戦前日本の原爆開発史 |
更新日/2018(平成30).12.10日 (、只今学習中故云々)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで戦前日本の原爆開発史を確認しておく。「(ウィキペディア)日本の原子爆弾開発」、鬼塚英昭著「原爆の秘密 (国内編)」その他を参照する。 2011.7.30日再編集 れんだいこ拝 |
【戦前日本の原爆開発史】 |
この頃、ニッポンも例外では無く戦争に勝つための爆弾利用研究へ向かっていた。
1935年、湯川秀樹博士が、原子核内部の原子構造を、陽子と電子を結合させる「強い相互作用」の媒介となる中性子の存在が推測できるとする中性子理論を発表。これが、放射能の武器への転用研究に繋がり、後の中性子爆弾開発に繋がる。敗戦後の1949(昭和24)年11月3日、湯川秀樹氏がノーベル物理学賞受賞。中性子爆弾開発に繋がる中性子理論が評価されてのことだった。 |
戦前、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。これを確認する。(理化学研究所「理研八十八年史より - 二つの「計画」、福井崇時「日米の原爆製造計画の概要」その他を参照する) |
陸軍のニ号研究・F研究の経緯 1938年、ウラン鉱山の開発が行われる。 1940年、理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。研究には理化学研究所の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。 1941.4月、陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託した。 |
平野貞夫氏が、「昭和天皇の極秘指令」の中で、戦前日本の原爆開発史を記述している。非常に興味深い裏舞台を明らかにしている。 日本は、米国に遅れること1年後の1940(昭和15).4月、原爆開発研究に着手する。1941(昭和16).4月、航空技術研究所長の安田中将が、理化学研究所の大河内正敏所長に「原爆製造に関する研究」を正式に要請した。仁科芳雄博士が責任者となり、研究を進めて行った。1943(昭和18)年初め、東条英機首相兼陸相が、川島虎之輔大佐に「アメリカとドイツで原爆製造計画が相当進んでいる。もし我々が遅れたら戦争に負ける。ひとつお前が中心になって製造を進めろ」との指示を与えている。陸軍は、仁科博士の研究をサポートしながら原爆開発に乗り出していくことになった。その研究は、仁科博士の「仁」をとって「二号研究」と呼ばれた。海軍の原爆開発は、1943(昭和18).5月、京都大学の荒勝文策教授に原爆開発研究を委託したことから始まる。しかし思うように進捗せず、1945(昭和20)年初め、仁科研究室に開発の協力依頼し、「F研究」を立ち上げる。 |
海軍のF研究の経緯 1941.5月、京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、1942年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。 当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定、1945年4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する。 また、技術的には、理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まったところだった。 原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされており、理論自体にも問題があった。しかし、1999年9月の東海村JCO臨界事故は、この構造で爆弾にはならないが、殺傷可能な兵器になることの悲しい証明となった。 1945.5.15日、アメリカ軍による東京大空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。原爆投下の直後の1945年8月14日のポツダム宣言受諾時、日本の原爆開発は最も進んだところでも結局は基礎段階を出ていなかった。
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【平野貞夫「昭和天皇の極秘指令」/昭和天皇の原爆開発研究掣肘】 | ||||||||
平野貞夫氏が、「昭和天皇の極秘指令」の中で、戦前日本の原爆開発史を記述している。非常に興味深い裏舞台を明らかにしている。 昭和天皇が、原爆開発研究を快く思わず制約し始めたと云う。1945(昭和20).2月当時の海軍航空本部嘱託で、ウランについての情報を担当していた岩田幸雄氏は次のように証言している。杉山元・元帥が私邸で岩田氏に話した内容とのことである。杉山元帥は次のように語った(出典は、出雲井晶編著「昭和天皇」)。
これによれば、昭和天皇が、「人類滅亡の悪の宗家になる。人類滅亡の原因が我ら大和民族であってはならない」として原子爆弾の研究禁止を通告したことになる。これにより、軍部の核兵器研究は極度に内密に研究されて行くことになった。しかし、このことが昭和天皇に知れ渡り再度研究の禁止が通告されている。
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【戦後日本の核分裂研究一切禁止史】 | ||
日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾されている(但し、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている)。その後、占領が終了するまで核分裂研究は一切禁止された。 これにつき、小出裕章氏は「『原子力ムラ』は、なぜメルトダウンしないのか?」(「東電・原発おっかけマップ」)の文中で次のように述べている。
ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた。関係者の中からは、戦後に湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は次のように批判している。
第二次世界大戦後の日本は、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、開発計画もない。日本は国際原子力機関(IAEA)による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。 |
【戦後日本の原子力再開発史】 |
1953.12.8日、アイゼンハワーアメリカ合衆国大統領が国連総会で「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」と題する演説を行い、日本にも原子力を平和のために利用することの道が開かれてから、日本は原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。 1954年、初の原子力予算を成立させ、日本原子力研究所を設置した。これを皮切りに、複数の大学や民間企業が研究用原子炉を建設し、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。更に核燃料サイクルの完成を目指して、高速増殖炉(常陽ともんじゅ)や新型転換炉(ふげん)、再処理工場(東海再処理施設と六ヶ所再処理工場)などの開発を積極的に行っている。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる使用済み核燃料も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められており、核燃料の供給国と結ばれた二国間の原子力協定でも、軍事転用や核爆発装置の開発が行われた場合の返還義務を明示している。 1969年、核拡散防止条約調印後、日本の外務省高官が西ドイツ外務省の関係者を箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合を持っていた事実が明らかにされた(2010.10.3日、放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」で、元外務事務次官の村田良平(2010.3月、死去)の証言その他による)。当時の佐藤内閣が、専門家の意見を集めた上で内閣情報調査室に極秘に核兵器の製造能力についての報告書を作成させていた事実も明らかにされた。報告書では外交・内政上の障害を理由に「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」と結論づけていた。これらの背景には1964年に中国が核保有国となったことが挙げられている。 この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこなった結果を同年11.29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている。 |
(私論.私見)