新型コロナに苦しむ今だから知っておきたい史実
江戸の終わりにコレラ菌が日本中で猛威をふるい、おおぜいの人が亡くなった──。この史実そのものは、歴史の教科書で習ったという人も多いことでしょう。明治時代に入って描かれた風刺画ですが、虎(コ)と狼(ロ)と狸(リ)が合体した化け物に、衛生隊が消毒液を吹きかけているという絵が、教科書に載っていたりします。突然、身近な人たちが下痢や嘔吐に苦しみだし、「三日コロリ」と怖れられたとおり、あっという間に衰弱死するさまを目の当たりにし、さらに、死者のそばにいた者もまた同じように……という状況にあって、電子顕微鏡もない時代ですから病気の原因が何かを突き止めることなどできません。そのために、こんな絵で病を表現するしかなかったのでしょう。江戸の人々は、まじないや厄除けのお札で病を追い払おうとするありさまでした。
ひるがえって現在、人類は新型コロナウイルスに立ち向かっている最中にあります。克服するかと思えばウイルスが変異を遂げ、ワクチンで乗り越えられるかと思うと感染者数が前にも増して増えていく……。おそろしい流行病によって人々が混乱するという経験をしている私たちだからこそ、同じく謎の流行病によって国が大きく乱れた幕末という時代を身近に感じるでしょう。そして、そのような時代にあってコレラに立ち向かい、当時は「江戸の台所」と呼ばれ、一大食糧基地であった千葉県の銚子への感染拡大を食い止めた医師がいたことに興味を感じるのではないかと思うのです。その医師の名を、関寛斎(せき・かんさい)と言います。
順天堂病院のルーツで医学を学んだ
関寛斎は、1830(天保元)年、千葉県の九十九里浜にほど近い、山辺郡(現在の千葉県東金市)で農家の長男として生まれました。3歳のとき母親が突然の病で亡くなり、その後、父親が再婚。母方の実家に預けられた寛斎は祖父母と暮らしていましたが、14歳のとき、亡き母の姉夫婦の養子となります。実母と早くに死に別れ、居場所を転々とした幼少期は、穏やかなものとは言えなかったかもしれません。寛斎は、養父・関俊輔のもとで学問に目覚めます。養父は農業で生計を立てるかたわら、「製錦堂」という漢学塾を開いており、村人からは「お師匠さん」と呼ばれ、慕われていました。寛斎は畑仕事を手伝いながら、その塾で学ぶことができたのです。学びの環境が充実していたことは、寛斎のその後の人生につながるポイントとなります。そして18歳のとき、「農民としての人生ではなく、西洋医学を究めて医師として歩み、多くの人の命を救いたい」そんな強い意志を抱き、蘭学を教える私塾「佐倉順天堂」(現在の千葉県佐倉市)の門をたたきます。この私塾こそ、現在、東京・お茶の水にそびえ立つ順天堂病院のルーツとなります。
ひとたび佐倉順天堂の門下生となれば、上級武士の子息だろうが、農民や町人の出身だろうが、同じ部屋で寝泊まりし、時を惜しんで学ぶことになります。ここでの階級は、身分ではなく、あくまでも個々の努力と実力次第であるという信念が徹底されていました。そんな実力主義の塾とはいえ、寛斎にとって、そこで簡単に頭角を現すことができたかといえば、そうではありません。寛斎が生まれ育った地域は、当時は米が思うようにとれない不毛地帯で、順天堂の月謝と寄宿費は、関家の経済力で払える金額ではありませんでした。学ぶことを可能にしたのは、順天堂の開祖である佐藤泰然が、「やる気と能力のある若者には勉学の機会を与えてやりたい」と、家の奉公人として寛斎に下働きをさせ、その給金で学費等を賄わせるという計らいをしたからだったのです。そんな泰然の思いに報いるため、診療所の雑巾がけや子守、薬の調合、種痘や手術の手伝いなど骨惜しみすることなく働きながら、西洋医学の勉強に励みました。ちなみに、当時は麻酔の技術が進んでおらず、寛斎らは、数々の外科手術を麻酔なしで行ったようです。
その手法は、まさに「隔離」「ソーシャル・ディスタンス」
泰然から一目置かれるほど腕の立つ医師に成長した寛斎は、26歳のとき、江戸に次ぐ大都市であった銚子(現在の千葉県銚子市)で病院を任されます。日本一の水揚げを誇る漁港があり、醬油の製造も盛んなこの地は、利根川を使えば陸路より早く物資を江戸に運べるということで、「江戸の台所」とも呼ばれていました。そして病院に赴任して間もない1858(安政5)年、寛斎は外国から入ってきた恐ろしい感染症に立ち向かうことになります。当時、日本中で大流行したコレラは、江戸で数万人規模の死者を出すなど、危機的な状況を引き起こしました。次々と人が死んでいく原因が何なのかわからず、病を恐れた民衆にできることと言えば、邪気を払うために豆まきをしたり、家の前に松の飾りや錦絵を貼りつけたり、獅子舞に舞わせたりすることでした。非科学的な迷信に何の意味もないと怒りさえ感じていた寛斎は、まず、指など露出しているところを湯で消毒して治療にあたることにし、病人と健康な人とを分けました。
そして、隔離された健康な者にはきれいな水や栄養のある食べ物を与え、病人の呼気や排泄物からできるだけ遠ざけ、身体や居室をとにかく清潔に保つよう徹底しました。と同時に、祭りなど大人数で集まるような行事をやめさせるため、そうした集まりが病を広めてしまうと民衆に伝えました。もう、お気づきかと思います。寛斎のとった方法は、「手指の消毒」であり、「隔離」であり、「ソーシャル・ディスタンス」を徹底することだったのです。新型コロナウイルスに対する現代の私たちの取り組みと何ら変わらない対応であったことがわかります。
コレラ菌が発見されるより25年も前の出来事
結果は如実に現れました。江戸とは人の流れも頻繁であったにもかかわらず、銚子はコレラによる死者をほとんど出すことなく、「江戸の台所」としての機能を維持し続けたのです。関寛斎は、「予防」のための取り組みを徹底させることで、感染症の拡大を見事に抑え込んだのです。寛斎の活躍がなければ食糧基地が大打撃を受けることになりますから、江戸は復興どころではなかったはずで、その後の維新に少なからぬ影響を与えたのではないでしょうか。ちなみに、世界で初めて「コレラ菌」の存在が発見されるのは1883(明治16)年のことです。関寛斎は、その25年も前にコレラの予防法や治療法を懸命に学び、恐ろしい感染症から多くの民衆の命を見事に守り抜いていたことになります。関寛斎はその後、長崎へ留学してオランダ人医師から、さらに最新医学を学びました。戊辰戦争では従軍医師として務め、70歳を過ぎて北海道へと移住し、亡くなるまでの10年間をへき地医療と開拓に捧げ、陸別町で82歳の人生を終えました。
時代は変わっても、人の志は色あせません。
関寛斎が若き日に学んだ「順天堂」は、今も千葉県佐倉市に「佐倉順天堂記念館」として建物の一部を残しており、彼らが使用していた西洋医学の書物や手術道具、医薬品なども展示されています。晩年を過ごした北海道の陸別町には「関寛斎史料館」があり、寛斎の一生を数々の遺品や資料と共に振り返ることができます。寛斎ゆかりの地へと足を運ぶことで、目に見えぬ感染症との闘いに四苦八苦した医師の息遣いを感じることができるかと思います。コロナ禍が続く今だからこそ、幕末に起きた出来事が私たちの心に強く訴えかけてきます。
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