東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)の殉死考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)の殉死考」をものしておく。

 2013.08.19日 れんだいこ拝


【ジャーナリスト:門田隆将の吉田昌郎インタビュー】
 「★阿修羅♪ > 原発・フッ素33」の 赤かぶ氏の2013.8.19日付け投稿「東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)さんへのレクイエム「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」(週刊現代)」を転載しておく。
 東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)さんへのレクイエム「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36525
 2013年08月19日(月) 週刊現代

 ジャーナリスト:門田隆将

 複数の原子炉が暴走する史上最悪の原発事故。その最前線で闘った男が静かに逝った。彼はそこで何を見たのか。そして日本人は、彼の遺志をどう受け止めるべきか―男が果たした「使命」を顧みる。

 ■もしこの人がいなかったら

 2013年7月9日午前11時32分、東京・信濃町の慶応義塾大学病院で福島第1原発の元所長、吉田昌郎氏が息を引き取った。享年58だった。あの大震災が起こった2011年3月11日から数えて851日目のことである。あまりに早すぎる「死」だった。私は、吉田さんの訃報に接し、「ああ、吉田さんは、天から与えられた使命を全うし、私たちの前から去っていったのだ」と思った。

 拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)の取材で私が吉田さんとお会いしたのは、昨年7月のことだ。全電源喪失、線量増加、注水不能……考えうる最悪のあの絶望的な状況で闘いつづけた吉田さんへの単独インタビューは当時、すべてのメディアが目指した案件だった。

 私のようなフリーの人間は、軍団で攻めていく大メディアによる正攻法ではなく「周囲」から攻めていくしかない。吉田さんの親友、恩師、先輩、上司……あらゆるルートを辿って、私は吉田さんにアプローチした。やがて、あるルートが吉田さんに繋がり、病床で私の手紙と著作を吉田さんは読んでくれることになった。

 吉田さんは、私の戦争関係の著作を読んで、「会うこと」を決断してくれた。おそらく太平洋戦争の最前線で戦う兵士たちの思いを綴ったインタビューとドキュメントに福島第1原発での自分たちを重ね合わせたのではないかと思う。やっと私が吉田さんに会えたのは、アプローチを始めて1年4ヵ月後のことだった。

 食道癌の手術と抗癌剤の治療を終え、外出を許されるようになった2012年7月、吉田さんは、西新宿にある私の事務所を訪ねてきてくれた。184センチの長身で、やや猫背気味の吉田さんは、ニュース映像とはまったく面相が変わっていた。頭髪は坊主のように短くなり、頬はこけている。食道癌の手術とその後の抗癌剤治療の過酷さが窺えた。

 挨拶を終えたあと、私は吉田さんにこう伝えた。「今回の事故は、日本史の年表に今後、太字で書かれるような歴史的なものです。私は、あの過酷な事故の中で何度も原子炉建屋に突入していった人たちの真実を伝えたい。東電バッシングが続いている中で、今の人たちにたとえ読まれなくても、私や吉田さんが死んだあとの孫やひ孫の世代に向かってこの本を書きます。だから吉田さんは私に対してというより、"歴史"に向かって証言してください」。吉田さんは、特徴である人なつっこい顔でにっこりして、「門田さん、私は何も隠すことはありません。門田さんが聞きたいことはすべて答えますから、なんでも聞いてください」。そう言ってくれた。こうして吉田さんへの取材は始まった。

 「チェルノブイリの10倍です」。ここで食い止めなければ事故の規模はどのくらいになったのか、と私が最初に質問すると、吉田さんは、そう答えた。あまりに当然のような顔をして吉田さんがそう言うので、却って拍子抜けしたほどだ。その時、頭に浮かんだのは、"悪魔の連鎖"という言葉である。事故が起こっても、石油などの化石燃料はいつかは燃え尽きるが、原子力はそうはいかない。ひとたび原子炉が暴走を始めれば、原子炉を制御する人が近づくこともできなくなり、次々と原子炉が"暴発"し、燃え尽きることもなくエネルギーを出し続ける。放射能汚染は限りなく広がっていくのである。それが悪魔の連鎖だ。吉田さんは、そのことをわかりやすく私に「チェルノブイリの10倍」と語ったのである。

 「福島第1には、6基の原子炉があります。ひとつの原子炉が暴走を始めたら、もうこれを制御する人間が近づくことはできません。そのために次々と原子炉がやられて、当然、(10キロ南にある)福島第2原発にもいられなくなります。ここにも4基の原子炉がありますから、これもやられて10基の原子炉がすべて暴走を始めたでしょう」。10基の原子炉がすべて暴走する―吉田さんは、それを「チェルノブイリの10倍」という言葉で表現してくれたのである。もちろん、黒鉛炉であるチェルノブイリと沸騰水型軽水炉である福島原発とは、そもそも原子炉の型が違うので、簡単に比較できるものではない。だが、吉田さんのその言葉で、吉田さんたち現場の人間がどういう被害規模を想定して闘ったのかが、私にはわかった。

 ■生命をかけてくれた

 のちに原子力安全委員会の班目春樹委員長(当時)は、私にこう答えた。「あの時、もしあそこで止められなかったら、福島第1と第2だけでなく、茨城にある東海第2発電所もやられますから、(被害規模は)吉田さんの言う、"チェルノブイリの10倍"よりもっと大きくなったと思います。私は、日本は無事な北海道と西日本、そして汚染によって住めなくなった東日本の3つに"分割"されていた、と思います」。吉田さんたち現場の人間が立っていたのは、自分だけの「死の淵」ではなく、日本という国の「死の淵」だったのである。

 私が注目したのは、その国家の命運を左右する決定的な作業が、大津波に襲われてから数時間の内におこなわれていたことである。吉田さんは、全電源喪失の中で暴走しようとする原子炉を冷却するには、「海を使うしかない」と、すぐに決断している。海、すなわち太平洋の「水」である。「消防車というのは、防火水槽からホースで水をとってタンクに貯め、それを燃えているところにホースでかけるもんだろう? それなら何台か消防車を繋げば、海の水を持って来られるはずだ」。

 吉田さんの発想は、奇抜だった。すぐに所内にある3台の消防車の状態が報告される。だが、3台のうち2台は、地震と津波で使用不能になっており、生きているのは、「1台」だけだった。1台では、「繋ぐ」ことができない。吉田さんはただちに自衛隊に消防車の要請を出している。この要請はすぐに郡山と福島の陸上自衛隊に伝えられ、消防車が福島第1原発に向かっている。それと共に、現場では、これまた「決定的な作業」が始まっていた。全電源喪失の下、冷却手段は「水」しかない。しかし、その水を原子炉に直接入れる「ライン」がなければ、すべては無駄になる。現場のプラントエンジニアたちは、ほとんどが地元・福島の工業高校を出て東電に現地採用され、鍛えられて成長してきたプロたちである。彼らは、吉田所長の指示が出た時は、すでに原子炉への水の注入ラインの構築に着手していた。

 「消火ラインを使おう」

 建物には、火災になった時のためにスプリンクラーなどに水を流す消火ラインがある。そのラインを組み直し、原子炉に直接ぶち込めばいい―そんな発想から作業は始まった。しかし、そのためには、線量が上がり始めた原子炉建屋に入り、あるバルブは開け、また別のバルブは閉めるなどの「ライン構築」の作業をしなければならない。彼らは、放射能を遮断する全面マスクをつけて原子炉建屋に何度も突入し、この作業を展開している。線量の増加によって、建屋内への立ち入りが禁止されるまでの「数時間」の間に、この決定的な作業を終えていたことは、奇跡と言っていいだろう。それからもさまざまな作業がおこなわれるが、このライン構築ができていなかったら、その後の作業は意味を持たなかったとも言える。いち早く消防車を手配した吉田所長と、彼からライン構築の指示が出る前にすでに動き始めていたプラントエンジニアたち―彼らの見事な現場力は、日本を最悪の状態に陥ることから「救った」のである。

 3月12日朝7時過ぎ。吉田さんは、ヘリコプターで東京から乗り込んできた菅直人首相一行を迎えた。「なぜベントをやらないんだ」。そう詰め寄る菅首相に吉田さんは冷静にその時の状況を伝えている。「それはこういうことです」。菅首相の前に図面を広げ、ベントに入ろうとしている現状を説明し、菅首相はやっと落ち着きを取り戻した。この前に首相一行を迎えるにあたって吉田さんは東電本店と大喧嘩をしている。それは、防護マスクなどの装備についてである。汚染された福島第1原発に来るには、それなりの装備と覚悟が必要だ。しかし、現場の防護マスクは数が限られている。しかも、一度使用して汚染されたものは二度と使用できない。決死の作業に必要な防護マスクは、現場に余分がない。「首相一行が来るなら、防護マスクはそっちで用意してくれ」。テレビ会議を通じて吉田さんがそう言うと、本店からは、「いや、現場で用意してください」という返事が来た。その瞬間、吉田さんが叫んだ。「ふざけんじゃねえ! こっちには、そんな(数の)余裕はねえんだ!」。

 歯に衣着せぬ物言いと、上司にでも食ってかかる豪快さは、吉田さんの真骨頂だ。だが、首相一行はそのまま何も持たずにヘリコプターで一気にやって来た。菅首相は、免震重要棟の入口で放射能の汚染検査も拒否して、靴だけを履きかえて吉田さんのいる2階に上がっていった。「ヘリコプターから降りて汚染したところを来るわけですから、菅さんたちは、その時点で自分たちが"線源"(注=放射能の汚染源)になっているという意識がなかったですね」。吉田さんはあの首相一行の訪問をそう振り返った。その後、空気ボンベを背負ってエアマスクをつけ、炎の中に飛び込む耐火服まで身につけての決死の「ベント作業」の指揮を吉田さんは執った。

