第6節、「シオンの議定書」(「シオンの議定書」の成立、傳播、眞僞)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 愛宕北山氏はここで、「シオンの議定書」の考察に向っている。偽書、史書の二説を紹介しながら、偽書派が内容吟味に向わない非を咎めている。類例の無い詳細研究という意味でも貴重である。

 2006.1.17日 れんだいこ拝


 「シオンの議定書」は、古今東西を通じての最大の怪文書と呼ばるべきものであって、内容的にそうであるばかりでなく、その著者、その成立史、その伝播の径路等から見てもまた然りなのである。即ち、この書は、内容的には世界革命と世界制覇とのプログラムであって、現在の世界の動きがそれを実証しているのであるが、それにも拘わらず、その僞作であることが問題とされるばかりか、著者も成立史も伝播史も深い闇に覆われているのである。

 しかしこの書は、1901年以来公刊されていたロシアの国境を世界大戦後に超えてドイツ(1919年)その他で公刊されてからは、その怪文書たるに全くふさわしい速力をもって世界に普及されて行ったのである。またあらゆるユダヤ人側の否定にも拘らず、1905年のロシア語版(後述するニールス版)が大英博物館に翌年納入されており、その分類番号まで明らかになっていることも、この書の怪文書性を減ずることはないのである。

 とにかくユダヤは、ドイツに於けるゴットフリート・ツール・ベークの訳及び米国に於ける自動車王フォードの著書によって、この書が急速に世界に伝播されて行くのを見て、極度に狼狽し、買占め又は威嚇乃至買収等によってそれの普及を妨げようとしたが、その方法が失敗に終ると、今度はそれが非ユダヤ人の僞作であることを主張するようになった。

 そしてその試みは、1921年になって、計画的組織的なものとなり、米・仏・英の順序による三段構えの対策となって現れるに至った。それ故に我々は、多少長きに失する憂いはあるが、その三つの策謀の内容を略述して見たいと思う。現代の我々にとっては、この書の方がトーラ又はタルムードよりも直接の関係を持っているとさえ言い得るのである。但し、我々は、ユダヤ問題全般の研究にとっても「議定書」の方がトーラ又はタルムードより重要であると主張するのではない。

 さて、その第一は、当時ニューヨークに在住したカタリーナ・ラートツィヴィルと称するロシア女を利用したものであって、北米に於ける有力なユダヤ雑誌アメリカン・ヒブリューの3月25日の誌上には彼女とユダヤ人アイザーク・ラントマンとの会見記が発表された。それによれば、議定書は日露戦争後の1905年に僞造されたものであって、当時パリに居た彼女が、ロシア諜報官ゴロヴィンスキーの口から、在パリロシア謀報部長ラチュコフスキーからユダヤ人の革命陰謀者を僞造するように依頼されたという話を聞いたばかりか、彼女は既に完成していたその原稿を見せて貰うことさえした、というのである。そして彼女は、その原稿の表紙には大きな青インキの斑点があったとも述べている。

 我々はこの会見記の批刊は後に譲ることにして、ユダヤ側の第二の策謀を述べることにしよう。それはアルマン・テュ・シエラというフランスの伯爵を使ったものであって、在仏亡命ロシア人の機關誌ボスリエニドエ・ノヴォスティに5月12日から翌日にかけて伯爵自身が論文を発表しているのである。1909年にロシアで議定書の出版者であるニールスに面会したが、その時見せられた原稿には青インキの大きな斑点があったし、議定書の入手の径路に関しては、ラチェコフスキーからその筆写したものを貰ったK夫人から手に入れた、とニールス自身が言ったというのがその論旨である。

