日本最初の天然ウラン鉱山/人形峠ウラン鉱山考 |
(最新見直し2011.03.21日)
第二部 人類が刻んだウラン残酷史と核的惨劇の実態 | ||||||||||||
1,放射能被曝史にみる奇病 人類とウランとの最初の出会いは、16世紀ヨーロッパにさかのぼる。チェコとドイツ国境にあるエルツ山脈の鉱山からとりだされた正体不明の鉱物が、顔料や陶磁器の上薬として使われていた。ところが、その鉱山では「肺の奇病」が多発し、鉱山労働者の半数近くが「肺の奇病」で死亡した。 その200年後の1789年にドイツの化学者が、この鉱物から黄色い酸化物の抽出に成功した。この黄色い抽出物は、ウラン(Uran)と命名された。抽出の数年前に、天文学者が発見した天王星(Uranus) にちなんで命名したからである。それからさらに100年以上の歳月が経過し、あの奇病が鉱物の放射線による「肺ガン」であることが判明した。人類とウランが対座した、最初の出会いから300年以上の歳月が必要であった。 その後、1895年にレントゲンがX線(謎の光)を発見。さらに3年後、キュリー夫妻がウラン鉱物からラジウムを発見した。その物質が放射線を出すので、その性質や物質のことを「放射能」と呼ぶことにした。その発見と前後して放射線による皮膚炎、眼疾患、脱毛が3人の研究者によって相次いで報告され、ようやく奇病の正体を突き止めることになった。その後20世紀に入って、アメリカで、ある事実が報告されて注目を集めた。 ラジウム夜光塗料を、時計の文字盤に筆を使って塗る女子労働者が、舌ガンや口唇ガンに冒されたという報告である。それと相前後して、シカゴではラジウム入りドリンク剤「ランドール」を愛用した実業家が「身の毛がよだつような死に方」をしたという記録も、残されている。 20世紀初頭の10年間には皮膚炎のガン化、造血障害、胎児催奇性、X線作業者の無精子症、胎児小頭症、貧血症等の症例が個別に報告された。やがて肺ガン、骨肉腫、突然変異、94例のX線誘発腫瘍等が頻発している事実も次々と明らかになった。そして44年には白血病の頻発が報告され、遂に翌年の1945年、あの広島と長崎へと継起したのである。 核分裂という化学変化が発見されたのは、広島・長崎に原爆が投下される7年前の1938年であった。2人のドイツ物理学者ハーンとシュトラスマンはナチスに軍事利用される危険を恐れてスエーデンへ亡命した。亡命後に、発見したことを世間に公表した。結局はこの科学史上の発見が大量殺戮兵器の開発という破滅への扉を開くことになったのである。 アメリカにおいては、第二次大戦中から戦後にかけて、核兵器開発とそれに伴う被曝の歴史は、いわばメダルの表裏として惨劇の歴史を刻むことになった。その本格的惨劇の基点となったのは、あの41年アメリカ原爆マンハッタン計画である。すなわち、40年代にはウランの大量生産体制に入り、50年代にはウラン採掘に従事した鉱山労働者6000人中、600人~1100人がウランやラドン等の娘核種による被曝によって、ガン死または予想死されると推計されて、衝撃を与えた。その後も国内ウラン鉱山の被曝は続き、惨劇の予想は的中した。例えば、
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日本最初の天然ウラン鉱山として知られる旧人形峠ウラン鉱山は、岡山・鳥取両県の県境にある人形峠を中心に、北へ10数キロ四方に拡がっている。その広大な山中に残る鉱山跡地は、三区域、22箇所にわたって点在している。 中国山地の奥深く標高700メートルの山林を切り拓いた開辺部に旧製錬所跡地がある。そこに「核燃料サイクル開発機構人形峠環境技術センター」(03年9月現在職員数約110名)の施設や、ウラン鉱山廃棄物を溜めた鉱滓池がある。その事業所の隣接地にはウラン開闢の地というわけで、「原子力開発の原点/ウランのふるさと人形峠」と書かれたステンレス製の碑を表札代わりにした小さな展示館が、1日平均約40人の見学者を迎え入れている。 03年夏の数日間、取材のために私は初めて人形峠を訪れた。その最初の印象は、「奇妙な静寂に包まれたしじまの世界」であった。夏の強い日差しを浴びている事業所とその周辺の山間部はまるで静止画像のように静まり返り、人形峠一帯の緑の木立からは、セミ時雨はおろか、啼き声一つさえ漏れてくることはなかった。私は一瞬不気味な不安に襲われてしまった。果たして、高い標高による生息限界なのか、冷夏による天候異変のせいか。それとも、ことのほか環境の変化に敏感なセミが放射能物質に対してもつ本能的な危険予知能力なのか。さらに、そのいずれもが空似の静寂なのか、そのような疑問をいまも抱き続けている。かって、人形峠一帯は「昆虫採集のメッカ」であったという。それが何時の日からだろうか、面影はつゆほどもなかった。 この事業センターでは、鉱山閉山後の79年にウラン濃縮パイロットプラントを開始、91年に回収ウラン利用試験を行っていたが、試験終了後はすべて閉鎖した。98年に六フッ化ウランへの転換作業中に作業員が被曝するという事故が起きた。その後、現在まで「鉱山の後措置」を研究している。その主要な研究テーマは、いま地元住民と核燃機構の間で係争中の「ウラン残土」の後始末=処分方法に関する研究である。研究対象の中には地中埋戻しの検討も含まれている。 