 ■使命を果たした男

 吉田さんらしさが最も出たのは、なんといっても官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、官邸の意向として海水注入の中止命令が来た時だろう。「官邸がグジグジ言ってんだよ! いますぐ止めろ」。武黒フェローの命令に吉田さんはこう反発した。「なに言ってるんですか! 止められません!」。海水注入の中止命令を敢然と拒否した吉田さんは、今度は東電本店からも中止命令が来ることを予想し、あらかじめ担当の班長のところに行って、「いいか、これから海水注入の中止命令が本店から来るかもしれない。俺がお前にテレビ会議の中では海水注入中止を言うが、その命令は聞く必要はない。そのまま注入を続けろ。いいな」。

 そう耳打ちしている。案の定、本店から直後に海水注入の中止命令が来る。だが、この吉田さんの機転によって、原子炉の唯一の冷却手段だった海水注入は続行されたのである。多くの原子力専門家がいる東電の中で吉田さんだけは、原子力に携わる技術者としての「本義」を失わなかったことになる。その後の荒れ狂わんとする原子炉との苛烈な格闘は、拙著を参照いただきたい。特に3月15日早朝、2号機の格納容器爆発が迫った時、一緒に死んでくれる人間の顔を一人一人思い浮かべて「選ぶ」場面は壮絶だった。福島に多大な被害をもたらしながらも、格納容器爆発という最悪の事態はぎりぎりで回避された。そして、天から与えられた使命を果たして、吉田さんは旅立っていった。吉田さんが亡くなった翌日、私は、東電に同じ技術者として同期入社した吉田さんの親友から、こんなメールを頂戴した。

 〈門田さんの吉田さんへの取材があと半月遅れていたら、世に「あの戦争」で闘った"本義を忘れない"男たちのことは迷宮入りしたかもしれません。それを思うと、門田さんと吉田さんの出会いは「神様が与えて下さった」おみやげだったのかもしれません。吉田さんもきっと微笑んで彼岸をわたっていると思います〉

 奇跡のように「日本」を救い、風のように去っていった男・吉田昌郎―今も事故前と同じく東京に住み続けている一人として、吉田さんに「お疲れさまでした」、そして「本当にありがとうございました」という心からの言葉をお伝えしたいと思う。

 「週刊現代」2013年7月27日・8月3日合併号より


 門田隆将氏の「故・吉田昌郎さんは何と闘ったのか」(2013年07月14日)を転載する。

 今朝、テレビ朝日の『報道ステーション SUNDAY』を観ていたら、独立総合研究所の青山繁晴代表が2011年に吉田昌郎所長に呼ばれて福島第一原発に行った時のことを証言していた。私も同じ番組でインタビュー撮りされて登場していたが、お互いインタビューだったので、当然、私は青山さんとお会いしていない。しかし、番組で流された青山さんの証言を聞いて、「ああ、やっぱりそうだったのか」と思うことがあった。青山さんの証言によれば、福島第一原発に青山さんを呼んだのは、吉田さんの独断だったそうだ。つまり、「東電本店には無断でやった」のである。当時、激しい東電バッシングの中で、福島第一の内情はまったくヴェールに包まれていた。吉田さんは、わざわざ来てくれた青山さんに瓦礫と化した建屋などの惨状を「全部撮ってください」と言い、本店との間にトラブルが起きないか心配する青山さんに対して、「いや、大丈夫じゃないです。問題はいろいろ起きますよ。でも、青山さんだったら公開するでしょ。だから来てもらったんだ」と言ったそうだ。私が、「ああ、やっぱり」と思ったのは、この「東電本店に無断」で青山さんを福島第一の現場に呼び、さらに、「大丈夫じゃない。問題はいろいろ起きますよ」と言い、すべてを覚悟の上で吉田さんがやっていたという点である。

 私は、青山さんの証言を聞きながら、吉田さんのある言葉を思い出した。拙著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)は、吉田さんにインタビューに応じてもらい、ぎりぎりの綱渡りでできた本だった。これまで何度も書いてきているように、私は吉田さんと会うまでに1年3か月もの時間がかかった。私のようなフリーの人間は、軍団で攻めていく大メディアのようなことはできない。そこで独自のルートを模索せざるを得なかった。自分自身のことを思い浮かべれば誰でもわかることだが、人間には、自分自身に影響力を持つ人間が一人や二人は必ずいる。幼な馴染や親友、恩師、先輩、上司……等々、その人に影響力を持つ人間が多かれ少なかれ必ずいるものである。私は、吉田さんがどこで生まれ、どこの学校に通い、どういう人生を歩んで来たのか、徹底的に調べた。拙著の中には、そういう方の証言も出ている。それらは、「取材先」であると同時に吉田さんを説得する重要な「役割」を負ってくれる人たちでもあった。そして、さまざまなルートを辿ってアプローチし、私は1年4か月目にやっと吉田さんに会うことができた。食道癌の手術のあとの病床で吉田さんは私の手紙と本を読んでくれて、その上で、会うことを決断してくれたのである。しかし、吉田さんは都合2回、4時間半にわたって私の取材に詳しく答えてくれたが、昨年7月26日、3回目の取材の前に脳内出血で倒れ、それ以降の取材はかなわなくなった。だが、脳内出血で倒れて4か月後に出た拙著を吉田さんは大層喜んでくれた。そして、不自由になった口で「この本は、本店の連中に読んで欲しいんだ」と語られた。

 番組での青山さんの証言を聞いて、私はさまざまな人たちと闘った吉田さんは、実は最大の敵というのは、「東電本店ではなかったか」と思った。私も、拙著の取材の過程で介入してきた東電本店(正確に言えば広報部)の存在に、最後の最後まで悩まされた。その対応に神経を擦り減らしながら、拙著はやっと完成した。いま、吉田さんが「津波対策に消極的だった人物」という説が流布されている。一部の新聞による報道をもとに、事情を知らない人物が、それがあたかも本当のようにあれこれ流しているのである。私は、吉田さんは津波対策をきちんととるための「根拠」を求めていた人物であると思っている。新聞や政府事故調が記述しているように、「最大15.7メートル」の波高の津波について、東電は独自に試算していた。これは、2002年7月に地震調査研究推進本部が出した「三陸沖から房総沖の海溝沿いのどこでもM8クラスの地震が発生する可能性がある」という見解に対応したものだ。

 そもそも、これはなぜ「試算」されたのだろうか。これは2008年の1月から4月にかけて、吉田さんが本店の原子力設備管理部長だった時におこなわれたものだ。それは実に大胆な計算法だった。どこにでも起こるというのなら、明治三陸沖地震で大津波を起こした三陸沖の「波源」が、仮に「福島沖にあったとしたら?」として試算したものである。もちろんそんな「波源」は福島沖には存在しないので、「架空」の試算ということになる。だが、それで最大波高が「15.7メートル」という数字が出たことによって、今度は、吉田さんは、これをもとに2009年6月、土木学会の津波評価部会に対して波源の策定についての審議を正式に依頼している。つまり「架空の試算」をもとに自治体と相談したり、あるいは巨額のお金を動かすことはできないので、オーソライズされた「根拠」を吉田さんは求めていたのである。この話は、私は3回目の取材で吉田さんに伺うことにしていたが、その直前に、吉田さんは倒れ、永遠にできなくなった。いま「死人に口なし」とばかり、吉田さんがあたかも「津波対策に消極的であった」という説が流布されているのは残念だ。しかし、正式に聞くのは3回目の取材の予定だったが、私はそれまでに大まかなことは吉田さんに直接、聞いている。彼が消極的どころか、むしろ積極的であったことを、私は近くある月刊誌の誌上で詳しくレポートさせてもらう予定だ。

 しかし、吉田さんが亡くなったことで、事実をそっちのけにして吉田さんを貶めようとしている人たちが現実にいる。吉田さんが本店に無断で青山さんを現場に呼んで真実の“実情レポート”を託し、また、一介のフリーランスのジャーナリストである私の取材に応じたのはなぜだったのか。拙著を「この本は本店の連中に読んで欲しいんだ」と言った吉田さん。“現場派”の代表としての姿勢を最後まで失わなかった吉田さんの真実に今日の『報道ステーション SUNDAY』の青山さんの証言で触れることができ、私はあらためて惜しい方が亡くなった、という思いを強くしている。


 れんだいこのカンテラ時評№1161 投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年 8月19日
 東電・吉田昌郎(元福島第1原発所長)の殉死考

 2013.7.27日・8.3日合併号「週刊現代」のジャーナリスト:門田隆将の吉田昌郎インタビュー「あの時、確かにひとりの男がこの国を救った」によれば、福島第1原発所長・吉田昌郎は、官邸-東電ラインの海水注入中止命令に対して敢然と拒否し注入を続けた。この英断が「チェルノブイリの10倍」の事故被害を食い止めたとして称賛されている。これを「吉田所長の英断」と云う。これにつき思うところを記しておく。

 「吉田所長の英断」は然りである。しかしながら、それは当面の措置であり問題は先送りにされたに過ぎないのではないのか。「先送りの功あり」的には評価されようが、この観点からの評価はさほど称賛されるべきではないのではなかろうか。それはともかくこれが第一評価である。第二評価は、実はこれが凄いことであるが、当時、福島原発事故が誘導想定されており、「吉田所長の英断」はこのシナリオを崩した。このことが称賛されるべきではないのか。結果的には同じであるが、「吉田所長の英断」が何に対する英断なのかと云う点で光芒が違ってくる。

 「当時、福島原発事故が誘導想定されていた」とはどういうことか。これを補強する史実を確認する。独立党党首・コシミズ氏の「2013.8.10 リチャード・コシミズ岐阜講演会 」その他で確認できるが、「2013.8.8日午後4時55分頃、奈良県と大阪府で最大震度6弱から7程度の緊急地震誤報事件」が参考になる。かの時、気象庁は無論、フジテレビの安藤優子アナも「地震が発生した」と過去形で報道している。これに対し、コシミズ氏が、9.11テロ時の米CNNテレビによる世界貿易センタービルに隣接するビル崩壊の事前報道の例を挙げ、これと同じであると指摘している。即ち、前もって筋書きが作られており、それに基づきアナウンサーが原稿読みしていたと云う事実が確認できる。「2013.8.8日の奈良地震事前報道」はこれと同種のものであり、誤報と化したと云う点で極めて稀な例である。