 この第二説が第一説と連絡して巧妙に仕組まれた芝居であることは、青インキの大きな斑点というようなわざとらしい詭計によっても判明するのであるが、とにかくユダヤ側がこの二重の対策では満足し得ず、第一策と第二策との間の時日の隔りと全く同じ程の日数によって第二策と隔っている8月には、16、17、18の三日間にわたって、今度は国も新聞の種類も全く変更して、英国の有力紙タイムスを動かして第三の策謀に移っているのである。当時の事情から見ても、現在の事情から見ても、ユダヤ側の議定書爆撃が米・仏・英といういわゆる三大デモクラシー国に於てなされた事は注目に値するのであって、
デモクラシーとは事実上ユダヤ支配の別名に外ならないことは、この簡単な一例によっても判明するのである。

 本論に帰って第三策を見るのに、それはタイムスのコンスタンチノープル特派員フィリップ・グレイヴスの文章であって、フランスの弁護士モーリス・ジョリーが前世紀の半ばにブリュッセルで出版した「マキァヴェリとモンテスキューとの冥府に於ける談話」を彼が同地へ亡命していたロシア地主から貰ったが、地主はそれが議定書の種本であると言った、というのがその内容である。

 グレイヴスの文がこれだけで終っているとすれば、それはある程度まで間違いないのであるが、我々をしてこの一文をユダヤ政策の一つと認めしめないでおかないのは、筆者が以上の事実から次の如き結論を引出しているからである。即ちグレイヴスは、議定書がジョリーを種本としているのではそれは非ユダヤ人の僞作である、と主張するのであるが、これはユダヤ側が結論を急ぎ過ぎたが為の失敗であって、それは、非ユダヤ側がジョリーを種本として無根拠な世界政策を捏造することが可能であるとすれば、ユダヤ側の方でも同じジョリーを種本としてその世界革命のプログラムを作ることが可能である、ということさえ考慮しなかった軽率な結論である。

 
議定書とジョリーとの關係は、ドイツの半月刊ユダヤ問題専門情報誌ヴェルト・ディーンストのフライシュハウエルが平行的に印刷して比較研究しているのでも明らかなように、多くの内面的一致のみならず、文章上の表現に於ても一致している点があるので、ジョリーが直接の種本であるか、あるいは両者が共通の粉本を持っているのかは明らかでないとしても、両者の密接な連関は疑うべくもないのである。しかしこの事情は、ユダヤタルムード論理によって結論を急がない限りは、却って議定書がユダヤ側の革命陰謀者であることを、少なくとも内面的真実性の点では、証明することになるのである。

 即ち、ジョリーはその自伝に於て、父はスペイン人であり、母はイタリヤ人であると言っているが、確かな調査によれば両親とも国籍をそれぞれ両国に持っていたユダヤ人なのであるし、なお特に注目に値することは、ジョリー自身ユダヤフリ−メイソン祕密結社の会員であるばかりか、フランスに於る有力なユダヤ人結社「イスラエル世界同盟」の創設者クレミューの親友であり、1870年の共産系暴動に自ら参加しているのである。ジョリーのこの経歴を考慮する時、それだけで議定書がユダヤ系フリ−メイソン祕密結社の世界支配のプログラムであることを信じても、グレイヴス等ユダヤ側の態度に比して決して軽率であるとは云い得ないのである。

 
とにかくユダヤ側は議定書が僞作であり剽窃であるという程度の外面的な拒否をするだけで、それの内容にまで説き及んで反駁することはないのであるが、これは非ユダヤ人には注目すべき点であって、内容に触れて論ずることは議定書の内容を一層世上に広布することになるのみか、19世紀末以来の世界の動きを多少ともユダヤの宣伝を盲信しないで見る人には、その真実であることが直ちに感得されるということを、ユダヤ側自身充分知っているからである。

 しかし議定書のロシアに於ける出版者ニールスが非実在の人物であるとか、議定書そのものが世界大戦後の英国に於ける僞作であるとかいう程度の迷論(日本の自由主義的ユダヤ戦線の志願兵には、ユダヤ人自身さえも最早捨てて顧みないこれらの古い一時の浮説を宣説する者さえある)よりは、なおユダヤ側の上述の三説の方がまさっていることは認むべきであろう。

