ソ連の原水爆兵器開発史考

 以下、「『原爆ホロコースト』の実態」、「ホロコーストの舞台裏」を参照する。

【米国の原爆製造設計図がソ連に売られる】

 現在は引退してモスクワに住むスドプラトフ氏は、大戦当時はソ連の欧州・北米担当情報網の責任者でスターリンによるトロツキーの暗殺計画も担当した大物スパイとして知られる。そのスドプラトフ氏が、1994年、「特殊任務──望まれない証人の回顧録」を上宰し、タイム誌が英語版で抄録した。その中で、ソ連の原水爆兵器開発秘密が暴露されている。次のような爆弾証言となっている。日本でも邦題「KGB衝撃の秘密工作」(ほるぷ出版)として出版されている。

 概要「第二次世界大戦中にアメリカが原爆を開発した『マンハッタン計画』の責任者で『原爆の父』といわれるロスアラモス研究所所長のロバート・オッペンハイマー博士、1938年のノーベル物理学賞受賞者で1939年にイタリアからアメリカに亡命したエンリコ・フェルミ博士、さらにニールス・ボーア博士らが、核戦争回避のため原子力の秘密情報を米ソが共有することで力のバランスをつくり上げる為に、自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた。ソ連は広島、長崎に原爆が投下される以前の1945年初めに、アメリカの原爆設計図を入手した。33ページにわたるこの設計図がその後のソ連製原爆の基礎となった。ソ連は1949年に最初の原爆爆発テストに成功した」。

 こうなると、戦後の冷戦による核抑止力による平和が、実はこれら科学者たちが“演出”したものだったことになる。広瀬隆・氏は、次のように指摘している。
 「ここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である」。
 「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたクラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、懲役14年の判決を受けた/1950年2月7日)」。
 「このフックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている」。

 「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである」。

 「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ」。

【「ケンブリッジ・サークル」考】

 「ケンブリッジ・サークル」とは、イギリスを震撼させた「ソ連の二重スパイ組織」のことで、ケンブリッジ出身の4人のダブル・スパイ、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーンがメンバーだったことで知られている。 特にキム・フィルビーは、冷戦時代にスパイ界の「キング」と呼ばれていた。また、1979年11月、サッチャー首相は、公的にアンソニー・ブラントを「反逆者」と発言し、ナイトの称号を剥奪した。

 名門パブリックスクールからケンブリッジに進学したエリート中のエリートで、彼らはその才能とバックグラウンドを生かしてイギリス情報部、外務省、BBC、王室とイギリスの支配階級の中枢に深く潜入し、KGBに情報を送り続けていたのである。なぜ将来を約束されたエリートたちが共産主義に傾倒し国を裏切るようになったのか、今でも大きな関心を集めている。

 第二次世界大戦で活躍した超スパイ・ベラスコの研究で知られる高橋五郎氏は、「ケンブリッジ・サークル」のメンバーだったキム・フィルビーについて次のように述べている。

 「冷戦時代にスパイ界の『キング』と呼ばれたキム・フィルビーは、学生時代の1933年から熱烈なレーニン主義信奉者で筋金入りのソビエト・ロシアのスパイ。CIAは、フィルビーの正体を1960年代初頭には薄々感づいていたといわれるが、フィルビーは1963年頃にモスクワに逃げてしまった。逃げたというよりも、CIAが逃がしたというほうが、ベラスコのいう『良心的な歴史観』に沿っているかもしれない。

 フィルビーがモスクワに逃げて、西側は大打撃を受けた。フィルビーは戦前・戦後を通してイギリス情報網の組織強化に情熱を燃やし、アメリカ戦略情報局(OSS)をCIAに改組強化するうえで力を貸し、両機関のソ連対策にまで知恵を授けてきたとんでもない人物だったからだ」。

 「ところで、フィルビーの正体をCIAが見破ったことで、皮肉にも西側戦勝国の戦史や政治史の信憑性が疑われることになる。歴史学者はパニックに陥った。それまで戦勝国が公表してきた第二次世界大戦史と、それに沿って再生産された秘密諜報活動史、軍事作戦史をはじめとして、それらに準拠したスパイ小説、戦争指導者たちの得意げな、あるいは控え目な回顧録、映画、新聞、雑誌記事、テレビ番組など、とくに1960年代前半までに公開された『史実』は書き換えを余儀なくされた。しかし一度知った『歴史』を世間の人びとは面倒がって書き直さない。それをよいことに戦勝国は、スクープされない限りは、いまだに歴史の修正に無関心を装っている」。

 1946年12月25日の16時、ソ連が最初につくった原子炉 F-1(物理原子炉)が初臨界を達成する。アメリカより早く… この原子炉は当時ボイラーと呼ばれ、原子炉は半地下式で原子炉熱出力は  24kWtだったと記録されている。遅れをとったアメリカは、1951年に、世界初の原子力エネルギーを使った発電へ成功する。

 1955年、アメリカは、国連で 米アイゼンハワー大統領の「原子力の平和利用(atoms for peace)」と国際原子力機関IAEAの設立を提案する。一方で、西側同盟各国に原子力についての情報(効果や利用法)を教える方針を立てる。




(私論.私見)