 この問題の重要性は、3.11三陸巨大震災に伴う福島原発事故も事前に誘導想定されており、その想定が、「吉田所長の英断」によって狂わされたのではないのかとの推理を生むことにある。その詮議はさておき、「3.11福島原発事故が事前に想定されていた」と仮定すれば、その後の対応が整合的に理解できることがもっと注目されてよい。自衛隊10万人動員態勢、米国艦隊の沖合停泊、被災民に対する灯油、ガソリン支給規制による閉じ込め、公共広告機構による仁科親子の子宮がん検診コマーシャルの朝から晩までの執拗な放映、用意周到な関東圏ブロック別計画停電、これに基づく都電運行規制等々はどう考えても用意周到に計画されていたとしか思えない措置である。

 これを思えば、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は一定の真実味を帯びてくる。それは、シナリオ通りに動こうとする東電中枢に対する「叛旗の怒鳴り込み」だったのではなかろうか。れんだいこは、これに関しての菅首相の言い分は尤もな面がある思える。補足しておきたいことは、「菅首相の東電乗り込み武勇伝」は、吉田所長以下福島50のサムライと称される身を捨てた原発爆発阻止行為が誘導した、これに対する呼応であり、彼らの奮闘努力がなければあり得なかったのではなかろうか。

 つまり、福島原発爆発危機は現実にあった、想定されていた、誘導されていたのであり、吉田所長以下福島50のサムライがそのシナリオを崩したということが言えるのではなかろうか。そういう意味で、このシナリオを崩した「吉田所長の英断」はまさに称賛に値するのではなかろうか。しかしながら、冒頭に述べたように、とりあえず爆発計画を阻止しただけであり、それは問題先送りであり、これに対する賢明なる対策こそ「次のサムライの仕事」となっているのではなかろうか。かの時のサムライが健在なのか放射能病魔に犯されているのか分からないが、「次のサムライ」が要請されているのは間違いない。

 それはともかく、民主党菅政権、野田政権、自民党安倍政権及び東電の無策ぶりが信じられない。その緩慢な対応ぶりは、日延べされた福島原発の再爆発シナリオと呼応しているようにさえ見える。この勢力を放逐する以外に日本の再生はないのは自明のように思える。

 この攻防戦は既に開始されていると読む。このところマスコミを通じて日本の国際責任論が奏でられて久しいが、軍事防衛上の米軍指揮下の国際責任論ではなく、こういうところの日本人の国際責任能力が試されているのではないかと思う。この政治が生み出されるのは生活党と社民党の合同による新潮流によってしか為し得ず、他の政治勢力では絶望と読む。

 2013.8.19日 れんだいこ拝
 jinsei/

【吉田調書考】
 2014.5.20日、朝日新聞デジタルの「福島第一の原発所員、命令違反し撤退 吉田調書で判明」を参照する。東京電力福島第一原発所長で事故対応の責任者だった吉田昌郎(まさお)氏(2013年死去)が、政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「聴取結果書」(吉田調書)がある。これによると、東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。

 吉田調書や東電の内部資料によると、15日午前6時15分ごろ、吉田氏が指揮をとる第一原発免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。2号機の格納容器が破壊され、所員約720人が大量被曝(ひばく)するかもしれないという危機感に現場は包まれた。とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」。待機場所は「南側でも北側でも線量が落ち着いているところ」と調書には記録されている。安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く大勢の所員が映り、幹部社員の姿もあった。しかし、東電はこの場面を「録音していなかった」としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。吉田氏の証言によると、所員の誰かが免震重要棟の前に用意されていたバスの運転手に「第二原発に行け」と指示し、午前7時ごろに出発したという。自家用車で移動した所員もいた。道路は震災で傷んでいた上、第二原発に出入りする際は防護服やマスクを着脱しなければならず、第一原発へ戻るにも時間がかかった。9割の所員がすぐに戻れない場所にいたのだ。その中には事故対応を指揮するはずのGM(グループマネジャー)と呼ばれる部課長級の社員もいた。過酷事故発生時に原子炉の運転や制御を支援するGMらの役割を定めた東電の内規に違反する可能性がある。吉田氏は政府事故調の聴取でこう語っている。(中略) 吉田調書は、第一原発所長だった吉田氏が第1回聴取で「お話しいただいた言葉はほぼそのままの形で公にされる可能性がある」と通告され、「結構でございます」と即答したことを明らかにしている。これによると吉田氏は自らの発言が公になることを覚悟していたことになる。 2011年3月14日午後6時28分、吉田氏は免震重要棟の緊急時対策室にある円卓の自席で、2号機への注水に使っていた消防車が燃料切れで動かなくなったという報告を聞いた。原子炉の圧力がやっと下がり、冷却水が入れられるようになった矢先のトラブル。原子炉格納容器が壊れる恐れがあり、吉田氏は「1秒1秒胸が締め付けられるような感じ」と聴取で振り返っている。廊下に出て誰もいないことを確認し、PHSの番号を押した。「9109……」。一番つながりやすかった東電本店経由でかける方法だ。本店の頭越しにかけた電話の先は、細野豪志首相補佐官だった。「炉心が溶けてチャイナシンドロームになる」。チャイナシンドロームとは高温で溶けてどろどろになった核燃料が鋼鉄製の格納容器に穴を開けることで、全てを溶かして地球の裏側へ進む架空の事故を題材にした映画の題名が由来だ。吉田氏は続けた。「水が入るか入らないか賭けるしかないですけども、やります。ただ、関係ない人は退避させる必要があると私は考えています」。「1号、3号と水がなくなる。同じようなプラントが三つでき、すさまじい惨事ですよ」。

 プロローグ

 朝日新聞は、東日本大震災発生時の東京電力福島第一原子力発電所所長、吉田昌郎氏が政府事故調の調べに対して答えた「聴取結果書」を入手した。レベル7の大災害を起こした福島第一原発の最高責任者であり、事故収束作業の指揮官であった吉田氏の唯一無二の公式な調書である。吉田氏は事故について報道機関にほとんど語らないまま2013年7月に死去した。調書も非公開とされ、政府内にひっそり埋もれていた。 吉田調書は全7編で構成されている。総文字数はおよそ50万字。A4判で四百数十ページに上る分量になる。吉田氏への聴き取りは13回中11回が福島第一原発から南へ20km離れたサッカー施設 J-VILLAGE JFAアカデミーのミーティングルームで、残る2回が吉田氏の仕事場である福島第一原発免震重要棟でおこなわれた。 政府事故調は772人から計1479時間にわたって聴き取りをおこなった。吉田調書はその一環で作成された。対象1人当たりの平均聴取時間は2時間弱。吉田氏への聴取時間は28時間あまりで、あの瞬間、どう行動し、何を考えていたかまで聴き取った。畑村洋太郎・政府事故調委員長は、ほかに吉田氏の公式の調書がないことから「貴重な歴史的資料」と呼んだ。

 吉田調書の特徴は「吉田氏の言いっぱなしになっていない」点にある。政府事故調は聴き取りを始めるにあたり、「後々の人たちがこの経験を生かすことができるような、そういう知識をつくりたいと思って、それを目標にしてやろうとしています」「責任追及とか、そういうことは目的にしていません」と趣旨説明をした。だが、聴取は決して生ぬるいものではなかった。それは吉田氏への聴取が政府事故調事務局に出向した検事主導でおこなわれたからである。調書は微妙な言い回しも細かく書き起こされている。

 一方、吉田氏のほうも、聴き取りに真剣に応じている様子が調書の文面からうかがえる。調書には、吉田氏が「ここだけは一番思い出したくない」と苦しい胸の内を明かすように話す場面がある。震災当時の社長の清水正孝氏を「あの人」と呼んだり、菅直人氏や原子力安全委員長の班目春樹氏を「おっさん」呼ばわりしたりして、怒りをぶちまけながら話をする場面もある。全編を通して感情を包み隠さず答えていることから、全体として本音で語っていると感じられる。吉田氏は、事実と心情や思いとは分けて話そうと努めている。また、事故発生時の認識と、その後に得た情報を加味した自身の考えは分けて話すよう努める様子もうかがえる。

 未曽有の多重災害

 福島原発事故は、複数の原発が同時にやられるという人類が経験したことがない多重災害だった。最初に、注水が止まっているのを見逃された1号機が大地震発生の翌日の12日午後に水素爆発。続いて3号機が注水に失敗し14日午前に爆発。その影響で2号機が格納容器の圧力を抑えられない事態に陥り、15日に今回の事故で最高濃度の放射性物質を陸上部にまき散らした。同日は4号機も爆発。核燃料プールの水が抜けることが懸念された。もしそうなっていればさらに多くの放射性物質がまき散らされるところだった。

 過ちは生かされたか

 政府事故調の最終報告の欠点は、原発の暴走を止めるのは人であり、原発被害から住民を救うのも人であるのに、当時のそれぞれの組織の長、首相、経済産業大臣、原子力安全・保安院長、原子力安全委員会委員長、東電社長、そして福島第一原発の所長の行動・判断を一つひとつ検証しなかったことだ。772人もの関係者から聴き取りをおこなったのに、「個人の責任を追及しない」との方針を掲げたため、事故の本質に深く切りこめなかった。政府や電力会社がいま、再稼働に向け、防潮堤のかさ上げやフィルターベントの取り付けなど設備の増強に走るのは、政府事故調が分析・検証を現象面にとどめたからと言っても過言でない。

 未曽有の原子力事故に立ち向かった人間の声は、歴史に刻まなければならない。歴史は人類共通の財産である。第1回の聴取の際、政府事故調は「お話しいただいた言葉がほぼそのままの形で公にされる可能性があるということをお含みいただいて、それでこのヒアリングに応じていただきたいと思います」と説明した。吉田氏は「結構でございます」と即答したことをここに記す。(宮崎知己)

 全9回で報告

 朝日新聞デジタルでは20日から、今回入手した調書を分析・検証した特集企画「吉田調書 福島第一原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」を配信していきます。政府事故調が吉田氏から聴取しながら報告書ではほとんど言及しなかった「人の行動、判断」の部分に焦点をあて、「原発は誰が止めるか」「住民は避難できるか」「ヒトが止められるか」を考えます。調書の分析・検証にあたっては、東電テレビ会議録、時系列表、および別途入手した東電の内部資料を読み込み、各方面を取材しました。20日付の朝日新聞朝刊では、吉田調書でわかった新事実を報道する予定です。

