第1章、ユダヤ魂の本質

 更新日/2020(平成31→5.1栄和/令和2).7.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 愛宕北山氏のユダヤ主義批判は、「ユダヤ魂の本質批判」から説き起こされている。いわば原理論の部分であり、愛宕北山氏の研究手法としての学究性が窺える。ここで、愛宕北山氏は、宗教問題に関する造詣の深さを開陳している。ユダヤ主義を上滑りの批判に流すことなく、ユダヤ主義の本質を為すいわば哲学の面を照射して、その異常な危険性を俎上に乗せ警鐘している。その眼は確かであり、読者を思わず引き寄せて止まないだろう。

 2006.1.17日 れんだいこ拝


Ⅰ ユダヤ魂の本質
 かって「ユダヤ禍の迷妄」を説き、またフリー・メーソン祕密結社を人道主義的団体なりとして擁護することによってユダヤに忠勤を励んだ「人為的ユダヤ」の一群があったが、その伝統は今は、ユダヤ問題はユダヤ人に国土又は国家を与えれば解決するという「志願シオニスト」の一団となっている。二つに共通の非日本的なる倣岸不遜さは、無知に基づく生兵法の結果とのみ片づけられないエホバ的妖気を帯びており、怪奇なる日ユ同祖説とそのユダヤ性に於ては大差のない陰惨なる背景を感ぜしめる。本第一部はかかる妖気を退散せしめんが為の破邪顕正の筆剣である。

(私論.私見)

 「猶太と世界戰爭」が執筆出版された1943(昭和18)年当時に於いて、「ユダヤ問題はユダヤ人に国土又は国家を与えれば解決する」と云う後のイスラエル建国に繫がる論調が強まっていたことを教えている。もう一つ、当時の日ユ同祖説に対して「怪奇」と表現している。この二点で貴重な指摘をしている。

 2012.4.17日 れんだいこ拝

 一、ユダヤ問題研究の精神史的意義
 あらゆる人間的行為に前提があるように、すべての学術にもまた前提がある。19世紀の欧州に於て「無前提性」を標榜したところの学問も、実際に於ては決して無前提ではなかったのであって、唯物論的実証主義こそその前提だったのである。多少逆説的に言うならば「無前提性」の説かれる場合こそ却って強烈な前提が存在しているのである。この意味に於てユダヤ問題研究にも亦明らかに前提が存在しているのであるが、それが如何なるものであるかは自(おの)ずから明瞭であるにも拘らず、ここでは直ちにユダヤ問題そのものの持つ意味を見ることに移りたいと思う。
 ユダヤ問題もまた、あらゆる人間界の重大問題と同じく、単なる部分的人生問題ではない。即ち、それは、在来しばしば欧州に於ても考えられたような単なる宗教問題ではなく、実に英国宰相ビーコンスフィールド卿ことユダヤ人ディスレイリも言っているように、先ず第一に民族の問題であり、またユダヤ人が過去に於ても現在に於ても「国家中の国家」を形成している点に於ては重大なる国家問題であり、世界の富の7割乃至8割を少数民族として独占しているという意味に於ては注目すべき経済問題であり、更にまた、ほとんどあらゆる極左的思想の創案乃至宣伝者であるという関係に於ては由々しき思想問題であり、全体としては国家と民族との存立如何に多大の関係を有する危険なる社会問題である。
 ユダヤ問題の全貌がかような広範なものであるとすれば、それの研究はまた同様に広範なものとならねばならない。従ってかような研究は、その対象の性質の然らしむるところとして、研究者の側に於ける態度決定の如何によって全く相反した結果をも生ずることは自明であろう。ここに我々が既に論及しておいた学術の前提が再び問題となって来るのであるが、この場合にも我々はそれがやがて自ずから明瞭になることを信ずるので、まず現在の世界の諸国に於てユダヤ問題が如何なる様相を示しているかを端的に述べることにしたいと思う。
 何人にも明白な事実は、現年の世界が大体に於て二つのイデオロギー的陣営に分れていることである。これは恐らく世界の常識に属していると考えられるが、現在の世界の対立が、二つと言われて三つと称せられていない点は特に注目に値するのであって、現在の世界のユダヤ問題の考察に当っても、このことは重要な意味を持って来るのである。この事情を精神史的に言えば、世界の一方にはいまだ19世紀的唯物思想にその存在の根拠をおいているいわゆるデモクラシー諸国があり、他方には、それらの諸国からは有名無実の悪評を浴せかけられている20世紀新興勢力としてのいわゆるファッシズム諸国が対立的に存在しているのである。
 しかるに19世紀と言えば、フリーメーソン祕密結社のモットーである「自由・平等・博愛」を看板として遂行されたユダヤ解放革命としてのフランス革命に始まる世紀であって、その本質は合理主義、個体主義、相対主義、唯物主義等の特質を持つ悪平等思想の支配した時代であるに過ぎず、またそのユダヤ解放は実質的にはユダヤの世界支配の容認にすぎなかったので、19世紀は即ちユダヤの世界支配の確立の世紀に外ならないとさえ言い得るのである。

 
而してかのデモクラシーとは、実質はユダヤ独裁の別名に外ならない。現在のデモクラシー国家なるものは、それが今なおデモクラシー的本質を残存している程度に正比例して、ユダヤ独裁に服しているのである。これに反していわゆるファッシズム諸国に於ては、それが全体主義でありまた民族主義である程度に正比例して、ユダヤ独裁は清算されているのである。
(私論.私見)
 「デモクラシーとは、実質はユダヤ独裁の別名に外ならない」のこの観点こそ正鵠かも知れない。よって、「現在のデモクラシー国家なるものは、それが今なおデモクラシー的本質を残存している程度に正比例して、ユダヤ独裁に服している」、「これに反していわゆるファッシズム諸国に於ては、それが全体主義でありまた民族主義である程度に正比例して、ユダヤ独裁は清算されている」は成るほどの指摘として拝察させていただく。
 しかし、ここに或る人は、ボルシェヴィズムのソ連は如何であるかの問題を提出するであろう。しかし、これは単にボルシェヴィズムの仇敵がファッシズムであった一事のみからも極めて明瞭である通りに、ボルシェヴィズムも自由主義も本質的には何らの相違はないのである。これを近来の著名の語で言えば、自由主義は共産主義の温床である、というのである。言葉を変えて言うならば、前者は後者の頽廃的段階たるのである。従って両者は、共同の敵としての新興勢力が台頭する場合には、例えば日支事変に於ける英・米・仏・ソ連の仲の良さが証明して余りあるように、直ちに共同戦線を張るに至るのである。自由主義の地盤としての資本主義も、ボルシェヴィズムの地盤としての共産主義も、共に何れも合理主義であり、相対主義であり、個体主義であり、就中、拝物宗であるからである。 

 これを我々の当面の問であるユダヤ問題から見る時には、この二つの国際主義の代表者であり、支持者であり、宣伝者であり、統一者であるところのものは、同一のユダヤに外ならないのである。ソ連なるものは、その成立より見るも、スターリンを第一線に立たしめて督戦しているカガーノヴィッチ閨閥の支配状況から見るも、米国フリーメーソン系金融ユダヤ人の投資の一形式であると言っても決して過言ではないのである。
それ故にソ連の真相を掴もうとする者は、時折演出されるその内部に於ける内輪喧嘩を過大に評価して、既に全ユダヤがソ連を見捨てたと誤信してはならない。


 パレスチナ系乃至トロツキーの第四インターナショナル系のユダヤ人がスターリンに不満であることが万一にも事実であるとしても、米国ユダヤは巨額の投資をそう容易に断念し得る筈はないのである。最近カガノーヴィッチ閨閥に異状があったと称せられるが、これが事実ならばあるいはソ連の動向にも何らかの根本的変化があるかも知れないが、今それを論ずることは早急に過ぎるであろう。
(私論.私見)
 ボルシェヴィズムと自由主義は、「共同の敵としての新興勢力が台頭する場合には、例えば日支事変に於ける英・米・仏・ソ連の仲の良さが証明して余りあるように、直ちに共同戦線を張るに至る」、「同一のユダヤに外ならない」との見識が鋭い。
 而してこれら諸国に於けるユダヤ問題の扱い方は、それらの国に於て占むるユダヤ勢力の大きさに正比例した結果を示している。即ち、かのいわゆるデモクラシー国家に於ては、それが仮に全くの禁止を喰うてはいないにせよ、この問題の特志研究家は身辺にあらゆる意味の迫害を受ける。この事情は、活眼をもってそれら諸国の動静を見るならば容易に明瞭となるのである。

 而して国際共産主義国として完全なるユダヤ独裁下にあるソ連に於ては、ユダヤ問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されているのである。勿論一般民衆間の反ユダヤ主義は極めて根深く、早晩それが爆発点に達することは歴史の論理であるが。しかし1936.11月のフランスの「ル・ジュルナル」誌の報ずる如くにスターリンもまたその母よりユダヤの血を承けているとすれば、ロシア人のロシアの出現は容易なことではないであろう。最後に、ファッシズム諸国の場合であるが、これらの国に於てユダヤ問題が、当然かくあるべき処置を受け、また受けつつあることは、今更詳記の要はないであろう。
(私論.私見)
 「この問題の特志研究家は身辺にあらゆる意味の迫害を受ける」、「ユダヤ独裁下にあるソ連に於ては、ユダヤ問題の論議乃至研究は生命にかけて厳禁されている」は事実問題である。
 以上見たように、現代は正に新旧二つのイデオロギーの対立時代であるが、これは単に国家の性格が示しているだけのものではなくて、いずれの国家の内部に於てもまたより小規模に於て認められ得る世相である。しかして今や世界の重要な一環である所の我が国に於ても、事情は決して例外ではないのであって、全国力を挙げての日支事変下の現在に於ても実に然りなのである。

 
この事実は、一部のお人好しや為にする所のある連中からは否定されるか、あるいは黙視乃至看過なるべきであると主張されるのが常であって、「我が国は大和の国である」等という空疎極まりなき擬裝的言説さえ叫ばれることもあるが、これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言であるか、あるいは事変中又は事変後の或る時期を待ち設けて策動せんとする人民戦線残党の仕事であるに過ぎない。世界がイデオロギー的に分裂しているのに照応して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇国日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的対立を蔵しているのである。
(私論.私見)
 「我が国は大和の国である」に対して「空疎極まりなき擬裝的言説」、「これは世界の現状と、歴史の本質と、現在日本の世界的地位とを知らぬ低能者流の寝言」と罵詈している。「世界がイデオロギー的に分裂しているのに照応して、悠久幾千年の光輝ある歴史を有する皇国日本もまた今やその内部に同じイデオロギー的対立を蔵している」の指摘が鋭い。
 従って現在の世界に於てボルシェヴィズムを尖端とする自由主義が全くの「反動」であるのに照応して、皇国日本に於てもその系統に属する思想の信奉者はいつも反動化している。勿論我々は、皇国の将来に関してはいささかの不安も感じないものであるが、しかしこれらの反動主義を放置することは、いわゆる自由主義的「文化」主義者(現代のいわゆる映画に「文化」ありとする程度の)の場合であろうと、赤化主義的「科学」主義者(19世紀的唯物論に「科学」ありとする程度の)の場合であろうと、彼らの持つユダヤ戦線性のために幾多の犠牲を生ずることを憂えざるを得ないので、それらの犠牲を最小限に止めるために適切な英断的処置を切に期待するものである。犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥没している彼らのみで充分であって、幾多の若人をその道連れとして泥沼に陥没せしめる必要はないのである。
(私論.私見)
 「犠牲は既に救出し難く泥沼の深みに陥没している彼らのみで充分であって、幾多の若人をその道連れとして泥沼に陥没せしめる必要はない」は首肯できる。
 殊に興味深く且つ残念なのは、特に満洲事変以後日本インテリの祖国戦線よりユダヤ戦線への落伍の状況であって、その事変以来の内の一事件毎に彼らは(いわゆる「日本主義者」の場合もまた例外ではない)落第して行ったのである。そしてその最後の大試練が現在の日支事変であって、辛うじて今まで及第して来た者の中にも、「20世紀入学試験」とも言うべき今度の事変に際しては、遂に落第の憂目を見た者がかなり数えられるのである。