さて、旧人形峠ウラン鉱山の歴史はほぼ半世紀前にさかのぼる。1955年のウラン鉱床の発見以来、旧鉱山は国産ウラン開発を目的として設立された国策公社「原子燃料公社」によって開発された。この原燃公社は、後に「動力炉核燃料開発事業団」(動燃)→「核燃料サイクル開発機構」(核燃機構)へと次々と名称変更して現在に至っていることはよく知られている。余談ながら、この相次ぐ名称変更の理由は、「業務内の変化に対応させた」と説明されているが、額面通り受け取る向きはほとんどない。度重なる事故や不始末からのイメージチェンジというのが社会的常識になっている。 人形峠で掘り出された天然ウラン鉱石のウラン含有率は、期待に反して低かった。世界で通用する含有率0.2%に達しなかった。「有望なウラン鉱石」にはほど遠く、低品位のために採算が合わず、1967年に10年間の試験操業を経て閉山を余儀なくされた。その後、旧ウラン鉱山では最初の閉山から10年後に、効率の良い露天掘りを再開させたが、この鉱山も10年間の操業を経て閉山した。結局、旧人形峠ウラン鉱山にあっては、開発を始めてからちょうど半世紀に及ぶ歳月と、その間約20年間にわたるウラン採掘の歳月が、そのままウランと共に刻んだ人形峠の50年史となった。 ところが、半世紀が経過した現在においても、旧人形峠ウラン鉱山跡地やその周辺では、地中深く静かに眠っていた天然ウランを地表に掘り出した傷跡が無惨な姿を露呈し、住民を苦しめている。だから敢えて付言すれば、あの人形峠に建てられている碑表に、もう一行の銘文を追加して刻印するべきかも知れない。「原子力開発の原点」という碑文に並べて、「核開発悲劇の原点」と鮮やかに刻印し、その名を歴史に残すべきではなかろうか。 この人形峠に今も続く惨劇の事実は、ちょうどコソボやイラク民衆を苦しめている大量の劣化ウラン弾による汚染と被曝の光景と、あらゆる点で符合している。例えば、天然ウランによる人形峠の被曝と、劣化ウラン弾によるコソボやイラクの被曝に関しては、双方の毒性による人体への影響や症状の発現形態は、際立った類似性と連続性を見せている。それは、ウラン組成上でみる限り天然ウラン鉱石を「産出・製錬する過程」と劣化ウランを排出する「濃縮過程」とが、共に連続・隣接しているからである。その意味で、この両者の組成や精錬過程を見ていくことは、たんに人形峠地域の地元鉱山労働者や住民を襲った惨劇の実態を知るだけではなく、遠くイラクの地で起きている劣化ウラン弾の惨劇の実態を知る上で有意義だといえよう。 さらに重要なことは、この旧人形峠ウラン鉱山は、たんに日本で最初の天然ウランウラン採掘現場という歴史の特殊性を有しているだけではない。旧人形峠ウラン鉱山は、いわば核・原子力開発工程の初発の入口である。その意味で、過去の人類史上において核がもたらした全ての惨劇は、この開発現場を起点にして始まったのである。そして、今もこの鉱山跡地においては、核・原子力開発の段階において露呈した、生命体破壊の非道な所業ともいうべき「初発の原罪」を見出すことができる。とりわけ、核・原子力開発の世界戦略が歴史上の悪夢を再現し、危険な転回点を示しているとき、性懲りもない邪悪な企てを挫(くじ)くためにも、惨劇の事実は広く知られるべきであり、惨劇の意味を根元的に問い返す契機にすべきだろう。 |
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3,ウラン鉱山の野ざらし廃棄物、危険な「投棄残土」と「ウラン鉱滓」 旧人形峠ウラン鉱山で採掘した天然ウランは、ただちに選鉱→製錬→転換→濃縮といった幾つもの精製過程を経て、最後に原発用ウラン核燃料として完成する。その旧人形峠で最初の10年間に生産した原発用核燃料の総量は、わずか85トンであった。この量は通常規模100万キロワット級の軽水炉型原子力発電所における年間消費量190トンの約半年分、45%に過ぎなかった。 ところが、ウラン消費量のわずか半年分を生産するために、採掘現場では膨大な「ウラン残土」を排出した。まず、精製ウラン核燃料85トンを得るためには、逆算すると、8・5万トン(千倍)のウラン鉱石を必要とし、その8.5万トンを得るためには、さらにその10倍以上の岩石を掘り出すことが必要であった。その結果、鉱物を含んだ残土量は約45万立方メートル以上、東京ドームの約40%近くに達した。また、この量は日本の原子力発電所が操業以来排出してきた「低レベル放射性廃棄物」の総累計(200リットル入りドラム缶約100万本)の2倍以上という膨大な量であった。 しかも、この「ウラン残土」は決して無害なものではなかった。排出されたこの膨大な「土砂の山」は、たんに、鉱山の採掘現場でウラン鉱床を目指して掘進する際に出る、完全無害な「土砂」だけではなかった。 通常の状態で地中に眠っている天然ウランは、「濃集」した白褐色の粘土質ウラン鉱床をなしている。鉱床は、黒い土や砂利混じりの礫土を含み、厚さ・幅は数十センチから数メートル、長さ数メートルから数十メートルの帯状をなして地中に埋まっている。それを一立方メートル単位で掘り進めていくわけである。その場合でも、ウラン鉱石と他の岩石や土砂との明確な区別=境界線が存在しているわけではない。人形峠のような小規模鉱床では両者は玉石混在の状態である。