  「★阿修羅♪ > 原発・フッ素38 」の 赤かぶ 氏の2014.5.22日付け投稿「誰も助けに来なかった 吉田調書、所長が「恨み」吐露(朝日新聞)」を転載する。
 誰も助けに来なかった 吉田調書、所長が「恨み」吐露
http://www.asahi.com/articles/ASG5Q427XG5QUEHF00X.html
 2014年5月22日12時31分 朝日新聞朝日新聞デジタルは特集「吉田調書」第1章3節「誰も助けに来なかった」を配信しました。調書に残された言葉や、福島第一原発3号機の爆発の直後に東電本店に投げかけた言葉などから、「原発は誰が止めるか」を考えます。URLは次の通り。http://www.asahi.com/special/yoshida_report/1-3.html

 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午前11時01分、福島第一原発の3号機が爆発した。分厚いコンクリート製の建屋を真上に高々と吹き飛ばしたところを無人テレビカメラに捉えられ、ただちに放映された、あの爆発だ。

 ――― 水が欲しいときっとなるだろうから、そうだったら、何はともあれ外との間のパイプラインをつくってしまえという指示をどこかで出したのかなと思っていたんですが、パイプラインを何でもいいからつくってくれと、そんなことまでは頭が動かないのか、それとも、言っても先ほどのように。

 吉田「それはわからないです。私はこの中にいましたので、外からどういう動きをしていたかはちっともわからないんで、結果として何もしてくれなかったということしかわからない。途中で何かしてくれようとしていたのかどうか、一切わかりません」。

 ――― わかりました。私はそこまででいいです。

 吉田「逆に被害妄想になっているんですよ。結果として誰も助けに来なかったではないかということなんです。すみません。自分の感情を言っておきますけれども、本店にしても、どこにしても、これだけの人間でこれだけのあれをしているのにもかかわらず、実質的な、効果的なレスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」。

 ――― それは誠にそうだ。結果として誰も助けに来てくれなかった。

 吉田「後でまたお話が出ますが、消防隊とか、レスキューだとか、いらっしゃったんですけれども、これはあまり効果がなかったということだけは付け加えておきます」。

 3月12日午後の1号機の爆発に続き、日本史上2度目の原発の爆発も、ここ福島第一原発で起きてしまった。外で作業にあたっていた人が怪我をした。当時、原子炉への注水は、3号機の海側にある逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を、消防車で汲み上げておこなっていた。その屋外作業に大勢がかかわっていた。また、自衛隊がちょうど給水車で原子炉に入れる水を補給しにきていた。作業をしていた6人は被曝し、何人かは怪我もした。福島第一原発では所長の吉田昌郎以下、所員の落ち込みようは激しかった。吉田はサイト、すなわち発電所のみんなの声を代弁し、午後0時41分、テレビ会議システムを使って、声を詰まらせて東電本店に次のように訴えた。「こんな時になんなんだけども、やっぱり、この……、この二つ爆発があってですね、非常にサイトもこう、かなりショックっていうか、まあ、いろんな状態あってですね」。社長の清水正孝の答えは、次のようなものだった。「あの、職員のみなさま、大変、大変な思いで対応していただいていると思います。それで、確かに要員の問題があるんで、継続につき検討してますが、可能な範囲で対処方針、対処しますので、なんとか、今しばらくはちょっと頑張っていただく」。東電本店はヒトだけでなくモノの面でも福島第一原発を孤立させていた。福島第一原発では、いまや原子炉の冷却の主軸である消防車のポンプを回すための軽油も、中央制御室の計器を動かすのに必要な電気を発電するためのガソリンも、ベントなどの弁を開けるのに必要なバッテリーも足りなかった。所員はこれらの必要物資を、10km離れた福島第二原発、20km南のスポーツ施設Jヴィレッジ、場合によっては50km南の福島県いわき市の小名浜コールセンターまで取りに行っていた。東電本店は福島第一原発まで運ぶよう運送業者に委託するのだが、3月12日に1号機が爆発し、避難指示の区域が拡大してくると、トラックがその手前までしか運んでくれなくなったのだ。トラック業者だけでない。福島第一原発は、同じ東電の福島第二原発からガソリン入りのドラム缶をもらうときも、中間地点にあるコンビニエンスストア、通称「三角屋のローソン」や、ホームセンター「ダイユーエイト」の駐車場にそれぞれが運搬車で乗り付けて、引き渡してもらっていた。福島第二原発としては、福島第一原発に直接行ってしまうと、運搬車が放射性物質に汚染され、除染しないと乗って帰れなくなるからだった。

 ――― この注水の作業なんかについては、消防車の運転操作なんかの委託をしていた、日本原子力防御システムですかね、そういうところだとか、南明興産というところですね、こういうところも協力していただいている?

 吉田「最初は協力してくれる」。

 ――― 途中からは。

 吉田「線量が出てから」。

 ――― 線量が上がり過ぎて、その人たちの作業はできなくなったと。それ以降は、東電の。

 吉田「自衛で」。

 ――― その自衛消防隊の方だけでやっていたんですか。

 吉田「はい。何人か奇特な方がいて、手伝ってくれたようなことは聞いているんですけれども」。

 ――― それは。

 吉田「南明さんとかですね。ほとんど会社としては退避されたような形で、個人的に手伝ってといったらおかしいんですけれども、そういうことは聞いております」 (中略)。

 ――― 3月16日以降とかは、がれきの整理などのために、例えば、がれき撤去のための作業用の車両みたいなもの、ブルドーザーなり何なり、そういうものは届いていたんですか。

 吉田「バックホーが数台もともとこちらにあったのと、間組さんがどこかから持ってきてくれて、主として最初のころは間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけれども、間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」。

 ――― これは何で間組なんですか。

 吉田「たまたま、私もよくわかりません。そのときは線量が高いんですけれども、間組が来てくれたんです」。

 ――― この辺周辺の撤去などの作業をしてくれたんですか。

 吉田「それもやりましたし、6号への道が途中で陥没したりしていたんです。その修理だとか、インフラの整備を最初に嫌がらずに来てくれたのは間組です。なぜ間組に代わったかというのは知らない。結果として間組がやっているという状況だったので、たぶんいろいろお話をして、一番やろうという話をしてくださったんだと思います」。

 東日本大震災発生当日の2011年3月11日午後9時44分、新潟県にある東電柏崎刈羽原発を1台の化学消防車が福島に向けて出発した。消防関係の業務を東電から請け負っている南明興産という会社の社員3人が乗っていた。交流電源をすべて失った福島第一原発で、原子炉を緊急に冷やすポンプがすべて使えない状態になっていた。吉田らが代わりに思いついたのは、消防車を使って外から原子炉に注水する方法だった。過酷事故時の対応を定めたアクシデント・マネジメント・ガイドには書かれていない世界初の試みだ。ところが、福島第一原発の消防車3台のうち、使えるのは1台だけだった。1台は津波にやられ、もう1台は構内道路がやられて1~4号機に近づけないところにあった。消防車を操れる人間はもともとごく少数。それもそのはず、東電の社員は誰も消防車を運転したことがない。ホースを消火栓につないだり、ホースとホースをつなぐなどの消防車周りの作業もしたことがない。南明隊は到着するやいなや、あちこちにかり出された。

 ――「実質的な、効果的なレスキューが何もない」。

 福島第一原発では、消防車から原子炉への注水の経路がめまぐるしく変わった。防火水槽やタンクの淡水を入れていたかと思うと、次は逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を入れる。その次は海の水を直接汲み上げて入れる。そのたびに消防車を動かし、ホースをつなぎ変えた。南明隊は途中、東電の要請で部隊増強を図った。消防車周りの仕事はたいてい屋外作業となる。そのため、常に高い値の放射線にさらされたし、1号機や3号機が爆発した時はがれきの雨に打たれた。吉田も気遣ってはいたが、なにせ彼らの代わりができる人間が東電にいなかった。

 一方、がれきの撤去作業では、一部のゼネコンが一肌脱いだ。福島第一原発では15日以降、各号機の核燃料プールの冷却が大きな課題になっていた。特殊な消防車で地上から放水することが考え出されたが、がれきが、各号機へ消防車が近づくことを拒んでいた。がれきは、1、3、4号機の相次ぐ爆発で発生したもので、がれき自体が高い値の放射線を発していた。それを人と重機を投入して片付けた。これもまた高い値の放射線量のもとでやってのけた。

 ――― こういう爆発があって、例えば3月13日とか14日というのは、保安院の方というのはどうなんですか。

 吉田「よく覚えていないんですけれども、事象が起こったときは、保安院の方もみんな逃げて来て、免震重要棟に入られたんです。それから即、オフサイトセンターができたので、オフサイトセンターに全部出ていった。私の記憶がなかったので、先ほどDVD議事録を見ていたら、武藤が途中で大熊にあったときのオフサイトセンターから保安検査官をこちらに送り込むという話はあったんです。結局あれは14日だったんですけれども、来られなかったんです」。

 ――― 来なかったんですか。

 吉田「はい。私は記憶がないんだけれども、今みたいに24時間駐在で来られるようになったのは、もうちょっと後だと思います」。

 ――― 保安院の方が来られると、例えば情報を得ようと思ったら緊対室に来ますね。

 吉田「はい」。


 ――― そのときというのは、所長に何かあいさつなりというのは、向こうからするんですか。そのまま本部の円卓の辺りにいるんですか。

 吉田「我々別に保安検査官を拒絶するつもりもないし、来られるようなときに来られればよくて、彼らは保安院の制服を着ていらっしゃいますから、いらっしゃるということで、ごく普通に会議の中に入ってもらえばいい、という形で対応しています」。


