モデルナ・ジャパン代表取締役社長、鈴木蘭美。新型コロナウイルスがまん延し、米モデルナはmRNAワクチンであっという間に世界に存在感を知らしめた。モデルナの日本法人が昨年設立され、鈴木蘭美が「モデルナ・ジャパン」の初代社長に就任、コロナの封じ込めに奔走する。もう一つ、鈴木の大きな夢は人類のがんの完治。長くイギリスで研究もしてきた。病の苦しみから人類を解放したいと願う。 |
2021年秋、鈴木蘭美(すずきらみ)(49)は米製薬会社モデルナのチーフメディカルオフィサー、ポール・バートンから、こう打診された。「モデルナが日本の拠点を開設して、トップを探している。君が社長にならないか?」。鈴木は逡巡(しゅんじゅん)した。自身がスイスの製薬会社日本法人フェリング・ファーマのCEO代表取締役に就任して、1年足らずだったのだ。
米モデルナは、「伝令リボ核酸(メッセンジャーRNA)」を使う新しいワクチン開発で世界の大手に躍り出た新興企業だ。新型コロナウイルスの遺伝子情報が公開されて、2日間でワクチン候補を設計。ワクチンや薬の開発には10~15年程度かかるといわれるが、同社は新型コロナウイルスワクチンの開発を始めて11カ月で完成させた。21年5月に日本で承認されたのを受け、国内でのワクチン開発と供給のために日本法人を設立した。1990年代から、マウスの実験などを通じて、世界の研究者がmRNAをワクチンとして医療に応用する可能性を示してきた。約30年の研究の蓄積があるワクチンだが、人の体に投与されてから長い月日は流れていない。鈴木はイギリスの大学でがんの基礎研究に従事していた科学者で、mRNA医薬の有効性について目を通した論文は、相当数に上る。モデルナは、感染症やがん、循環器疾患、希少疾患を対象とした治療薬やワクチンの研究開発を行い、「世界でひとつだけしかない、自分のための抗がん剤」の創出も構想。独自の開発手法を使えば、人類の歴史を塗り替えるに違いない──。
鈴木はそう確信すると、がんの研究者だった夫のロバート・アラン・ハリス(55)とも相談して、打診から1カ月後に社長を引き受けると回答。11月、「モデルナ・ジャパン」の初代社長に就任した。「私は、製薬業界での事業経験も18年ほどと長く、従来の薬の創り方のメリットもデメリットも知り尽くしています。『私がやらずして、誰がやる?』との思いで引き受けました」。 |
■15歳から欧州で生活する 「漢字はいまだに苦手」
オミクロン株の流行が始まった時期に就任。ワクチンの期限切れによる大量廃棄の問題も取り沙汰され、一筋縄ではいかない課題にも対処する。鈴木は、国のライフサイエンス行政などに関わる場でも、10以上の委員やアドバイザーを務めてきた。当初はあらゆる会議の場で、鈴木が紅一点という状況が続いた。ただ、コロナ対応を検証する政府の有識者会議などで座長を務める自治医科大学学長の永井良三は、鈴木が企業トップや国の委員に推される理由は、実績によるものだと言う。「バブル崩壊後、日本企業は人材のグローバル化が致命的なほど遅れた。ライフサイエンス界では、科学者として基礎研究のトレーニングを十分に積み、グローバルに実業界で活躍している人材が、そもそも男性も含めて少ないんですよ」。
実際、鈴木は医療のグローバルカンパニーを渡り歩くプロ経営者だ。エーザイ欧州本社を経て東京本社では、16年に執行役員に就く。17年から英ジョンソン・エンド・ジョンソンの製薬部門ヤンセンファーマで前立腺がん、血液がん、免疫疾患などの仕事に携わり、上級幹部に。CEOとなったフェリングでは不妊症薬などを扱っていた。バートンは、ヤンセン時代の上司。鈴木をモデルナ日本法人の社長に推薦した理由をこう語る。「鈴木はバイオロジーへの造詣が深く、製薬業界での事業経験も豊富です。科学的な背景を深く理解し、込み入った折衝を伴う役割を遂行するのに彼女こそ相応(ふさわ)しい人物だと思ったのです」。
鈴木は15歳で欧州に「飛び出し」、18年に及ぶ滞在期間のほとんどをイギリスで暮らした。「私は日本人ですが、感覚的にはほとんど英国人。漢字を書くのはいまだに苦手」だと自認する。交友関係は世界に広がる。米モデルナの共同創業者でマサチューセッツ工科大学教授のロバート・ランガーとは、家族ぐるみの付き合いがあり、19年に学会がハワイで開かれた際は、ランガーが「1on1」でキャリアの相談に応じた。その場でランガーが「日本人は非常に優秀で勤勉だが、ビッグピクチャー(大きい志)を描くのは不得意な人が多い」と指摘すると、鈴木は「優秀で勤勉な日本人がそれをできるようになれば、世界一になるのではないでしょうか?」と尋ねた。ランガーは笑顔で「その通り。ビッグピクチャーを描き、実現に向けてリスクを受け入れることができれば」と返してきたという。 |