また、採掘現場では通常の掘削機材とマイト使用を除けば、すべてが手作業である。作業目的はウラン鉱床付近の土砂混じりの鉱石から高品度の「ウラン鉱石」だけを選鉱して、それを製錬用ウラン鉱石として袋詰めにして運び出することであった。その際に、往々にして袋詰めする製錬用鉱石のウラン含有率よりも2倍~10倍高く、その分だけ毒性が強いウラン鉱石までが粗悪なウラン鉱石とともに、廃棄物となって土砂の山に混入し、残土として投棄された。これが最初(第1番目)の廃棄物ともいうべき「ウラン残土」である。 このようにして廃棄された膨大な「ウラン残土」は、最後には、三つの鉱山とその周辺22地区に投棄された。しかも、安全策や改善策は何ら講じられないままに、危険性が露見するまでの30年間にわたって野積みの状態で放置され、土砂と共に河川に流れ出し、環境を汚染し、人体を蝕んでいった。旧坑道入口付近の残土も、このようにして放置され、ガイガーカをあてれば、いまも高い放射能を出し続けていことが分かる。このような状態で「投棄」「野ざらし」にされた事実が露見した後も、堰堤とは名ばかりで、ウラン残土は河川伝いに流れ出し、半世紀を経て現在に至っているのである。 話を進めていこう。ウラン鉱山から排出される廃棄物は、たんに最初=第1番目の廃棄物「ウラン残土」だけではなかった。人形峠事業所の製錬工場に運び込まれたウラン精錬用鉱石は、砕いて硝酸水に溶かして製錬し、その中から質の高い天然ウラン「八酸化三ウラン」(イエローケーキ)を抽出する。これが最初のウラン製品である。 この黄色な重金属の抽出量たるや、低品位のために含有率は天然鉱石全体の0,1%に過ぎない。それ以外の99,9%のウラン鉱石がゴミとして捨てられた。第二番目の廃棄物「ウラン鉱滓」である。その量はほぼ8万5千トンに近く、3トン積みトラックの約2万8千台に達した。 この第2番目の廃棄物「ウラン鉱滓」は、第一番目の廃棄物「ウラン残土」よりも高品質のウラン鉱石を集めた分だけ放射能濃度は高く、危険度も高い。つまり、計算上では高品位の天然ウラン鉱石のわずか0,1%のイエロ-ケーキを取り去った分だけ毒性も減小している理屈になる。だが、第1部でみた「劣化ウラン」の危険度の数値と有意差はない。抽出分の減少量たるや0.1%という微量にすぎないからである。 そればかりではない。この鉱滓廃棄物の中には天然放射性物質がそのまま残留している。既述したように天然放射性物質から絶えず変質を遂げていく同族のウラン系列「放射性娘核種」の各種全量が含まれているのである。なかには、放射能半減期が短いもので8万年の「トリウム230」、同1622年の「ラジウム226」のように、初めから鉱石中に含まれているような放射性物質を含み、絶えず放射能を出し続けている。 そのような放射性物質を含む第二番目の廃棄物「ウラン鉱滓」の量は、数万立方メートルに達し、いまも、申し訳程度に原燃公社の村有借地内に、野ざらし同然の状態で保管されている。だが、「貯鉱ダム」「鉱滓池」とは名ばかりで、台風や豪雨等の大自然の猛威のまえには無力である。土砂や雨水は確実に溢れ出し、岡山県側の瀬戸内海や鳥取県側の日本海に注ぎ込んだ。 現核燃サイクル機構は、この「ウラン鉱滓」を今後300年間にわたって管理するという。だが、被害者に対して、国家的責任を果たし得るだけの、政治的、社会的、歴史的実体が存在し続けることは不可能であるという意味で、300年という数字は虚仮(こけ)にも等しい。ちなみに、300年の歴史を過去にさかのぼれば元禄時代になる。おそらく300年後の「ウラン鉱滓」は江戸城の礎石とは違って、周囲の環境中に漏出し、姿を消すに違いないし、山容すら変化するだろう。そればかりか、次の数字の対比が示す意味はさらに深刻である。 既述したように、「ウラン鉱滓」に含まれる「燃えないU-238」の放射能半減期は45億年もの彼方である。参考までに、これをウラン歴と人類歴を対比してみよう。「ウランの放射能半減期45億年」対「管理期間300年」の比は、「300年」対「10分30秒」に過ぎない。つまり、ウラン歴と人間歴は単位と桁が途方もなくかけ離れている。ウラン放射能半減期とウラン廃棄物の人工管理期間の両者を対比する限り、ウラン歴と人類が管理を試みようとする歳月の長さは、瞬時にもならないし、そもそも、どんな意味も持たない。このように、ウラン開発の初期第一段階で排出する廃棄物といえども、その危険な凶器性は人類にとっては「永久不滅」なのである。 |
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4,ウラン鉱山開発史にみる隠蔽体質と秘密主義の根拠 それにしても、何故かという疑問が残る。原燃公社はそのような危険な残土や鉱滓を野ざらしにして、発覚するまで長期間放置してきた。この無謀は、何故起り得たのだろうか。この点について、より実証的に補論しよう。 いうまでもなく、核開発はその背後に開発にともなう宿命的な危険性をすべて黙殺し続けるという、非道な論理が作動している。まず、この断定的な根拠を裏付ける事実は二点ある、 第1、原燃公社は海外におけるウラン鉱山の被曝の歴史に関する情報を知悉し、その危険性を熟知し得る立場にあった、という事実。 第2、鉱山採掘現場の危険性がもたらす結果と対策についても百も承知していた、という事実。 