1995、1996、1997、1998、1999年平和宣言

 (最新見直し2007.8.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここに「1995、1996、1997、1998、1999年平和宣言」を収録しておくことにする。

 2007.8.7日 れんだいこ拝


【1995.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

原子爆弾による広島壊滅の日から五十年が経過した。あの日をしのび、犠牲者の御霊に心から哀悼の意を表するとともに、高齢化が目立つ被爆者の苦難を思い、改めて核兵器の開発と保有は人類に対する罪であることを強く訴える。

この半世紀の間、私たちは原子爆弾がもたらした人間的悲惨、とりわけ放射線被害という人類史上初めての惨禍を広く世界へ知らせ、核兵器の廃絶を一貫して呼びかけてきた。しかし、国家間の不信は根強く、核兵器はなお地球上に大量に蓄積され、私たちの願いに正面から立ちふさがっている。核兵器の保有を国家の力の象徴と考える人達がいる現実に、私たちは深い悲しみを覚える。

原子爆弾は明らかに国際法に違反する非人道的兵器である。どこの国であれ、また、いつの時代であれ、核兵器がある限り、広島・長崎の悲劇が再び地上に現出する。それは人類の存在を否定する許されない行為である。

人類が未来に希望をつなぐためには、今こそ勇気と決断をもって核兵器のない世界の実現に取り組まなければならない。私たちは、その第一歩として核実験の即時全面禁止とアジア・太平洋における新たな非核地域の設定を求める。日本政府は、日本国憲法の平和主義の理念のもとに、非核三原則を高く掲げ、核兵器廃絶に向けて先導的役割を果たすべきである。また、核時代の証人である内外の被爆者に対する暖かい援護について一層の努力を要請する。

核兵器の保有は決して国家の安全を保障するものではない。また、核兵器の拡散や核技術の移転、核物質の流出も人類の生存を脅かす。それらは人権抑圧、飢餓・貧困、地域紛争、地球環境の破壊などとともに平和を阻む大きな要因である。

現代は地球の安全保障を考えなければならない時代である。私たちは国家の枠を超えて人間として連帯し、英知を結集し、平和を築くために行動していきたい。

第二次世界大戦終結五十年を迎えるにあたって、共通の歴史認識を持つために、被害と加害の両面から戦争を直視しなければならない。すべての戦争犠牲者への思いを心に深く刻みつつ、私たちは、かつて日本が植民地支配や戦争によって、多くの人々に耐えがたい苦痛を与えたことについて謝りたい。

記憶は過去と未来の接点である。歴史の教訓を謙虚に学び、次代を担う若い世代に原爆や戦争の悲惨さを語り継いでいくとともに、平和の基礎となる人間教育に力を傾けたい。生命と人権が何よりも大切にされる社会にこそ、若い世代は限りない希望を抱くであろう。

被爆五十周年の平和記念式典にあたり、核兵器の廃絶と平和な世界の実現に向けて、今後も努力を続けていく決意をここに表明する。


1995年(平成7年)8月6日


広島市長  平  岡  敬

長崎平和宣言

1995年(平成7年)

 1945年8月9日午前11時2分、この地の上空でさく裂した一発の原子爆弾は、猛烈な熱線と爆風と恐るべき放射線を放ち、まちは一瞬のうちに廃墟と化しました。
  るいるいと横たわる黒こげの死体。水を求め、家族を探し、さまよい歩く人々。辛うじて命をとどめた人々も、心と身体に生涯消えることのない深い傷を負いました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。この世の終わりを思わせる惨状がそこにありました。

1.被爆50周年を核兵器廃絶元年に
  あの日から50年。被爆者は年老い、被爆体験の風化が急速に進みつつあります。戦後生まれの世代が市民の七割にも及ぶ今日、戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさ、そして平和の大切さを、若い世代にいかに継承していくかが、問われています。
  本年1月、スミソニアン原爆展が中止となり、原爆投下に対する日米の認識の違いが浮き彫りになりました。私たちの声は、果たして世界の人々に届いていたのでしょうか。
  長崎市で6月に開かれた国連軍縮会議において、核兵器廃絶が議題に取り上げられました。しかし、市民の願いとの間には、大きな壁がありました。
  長崎の声を世界に届け、この壁を突き破るため、被爆50周年を「核兵器廃絶元年」として新たな出発をしようではありませんか。