 ―― それは円卓に保安院用の席があるんですか。


 吉田「もともとはなかったんです。そんな話があって、保安院の人に座っていてもらえという話をしたんです」。


 ――― それはいつごろですか。


 吉田「最初に武藤から電話があって、保安院さんが来るという話のときに、短期間で1回来られたかも知れないんです。14日ごろにね。そんな記憶もあるんです。ちょこっといらっしゃった。オフサイトセンターが福島に引き揚げるとなったときに、みんな福島に引き揚げられて、結局、16日、17日ぐらいまで、自衛隊や消防がピュッピュやっているときはいなかったような気がするんです」。


 ――― サイト内に来られたとすれば、例えば保安院の事務所の方にずっといるわけではないんですか。


 吉田「住むところは免震棟しかないわけですから、事務所には行きようがないんです。線量もあるし、被曝もあるしね」。


 各原発には、原子力安全・保安院、今なら原子力規制庁に所属する原子力保安検査官が、常駐する制度になっている。東日本大地震発生時、福島第一原発内にも当然いて、地震後一時、免震重要棟に入っていた。だが、しばらくして南西5kmのところに福島オフサイトセンターが立ち上がると、そこへ移動した。2日後の3月13日午前6時48分、そのころオフサイトセンターに詰めていた東電原子力担当副社長の武藤栄が、吉田に、保安検査官が福島第一原発に戻ると連絡してきた。「保安院の保安検査官が、そちらに4名常駐をしますと。12時間交替で1時間ごとに原子炉水などプラントデータを、報告をするということになります」。 吉田は即座に「保安検査官対応!」と受け入れ態勢を整えるよう部下に指示した。保安検査官はその後しばらくしてやって来たが、3月14日夕方、2号機の状況が急激に悪化するとまたオフサイトセンターに帰ったとみられる。そして、15日朝、オフサイトセンターが原発から60km離れた福島市へ撤収すると、いっしょに行ってしまった。

 ――「みんな福島に引き揚げられて」。


 一方、原発から5km離れたところにあるそのオフサイトセンターだが、原発事故があったら、10以上の省庁から40人超が集まり、原発や周辺自治体と連携して、情報を収集・発信する拠点になると定められていた。甲状腺がんを防ぐ安定ヨウ素剤の配布指示でも大きな役割を担っていた。


 それなのに、今回の事故では半数強しか来なかった。班が七つ立ち上がり、それぞれが班長の指揮のもと作業にあたることになっていたのだが、班長が3月末近くまで来ない班もあった。


 最も大変な事態が進行しているときに、原発を操作できる唯一の組織である電力会社が収束作業態勢を著しく縮小し、作業にあたる義務のない者が自発的に重要な作業をし、現場に来ることが定められていた役人が来なかった。


 これが多くの震災関連死の人を出し、今もなお13万人以上に避難生活を強いている福島原発事故の収束作業の実相だ。

7. 2014年5月23日 08:55:57 : nJF6kGWndY

事実を公開することは重要だな

http://www.asahi.com/special/yoshida_report/
「吉田調書」
• プロローグ
• 第 1 章
• 第 2 章
• 第 3 章
• エピローグ

• 7504

• 33449

冒頭写真|原発4基と海、排気塔=2011年3月12日、福島県大熊町、朝日新聞社ヘリから、山本裕之撮影
プロローグ
 朝日新聞は、東日本大震災発生時の東京電力福島第一原子力発電所所長、吉田昌郎氏が政府事故調の調べに対して答えた「聴取結果書」を入手した。レベル7の大災害を起こした福島第一原発の最高責任者であり、事故収束作業の指揮官であった吉田氏の唯一無二の公式な調書である。吉田氏は事故について報道機関にほとんど語らないまま2013年7月に死去した。調書も非公開とされ、政府内にひっそり埋もれていた。
28時間、400ページ
 吉田調書は全7編で構成されている。総文字数はおよそ50万字。A4判で四百数十ページに上る分量になる。吉田氏への聴き取りは13回中11回が福島第一原発から南へ20km離れたサッカー施設 J-VILLAGE JFAアカデミーのミーティングルームで、残る2回が吉田氏の仕事場である福島第一原発免震重要棟でおこなわれた。
 政府事故調は772人から計1479時間にわたって聴き取りをおこなった。吉田調書はその一環で作成された。対象1人当たりの平均聴取時間は2時間弱。吉田氏への聴取時間は28時間あまりで、あの瞬間、どう行動し、何を考えていたかまで聴き取った。畑村洋太郎・政府事故調委員長は、ほかに吉田氏の公式の調書がないことから「貴重な歴史的資料」と呼んだ。
怒り、苦悩、分別
 吉田調書の特徴は「吉田氏の言いっぱなしになっていない」点にある。政府事故調は聴き取りを始めるにあたり、「後々の人たちがこの経験を生かすことができるような、そういう知識をつくりたいと思って、それを目標にしてやろうとしています」「責任追及とか、そういうことは目的にしていません」と趣旨説明をした。だが、聴取は決して生ぬるいものではなかった。それは吉田氏への聴取が政府事故調事務局に出向した検事主導でおこなわれたからである。調書は微妙な言い回しも細かく書き起こされている。
 一方、吉田氏のほうも、聴き取りに真剣に応じている様子が調書の文面からうかがえる。調書には、吉田氏が「ここだけは一番思い出したくない」と苦しい胸の内を明かすように話す場面がある。震災当時の社長の清水正孝氏を「あの人」と呼んだり、菅直人氏や原子力安全委員長の班目春樹氏を「おっさん」呼ばわりしたりして、怒りをぶちまけながら話をする場面もある。全編を通して感情を包み隠さず答えていることから、全体として本音で語っていると感じられる。
 吉田氏は、事実と心情や思いとは分けて話そうと努めている。また、事故発生時の認識と、その後に得た情報を加味した自身の考えは分けて話すよう努める様子もうかがえる。
写真|福島第一原発の免震重要棟で、報道陣の質問に答える吉田昌郎所長=2011年11月12日
未曽有の多重災害
 福島原発事故は、複数の原発が同時にやられるという人類が経験したことがない多重災害だった。最初に、注水が止まっているのを見逃された1号機が大地震発生の翌日の12日午後に水素爆発。続いて3号機が注水に失敗し14日午前に爆発。その影響で2号機が格納容器の圧力を抑えられない事態に陥り、15日に今回の事故で最高濃度の放射性物質を陸上部分にまき散らした。同日は4号機も爆発。核燃料プールの水が抜けることが懸念された。もしそうなっていればさらに多くの放射性物質がまき散らされるところだった。
3号機が爆発したときのやりとり。東電テレビ会議の音声から
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過ちは生かされたか
 政府事故調の最終報告の欠点は、原発の暴走を止めるのは人であり、原発被害から住民を救うのも人であるのに、当時のそれぞれの組織の長、首相、経済産業大臣、原子力安全・保安院長、原子力安全委員会委員長、東電社長、そして福島第一原発の所長の行動・判断を一つひとつ検証しなかったことだ。772人もの関係者から聴き取りをおこなったのに、「個人の責任を追及しない」との方針を掲げたため、事故の本質に深く切りこめなかった。政府や電力会社がいま、再稼働に向け、防潮堤のかさ上げやフィルターベントの取り付けなど設備の増強に走るのは、政府事故調が分析・検証を現象面にとどめたからと言っても過言でない。
 未曽有の原子力事故に立ち向かった人間の声は、歴史に刻まなければならない。歴史は人類共通の財産である。第1回の聴取の際、政府事故調は「お話しいただいた言葉がほぼそのままの形で公にされる可能性があるということをお含みいただいて、それでこのヒアリングに応じていただきたいと思います」と説明した。吉田氏は「結構でございます」と即答したことをここに記す。(宮崎知己)
写真|爆発の翌日、白いもや状のものを噴き出す福島第一原発3号機=2011年3月15日、東京電力撮影
全9回で報告
 朝日新聞デジタルでは20日から、今回入手した調書を分析・検証した特集企画「吉田調書 福島第一原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」を配信していきます。政府事故調が吉田氏から聴取しながら報告書ではほとんど言及しなかった「人の行動、判断」の部分に焦点をあて、「原発は誰が止めるか」「住民は避難できるか」「ヒトが止められるか」を考えます。調書の分析・検証にあたっては、東電テレビ会議録、時系列表、および別途入手した東電の内部資料を読み込み、各方面を取材しました。朝日新聞では、吉田調書でわかった新事実を報道します。
ラインアップ
プロローグ

第1章 原発は誰が止めるか
• 1. フクシマ・フィフティーの真相「非常事態だと私は判断して、一回退避しろと」
• 2. ここだけは思い出したくない「チャイナシンドローム…ああいう状況になってしまう」
• 3. 誰も助けに来なかった「ものすごい恨みつらみが残っていますから」
第2章 住民は避難できるか
• 1. 真水か海水か「あの、もう、水がさ、なくなったからさ」
• 2. 広報などは知りません「プレスをするか、しないか、勝手にやってくれ」

•  暴走する原発を止める責務はいったい誰が負っているのか。その人間はいよいよ原発が破裂しそうになったときは逃げてもよいのか。原発の挙動を知ることができない都道府県知事任せで住民はうまく避難できるのか。そもそも人間に暴走を始めた原発を止める能力はあるのか。事故収束作業における自らの行動、判断を反省も交えて語った福島第一原発の事故時の所長、吉田昌郎。吉田の言葉を知ると、ことの真相を知ろうとせず、大事なことを決めず、再び原発を動かそうとすることがいかに大きな過ちであるかに気付く。
 東日本大震災発生から4日目の2011年3月15日午前6時15分ごろ、東京電力福島第一原発の免震重要棟2階にある緊急時対策室。所長の吉田昌郎が指揮をとる円卓に、現場から二つの重大な報告がほぼ同時に上がってきた。
 2号機の「サプチャン」すなわち原子炉の格納容器下部・圧力抑制室の圧力がゼロになったという知らせと、爆発音がしたという話だった。
――― 2号機とは限らないんですが、3月15日の6時から6時10分ころ、その前後の話なんですが、このとき、一つは2号機の圧力抑制室の圧力が急激に低下してゼロになる。それから、このころ、何か。
吉田「爆発音ですね」
――― 音があったと。これは免震重要棟から聞こえたり、感じたりしましたか。衝撃なり音なりというのを。
吉田「免震重要棟には来ていないんです。思い出すと、この日の朝、菅総理が本店に来られるということでテレビ会議を通じて本店とつないでいたんです。我々は免震重要棟の中でテレビ会議を見ながらということでおったら、中操から、あのとき、中操にたまたま行っていたのかよくわからないですけれども、その辺は発電班の班長に聞いてもらった方が、記憶にないんですけれども、要するに、パラメーターがゼロになったという情報と、ぽんという音がしたという情報が入ってきたんですね。免震重要棟の本部席に」
 「私がまず思ったのは、そのときはまだドライウェル圧力はあったんです。ドライウェル圧力が残っていたから、普通で考えますと、ドライウェル圧力がまだ残っていて、サプチャンがゼロというのは考えられないんです。ただ、最悪、ドライウェルの圧力が全然信用できないとすると、サプチャンの圧力がゼロになっているということは、格納容器が破壊された可能性があるわけです。ですから保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性があるということで、ぼんという音が何がしかの破壊をされたのかということで、確認は不十分だったんですが、それを前提に非常事態だと私は判断して、これまた退避命令を出して、運転にかかわる人間と保修の主要な人間だけ残して一回退避しろという命令を出した」

