思う。即ち、かの「実際的シオニズム」の会議に当っては、同時に必ず純ユダヤフリ−メイソン祕密結社であるブナイ・ブリス結社の会議が開催されるのであって、この意味に於ては、議定書が97年にバーゼルで議題となり得たということは可能なのである。しかし、それはかのシオン会議そのものに於てではなく、同時に開催されたブナイ・ブリス結社の会議に於てであることは言うまでもない。アハト・ハームもこのシオン会議に出席していたことは当時の写真でも明らかになっているから、その彼が議定書をブナイ・ブリス結社の会議の方に提出したであろうことは、決して不思議でも不可能でもないのである。 |
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以上述べたところで議定書の真偽の問題に対する解答は大体は完了したと考えられる。即ちショリーと、この書との内面的連絡から言えば、議定書が、ユダヤ側の主張する如くに、万一にも非ユダヤ人の僞作であるとしても、それはユダヤの世界征服のプログラムたる資格を消失しないのであるし、また著者アハト・ハーム説が成立しない場合にも、後に引用するトレービチュの説に真実性があるとすれば、これがユダヤ人の作であり、従ってその内容がユダヤの世界支配のプログラムであることは肯定され得るのである。なおまたこれらの説の全部が成立しないとしても、少なくともジョリーの著者の出版された1864年頃以後の世界の動きは、この書がユダヤの世界政策のプログラムとしての内面的真実性を明証しているのである。いまこの点について我々は一々例示することを差控えたいと考えるが、近時の世相を多少とも世界的に達観し得る人には、この議定書が余りにも真実であることが直ちに理解されるのである。
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ここで我々は、前に一言しておいたユダヤ人アルトゥール・トレービチュの言を引用しておくことにしよう。
トレービチュの「ドイツ精神かユダヤ精神か」の中からの引用に次いで、我々は、議定書に関する第二審の判決以前にその真偽に関して独、伊、英、米、仏、イタリー、ハンカリー、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、フィンランド、ギリシャ、ユーゴースラヴィア、カナダ、レットランド、ノルウェー、スェーデン、スイス、スペイン、南阿、チェッコ、ロシア(亡命者)の代表がドイツエルフルトに集合して行った「決議」を紹介し、この議定書に関する小論を閉じたいと思う。
(昭和16・5月) |
(私論.私見)