 このたびの欧州戦争がこの事情を促進しつつあることは言うまでもない。しかも彼らは、世の落第生に共通の僻みと嫉妬と陰険さとをもって、いわゆる文化主義と科学主義との華やかなりし昔を偲ぶという程度の許さるべき回顧のみに満足することができず、国民精神総動員下の問題に乗じては、皇国をその本来の姿に還そうと身命を賭して努力しつつある精英に対して、彼らが精英であり、また日本的であり、行為的であるとの理由からのみして、事毎にその毒息をふきかけようとしている。そして国際的に見てデモクラシーとボルシェヴィズムとが「お手々つないで」を実習して教えている範例に従って、ここ国内に於ても、赤色と桃色とはお手々をつないで、ユダヤ戦線に躍り躍らされているのである。
(私論.私見)
 「特に満洲事変以後日本インテリの祖国戦線よりユダヤ戦線への落伍の状況であって、その事変以来の内の一事件毎に彼らは(いわゆる「日本主義者」の場合もまた例外ではない)落第して行った」は興味深い指摘である。
 このユダヤ戦線の志願戦士とユダヤ問題との関係は如何であるかというのに、この点に於ても事情は世界の大勢と合致している。即ち、かのいわゆる桃色文化主義者連はしばしはその怠惰の為に、そしてまた多くの場合には彼らの19世紀的思想の為に、換言すれば、その合理主義、個体主義、唯物主義、相対主義の為に、本来ユダヤ的傾向を帯びてしまっているので、たとえ日常生活の各瞬間にユダヤ問題を想起せしめるような事件が続発しても、それには気がつかないのである。そして時たま気のつく者があるとしても、それの批判が直ちに自巳の存在の根本への批判となることを感ずるので、時には本能的に、時には意識的に、かかる問題を取りあげる事の非人道的であることを主張する。そして「自由・平等・博愛」という如き悪平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しないことさえ知らないのである。
(私論.私見)
 「自由・平等・博愛という如き悪平等思想に基づくヒューマニズムが生きた世界には存在しない」と言及している。鋭い指摘のようにみえる。
 この二種の桃色主義者は、ユダヤが金力によって思うままに支配している世界の通信網と言論機関とが黙殺し隠蔽するところのものはすべて一般に存在しないと思惟し、あるいはまた日本人以外の者乃至ユダヤ人ならば、如何に少数者が多数を搾取しようと、虐待しようと、大量殺人をしようと、少しも人道に背反するところはない、と考えるのである。これは実にいわゆる「先進文明」を取入れるに急であった明治時代の舶来上等イデオロギーの残滓にすぎないのであって、横文字で説かれ、片仮名で書かれてあるものならば、ただもうそれだけで有難いのである。
(私論.私見)
 「ユダヤが金力によって思うままに支配している世界の通信網と言論機関」云々。貴重な指摘である。
 従って彼らは、赤色派となるだけの勇気はないが、しかし人間性から見ても、歴史的に観察しても、その創造者の意図とその利用者の何人種であるかより見るも、決して「科学的」でも「進歩的」でもなく、単にユダヤ的であるにすぎないマルクス主義に対してさえも批判がなく、マルクスの理論は正しいが、現在の日本の政策と合致しないから自分はそれを取らない、という程度の羨むべき心境にあるのである。
(私論.私見)
 「決して科学的でも進歩的でもなく、単にユダヤ的であるにすぎないマルクス主義」云々。この指摘も鋭い。
 殊に顰蹙(ひんしゅく)すべきは、プラトーン、カント、ヘーゲルに重大関心を示しながら、また或る者はキリスト教の信者であると誇称しながら、拝物宗の批判さえ不可能な者の場合である。しかしこの種の哲学の徒やキリストの徒にとっては、哲学することは単なる頭の遊戯であり、キリスト教徒たることは、自分が高等民族に仲間入りした事を誇示するためであるに過ぎないのであるから、19世紀的地盤上に最後の流行として栄えたものに対する批判に及び得ないのは当然である。

 実に彼らは、カントのタルムード的解釈を哲学として尊敬したり、
旧約聖書と新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種に過ぎない。従って彼らは、一方に於てはイデアを現実に生かす道を知らず、ユダヤ民族神としてのエホバと唯一最高神との区別にも思い到らぬのである。しかしこの人種の特質は、自己の利益に関係のない事には極めて冷淡であって、国家の安泰の如きはしばしば交際上の話の種としての価値さえもないのである。しかし事一度自己の利益に関する時には、国を売るだけの勇気はないとしても、友を売り師に背いて何らの良心の苦痛を感ぜず、例外なくエゴツェントリストとなるのである。
(私論.私見)
 「旧約聖書と新約聖書との差を認識し得ぬ程度の盲目人種」、「ユダヤ民族神としてのエホバと唯一最高神との区別にも思い到らぬ」云々然り。
 なおユダヤ問題を否定する者のうちには、この問題の研究の結果が余りに整然たるの故に信じ得ずとなす者がある。もしこの論者の主張が、現実は深くして単なる合理主義にては解釈し得ない、というのであれば尊敬すべき識見であるが、しかしこの拒否も多くの場合は拒否のための口実に過ぎないのであって、彼らの多くは、自由主義には「自由」があるとか、マルクス神話には「理論」があるとか言って随喜の涙を流す程度の者であるのである。いわゆる「物のわかる」、「頭のよい」彼らにとっては、意識乃至無意識にユダヤ戦線の一兵士として、その戦線と自己の地盤を搖がすものは「括弧に入れ」て「判断中止」をするのが得意の手であるのである。

 国際場裏のボルシェヴィズムに照応する国内の志願ユダヤ戦線がユダヤ問題に対してボルシェヴィズム的態度で反応することは、今更説明の要はないであろう。否、この志願兵の群は更に百尺竿頭を進めて、これこそ正真正銘のタルムード理論を以て巧みに偽装的転向をし、積極的に金儲けに従事するのである。勿論事変下に於ては昔日の如き儲けはないであろうが、しかし彼らは偽装の点に於てもまたユダヤの先師に学ぶことを忘れず、今なお相変らず相当の金儲けに従事している如く見受けられる。而してボルシェヴィズムとデモクラシーの馴れ合いの模範は、その縮図としてこの場合にも繰返されていることは言うまでもないことであって、桃色主義者が一歩前進し、赤色主義者が一歩後退した現代に於ては、舞台を世界にとろうと、或る一国にとろうと両者の間には既に本来の同一性が実証されている。
 事変下の現在に於て日本的日本人の最も関心すべきことは、これらの憎むべきまた憐れむべきユダヤ的国籍喪失者がその無恥にして巧妙なる偽装の下に暗躍して、直接又は間接にユダヤの世界支配を助長するであろうことに対して、祖国日本の悠久の生命の為に対策を講ずることである。(16・5)
(私論.私見)
 「これらの憎むべきまた憐れむべきユダヤ的国籍喪失者がその無恥にして巧妙なる偽装の下に暗躍して、直接又は間接にユダヤの世界支配を助長するであろうこと」云々。この指摘も鋭い。

 二、ユダヤ魂の本質
 
ユダヤ問題研究上の困難
ユダヤ魂探求の法
ユダヤ教とその経典
ユダヤの民族神エホバ
エホバとユダヤ民族との関係
ユダヤ民族の神観
ユダヤ人の陰謀性
ユダヤ人の人間観
他民族の利用
革命と戦争
ユダヤ人の掠奪
他民族の殺戮
ユダヤ経典解釈の融通性
あらゆる価値の改価
悪と否定の原理の具象化としてのユダヤ人
 日本とユダヤ
人種混淆の問題
ユダヤ人の世界政策
結 び

 ユダヤ問題研究上の困難
 お集りの皆様には既に充分お分りのことと存じますが、ユダヤ問題の研究ということはいろいろな不便を伴っております上に、時とすると一部インテリ層の間では誤解を受け易いのであります。ユダヤが自由主義やマルクス主義を利用して久しく煙幕を張って来ていますので、この問題の存在することさえ分らない程にお目出度い人がいわゆるインテリの中には相当あるように見受けられるからであります。既に幾度もユダヤ禍のために悩まされた欧米では、一般の人々は、復讐を恐れて口には出しませんけれども、この問題の存在や意味ぐらいは常識として知っておりますが、日本は幸か不幸か無経験の為に上述のような状態におるのでありますが、そうした無準備のままで現在の非常時局に突入してしまったのであります。
(私論.私見)
 「ユダヤが自由主義やマルクス主義を利用して久しく煙幕を張って来ている。この問題の存在することさえ分らない程にお目出度い人がいわゆるインテリの中には相当あるように見受けられる」云々。この指摘も鋭い。
 それで今まではそれで良かったとしましても、今後はこの世界の舞台裏の祕密力にまで眼を及ぼして、皇国悠久の将来の為の計を立てねばならないのであります。それに今なお、ユダヤ問題を研究して批判を加えるのは少数民族の排撃である、などという感傷的なユダヤの宣伝が鵜呑みにされていることがありますが、一度冷静な批評眼を備えてユダヤ四千年の歴史を見るならば、こんなユダヤの常套的な宣伝にのせられる筈はないのであります。現代のような急激に進展して行く時代には、インテリというものは「本」が読める為に却って時代に遅れると云う皮肉な現象が屡々起るのでありますが、ユダヤ問題の場合はその最もよい例なのであります。
 少数民族排撃云々の問題から眼を転じて、ユダヤ人のゲットー生活の問題を取り上げましても、在来はユダヤ人の宣伝の結果、ユダヤ人がゲットー内に隔離生活を送らされて来たのは他民族に強要された結果である、と云うように考えられ勝ちでありました。しかしこれは事実とは大きな差異でありまして、少数の例外の場合を除きましては、かの隔離生活はユダヤ人が自ら選んだ生活形式でありまして、いわゆる「国家中の国家」を形成する為の一方策だったのであります。そしてその内部に於てユダヤ人特有の陰謀を他人に監視される心配なしに企てて来たのであります。それを「頭の悪い」非ユダヤ人を欺くのに自己に好都合な解釈を加えて宣伝して来ましたので、とかく真相が隠され勝ちで今まで来ているのであります。
 以上僅か二つの著しい例を挙げただけでも判明致しますように、非ユダヤ人というものは全体として正直者でありますから、なかなかユダヤの謀略を見抜くことは難しいのであります。しかし正直さというものは、それに伴う正来なる批判力のないとき、いわゆる馬鹿正直となってしまうのであります。時として世間には、ユダヤ問題の如き世界の裏面の研究をしている時には、万事に物の裏を想う暗い習慣に陥るのではないか、という人もあるようですが、これは大抵の場合ユダヤ系自由主義に染った人の言葉でありまして、正直にユダヤ問題の研究を拒否するという勇気の欠如している結果として、かような尤らしい遁辞を設けるのであります。真の叡智は善も悪も解する能力を与えた良識に立脚するものでなくてはなりません。殊に今や我々の身辺には、一寸油断をすると家庭の内部にまでユダヤの魔手がなおあらゆる形で伸びて来ているのでありますから、この度の世界皇化による新秩序の樹立の為には、甘い感傷主義を捨てて何処までも毅然とした態度で進まなくてはならないのであります。
(私論.私見)
 「正直さというものは、それに伴う正来なる批判力のないとき、いわゆる馬鹿正直となってしまうのであります」云々。名言ではなかろうか。

 ユダヤ魂探求の法
 そこで私が本日ここで多少皆様に申上げて見たいと思いますのは、例えば上述の二つの問題の如きでさえもかほど巧みに真相を隠すことに成功して来たユダヤ人の「頭のよさ」の基くところが何処にあるか、という点についてであります。世界ではよくユダヤ人のメシア思想と申しますが、私の本日お話し致したいのは、そのメシヤ思想の拠って立つ根本の地盤というものについてであります。それを私は本日の演題の「ユダヤ魂の本質」と称しているのであります。ところで問題は、それを研究するのには如何なる道を取るべきかということになって参りますが、これには幾つもの道があるのでありまして、富士に登る道が幾つもあるのと同様に、「ユダヤ魂の本質」を明らかにする道も幾つもあるのであります。
 先程も論及致しましたように、ユダヤの歴史四千年の推移を研究することもその一つでありますし、特に現代に於けるユダヤ人の暗躍振りを跡づけるのもまたその一つであります。しかしこの二つの道ながらにそれ相当の困難が伴っているのでありまして、第一の道の如きは、現在ではいわゆる枢軸国には相当の信頼すべき文献が存在しておりますが、それ以外では材料の入手が困難なのであります。殊にデモクラシーと称する金権支配の米英や、プロレタリヤを利用してユダヤの天下を招致しようという赤色帝国主義の国に於ては、ユダヤ人に関する研究はユダヤ人そのものの允可を経ないものは公刊の機会が殆どありませんし、例え勇気を振って公刊しても、決して店頭に取次いでは貰えないのであります。

 これはヒットラー及びムソリーニ以前のドイツに於ても事情は同じでありますし、フランスに於てはペダン政府以後も相当程度の旧態を殘しているようであります。従って我が国に於ては、ユダヤの歴史を見ると云いましても書物による外はないにも拘らず、その書物がこういう制限を受けているのですから、この道に依る研究が容易でないことが、お分り願えたかと存じます。
次に現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、枢軸以外の世界の通信機関の殆ど全部を支配しておりますユダヤのことでありますから、なかなか容易にはその正体を見せることはないのであります。