この二つの事実は重要な意味を持つ。人類が初めて核の扉を開けたのは19世紀末である。それ以来、核に関わった前半の約50年間の歴史に限定しただけでも、人類は放射性物質による数多くの惨劇を経験してきた。その危険性や被曝との因果関係についても、多くの悲劇的教訓を学んできた。そうだとすれば、ウラン採掘に関わった原子燃料公社の設立・経営責任者、科学者、現場当事者達が、被曝問題に関して科学史や専門的な核知識に無知・無関心であった、という弁明は決して成り立たない。 にもかかわらず、責任当事者は「ウラン残土」を、「捨て石」と称した。敢えてそれを「捨て石」と表現することによって、自然環境にとっていかにも無害な「路傍の石」であるという「安心感」→「誤認!」を、鉱山労働者や地元住民に印象づけようとした。このようにして邪悪で作為的な欺瞞が演出された…という類推は十分成り立つ。 さらに、別な根拠もある。現場労働者の証言によれば、当時の採掘現場では、対称的な二つのヘルメット姿が日常的な光景であったという。一つは、原燃公社職員の防護服姿である。鉛筆三本大の携帯用線量測定器(フィルムバッジ)を上着のポケットに入れ、坑道内では防塵マスクを着用し、坑道外ではそれを首からぶら下げ、厚手のゴム合羽と防護服に身を固めていた。もう一つは、ヘルメット、自前の手袋、短いゴム靴、泥だらけで丸腰に近い現場労働者のランニング姿であった。しかも、現場労働者に対する安全指導や注意は「皆無!」であったというから、驚くほかはない。 このように対称的な二つのヘルメット姿や、安全教育が皆無であったという象徴的な事態はたんなる偶然とか、責任を負うべき当事者達の過失という類のものではない。また、現場作業責任者が「指導」「注意」「義務」をうっかり怠ったからでもない。そこには、既述したような根強く醸成され、秘匿され続けてきた密室の基本戦略が内包する問題点がある。 第1に、開発現場では「安全対策」「無害化対策」を最優先課題にする限り作業の円滑な遂行を困難にするという、技術的効率上の問題点。 第2に、「危険」「有害」を例外扱いすることは部分的にさえも許されない。いったん認めてしまうと、採掘作業の存立自体が危機にさらされること。 第3に、労働条件の改善策、環境破壊対策、被曝対策等の厄介な問題に関しては、有力な論拠を最小に押さえ込まなければいけないこと。 所詮は、核・原子力開発の世界では、真実や実相をさらすことが決して許されない。絶対的な危険性と絶対的な安全性という二律背反的矛盾を内包しているからである。後述するが、この対極的カテゴリーの属性と矛盾が、非人道的諸悪の根元をなし、核・原子力開発が、グロテスクなまでに露呈する悪魔的な欺瞞、隠蔽、虚構に魅せられていく、必然の根拠がある。かくして、危険は野放しにされ、ウラン廃棄物も放置されたというべきだろう。 |
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5,天然ウラン発祥の地、人形峠における悲劇の幕開け、鉱山被曝と住民被曝 劣化ウランの毒性を推定する一つの身近な実証的手段として、天然ウランの毒性を解明し、それと対比する方法が有効である。とりわけ、天然ウラン鉱石の毒性は、放射能毒性のいわば基点をなしており、その危険な毒性と実態を人形峠ウラン鉱害にみることができる。 既述したように、鉱石として地中に眠っていても、危険な放射性物質に変わりはないが、いったん人為的に地中から堀り出した瞬間から、生命体に及ぼす危険性はさまざまな形をとって増大する。日本鉱害史に新しい1ページを加えることになった人形峠の悲劇の序幕は、人形峠の山奥でウラン鉱床が発見されたときから始まった。それを発見した人物は、当時、一攫千金の夢を求めて日本列島を歩き回り、人形峠にたどり着いた山師(ウラン爺さん)であったという伝説は、いまも残っている。その真偽は別にして、第一発見者のEさんは自分の「功績のシンボル」ともなったウラン鉱山があえなく閉山した1年前に、肺ガンで逝ってしまった。いまでは、初期の犠牲者として人々に記憶されている。 Eさんに次ぐ第二の被曝犠牲者は、いうまでもなくウラン鉱石の採掘に伴う鉱山労働者達であった。これが悲劇の本格的な幕開けとなった。公式発表では10年間の就業労働者延べ人数3000人、そのうち坑内労働者は延べ1000人であった。これらの現場労働者は、働いた場所が鉱山の内外いずれかを問わず被曝の犠牲になっている。にもかかわらず、個々人の被曝実態に関して原燃公社が調査したという事実や公式記録は、作成の有無や存否さえも確認できない。ましてや、信頼性に耐える被害の統計的数値も存在しない。 そうした秘密の闇の中から、一つだけ恐ろしい公的数字を拾い出した人がいる。「人形峠ウラン鉱害裁判」(土井淑平、小出祐章著、批評社)の著者土井さんが国会図書館で探し出した原燃公社年表である。これによると、57年度坑内ラドン濃度は管理区域の労働許容基準の1万倍を記録したというのである。これは恐るべき数値である。この数値で坑内労働を二週間も継続すると確実に肺ガン死する、という日米専門家の証言がある。 現地取材で、危険性の度合いを示すもう一つの物証に出くわすことになった。それは倉吉市在住のAさんが庭先に保管している、掘り出したままの土砂混じりの天然ウランである。