2.直ちに核実験を中止し、人類生存の道しるべを
  本年5月、核不拡散条約再検討・延長会議において、同条約の無期限延長が決定されました。この決定は、5か国による核兵器保有を永久化するものであり、私たちは決して容認できません。また、来年までに核実験全面禁止条約交渉を終え、条約発効まで実験を自制することが合意されたにもかかわらず、その直後、中国が核実験を強行し、フランスが実験再開を決定、アメリカでの同様な動きも明らかとなりました。核保有国はシミュレーションによる核実験技術の完成を急いでおり、核兵器開発への執着はいささかも衰えていません。
  私たちは、核保有国が直ちに核実験全面禁止条約を締結し、核兵器廃絶に向けタイムスケジュールを設定し、具体的交渉をはじめるよう求めます。
  また、地球環境を守り人類生存の道を残すため、国連は、兵器用核物質の生産禁止、生物・化学兵器の廃絶、そして通常兵器の軍縮に取り組むべきであり、我が国も国連の場で主動的役割を果たすべきであります。

3.過去の歴史を教訓としてアジアとの共生を
  今年は第二次世界大戦終結50周年でもあります。私たちは、アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、厳しい反省をしなければなりません。私たちの反省と謝罪がなければ、核兵器廃絶の訴えも世界の人々の心に届かないでしょう。
  日本政府は、過去の歴史を教訓とし、アジア諸国の人々と共有できる歴史観をもって、世界平和の構築に努力してください。
  世界で最初の被爆国として、我が国は、核兵器使用が国際法違反であることを国際司法裁判所で明確に主張するとともに、非核三原則を法制化し、アジア太平洋非核地帯の創設に努めるべきであります。また、被爆者の実情に目をむ向け、被爆者援護の更なる充実を図るとともに、外国人被爆者にも援助の手を差し伸べることを日本政府に求めます。

4.被爆の実相を学び平和な未来を
  戦後、日本では戦争のない平穏な時代が続き、国民のたゆまぬ努力により経済的に大きな発展を遂げました。しかし、世界には、戦争や紛争のために、教育を受けることも日々の糧を得ることも困難で、また明日の生命さえも不確かな、平和とは程遠い生活を送っている子供がたくさんいます。
  私は戦後生まれの世代です。私たち戦争や原爆を知らない世代は、体験された方々の声に耳を傾け、戦争に至った歴史、戦争の悲惨さ、被爆の実相を学び、人類と核兵器は共存できないことをしらなければなりません。皆さん、平和な未来をつくるため、世代や国を超えてともに努力しましょう。

5.新たなたびだちへの第一歩を踏み出そう
  被爆者は、家族・友人を失った悲しみを乗り越え、自ら後遺症の苦しみと闘いながら今日を迎えました。被爆者にとって次の五十年はありません。被爆者は、「私たちの生きているうちに核兵器の廃絶を」と願っています。道は険しくてもあきらめてはなりません。
  長崎市は、写真・映像・通信ネットワークを通じて、被爆の実相と平和の願いを世界に発信するとともに、このたび日本政府が提唱した「核軍縮セミナー」の誘致と「国連軍縮会議」の再誘致に向けて努力します。

  ここに、原爆で亡くなられた方々と全ての戦争犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、核兵器廃絶と世界恒久平和実現のため、新たな一歩を力強く踏み出すことを国の内外に宣言します。

1995年(平成7年) 8月9日
長崎市長 伊藤 一長


【1996.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】
 

平和宣言 

どれほど歳月を重ねても、人びとの心から広島の記憶は消えない。

あの惨禍から半世紀あまり、世界はいまだに核兵器の脅威のもとにある。しかし、私たちは絶望することなく、繰り返し「人類と核兵器は共存できない」と訴える。

核大国は東西両陣営の対立が終わったいまも、核兵器を持ち続けているが、他者への不信、疑念が招く軍事力への依存は、決して私たちの安全を保障するものではない。紛争、貧困、差別などに軍事力が絡むとき、平和は崩れる。核兵器は平和を阻むあらゆる暴力の象徴である。

