広島、長崎への原爆投下批判考

 (最新見直し2005.10.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「広島、長崎への原爆投下批判考」を確認しておく。以下、「『原爆ホロコースト』の実態」、「ホロコーストの舞台裏」その他を参照する。

 2005.10.9日 れんだいこ拝

 



【広島・長崎原爆投下やられた側の論理考】

 広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。

 「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

 第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

 第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。

 第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか」。

 広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。

 「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

 その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

 しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

 このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています」。





【アメリカの対日原爆投下に対して強い疑問を抱くユダヤ人について】

 イスラエル在住の日本人が書いたレポートである。この文章を読むと、ユダヤ人の中にも、アメリカの対日原爆投下に対して強い疑問を抱いている人がいることがわかるだろう。参考までに、どうぞ。

 ── なぜトルーマンは日本に原爆を落としたのか? ──

 イスラエルに移住して、キブツでビジネスに携わる40代のカナダ系ユダヤ人のA氏と話したときのこと。国際法にも詳しく、弁護士資格も持つA氏は、歴史には疎いといいながらも、私の妻が長崎生まれだと教えると、話題がアメリカの原爆投下の話になった。

 「日本人は原爆投下でアメリカを非難しているのか?」とA氏。「少なくとも高校までの歴史教育では、アメリカを非難する論調はなかった」と答えると、「どうして?」と不思議そうにさらに尋ねてきた。

 「日本の歴史学者は左翼が多く、戦争に導いた日本の旧指導部を非難することはあっても、原爆を投下したアメリカを非難することはあまりない」などと答えておいたが、自らを振り返り、原爆投下の功罪を大学生になって、自ら歴史を勉強するようになるまで考えることのなかった教育環境についても考えさせられた。

 「しかし、アメリカでも、本土決戦に突入した場合、アメリカ軍に50万から100万人もの犠牲者が出ると想定し、その前に原爆投下をしたことで日本の早期降伏をもたらしたとの、いわゆる原爆投下を正当化する意見もあるが…」とこちらが問い返すと、「それは詭弁だ」とA氏。

 A氏によれば、仮に原爆投下で日本を早期降伏に導くつもりなら、北海道の原野など過疎地域に原爆と落とし、その威力を日本の当時の指導部に知らしめることで十分、その目的は達せられたというのだ。

 それをわざわざ人口密集地に落とし、非戦闘員である多数の婦女子を含む一般市民を大量虐殺したのは、やはりアメリカの大きな戦争犯罪である、と指摘するのである。

 A氏の話を聞いていて、当時のアメリカ指導部(トルーマン大統領など)は、大量殺戮兵器の威力を具体的な人体実験で試してみたいという“悪魔の思想”に取りつかれていたのではないか、との考えがよぎった。そして人体実験には白人ではない日本人を選択した……。

 日本の歴史学者などは、過去の日本の悪事を暴くのに熱心だが、アメリカの原爆投下の真意なども、冷静な目で研究すべき課題ではないのか。ユダヤ人A氏との会話で、そう強く感じた。(1997年8月13日)


 ★阿修羅♪ > 原発・フッ素38」の飯岡助五郎氏の2014.5.20日付け投稿「また死んじゃうんだぜ、本丸を直視しないと。原子力利権の頂点は原爆の特許権利者だ」を転載する。

 NHKは米国公文書館スタッフの言葉を報道した。「これが日本の科学者たちが作成した原爆報告書です」。NHKのナレーターは言った。「★17000人の〈中略*〉子供たちが、原爆の殺傷能力を確かめるためのサンプルとされたのです」。「爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線〈中略〉アメリカ核戦略の礎となりました」。NHKは米国原子爆弾人体実験医学チームの医長を務めた日系アメリカ人の証言を報道した。「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。日本人(医師たち)の協力の“賜物”です。貴重な情報を提供してくれたのですから」。NHKのナレーターは言った。「65年前に失われた多くの尊い命。そして生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被爆者のために活かされることはありませんでした。世界で唯一の被爆国でありながら、自らの原爆被害に目を向けてこなかった日本。封印されていた181冊の報告書が、その矛盾を物語っています」。

 ※2010年8月6日NHK放送『封印された原爆報告書』
 http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%
9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news

 ※米国原子爆弾人体実験医学チームの医長を務めた日系アメリカ人について
 http://www.aasc.ucla.edu/cab/

 NHKは大村海軍航空隊の戦闘機乗りの本田さんの言葉を報道した。「もう死ぬまで忘れること、できないですよ。髪の毛も無ければ何にも着てない裸で、ドロドロに融けてるんです。こんな酷いことが世の中に許されるかと思って。泣けて泣けてねぇもう。〈中略〉 軍人としてもうほんとに情けないです。申し訳なくて」。NHKのナレーターは言った。「原爆投下の5時間前に、原爆機接近の情報を軍の中枢がつかんでいたという新たな事実。本田さんは66年経った今、そのことを知りました」。NHKは大村海軍航空隊の戦闘機乗りの本田さんの言葉を報道した。「わかってたん? ほんでなんで命令ださんですか、そしたら? 5時間もあったら、十分待機できたはずですよね? それが日本の姿ですかね? ★こんなことまた起きるんじゃないですかね? こんなこと許してたら」。