写真|第一原発の免震重要棟にある緊急対策室。左奥にテレビ会議のモニターが見える。室内の放射線量を抑えるため、窓は鉛で覆ったという=2011年4月1日撮影、東電提供
 「1F」すなわち福島第一原発では、2号機の暴走を抑えようと懸命の努力が続けられていた。2号機は前日14日昼以降、状態が急激に悪くなっていた。
 特に原子炉格納容器の圧力上昇への対応は急を要していた。なんとか「ベント」という格納容器の中の気体を外に放出する操作をやって、破裂をふせぎたい。さらに、圧力容器の圧力を下げたうえで消防車を使って炉に水を注ぎ込み、核燃料を冷やしたい。
 15日午前1時すぎ、ベントがうまくいって、原子炉への注水もできたようだという知らせがきた。だが、およそ2時間後の午前3時12分にはこれを打ち消すような知らせが現場から上がってきた。「炉への注水はできてないと推測している」。1、2号機の中央制御室「中操」で運転員を束ねる当直長からだった。
 炉に水が入らない状態が続くと、中の核燃料が、自ら発する高熱でどろどろになって溶け落ちる。さらに手をこまねいていると、原子炉圧力容器の鋼鉄製の壁を、続いて格納容器のやはり鋼鉄製の分厚い壁を突き破り、我々の生活環境に出てきてしまう。
――「保守的に考えて、これは格納容器が破損した可能性がある」
 そんな懸念が持ち上がる状況のもとに飛び込んできた圧力ゼロと爆発音という二つの重大報告。これらが、2号機の格納容器が破壊されたのではないかという話に結びつけられるのは当然の成りゆきだった。
 格納容器が破れると、目と鼻の先にいる福島第一原発の所員720人の大量被曝はさけられない。「2F」すなわち福島第二原発へ行こうという話が飛び出した。
 午前6時21分、まず各号機の中央制御室につめている運転員に、免震重要棟に避難するようにとの命令が出た。少しでも被曝の量を減らすためだ。
 22分には所員全員に活性炭入りのチャコールマスクの着用が命じられた。空気中に漂う放射性物質を口や鼻から吸い込まないようにするためだ。
 27分、退避の際の手続きの説明がスピーカーで始まった。
 ここで、現場から2号機の格納容器の破壊を否定するデータがもたらされた。吉田がいる免震重要棟の緊急時対策室内の放射線量が、毎時15~20マイクロシーベルトとあまり上昇していないことだった。

写真|記者団に囲まれ、福島第一原発で起きた爆発音について説明する東京電力福島事務所員
=2011年3月15日午前8時9分、福島市の福島県自治会館で、村上晃一撮影
吉田「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。2Fに着いた後、連絡をして、まずGMクラスは帰って来てくれという話をして、まずはGMから帰ってきてということになったわけです」
――― そうなんですか。そうすると、所長の頭の中では、1F周辺の線量の低いところで、例えば、バスならバスの中で。
吉田「いま、2号機があって、2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、ここから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」
――― 最初にGMクラスを呼び戻しますね。それから、徐々に人は帰ってくるわけですけれども、それはこちらの方から、だれとだれ、悪いけれども、戻ってくれと。
吉田「線量レベルが高くなりましたけれども、著しくあれしているわけではないんで、作業できる人間だとか、バックアップできる人間は各班で戻してくれという形は班長に」
写真|白いもやを噴き出す福島第一原発2号機=2011年3月15日午前、東京電力撮影(写真の公表は2013年2月1日)
 午前6時30分、吉田はテレビ会議システムのマイクに向かって告げた。「いったん退避してからパラメーターを確認する」。各種計器の数値を見たいというのだ。
 続いて32分、社長の清水正孝が「最低限の人間を除き退避すること」と命じた。清水は、つい1時間ほど前に東電本店に乗り込んできた首相の菅直人に、「撤退したら東電はつぶれる」とやり込められたばかりだ。
 33分、吉田は清水の命令を受け、緊急時対策室にいる各班長に対し、この場に残す人間を指名するよう求めた。
 34分、緊急時対策室内の放射線量について「変化がない」とのアナウンスがあった。
 格納容器上部、ドライウェルの圧力が残っているということは、格納容器が壊れたことと明らかに矛盾する。それよりなにより、緊急時対策室の放射線量がまったく上がっていないことをどう評価するか……。
 吉田は午前6時42分に命令を下した。
 「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後、本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」
 格納容器破壊は起きていないだろうが、念のため現場の放射線量を測ってみる。安全が確認されるまで、最低限残す所員以外は福島第一原発の構内の放射線量が低いエリアで待つ。安全が確認され次第戻って作業を再開するように。これが吉田の決断であり、命令だった。  

写真|福島第一原発で爆発音が聞かれたことで、対応に追われる福島県災害対策本部の原子力班
=2011年3月15日午前8時35分、福島市で、水野義則撮影
 放射線量が測られた。免震重要棟周辺で午前7時14分時点で毎時5ミリシーベルトだった。まだ3号機が爆発する前の3月13日午後2時すぎと同程度だった。吉田の近場への退避命令は、的確な指示だったことになる。
 ところがそのころ、免震重要棟の前に用意されていたバスに乗り込んだ650人は、吉田の命令に反して、福島第一原発近辺の放射線量の低いところではなく、10km南の福島第二原発を目指していた。その中にはGMクラス、すなわち部課長級の幹部社員の一部も入っていた。
 一部とはいえ、GMまでもが福島第二原発に行ってしまったことには吉田も驚いた。
写真|福島第一原発で爆発音が聞かれたことで、対応に追われる福島県災害対策本部の原子力班
=2011年3月15日午前8時35分、福島市で、水野義則撮影
吉田「20~30分たってから、4号機から帰ってきた人間がいて、4号機ぼろぼろですという話で、何だそれはというんで、写真を撮りに行かせたら、ぼこぼこになっていたわけです。当直長は誰だったか、斎藤君か、斎藤当直長が最初に帰って来て、どうなのと聞いたら、爆風がありましたと。その爆風は3、4号機のサービス建屋に入ったときかどうか、そんな話をして、爆風を感じて、彼は入っていくか、出ていくかだったか、帰りに見たら、4号機がぐずぐずになっていて、富田と斎藤が同じだったかどうか、私は覚えていないんだけれども、富田と斎藤から後で話を聞いたら、ぼんと爆風を感じた時間と、2号機のサプチャンのゼロの時間がたまたま同じぐらいなので、どちらか判断できないというのが私がそのときに思った話で。だけれども、2号機はサプチャンがゼロになっているわけですから、これはかなり危ない。ブレークしているとすると放射能が出てくるし、かなり危険な状態になるから、避難できる人は極力退避させておけという判断で退避させた」

写真|記者会見で福山哲郎官房副長官(右)にアドバイスを受ける枝野幸男官房長官
=15日午前11時26分、首相官邸
 福島第二原発への所員の大量離脱について、東電はこれまで、事故対応に必要な人間は残し事故対応を継続することは大前提だったと、計画通りの行動だったと受け取られる説明をしてきた。
 外国メディアは残った数十人を「フクシマ・フィフティー」、すなわち福島第一原発に最後まで残った50人の英雄たち、と褒めたたえた。
 しかし、吉田自身も含め69人が福島第一原発にとどまったのは、所員らが所長の命令に反して福島第二原発に行ってしまった結果に過ぎない。
 所長が統率をとれず、要員が幹部社員も含めて一気に9割もいなくなった福島第一原発では、対応が難しい課題が次々と噴出した。
 まず、爆発は、2号機でなく、無警戒の4号機で起きていたことがわかった。
 定期検査中で、核燃料が原子炉内でなく燃料プールに入っている4号機の爆発は、原発の仕組みを知る世界の人を驚かせた。
 燃料プールは圧力容器や格納容器のような鋼鉄製の容器に守られておらず、仮に核燃料が自らの熱で溶けるようなことがあれば、放射性物質をそのまま直に生活環境にまき散らすからだ。しかも燃料プールには膨大な量の核燃料があった。
 後になって、4号機の燃料プールの核燃料は溶けておらず、爆発の原因は3号機から流入した水素と疑われることになるが、午前9時39分には火災の発生が確認され、米軍から回してもらった消防車で消そうとするなど騒ぎとなった。
――「注水だとか、最低限の人間は置いておく。私も残るつもりでした」
 2号機もおとなしくしていなかった。午前8時25分、2号機の原子炉建屋から白煙が上がっているのが確認された。45分には湯気が見られた。午前9時45分には原子炉建屋の壁についている開放状態のブローアウトパネルから大量の白い湯気が出ているのが確認された。午前10時51分には原子炉建屋で大量のもやもやが確認され、原子炉建屋の放射線量は150~300ミリシーベルトと報告された。
 白いもや、湯気、白煙は、1号機と3号機が爆発する少し前に見られたことから、東電は原子炉格納容器内の気体が漏れ出す兆候として最も警戒していた事象だ。
 福島第一原発の西側正門付近で測った放射線量の時系列をたどると、爆発音が聞こえた午前6時台は73.2~583.7マイクロシーベルトだった。それが所員の9割が福島第二原発に行ってしまった午前7時台に234.7~1390マイクロシーベルトに上昇した。4号機が爆発していたことがわかり、騒然としていた午前8時31分に8217マイクロシーベルト、そして午前9時ちょうど、今回の事故で最高値となる1万1930マイクロシーベルトを観測している。