 ◇

 1921年の三段構えの努力にも拘らず議定書が広布して行き、また一方そのプログラムに従ってユダヤの世界政策が進展して行くのにつれて、ユダヤの策謀に気の附く人が次第に多くなり、特にドイツに於てヒットラ−政府が次第に確立して行くのを見ては、今までユダヤ側の新聞その他による宣伝に躍らされていた人も、ある程度までは反省の機会を与えられるようになって来たので、ユダヤ側でもこの情勢を黙視することができず、他の反独的な種々の政治工作と共に、議定書に関しても21年に比較して一層有効と見える対策を購ずる決心をしたのであった。これが1933年から35年に亙るスイス国ベルンに於ける議定書訴訟である。

 ユダヤがこの年とこの地を選んだのは単なる偶然ではないのであって、その一般的理由は上述の社会情勢にあることは言うまでもないが、しかしその直接の動機は、一方では、前に論及したラチュコフスキーやニールスが既にこの世にない上に、ロシアに於ける議定書のもう一人の出版者ブートミ、ドイツに於ける第一の出版者ツール・ベーク、ドイツに於ける第二の出版者で有力な反ユダヤ主義者であるフリッチュ等も死んでおり、更に、後述する通りに議定書の著者と推定されるアハト・ハーム、シオニズムの元祖ヘルツルもまたあの世の人となっていたが為であり、他方では、このベルン市には卑猥文学を禁止する法令があるばかりか、ユダヤマルクス主義を奉ずる裁判官マイエルが居た為であった。またスイスはユダヤ的フリ−メイソン祕密結社の優勢な土地(フランス及びポーランドと並んで公然たるユダヤ人保護法がある)であるので、これもユダヤ側には有利な条件であった。

 かって33年6月21日には「スイスイスラエル同盟」と「ベルンユダヤ文化協会」の名に於て、議定書は卑猥な文学である故に発売禁止となるべきであるという訴訟を提起したのであった。(これに関連して、議定書を頒布した憂国主義者が訴えられているのであるが、この点は現在の我々に直接の関係がないので、叙述を簡単にする為に今後とも議定書のみに問題を限って論じたいと思う) そして一年を経過したが、事情が自己に有利であると見たユダヤ当事者は、この時になって議定書の真偽の問題を追訴するに至った。

 
さて、事件の専門的鑑定家としては、ユダヤ原告側にベルンの刑法教授バウムガルテンが選ばれ、非ユダヤ側には前述のフライシュハウエルが推挙され、上席鑑定家としては、前身に暗いとこのある親ユダヤ文筆業者のロースリーが任命された。前身に暗いところのある名士を利用するのは、ユダヤのタルムードが教える所の常套手段であって、ユダヤの世界政策機関である国際連盟設立の主唱者であった米国大統領ウィルソン、その連盟に於ける長期の活躍家フランス大統領ブリアンの如きもその過去には破廉恥罪があったのである。かくてユダヤ側と裁判官マイエルの謀議によって、ユダヤ側の証人のみが喚問されることになり、35年5月14日にはロースリーの上申書に従って判決が下され、ユダヤ原告側の全部的勝利となったのであった。

 しからばロースリーは、その申告書に於て、何を主として彼の結論の拠り所としたかというに、それはかの21年のユダヤ対策の第一、第二のものであった。それ故に我々は、いまここでその二つに関してその真偽を述べることにしよう。ラートツィギルの説が根拠のないものであることは、後述する通りに、議定書が既に1895年にはロシアでズホーティン及びステパノフ等の手に、1901年にはニールスの手にあったことや、1903年にはスナミア紙上に発表されていたことからも明らかであるし、またラチュコフスキーもゴロヴィンスキーも1905年にパリに居なかったことが証明されていることからも明らかである。ロースリーはこの1905年を何の理由もなしに1895年に改めている。なおラートツィヴィルその者の人物を調査した結果は、彼女がロシア公妃と称しているのは不当であって、14年以前に離婚しており、その後コルプ及びドウヴィンと更に二度の結婚をしていた者であるばかりでなく、文書僞造や為替僞造で18ケ月の禁錮の経歴を持ち、21年にはニューヨークで無銭飲食の廉で逮捕されたことさえあるのである。なお彼女は問題の会見に対し、純ユダヤフリ−メイソン祕密結社ブナイ・ブリスの会員ルイ・マーシャルから500ドルの報酬を受けたということである。