 それでこれらの道によっては研究不可能かと言いますのに、盟邦独伊の識者の研究によることもできますので、現在では割合に容易なのでありますが、しかし独伊のものも、それが国家的な支持を得て公然と研究し得るようになったのは、僅か数年以来のことでありますので、まだ研究が完備しているとは申されないのであります。また独伊には独伊としての立場もありますので、我々にはその研究を全部そのまま受け容れることのできないことのあるのは言うまでもありません。
(私論.私見)
 「現在の世界に於けるユダヤの暗躍振りを見るやり方でありますが、枢軸以外の世界の通信機関の殆ど全部を支配しておりますユダヤ」。この認識が必要なように思われる。
 しかし独伊の研究に教えを受ける場合にしましても、また直接に現在の世界の動きから研究するに致しましても、研究が或る点まで達しますと、案外容易に事の真相が明瞭に把握される時期がやって参るのであります。これはおそらく誰にも経験のあることと存じますが、或る一事に相当に通じますと、それから先は道が容易に開けて来るのであります。例えば上述しましたような事情下にある外国電報の如きも、少しばかり慣れて参りますと、その出所を知ることによって直ちにその含有する真偽性の程度が直感されるようになるのであります。そうしてこの程度に到達致しますと、独伊側の研究ではなく、英米側のユダヤ系の宣伝的著作にしましても、その真偽の割合が正確に把握されるようになるのであります。そしてここまで到達しないではユダヤ問題は分らないのでありますが、本日私が多少申上げたいと存じますのは、この点にまで到達するのに役立つ一つの捷径に関してであります。

 ユダヤ教とその経典
 よく世間では、ユダヤ人は宗教的な民族だと言いますが、それは全くその通りでございまして、例えばかの「聖書」の如きがその民族の産んだものであることからも、このことは肯定されるのであります。御存じの通りユダヤ人には国家もなく、定住する国土もないのであります。しかもそのユダヤ人が現在の世界に見られるように見事な統一を持って動いておりますのは、祕密の指導者の有無は問題外と致しまして、その宗教的訓練の結果なのであります。従ってユダヤ人の場合の宗教は、我々が日常考えて居ります宗教とは異ったものでありまして、それは宗教であると同時に、政治でもあれば、経済でもあり、法律でもあれば、教育でもあるのであります。これを換言致しますと、ユダヤ人は祭政一致の民族であるとも言い得るのであります。そして、この点では(我が日本は)上に万世一系の天皇陛下を奉戴し、いまだ甞て敵に汚されたことのない国土に国家を形成して来ているのでありますから、実質的には文字通り天地霄壤の差があるのであります。

 この点の差異につきましては後にまた触れることに致したいと存じますが、とにかく宗教がユダヤ人の生活に如何に大なる意義を持つかは以上でもお分り願えたことと存じます。しかもユダヤ教の拠って立つ所はいわゆる聖書中の旧約聖書であり、またタルムードでありますので、私は「ユダヤ魂の本質」を知る捷径は第一にこれらのユダヤ聖典を研究することであると申し上げたいのであります。
 或る著名のユダヤ人は「我々に祖国はないが、ユダヤ聖典こそはその祖国なのであって、この祖国のある限り我々は亡びることはない」と申しておりますが、ユダヤ人にとってかく国家と国土との二役を引き受けているユダヤ聖典こそは、我々が、ユダヤを知るために第一に考慮すべきものであろうと思います。従って、本日はユダヤ聖典を中心としてお話し致したいと存じますが、それが旧約聖書とタルムードとであることは既に申上げました通りであります。しかし旧約聖書と申しましても大部のものでありますので、特にユダヤ人がトーラの名の下に尊崇しております旧約聖書の初めの五巻を中心として本日はお話し致したいのであります。
 ユダヤ人がこのトーラを尊崇致しますことは非常なものでありまして、「神さへもトーラを研究し給う」とさえ言い、神そのものよりもトーラを重視致しているくらいなのであります。同じことは今一つのユダヤ聖典タルムードに関しても言われているのでありまして、「神もまた夜間にはタルムードを研究し給う」とタルムードそのものに記されております。ではこのタルムードとは何であるかと申しますと、これは先程申上げましたトーラに対する「解釈」の集成をその重要部分としているのであります。その成立は大体西暦5、6世紀の頃ということになっており、既にユダヤ人が特殊の意図を有してその編纂に当っていることが歴然としているのであります。ついでにここでかの旧約聖書の成立についても一言しておきますならば、それも矢張同じ頃だという説がこの頃大分唱えられております。従ってこの旧約もまたユダヤ人が或る特殊の意図を以て編纂したものであり、特にトーラの第一巻の始めにある宇宙創造の話は印度からの借物なのだそうであります。
 ここで話しをまたタルムードに帰しますが、ユダヤ教の聖典の一つであり、極めてしばしばトーラそのものよりも重視せられるこの聖典が上述の如く「解釈」をその本領と致しておりますことは、ユダヤ教の本質を見ようとする者にとっては、極めて重大なことでありまして、ドイツなどでよくユダヤ人には独創はなく、その長所は単に解釈の能力のみであると言われるのは、恐らくこの点を根拠とした説であろうと思われます。ユダヤ文化の根源ともいうべき旧約の始めの宇宙創造の話が借物であることをも入れて考えて見ますと、ユダヤ人無独創説は相当の根拠を有するものと言わねばなりません。
(私論.私見)
 「ドイツなどでよくユダヤ人には独創はなく、その長所は単に解釈の能力のみであると言われる」、「ユダヤ人無独創説は相当の根拠を有するものと言わねばなりません」云々。首肯できるところである。
 しかし事一度「解釈」の領域になりますと、ユダヤ人の独壇場でありまして、近頃の解釈学的哲学・現象学・形式社會学・純粋法学、その他文学・芸術・音楽の解釈より相対性理論に至るまで、その精神に貫かれておらないものは皆無であると言っても過言ではないのであります。このことを別の言葉で申しますと、ユダヤ人は天才的に「嘘がうまい」ということになるのであります。この事情は、タルムードそのものに、「彼はモーゼに律法を与え給うたが、それは、同一の事柄をそれぞれ49種のやり方で不潔とも清潔とも証明することを許すだけの余裕のあるものとなっている」とあるのでも充分窺われるのであります。この言葉については後にもう一度論及致したいと思っております。
 話しが多少わき道へそれましたが、ここで我々は、世上往々ユダヤに頼まれたかの如くに次のような疑問乃至反対をする人がありますので、そうした疑問や反対は、ユダヤ人の豊富な報酬を当てにする者以外は慎むべきことである、と言っておきたいと存じます。即ち、トーラにせよタルムードにせよ、何れも少なくとも千幾百年以前の著作物であるから、近代文化の恩沢に浴しているユダヤ人がそんなものを文字通りに信仰している筈はないというのが、その疑問乃至反対であります。しかしこれはユダヤ魂の本質に盲目であることの証拠であるばかりでなく、日本の哲学界でも一時は非常に有名でありましたドイツのマルブルグ派のユダヤ哲学者コーエンその人によって反駁されているのであります。

 即ち彼は、1888年に裁判所の宣誓に於て、「タルムードに含まれている信仰並びに慣習に関する諸規則は、ユダヤ人に対して拘束力を有するものである。それらは律法と認められている」と言っているのであります。勿論ユダヤ人は二千万近く居るのでありますから、その中には種々の傾向の者も居りますので、いわゆるモダーンなユダヤ人の中には、「同化ユダヤ人」と称せられて、ユダヤの慣習を捨てて近代化した者も居るのであります。しかしこの場合の大部分はそう偽装するのでありまして、ここでもユダヤ人の「頭のよさ」を見なくてはなりません。時として本人自身そう真面目に信じておりましても、なお本能的にはユダヤ根性がいざという場合には出て来るのであります。同一事を49種にも黒白といいくるめる術を幾千年間修業して来ているのでありますから、嘘のうまさ乃至偽装の巧みさが文字通りに超天才的であることは、前にも申上げた通りなのであります。従って、口先でタルムードを否定するユダヤ人こそ反って生粋のユダヤ魂を持っているのかも知れないのであります。実にタルムードとはかような精神から生まれ、かように精神を育てて来たのであります。
 なおユダヤ魂の本質の研究には、皆様御承知の「シュルハン・アルフ」や「シオンの議定書」などもありますが、本日はこれらには論及する暇はないのであります。前者については、これもまたタルムードのような解釈の書であること、後者については、それの真偽はその内面的真実性を重んずる非唯物論的立場にまで高昇し得る者のみが判断し得るものである、ということだけを述べさせていただくにとどめたいと思います。

 ユダヤの民族神エホバ
 前置きが余り長くなって参りましたので、この辺で本論へ進む事に致します。さてドイツの詩人ゲーテは、或る人が如何なる人であるかはその人の神観を見れば分る、と申しておりますが、私もその意味に於て先づユダヤ人の神観を明らかにし、これによってユダヤ魂の本質の一斑を把握してみたいと思うのであります。勿論こう言いましても、唯物論者等の申しますように神の存在を否定するのではないのでありまして、実在する至高の神を如何に感受するかは感受する人間如何によって異る、という意味なのであります。例えば我々日本人の祖先のようにその神を先づ天御中主神の如くに感受するか、あるいはユダヤ人の如くにヤーヴェ(エホバ)の如き神として感受するかは、その民族の民族性如何によって定まるというのであります。
 ではユダヤの神ヤーヴェとは如何なるものでありませうか。しかし我々はこの問題に答える前に、旧約聖書にはヤーヴェの外に、その最初の創世記の巻には別の神があって、この神が宇宙の創造をする、ということになっていることを想起したいのでありますが、しかしこの神に関しましては、この創世記がインド方面よりの借物であるという説もありますので、我々も今日は直ちにヤーヴェをユダヤの神として論じても差支えなかろうと信ずるのであります。

 ではヤーヴェとは、通俗的に言いましてエホバとは、如何なる神でありませうか。これを歴史的に見ますと、ヤーヴェと申しますのはユダヤ人が移住して参りましたカナーン地方の土俗神であったと云うことであります。しかし我々は今日はユダヤ聖典によってその神観を明らかにしようとしているのでありますから、このような意味でのヤーヴェについては語ることを避けたいと思うのであります。それから既に前に申しましたように、ユダヤ聖典タルムードに依れば、神はトーラのみならず、タルムードそのものをも研究し給うというのでありますが、かような属性を持つヤーヴェについても今日は語ることを避けたいのであります。とにかくヤーヴェなるユダヤの神は、旧約又はタルムードを中心にして見ましても種々の属性を持っているのでありますが、本日はそれらの諸属性を一貫して流れているもの、あるいはヤーヴェの根本特質とでもいうもののみを研究して見たいと思うのであります。
 今申しましたような立場から観察致しますと、旧約全書に見られるヤーヴェというものはユダヤ人だけの民族神であって、ユダヤ人のみを偏愛する神であることが明瞭なのであります。例えば創世記の26には、「我、汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫には之らの国を與えん。汝の子孫によりて天下の国民皆福祉を得べし」とありますし、申命記の2には、「汝の神エホバ、地の面の諸の民の中より汝を選びて己の実の民となし給へり」と書かれておりますし、いわゆるトーラ以外の部分にも例えばレビ記の20には、「我は汝らの神エホバにして、汝らを他の民より区別せり」と記されているのであります。世間でよく言われるユダヤの選民思想はこれらの言葉を根拠とするものなのでありますが、とにかく以上の引用文から見て明らかなことは、エホバが決して宇宙神ではなく、世界創造の神でもなくて、ユダヤ人を偏愛する民族神に過ぎないということであります。
 それでこの民族神がユダヤ人を愛するのは当然でありまして、この民族神が民族神として活動するだけで、その本性の埒を出て宇宙神だの世界の創造神だのと僭越なことを言わなければ、我々としても何らの異議はないのであります。たとえ民族に対する愛が偏愛の程度に達している時でも、我々としては辛抱できるのであります。ところがこの神が、自分こそ世界の唯一の支配者であるとか、唯一神であるとか言って、自己の相対的な地位を忘れて絶対位を僭称するようになりますと、そこに問題が生じて来るのであります。殊にヤーヴェとユダヤ人との關係を一層詳しく調べ、ヤーヴェがユダヤ人に約束することを検討し、就中その命令乃至約束の成就のために奨める所の手段方法にまで眼を及ぼしますと、果してこのヤーヴェは民族神程度としても神の名に値する存在であるか否かさえ、怪しくなって来るのであります。
 結論から先に申しますならば、ヤーヴェなるものは如何なる意味に於ても決して神の名に値しないものであり、強いて名を求めるならば、西洋人の言う悪魔か、我々日本人の考えます狐狸の怨霊の類であると考えられるのであります。勿論、旧約又はタルムードは大部のものでありますから、ヤーヴェには別な特性もあるのでありますが、しかし他に如何に偉れた属性があっても、以下に紹介しますような特性もまた存在しています以上は、やはりヤーヴェは如何にしても余り高貴の神ではないのであります。