 ※2011年8月6日NHK放送『原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報』
 http://www.dailymotion.com/video/xkev97_%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B-%
E6%B4%BB-%E3%81%84-%E3%81%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%
E3%81%9F%E6%A5%B5%E7%A7%98%E6%83%85%E5%A0%B1_shortfilms

 昭和天皇は、大日本帝国の陸海軍の統帥者。1945年8月6日も、9日も、原爆投下を知りながら、撃墜命令も空襲警報も発令しなかった。昭和天皇は、1945年8月14日にポチダム宣言受諾を連合国に通告した。その直後、原爆の殺傷記録を医師や科学者に取りに行かせた。ただし、被爆者の治療はさせなかった。★その記録は、原爆特許を管理する米国に原爆報告書として提出された。その報告書に記された*「爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線」は、*「原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めて表したグラフ」となった。昭和天皇は、正規兵としての英国陸軍元帥であった。そのことが、1930年6月27日の英国の官報ロンドンガゼットに報じられている。
 https://www.thegazette.co.uk/London/issue/33619/page/4028


 「★阿修羅♪ > 近代史02 」の仁王像 氏の2011 年 11 月 18 日付投稿「恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』」を転載する。

 ”破壊力”とは日本を中心とした近代史に対して。ここで書かれている内容の一端はわずかながら鬼塚『日本のいちばん醜い日』にも示唆されていたが、ここまで突っ込んで来ているとは思わなかった。ノンフィクション作家、鬼塚氏の「魂」とは何であろうか。この民族の血が「氏の魂」を通して滾(たぎ)り立っているように思える。姉妹編の『原爆の秘密〔国外編〕』も合わせて読まれたい/仁王像

 『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』鬼塚英昭/成甲書房‘08年 の第一章から一部抜粋・要約

 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立
 <第二総軍設立の理由に迫る>
 ・私は第二総軍※1は最初から、すなわち鈴木内閣ができてから、終戦工作の一環としてつくられたものと思っている。終戦工作とは何か。簡単明瞭に書くならば、原爆誘導および処理のために、天皇が畑を呼びよせつくったものである、と書いておく。どうしてか。一、原爆投下情報を完全に知りながら、それを全部封印した。二、8月3日から6日にかけて。原爆投下予定地を中心に、大勢の人々を集めた。三。武器弾薬も食料もないのに、たくさんの兵を召集し、その兵たちを九州に送り込んだ。 
 ※1)本土を二分して東部を第一総軍(杉山元元帥)、西部を第二総軍(畑俊六元帥)の担当とし、予想されるアメリカ軍の九州上陸オリンピック作戦に備えていた。第二総軍は広島に本拠を置いて、準備を進めていた。

・畑元帥と大屋中佐は、刻々と変更される投下日時の把握に追われていた。それで、大屋中佐はもう一つの傍受室をつくるのである。…大屋中佐は鯉城(広島城)の近くに女性の二世を20名ばかり集めて、ブロークン・イングリッシュを解読させていたのである。彼は、この情報を有末中将※2に伝え、有末中将は同部に所属する皇弟。三笠宮崇仁中佐に伝えていたのである。テニアンから刻々と入る情報で、「8月6日8時15分」の投下時刻を正確に知ると、畑元帥と大屋中佐は大衆動員を原爆中心地近くにかけ、大阪から鹿児島までの将校たちを8月6日午前8時(これは9時に変更される)に爆心地近くの陸軍の社交場。偕行社に集まれと司令官命令を出すのである。戦争終結に導くスペクタクル・ショーの演出をやってみせるのである。
・ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの『エラノ・ゲイ』(1980年)の続きを見よう。日本とマリアナ諸島との間には1時間の時差があるから-広島のほうがテニアン島より1時間遅かった-そのラジオのテストが広島の時間で午後3時か4時頃行われるとすれば、モニターはその夜空襲があることを知り得た。モノターを傍受したテストの回数で、空襲にやってくる敵機の数をおおよそつかむことができた。モニターはその報告を上司に渡し、上司はそれを通信司令室へ送り、そこから西日本全体の防空組織へ情報が流された。それだけのことがわずか数分間でできた。

 畑元帥と大屋中佐がどれほどテニアン基地の情報を知り得る立場にあったかが、この文章を読めば理解できる。一つの謎、畑と大屋は他の誰にも知られたくない独自の情報網が必要ではなかったのか。それで鯉城近くに、わざわざ二世の女性を20人ばかり使った秘密の傍受室と応答室をつくった。そこで、テニアンにいる秘密室と直接に原爆情報のやりとりをした。第二総軍から情報が流されていたが、原爆の情報は中国軍管区に届いてはいない。原爆の情報はすべて、畑と大屋の二人で闇のうちに処理されたのである。どうしてか? 劇的な演出で、多くの広島市民に死んでもらうためである。スペクタクルが必要であった。スティムソン(陸軍長官)は天皇にそれを期待したのである。天皇の特命を受けた畑は、大屋を三笠宮と有末のもとから強引に呼び寄せ、演出を担当させたのである。原爆投下を事前に多くの人々が知っていたのである。どうして第二総軍においておや、である。※2)戦後、謀略機関で働いた連中は、ほとんどが自由の身となり、権力と富を得た。元参謀本部第二部長有末精三陸軍中将も例外ではなかった。「有末機関」をつくり、米軍に協力した。