国際司法裁判所は、一般論ながら「核兵器使用の違法性」を明言した。核兵器廃絶を求める国際世論は徐々に、しかも着実に広がっている。この潮流のなかで、私たちは、新たな包括的核実験禁止条約の合意によって、これまで二千回以上も続けられてきた核爆発が禁止され、これが核実験の全面禁止へつながることを期待している。反面、核兵器廃絶への道筋が見えない現状では、核大国の核兵器固定化に大きな不安を抱かざるを得ない。

私たちは次の段階で、世界の人びとと連帯して核兵器使用禁止国際条約の実現を目指し、国内では非核武装の法制化を強く求める。

平和の達成へ向けて急がねばならないのは、世代や国の違いを超えて、人類史上初めての被爆の実相を語り継ぎ、広く世界の人びとに伝えていくことである。そのためには、被爆の惨禍が生んだ広島の生と死の経験を、すべての人びとの心に感動を呼び起こすまでに昇華し、この平和文化を永遠の人類共有財産に加えなければならない。

また一方で、多様な被爆資料の集大成が必要である。戦時や被爆の事実から遠くなった若い世代には、被爆体験談や被爆資料から得る感動を大切にし、想像力を働かせてほしいと思う。

同時に、高齢化する内外の被爆者のためには、実態に沿った援護の方策を求めていきたい。

きょう被爆五十一周年を迎え、ここに原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げ、あらためて核兵器廃絶と平和への絶えざる努力を誓う。あわせて、日本人が刻んできた歴史を十分に学び、日本国憲法の精神のもと、市民とともに、こぞって創造的で希望に満ちた平和都市・広島を築いていく決意を表明する。


1996年(平成8年)8月6日


広島市長  平  岡  敬

長崎平和宣言

1996年(平成8年)

 私たちは忘れません。あの日、この地を襲った原子爆弾は、すさまじい熱線と爆風、そしておそるべき放射線を放ち、人々は身を守るすべもなく傷つき、死に絶えていきました。まちは破壊され、焼き尽くされました。かろうじて死を免れた人々も、孤独と不安の中で人間らしく生きることさえできず、今なお放射能後障害と死の恐怖に脅える日々を過ごしています。あの惨禍から51年。歳月は流れても、あの日の長崎を、私たちは語り伝えなければなりません。

1.過去の歴史を反省し、長崎の願いを世界へ
  人類の歴史をふり返ってみると、戦争は、幸福と平和を得る手段として何の解決にもなりませんでした。まして核兵器は、人類滅亡の危険をもたらす恐るべき兵器であります。そのことを世界中の人々に知ってほしいのです。
  私たちは、過去の戦争におけるアジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、反省と謝罪の気持ちをもって、あらゆる人々と連帯し、新たな戦争犠牲者や核被害者が生み出されることのないよう努力しようではありませんか。

2.今こそ核実験の禁止から核兵器のない世界へ
  ジュネーブ軍縮会議において進められてきた核実験全面禁止条約交渉が最終局面を迎えています。しかし、核爆発実験が禁止される一方で、コンピューターシミュレーションによる実験が除外されるなど、核兵器開発の余地が残される内容となっています。私たちは、核兵器開発につながるあらゆる実験の禁止を求め、さらに訴え続けなければなりません。
  国連は、1946年、最初の決議として「原子兵器廃絶決議」を採択し、1961年には「核兵器の使用は人類と文明に対する犯罪である」と指摘しました。この歴史的原点に立ち返り、今こそ国際社会に対する指導制を発揮するよう求めます。
  昨年11月、私は国際司法裁判所において、核兵器の使用は国際法に違反すると訴えました。本年7月8日、同裁判所は自衛目的についての判断はしませんでしたが、核兵器の使用と威嚇は実質的に「国際法に違反する」との勧告的意見を出しました。そして、国際社会に向けて「核軍縮につながる交渉を誠実に行い、完了させる義務が存在する」と明言しています。私たちはこの勧告的意見を積極的に受け止め、核兵器廃絶条約の実現を目指して前進しなければなりません。
  本年4月、中南米、南太平洋、東南アジアに続き、アフリカでも非核地帯条約が結ばれました。国際社会が手を結ぶことにより、核兵器を排除する平和的手法に学び、北東アジア非核地帯の創設を急がねばなりません。日本政府は、兵器用核物質の生産禁止と核兵器解体に伴う核物質の国際管理体制の確立など、非核保有国による反核包囲網づくりに向け、先導的役割を果たしてください。