 シエラ伯爵の場合は、彼がベルンの法廷に於ても自説の正しいことを誓言したに拘らず、その後前記の「ヴェルト・ディーンスト」の調査によれば、36年3月24日附のニールスの息子の手紙では、彼の母はKを頭文字とする名前の人ではなく、ラチュコフスキーと知合いでなかったばかりか、父が議定書の写しを貰ったのはズホーティンであって、彼もその際に居合わしたが、その原稿には青インクの大きな斑点はなかった、というのである。なおシエラ伯爵個人の人物は、反ボルシェヴィストであるヴランゲル将軍の陣営にありながらもボルシェヴィストに通牒したという憎むべき経歴を持つ者であることが、36年4月30日ペトロヴィッチ・ギルチッツの手紙で暴露された。ギルチッツ自身はシエラ伯と同時にヴランゲル将軍の麾下にあった人である。なお第一、第二の場合共に問題となるラチュコフスキーに関しては、その息子の36年7月13日の手紙によれば、彼はむしろ親ユダヤ主義者であって、1905年頃の彼の祕書はユダヤ人ゴルシュマンであったのであるし、遺稿その他を詳細に調べて見ても、彼と議定書とが関係があったという証拠は皆無であり、又その知合にK夫人のなかったことも疑いはないのである。

 
これらの調査ができた為か、37年7月27日からの控訴審に於てはユダヤ側に不利な形勢となり、11月1日に下された判決では前審が取消されて、議定書は卑猥文学ではなく、単に政治的闘争書であると認められ、またその真偽の問題は法廷に於て決せらるべきものではなく、学術的に決定せらるべきものである、ということになった。

 かくてユダヤの策動は画餅に帰し、その非ユダヤ人による僞作であるとの説は確認されず、発売禁止もまた行われないことになったのであるが、それが東洋に於ては日支事変に於て実質的にユダヤの誤算と敗北とが次第に進捗しつつあった頃であることを思うとき、この訴訟事件がユダヤに與えた精神的の打撃は誠に大であったことと推察されるのである。その後ドイツ合邦、チェッコ問題の反ユダヤ的解決などもあり、この議定書の全部的実現がその一歩手前で失敗に帰しつつあることが次第に明らかになって来ているが、欧州戦争誘致乃至日米通商条約廃棄通告等最近の米・英・仏に於けるユダヤ側の過激な手段の由って来る所は、このベルンの訴訟に始まる正義派の勝利に対するユダヤの絶望的なあがきなのである。この意味に於てベルンの訴訟の持つ象徴的意義は大であると言わねばならない。


 

 今や我々の課題は、前に論及しておいた通りに、議定書がその世界大戦前に於ける唯一の伝播国であるロシアに於て既に1895年にズホーティン及びステパノフ等の手にあった、ということを明らかにすることである。この点に関しては、「水、東へ流る」又は「我らの主ユダヤ人」等の著書によって議定書問題及び一般ユダヤ人問題に関して功績のあるアメリカの女流文筆家フライ夫人が、かってモスコーの宗教会議の代表者であったフィリップ・ペトロヴィッチ・ステパノフから1927年4月17日に貰った手紙の内容であるとして発表しているところが最も確実な資料となっている。