 エホバとユダヤ民族との關係
 ではまづヤーヴェの民族神としての性格を明らかにするための第一の問題としまして、この神とユダヤ人との関係そのものを見ることに致しませう。そこで先ず考慮したいのは申命記の28であります。
 「汝、もし汝の神エホバの言に従い、我が今日汝らに命ずるその一切の誡命を守りて行わば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の国人の上に立たしめ給うべし。汝、もし汝の神エホバの言に従う時は、この諸の福祉汝に臨み汝に及ばん。……汝は入るにも福祉を得、出るにも福祉を得ん。汝の敵起ちて汝を攻むるあらば、エホバ汝をして之を打破らしめ給うべし。彼らは一条の路より攻め来り、汝の前にて七条の路より逃げ去らん。……汝、もし汝の神エホバの誡命を守りてその道に歩まば、エホバ汝に誓ひし如く汝を立てて己の聖民になし給うべし。しかる時は他の民みな汝がエホバの名もて称えらるるを見て汝を畏れん。エホバが汝に與えんと汝の先祖らに誓い賜いし地に於てエホバその実の蔵なる天を啓き、雨をその時に従いて汝の地に降し、汝の手の諸々の行爲に祝福を賜はん。汝は許多の国々の民に貸すことをなすに至らん。借りることなかるべし。エホバ汝をして首とならしめ給わん、尾とならしめ給はじ。汝は只上に居らん。下には居らじ。汝、もし我が今日汝に命ずる汝の神エホバの誡命に従いて之を守り行かば、かならずかくの如くなるべし」。

 ヤーヴェとユダヤ人との関係がいま挙げたようなものだけでありますれば、ヤーヴェが民族神であることから見て、これ位の偏愛や約束は当然のこととも考えられるでありませう。ただ今引用しました中には、「エホバ汝に誓ひし如く」とか「汝らの先祖らに誓い賜いし」などという点に、ヤーヴェとユダヤ人との間柄が、真に民族を愛する民族神とその民との間の関係と見るにしては余りにも商売的な契約の感を抱かせる点がありますし、また「汝は許多の国々の民に貸す」という言葉がユダヤ人の四千年の歴史を暗示しているような点もありますし、またもう一つ「汝をして首とならしめ」とか、「汝は只上に居らん」とかいう言葉でユダヤの世界支配欲を表示しているような点もありますが、これらの点については後にもう一度触れることに致しまして、ここではただ、以上だけがヤーヴェとユダヤ人の関係でありますならば、先にも旧約より引用しました際に申しましたように、我々他民族も大体に於て異議なく、従って民族神とその民との関係としてもそう不思議ではないのであります。しかし事情は、今の引用の続きの部分を見ますと、大いに変って来るのであります。
 「汝、我が今日汝に命ずるこの言葉をはなれて、右又は左に曲りて、他の神々に仕うることをすべからず。汝、もし汝の神エホバの言に従わずして、我が今日汝に命ずるその一切の誡命と法度とを守り行はずば、この諸々の呪詛汝に臨み、汝に及ぶべし。汝は邑の内にても詛われ、川野にても詛われん。……汝は入るにも詛われ、出るにも詛われん。エホバ、汝をしてその凡ての手をもて爲す所に於て呪詛と恐懼と譴責とを蒙らしめ給うべければ、汝は滅びて、速かにうせはてん。こは汝悪しき事を行いて、我を棄つるによりてなり。……汝はエホバの汝を遣はし給う国々の人の怪しむ者となり、諺となり、諷刺とならん。汝の中にある他国の人々はますます高くなり行きて、汝の上に出で、汝はますます卑くなり行かん。彼は汝に貸す事をし、汝は彼に貸すことを得じ。彼は首となり、汝は尾とならん。この諸の災禍汝に臨み、汝を追ひ汝に及びて、遂に汝を亡さん。……汝、万の物の豊饒なる中にて心に歓び楽しみて汝の神エホバに仕へざるに因り、汝は飢ゑ渇き、かつ裸になり、万の物に乏しくて、エホバの汝に攻め来らしめ給うところの敵に仕うるに至らん。……エホバ先に汝らを美しくし、汝らを多くすることを喜びし如く、今はエホバ汝らを滅し絶すことを喜び給わん。……エホバ、地のこの極よりかの極まで汝らを散し給はん。……」。

 今引用致しましたのは原文の全部ではないのでありまして、殊に後の威嚇と呪詛の部分は前の部分の約五倍に上っており、いま紹介致した程度の内容ではなく、実に最大級最上級の威嚇の呪詛の連続なのであります。即ち、もしユダヤ人がヤーヴェの命に叛く時には、あらゆる不幸と災厄がその身に及び、遂には滅亡し果てるというのであります。それでこの後の部分に見られるヤーヴェとユダヤ人との關係は、慈愛の深い民族の守護神とその民との関係と見るのには余りにも峻厳なのであります。
深く大きい愛は、迷える子供をも時至れば許すだけの度量のあるものと思われますが、ヤーヴェにはその大度はなく、旧約の他の諸部分にも見られるように、この神は民族神としても偏愛の神であると共に殘忍性そのものの具体化のような神であります。
 しかしユダヤの四千年の歴史の事実を知っております者には、ヤーヴェのこの呪詛と威嚇とはユダヤ人の運命に相当に実現されているように見れるのであります。勿論まだ滅亡とまでは行ってはおりませんが、その点を除けば、引用文の示す限りに於ては大部分実現しているとさえ見えるのであります。そしてこのヤーヴェの呪詛と威嚇との中に、ユダヤの四千年の歴史を通してずっと流れていながらも、他の民族には容易に理解のできないユダヤ人の二重人格性の発生の地盤があるのではないかと思われるのであります。

 そのユダヤ人の二重人格性とは、別の言葉で言えば、前に言いました「頭がよい」とか「嘘がうまい」とか言うこともその中に含まれて来るのであります。これをまた別の方面から言いますと、ユダヤ人が幾千年間常に二重の標準を以て万事を処理し、万事に処して来ているのも、その心理的な根拠はここにあるのであります。即ちかのメシヤ思想に基く誇大妄想のユダヤ人自身すらも、自己の四千年の歴史を回顧する時、それが決してヤーヴェの呪詛と威嚇とを全く免れ得るだけのものでないことを承認せざるを得ないので、ここにユダヤ人は神命としての滅亡から自己を救うためには、手段を選ぶことなく、何らかの間道を求めなくてはならないのであります。

 
しかも精神的には真の独創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人は、かの二重の標準を用いて、かの「嘘」と「頭のよさ」とを以て、神意としての滅亡から自己を救いたいと思うようになったのであります。それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意志に基くというよりは、一種の憑かれた人とでも言うべき所が見られるのでありまして、ユダヤ人が世界周知の金儲けその他の場合に普通の人間には理解のできないような事を平気でやってのけますのも、この心理状態に基くのであると思われます。つまりユダヤ人にとっては、普通の人間から見て極悪非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救う為に役立つものは正しいのであり、また神命として彼らに課せられているものとも感ぜられるのであります。
(私論.私見)
 「精神的には真の独創がなく、また筋肉労働を神罰の一種として軽蔑し回避する慣習のあるユダヤ人」、「それ故にユダヤ人のあらゆる行動には、自由意志に基くというよりは、一種の憑かれた人とでも言うべき所が見られる」、「ユダヤ人にとっては、普通の人間から見て極悪非道と見えることも、神命としての滅亡から自己を救う為に役立つものは正しいのであり、また神命として彼らに課せられているものとも感ぜられる」云々の洞察が鋭い。

 ユダヤ民族の神観
 以上述べましたことが理解されますと、タルムードの中にあるユダヤ人の神観もまたよく理解されるのであります。そして先づ第一に注目に値するのは、次の言葉であります。
 「神、ユダヤ人に言う。汝ら、我を世界の唯一の支配者となせり。されば我も汝らを世界の唯一の支配者となさん」。

 これは前に旧約より引用致しましたもののうちに幾つか見られたのと同一の種類のものでありまして、ヤーヴェがユダヤ人に世界支配を約束する言葉なのであります。しかもその約束をするだけならば、前にも幾度か申しましたように、民族の守護神の場合としては別に不都合ではないのでありますが、今度の場合の約束に於ては、神とユダヤ人との関係が相互的又は対等的であり、換言すれば、前の場合に商売的契約の感があると言っておきましたものが一層判然と現われている所に問題が生じて来るのであります。

 即ちヤーヴェとしては、自分は元来は一地方の土族神であるか、あるいは精々民族神であるのに過ぎないのであるが、その自分をユダヤ人がその「頭のよさ」によって宇宙神又は創造神に祭り上げてくれたのであるから、自分の方でもユダヤ人を世界の支配者にしてやろう、と言っているのであります。
一言で言いますと、ユダヤ人とヤーヴェとの関係は一種の取引なのでありまして、我々が考える如き民族神と民族との関係ではなく、況んや宇宙創造の神と人間との関係ではないのであります。そして前にも述べましたような低級な狐狸の怨霊とも言うべきものが世界の唯一神と思い上り、また幾千年の間は、今更繰返して申し上げる必要はないと思われますので、ここでは直ちに次へと論を進めたいと思うのであります。
 ところがヤーヴェとユダヤとの関係は、単に上述の如き側面に止まるのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を知り、その四千年の「嘘」の歴史を解するためには、今挙げましたものと同様にタルムードの中にある次のような言葉の表明するヤーヴェとユダヤ人との関係も非常に重要なものになって来るのであります。

 「神を畏敬する場合にも狡猾でなくてはならぬ」。それからまた、「あつかましくやれば、神も我々の意に従う」というのもあるのであります。その歴史が始まると共に「嘘」に生きたとも言うべきユダヤ人は、かように神に対してすらも非ユダヤ人のやうに純真な帰依の心を有するのではなくて、神に対してさえも背負投げの隙はないかと狙っているのであります。そしてこれは、
ユダヤ人の神ヤーヴェが脅迫の神であり、威嚇の神であることを想起致します時に、なかなか興味深いユダヤ魂の一面なのであります。

 即ちユダヤの歴史の証しますように、ユダヤのとった道は決して常にヤーヴェの命ずる所に叶ったとは言い難く、むしろ神命に叛いた結果として現在のユダヤの運命が生れて来ているとさえも言い得るのでありますから、ユダヤ人としては神の威嚇した滅亡を免れるためには、一面に於てあらゆる術策と嘘とを用いて神命としての世界支配の完成に進もうと努力すると同時に、他方に於てはヤーヴェそのものに対しても身を守らねばならないのであります。この後の方面の必要が前述のように神をもペテンにかけようという態度となって発現しているのではないかと考えられるのであります。それでユダヤ魂のこの二面は、ただ外見的に矛盾しているだけで、内面的には決して矛盾してはいないのであります。


 
ユダヤ人に於てはあらゆる事に外観的には矛盾する二面が常に存在しているのでありまして、このユダヤ魂の二重性乃至二面性が理解されないでは、ユダヤ人の言行は充分には理解されず、従ってその歴史も解釈できず、ひいてはユダヤ対策も講ぜられ得ないのであります。かの素朴な先入主に基づく日猶同祖論とか、感傷的な人道主義に基づく似而非八絋一宇説のユダヤ抱擁論とかは、この点の認識不足から出て来る生半可なユタヤ研究家の陥り易い常套的な方向なのであります。

 ユダヤ人の陰謀性
 ここで話を転じまして、何故にヤーヴェがかようにユダヤ人を威嚇し、脅迫するのであるかと云う問題に移って考えますのに、これは既に引用致しました聖書、又はタルムードの句にありましたように、ユダヤ人をして世界の支配者たらしめようというのであります。この点に関しましてタルムードからなお二三引用致しますならば、「世界はただイスラエル人のためにのみ創造されたのである」とか、「ユダヤ人は何處へ行こうとも、その地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とかいうのがあります。しかしこれだけならば、前にも繰返し申しました通りに、如何なる民族にも許さるべき自負心の表現と認めることができるのでありますが、問題はその次にあるのでありまして、この世界支配を「如何にして実現するか」という点が、重大な問題を含んでくるのであります。それで先づ旧約の方を見ますと、エジプト記の34には、
 「汝慎みて汝が往くところの国の民と契約を結ぶべからず。彼ら汝らの中に住む時は、恐らく汝らの民となることあらん。汝ら却って彼らの祭壇を崩し、その偶像を毀ち、その聖柱をきり倒すべし」。