 吉田は部下が福島第二原発に行く方が正しいと思ったことに一定の理解を示すが、放射線量の推移、2号機の白煙やゆげの出現状況とを重ね合わせると、所員が大挙して所長の命令に反して福島第二原発に撤退し、ほとんど作業という作業ができなかったときに、福島第一原発に本当の危機的事象が起きた可能性がある。
 28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府が、このような時間帯に命令違反の離脱行動があったのを知りながら、報告書でまったく言及していないのは不可解だ。
 東電によると、福島第二原発に退いた所員が戻ってくるのはお昼ごろになってからだという。吉田を含む69人が逃げなかったというのは事実だとして、4基同時の多重災害にその69人でどこまできちんと対応できたのだろうか。政府事故調も東電もほとんど情報を出さないため不明だ。
 この日、2011年3月15日は、福島第一原発の北西、福島県浪江町、飯舘村方向に今回の事故で陸上部分としては最高濃度となる放射性物質をまき散らし、多くの避難民を生んだ日なのにである。(文中敬称略)
第1章2節「ここだけは思い出したくない」に続く
 

写真|原子炉格納容器の据え付けを終えたばかりの福島第一原発2号機(手前左)=1970年、福島県大熊町、朝日新聞写真部撮影
 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後6時。福島第一原発2号機は、重大な危機にさらされていた。1号機、3号機でも手こずった原子炉格納容器のベントが、2号機では本当にどうやってもできなかった。原子炉の中心部である圧力容器の水蒸気を逃がす「SR弁」を人為的に開けて、圧力が下がったところで消防車で注水し原子炉を冷やす試みも、なかなかうまくいかなかった。
――― この後ぐらいに、要するに、SR弁がなかなか開かないというところから、夜に行くぐらいのころ、本店も含めてなのかどうかはともかく、実際の退避は2Fの方に行っていますけれども、退避なども検討しなければいけないのではないかみたいな話というのは出ていた?
吉田「出ています、というか、これは、あまりに大きい話になりますし、そこでうちの本店から言ってきたわけではなくて、円卓で言いますと、円卓がありますけれども、廊下にも協力企業だとかがいて、完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」
 「これで2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」

写真|福島第一原発1、2号機の防護管理ゲートの北側の風景。津波で破壊されたがれきが散らばっている=2011年3月23日、経済産業省原子力安全・保安院提供
 2号機ではいったん13日に、格納容器から排気塔につながるベントライン上の弁を二つとも開け、いつでもベントできる状態にしていたのだが、14日午前11時1分の3号機の爆発で、うち一つが閉じて、開かなくなってしまった。
 午後4時15分に原子力安全委員会委員長の班目春樹から直接電話があり、ベントができないなら原子炉圧力容器のSR弁をすぐに開けろと言われた。が、これも作業を始めてから1時間たったが開かなかった。
 ベントの弁と同様、平素は簡単な操作で開くのだが、125ボルトの直流電源を供給するバッテリーが上がってしまったのか、うんともすんとも言わなかった。
 福島第一原発では、所員の自家用車からはずしてきたり、福島県内のカー用品店で買ってきたりして、12ボルトの自動車用バッテリーをかき集めていた。東電本店や、新潟県の柏崎刈羽原発などほかの発電所からも送ってもらった。それらを10個直列につないで120ボルトのバッテリーにして装着してみたがうまくいかない。
――「ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと」
 10個では電圧が定格より5ボルト足りないからと11個つなぎにすれば良いのではないか、いや、これは電圧でなく電流が足りないから120ボルトのバッテリーをもう1セットつくり、2セットを並列つなぎにしたほうがいいのではないか、と試行錯誤を繰り返したがなかなか開かなかった。
 このままSR弁が開かないと圧力容器内の圧力は高止まりし、消防車の低いポンプ圧力では、いつまでたっても炉に水を注ぎ込むことができない。
 早く水を入れて冷やさないと、炉はますます高温高圧になる。水が蒸発して水位が下がり、核燃料が水面から顔をのぞかせることになる。
 核燃料は水からむき出しになると、そこから2時間で自らが発する高熱で溶け落ちる。いわゆるメルトダウンだ。さらに2時間で圧力容器の壁を溶かして穴を開けてしまう。メルトスルーと呼ばれる事態だ。
2号機の状況をめぐるやりとり
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 吉田が口にした「チャイナシンドローム」とは、アメリカの原発がメルトスルーし、高温でどろどろになった核燃料が格納容器をも突き破り、接するものを次々と溶かしながら、重力により地球の中心に向かい、さらに突き進んでちょうど地球の裏側の中国に到達するという仮想の話を主題にした、ジェーン・フォンダ主演の米映画の名前だ。
 そこまでの惨事となるかどうかはともかく、打つ手がない以上、2号機はメルトスルーに向かっていく。格納容器が破られれば、プルトニウム、ウラニウム、アメリシウムなど猛毒の放射性物質が、生活環境に大量にばらまかれる。
 その際には膨大な量の放射線が所員を一気に大量被曝させるであろう。吉田は、となると、1号機と3号機も原子炉の冷却作業ができなくなり、3機ともメルトスルーするという恐ろしい事態が起きてしまうと思い、ある行動に出た。
写真|福島第一原発1・2号機中央制御室の当直長席で、機器データを記録する作業員=2011年3月23日、原子力安全・保安院提供
吉田「そうなると、結局、ここから退避しないといけない。たくさん被害者が出てしまう。もちろん、放射能は、今の状態より、現段階よりも広範囲、高濃度で、まき散らす部分もありますけれども、まず、ここにいる人間が、ここというのは免震重要棟の近くにいる人間の命にかかわると思っていましたから、それについて、免震重要棟のあそこで言っていますと、みんなに恐怖感与えますから、電話で武藤に言ったのかな。一つは、こんな状態で、非常に危ないと。操作する人間だとか、復旧の人間は必要ミニマムで置いておくけれども、それらについては退避を考えた方がいいんではないかという話はした記憶があります」
 「その状況については、細野さんに、退避するのかどうかは別にして、要するに、2号機については危機的状態だと。これで水が入らないと大変なことになってしまうという話はして、その場合は、現場の人間はミニマムにして退避ということを言ったと思います。それは電話で言いました。ここで言うと、たくさん聞いている人間がいますから、恐怖を呼びますから、わきに出て、電話でそんなことをやった記憶があります。ここは私が一番思い出したくないところです。はっきり言って」
 ここで吉田がとった行動は、東電の首脳と、官邸にいる首相補佐官細野豪志に直接、2号機の惨状を伝え、所員の引き揚げを考える時期がきていると意見することだった。
 テレビ会議システムを使うと、緊急時対策室にいる所員全員に聞かれるので、廊下に出て、携帯電話で密かに報告した。
 退避命令に関しては、実は吉田は今回の福島原発事故の収束作業中、何度か発している。爆発や放射線被曝から所員を守らなければいけないと考えたときだ。
 例えば3月14日朝に3号機の格納容器の圧力が急激に上昇したとき、吉田はテレビ会議システムを使って、「何もできなくなっちゃうんですけども、現場の作業員、うちの社員、一回こちらに退避させてよろしいですか」と了解を求めたうえで、退避命令を出している。
 それが、今回の局面では、携帯電話で東電本店と官邸にこっそり伝えた。吉田の不安は極限にあったと言っていい。