3.21世紀の平和の担い手たちへ
  若い世代の皆さん、今日の平和で豊かな私たちの生活は、多くの人々の努力と犠牲の上に成り立っているということを知ってください。世界には飢餓、貧困、難民、人権抑圧、地球規模の環境破壊など、平和を妨げる様々な問題があることを学び、平和を築くために自分に何ができるかを考え、進んで行動してください。
  長崎市は、被爆50周年を機に、本年4月新しい原爆資料館を開館しました。さらに、平和公園一帯が「ナガサキ平和学習」の場となるよう整備を進め、21世紀の平和の担い手が育つよう人材の育成に努めます。
  市民の皆さん、原爆の恐ろしさ、戦争の悲惨さ、平和の大切さ、そして生命の尊さを若い世代に語り伝えようではありませんか。

4.核抑止に立ち向かい平和の輪を広げよう
  核兵器を持つことによって他国を威嚇し、自国のみの安全を守ろうとする「核抑止」の考え方が私たちの前に立ちふさがっています。しかし、半世紀にわたり核兵器のない世界を訴え続けてきた長崎の声は、今、確かな足どりで広がりつつあります。
  長崎市は、これからもあらゆる手段を通じて平和の願いを発信し続けます。今こそ私たち市民は手を携え、被爆地長崎から世界中に平和の輪を広げようではありませんか。
  日本政府は、人類最初の被爆国として世界平和構築に努力する責務があります。核兵器は人類と相いれない存在であることを伝えるため、独自の原爆展を開催してください。高齢化していく被爆者に対し援護の一層の充実を図り、外国人被爆者にも同様の責任を果たさなければなりません。

  51回目の原爆の日にあたり、原爆でなくなられた方々の無念の思いを胸に、犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、被爆都市長崎市民の名において、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けてまい進することを国の内外に宣言します。

1996年(平成8年) 8月9日
長崎市長 伊藤 一長


【1997.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

五十二年前のきょう、広島市の上空で原子爆弾が爆発した。一瞬、天は千の太陽よりも明るく光り、巨大なきのこ雲が立ちのぼった。火の海の中で、多くの人が死に、放射線障害は生き残った者を苦しめている。

その事実は、今世紀に入って飛躍的に発達した科学技術文明のあり方に強い疑問を抱かせる。科学技術は、人間の生活に快適さ、便利さをもたらしたが、広島・長崎での大量殺りくの手段にも使われた。核兵器は人類の生存を危うくしただけではなく、それを生み出した文明は、地球環境にも大きな影響を与えるに至った。

広島は、核兵器が今なお地球上から消え去っていないことに、強い憤りを覚えるとともに、文明の未来に大きな不安を持つ。

国際社会は、包括的核実験禁止条約の調印によって、核爆発を伴う実験の禁止に合意したものの、条約発効までの道はなお険しく遠い。そのような折、米国は条約に触れないと主張して「臨界前核実験」を実施した。一方で、核兵器削減を約束しながら、他方で核実験に固執する態度は、人類共存の英知を欠くものと言わざるをえない。核兵器こそは、戦争に代表されるあらゆる暴力の頂点に位置するものである、とあらためて世界に訴える。

現在、広島で開催中の第4回世界平和連帯都市市長会議では、「核兵器なき世界」を目指して、核兵器使用禁止条約の締結、非核地帯の拡大を各国政府、国際機関に求める討議を進めている。広島は日本政府に対して「核の傘」に頼らない安全保障体制構築への努力を要求する。

世界の国々、とりわけ近隣諸国民との間には、言語、宗教、習俗などが異なるだけではなく、歴史認識の違いも存在する。私たちは、世界の人々と率直な対話を進めることによって、明日への希望を共有したいと願う。

世界が激しい転換期に入っている今日、私たちは暴力、破壊、死と結びつく原爆被害の実相とともに、絶望的な悲惨を体験しながらも、なお未来へ向かおうとする人間の営みと生命のかがやきを、国の内外へあらゆる機会を通じて伝えていきたい。広島の体験が再生の過程で生み出した平和の文化は、人類の希望の灯である。そして、「原爆ドーム」の世界遺産化は、核兵器を否定する人たちの願いの象徴である。

いま平和記念日を迎え、犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、年ごとに高齢化していく内外の被爆者に対し、実態に即し、心のかよった援護の方策を求めていきたい。