 とあります。この「契約を結ぶべからず」という点につきましては、後にユダヤ人の人間観を述べまする際に一層明瞭になると考えますので今は論じないことに致しますが、
その殘余の部分は、他民族の宗教を破壊せよというのでありまして、これはユダヤの世界支配の一方策たるマルクス主義の反宗教運動を想起すれは事情は明瞭となるでありませう。

 
ユダヤ人は自分のユダヤ教に対しましては、前述のヤーヴェとの関係に見られます通りに、極端な信仰又は恐怖を抱いているのですが、他民族からは宗教を奪ってしまい、それによって他民族を滅亡させようとするのであります。しかもそれがヤーヴェの命令としてなされる点が特に注目に値するのでありますが、この点については既に論じましたことで明らかであろうと思います。
 次に申命記から引用致したいと思いますが、その申命記は所謂トーラのうちでも最もユダヤ魂の本質を見るには大切なものでありまして、私の引用も一番多くなると思いますが、その7には、
 「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅しつくすべし。彼らを憫み見るべからず。また彼らの神に事うるべからず。その事、汝の罠となればなり。……汝の神エホバ、これらの国人をややに汝の前より逐い払い給わん。汝は急速に彼らを滅しつくすべからず。恐らくは野の獣殖えて汝らに逼らん。汝の神エホバ彼らを汝に付し、大いにこれを惶(おそ)れ慄(おののか)かしめて、遂に之を滅し尽し、彼らの王を汝の手に付したまわん。汝、彼らの名を天の下より削り去るべし。汝に抗することを得るものなくして、汝、遂に彼らを滅しつくすに至らん」。
 とあるのであります。またその20には、
 「汝の神エホバ、これを汝の手に付したまふに至らば、刃もてその中の男を尽く撃殺すべし。ただその婦女、子供、家畜及びすべてその邑の中にて汝が奪い獲たる物は、尽く己に取るべし。そも汝がその敵より奪い獲たる物は汝の神エホバの汝に賜うものなれば、汝これもて楽しむべし。汝の離るること遠き邑々、即ちこれらの国々に属せざる邑々には、すべてかくの如く行うべし。但し、汝の神エホバの汝に與えて産業となさしめ給うこの国々の邑に於ては、呼吸する者を一人も生かしおくべからず」。

 と、書かれているのであります。即ちヤーヴェはユダヤ人に他民族の殲減を命じているのであります。而してその際に取るべき方策についても旧約中に於て、特に申命記に於て、詳細に教えているのでありますが、この引用の部分のみを見ましても、他民族の宗教の破壊とその王者の除去を説いているのであります。なお実際的な方策としては、急速に他民族殲減をする時には、野の獣が殖えて汝に逼ることもあろうから、その野獣を亡ぼす為には非ユダヤ人を利用せよとか、男は殺しても、婦女子家畜は享楽せよ、などというような点にまで注意が及んでいるのであります。

 
今はこれ以上の例を挙げている暇はないのでありますが、この種の言説は旧約中には極めて多いのでありまして、一言にして言えば、他民族、他国家、他宗教の殲減がユダヤの世界支配の前提となるのでありまして、この点では世界の各民族各国家をして各々その所を得しめる真の八絋爲宇の精神とは百八十度、否、三百六十度の差異があり、一見類似するかの如くに見えたユダヤと日本との祭政一致の如きも、その本質を全く異にし、その存在の次元を全く別にしていることが判明するのであります。かように考えて参りますと、かかる信仰に幾千年を生きて来たユダヤ人に対しては、徹底的な膺懲の外に道のないこともお分りになると存じます。

 ユダヤ人の人間観
 ここでまた話題を転じまして、ユダヤ魂の本質を知るための第二の大問題であるユダヤ人の人間観を見ることにしたいと思います。しかしてこれが明瞭になると、前の神観がまた特別な明瞭さを加えると考えられますし、また前の神観からは当然次のような人間観の出て来る理由も明らかになって来るのであります。

 前にも申しましたように、ユダヤ人にはその二重性格に照応してあらゆる問題に関して二重の標準があるのでありますが、それがこの人間観に於ては特に明瞭に見られるのであります。即ち一口に人間観と言いましても、ユダヤ人に於てはユダヤ人観と非ユダヤ人観とが根本的に異つているのであります。ではユダヤ人はユダヤ人そのものをどう見て居るかと申しますと、タルムードには、「ユダヤ人は何處へ行こうともその地の王とならねばならぬ」とか、「あらゆるイスラエル人は王者の子供である」とか言うような、既に前にも引用致しましたものの外に、 「ユダヤ人のみが人間と呼ばれるのであって、非ユダヤ人は動物と呼ばれる」、「神より生れたものはユダヤ人のみであって、ユダヤ人以外の民族は悪魔の子である」、「人間が動物よりも高等であるように、ユダヤ人は人間よりも高等である。もしこの世にユダヤ人が居ないならば、如何なる幸福もなく、輝く太陽もなく、人類も到底生存することはできない」 、「聖書に隣人と書かれてある場合に、非ユダヤ人はその中に含まれていない」 というようなのがあるのであります。

 これらの言葉に見られる非ユダヤ人観こそユダヤ人の非ユダヤ人に対するあらゆる言行の基礎になっているのでありまして、前の神観と共にこの非ユダヤ人観が充分理解されない時には、ユダヤ人の他民族殲減の謀略の真相は判明しないのであります。一言にして言えば、ユダヤ人から見れば非ユダヤ人は人間ではないのでありまして、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度はすべてここから出発しているのであります。
 そこで、次はこの点に関して派生して来る諸問題を少しばかり考察して見たいと思うのであります。先づ旧約聖書から材料を拾って行くことに致しませう。既に前に引用しました部分に、「汝慎みて汝の往くところの民と契約を結ぶべがらず」とありましたが、また申命記には、「彼らと契約を結びて和することなく、また彼らを憫み見るべからず」とあるのであります。この契約を結ぶべからずという神命と冷酷たれという神命とは、ユダヤ人に於ては誠に徹底したものでありまして、契約を結ぶかに見え、また温情を示すかに見える場合は、いずれも下心があっての場合と見做してもよいのであります。そしてこの場合にも忘れてはならないないことは、ユダヤ人が非ユダヤ人を「人間」視していないことであって、この点からして、以上のような対非ユダヤ人態度もユダヤ人には何等良心の呵責を伴わないばかりか、却って神意に叶うものとして宗教的意義を持つ敬虔な行事なのであります。

 即ちユダヤ人にとっては、「隣人」即ちユダヤ人同志の間には責任感はあり得るのですが、他民族に対しては我々が畜類に対する程度ほどの責任感もないようであります。勿論ユダヤ人にも種々の型がありますので、程度の差異はあるかも知れないのでありますが、しかし注目すべきことは、上述のような点はその幾千年の宗教的信仰となっておりますので、如何なる「善良な」ユダヤ人にも本能として存在しているのでありまして、平常はそんな傾向の毫もないようないわゆる開化ユダヤ人も、一旦自己の利害に関した事件等に際会しますと、その本能がむくむくと頭を擡げて来るようであります。この点の充分の認識がないと、或る程度まで悲境に陥っている場合にはユダヤ人は得意の「頭のよさ」で正直な人をたぶらかしてしまうのであります。この点はよほど注意の要するのでありまして、相当程度にユダヤ問題を研究したとうぬぼれている人でも、充分な思想的批判力がなかったり、甘い感傷主義者であります場合には、しばしば直接にユダヤ人に面接するようになると丸められてしまうのであります。殊に八絋爲宇がどうのこうのとうまい所を突いて来るので、いい気になってユダヤ人のお先棒をかつがされる場合もあるので注意が要るのであります。この警告は決して無駄ではなく、外国ばかりでなく、その例が我々の身辺にさえ幾つもあるのであります。
 そうした人の場合はその眼を直視すればすぐ分るのでありまして、これはフリーメーソン祕密結社員を識別するのには「眼を見よ」と言われているのと一致するのであります。話が多少わき道へそれて来ましたので、ここでまた旧約からの引用に戻りたいと思いますが、今後すべての引用も、上に述べました事を根本にして考えますならば、殆ど何の説明もなく理解ができると思われるのであります。「他の国人よりは汝利息を取るもよし、唯汝の兄弟よりは利息を取るべからず」と申命記にはありますが、これを同じ申命記の次の部分と結合するとなかなか興味深いのであります。
 「汝の神エホバ、汝に與えんと誓いたりし地に汝を導き入れ、汝が建てたるにあらざる大なる美しき品々を得させ、汝が盈せるに非ざる諸々の佳き物を盈せる家を得させ、汝が掘りたるに非ざる井戸を得させ、汝の植ゑたるに非ざる葡萄(ぶどう)園、橄欖(オリーブ)園を得させ給うべし。汝は食いて飽かん」。

 序でにもう一つ引用致しますならば、イザヤ書には、
 「海の富は移りて汝につき、もろもろの国の財貨は汝に来るべし。……異邦人は汝の石垣を築き、彼らの王らは汝に事へん。……汝の門は常に開きて、夜も閉すことなし。そは人諸々の国の財貨を汝に携え来たり、その王らを率いらんが為なり。汝に事へざる国と民とは亡び、その国は全く荒れすたるべし。……汝を苦しめたる者の子らはかがみて汝に来たり、汝をさげしめたる者はことごとく汝の足下に伏すべし。……汝、前には捨てられ憎まれてその中を過る者なりしが、今は我、汝をとこしへの華美、代々の歓喜となさん。汝、また諸々の国の乳をすい、王たちの乳房をすわん」。

 他民族の利用
 このイザヤ書は、トーラに入っては居りませんが、申命記にも比肩すべきものでありまして、その中にはまだまだこの種の資料はあるのですが、引用はこれ位に致しませう。要するにユダヤ人は、自分では労働を避けて、他人をして働かしめ、その生産したものは無償で自己の手に収めるのを得意とするのでありますが、それがまた宗教的信仰に基づくことがこれらの引用から判明するのであります。

 
例えば、熱列なユダヤ教徒マルクスの案出しましたマルクス主義の如きも、その代表的なものの一つでありまして、あれはプロレタリヤなるものを利用して非ユダヤ人の資本をユダヤに捲きあげる仕掛になっておるのであります。それからまた、これらの引用からして、ユダヤ人が何故に金儲けに巧みであり、特に高利貸とか仲買いとかに堪能であるかということも説明なくして明瞭であると思います。

 ただこの際に一言しておきたいと思いますのは、ユダヤ人の金錢欲の強いという点についてでありまして、これも成程事実には相違ないのでありますが、しかしこの搾取は、他民族殲減をその根本の目標としているのでありますから、それに役立つと考える場合には、百年一日の如く営々として貯えた金をも何の惜しげもなく相当程度に投げ出すこともあるのでありまして、これが分らないとまたユダヤ人の謀略にひっかかってしまうのであります。
ユダヤ人の行動の最高方針は神命としての世界支配と、何ら仮借するところのないその実行とであって、手段は選ぶことは決してないのであります。

 革命と戦争
 マルクス主義に論及しましたので、ここではそれに関係のある革命とか戦争とかのことについても引用しておきたいと思います。昔から革命や戦争でユダヤ人が裏面に於て策謀しなかったのはなかったとさえ言われておりますが、実際、程度と意味とは異なっていても、いずれもユダヤ人の活躍があったようであります。しかもそれがまたヤーヴェの命としてユダヤ人に感ぜられているのですから、その根柢の深さが窺われると思います。「エホバの剣をおさえて血を流さしめざる者は詛(のろ)わる」とはエレミヤ記にあるものですが、よく引用致しました申命記にも、「我が箭をおさえて血に酔わしめ、我が剣をして肉を喰はしめん」とヤーヴェは言っているのであります。即ちユダヤ人にとっては、他民族を殺戮すればする程ヤーヴェの意に叶うというのでありますが、それが今迄述べました他民族動物視等の背景を持っているのですから、如何なる凶悪なものであるべきかは容易に理解されるでありませう。

 ユダヤ人の掠奪
 しかしユダヤ魂の本質は、タルムードに移りますと、これらの諸問題に関しましても一層明瞭に赤裸々になって来るのであります。「非ユダヤ人を掠奪することは許されている。何故ならば、聖書に『汝の隣人より奪うべからず』とあるからである」。旧約と合わせて考えますと、非ユダヤを掠奪することの許されているのは、それが神命であるからなのですが、この引用で特に注目に値するのは、「聖書に汝の隣人より物を奪うべからずとあるからである」という掠奪許容の理由であります。