 <原爆投下予告を確かに聴いた人々>
 (要旨)〔ロンドンのBBC放送を中継した内容のインド・ニューデリー放送は、原爆開発、投下の情報も伝えていた。それを聞いてノートに書き移す仕事をしていた少年兵がいた。VOA放送を傍受した広島逓信局勤務の無線技師の証言もある。また、「伝単」という飛行機から大がかりに散布された宣伝ビラの中にも「8月5日」、広島を大空襲する」というのがあった。広島上空で撃ち落とされた捕虜になった米兵のなかにも「近いうちに広島が全滅するような爆弾が投下される。ここにいたら死ぬ」とおびえているものがいた〕

・大屋中佐は間違いなく、「マリアナ諸島から来た上級将校(捕虜)」を手に入れた。そして情報を聞き出すと、彼らを特別の場所に隔離した。その情報は間違いなく畑元帥と共有し、そして有末中将のもとへ送られた。しかし、広島に原爆が落ちるという情報は一部の憲兵のみが知るだけで封印された。広島に原爆が落ちるよう準備するのが、大屋中佐、畑元帥に命じられた、“至高の人”からの“お頼み”であったからに他ならない。
・間違いなく広島の警察内部でも、原子爆弾の風評が広まっていたのである。もし、第二総軍の大屋角造中佐と畑俊六元帥に、アメリカの兵士が示したであろう、良心のひとかけらさえあれば、広島の惨劇も、そして長崎の惨劇も防ぎ得た可能性が大であったのだ。(以下、略)

 (関連)
 http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/624.html#c4
 http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/624.html#c5

コメント
03. 仁王像 2011年11月19日 10:08:29: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 (追加)
第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する
<日本侵攻計画と第二総軍との「不可解な暗号」>
・スティムソンは原爆を日本に確実に落とす、という約束をロックフェラー、モルガン、イギリスの金融界の面々としていた。そこでスティムソンは、原爆(ウラン爆弾とプルトニューム爆弾)が完成するまで戦争を延ばさなければならなかった。スティムソンはマーシャル参謀総長に話を持ちかけ、オリンピック作戦をつくらせた。そして、この計画をグルー(国務次官、元駐日大使)のルートで「日本の指導者の一部」に伝えた。

・NHK広島放送局原爆取材班の『原爆搭載機「射程内に在り』を続けて読む。
 「アメリカ軍がオリンピック作戦を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。…」。この8万人にものぼる軍人たちが、8月6日にほとんど被爆死するのである。生き残ったものはごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆投下中心地からごく近いところにいたからである。

<発令されなかった警戒警報>(略)

(「暗号」→「符号」の間違いではないか/引用者)

05. 仁王像 2011年11月19日 16:11:01: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 (追加)
 第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である。
 <「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く>
・1945年4月27日に、目標検討委員会の初会合が開かれた。『資料マンハッタン計画』の中の…文中に「最高指揮官」とあるのはスティムソン陸軍長官である。「いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ」と書かれている。すなわちスティムソン(ヘンリ・スティムソン=モルガン財閥の一員)が、8月6日午前8時15分に広島に原爆を落とさせたのである。トルーマン大統領は何も知らされず、ポッダムからの帰りの軍艦の中でこのことを初めて知ったのである。
15. 仁王像 2011年11月21日 20:11:18: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk

 (第ニ章から補足)
<演出された投下時間「8時15分の意味」>
・中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたか』(2001年)と、もう一冊、諏訪登『広島原爆 8時15分の意味』(2003年)を読み、私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」と。…アメリカ側と日本側は「8時15分」で合意に達していた。私が諏訪の本を読みつつ思ったのは、「8時15分」が最も劇的に、広島市民を大量虐殺しえる時間ではなかったか、ということである。歌田明弘が『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』の中で、「日本、ソ連、アメリカ国民―この三通りの観客に向けて最大の効果を発揮すべく、原爆投下という“スペクラクル”は周到に準備された」と書いている(姉妹書「国外編」でも紹介)。

 (第四章と第五章から)
第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ
<日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」>
・姉妹書の「国外編」でこう書いた。「原爆は、二種類がつくられた。その一つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう一つのプルトニーム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島、長崎への原爆投下の理由であった」。これが現実化された、そのためには落とされる側の全面協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。

第五章 見捨てられた被爆者たち
<原爆はどのように報道されたのか>
・国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による被爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついに日本政府と日本の言論機関への口封じに入るのである。国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
・国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。私がたった一人で、汚れちまった、かの時の、天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。

<国際赤十字社、もうひとつの顔>
 マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断ったのである。どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」との発言※)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
・原爆被爆者を日本赤十字は裏切ったのである。広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。
  ※)8月14日(午前)、昭和天皇が畑、永野(修身)、杉山、三人の元帥に「皇室の安泰について敵側もこれを確約しあり」と語ったことが、畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』(1992年)にある。

・2007年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。…このABCC(原爆障害調査委員会)を告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の通気ある写真家・福島菊次郎であった。彼は、天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被爆者を見捨てたことを、はっきり書いている(略)。読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように国家の生殺与奪の権と、誰に委ねたのか。その点に焦点を絞って私は書いてきた。

16. 仁王像 2011年11月21日 20:19:38: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 「通気ある」→「勇気ある」に訂正。
17. 仁王像 2011年11月22日 20:17:11: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 (第三章から補足)

<カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ>
・ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年史』(2007年)には、「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが60年を経て編集し、出版したものである。その中に「長崎港にある二つの連合軍兵士捕虜収容所におよそ1000人が収容されているが、…原子爆弾で7人のオランダ人とイギリス人一人が死んだ」とある。しかもアメリカ兵は一人も死んでいない。
・長崎ではこの(プルトニューム)爆弾が炸裂した。グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。しかし、ここで奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。(第四章に「これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう」と著者は書いている)

 >>15
 「権と」→「権を」に訂正

18. 2011年11月24日 09:55:15: AUAonEbEXQ
 イエズス会の神父達も原爆病にならなかった謎もある。
19. 2012年8月06日 10:10:26 : LALCnAtfxQ
 今朝8時からの広島平和式典の中継を見て検索し、此処に辿り着いた。この本以前立ち読みしたことがあるが、鬼塚が勝手に考えた仮説では無いのか? 昭和天皇がアメリカとそのような取引を本当にやって居たのなら、 戦後の「御巡幸」等の場であのような「立ち振る舞い」が出来ただろうか? もしもそうだったのなら昭和天皇は、欺瞞を顔に出さず国民を欺いた余程の超演技者としか思えない。普通の人間なら良心の呵責に耐えきれるものでは無い。 昭和天皇がそのような人間だったとは、どう考えても思えない。 鬼塚は、所々で昭和天皇への批判の言葉を書いているので、個人的に昭和天皇を 嫌悪し、仮説を創ったのではないのか? それと、西日本の防衛を担当した畑俊六元帥の部下諜報主任の大屋中佐が 死んで欲しくない人には耳元で「明日広島に特殊爆弾が投下される。」 とささやいて廻ったと記されているが、もし事実なら、 聞いた誰かが戦後ばらしていても可笑しくない話では無いのか? この辺りが納得出来ない詐話としか思えないが・・・。
 「★阿修羅♪ > 近代史02 」の 仁王像氏の2011.11.23日付投稿「続・: 恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』」を転載する。
(回答先: 恐るべき”破壊力”を持つ書ー鬼塚英昭著『原爆の秘密〔国内編〕~昭和天皇は知っていた』 投稿者 仁王像 日時 2011 年 11 月 18 日 21:17:05)

 第一章だけで、止めるはずだったが、読み進みながら第二章以下を前稿に断片的にぶら下がらせる結果になった。ここに整理し再アップさせていただく。また、長くなるので引用はしなかったが、第四章では湯川秀樹が俎上に上がっている。広島に原爆が落とされることが、彼のルートで8月より3か月も前の5月に入ってきて、これを聞かされた京大の学生が、両親を広島市から近郊に疎開させて難を逃れた実話が紹介されている。ノーベル賞は、少なくとも仁科芳雄と二人で授賞すべきものではなかったかとの、指摘もある。また何故、湯川が生涯「世界連邦主義者」だったのかも究明されている。これまでの湯川秀樹観を打ち砕く内容である。さらに補足すれば、鬼塚氏をここまで突き動かしてきたのは被爆者たちの手記であった。手記や記録から氏はエネルギーを供給され続けてきた/仁王像

 鬼塚「私はたくさんの記録を読んできた。…原爆患者たちの手記を記録を読んで、私は彼らから、この本を書くエネルギーと勇気を与えられ続けたのである」p168。

 第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する <日本侵攻計画と第二総軍との「不可解な暗号」>
・スティムソンは原爆を日本に確実に落とす、という約束をロックフェラー、モルガン、イギリスの金融界の面々としていた。そこでスティムソンは、原爆(ウラン爆弾とプルトニューム爆弾)が完成するまで戦争を延ばさなければならなかった。スティムソンはマーシャル参謀総長に話を持ちかけ、オリンピック作戦をつくらせた。そして、この計画をグルー(国務次官、元駐日大使)のルートで「日本の指導者の一部」に伝えた。

・NHK広島放送局原爆取材班の『原爆搭載機「射程内に在り』を続けて読む。
 「アメリカ軍がオリンピック作戦を練っていく一方、日本軍は本土決戦の体制を整えつつあった。このため創設された第二総軍をはじめとして、広島への各部隊への集中は凄まじいものがある。…」。この8万人にものぼる軍人たちが、8月6日にほとんど被爆死するのである。生き残ったものはごく少数である。これには理由がある。彼らのほとんどは、原爆投下中心地からごく近いところにいたからである。

<発令されなかった警戒警報>(略)

(「暗号」→「符号」の間違いではないか/引用者)

 <演出された投下時間「8時15分の意味」>
・中条一雄『原爆は本当に8時15分に落ちたか』(2001年)と、もう一冊、諏訪登『広島原爆 8時15分の意味』(2003年)を読み、私は一つの結論に達した。「広島原爆は完全に仕組まれていた!」と。…アメリカ側と日本側は「8時15分」で合意に達していた。私が諏訪の本を読みつつ思ったのは、「8時15分」が最も劇的に、広島市民を大量虐殺しえる時間ではなかったか、ということである。歌田明弘が『科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた』の中で、「日本、ソ連、アメリカ国民―この三通りの観客に向けて最大の効果を発揮すべく、原爆投下という“スペクラクル”は周到に準備された」と書いている(姉妹書「国外編」でも紹介)。