「戦争は人の心から起こる、ゆえに平和の砦は人の心の上に築かれねばならない」- このユネスコ憲章の一節を胸に刻み、広島の決意とする。


1997年(平成9年)8月6日


広島市長  平  岡  敬
 


 
 

長崎平和宣言

1997年(平成9年)

 一発の原子爆弾はすさまじい熱線と爆風、そしておそるべき放射線を放ち、無差別に人々を殺傷し、一瞬にしてまちを破壊しました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。長崎はまさに原爆地獄と化しました。被爆者は、今なお心の傷を引きずりながら、原爆後障害や病気への恐れと不安に苦しんでいます。私たちは8月9日を永遠に忘れません。

  私たちは原爆の恐ろしさと戦争の悲惨さを忘れません。
  被爆から52年。原爆投下を正当化しようとする考えがいまだに存在することは、長崎市民にとって許しがたいことです。私たちはこれからも、原爆の恐ろしさと非人道性を強く訴え、「ナガサキを最後の被爆地に」との願いを世界の人々に訴えていきます。
  同時に私たちは、日本のアジア・太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、反省しなければなりません。今年は日本国憲法施行50周年です。憲法の平和理念の上に立ち、戦争の防止と人類の平和のためさらに努力します。

  私たちは臨界前核実験の中止と核兵器廃絶条約の締結を求めます。
  昨年9月10日、国連総会において、包括的核実験禁止条約が圧倒的多数で採択されました。この条約により、すべての核爆発実験が禁止されることは、核軍縮への重要な一歩であります。
  しかし、アメリカ政府は本年7月2日、かねて計画していた臨界前核実験を実施しました。この実験は、核爆発を伴わないものの、核兵器を保有し続けるための実験であり、「核抑止」政策に固執するものです。私たちは、世界の批判を無視して臨界前核実験を強行したことに強く抗議し、核兵器に関するあらゆる実験の中止を求めます。
  昨年7月8日、国際司法裁判所は「核兵器の威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見を発表しました。その後、かつて核戦略にかかわった科学者や旧政府関係者、退役将軍らによる核廃絶に向けた提言が相次いで出されました。核兵器廃絶を求める国際世論は大きな盛り上がりを見せています。今こそ核保有国をはじめすべての国々は、世界の声に耳を傾け、直ちに核兵器廃絶条約の締結に向け行動を起こすよう強く要請します。

  私たちは21世紀の平和の担い手たちに訴えます。
  若い世代のみなさん、原爆の被害や戦争の悲惨さについて学び、平和の大切さと命の尊さについて考えてください。そして、学校や家庭で積極的に話し合ってください。また平和を妨げている飢餓、貧困、難民、人権抑圧、環境破壊などの問題に関心を持ち、21世紀を平和な時代にするため、ボランティア活動など自分ができることから行動に移そうではありませんか。
  長崎市は、これからも原爆資料館と平和公園一帯を「ナガサキ平和学習」の場として活用し、被爆に関する証言、記録、映像など資料の収集・整備に努めます。また、国内外の青少年の平和交流と国際理解教育をさらに推進します。

  私たちは「ナガサキの声」を世界に発信し、平和のネットワークを広げます。
  長崎市民は、あの悲惨な被爆体験から、被爆の実相を「ナガサキの声」として世界に発信してきました。その間、世界では数多くの戦争や地域紛争が行われていますが、核兵器が使用されなかったことは、被爆地長崎をはじめ世界の人々の平和への願いの結集によるものと考えます。
  日本政府は、被爆国として毅然たる姿勢で、臨界前核実験に反対してください。また、非核三原則を法制化し、北東アジアの非核地帯の創設に積極的役割を果たすことを求めます。そしてすべての被爆者に手厚い援護の手を差しのべ、核実験や原子力発電所事故などによる世界の各被害者の救済・支援にも努力してください。
  国連には、21世紀の核兵器廃絶への道筋をつくるために、第4回国連軍縮特別総会を1999年に開催し、被爆都市の市長と被爆者代表に演説の機会を設けるよう要請します。
  長崎市は、当地で開催中の第四回世界平和連帯都市市長会議の参加者を初め、平和を願う世界の都市や非政府組織(NGO)と手を携え、反核・平和のネットワークを広げていきます。

  被爆52周年にあたり、原爆で亡くなられた方々のごめい福を心からお祈りいたします。ここに私は長崎市民の名において、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、新たな気持ちでまい進することを国の内外に宣言します。

