れんだいこの日教組考

 (最新見直し2008.11.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2008.11.17日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評497 れんだいこ 2008/11/20
 【日教組批判考その1】

 2008年の論調として見逃せない日教組批判の動きが連発した。偶発的に生まれたものなのか、この背景に何らかの政治的事情があるのかどうか分からない。教育現場がとめどなく荒廃しつつあるのは事実で、従来例のない粗暴な青少年犯罪が頻発しつつあるのも事実で、これに何とかせねばという思いが日教組批判に結びついていたように思われる。これに一定のシンパシーが生まれているやに思われる。

 詰問されている側の日教組はどう反論しているのだろうか。ホームページ(ttp://www.jtu-net.or.jp/)を覗いてみたが、受身の反論に終始しているように思われる。残念ながら、日教組の猛烈な反論が聞こえてこない。当の本人側がその程度なので、れんだいこが何もしゃしゃり出る必要はないのだけれども、得々として日教組批判に向かって正義ぶる輩を容認できないので代わって天誅しようと思う。しかしそれにしてもダラシナイのは日教組である。なぜ事を大きくしようとしないのだろうか。

 れんだいこの学生時代に於いて、日教組の教師と懇意にした経緯はない。つまり特段世話になった覚えはない。れんだいこが言及する所以は、学生運動を通じて世の中の見方を覚え、家永教育訴訟以来教育問題にも関心を持っているからである。恐らく教育は国の基いとする本能的な察知が関心を深めさせているだろう。

 あれこれするうちにふと思い出した先生方が居た。一人は中学時代の美術の先生である。中1の担任でもあった。ホームルームか何かの機会に一度だけ学生運動の経験を語っていたような記憶がある。話の内容は思い出せないが、「今俺は何をすべきか。こうやって私は過ごしてきた」云々てなことを云っていたように思う。くだらないことには拘らないアバウト派の割合い話の分かる先生だった。

 一人は高校時代の化学の先生である。この人は高3の担任でもあった。賃上げ闘争で頑張っていたような気がする。教育者的には既に受験体制派としてシフトしていたので、れんだいことはソリが合わなかった。つまり、日教組の先生の中でも、れんだいことウマの合う人と合わない人が居るということになる。

 歴史の先生も居た。この方は学年主任でもあり教師間にも信頼の厚い先生だった。れんだいこが所属していた剣道部の顧問でも有った。かといって親しく話したことはない。この先生が注目を浴びたのは、当時の全共闘運動に共鳴し、或る時の学生デモに参加し、それがすぐさま教育委員会にバレて飛ばされるという事件を起こしたからである。事情を知る教師−生徒間でオカシイという声が挙がっていたが、大きなうねりにはならなかった。れんだいこは、そういう問題には未熟で傍観して過ごした。

 日教組と分かる先生を思い出せばまだ多少は居るだろうとは思う。いや当時は殆どがそうだったのかも知れない。気がつかないのは、日教組的に目立つ先生ではない方ばかりだったからであろう。れんだいこと日教組の先生の付き合いはその程度である。つまり殆ど関係ない。

 なぜこういうことを記すのか。今れんだいこが振り返るのに、日教組の先生とそうでない先生を仕分けしてみて、日教組の先生の方にシンパシーを感じるからである。中にはその後教育委員会入りして、生長の家の信者であった先生をイジメ、それで左派ぶっていた先生の噂を聞いたことある。お袋が、どこからか話を仕入れてきて、夕飯時に語っていたのを思い出す。お袋の見解は生長の家の先生に与しており、子供思いの良い先生なのにイジメられてかわいそうというような話だった。イデオロギー過剰な故に閉口するような日教組の先生も居たことになろう。

 が、概ね良い先生だったという気がする。れんだいこが理論的に解析すれば、反戦平和のヒューマニズムを大なり小なり受け入れており、出世亡者ではない一介の教師として筋を通していた人が多かったような気がする。れんだいこが今思うに、これは教育者として大事な資質で、比較的相対的にではあるが教育者の片鱗を見せていたのではなかろうか。