容積は3~4㍑くらいで、土砂が混った白褐色の粘塊土にガイガーを当てると、針は毎時40マイクロシーベルトを示した。 これを単純に算数計算して、便宜的判断に供してみよう。一日8時間~12時間、年間200日というウラン採掘鉱山の標準時間で被曝量を積算すると、年間64ミリシーベルト~96ミリシーベルトになる。この被曝量は当事の現場作業者の年間許容基準値50ミリシーベルトの1・3倍~1・8倍である。さらに現行の年間基準値20ミリシーベルトからすれば、3・2倍~4・9倍である。これ程の高い被曝線量を鉱山労働者達は約3年~5年間にわたって被曝し続けた。これを年数に積算すれば年間許容量の約10倍~25倍もの放射線を、病気で倒れるまで浴び続けた計算になる。ただし、この単純計算は、ウラン鉱石の塊を枕元に置いて8時間~12時間にわたって被曝し続けたという極端な状態を前提にしたことになる。だから、これは一つの目安に過ぎない。また別な例外としては、実際の坑内労働は、粉塵漂う労働環境にあり、想像以上に劣悪であったと思われるので、実証的推量は難しい。 現在でも、人体の被曝許容量に関しては「放射線の被曝量がある一定量以下なら安全である」という放射線安全値=閾値(しきいち)論が半ば常識となっている。しかし、この閾値論の欺瞞性は「閾値以下であれば安全である」という保証が誰からも与えられないということ。しかも、たとえそれ以上に微量であっても、人体は確実に破壊され続けていくという事実にある。ところが、あの人形峠ウラン鉱山の労働者にとっては、この欺瞞的な閾値すら適用してもらえなかった。より正確に言えば、現場労働者に適用された閾値は「発病」「労働不能」という外形の閾値であった。これはまさに奴隷労働そのものであり、その労働観はそのまま人形峠において罷り通ったのである。 人形峠の実態はすべて深い闇の中に葬り去られて現在に至っている。こうしたなかで、唯一貴重な記録を残した地元被曝住民・榎本益美さんがいる。 鳥取県東伯郡東郷町方面(かたも)地区で果樹園を経営しながら、初期の鉱山採掘作業にも従事し、4年後に胃潰瘍で倒れるまで坑道内で働いた経験を持ち、妻をガンで失い、ご自身も被曝の後遺症といまも悪戦苦闘中である。同時に、後述するように私有地内の「ウラン残土」の撤去を求めて訴訟を起こし、県や町の自治体の後押しを受けて現核燃サイクル機構と係争中である。その多忙な合間を縫って「人形峠ウラン公害ドキュメント」(北斗出版)を書き上げた。その榎本さんは取材した1時間のインタビューでさえ、表情は苦痛にゆがんでいた。その苦痛の表情から、痛いほど伝わってきたものは、ウラン鉱山で働いた際の原体験で得た悔恨の心情である。当時、鉱山現場の労働者達は誰一人、ウランの危険性については「キケンのキの字」も聞かされないままに、まるでボロギレ同然の扱いを受け、虫けらのように捨てられた。このことに対する、怨怒、執念、決意性、人間的誇りに生きる姿がそこにあった。 著書によれば、当時、約24世帯、約150人足らずの小さな山村=方面地区の裏山にある鉱山では村を挙げて協力した。地元民の半数近くが裏山に上がり、鉱山で働いた。そのために採掘作業開始7年~8年後からほぼ20年間で、部落の住民150人中8人が、さらに28年間では11人がガンで死亡した。また、男性の肺ガン死亡率は全国平均の26倍となったという。 これらの死者はウラン鉱山に従事した人達ばかりではなかった。例えば、鉱山入口、廃坑跡、残土からは、間断なく高濃度のラドン放射性稀ガスが絶えず空気中に放出され、やがて裏山の谷合いに沿って流れ下り、日夜集落を汚染し続けた。また、放射線を含む地表の粉塵は周辺の村落にまで汚染と被曝を拡大させた。さらに、多くの住民が水源地付近の鉱山を通って流れ出る生活用水を、昔通り長期間にわたって飲用した。 被害はさらに拡大した。「投棄された残土は坑口から下流に向けて急勾配で流れる沢を埋め尽くしている。当然それらは風雨にさらされながら崩壊し、沢沿いの下流に向けて汚染を拡げた。特に伊勢湾台風の時は、崩壊した残土が水田を埋め、集落総出で除去作業をする羽目になった」(小出裕章・訴訟意見書)。 堆積場や貯鉱場から崩落した「ウラン残土」は、方面鉱山地区の水田を埋め尽くしたウラン残土だけでも一万立方メートルに達した。沢や谷に流失した残土がそれに加算される。その流失した「ウラン残土」から発生し続けた放射線は、河川や周囲の自然環境を汚染し、水稲や山菜の汚染による動・植物連鎖を通じて人体を蝕ばんでいった。そのために、地元住民は高濃度の放射線を皮膚から直接的に浴びる「外部被曝」ではなくて、低線量の放射性物質を体内に取り込んで被曝し、緩慢であるが確実に「体内被曝」の危険に晒していったのであった。 後日、この方面(かたも)地区における異変を裏付ける補強材料として、現地調査をした前出・小出さんは「10年間の鉱山労働者の積算被曝量から、1000人中70人が肺ガン死するだろう」と推計した。しかし、この研究者の推計と警告に対して、当事者=核燃機構はいっさい黙殺・言及を避けてきた。部落住民の不安も黙殺した。ここにおいても被曝に対する冷酷な放置=棄民策を垣間見ることができる。 この他にも、悲劇の余興ともいうべき喜劇的事実を補足しておこう。それは、人形峠地方にある日突然出現したウラン鉱脈の発見によってもたらされた、笑えぬ「喜劇!」