1997年(平成9年) 8月9日
長崎市長 伊藤 一長


【1998.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

広島の惨劇から五十三年たったいま、国家相互の不信感は依然として根強く、世界は新たな危機に直面するに至った。

インド、そしてパキスタンの相次ぐ核実験強行によって、南西アジアの緊張は極度に高まり、核拡散防止体制は根底から揺らいだ。核兵器の非人道性を一貫して世界に訴え、その廃絶を求め続けてきたヒロシマは、両国の核実験に激しい憤りを覚えるとともに、これが核軍備競争の連鎖反応を誘発することを懸念する。

このような事態を招いた背景には、核保有五か国が核抑止論に固執し、核拡散防止条約で義務づけられた核軍縮が遅々として進んでいない現実がある。核保有国の指導者は、国益のみならず、人類の未来に思いを馳せて、一刻も早く国際社会に対する責任を果たさなければならない。

人類は、今こそ新たな英知と行動を求められている。世界各国は、先年、国際司法裁判所が示した勧告的意見の精神に沿って、核兵器廃絶への一段階として、核兵器使用禁止条約の締結交渉を直ちに開始すべきである。

私たちは、史上初の被爆体験を持つ日本の政府が、世界の先頭に立って、すべての核保有国に対し、核兵器廃絶への実効ある行動を起こすよう強く要請する。同時に、私たち国民一人ひとりも、核兵器に頼らぬ安全保障の方策を真剣に考えねばならないと思う。

地球上には、今日、核実験などによる多くの被害者が存在する。この事実をヒロシマと重ね合わせるとき、核時代を生きる私たちの課題がみえてくる。ヒロシマは、国家を超えて都市・市民の連帯の輪を広げ、そのネットワークによって国際政治を動かし、核兵器のない世界を実現させたい。

これまでにもヒロシマは、草の根交流、国の内外でのさまざまな原爆展、世界平和連帯都市市長会議などを通じて、平和を築く国際世論の醸成に努めてきた。そして、今春、広島平和研究所を設立し、国際社会の未来を切り開くための活動を開始した。それらはすべて「平和首都」を目指すヒロシマの意志の表われである。

「何人も、生存、自由、および身体の安全を享有する権利を有する」-『世界人権宣言』が定められて五十年、人類を破滅へと導く核兵器の現状をみるとき、私たちは改めて科学技術文明のあり方を問い直すとともに、思いを新たにして、何よりも人間の生きる権利を優先させる国際社会をつくってゆかねばならない。

本日、五十三回目の平和記念日を迎えて、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げる。併せて、内外の被爆者に対し、実態に即した、心のかよった援護を求める。

すべての国家が、自国の安全を核戦力に依存する愚かさから一日も早く脱却するよう、私たちは、核兵器否定の精神を胸に行動していく決意を表明する。


1998年(平成10年)8月6日


広島市長  平  岡  敬

長崎平和宣言

1998年(平成10年)

