■ 世界の感染状況を集計するジョンズ・ホプキンズ大学
新型コロナウイルスの報告の中で米ジョンズ・ホプキンズ大学の名前を目にする機会が多くなったが、それは、2020年1月24日、同大学のCSSE(Center for Systems Science and Engineering、システム科学工学センター)が、世界の新型コロナウイルス発生状況のデータベースを公開したからではないか、と思う。それ以来、世界各国の新型コロナウイルスの広がりをアップデートしている。これらの情報は、WHO(世界保健機関)、米国CDC(疾病予防管理センター)、各国の政府が発表する報告だけではなく、世界の医療関係のSNSから得ているようだ。日本ではあまりなじみがない名前だが、ジョンズ・ホプキンズ大学は医学においては世界ナンバー1と称され、諸外国では最も知名度の高い大学である。隣接するジョンズ・ホプキンズ病院は1889年に開院したが、1991年から2011年まで米国病院ランキング第1位に選ばれている(2020年は第3位)。 ジョンズ・ホプキンズ大学と病院は、起業家であるジョンズ・ホプキンズ氏の遺言に基づいて設立された。当時ビッグ4と呼ばれた4人の医学の権威を招き、医学教育システムを確立した。研修医制度を導入したのも同大学である。特にビッグ4の1人である内科医、ウイリアム・オスラー(William Osler)の名前は医療従事者で知らない者はいないだろう。毎朝、教授と専門医たちが患者のベッドを訪れる回診は、オスラーによって開始されたものである。 |
■ リサーチ重視の姿勢と潤沢な資金
このように医学において有名な大学だが、今回の新型コロナウイルスに関して、非常に莫大なデータを発表し続けているのは、いくつか理由があると考えられる。その1つが、リサーチを重要視する姿勢であり、もう1つが潤沢な資金であろう。医学の分野は日進月歩であるが、それと同様に医学を取り巻く分野も多様化している。その大きな分岐点が、近代疫学の導入である。疫学とは疾患の広がりを研究する学問であるが、近代疫学が花開いたのは、20世紀初め以来世界を脅かしている結核対策が欧米で大きな社会政治的問題となったからと言われている。1919年、ジョンズ・ホプキンズ大学は、世界初のパブリックヘルス大学院を設立した。当時、WHOがキャンペーンを展開したBCG(結核予防ワクチン)の有効性を確かめるため、「RCT」(Randomized Controlled Trial、ランダム化比較試験)と呼ばれる極めて信頼度の高い研究手法を確立し、米国CDCの前身である米国公衆衛生チームとともに、世界各地で中長期的な大規模研究を行い、データ解析を行った。RCTは現在流行りのEBM(Evidence-Based Medicine、根拠に基づく医療)を構築する研究手法である。米国の医学校を目指す学生の中で、最も人気のあるのがパブリックヘルスである。日本では公衆衛生学と訳されるが、おそらくその内容はかなり異なっている。パブリックヘルスは患者対医師という、いわゆる医療の枠を超えて、国として世界として、疾患に対してどのような対策を行うかを、メガデータを用いて行う分野として位置づけられている。それゆえ、医学だけでなく、統計学、生物学、経済学、政治学、国際関係学など多種多様の領域にまたがっている。こうした状況に対応するがごとく、ジョンズ・ホプキンズ大学は、様々な分野に進出している。特に今回のデータベースを公表したCSSEは、同大学のメディカルエンジニアリング部門にある。ここは、情報工学やロボットなどのリサーチを産官合同で行っている。このほかSAISという国際政治大学院は、国際関係と軍事データに特化したデータベースを持っている。こうしたリサーチにかける情熱は、数字としても表れている。ジョンズ・ホプキンズ大学の研究者が獲得する政府からの研究費は他の医学校と比して約5億円多いというデータがある。資金があれば優秀な人材を集めることができる。2019年にノーベル生理学賞を受賞したグレッグ・セメンザを含め、同大学は21人のノーベル学者を研究者として迎えている。また、マイケル・ブルームバーグ元ニューヨーク市長は、2018年に個人としては過去最高の約2000億円を母校に寄付している。筆者は同大学のパブリックヘルス大学院で学び、ポスドク時代には、米国CDCのプロジェクトコーディネーターとして勤務できた。何よりも大きかったのは、コリン・パウエル時代の米国保健省特別顧問を務めたD・A・ヘンダーソン、BCGワクチンの結核予防効果は不明として米国のBCG導入をとどまらせたG・W・カムストック、ヘンダーソンおよびWHOとともに天然痘根絶を行った蟻田功らの優れた恩師と出会ったことである。以下では、こうしたデータ解析の重要性を学んだ土台を元に、現在の新型コロナウイルス対策に関して論じてみたい。 |
