これは典型的に代表権限論が問われている事案であるように思われる。代表並びに党中央が何をどこまでどう為し得て、為し得ざるかの基準が問われている。これを逆に言えば、党内に於ける異論、異端、分派がどの程度まで許容されるのかが問われている。特に、異論、異端、分派活動の中に解党の動きまで許容されるべきか否かと云う問題が問われていることになる。これはきわめて高度な問題であろう。
第一の「党代表並びに党中央が何をどこまでどう為し得て、為し得ざるかの基準」は未だ理論的に解明されていない。良く聞かされるのが民主集中制論であるが、この論に於ける民主の定義、集中の定義が規定されないまま「党中央の云うことはその通り」なる恭順を強いて、満場一致、一枚岩体制を生み出すだけのケッタイなものでしかない。れんだいこは、これ以外に論を知らない。今考えるのに、この問題を「党代表及び党中央の権限論」と仮名すると、どこかで誰かが試案を出さなければならないのではなかろうか。その際には、与党と野党、駆け出しと老舗によって若干の違いが認められるべきではなかろうか。
即ち、政権与党ともなると党内問題が党内問題だけにすまされず、いわば国民的利害に絡んでくるので、「党代表及び党中央の権限」には慣例が重視されることになる。くれぐれも独裁と強権政治を生み出さない仕掛けが必要であるように思われる。これに対し、野党となると、党内問題は党内問題として純化しているので、相対的に「党代表及び党中央の権限」は広く認められ、いわゆる「親方的指揮権」の余地があるのではなかろうか。但し、「代表の親方的指揮権」にも論理論法が必要であり恣意的なものは許されない。且つあくまでも党内問題として留まり、党外に放逐した後でも追跡し成敗に向かい生殺与奪するような権限は認められないとすべきだろう。こういう例はゴマンとある。
第二の「党内に於ける異論、異端、分派が許容されるのかの基準」も又未だ理論的に解明されていない。これを認めていたのがかっての自民党で派閥を常態化させていた。逆に認めないのが共産党であり粛清の歴史が延々と続いている。これの成否の歴史的決着はまだついていない。これを仮に「党内反対派許容論」と仮名すると、れんだいこは、かっての自民党的な許容を是としている。大人の政治の証しとみなしている。その自民党にも流れがあり、かっては認められていた党内反対派が次第に許容されなくなりつつある。小泉政権下での郵政民営化法案を廻る党内造反派に対する除名、刺客騒動は記憶に新しい。共産党の「党内反対派粛清論」は宮顕時代来のものであるが、これが1955年より始まったとして既に60年を経過している。共産党は外に向けては「民主主義を守れ」の護憲政党であるが、党内に於いては戦前の治安維持法体制を敷いている。ソフト化させているだけであり本質は何ら変わらない。民主党政権下の民主党が共産党式党中央恭順論を発動し小沢派を弾圧した挙句に党外に放逐したのは記憶に新しい。
さて、ここまで確認したとして、例題の「みんなの党代表による反対派解任、離党強制事件」はどう否認され、あるいは是認されるべきだろうか。これには、「異論、異端、分派活動の中に解党の動きまで許容されるべきか否か」と云う問題が絡んでいる。れんだいこは、「党内反対派許容論」であるが、その党内反対派の解党運動まで是認すべきかと云うと判断に苦しむ。仮に逆に「党代表及び党中央による上からの解党の動き」に対してこれを批判する党内運動の場合もある。社会党の解党の場合には、こういう逆の事態が起こっていた。
そろそろ結論を述べねばならない。れんだいこは、渡辺代表の解党派の役職解任は代表権限として認めたいと思う。もしこれを野放しにすると、逆に指導能力が疑われよう。次に、離党を強制できるのかどうか。要請まではできるとしたい。むしろ、逆に解党派が党内に居残る理由が分からない。自らの信ずるところによって自主的に離党すれば良かろうにと思う。ごく普通に考えて、解党派が党内に残る必然性が見えない。自分が目指すところの新党を先駆け的に結成するなり、提携予定の党に入党するなりすれば良かろうに。離党に当たって悪態をつくのは勝手だが拍手喝采されることはなかろう。
この問題はまだまだ尾を引きそうである。適宜に愚考しておこうと思う。