 こういう日教組の先生モデルと対極的なのは、えこひいき派であった。金持ちブゲンシャの子供には愛想良く貧乏人の子供には見向きもしない先生群が居た。子供にも分かる子供そっちのけの出世主義者がいた。塾派、金儲け派が居た。高校になると受験派が居た。以上でだいたいのパターン分けができる。今はこれに無気力派と偏執エロ派、不倫派を加えねばなるまい。他には昔も今も御身安泰派というのもいるかも知れない。この中にも日教組の先生が居たのかも分からないが、ある程度の抑制を利かしていたのではなかろうか。

 れんだいこは何が言いたいのか。そろそろお分かりいただけるだろうが、こういう教師群を考えた時に、日教組の先生方を批判して事足りるのか、あまりに安逸な日教組批判ではないかと思うということが云いたい訳である。日教組運動には確かに功罪がある。罪の部分として、偏狭なサヨイズムに染まっており、未だに抜け出していないように思われる。しかし、それらの罪の部分をもってして、今日の教育腐敗、顕著に頻発する青少年犯罪の粗暴性の主因であるとは思えない。これが云いたい訳である。むしろ、教育界の惨状を告発するのなら、長年の文部省行政こそ主因なのではなかろうか、これが云いたい訳である。

 この文部省行政の告発に向かわない日教組ウルトラ批判に何の意味があるのか。れんだいこには、ここに怒りがある。右翼が「日教組解体、北方領土返還」唱えているのは耳タコで、職業的にそう云わざるを得ない裏事情なり確信があるのだろうとは思うが、中山前国土交通大臣の如き自民党のお偉方の口から唐突に日教組批判が飛び出るとは思わなかった。余りにも安逸お粗末としか言いようがない。

 誤解していただきたくないのは、日教組に対する批判を止めろというのではない。何事も議論が大事だから、それはそれで良かろうと思う。問題は、日教組を批判するのなら、同時ワンセットでその何十倍も責任の重い文部省行政の告発にも向かわねばオカシイのではないのか。なぜこちらに向かわないのか、ここが不自然である、こういうことが云いたい訳である。

 2008.11.20日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評498 れんだいこ 2008/11/20
 【日教組批判考その2】

 では、文部省行政のどこがオカシカッタのか、今もオカシイのか、これについてコメントする。れんだいこが思うに、1950年代後半から始まった「教師の勤務評定制」からではなかろうか。あの縛り以来、教育現場から戦後ルネサンスの気風がきえたのではなかろうか。良かれ悪しかれ名物先生が消え、面白くない先生方が大量生産されていくことになったのではあるまいか。

 今現在のれんだいこは、「教師の勤務評定制そのもの」はあながち批判されるものではなく、それなりの尺度は要るのではなかろうかと思い始めている。だから、「教師の勤務評定制そのもの」よりも、勤務評定の中身検証即ち「より合理的な教師の勤務評定制づくり」の闘いにも向かっていくべきではなかったかと思っている。しかし、当時のニューマに於いては、そういう闘い方はなかった。左派運動全般がそうであった。体制派の押し付けとこれに反発する左派という構図の下でのイエスかノーの二者択一式闘争が全てを縛っていた。

 そういう訳で、かの時、日教組は、「文部省基準の教師の勤務評定制押し付け」を廻って闘うのではなく、「教師の勤務評定制そのもの導入阻止」で文部省と鋭角的に闘った。ここでも対抗軸は体制対反体制であった。これを全学連が支援した。この時の全学連は、宮顕が牛耳り始めた共産党が大きく変質し、統制的穏和主義運動へ誘導し始めていた日共運動と決別して、闘う全学連再創出に向かいつつあった。この連中が、砂川基地測量阻止闘争、勤務評定反対闘争、警職法粉砕闘争を通して力を蓄え、やがてブントを結成し、60年安保闘争を牽引していくことになる。それはカラリとした闘いだった。懐かしのゼンガクレンである。