■ 集団免疫が得られる状況まではほど遠い
日本では緊急事態宣言が延長されたが、現在までのところ、新型コロナウイルスに関しての中長期的な見通しは示されていない。一方、新型コロナウイルスは未知のウイルスであるが、4カ月以上の世界的流行の中で分かってきたことがある。それは、重症化するのが高齢者と基礎疾患を持つ集団に特化していることである。その危険因子を踏まえてどのように対策をとっていったらよいだろうか。まず、感染症には原則がある。感染する能力を持つ人は、短期間で複数の人にうつす、第2に、ひとたび感染して治癒すると、短期間は自分がその感染症に対して免疫を持ち、うつることもないし、人にうつすこともない。短期間でどれだけ複数の人にうつすのかを表す数字として、基本生産数「R0」という専門用語が使われる。R0が2.5というのは、1人が2.5人に感染させるという意味である。1週間に1人の人が2.5人うつすと仮定すると、10週後には2.5の10乗で9536.74人、20週後には、9094万9470人の感染者が出ることになる。この数字は何の対策も講じなかった場合である。では、何も対策をしなかったら永久に感染者数が増加し続けるのかというとそうではない。ある集団の中で感染している人が多くなると、感染していない人が感染している人と出会う機会が少なくなり、最終的に感染症は、その集団をあきらめて出て行ってしまう。これが集団免疫という概念である。言い換えれば、全部の人がかからなくてもある割合の人がかかれば、その集団は、ある一定期間その感染症から守られるということになる。集団免疫は、今流行している感染症の病原体が1種類であること、人の交流がランダムに行われるという前提があるが、感染症に当てはまる一般原理である。しかしながら、当該集団の中、どの程度の人がかかれば集団免疫が成立するかは、感染症により異なる。致死率が高い感染症ほど、多くの人がかからないと集団免疫が成立しないといわれるため、今回の新型ウイルスの比較的低い致死率を考えると、約60%程度の人がかかれば、日本の中での集団免疫が成立するのではないだろうか。
では現状ではどの程度の人が感染しているのであろうか。これを正確に把握するには国民全員に検査(PCR検査と抗体検査:PCRは現在ウイルスに感染しているかどうかを調べる検査。抗体検査は既にウイルスに罹ったかどうかを調べる検査)をすべきであるという議論になるが、物理的に不可能である。また、検査自体の信頼度は100%ではないため、年齢や性差などの個人による特性が偏らないように、できるだけ多くの集団を選んで検査し、それらの集団での結果をもとに推測するのが適当である。現在までのところ、個別の自治体や医療機関で抗体検査などが行われているが、その結果は5%程度で、集団免疫が得られる状況とはほど遠い。この結果が正しいとすれば、多くの人々に新型コロナウイルスへの免疫ができていないということになる。この状況下では、新型コロナウイルス流行終息に向けての今後の見通しは極めて悲観的なものになる。 |
■ 感染防止対策のプランAとプランB
今回の政府の緊急事態宣言は「医療崩壊を食い止めるための時間稼ぎ」であると筆者は理解している。というのも日本に先んじて流行が起こった諸外国での致死率を上げたのは、高齢者の院内感染と、それによる重症化により、集中治療室と人工呼吸器が足りなくなった、すなわち医療キャパシティをはるかに上回ったからである。日本は諸外国と比して、病床数は多いため、医療崩壊は起こらないという指摘もあったが、実際は、ICUのベッド数や人口対の医師数は他国と比して少なく、わずかな感染者数の増加によって、医療キャパシティを超えてしまう恐れが出てきたからである。現在行われている人の移動の制限などは一時的に感染者を少なくするが、手を緩めればリバウンドにより感染者数が増加することがわかっている。感染者数を徹底的に抑え込むためには、強力な感染防止対策をワクチンや特効薬が利用可能になるまで継続することの必要性が指摘されている(以下では「プランB」)。しかし、こうした徹底的な封じ込め戦略を長期にわたって続けることができないことは、欧米諸国などが自粛規制を解いてきたことからも明らかである。そこで、厳しい自粛を行い、感染者数が少なくなったことが確認されたら緩める、そしてまた医療キャパシティを超えそうになったら厳しい規制を行うことを繰り返す方法が示唆される(以下では「プランA」)。程度や、やり方の違いはあるにしても、日本ならびに諸外国が実際的に取ろうとしているのはプランAである。