 第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である。
 <「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く>
・1945年4月27日に、目標検討委員会の初会合が開かれた。『資料マンハッタン計画』の中の…文中に「最高指揮官」とあるのはスティムソン陸軍長官である。「いつ、どのように出撃するかについて責任をもつ」と書かれている。すなわちスティムソン(ヘンリ・スティムソン=モルガン財閥の一員)が、8月6日午前8時15分に広島に原爆を落とさせたのである。トルーマン大統領は何も知らされず、ポッダムからの帰りの軍艦の中でこのことを初めて知ったのである。

 <カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ>
・ジョージ・ウェラー著、アンソニー・ウェラー編『ナガサキ昭和20年史』(2007年)には、「GHQが封印した幻の潜入ルポ」という副題がついている。ジョージ・ウェラーが残した記録を息子のアンソニー・ウェラーが60年を経て編集し、出版したものである。 その中に「長崎港にある二つの連合軍兵士捕虜収容所におよそ1000人が収容されているが、…原子爆弾で7人のオランダ人とイギリス人一人が死んだ」とある。しかもアメリカ兵は一人も死んでいない。・長崎ではこの(プルトニューム)爆弾が炸裂した。グローブス将軍やオッペンハイマー博士の予想を上回る成果を上げた。 しかし、ここで奇跡が起こった。爆心地から近いところにいた捕虜収容所の人々はほとんど死なず(1000人中8人が死亡)、原爆病にもかからなかったのである。(第四章に「これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう」と著者は書いている)

 第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ <日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」>
・姉妹書の「国外編」でこう書いた。「原爆は、二種類がつくられた。その一つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう一つのプルトニーム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島、長崎への原爆投下の理由であった」。これが現実化された、そのためには落とされる側の全面協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。

 第五章 見捨てられた被爆者たち <原爆はどのように報道されたのか>
・国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による被爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついに日本政府と日本の言論機関への口封じに入るのである。国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
・国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。私がたった一人で、汚れちまった、かの時の、天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。

 <国際赤十字社、もうひとつの顔>
 マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断ったのである。
 どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」との発言※)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
・原爆被爆者を日本赤十字は裏切ったのである。広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。
  ※)8月14日(午前)、昭和天皇が畑、永野(修身)、杉山、三人の元帥に「皇室の安泰について敵側もこれを確約しあり」と語ったことが、畑俊六『元帥畑俊六獄中獄外の日誌』(1992年)にある。

・2007年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。…このABCC(原爆障害調査委員会)を告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の勇気ある写真家・福島菊次郎であった。彼は、天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被爆者を見捨てたことを、はっきり書いている(略)。読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように国家の生殺与奪の権を、誰に委ねたのか。その点に焦点を絞って私は書いてきた。

コメント
01. 仁王像 2011年11月23日 16:47:52: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 (第三章から追加)

<カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ>
・『米軍資料 原爆投下の経緯』には、(小倉に続いて)長崎について詳細な工業と人口などが書かれている。…私はこの文中にある「三菱製鋼および兵器工場(目標546)と、その新しい圧延工場(目標1795)は、長崎北部の浦上川沿いに位置し、海軍の兵器工場(主として魚雷)と共に、船舶用鉄板、鋳造物などを造る造船工場と一体となっている」に注目する。ここを目標に原爆が落とされたからである。広島市は中心に落とされた。長崎は三菱製鋼に、である。
 私はこの「魚雷」が真珠湾攻撃で使用されたことと、原爆が長崎に落とされたこととは、かなり関係があると見ている。…真珠湾攻撃で最も日本側の勝利に貢献したのが三菱がつくった「魚雷」であった。スティムソンは最後の最後で、長崎のあの「魚雷」を製造した工場を投下目標にし、プルトニューム爆弾を落とさせたのではなかったか。

 (注)三菱重工長崎兵器製作所は、爆心から1.5km圏内に、浦上天主堂、長崎医科大学および付属病院は1km圏内に、長崎港にある三菱重工長崎造船所は爆心から3.5km圏内にあった。

02. 仁王像 2011年11月23日 17:38:51: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 1975.10.31、日本記者クラブでの昭和天皇の「原爆やむをえない」発言の深意も、鬼塚氏の執念の発掘をもって、はじめて深層から捉えられるのではないだろうか。またこの時の会見では、ある記者から戦争責任を問われたが、「そういう言葉のアヤについては文学的方面は研究していないので、わかりませんから」とはぐらかしている。

・昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」
 http://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A

・昭和天皇の戦争責任=日本史上最大の無責任男
 http://plaza.rakuten.co.jp/kouzen/diary/200505230000/

 (関連)
・昭和天皇の戦争責任
 http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/213.html
 投稿者 ゴジラズワイフ 日時 2005 年 3 月 15 日 18:34:34: KlbqKLPeasbcI

・恐るべき本である!-鬼塚英昭氏の著作
 http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html
 投稿者 仁王像 日時 2008 年 1 月 01 日 12:53:34: jdZgmZ21Prm8E

05. 仁王像 2011年11月24日 20:27:51: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
 本書はまた、無念の被爆死を余儀なくされたたくさんの人々、そして被爆後生き残っても受けられるはずの医療も受けられずに苦しみながら死んでいった人々への鎮魂歌でもある。 そして本書もまた、身を削るような命をかけた作業のなかから生まれたに違いない。 鬼塚英昭氏こそ真に勇気ある戦士、日本男子の鑑である。