 核兵器、それは人類の滅亡をもたらすものです。今から53年前、8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾が、ここ長崎市の上空500メートルでさく裂しました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。この世の地獄とも言うべき惨状でした。辛うじて生き延びた人々も、あの日の出来事が心の傷として残り、今なお原爆後障害に苦しみ、孤独と不安の日々を送っています。わたしたちは、あの8月9日を決して忘れません。
  「ナガサキを最後の被爆地に」との願いは、多くの人々を動かし、核兵器廃絶の声を世界へ広げました。国際司法裁判所が、核兵器の威嚇と使用は実質的に国際法に違反するとの勧告的意見を示し、世界中に核軍縮への期待が高まり、核兵器廃絶の具体的提言が相次ぎました。ところがこの5月、インドとパキスタンが核実験を強行したのです。わたしたちの心はさらに傷つき、痛みました。そして、核軍縮の努力を怠り、核兵器独占体制を正当化し、核抑止政策を保持しようとする核保有五か国の姿勢にも、強い怒りを覚えずにはいられません。
  核兵器拡散が現実のものとなり、世界はまたも核兵器開発競争の危険に直面しています。わたしたちは、今こそ核兵器全面禁止条約の早期締結を強く求めます。核保有国を含む世界の指導者は、核兵器の開発、実験、製造、配備、使用を禁止し、現在保有するすべての核兵器を解体し廃棄することを、直ちに宣言してください。そして、そのための条約締結の交渉を始めるべきです。21世紀を核兵器のない時代とするため、20世紀中に核兵器廃絶への道筋をつけること、これが、わたしたちの願いです。
  日本政府に求めます。非核三原則を法制化し、北東アジア地域の非核地帯化実現に努力して、「核の傘」に頼らない真の安全保障を追及してください。被爆国として被爆の実相と核兵器の脅威を世界に伝え、核兵器廃絶のために主導的な役割を果たしてください。年々高齢化する被爆者の援護の充実に努めてください。アジア・太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、その反省の上に立って、アジア諸国と歴史認識について率直に話し合い、信頼と相互理解に基づく新しい友好関係を一日も早く築いてください。
  若い人たちに求めます。今年は世界人権宣言50周年です。戦争の悲惨さと平和の大切さ、命の尊さを考え、学校や家庭で話し合ってください。飢餓、貧困、難民、人権抑圧、環境破壊など、平和を脅かす問題を、自分の問題としてとらえてください。その解決のために、異なる文化、異なる価値観、そして他の人との違いを認め合い、自分にできることから勇気をもって行動してください。
  わたしたちは、本年11月の国連軍縮長崎会議および来るべき第四回国連軍縮特別総会が核兵器廃絶への大きな一歩となるよう努力します。
  被爆53周年にあたり、原爆でなくなられた方々のごめい福を心からお祈りいたしますとともに、ここに長崎市民の名において、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けてさらに努力することを、国の内外に宣言します。

1998年(平成10年) 8月9日
長崎市長 伊藤 一長


【1999.8.6広島原爆忌:平和宣言(全文) 】

平和宣言 

戦争の世紀だった20世紀は、悪魔の武器、核兵器を生み、私たち人類はいまだにその呪縛(じゅばく)から逃れることができません。しかしながら広島・長崎への原爆投下後54年間、私たちは、原爆によって非業の死を遂げられた数十万の皆さんに、そしてすべての戦争の犠牲者に思いを馳(は)せながら、核兵器を廃絶するために闘ってきました。

この闘いの先頭を切ったのは多くの被爆者であり、また自らを被爆者の魂と重ね合わせて生きてきた人々でした。なかんずく、多くの被爆者が世界のために残した足跡を顧みるとき、私たちは感謝の気持ちを表さずにはいられません。

大きな足跡は三つあります。

一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。若い世代の皆さんには、高齢の被爆者の多くが、被爆時には皆さんと同じ年頃だったことを心に留めていただきたいのです。家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々(ししるいるい)たる瓦礫(がれき)の中、生死の間(はざま)をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意思と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。

二つ目は、核兵器の使用を阻止したことです。紛争や戦争の度に、核兵器を使うべしという声が必ず起こります。コソボでもそうでした。しかし、自らの体験を世界に伝え、核兵器の使用が人類の破滅と同義であり、究極の悪であることを訴え続け、二度と過ちを繰り返さぬと誓った被爆者たちの意思の力によって、これまでの間、人類は三度目の愚行を犯さなかったのです。だからこそ私たちの、そして若い世代の皆さんの未来への可能性が残されたのです。

三つ目は、原爆死没者慰霊碑に刻まれ日本国憲法に凝縮された「新しい」世界の考え方を提示し実行してきたことです。復讐(ふくしゅう)や敵対という人類滅亡につながる道ではなく、国家としての日本の過ちのみならず、戦争の過ちを一身に背負って未来を見据え、人類全体の公正と信義に依拠する道を選んだのです。今年5月に開かれたハーグの平和会議で世界の平和を愛する人々が高らかに宣言したように、この考え方こそ21世紀、人類の進むべき道を指し示しています。その趣旨を憲法や法律の形で具現化したすべての国々そして人々に、私たちは心から拍手を送ります。

核兵器を廃絶するために何より大切なのは、被爆者の持ち続けた意思に倣って私たちも、「核兵器を廃絶する」強い意思を持つことです。全世界がこの意思を持てば、いや核保有国の指導者たちだけでもこの意思を持てば、明日にでも核兵器は廃絶できるからです。