しかしながら、プランA、Bに類似したものはこれまでどの国でも長期的に行われたことがない。このため、実際どれだけ続けられるかどうかはよくわからない。最近出されたハーバードの研究では、プランAに類似した対策を続けるカギは、医療キャパシティによることが報告されている。すなわち、医療キャパシティが増えない場合は、都度都度の厳しい自粛と緩和の1タームが感染終息まで(おそらくは2022年まで)、同じ長さで何回も繰り返されることになる。
だが何度も同様の自粛が起こることにより、経済恐慌・社会不安・暴動・自殺の増加・人々の心身の健康悪化・教育水準の低下など、様々な問題が発生することも懸念されている。そうした懸念の現実化により、プランAやプランBの成功によって新型コロナウイルスによる死亡率が減少しても、経済不況、社会不安による自殺、孤独死、餓死などの総死亡率が増加する恐れがある。また、このプランが失敗した場合、多大な被害を医療現場にもたらすことになるかもしれない。感染症は新型コロナウイルスだけではない。年間12万人が命を落とすインフルエンザを含めた肺炎は秋から冬に流行しやすいことが分かっている。特にインフルエンザは若年層でも重症化するリスクがあることから、今回の新型コロナウイルスの第2波と、インフルエンザ流行が重なれば、医療崩壊を加速させることは必至である。かつて猛威を振るった1918年の当時の新型インフルエンザ(いわゆるスペイン風邪)は、今回の新型コロナウイルスと対比されることが多い。当時の報告によれば、第1波を免れても第2波があり、第1波が大きかった地域は第2波が小さかったということだ。これが今回の新型コロナウイルス流行に当てはまるとするなら、今抑え込んでも、何カ月か先に第2波が来る可能性があるということである。今回の新型コロナウイルスは致死率がスペイン風邪と比して低く、重症患者は高齢者が多いことなど、単純比較はできないにしても、100年に一度の感染症であることは間違いなく、過去のデータから学ぶことは多い。
(*)プランA、Bに関しては、関沢洋一氏、藤井聡氏と共著の「高齢者と非高齢者の2トラック型の新型ウイルス対策について」を参照されたい。
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■ 2022年までは終息しないつもりで備える
以上、医療のキャパシティと社会経済の損失は大きな関係があることが分かったが、実際にどのように医療キャパシティを増やすかというのは、極めて難しい。ICUや、人工呼吸器を増やすことができても、そこに投入される人的資源を増やすことは難しい。現在の状況下では、感染の広がりを上記のPCR検査と抗体検査でモニターしながら、医療崩壊を起こさないようにしてゆくとともに、いまだ感染が拡大していない地域から、人工呼吸器を扱える医療従事者などをかき集める努力をするしかないように思える。中長期的な政策決定をどうするのか、は政府が決定することであるが、最終的には2022年までは感染症は終息しないつもりで備えるべきである。最終的にワクチンや治療薬が開発されることを期待するが、それがどれだけ効果があるかを見極めるには時間がかかる。むしろ現存のワクチンを試すことも視野に入れる必要があるだろう。確実なエビデンスはないものの、BCGワクチンの接種によって新型コロナウイルスの発症が予防されるという指摘があり、BCGワクチンが高齢者の肺炎を減らすという報告もあることから、今のうちから増産し、他国での臨床試験の結果次第では、高齢者に接種することが良いと思う。医療だけでなく、社会、経済など全ての英知を集め、長期戦になるであろうこの感染症と立ち向かってゆかなければならない。
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