 その手紙によれば、ステパノフは1895年にアレキシス・ニコラエヴィッチ・ズホーティンから議定書の写しを貰い、自分でもまたその写しを作って人に分った、というのである。そしてこの説が単なる作為でないことは、議定書の出版者ニールス自身も、彼がそれを手に入れたのはズホーティンからである、と言っていることからも判明する。ただ前説との差は、ニールスがズホーティンから貰ったのは1901年であるという点である。またズホーティンが如何にしてそれを入手したかに関しては、彼自身ステパノフ及びニールスの二人に対して、パリの一婦人からである、とのみしか語らなかったとのことである。なおこの95年説が正しいことは、37年に「ユダヤ人の世界陰謀計画」なる小冊子に於て議定書問題に関する最新の研究の成果を纏めているベルクマイスルが、36年12月13日附でズホーティンの娘アントニーナ・ポルフィルエウナ・マニコフスキーから受取ったという手紙の内容を見ても明白である。彼女はその中で、彼女が1895年に父を訪問した際、妹や姪が議定書の写しを作っているのを目撃した、と書いているのである。

 95年説には、北米デトロイト市で出版されている「フリー・プレス」関係のユダヤ人ベルンシュタインが自動車王フォードの書記カメロンに向って、95年にオデッサで、ヘブライ語の議定書を見た、と語ったのも、間接的ではあるが、一つの好都合な材料となるであらう。但し、この点に就ては今一度後に触れることにして、ここでは論を本筋に戻したいと思う。

 かくて問題は、ズホーティンが如何なる径路によって1895年又はそれ以前に議定書を入手したかということになるのであるが、この点に関しては、フライ夫人の次の説がある。彼女によれば、議定書のフランス語訳がパリのフリ−メイソン祕密結社にあったが、そこの会員ジョセフ・ショルストなるものがユスティナ・グリンカという女にその写しを売り、その女がそれをズホーティンに伝えたのである、というのである。しかしこのフライ夫人の説がどこまで正しいかは、今なおその後の証拠がないので確かなことはわからない。

 ついでに、その後のロシアに於ける伝播の状況を略述しておこう。先づ1903年には前述の如くスナミア紙に掲載され、次には議定書の出版者として最も有名なニールスによってその著「小事のうちの大事]の第二版に於て五年に出版されたのである。なほニールスの息子の前述の手紙によれば、ロシアに於ける最初の公表は2年から3年へかけての冬に於けるモスコフスキヤ・ヴィドモスティ紙上であるとのことである。別にブートミは、その著「人類の敵」の中で、6年に出版している。そしてニールスもブートミも、ボルシェヴィズム革命迄はその版を幾度か重ねて行った。

 かくロシアに於ける伝播の歴史を見ても、ズホーティンが如何なる径路で議定書を入手したかは、依然として謎として残るのである。しからば、この謎は今後解決され得る見込があるかと言うのに、現在ではそれを単に所有するだけでも死刑に処せられるソ連に於ては、恐らく現在のユダヤ政府が存在する限り、その見込はないであらう。否、あるいは永久にその見込はないかも知れないのであって、それには次のような議定書式経緯があるのである。即ち、前ロシア代議士男爵エンゲハルト大佐が「ヴェルト・ティーンスト」に寄せた通信によれば、1917年にフリ−メイソン祕密結社員ルボオフ公が暫定内閣を組織した時、ユダヤ問題関係の文書の全部が内務省及び警視庁から持ち出されてユダヤ人政治家でフリ−メイソン結社員であるヴィナヴェルに引渡されてしまったというのである。


 ◇
 議定書の著者に関しては、その内面的真実さの点では、前述の問題よりも確実であるにも拘らず、その外面的証拠は一層その確実性が欠けている。この点に於ても現在では、フライ夫人の説が最も多く容認されているのであって、夫人によれば、彼女がフォードの財政的援助によってロシアで調査した結果は、大体に於てアハト・ハームことアシェル・ギンスベルクがその著者であるというのである。彼の名は非ユダヤ人の間では余り著名ではないが、ユダヤ人間には尊崇の的となっており、幼時から天才的で、1884年からはオデッサに住み、1905年のロシア革命に活躍したが、後にはパレスチナに移り、衆望を荷いつつ死んだのであった。その学識は実に古今に通じ、語学もまたユダヤ人らしく堪能であったと云われている。そしてこの彼が1889年にオデッサでベネ・モシェ(「モーゼの子等」の意)と称するユダヤ的フリ−メイソン祕密結社を設立したが、議定書は彼がそこで講演したユダヤの世界征服政策のプログラムであるというのが、今では一般に信ぜられている説である。