 前にも言いましたように、
ユダヤ人にとっては非ユダヤ人は「人」ではなく、従ってまた「隣人」でもないのであります。従って非ユダヤ人に対しては「人間」に対する義理とか責任は成立しないのであります。一般に旧約聖書なるものは、それの書かれた意図通りに換言すれば、それをユダヤ教の経典としてその編纂者ユダヤの解釈に従って読む時には、世界にこれに匹敵する怪文書は皆無であると言っても差支えないと思われるのであります。それを善良な非ユダヤ人はその中の毒をも薬とし、時としてはその無批判の為に意識的無意識的にいわゆる「人爲的ユダヤ人」となることは、ルーデンドルフ將軍の指摘している通りであります。

 また
タルムードには同じ問題に関して、「非ユダヤ人の財物は主人なき財物に等し。故にそれは最初に手に入れたる者の所有となる」と言い、「拾ったものを非ユダヤ人に返却するのは罪悪である」と言って、非ユダヤ人には所有権を認めないのでありますが、これもかの世界支配を前提とし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人としては当然の態度でありませう。犬が金を所有するということが我々に理解できないのと同様に、ユダヤ人にとっては、非ユダヤ人が物を所有するということは理解ができないばかりか、神命としてそれを掠奪せねばならないのであります。「非ユダヤ人の財産を管理するのはユダヤ人の權利である」。これも前と殆ど同一の信仰の表明でありますが、特に現代に於て興味深いのは、いわゆるデモクラシー金権諸国やボルシェヴィズム国に於て、これが種々の金融組織によって実現されているところであります。

 他民族の殺戮
ところがこの言葉に続いて、「またユダヤ人は非ユダヤ人を殺戮する権利を有している」と書かれているのであります。序に同じようなものをも二、三挙げますと、「邪教徒を自ら手を下して殺害することは許される」とか、「不信者の血を流す者は主に生贄を捧げるのと同じ値のあることをしたのてある」ともあるのであります。

 
これらの引用句の内容は、非ユダヤ人から見ると信ぜられない程に極悪無道のものでありますが、しかし今まで述べましたことが理解されますならば、恐らく何らの説明なしに理解できるのではないかと思われます。前にも申しました通り、ユダヤ人は戦争と革命とが大好きな民族であり、また史上のいわゆるテロとか暗殺とかいうものが極めて多くユダヤ人のやった事であると言われているのを想起しますと、これらの言葉がよく理解されると存じます。そしていずれもその背景をなすのが宗教的信仰であるということは誠に重大でありまして、ユダヤ教は最も狭量な宗教であると称せられて来ておりますのは、こうした点にもその理由を持っているのであります。一見祭政一致的な体裁を備えながら、正しい八絋爲宇の日本的祭政一致との差が如何に大きいかは、この点からのみも察せられるでありませう。

 かように他民族の殲減による世界支配の神命は、ユダヤ人に非ユダヤ人殺戮の権利を認めているのでありますが、しかもユダヤ聖典はその際に如何なる方針で進むべきかをもまた教えているのであります。 「
非ユダヤ人の最上のものを殺戮せよ」、「偶像崇拝者のうち最も律義なる者を屠れ」。これらがそうでありまして、これを換言すれば、非ユダヤ人の王者とか大政治家とか大有徳者とかを殺せというのでありますが、これは他民族の殲減を目標とするユダヤ人としては当然でありませう。

 ここで
ユダヤ人の非ユダヤ人に対する態度全般を今一度別の表現で説明しますと、ユダヤ人なるものは他民族に対して常時戦争状態にある、とも言い得るのであります。そしてそれも既に幾千年以来そうなのであることを我々は銘記しなくてはなりません。従って、非ユダヤ人としても、そのユダヤ人に屈伏することに甘んじ得ないならば、同じ戦争状態を自覚して対応すべきではありますまいか。後にも触れますが、この点からのみでも甘いセンチメンタリズムに基く同情やユダヤ利用論が文字通りの利敵行爲であり、売国的行爲であることが判明致すのであります。唯物論を清算し切れず、自由主義に未練のある者には、そうした迷夢が大東亞戦争下の今なお抜け切らないことは、実に嘆いてもなお余りがあるのであります。それは身命を君国に捧げる皇軍兵士への叛逆行爲に外ならないからであります。
 次に以上述べました幾つかの方面を総括したとも言うべき表現を一つ紹介致しませう。「互に愛せよ、掠奪を愛せよ、放縦を愛せよ、而して汝の主人を憎み、決して真理を語る忽れ」。この場合が誰の物を掠奪するのであり、またその放縦の犠牲となるのが何人であり、その主人が誰であり、真理を何人の前に語らないのかも、最早説明せずして明らかでありませう。また次のようなものもここで想起されるのであります。「密告者は如何なる場合に於ても殺害することを許される」。これは時としてはユダヤ人間にも当て篏まるのでせうが、しかし主として非ユダヤ人に対して実行されて来たのでありまして、ユダヤ人の統制下にあるフリー・メースン祕密結社員の場合などには、この事が文字通りに行われているようであります。

 「
戦爭に行く時には先頭に立たず、最後に行け、そは最初に帰還し得んが為なり」。これもまたなかなかユダヤ魂の本質を知るのには面白いものでありまして、近い例を見ましても、この前の世界大戦のみならず、今度の大戦でも、ユダヤ人は兵籍にあっても極く稀にしか前線へは出ないのであります。例えば日本の甘いインテリをたぶらかすのに成功したモーロアの如きがそうでありまして、自己の身の危険があれば昨日迄の祖国を裏切って平気なばかりか、暴露文で金儲けさえするのであります。勿論身分の低いユダヤ人のうちには他民族の目を晦ますために犠牲として戦線へ駆り立てられる者もありますが、現世の事には何事にも例外があるのですから、取り立てて言うには当らないのであります。ここではそうした少数の例外を問題としているのではないのでありまして、ユダヤ魂の本質を象徴的に表明するような例を述べているのであります。

 それからまたユダヤ聖典は、
ユダヤ人特有の偽装とかカムフラージュについても教えているのでありまして、例えば「時が微笑む者に結びつくべし」と書かれております。時局に便乗してマルクス主義者が国体論をしたり、大東亞新秩序を臆面もなく呼号しておりますが、ユダヤ的なマルクス宗を信ずるだけでもこれ程にユダヤ的に偽装が巧妙になるのですから、本物のユダヤ人が如何に偽装に巧みであるかは申すまでもないでありませう。熱狂的なユダヤ教徒であったマルクスがマルクス主義を説いたという一事を以てしましても、ユダヤ人の「頭のよさ」と「嘘のうまさ」に基くカムフラージュの天才的なことは理解できるのであります。

 また次のようなものもあります。「
団体が長を選ぶ時には蛆虫にて一杯になった袋を背負った者を選べ。そして彼が命令に従順でなくなる時には直ちにその背中を見よ、と言え」。とあるのであります。世間でよく言われて居りますように、ユダヤ人は非ユダヤ人第一線主義を取るのでありますが、この言葉はその場合の方便を表明したものでありまして、ユダヤ支配下の国では、大統領とか首相とか大臣とかには相当にこの種のやり方が実行されているのであります。

 以前の例ではフランスのブリアン大統領、米国のウィルソン等はその著しい例でありまして、何れも前に
婦人関係とかの破廉恥罪があったのだそうであります。現在でもチャーチルは前大戦の時に海軍大臣の職を利用してユダヤ人と共謀して金儲けをした事実があると言われています。恐らくルーズヴェルトも例外ではないと察せられます。スターリンの如きはユダヤ人リトヴィノフと銀行預金の強奪をしたギャングの一味なのであります

 ユダヤ経典解釈の融通性
 最後にもう一つタルムードから紹介致しておきたいと思いますのは、「神はモーゼに律法を與え給うたが、それは同一の事を49種にも不潔とも清潔とも証明するだけの余裕のあるものとなつている」と云う言葉であります。これは前にも論及しました通りにユダヤ人の「頭のよさ」の根拠を示す語でありまして、その「頭のよさ」が「嘘のうまさ」であると云っておきました意味が、このタルムードの語を知る時に実に明瞭となるのであります。

 即ち
ユダヤ人は神の與えた律法に對しても、それを文字通りに信仰するというよりは、それに解釈を加えて、同一の事を49種にも白とも黒とも言う術を心得ているのでありますから、ユダヤ人があれ程恐れ戦いてその命に服しているヤーヴェの律法ならぬものに対して、ユダヤ式の口吻を用いて言いますならば、百種にも二百種にも白とも黒とも言うことをするに違いないのであります。これがユダヤ人の「頭のよさ」の真相でありまして、神に対する真の畏敬と人間に対する真の責任感とを持つ者は到底そうした態度を取り得ない筈でありますが、神をもペテンにかけんとし、非ユダヤ人を動物視するユダヤ人にとっては、以上のような態度は当然なのであります。この点から度々論及しましたユダヤ人の「解釈のうまさ」とか、カムフラージュの巧みさとかも理解できるのであります。また高利貸や取引所の仕事に巧みなのも同様でありませう。

 あらゆる価値の改価

 旧約やタルムードからの引用が大分長くなりましたので、これ位でこれを止めまして、ここに多少総括論を述べさしていただき、時間が許しますならば、かやうな立場からの現下の問題に対して特に心を致すべき点の二三に就ても申述べて見たいと思うのであります。

 ドイツの哲学者ニーチェの言葉に「あらゆる価値の改価」というのがありますが、これがユダヤ人に於ては文字通りに行われているのであります。つまり、あらゆる価値とか批判とかの標準が人類一般の場合と全く異っているのであります。この事は以上述べました幾つかの場合の例でお分り願えたと存じますが、
あらゆることがユダヤ人の手にかかると反対の意味となって来るのであります。この点はユダヤ問題の研究には実に大切であります。


 悪と否定の原理の具象化としてのユダヤ人

 ユダヤ人の特性を説明致しますには種々のやり方があると存じますが、ユダヤ人は悪の権化であり、よこしまなものの具体化であるとも言えるのであります。従って、ユダヤ人が非ユダヤ人を人間に非ずと称しますのは、邪悪の立場を自己のものとする者の見方としては当然なのでありませう。勿論こう言いましても、我々は決して、ユダヤ人を真似てユダヤ人は人間に非ずと言うのではないのでありまして、ユダヤ人もまた人間であるには相違はないが、しかし人間の中にあっても然も人間を人間たらしむるためには当然抑制されねばならないマイナス的な否定的な原理の具体化したものがユダヤ人である、と我々は申したいのであります。では人間の中にあつて人間を人間たらしむるためには当然抑制さるべきものとは何であるかと申しますと、それは卑しい本能、即ち利己心、不信、物質慾等がそれなのでありますが、つまりユダヤ人はこれらの本能が具象化したものであると言うことができるのであります。

 それではこのユダヤ人を駆り立てるヤーヴェとは何であるかと申しますと、これは先にユダヤ人の本性だと申しました邪悪乃至否定の原理が具象化されたものであるという外はなく、言い換えますと、ヤーヴェとは悪と否定の具象化であるユダヤ人がその理想とする所を神格化したものなのであります。従って、
我々が神として感受致しますものと比較しますと、ユダヤの神としてのヤーヴェは決して神の名に値しない怪物なのであります


 日本とユダヤ
 かような次第で、ユダヤ人と我々とは住んでいる世界が違うと言わねばならないのであり、あるいはもっと適切に言いますと、我々とユダヤ人とは存在の次元が違うのであります。従ってユダヤ人と我々との間には、神観に於ても世界観に於ても人生観に於ても、単に百八十度の差があるのではなく、ぐるりと一廻りして三百六十度の差があるのであります。この点は既に前にも申しましたが、これを私は底面を合わした二つのピラミッドを使って比喩に説明するのを常としているのであります。即ち二つの底面の合する所が人間の中にあって人間をして人間たらしめる所の人間の属性の基底面をなしており、これより上方へ向ったピラミッドが普通の人間の存在を象徴し、基底面より下へ出ているピラミッドがユダヤ人及びその同類の人間を象徴していると考えるのであります。

 以上でたとえ日本とユダヤとが或る点に於て似ているような事がありましても、それが決して本質的に然りであり得ない事は、これ以上の説明なしで明瞭になった事と信じます。
現人神を上にいただく我々はかの上方のピラミッドの尖端に位置するのでありますが、ユダヤはかの下向のピラミッドの下方の尖端に位置しているのであります。いずれもピラミッドの尖端でありますから、皮相な観察眼を以てしますならば、種々の類似点を生ずる如くに見えるのでありますが、しかし実際に於ては、形式的に類似すればする程差異の大なる事の證拠となるのであります。これは日本とユダヤとの歴史、国体、民族性等を正当な批評眼を以て見る人には自明すぎる事でありませう。