強い意思は真実から生まれます。核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪だという事実です。

意思さえあれば、必ず道は開けます。意思さえあれば、どの道を選んでも核兵器の廃絶に到達できます。逆に、どんなに広い道があっても、一歩を踏み出す意思がなければ、目的地には到達できないのです。特に、若い世代の皆さんにその意思を持ってもらいたいのです。

私たちは改めて日本国政府が、被爆者の果たしてきた役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、すべての施策に優先して核兵器廃絶のための強い意思を持つことを求めます。日本国政府は憲法の前文に則(のっと)って世界各国政府を説得し、世界的な核兵器廃絶への意思を形成しなくてはなりません。地球の未来のために、私たちが人間として果たさなくてはならない最も重要な責務が核兵器廃絶であることをここに宣言し、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。


1999年(平成11年)8月6日

 
広島市長  秋  葉  忠  利

長崎平和宣言

1999年(平成11年)

 核兵器、それは人類の滅亡をもたらすものです。54年前のきょう、8月9日午前11時2分、私たちのまち長崎は、ただ一発のプルトニウム型原子爆弾によって一瞬のうちに廃虚と化しました。数千度の熱線、強烈な爆風、恐るべき放射線に襲われた無数の人々がもだえ死にし、かろうじて生き延びた人々は、半世紀たった今もなお、心と体の傷をかかえて、不安と孤独に苦しんでいます。
  私たちは、この地獄のような体験から、核兵器は絶対に許せないと考え、それ以来、核兵器の廃絶を世界に向けて訴え続けてきました。
  昨年5月のインドとパキスタンの地下核実験以降、核兵器をめぐる世界の情勢は緊張の度合いを高め、ユーゴスラビア空爆に際して、NATO(北大西洋条約機構)側が核兵器使用を示唆したように、世界は危険な道をたどろうとしています。核保有国は、今なお時代錯誤の核抑止論に固執しています。
  しかし、21世紀に向けた力強い動きも始まっています。「アボリション2000」や「ハーグ世界市民平和会議」など、核兵器廃絶をめざすNGO(非政府組織)の積極的な活動と平和を願う国際世論の高まりがあります。これらの力の結集が各国政府を動かす時、核兵器の廃絶は必ず可能です。私たちは、20世紀を生きてきた人類の責任として、核兵器全面禁止条約の早期締結を訴え、世界の国々の指導者に対し、「核兵器廃絶宣言」を今世紀中に行うよう強く求めます。
  今なお、地球上では戦争や地域紛争が後を絶ちません。これは、武力に訴えて自分たちの主張を通そうとする行いであり、最大の人権侵害、環境破壊です。私たちは、武力に頼らずに平和を築くこと、民族、宗教、文化の違いを互いに尊重し、認め合い、対話によって信頼を培うことの大切さを、世界に訴えます。
  次に日本政府に求めます。昨年12月に国連総会で採択された、核兵器廃絶への具体的提案である「新アジェンダ決議」を受け入れ、被爆国として先導的役割を果たすべきです。条約締結が間近い中央アジア非核地帯に続き、北東アジア非核地帯の創設に努力し、核の傘を必要としない新たな安全保障の枠組みをつくってください。アジア・太平洋諸国に対する侵略と加害の歴史を反省し、日本国憲法の平和理念をまもることを誓い、真の相互理解に基づく信頼関係を築いてください。高齢化の進む国内外の被爆者のために、援護の充実に努めてください。
  21世紀を切りひらく若い皆さん、あなた方が生きる新世紀が平和であるために、いま何をしたらよいのか、考えてください。飢えや貧困をなくし、環境を守り、人の命を大切にして、世界中の人々が協力しあえる社会をつくるために、いまできる身近なことから、行動を始めてください。
  昨年11月、長崎で開かれた国連軍縮会議は、「長崎を核兵器の惨禍に苦しんだ世界最後の被爆地とする」ことを決議し、私たちに大きな希望を与えました。長崎には長い国際交流の歴史と悲惨な被爆体験があります。私たちは長崎を平和学習の拠点と位置付けます。被爆の実相と平和の願いを世界に発信し、世界の人々とともに平和の輪を広げます。
  被爆54周年にあたり、原爆で亡くなられた方々のごめい福を心からお祈りいたします。
  ここに、核兵器のない世界をめざし、さらに努力することを、長崎市民の名において国内外に宣言します。

1999年(平成11年) 8月9日
長崎市長 伊藤 一長






(私論.私見)