■親の離婚で母子家庭に 小3から祖父母に預けられる
鈴木と経営者仲間であり、エグゼクティブコーチングを手がけるアイディール・リーダーズCEOの永井恒男(50)は、「彼女自身がビッグピクチャーを描いて実行できる、稀有(けう)な人。『近いうちに社長になる』と宣言し、本当に数年後にはそれを実現していました」という。そんな鈴木は、一貫してがんの完治を目指し、世界を奔走してきた。鈴木のハングリー精神の原点には、母子家庭で育った幼少期の経験がある。 鈴木は母(70)の実家のある、栃木県栃木市で一人娘として生まれる。両親は早稲田大学で出会い、熱烈な恋愛の末に学生結婚した。鈴木の出産時、母は大学2年生だった。就職の時期を迎え、編集者を志して出版社の就職試験を片っ端から受けたが、「面接で幼児がいると伝えると、当然のように落とされました」と述懐する。70年代は、日本でもウーマンリブ運動が展開されていた。母は「女性が男性と対等に働くのは当然」と考え、知人の仲介を得て絵本や児童書の出版社に就職。時短勤務をしながら家事と育児をこなした。一方の父は、仕事で余裕がなかったのか、時代性もあるのか、家事や子育てにほとんど手を貸さなかった。鈴木が3歳の時に両親は離婚する。離婚後、東京の下町で母子の二人暮らしになる。母は徐々にフルタイム勤務に切り替え、鈴木を保育園に預け、発熱時は実家の親にヘルプを頼んだ。鈴木は、東京・金町の小学校に入学する。鍵っ子となったが学童保育へは行き渋り、放課後は学友と遊び、家では猫と戯れた。「家庭に父がおらず、『女の子はこうあるべきだ』的な縛りがないまま育ちましたし、言葉を選ばなければ、母からは『ほっとかれた』。自分の時間が長かったんです。『自分のレールは自分で敷く』感覚が私の中で醸成されていった気がします」。
ただ、母からの影響は少なくない。母によれば、ある日、鈴木から「私、将来結婚して自分の手で子どもを育てる」といわれ、こう諭したという。「女性の自立には長い歴史があって、自立のためには働かなくちゃダメなのよ」。鈴木は、「ジェンダー平等の考え方は、きっと母から『洗脳』されてますね」と頭をかく。 |
鈴木は小3から栃木市の祖父母宅に預けられた。母は東京で働き、週末だけ実家で合流。だが田舎では、他人との家族形態の違いを突きつけられた。「田舎だと両親がいるのが前提で、働く母親も少なかった。母子家庭の子は、クラスに私ともう一人だけで、その子とは仲がよかったですね。肩身が狭く、差別的に見られていると感じていました」。母が、「地元の公立中に進んだら、この子は『出る杭(くい)』になる」と、自由な校風で知られる私立の中高一貫校、自由の森学園(埼玉県飯能市)の受験を勧めた。鈴木はここに進学して寮に入り、週末だけ東京の母宅へ通う。授業を抜け出しては河原で遊んだ。そのうち「さすがに遊びすぎだ」と自覚し、「高校は行かず、外国に行く」と思い立つ。母から「大学は楽しいから行った方がいい」と助言され、「大検(大学入学資格検定)を取れば母を説得できる」と、短期間で合格を果たす。
15歳で単身欧州に渡った。ドジな一面もある。渡欧直後は英語がわからず、現地の大学の入学案内を見て、英ケンブリッジ大学の英語検定のうち、特上級が入試に必須だと勘違いした。学費の安いスウェーデンで2年間英語を猛勉強した末、特上級に合格。実は、1段階下に合格していれば入試の資格が得られたと、後で判明した。結果的に、流暢(りゅうちょう)な英語力が身についた。かくして18歳でウェールズ大学に入学する。その後、英南西部にあるエクセター大学の社会学科で修士課程に進み、20歳で転機が訪れる。友人2人が相次いでがんを患い、悪化の一途を辿(たど)る病状に鈴木は胸を痛めた。ある日、不思議な夢を見て目が覚め、「私は、がんを完治するために生まれてきたんだ」と、天啓に打たれたように自分の将来像がくっきりと頭に浮かんだ。(文中敬称略)(文・古川雅子) |