である。「宝の山」「ウラン・ブーム」の舞台ウラには何が残されたか。 観光土産物屋の店頭には「ウラン饅頭」「ウラン焼き」が並び、ウラン鉱石入りの「ウラン温泉」、「ウラン音頭」まで登場した。ウラン鉱石を床の間や庭先に置いたり、紫外線が当たると紫青色の妖光を放つ置物が自慢げに玄関に飾られたり、部落では白濁の「ウラン風呂」を楽しんだ。自然放射線は体に「良い!」とばかり、鉱内のウラン採掘現場では防塵マスクもしないで入坑したり、わざわざ貯鉱場の真上にゴザを敷いて昼寝をしたという。また、鉱山の採掘とは無関係かも知れないが、人形峠周辺の窯元の親子は典型的なウラン内臓障害を示していた。また、その手に現れた放射線障害は、文献写真で見たことのある、X線を発見したレントゲン助手の症状に酷似していたという専門家の証言もある。 このような「喜劇!」の背後には、日本各地では古くからウラン系列放射性物質によるラジウム温泉療法やラドン吸入治療法が広く行われてきた事実が存在していたからと思われる。ある専門家は「このような医療習慣は、あのマダム・キューリの美談と神話が生きているからではないか」(前京大工学部荻野晃也)と指摘している。 幸いにも、「ラジュウム有害説」はいまでは常識となっている。その一例を示せば、「日本人は放射能を帯びた危険なものを飲んでいる」という驚きの解説文付きカラー写真がある。アメリカの有名な科学雑誌(NationalGeographic、「放射能特集号」89年秋)に掲載されたその写真は、三朝温泉の街頭で浴衣姿の男性が温泉水を柄杓で飲んでいるスナップ写真であった。 人形峠では「ウラン人形」こそ登場しなかった。しかし、このブームが古くからの、民間医療慣習に根ざしていたとはいうものの、次にみるような放射線障害の歴史における数々のエピソードや、この人形峠のけったいな事実等を併せ考えてみると慄然とせざるを得ない。それと同時に、このけったいな事実に何らの警鐘も発しないばかりか、逆に、それをあおり立てて放置した原子燃料公社の対応の罪深さは万死に値する、といえるだろう。 |
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6, 34年後に剥がされた被曝のベールと異常事態、残土撤去運動と訴訟 原燃公社側の杜撰(ずさん)な管理の事実を住民側が初めて知ったのは何と操業開始から34年後の1988年であった。地元「山陽新聞」が鉱山関係者の証言として「鉱山労働者や周辺住民の中で、肺ガンによる死亡が多発している」と報道したからである。このように真相が白日の下に晒されるまでには、実に30年以上という長い歳月を必要とした。おそらく、このような歳月の長さの裏には、ウラン発見直後のあのウラン信仰の根強さもあったと思われるが、必ずしもそれだけではない。既述したように原燃公社側が周到に準備し、遂行した思われる秘密主義と隠蔽工作が介在していたのではないか。この新聞報道を契機にして、この「邪推?」を裏付けてくれる根拠ともなるべき生々しい数値が相次いで検出され、放置されていた事実を裏付けた。
このように、採掘開始から約40年以上が経過しても、いまだにウラン鉱害による環境汚染は続いている。このような異常事態のなかで、前出榎本さんをはじめとした方面地区住民は残土問題が発覚したのを契機に、12年間に及ぶ「身を捨てた闘い」を開始し、いまも継続している。その闘いは地元住民が強いられた、いわれなき苦闘のドラマ第2幕であった。闘いは多くの仲間、労働者、市民グループに支えられつつ、粘り強い抵抗によって孤絶に耐え抜き、土壇場で実力行使を敢行して事態を一変させた。それを契機にして00年から二つの訴訟が同時並行することになった。榎本訴訟(残土撤去、土地明け渡し、慰謝料請求)と方面自治会訴訟(撤去協定完全実施)である。いずれも一審勝訴を勝ちとり、二審で係争中である。 ところが同時に、ウラン残土の全面撤去と引き取りを求める地元住民の投じた一石が、「ゴミ」の搬入を拒否する地元住民、自治体、市民グループとの間で抜き差しならない「核のゴミ戦争」を引き起こしているという。いずれにせよ、国=核燃機構、岡山・鳥取両県、地元自治体、市民団体を含めて、当事者間の利害、理念、方針などが鋭くかつ複雑に対立している。短期間の取材では、到底ほつれた糸の絡みさえ見えないほど、複雑な波紋を描いているようであるが、それは今回のテーマではない。 |
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7,「異常数値」を提起した水野論文 旧人形峠ウラン鉱山がもたらした被曝問題に対して、異なった視点から問題提起をした疫学論文が、月刊誌に発表された。その論文は、岡山県苫田郡上斉原村(とまたぐんかみさいばらむら)の人口動態資料から統計学的アプロ-チを試みた調査研究論文「人口動態統計からみた人形峠とウラン残土の地」(水野玲子、「技術と人間」03年5月号)である。過去30年間の「死亡原因」「出生児の性差」の二側面から疫学的、統計学的に分析し、その分析結果を基にして「異常値」を引き出している。まず「死亡原因」からみていこう。 水野論文が示す統計によれば、採掘開始から30年を経過した5年間(88年~92年)における死亡率は、それ以前の5年間の死亡率同様に極めて高い数値を示している。以下の数値はその概要である。