 前に論及したユダヤ人ベルンザインの説は、アハト・ハームのこのプログラムのことを指すものであるらしく、それがヘブライ語で書かれていたというのは、ユダヤ人祕密結社内の習慣であると見做しても差支えないであろう。それ故に、フライ夫人の説いているように、これがフランスのユダヤ的フリ−メイソン結社で用いられていたということも可能であり、そこからそのフランス語訳がロシアへ入ったということも考えられるのである。その理由は、フリ−メイソン祕密結社は、純粋にユダヤ的であると否とに拘らず、殆どその創立以来全くユダヤの支配下にあり、また、全世界のこの結社は相互に密接な連絡を持っているからである。なおニールスが入手した議定書の写しには、最後の部分に「第三十三階級のシオンの代表者達によって署名されてある」との書入れがあったということである。この点から考えても、議定書がフリ−メイソン祕密結社中でも純粋にユダヤ的であるものの世界政策のプログラムであることがわかるのである。換言すれば、アハト・ハームが設立したベネ・モシェの親結社とも見らるべき純ユダヤ祕密結社ブナイブリスの世界征服のプログラムに外ならないのである。


 ここで我々は、近来に到るまで議定書がいわゆるシオニズムの世界政策のプログラムで、1897年の第一回バーゼル会議に於てそれは決定されたのである、と信ぜられていたことに関しても一言しておきたい。勿論、或る意味に於てそれがシオニズムのプログラムであるというのは正しいのであるが、しかしシオニズムには二種あって、普通シオニズムと称せられているものは、ヘルツル等の主張する「実際的シオニズム」又は「政治的シオニズム」と呼ばれるものであり、アハト・ハームの創設したベネ・モシェあるいはかの凶悪なブナイ・ブリス祕密結社の如きは「象徴的シオニズム」又は「精神的シオニズム」と称せられているのである。

 そして前者は、シオンの回復を文字通りに実行しようとするものであって、ユダヤ人のパレスティナへの復帰を目標としているが、後者は、シオンへの復帰を象徴的に行おうとするものであって、現在の如くに世界の諸国に寄生虫として存在しながらも、その世界征服を完成しようとするのである。議定書が議決されたという97年の第1回シオン会議は、少なくとも表面的には「実際シオニズム」の会議であったのであるから、種々の調査にも拘らずその会議関係の記録に議定書に関する事が少しも見当らないのは当然であろう。

 我々はしかしこの「実際的シオニズム」もまたユダヤの世界征服政策の一つの手段であって、「象徴的シオニズム」の一つの僞装であるに過ぎないとさえ考える者であるが、この点に関しては今は詳述することを差し控えることにして、ただ一つ次の事実だけをここに記して世人の注意を促しておきたいと思う。即ち、かの「実際的シオニズム」の会議に当っては、同時に必ず純ユダヤフリ−メイソン祕密結社であるブナイ・ブリス結社の会議が開催されるのであって、この意味に於ては、議定書が97年にバーゼルで議題となり得たということは可能なのである。しかし、それはかのシオン会議そのものに於てではなく、同時に開催されたブナイ・ブリス結社の会議に於てであることは言うまでもない。アハト・ハームもこのシオン会議に出席していたことは当時の写真でも明らかになっているから、その彼が議定書をブナイ・ブリス結社の会議の方に提出したであろうことは、決して不思議でも不可能でもないのである。

 

 以上述べたところで議定書の真偽の問題に対する解答は大体は完了したと考えられる。即ちショリーと、この書との内面的連絡から言えば、議定書が、ユダヤ側の主張する如くに、万一にも非ユダヤ人の僞作であるとしても、それはユダヤの世界征服のプログラムたる資格を消失しないのであるし、また著者アハト・ハーム説が成立しない場合にも、後に引用するトレービチュの説に真実性があるとすれば、これがユダヤ人の作であり、従ってその内容がユダヤの世界支配のプログラムであることは肯定され得るのである。なおまたこれらの説の全部が成立しないとしても、少なくともジョリーの著者の出版された1864年頃以後の世界の動きは、この書がユダヤの世界政策のプログラムとしての内面的真実性を明証しているのである。いまこの点について我々は一々例示することを差控えたいと考えるが、近時の世相を多少とも世界的に達観し得る人には、この議定書が余りにも真実であることが直ちに理解されるのである。