 人種混淆の問題
 ではユダヤ人は何故に上述のような次元に住む民族になったのでありませうか。この問題は実に困難な問題でありまして、容易に解決はできないのであります。以上のように神観も人間観も違っているからそうなったのだとも言えるのでありますが、しかしそうした神観や人間観が出て来るのは、ユダヤ人が非ユダヤ人とは別な次元に住んでいるからであるとも言えますので、神観や人生観が先かユダヤ人そのものが先かという問題は、卵が先か鶏が先かというのと同じく、結局は解決のできない哲学上の問題となってしまいますので、ここではそんな複雑な問題に論及することは差控えまして、現代の我々にとっても将来の為に重大な参考となる点と関係させて、ただ一つの点についてのみ述べておきたいと思うのであります。

 それは実にいわゆる民族混淆の問題でありまして、ユダヤ人はその四千年の歴史の当初の頃に於ては、放浪生活の結果として到る所で他の民族と混淆した事が伝わっておりますが、それがユダヤ人をしてかかる低い次元の存在たらしめた一つの重大な理由だとされるのであります。歴史的に見ますと、ユダヤ民族は、旧約に出て来るネヘミヤ及びエズラの頃には、他民族との混血の結果として將に滅亡に瀕していたのだそうでありますが、これを上述の二人の指導者が出て、ユダヤ民族を滅亡から救う為に他民族との混淆を厳禁したのであります。

 その結果として現在に至る迄もユダヤの血は絶えずに続き、国土を失い政治的中心を失ったかに見えましても、なおその逞しい生存力を保持しているのであります。かくてその後のユダヤの血は純粋なのでありますが、しかしその血は既に混血の極に達していた血でありますので、換言すれば退化した血をそのまま純粋に保存して来たのでありますので、善良なる血を純粋に保存して来た場合と反對に、マイナス的な要素が却って強化される結果を生んだとも言えるのであります。

 この点からユダヤ的存在の低次元性は或る程度まで説明できると存じますが、なお一歩進めて何故に混血現象が民族を滅亡させるに至るかと言いますのに、それは現実の世界にその例をとってお考えになりますれば直ちに判明致しますように、混血児には諸種の人生問題の解決に当っていずれにつくべきかに迷うことが多く、結局は自己の利益に従う外はなくなるのであります。換言しますと、混血人には志操がなく、義務観念がなく、犠牲的精神がなくなるのであります。従ってこの点からもユダヤ魂の本質として我々の論じたような利己主義の出て来ることは説明がつくでありませう。

 もう少し哲学的に申しますと、各民族にはそれそれ神の指示した特性と使命とがあり、従って各民族はそれそれ特異な理念的存在でありますがら、それの混淆はその存在の理念を曖昧にするのであります。従ってそうした民族は滅亡するか、あるいはユダヤ的な次元に転落する外はないとも言えると思うのであります。 以上のことは、19世紀則な唯物論が人種の混淆を人種改良と申したこともありますので、支那事変以来、特に大東亞戦以来、諸種の民族と接触することの多くなった我々と致しましては、充分考慮すべき点ではないかと考えましたので、一言論及したのであります。

 ユダヤ人の世界政策

 さて、ここでまた話を転じまして、ユダヤ人の世界支配計画は現在に於ては如何なる段階にまで到達しているかという点について少しく考え、以て時局の参考に致したいのであります。結論から先に申しますと、神命によるユダヤの世界支配の段階は、今次の世界戦争によって世界革命を誘致し、それによってその世界支配を完成しようという所まで来ているのであります。そう言いましても、これは事実その通りに運んでいるというのではないのでありまして、ユダヤ人の希望的観察からはそうなって来ているというのであります。

 しかしまたよく歴史的に考察して見ますと、ユダヤ人がそう信じているのも全然理由がないとは言えないのでありまして、非ユダヤ人の善良さがこのままで相変らず正しい批判力を伴わぬと致しますと、場合によってはユダヤ人の希望的観察が実現するのではないかとさえ我々は危まずには居られないのであります。勿論我々は、我が国体に対する絶対の信念がありますので、結局に於て悪の勝利が来るとは思えないのでありますが、しかしなお真の八絋爲宇が世界に実現されるに至るまでに無意義な犠牲の多からんことを思っては、でき得べくんば善良なる非ユダヤ人の蒙を啓いて、かの無意義なる犠牲を最小限度に止めたいと念願しているのであります。

 ではどうして現在が、ユダヤ人の希望的観察からにもせよ、かような段階に達しているかと申しますと、それは
フランス革命以来の世界の動きがユダヤ人の方策通りに動いて来ているかに見えるからであります。本日はこの点を詳述致しておる暇はないのでありますが、「自由・平等・博愛」なるフリー・メースン祕密結社のモットーを表看板としてなされましたこの革命は、この結社が精神的にも政治的にもユダヤ勢力の支配下にあるのに相応しく、結局はユダヤ人の解放ということをその最大の結果として生んだのであります。

 つまりこの悪平等思想は、ユダヤ人を在来のゲットー生活から解放するに至ったのでありますが、元来ゲットーはユダヤ人が自発的に形成して来たものでありますから、それよりの解放は、ユダヤ人にとっては却って迷惑であるか、あるいはユダヤ人に取って特に有利を齎すものであったということになりますが、それは
この革命によって、ユダヤ人が今までゲットーに隠れてする必要のあったことを今や公然と非ユダヤ人の間に混じてなし得るようになったということを意味するのであります。従ってフランス革命は、ユダヤ人にとっては大きな特権の獲得であって、よく世間で言われるような同権程度のものの獲得ではなかったのであります。

 それから種々の小段階を経まして、
第一次世界大戦となり、ここに永く準備された金権方面の世界支配はほぼ確立されたのであります。衆愚政治としての政党政治の支配するいわゆるデモクラシー諸国又はその亞流の諸国は、この時以後殆ど完全にユダヤの経済的制覇の下に入ったのでありまして、我が国の如きも、この分野におきましては大差のない状況にあったようであります。

 
しかも一方に於てユダヤの政治上の完全な支配は、世界的規模にまではまだ到達することができないで、ロシヤ人の無智文盲を利用してロシヤに於て先づ見本的に成就されたのでありました。この革命が人的要素から見ても資本的見地から見ても、ユダヤの仕事であったことは、今は多少事情に通じた人には常識なのであります。従ってここに於てかの先づ他民族殲減の見本を実行し、幾百万の人を殺戮したのであります。そしてここを根城として、ユダヤの資本力と宣伝力とを利用して、ユダヤ的な我欲に長じた非ユダヤ人をたぶらかし、コミンテルンとして各国を撹乱し、各民族を先づ内部的に弱体化することによってその殲減を期しつつあるのであります。

 しかし先程申しましたように、
ユダヤの現在の世界支配策の段階は世界戦争による世界革命の誘発であるのでありまして、これが今次の第二次世界戦争の真因なのであります。そしてこれによって殘された政治的方面の世界支配を完成するならば、神命としての世界戦争は文字通りに完成するというのでありまして、そのためには今次の世界戦争を長期戦化し、枢軸国を弱体化して内部的に革命を起させようとすると同時に、いわゆるデモクラシー国をも再起不可能にまで荒廃させて、同じく内部的に革命に導き、それによって文字通りに他民族を殲減しようというのであります。勿論他民族の殲減といっても、文字通りに一人殘らず殺戮することは不可能でありまして、これは象徴的にそうするというのであります。

 ルーズヴェルトは「今モーゼ」と称せられてユダヤの尊崇を一身に集めているそうですが、これは彼が恐らくオランダから移住して来たユダヤ人の血を享けているという事の外に、世界戦争を拡大し長期化しようというユダヤの方策に従って忠実に働いているからでありまして、彼を先頭に祕密結社員チャーチル、イーデン、ハルや、ユダヤ人リトヴィノフ、ホア・ペリシヤらの演じている
八百長芝居は、単に枢軸打倒では割切れない要素を多分に含有しているのでありまして、米英人そのものをも含む他民族殲減のユダヤの政略を考慮しない限りは、ルーズヴェルト、チャーチルの赤化迎合政策に見られる反祖国的傾向は理解ができないのてあります。米英合邦とか、米英の赤化とか称せられていることは、形式と時季とは不明であると致しても、早晩実現することでありませう。否、既にもう実質的には実現されていると言っても差し支えないのではありますまいか。

 結 び

 ここで大急ぎで以上のような観点よりする時局対処策について、貧しい結論ではありますが一言させていただきたいと思います。上述のようなユダヤ的原理は、既に論じましたことからも判明致しますように、我々自身のうちにも決して全く存在しないものではないのでありまして、人間の中にあって人間をして人間たらしむるに足らぬものでありますから、もし我々が自己の中にあるかの卑しむべき我欲的本能に屈従致しますならば、我々もまたユダヤと変りはない存在に堕するのであります。これは悲しむべき事でありますが、自己の身辺にもしばしば見うけられるのでありますから、我々は決して気を許してはならないのであります。

 東洋に在住した或るユダヤの指導的な地位の金持はいよいよ大東亞戦が近接して来て上海を去るべく余儀なくされるに至った時、「
人間に悪のある限りユダヤは亡びず」という捨て科白を残して殘して米国へ去ったと或る人から聞いたことがありますが、ユダヤには平常これだけの覚悟と自覚があるのであります。これをもう少し一般的な思想史上の言葉で表現致しますと、我々は唯物論の凡ゆる形式のものをこの際徹底的に克服しなくてはならないのであります。漠然と米英思想の撃滅などと言っても変な話でありまして、もっと正確に、もっと勇敢にその本拠をつかなくてはならないのであります。勝って兜の緒を締めよという意味は特にここにあるのであります。防謀の本義がここにあることも言うまでもありません。

 以上は一般論でありますが、ここになお戦時下に特に注目すべきユダヤ勢力の侵寇でありますが、それが米英のみならず中立国等を利用してのわが国銃後撹乱策であることは申し上げる迄もありません。しかしかような一般の場合はこの講演の使命外であると考えますので、私としてはそんな点は論じないことに致したいと存じます。また占領地等に於て、例の「時が微笑むものには結びつくべし」と云う指示に従って幾千年の訓練を得たユダヤ式の偽装によって協力を粧って来るものがありませうが、これは
フリー・メースン祕密結社の厳重な検察その他によって峻厳すぎる程峻厳な処置を講じても決して行き過ぎではないのであります。国内に於ても最近の共産派の検挙によっても判明致しますように、ユダヤ的原理は偽装をその本領とするとも言えるのでありますから、なかなか油断がならないのであります。
 しかし戦線方向のことは当局に信頼致すことに致しまして、我々ユダヤ問題研究者として特に銃後の問題として注意致せねばならないのは、前からその蠢動はありながらも、最近に至って特に著しく地下的動きを示しつつあるかに見える日ユ同祖説であると存じます。これは小谷部とか酒井とか云う一見日本主義的側面を有するかに見せる親ユ主義者、否、拝ユ主義者、及びその亞流が意識的及び無意識的に説いたのが代表的なものでありまして、その日本主義的偽装にたぶらかされて、無批判且つ軽薄な日本主義者の一部分にも帰依者を有するようでありますが、いずれも何らかの連絡でユダヤと近接関係にある者のユダヤ的偽装術にひっかかつているのでありまして、時としては不敬罪をも犯して平然たる所のある非国民が多いのであります。

 英国が現在のようにその貴族の血に至るまでがユダヤの血によって汚されるに至った原因の一つは、たしかにかの英ユ同祖説の為でありまして、この点については他日研究を発表致したいと思いますが、ユダヤの他民族侵寇の手の一つがこの日ユ同祖説なのであります。遠大なユダヤの策略は、時としては唯物主義的、自然科学的研究のみを事実として承認する類似ユダヤ主義者を迷わせて旧約の風俗その他を利用させたり、あるいは空想以上に無根拠な言霊学などを盲信して、日ユ同祖説を説くようなことをさせるかも知れないのでありますが、それは人間の眼が二個である限り、また人間の声音機関が日本人に於てもユダヤ人に於ても大差のない限りは、先入主を以って類似点のみを探査する場合にはあらゆる場合に成立する同祖関係論でありまして、この種の親ユ主義者に特徴的であるのは、類似さえあれば爪の垢ほどのことも重大視しながら、差異のある点は如何に重大であっても決して考慮に入れないことであります。
 