 もとへ。戦後の教育行政は、この時文部省の断乎たる意思でもって導入された「教師の勤務評定制」により、教師の自由自主自律的な教育活動が大きく掣肘され始め、その統制が次第に強まり、教育現場がギクシャクし始め、その縛りが教育現場の荒廃の下地を作って行くことになった。その定向進化の果てが現在の教育腐敗、荒廃に至っているのではなかろうか。れんだいこは、そういう風に考えている。

 今でも思う。れんだいこが教師なら、江戸期の寺小屋風な師匠の教育をしてみたい。最低限の読み書き算盤を教えた後は、これと思う教材を見つけ、例えば大塩平八郎の檄文だとか五箇条のご誓文だとか聖徳太子の17条憲法だとか、リンカーン演説だとか、こたびのオバマ勝利演説だとか、日本国憲法だとかを徹底的に読み合わせ、和文、漢文、英文で鍛え、もって思案を良くするような指導をしてみたい。結果的にこの方が子供の学習能力が向上しよう。あるいは子供から教えられることもあろう。歌を教材にするのも良い。その他いろんな工夫が考えられよう。こういう教育現場を創ってみたい。

 文部省がこういう教育をできなくしたところに、日教組がこういう教育を憧憬しなかったところに、今日の教育現場の荒廃と腐敗が始まったのではなかろうか。現場が面白くないと堕落が始まるのは世の倣いである。これを人材論で言えば、政治派、思想派、学究派の教師を生息しにくくさせ、代わりにえこひいき派、出世機会主義派、塾派、金儲け派、受験派、無気力派、偏執エロ派、不倫派、御身安泰派を引き立て、そういう連中を庇護登用したことが、今日の教育界の貧相を招いたのではなかろうか。

 制度を改変するたびに、あれも止めとけ、これも止めとけ、規制万歳を強めることになった。一々ご無理ごもっともの規制であろうが、その積み重ねが劇的変化して異様な副産物を生む。この路線の長い蓄積の結果今や、教育現場にイジメ、青少年犯罪の粗暴性、能力低下、不登校、引きこもり等々様々な問題が発生しているのではなかろうか。

 これを日教組批判で片付けられる者が居たら、よほどおめでたい御仁と云わねばなるまい。そういうことを主張する者が文部省の大臣になったら、教育界の混乱と荒廃がますます進む。首相になったら、日本を何もかも壊してしまう。我々が痛みに堪えるのは未来が良くなるからであり、悪くなる一方のシナリオに堪える必要はなかろう。しかし、そういう首相が名宰相と囃し立てられる。今は降りているから止めるけど、無茶苦茶な狂人ではあった。

 田母神航空幕僚長論文舌禍事件に関連して日教組問題にも言及してみたくなったのだが、何事も言いたいことを言えるのは言えない環境よりは良いとして、言い合える環境づくりに向かうべきではなかろうか。当然右からだけではなく左からも云えるようにしなければならない。右からはオッケー、左からはダメと云うのでは片手落ちだろう。

 こたびの問題は、右からの攻撃であった。我々は、この攻撃を認めよう。故に、我々の攻撃をも許容せよ。この問いに、田母神がどう答えるのか聞いてみたいところである。いずれにしても、こたびは論文である。論文ぐらいは、そういう風に言い合える環境を作るべきではないのか。立場上と云う問題はある。しかし、論文は認められても良いのではなかろうか。

 こう考えると、政府見解と異なる現場指導の方が重責だろう。これが見逃され、論文に目クジラするのは逆ではなかろうか。そして、こういう事件が起こると、二度と勝手なことができないように封殺せよと智恵を絞り始める。最近の論調はどれもこれも何もかも何か違うだな。「饒舌無内容、肝腎なことへの失語症」の域から脱し得ていない。そういう気がしてならない。これを、れんだいこの「日教組批判の批判考」とする。

 提言として、批判を浴びた当事者の日教組が主唱者として、「どうする教育」の一大国民的議論運動の環を創出せよ。大臣から仕掛けられたのであるから、政府の責任で場を設けさせよ。こういう闘いが欲しいんだな。チェンジは海の向こうばかりでは詰まらない。

 2008.11.20日 れんだいこ拝




(私論.私見)