 しかしなお我々は念の為に、議定書の真偽に関しては、ベルンの訴訟を契機として主としてドイツの「ヴェルト・ディーンスト」が調査し、前にも論及したベルクマイステルが前述の小冊子で述べている材料を紹介するだけの労を取りたいと思う。そしてそれは三つあるが、特に注目に値するのは、三つながらにユダヤ法師のなした証言であることであって、ユダヤ法師がユダヤ人の世界に於て如何なる地位を占めるかを知っている者には、このことは誠に重大な意義があるのである。トーラよりも時としてはタルムードが尊重されることはよく言われることであるが、ユダヤ法師の言説は、極めてしばしば、そのタルムードよりも尊重されるのである。

 その第一のものは、ポーランド領ショッケン市に於て1901年頃にユダヤ法師フライシュマンがその友人副検事ノスコヴィッツに対してなした証言である。34年11月30日の「ヴェルト・ディンースト」宛のノスコヴィッツの手紙に依れば、フライシュマンが自分の許嫁がユダヤ法師ヴァイルヒェンフォルトによって暴行されたことを訴えながら、ユダヤ人の内情を暴露し、議定書はユダヤ人の手になったもので決して僞作ではないことを確言した、というのである。


 第二のものは、同じくノスコヴィッツの手紙にあるものであって、彼が1906年にポーランドのスウルツェツのユダヤ法師グリューンフエルトに議定書の真偽を確かめたところ、法師は「貴方は余り好奇心が過ぎ、余りの大事を知ろうとなされる。この件について私共は語ることを許されておりません。私は語るを得ませんし、貴方はお知りになってはいけないのです。何卒慎重にやって下さい。でないと生命に関わりますよ」と返事したということである。

 第三のものはエフロンなる人物をめぐるものであって、第一、第二に比して複雑であり、その証言は三重又は四重になっている。彼エフロンはロシア系ユダヤ人であって、詳しくはサヴェー・コンスタンティノヴィッチ・エフロンといい、青年時代にはユダヤ法師であったが、後にキリスト教に改宗し、ペーテルブルグの鉱山技師にもなった人であるが、また文筆の才もあってリトヴィンといふ筆名で「密輸入者」その他の戯曲を書き、ユダヤ人に対して時折辛辣な批評を加えたりしたので、ユダヤ的ボルシェヴィズム革命の後は生命の危険を免れるために所々に亡命して回ったが、終にセルヴィアのシヤバッツ県ペトヴィッツ近傍の修道院に救われ、26年にここで歿したのであった。

 さてエフロンに関する最初のものは、ロ国騎兵大尉ゲオルク・M(特に名が祕されている)が22年2月に彼に議定書は本物であるかと訊いた時のエフロンの答であって、「自分はそれがキリスト教側の新聞に公表される数年前からその内容をよく知っていた」というのであるが、これは大尉自身が28年10月パリのロシア教会の司祭長の前でその真実であることを誓言したものである。

 次の二つは前出のベルクマイステルの調査したものであって、彼はこのエフロンの場合に非常な興味を感じ、エフロンを知っている者を何とかして探し出したいと思って努力をするうち、二人を発見するのに成功したのであった。その一人はワシリー・アンドレエーヴィッチ・スミルノフであって、ベルクマイステルはこの者から、エフロン自身が或る機会に書いたというロ語の一文を受取ったそうであるが、我々はその文章の動機及び内容に触れることを差控えて、スミルノフが36年12月15日に議定書に関してエフロンと交わした会話中、「議定書は原本そのままではなく、原本の圧縮した抜粋であるが、その原本の由来と存在については、全世界で自分を含めても十人しかそれを知っている者はない。もし君が時々私の所にやって来るならば、この祕密を漏らしてあげてもよい」とエフロンが言った事だけは彼が今なお記憶している、と書いているのを伝えておこう。但しスミルノフはその後間もなく職を得てベルグラードに去ったので、遂にエフロンからその祕密を聞くことはできなかったということである。