 第六章では取材中出会った被爆者・掛井千幸さん(当時78歳)に出会い、その手記を引用し、「名文に巡り合えた。いかなる作家でも、広島のあの日、あの時を、彼女のように描けないだろう。簡潔にして的確、そして詩情が悲しみの中から漂ってくるではないか」と書く。そして「彼女は乙女のように微笑んでいた。年を超えた美しい人である。”ああなんて美しい人なんだろう”」と思い続けた、と述懐する。重い重いテーマを追及する過程で体験した数少ない「救い」であった。 (注)彼女は、爆弾炸裂直後、父母の居る広島市に入り被爆した。21日後、実家の場所で白骨化した両親を見つける。


 「★阿修羅♪ > 戦争b13」の琴姫七変化 氏の2014.8.7日付投稿「ホントウか?!日本軍中枢は原爆投下に協力したのか?ホントか??じゃ福島と日本中の被ばくと汚染は?」を転載しておく。

 ホントウか?!日本軍中枢は原爆投下に協力したのか?ホントか??福島と日本中の被ばくと汚染は?

 敗戦後、日本へ帰るある帰還船の中で、日本の島影が見え始めたとき、帰って来られなかった戦友を思い、戦友の名を挙げてあいつも・あいつもだ、死ななくて済んだのに ・ ・ ・ と、悔やむ声が湧き起きたそうだ。そして、その上官、洞窟に籠って陸士の勉強をしながら無謀な突撃命令を繰り出しては、次々に戦友を無駄死にさせた上官を批難する声が上がった。
 その上官をあげつらって、戦友のあいつが死んだのもあの誰それが死んだのも、あの上官ヤツのせいだということになって、その上官を引き摺りだしみんな担ぎ上げ、とうとう海にほうりこんでしまった・・・と直接の目撃者から私は聞いたことがある。自分は手出しをしなかった、のだそうだ。その後泳いで陸地にたどり着けたか友船に拾われたか、日本の魚の魚腹に葬られたかは知らない、とその人は語ってくれた。

 戦争に負けるとはどういうことか。(二・二六事件が起きたのは1936年・昭和11年のこと、1945年昭和20年の敗戦のちょっと前のことだった。社会改革を断行しようという人脈と下士官とが通じていたことに日本中枢部は驚き恐れ怒った。とは言え、決起の前から盗聴録音盤を作成して監視していたのだが。) (俳優は、細川俊夫、香川京子、鶴田浩二各氏だそうです)
(関係者がまだ大勢生きていた時代昭和29年に作られた映画、「叛乱」1954年だそうです。映画解説;
 http://zilge.blogspot.jp/2008/11/54_17.html )

 ところが日本の敗戦では原爆が付いてきた。(シベリア抑留も付いてきた)日本が敗戦するにあたって、米も日本の当局も、各国の敗戦の歴史を参照し研究し尽くしたであろう。敗戦した途端に兵隊どもは、食糧配給無しの、無給無職の失業者と化す。海外から帰国されても・・・社会不安の種だ、と考えた人々がいただろうか。

ちょっと外国の敗戦例を振り返っておくと~~~
(おもにウィキから)
① ロシア:敗戦で労働者兵士農民のソビエト蜂起による革命(皇帝追放と社会改革)
② ドイツ:第一次大戦講和交渉(皇帝退位問題をめぐるドイツ内抗争)、ドイツ革命1918(無謀な出撃を兵士が拒否して、それを支持する各地レーテが蜂起、ドイツ社民党による仲介と懐柔、社民党シャイデマンによる左派の機先を制した勝手な共和制宣言、右派義勇軍投入による最左派への武力弾圧と、ドイツ敗北についての匕首伝説流布など右派の勢力伸長と経済悪化)  オーストリア合併問題と1931年オーストリア最大のクレジット・アンシュタット(ウィーンのロスチャイルド家の影響下にあった)の突然の破綻・取引停止、世界恐慌の欧州への波及。 ドイツ右派勢力による、ナチスとの妥協と引立て、ナチス抬頭。 「社民党は裏切り者で=ナチスより危険な社会ファシズムだ」説によるソ連スターリンからの社民党非難攻撃、社民主要打撃論。 ・・・ 敗戦兵士の蜂起とその赤化が、もっとも畏怖され警戒されただろう。
~~~~

 かってNHKはそれでも調査報道に、唸らされるものがあった。ずっと考えても見たことさえ、私なんかなかった話だった。二つの動画を見て魘(ウナ)されっ放しです。

 特殊任務機のコードが600番代であり、当日、豊後水道に侵入したB29(気象偵察機)と、広島に投下することになるB29が600番代であると、探知し軍中枢には報告ずみであった。(梅津美治郎参謀総長の側近)井上忠男中佐の備忘録にはこうあるそうだ「V675(コールサイン) 特殊爆弾 通信上、事前察知、長崎爆撃5時間前」

(画像は「アトリエ隼 仕事日記」ブログさま
 http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51343514.html
 による番組の秀逸な要約から獲捕拝借)

 ところが広島でも、広島原爆を教訓化したハズの長崎でも、警報も迎撃も、発令さえもされなかったのだった。なんの抵抗も抗戦も無く、米軍爆撃機は原爆落とし放題だったわけだ。
~~~原爆の動画ふたつ~~~
① 空襲警報が、なぜ広島でも長崎でも、鳴らされず、迎撃もされなかったのか
 http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/273.html

② 子供も大勢動員された中に投下された。「封印された原爆報告書」
 http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/849.html