という結論に到達した。 |
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8,出生児性差の異常 次に、出生男児の減少、性比にみる異常値をみていこう。放射線被曝は大人に先がけて免疫力の低い子供や胎児に顕著に現れる。次の「出生児統計」の異変もその一つという疑念が残る。 岡山県上斉原村における出生統計の異変は、まず、男児出生数の極端な低下に示されている。ウラン操業開始から17年経た74年には、男児出生数は40人(100%)であったのに対して、25年経た00年には2人(5%)に、つまり、26年間に40人→2人に激減している(その後01年3人、02年5人と現在上昇中)。過疎の影響がないとすれば、この26年間の事態の異常さが目立つ。 さらに、異常現象を出生児の性差でみると際立っている。通常の出生児性差は、女児よりも男児がわずかに高い。ところが、上斉原村ではウラン操業開始17年目から24年間(74年~98年)を通じて男児出生児数は、女児出生児数に比べて減少し続けており、「薄気味悪さすら感じる」(水野玲子)という。 この上斉原村の数値を全国比でみると異常さが目立つ。70年代後半の国全体の男児出生比は、0・517(全体1)であったが,20年後の90年代は0・513へと低下している。このわずか0.004ポイントの低下の原因としては、主に有害化学物質(環境ホルモン)等との因果関係が指摘されている。これに対して、上斉原村では男児性比0.40(89年~02年では0.41)を記録した。この低い数値は、96年イタリアのセベソ地区におけるダイオキシン曝露によって急激に低下した数値0.35に限りなく近い、という。 このような極端な異常性比現象にみる因果関係を、ウラン鉱山の開発、残土、鉱滓に直接結びつけるには、未だ、検証を必要とするという否定的見解もあるが、放射能主因説を裏付ける有力な根拠は他にもある。例えば放射線による生殖細胞への影響と推定される動物実験例である。ヒトの生命遺伝子においても男子のX染色体は、女子のY染色体よりも弱いといわれているが、これに類したある遺伝学者の実験データによれば、マウスへの放射線照射の結果、精子細胞は感応性が高くて傷付きやすいのに対して、卵細胞は10倍の抵抗力を示したという。いずれにせよ、生殖腺障害に関しては精子細胞の方が3倍~10倍敏感に反応するというのが通説となっている。この数値の意味を否定することはできないのではなかろうか。 |
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9,人形峠・岡山県上斉原村 岡山県苫田郡上斉原村は岡山県側の人形峠所在地である。県内約50市町村のうちで人口900人というこの小村を訪れたときにまず目に飛び込んだ最初の印象は、鳥取県側方面地区と上斉原村との大きな相違点であった。人形峠技術センターの敷地は上斉原村にあり、全国いずこも同じような核関連施設の立地風景を彷彿させた。上斉原村はその見返りに、電源三法交付金は別にして、03年の税収の14%を核燃機構事業所に依存している。過分な恩恵に浴しているというべきかどうか、まず、収容人員300人もの威容を誇る音楽堂や、村営の温泉国民宿舎がある。この国民宿舎の主な利用者は事業センターの公用客らしい。注文もしないのにお澗付き、1人客の一般宿泊料金は、2人客の料金の五割増し、約1万5千円也であった。その他室内ゲートボール場、温泉プール付きクアガーデン、村民運動場、青少年旅行村など、眩しいばかりに点在する建物は、近代化された寒村の違和感をかきたてるに十分であった。 先の鳥取県東郷町方面地区と同様に、この小村も鉱山の採掘には村を挙げて参加・協力し、多くの地元労働者が働いた。この際の労働被曝は確実に生体被曝をもたらしているものと思われるが、後で触れるように一切の記録は厳秘同然であり、村役場に問い合わせたが、その存在すらヤブの中である。だが、地元出身の鉱山労働者や住民被曝と「死因」が直結している可能性は否定できない。 同論文が指摘する「性差の異常値」についても重要な問題提起といえるだろう。例えば、旧鉱山の近くには上斉原村の人口12%を占める二つの部落(現在は合計36世帯、110名)がある。その部落とウラン鉱山との係わりや地理的位置関係は、先の鳥取県方面部落と同等かそれ以上の規模や緊密さを持っていた。生活水系は異なるが、人形峠ウラン鉱山としては最大規模の中津河鉱山に隣接しており、他のどの部落よりも、日常生活上ではラドン放射性希ガスの危険性に晒されるには十分な被曝条件下にあった。その放射性希ガスの飛散の実態は十分に解明されていないとはいえ、例えば、アメリカ・コロラド高原のラドンが何千キロも離れたアメリカ東海岸に飛来したという報告もある。それに比べると極小な至近距離であり、放射性希ガスの一般的影響は否定できるはずもない。また、村民の12%を占める二部落を筆頭に、人口900名足らずの上斉原村でも多くの村人が鉱山労働に従事したことはいうまでもない。 さらに、旧人形峠ウラン鉱山地区を広範な水源地とする吉井川上流では奇形のアマゴが発見されて話題になったこともある。その他にも放射性物質による何らかの環境汚染は否定できないようにも思える。参考までに、その吉井川は岡山県民の飲料水の三分の一をまかなっている。 |