 もう一人はペトヴィッツ在住のワシリー・メチャイロヴィッチ・コロシェンコであって、エフロンが修道院に収容されていた頃、そこの官房主事を勤めていた者であるが、彼の37年2月3日附の手紙によれば、彼は或る時エフロンから議定書を貰ったが、その時エフロンは、「これは本物であって、その中に書いてあることはすっかり真実である」と言ったし、また別の時には、「ユダヤ人は祕密文書を持っているが、それは内情に通じた人以外には誰にも見せることはない」とも言った、ということである。

 名著「ユダヤ帝国主義」の著者シュヴァルツ・ポストゥニチュは、その著書中で、彼もまたエフロンに1921年にベルグラードで会ったが、その時エフロンは、「議定書が本物であることを説く人に共通の誤りは、それを議定書と呼ぶことであって、実際にはそれはプログラムである」と言ったと記している。既に議定書の内面的眞實性を確信する者にとっては、以上三つ乃至五つの外面的証拠の有無は大して意義はないのであるが、しかしこれらの証言もまた実証的にはかなり重要視さるべきものであることは言うまでもない。


 ◇

 ここで我々は、前に一言しておいたユダヤ人アルトゥール・トレービチュの言を引用しておくことにしよう。

 「著者の如くに、かの祕密文書に表明されている全思想・目標・意図を我々の全経済的・政治的・精神的生活から既に以前に予感を以って観取し、聴取し、読取っていた者は、この文書が世界支配を目標とする精神の正真正銘な発露であるという説に決然と賛成することができるのである。アーリヤ人の頭脳ならば、反ユダヤ的憎悪が如何にそれを僞造と誹謗とに駆り立てようとも、これらの闘争方法、これらの謀略、これらの奸計と詐欺とを考え出すことは到底できないであろう」。

 トレービチュの「ドイツ精神かユダヤ精神か」の中からの引用に次いで、我々は、議定書に関する第二審の判決以前にその真偽に関して独、伊、英、米、仏、イタリー、ハンカリー、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、フィンランド、ギリシャ、ユーゴースラヴィア、カナダ、レットランド、ノルウェー、スェーデン、スイス、スペイン、南阿、チェッコ、ロシア(亡命者)の代表がドイツエルフルトに集合して行った「決議」を紹介し、この議定書に関する小論を閉じたいと思う。

 「1937年9月2日より5日に亙ってエルフルトで開催されたヴェルト・ディーンストの国際会議は、20ヶ国以上から参集した数多き学者・著作家・政治家がそれに参加したのであるが、議定書の真偽に関して次の如き決議をした。

 ベルン裁判所によって1935年5月14日に下された判決は議定書を僞作であるとしているが、これは過誤判決であって、この結果に立ち到ったのは一に次の事情の為である。即ち、それは、裁判官が誤って、ユダヤ側から推薦されたスイスの専門家ロースリーとバウムガルテン教授との意見書のみをその判定の基礎とした為であり、またその上に、ユダヤ側原告が提議した16証人のみを尋問して、非ユダヤ被告側から提議した40人の反対証人を只の一人も召喚しなかったが為である。ベルンの判決は議定書の本物であることを揺がせるものではない。その本物であることは、他の種の事情がそれを証明しているばかりでなく、ユダヤ人自身がそのあらゆる政治的・社会的・宗教的領域に於ける行動に於てこの議定書の規定に従っているという議論の余地のない事実によって証明される。かくてシオンの議定書は、ユダヤの世界政策の真正なるプログラムである」。

 (昭和16・5月)





(私論.私見)