 「心象を良くする」ためって(!)「被害者救済よりアメリカとの関係が優先されていたのです」。子供が動員されて強制疎開の屋外作業に従事させられている時に炸裂したと先日の放送でもやっていた。特殊任務機が来たと探知していたのに、一度目は原爆投下したと分かっていたのに。バレバレなのに米軍も、二度目に当たってコールサインを変更することなく、悠然とやって来た。攻撃されないという確信があったのだろうか?護衛機もなく。そしてまたもや空襲警報も迎撃も命令されなかった。またもや投下し放題だった。いったい何故なのか!? いろいろの見方があるようですがNHK動画の背景をも述べておられる、「移ろうままに」ブログさまから引用。
 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2011-08-08
~~~引用はじめ~~~
 「原爆投下 活かされなかった極秘情報」 [日本の独立]。8月6日、たまたまNHKで「原爆投下 活かされなかった極秘情報」を見た。広島も長崎も、諜報レベルではB29襲来情報を掴んでいたにもかかわらず、空襲警報が発令されなかったことをおそらくはじめてNHKが報道した。「これまで想定外の奇襲攻撃とされてきた広島、長崎への原爆投下。しかし実際は、アメリカの電波を傍受することで、軍は原爆投下をめぐる動きを事前に察知していたことが明らかになった」。原爆投下の2ヶ月前から、諜報機関はテニアン島における特殊任務機の動きをキャッチ、しかし軍は、危険が迫っていることを知りながら何の手も打たなかったのだ。テニアン島からのコールサインをキャッチしていた当時の諜報部員、太田新生さん。「悔しいったらありゃしない。分かっていたんだから。何か努力の跡があればあきらめがつくが、全然使った形跡がない。だからよけい悔しい」。

 大村基地の戦闘機部隊で出撃命令を待っていた本田稔さん。「66年経ってはじめて知った。出撃命令さえ出してくれていたら、長崎は決して爆撃されなかった。それだけは確信している。5時間もあれば十分対応できたはず。これが日本の姿ですかね。これからもまた起こるんじゃあないですか」。さらに、特殊諜報部員だった長谷川良治さんによると、8月11日諜報記録をはじめとするすべての証拠隠滅の命令が下され、終戦の15日まで徹底した焼却処分が行われたという。番組の中で「原爆についての情報がありながら、なぜ知らされなかったのか―――原爆投下後66年、はじめて明かされる真実。」とあったが、「なぜ知らされなかったか」の答えが用意されていたわけではない。しかし、その答えはすでに鬼塚英昭氏によって今からちょうど3年前に提示されていた。「原爆の秘密」の国内編と国外編の2冊の本だ。「ソヴィエトが参戦しようが、しまいが、原爆は確実に広島と長崎に落とされることになっていた。すべては、原爆で金を儲けようとする悪しき集団がなせる行為であった、・・・そのためにスティムソン陸軍長官が指揮をとり、大統領、国務長官、科学者、軍人たちを動かした。それだけでは原爆は製造しても投下できない。それゆえに、どうしても落とされる側の協力が必要であった。」(「国外編」P.297)。「原爆投下は『スペクタクル』でなければならなかったのである。そのためには、広島市民にとっては申し訳ない限りなのだが、・・・無警告でなされねばならなかったのだ。」(「国内編」p.98)。

 広島には原爆投下が近づくにつれ、数万の軍人が入るようになり、そのため広島市民への食糧供給が底をつくほどの状況になったという。その軍人達は何の意味もない穴掘り作業に従事させられ、その多くは原爆によって命を奪われていった。犠牲者が多いほど衝撃度の高い「スペクタル」の実現のために。それを演出したのは、本土侵攻に備えて創設されたという第2総軍の最高司令官畑俊六。鬼塚氏の追及はあくまで執拗である。NHKが鬼塚氏のこの二冊を知らなかったはずはない。この時期、いったいどこに向かおうとしているのだろうか、NHKは。そしてこの日本は。
~~~引用おわり~~~

 日本の敗戦を実現し、戦後の世界、日本敗北後のアジア・中国の支配を展望した世界支配者は、どのように考えたであろうか。また、自らの地位保全を図る人々はどういうふうに考えたか。両者に一致するものがあったであろうか。敗戦する前には強硬主張の一派を始末しておかねば危険だし、そういう危険な強硬派人物・思想は、あらかじめ国民からの信頼を失わせておかねばならない。反抗・蜂起する力も発条も気力も(命も)失わせて置かねばなるまい。絶対に逆らわぬ精神状態に追い込んでおくべきだ・・・確実に失業者となる危険人物階層群はなるだけ減らしておいたほうがいいし・・・帰国しないで呉たらなおいい。こんな風に考えて歴史を研究し戦後ありうる場合を尽くして考究したであろう。ソ連のスターリンや、中国の蒋介石は、日本敗戦の前から連合国の一員としてはごく一部の話が共有され通じられていただろうし、中国共産党とそこで反日本軍活動をしていた日本人指導部もまた、けっして反米とはならないよう話がつけられていただろう。餓島作戦とはインパール作戦とは何だったのか。敗戦が決定的になっているのに勇壮な展望論で吹聴され何万人も病死させられる作戦とはなんだったのか。

 シベリア抑留とは何だったのか。関東軍上層幹部はなぜ日本人を騙して放置して遁走したのか。政治犯で逮捕されたまま戦後になっても解放されずに死なされたひともいたそうだが、解放されたひとにとってはいさ知らず、指導部の一部の人は、原爆投下の軍が解放軍だという認識を理論化して主張したそうだが・・・。戦後は自由と民主主義の時代だと、このあいだまで私も信じてきた。「自由と民主主義の時代」の入り口は原爆で焼き殺され原子病死させられねばならなかった、のだろうか?