 誠に情ないほどの幼稚な無批判さでありますが、先入主の力は実に大きいものでありますので、我々としては特にユダヤ魂の本質を明らかにしなくてはならないのであります。如何に末葉のことが類似していましても、上述のような次元に住むユダヤ人が我々と同祖である筈はないのであります。あるいは全人類創成の頃に遡って申しますならば、あるいは日ユも同祖でありませう。しかしこれは全人類が同祖であるということに外ならないのでありまして、そのうち特に日ユ關係のみを取り上げる理由はないのであります。ユダヤ問題に正確な批判を持つ為には、些細な事実に拘泥する唯物論的実証主義の立場のみに止まらないで、正しい理想と正しい思想とを持ち、真の日本的自覚に立たねばならないのであります。
(私論.私見)
 日ユ同祖説に対しては、かく「拝ユ主義者、及びその亞流が意識的及び無意識的に説いたのが代表的なものである」と位置づけるのが正しいとしている。傾聴すべき卓見であろう。
 以上で外部からの侵寇の問題を終り、内からの侵寇の問題に移りたいと思います。否、よく考えて見ますと、既に同祖説が証しますように、実際に於ては侵寇には内外部の差はないのでありまして、これから注意致しますことも勿論単なる内部的問題ではないのでありまして、ただ策謀の根源が主として内部にあると言うにすぎません。その第一として申し上げたいのは、ユダヤ利用説でありまして、占領地の開発その他にユダヤの金力を利用しようというのがその代表的なものであり、唯物論的な物の見長を卒業できない19世紀主義者には極めてしばしば見られる議論であります。しかしユダヤの金が本質的に見て如何にして蓄積された富であるかを我々の説いた所から了察する事のできる人は、かかる汚らわしき金を利用することが我々としては死に値する屈辱であり恥辱であるのを直ちに感得するのができると思うのであります。唯物思想に毒せられて、「武士は食はねど高楊枝」という言葉を軽蔑したことも我々の過去にはありますが、今や我々はかかるユダヤ的米英的立場を根本的に超克して、正しい日本武士道の伝統に帰らねばならないのであります。

 次に一言致したいのは既に論及したこともある通りの時局便乗の徒についてであります。殊に注目すべきことは、僞裝をその本領とするマルクス主義者の国内のみならず、戦線へまでの進出及び跋扈でありまして、これは支那事変最初からしばしば見られました通りに、なかなか油断のできないことなのであります。元来赤色系であった言論機関が名目も当事者も何の変更もなく存在しておりますのを見るにつけましても、この点は大いに警戒を要するのではないかと思います。殊に米英資本主義国を倒すかに見える今次大戦の外面的相貌は、ユダヤ・マルクス主義者にも立働く領域を殘しておりますから、一層彼らの僞裝時局便乗は巧妙に行われるのであります。しかし今次の大戦がかような赤化主義的な意図を以って戦われるとすれば、それは全く無意義なのでありまして、この点は以上申上げましたことからも、恐らく御了察願えたかと思うのであります。長くなりましたので、これで失礼致します。(17・2)

 三、ユダヤの神秘の数を解く
 ・・「15」なる数のユダヤ祕密力に対して有する意義・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
| 1 + 9 + 1 + 4(年)= 15 第一次世界大戦 |
| 1 + 9 + 4 + 1(年)= 15 第二次世界大戦(大東亞戦)|
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 標題の真意義を解するためには、ユダヤ人がいかなる魂の所有者であるかを了得しなくてはならない。しかしこれは相当の難事であって、一朝一夕には果され得ないことであり、最小限度に於ても、ユダヤ聖典としての旧約全書(特にトーラと称せられるその最初の5巻)及びタルムードに通暁し、ユダヤ哲学としてのカバラを味識し、それに加えてユダヤ四千年の歴史を達観することを要求するのである。在来の政治的経済的方面を中心とするユダヤ研究は、ユダヤの魂の本質を明らかにすることによって補足さるる時に一層完全なるものとなるであろう。殊に思想対策の分野に関しては、ユダヤの魂の研究によってのみ本格な解決の道が発見されるであろう。しかし我々はこの短い論稿に於ては、上述の如き広汎なる問題に及ぶ余裕を持たないので、直接に「15」なる数に関する問題のみについて述べたいと思うが、もしそれによってユダヤ魂の根本的特質がその片影に於てなりとも明らかにされるなら、筆者の労は充分に酬いらるれのである。
 我が国唯一のユダヤ研究月刊誌「ユダヤ研究」の読者は、その第1巻第6号に掲載せられた「ユダヤ民族の世界征服綱領」を記憶されるであらう。その本文は、1851年に今は亡国の運命にあるチェッコ国の首都ブラーハに於て開催せられたユダヤ法師会議の議事録として伝えられているものの主要部分である。しかしこの際に集った12人の法師がいずれもユダヤ祕教としてのカバラの行者であったことは、その集会の場所がカバラ行者として著名であったシメオン・ベン・エフダ法師の墓場に於てであり、また祕教の行事に相応しく夜闇の中に於てであったことによって証さるる故に、この集会はカバラ行者長老会とも称せられている。そしてその議題は言うまでもなくユダヤの世界支配の方法とその現況の検討であって、欧米各地の枢要都市に散在するユダヤ十二支族の代表者が方策を提出しているのである。

 但し、今我々に問題なのは、その策謀の内容そのものではなくて、この長老会議の行われた年号の示す数字であり、またそれがその前にも約百年毎に行われていたと称せられている点である。これを年号にて示すならば、第1回長老会議は1464年に行われ、第2回は1563年に、第3回は1653年に、第4回は1761年に催され、そして前記の議事録はその第5回のものであると称せられている。而してこれ等の年号の数字をそれぞれ加算する時は、何れも「15」となるのである。また第6回の長老会議は当然昨年即ち1941年に行わるべきであったと称せられるが、しかし、今やプラーハ市はドイツの支配下にあるのであるから、この長老会が予定通りに開催され得たか否かは我々の知り得る所ではない。

 上述の議事録が、他のユダヤ系の祕密文書と同じく、その真偽に関しては正確な証拠としてはなしえないようであるが、しかしそれにも拘らず、かの諸年号が「15」であることがユダヤ祕密力に取って必ず何らかの重大な意義を有するであろうことを暗示するには足りるであろう。殊にユダヤ十二支族を代表する法師がすべてカバラの行者であることからして、かかる数に関する信仰がカバラ祕教の中に於て重要なる地位を占めているのではないかという推測を生むのは当然であるが、果してその中にはゲマトリア(ギリシャ語に由來し、広義には「数学」を意味するという説が有力である)と称せられる数に関する神祕が説かれているのである。そしてこのゲマトリアは既にタルムードにも見られるものであり、主として聖書中の難解の語句を解釈する際に用いられたものであった。

 その方法はヘブライ語の字母はそれぞれ数を代表しているので、聖書中の語句の有する数値をその語句を形成する字母の代表する数の和によって示し、同一の数値を有する他の語句は同一の数値を有する他の概念によってその語句を解釈するのである。今我々は聖書中の語句の場合の例を取ることを避けて、現在の我々に関係の深い方面の現象にこれを応用して見よう。

 ヘブライ語に於ける「世界戦争」又は「全地球上に於ける戦争」なる語の有する数値は675となるが、ユダヤの年号は普通その千台を略して呼ばれる故に、この数に近来のユダヤの年号の千台のものである5千を加える時は、それは5675年となるが、これは西暦の1914年に相当するのである。しかしこの1914年に第一次世界大戦は起ったのである。しかもこの1914年の有する数字の総和は「15」であり、今次大戦が文字通りの世界大戦となった年は1941年であってまた「15」なのである。

 
かくて問題は、かく事実上重大な意義を持っている「15」の数がユダヤにとって如何なる意義を有するかである。まずここにその結論を述べるならば、この「15」なる数はユダヤ民族の守護神エホバの数であって、この神聖なる数に関係する事柄はユダヤにとってはまた神聖なるものであり、ユダヤ民族の世界征服計画の実行手段としての戦争の如きは、この数の年に於て行われる時、その守護神エホバの特別の庇護の下に遂行される、というのである。では、如何にして「15」がエホバの数であるかというのに、子音のみによって綴られるヘブライ語に於てはエホバ(正しくはヤーヴェ)の名はJHWHとなるのであるが、その始めの二字即ちJとHとは10と5なる数値を持ち、合して「15」となるのである。かって守護神の名の代表する数がゲマトリアなる数的信仰を有するユダヤ人にとって如何に重大なる尊信の対象となるかは、ユダヤ人の魂の宗教的傾向の本質を多少とも知る者には、直ちに理解されるところである。

 しかし或る人々は、現代の如きいわゆる「科学」の時代に於てユダヤ人に於てもかかる数的迷信を信仰するものはあり得ないであらう、と言うかも知れないし、また相当数のいわゆる文化ユダヤ人のうち他国民の間に生活するものは、少なくとも表面的には、かかる信仰を捨てたことを主張している。しかしこれを以て直ちにかかる信仰の偉力を否定するのは早計であって、ユダヤ人以上に文明開化されている筈の一般キリスト教徒の間に於て未だ13の数が如何なる役割を演じているかを知る者は、「15」の数のユダヤ人間に於ける意義を直ちに理解し得るであろう。宗教的権威と政治的権力とを兼ね備えるユダヤ法師が千年一日の如くタルムード等のユダヤ聖典をその教会に於て説きつづけている限り、ユダヤの魂には決して根本的の変革はあり得ないのである。

 
なお一言しておきたいのは、「15」なる数の持つこの意義を明瞭に認識したのは、タルムード乃至カバラ研究の一部専門学者を除いては、ルーデンドルフ将軍であることであって、これは1927年の著「フリーメーソン結社の討滅」に於て始めて暴露されたのである。而してこの暴露がユダヤ陣営を如何に震撼したかは、将軍に関してその後ユダヤ支配下の自由主義諸新聞が極めて悪質の宣伝をしたことによっても理解される。将軍のこの点に於ける功績は、旧約聖書申命記第28章の持つ意義の解明と共に将軍のユダヤ研究に於ける二大業績であり、その軍事的その功業と共に永く記憶さるべきであろう。実に将軍はその「戦争扇動と諸民族の殲滅」に於て既に十数年の昔より1941年の危機を説き続けて来たのてある。

 かくて、ユダヤの世界征服計画を知る者は、第一次世界大戦が何故に1941年に起り、今次大戦が何故に1941年にその世界的規模にまで発展せざるを得なかったかの理由を会得することができるのである。既に我々の説いた如くに、エホバの年1941年に始った今次大戦はユダヤ人にとっては「人類殲減戦」なのであって、彼らに枢軸側の勝利が愉快でないことは勿論であるが、しかしまた米英ソ支の敗退もまたユダヤ系諸新聞の宣伝するが如くには痛手ではない筈である。

 現在までの経過は、あるいはユダヤ陣営の予定のコースを辿っているのかも知れない。従ってユダヤの世界支配機関の一翼としてのフリーメーソン結社の有力会員たるルーズヴェルト及びチャーチルは、今やアメリカに於てユダヤ有力者の感謝を受けつつ、内心大なる愉悦に浸っているかも知れないのである。最近シンガポールより本国帰還を命ぜられたユダヤ人東洋探題ダフ・クーパーの如きも、そのユダヤ的使命は今や完全に果されたのである。また伝えらるる如くチャーチルが退いてイーデンが首相の印綬を帯びることも決して不可能ではないのであって、祕密結社系勢力より見ればイーデンの方がユダヤ陣営にとっては有用であるかも知れないのであるし、またユダヤ的世界総赤化策にとってはユダヤ人リトヴィノフ外相と親戚関係にあるイーデンの方がユダヤにとって一層好都合なことは自明である。
又ロータリー・クラブ系の半国際人の間に日本贔屓として名声を博していたらしい前日本駐在米国大使が、大東亞戦の宣伝布告を受取るや直ちに或るゴルフ場(このゴルフ場が如何なるものであるかは知る人ぞ知る)に出かけていたという噂は、彼が如何なる系統の指令下にあるかを明瞭に示すものでなくて何であろうか。

 
今や我々は米英アングロサクソンの暴慢なる世界搾取を討たんとして正義の戦を戦っているのであるが、忠勇義烈の皇軍の赫々たる戦果を真に確保せんとするならば、かのアングロサクソンの背後にあって米英の敗退をも自己の世界征服の具となさんとしているユダヤのあることを忘れてはならない。支那事変の敵がフリーメーソン祕密結社員蒋であり、更に米英及びユダヤ祕密力であった如くに、大東亞戦争の敵は米英であり、更にまたユダヤなのである。(17・1・14)
 附 言

 特に超非常時である現代に於ても、「日本に現存するフリーメーソンリイ」等という書が、「科学」の名を僭称しつつも、赤化主義者の片言隻語に絶対の信頼をかけて、フリーメーソンとユダヤとは関係なしという如き時代錯誤の主張をしているのであるから、以上の認識は特に重要性を持つのである。かかるフリーメーソンリイの解釈は、ユダヤが絶対的支配権を有する英米に於てさえも稀に見られるものであって、現代欧州に於ては前世紀のユダヤ系宣伝として一人前の判断力を持つ者は誰一人耳をかすことをしない所のものである。
「科学」なる語を宣伝に利用した者が主として赤色ユダヤ主義者であったことを知る者は、今なお「科学」の名を僭称する怪物が皇国日本にも出没し得る余地のあることを反省して、ユダヤ祕密力の謀略の深刻さを忘れてはならない。




(私論.私見)