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10、水野論文が警告した意味と評価 いまみたように「異常数値」の原因については幾つもの状況証拠や疑念が散見される。と同時に、即断するだけの根拠は、不十分という立証上の難点がある。そのような複雑な事態に照応するかのように水野論文に関しても評価が分かれている。もちろん、水野論文は一定の判断を下しているわけではなくて、たんに統計学的事実を指摘しているに過ぎない。その上で、水野論文に対しては「貴重な問題提起である」というのが、最大公約数的評価である。その内容は三つに大別される。
いずれにしても、人形峠における「死亡原因」「出生児性差」に関する二つの疫学的統計が何を暗示しているのか、過去に何が起きたのか、いま何が継起しているのか。過去から現在につながる「異変の事実」と「異常数値の事実」との両者を結ぶ補充回路が、もしあるとすれば、それを明確にする必要がある。 その結論を得るまでの道のりは平坦ではないとはいえ、すでに指摘したように、これは重要な問題提起であることには変わりない。そのことを前提にして必要付帯条件を示すと、
人形峠のウラン鉱床は、中国山地に特有な花崗岩地帯に集積しているために、ラジウム温泉(三朝温泉)がわき出すような地域的自然条件下にある。水野論文が指摘する異常値は、この花崗岩地帯全域をバックグラウンドにしているという事実は広く一致した見解である。またこの事実を大前提にして、ウラン鉱山の開発と放置残土が、異常数値をもたらし、その加重要因になっているという「加重要因説」も、仮説としては十分に成り立つ。問題はその加重の度合いである。 |
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11,当事者の回答にみる加害者論理 以上の二点を前提にしたうえで、事態の真相と真実を解明するためには最後に何が必要か。それは言うまでもない。鉱山で働いた地元労働者の就労実態、被曝の様態、規模、被曝線量等の生資料である。この資料に関して現地核燃料サイクル機構技術センターに問い合わせたところ、半月後に丁寧な速達便の回答と添付資料をいただいた。しかし、当然というべきなのかもしれないが、その内容たるや、うわべは丁寧な言葉を用いながら、その内容たるや文字通り「慇懃無礼」としか言いようがなく、中身に乏しいものであった。以下は回答主文である。 「元鉱山労働者の被ばく線量の解析・評価に関し、平成元年に専門家により検討させていただいたところ、 ・被ばくデータ及び計算等は妥当である ・年間及び集積線量から判断すると放射線被ばくによる健康上の障害は考えられない との結論をいただいております。 なお、先般のお問い合わせでは、元鉱山労働者の内、上斉原村在住者の人数、従事期間、被ばくデータを知りたいとのことでしたが、こうした事項は個人を特定するおそれがありますかので、お答えは差し控えさせていただきます。」 このように回答の内容は、被曝の事実をほぼ全否定したものであった。被曝も、障害も、ガン死もすべて「ゼロ回答」に等しく、障害に苦しむ被曝当事者が読めば、余りにも不遜とも思える内容である。 いま、わたしの脳裏にはある光景が浮かんでくる。その光景とは、あの現場の二つの対称的な姿である。既述したように、「フィルムバッジ」を装着して防護服に身を固め、一日わずか1時間~2時間だけ姿を見せた事業所職員の姿と、先が見えないほど塵埃が漂う坑内奥深く、ほぼ1日中働き続けたランニング姿の日雇い労働者達との対称的な姿である。そしていまも毎日薬物を口に流し込んでいる人達の姿は、幻影ではない。わたしの脳裏に深く刻み込まれている。しかも鉱山で働いた経験を持つすべての人に共通した疾患は骨や腰の痛みである。女性労働者は例外なく全員が白内障の手術を受けたという。さらに、方面地区の住民は、これまで1度も事業所の健康調査を受けたことはない。ましてやセンター職員からの健康を気遣う声さえ記憶にないと証言している。果たして、くだんの人形峠地方で、何が起きたというのだろうか。いまもなお存在している住民受苦の事実は、誰もが否定し難い事実だというのに。 水野論文が提起している統計学的事実を否定するのであれば明確な論理と納得のいく手順で反証すべきではないか。勿論、その反証責任は、圧倒的な立証手段を専有している加害者側が引き受けるべきである。それをしない限り、人形峠における疫学的現象が指摘する事実の存在も否定できないし、その結論も否定できないはずである。加害者と目される側が、その疑念を明確に否定し得ない限り、いっさいの最終的加害者責任は自ら負うというのが、社会的人間的道義性というものではなかろうか。 にもかかわらず、どうして、まことしやかな被曝ゼロ・データを作成し、障害ゼロと断定できるのだろうか。そのような手品に等しい「加害の論理」を信じるわけにはいかない。 |
「★阿修羅♪ > 原発・フッ素52」の魑魅魍魎男 氏の 2020 年 4 月 28 日付投稿「「ウラン爺さん」 東善作の栄光と悲劇」。
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(私論.私見)