 (特殊任務機V675襲来の報告を受けていたあの梅津参謀総長が、二発目投下はないと力説してるうちに長崎に投下された。梅津大将は降伏調印全権団に加わらせられ降伏署名をした。東京裁判では、A級戦犯ではあっても死刑でなく終身禁固刑判決を受けたが、証言も手記も残さぬうちに、禁固中の昭和24年に「直腸癌」で「病死」したのだそうだ(のち靖国。ウィキペディア)。(梅津は、1936年二・二六事件後の粛軍、1936・7年軍機保護法成立の推進
( http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-date-20140130.html )


 関東軍参謀の粛軍、などを果たしたあと、敗戦時の参謀総長だった。
が片や満州事変を策謀した石原莞爾のほうは、左遷され、戦後ワクチン投与など受けていたが、梅津と同じ昭和24年に、こちらは「肺炎、肺水腫、膀胱癌」などを併発して「病死」したのだそうだ。・・・

 直腸ではないが、3・11の後に埼玉県で結腸癌が激増したのは2011年の秋であったそうだ(厚労省統計、阿修羅・「敗血症死因で見る大阪」から画像拝借)
 http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/850.html

 いったい福島県民はじめ日本中の、被ばくと汚染と国土汚染・買うよう汚染は、誰の心象を良くするためなのか? 日本は原発もうやめたいと言うと、一般の米国民は熱烈歓迎支持してくれるだろう。が、米国一部のエライ関係者が、「アリエナ~イ!」と言ってくると、それでそれが通っちゃう養豚場国家?なのか日本は!?


 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK169」のgataro 氏の2014.8.7日付投稿「昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」」を転載する。
 この人はこの発言で辞任した。 ⇒ 久間防衛大臣 原爆投下「しょうがない」 NNNより
 
 それなのにこの人は「神から人間になる」という科学的には自明の宣言をしただけで、まるで何事もなかったかのように戦争責任を何ら取らないまま天皇の座に居座り続けた。 ⇒
そういえばこの人にはこんな発言も。 ⇒
(戦争責任について質問されて)「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」。
コメント
02. 新共産主義クラブ 2014年8月07日 14:25:26 : w0NMVeciJ/Y.. : 183U02GDLU
もしも、サダム・フセインがイラク中部のドゥール村で見つかった後に、サダム・フセインがアメリカのラムズフェルド国防長官に会って命乞いをして、「アメリカのイラク攻撃はやむをえないことだったと、私は思っています。私はもう政治の一線から引退しますから、私の元の部下たちを政権に戻してください。」と頼んでいたならば、世界の歴史は変わっていただろうか?
 
■ エジプトの雑誌がサダム・フセインとラムズフェルドの会談記録を公表
◆ フセイン大統領とラムズフェルド米国防長官との会談記録 ◆
(2005年5月2日)

http://www.albasrah.net/maqalat_mukhtara/arabic/0505/sadam_lqa_020505.htm

http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/2005Hussein-Ramsferd.html (日本語訳)

(真偽不明)□

04. 2014年8月07日 15:03:28 : FXM57oJyxQ
東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の報告では、人災と結論づけているが、
それでも誰も責任を取らないし、そのことが多くの国民に苛立ちや怒り、遣る瀬ないさ、
そして増税ラッシュで、明日のためのに動こうという国民の活力を奪っているのかもしれない。
何かはっきりしない鬱屈した日本の未来。復興のことより、金儲けや戦争の話ばかりが注目されるから尚更だ。

昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」

今の状況であっても、この国の多くのエリートと言われている人がトンデモな政策を支持し
推進している。中には脅されている人もいるだろうし、日本の民主主義が貧弱だとも言える。

昭和天皇の発言にしても、あの状況下で言わなければならなかったのかもしれない。
そして私は、昭和天皇のあの発言を恨んでいる人がいてもいいと思っている。

とは言え、3.11以後には混乱に乗じたショック・ドクトリンの動きは確かにあったし、
もしあの時、混乱のまま何か今の安倍政権が拡大したものが台頭したらどうだったろうか。

原発が爆発し放射能の危険と余震の続く中、私はあの時居ても立っても居られなかったけど、
ネット民の情報(デマも多かったけど)や冷静さなどに助けられたりもした。

ファシズムの様な急速かつ人工的な結束から生まれるものはたかが知れたものだが、
3.11の災害で、ぼんやりとした日本的なものに意義を持つことに考えを巡らすことも多かった。

昭和天皇は、戦後の巡幸で戦前のように襲われることを意識していただろうと思う。
死を覚悟して全国を回るなんてとてもできるものじゃない。

06. 2014年8月07日 22:11:46 : UoBrfwMwDU
原爆を落とす前に、アメリカは危険なものを落とすので、皆さん逃げてくださいというビラを、広島にばらまいたそうですね?しかしそれを日本の軍部が拾い集め、国民に知らせなかった。でもそのビラを手に入れた人たちは、身内や、知り合いに告げ、難を逃れたそうです。1日しか見れませんが・・・・https://no-border.co.jp/oped/





(私論.私見)