写真|福島第一原発2号機の炉水位低下について記者会見で説明する経産省の西山英彦大臣官房審議官=2011年3月14日午後9時54分、東京・霞が関で、越田省吾撮影
――― それに対して、おふた方、武藤さんなり、本店側の人間に対して電話したときの向こうの反応はどうでした?
吉田「別にどうということではなくて、そういう状況かということなんです。それでOKだとか、そうではないとかいう話ではないんですけれども、私は、そういう危険があるよと、わかったと、そういう感じなんですね。私の行動としては、廊下にいた協力企業の方のところに行きまして、みんな、よくわからないでぼーっと見るなりしていますから、この人たちを巻き込むわけにいかないと思って、一生懸命やってきましたけれども、非常に大変な状況になってきて、みなさん、帰ってくださいと。退避とは言わないです。帰ってくださいと。帰っていただければというお話をして、あとはこっちに戻って来て、こっちも声なかったですよ。その時点で。あとは待つだけですから。水が入るかどうか、賭けみたいなものですから。それだけやったら、あとはほとんど発言しないで、寝ていました。寝ていたというか、茫然自失ですよね」
――― それは、SR弁がなかなか開かないとか。
吉田「開いたんです。開いたんですが、なかなか圧が下がらないところから、SR弁を開けるところはまだ操作ですから、何やっているんだ、どうなっているんだとなるんですけれども、SR弁が開いたにもかかわらず、圧が落ちない。そら、見たことかと。結局、サプチャンのほうが高いですからね。落ちないんではないかと。落ちないで、燃料がどんどん水位が下がっていっているなと」
 「もう一つは、あまり時間がなかったものですから、ポンプが、消防車の燃料がなくなって、水を入れるというタイミングのときに、炉圧が下がったときに水が入らないと。そこでもまたがくっと来て、入れに行けという話をしていまして、これでもう私はだめだと思ったんですよ。私はここが一番死に時というかですね」
写真|原子炉格納容器の組み立てが進む東京電力福島第一原子力発電所2号機=1970年
 午後6時、2号機のSR弁がようやく開き、しばらくして炉の圧力が下がり始めた。これで消防車による注水が可能になると所員は安堵の雰囲気に包まれた。が、喜びは束の間だった。
 午後6時28分、こともあろうに、消防車が燃料切れを起こして注水できていないとの報告が入った。SR弁が1時間半の格闘の末にようやく開き、炉が減圧し始めたのに、これでは燃料の軽油を補給するまで炉に水は一滴も入らない。
 所内には「最後これかい、って感じだなあ」との声が飛んだ。おまけに軽油を消防車への補給のため運ぼうとした小型タンクローリーがパンクで動けないとの情報も入った。
 緊迫の度合いを深めた福島第一原発で吉田は、官邸と東電本店に2号機の状況を報告した後、下請けの協力会社の人たちに福島第一原発から離れるよう勧め始めた。
――「寝ていたというか、茫然自失ですよね」
 東電本店も、福島第一原発の所員を福島第二原発に移動する手配を開始した。所員の数の確認をおこない、一度にバスで全員運べるかの計算も始めた。
 午後7時40分、「東電のバスはですね、マイクロが20人乗りが2台、中型が1台、30人乗り」「そのほかに構内のバスが7台ありますが、運転手は何人いるか、ちょっといま確認中です」と報告された。
 東電本店は、福島第二原発での受け入れ態勢づくりと、吉田が指揮を執る福島第一原発の緊急時対策室を、福島第二原発に移す作業も始めた。
 午後8時17分、福島第二原発の所長、増田尚宏は次のように知らせてきた。
 「2Fのほうは、えっと、1Fからの避難者のけが人は正門の脇のビジターズホールで全部受け入れます。そして、それ以外の方は全部、体育館に案内します」
 「緊対を我々の2Fの4プラント緊対と、えっと、1Fから来た方が使える旧の緊対と、緊対を二つに分けて用意しておきますんで、そこだけ、本店側は、その両方の使い分けをしてください」
 しかし、東電は結局、3月14日夜は福島第二原発行きを実行しなかった。
 社長の清水正孝は午後8時20分に「あのう、現時点でまだ最終避難を決定しているわけではないということをまず確認してください。えー、それでいま、あのう、しかるべきところと確認作業を進めております」と発言している。その、しかるべきところとの調整がつかなかったのだ。
最終避難について話す清水正孝社長
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 危機に立ち向かって原発事故を抑え込む、原子力災害抑止隊と呼べるような組織は存在しない。自衛隊は、国の平和と安全に重要な影響を与える事態や大規模な災害に対し、迅速かつ的確に対処し得るような即応態勢を維持、向上させているというが、関連機関との連携が前提で、自分たちは原発を制御する技術や知識を持っていない。
 原子炉を制御して事故を収束にもっていける者は、電力会社員以外にはいない。だが、福島第一原発が起きる前も今も、彼らの行動をしばる規定はない。しばることの是非が声高に議論されたこともない。

第1章3節「誰も助けに来なかった」に続く



写真|福島第一原子力発電所の免震重要棟で、報道陣の質問に答える吉田昌郎所長(白の防護服姿)。右は細野豪志・原発担当相(当時)=2011年11月12日、福島県大熊町、相場郁朗撮影
 東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午前11時01分、福島第一原発の3号機が爆発した。
 分厚いコンクリート製の建屋を真上に高々と吹き飛ばしたところを無人テレビカメラに捉えられ、ただちに放映された、あの爆発だ。
――― 水が欲しいときっとなるだろうから、そうだったら、何はともあれ外との間のパイプラインをつくってしまえという指示をどこかで出したのかなと思っていたんですが、パイプラインを何でもいいからつくってくれと、そんなことまでは頭が動かないのか、それとも、言っても先ほどのように。
吉田「それはわからないです。私はこの中にいましたので、外からどういう動きをしていたかはちっともわからないんで、結果として何もしてくれなかったということしかわからない。途中で何かしてくれようとしていたのかどうか、一切わかりません」 
――― わかりました。私はそこまででいいです。
吉田「逆に被害妄想になっているんですよ。結果として誰も助けに来なかったではないかということなんです。すみません。自分の感情を言っておきますけれども、本店にしても、どこにしても、これだけの人間でこれだけのあれをしているのにもかかわらず、実質的な、効果的なレスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」
――― それは誠にそうだ。結果として誰も助けに来てくれなかった。
吉田「後でまたお話が出ますが、消防隊とか、レスキューだとか、いらっしゃったんですけれども、これはあまり効果がなかったということだけは付け加えておきます」

写真|爆発した3号機の原子炉建屋=2011年11月12日、福島県大熊町、相場郁朗撮影
 3月12日午後の1号機の爆発に続き、日本史上2度目の原発の爆発も、ここ福島第一原発で起きてしまった。
 外で作業にあたっていた人が怪我をした。当時、原子炉への注水は、3号機の海側にある逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を、消防車で汲み上げておこなっていた。その屋外作業に大勢がかかわっていた。
 また、自衛隊がちょうど給水車で原子炉に入れる水を補給しにきていた。作業をしていた6人は被曝し、何人かは怪我もした。
 福島第一原発では所長の吉田昌郎以下、所員の落ち込みようは激しかった。吉田はサイト、すなわち発電所のみんなの声を代弁し、午後0時41分、テレビ会議システムを使って、声を詰まらせて東電本店に次のように訴えた。
 「こんな時になんなんだけども、やっぱり、この……、この二つ爆発があってですね、非常にサイトもこう、かなりショックっていうか、まあ、いろんな状態あってですね」
 社長の清水正孝の答えは、次のようなものだった。
 「あの、職員のみなさま、大変、大変な思いで対応していただいていると思います。それで、確かに要員の問題があるんで、継続につき検討してますが、可能な範囲で対処方針、対処しますので、なんとか、今しばらくはちょっと頑張っていただく」
 東電本店はヒトだけでなくモノの面でも福島第一原発を孤立させていた。
ショック状況を伝える吉田昌郎所長
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 福島第一原発では、いまや原子炉の冷却の主軸である消防車のポンプを回すための軽油も、中央制御室の計器を動かすのに必要な電気を発電するためのガソリンも、ベントなどの弁を開けるのに必要なバッテリーも足りなかった。
 所員はこれらの必要物資を、10km離れた福島第二原発、20km南のスポーツ施設Jヴィレッジ、場合によっては50km南の福島県いわき市の小名浜コールセンターまで取りに行っていた。
 東電本店は福島第一原発まで運ぶよう運送業者に委託するのだが、3月12日に1号機が爆発し、避難指示の区域が拡大してくると、トラックがその手前までしか運んでくれなくなったのだ。
 トラック業者だけでない。福島第一原発は、同じ東電の福島第二原発からガソリン入りのドラム缶をもらうときも、中間地点にあるコンビニエンスストア、通称「三角屋のローソン」や、ホームセンター「ダイユーエイト」の駐車場にそれぞれが運搬車で乗り付けて、引き渡してもらっていた。
 福島第二原発としては、福島第一原発に直接行ってしまうと、運搬車が放射性物質に汚染され、除染しないと乗って帰れなくなるからだった。
写真|3号機の中央制御室=東京電力提供
――― この注水の作業なんかについては、消防車の運転操作なんかの委託をしていた、日本原子力防御システムですかね、そういうところだとか、南明興産というところですね、こういうところも協力していただいている?
吉田「最初は協力してくれる」
――― 途中からは。
吉田「線量が出てから」
――― 線量が上がり過ぎて、その人たちの作業はできなくなったと。それ以降は、東電の。
吉田「自衛で」
――― その自衛消防隊の方だけでやっていたんですか。
吉田「はい。何人か奇特な方がいて、手伝ってくれたようなことは聞いているんですけれども」
――― それは。
吉田「南明さんとかですね。ほとんど会社としては退避されたような形で、個人的に手伝ってといったらおかしいんですけれども、そういうことは聞いております」 (中略)
――― 3月16日以降とかは、がれきの整理などのために、例えば、がれき撤去のための作業用の車両みたいなもの、ブルドーザーなり何なり、そういうものは届いていたんですか。
吉田「バックホーが数台もともとこちらにあったのと、間組さんがどこかから持ってきてくれて、主として最初のころは間組なんです。土木に聞いてもらえばわかりますけれども、間組さんが線量の高い中、必死でがれき撤去のお仕事をしてくれていたんです」
――― これは何で間組なんですか。
吉田「たまたま、私もよくわかりません。そのときは線量が高いんですけれども、間組が来てくれたんです」
――― この辺周辺の撤去などの作業をしてくれたんですか。
吉田「それもやりましたし、6号への道が途中で陥没したりしていたんです。その修理だとか、インフラの整備を最初に嫌がらずに来てくれたのは間組です。なぜ間組に代わったかというのは知らない。結果として間組がやっているという状況だったので、たぶんいろいろお話をして、一番やろうという話をしてくださったんだと思います」
「どあほ」と叫ぶ吉田昌郎所長
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 東日本大震災発生当日の2011年3月11日午後9時44分、新潟県にある東電柏崎刈羽原発を1台の化学消防車が福島に向けて出発した。消防関係の業務を東電から請け負っている南明興産という会社の社員3人が乗っていた。
 交流電源をすべて失った福島第一原発で、原子炉を緊急に冷やすポンプがすべて使えない状態になっていた。吉田らが代わりに思いついたのは、消防車を使って外から原子炉に注水する方法だった。過酷事故時の対応を定めたアクシデント・マネジメント・ガイドには書かれていない世界初の試みだ。
 ところが、福島第一原発の消防車3台のうち、使えるのは1台だけだった。1台は津波にやられ、もう1台は構内道路がやられて1~4号機に近づけないところにあった。
 消防車を操れる人間はもともとごく少数。それもそのはず、東電の社員は誰も消防車を運転したことがない。ホースを消火栓につないだり、ホースとホースをつなぐなどの消防車周りの作業もしたことがない。
 南明隊は到着するやいなや、あちこちにかり出された。
――「実質的な、効果的なレスキューが何もない」
 福島第一原発では、消防車から原子炉への注水の経路がめまぐるしく変わった。防火水槽やタンクの淡水を入れていたかと思うと、次は逆洗弁ピットというくぼみにたまった海水を入れる。その次は海の水を直接汲み上げて入れる。そのたびに消防車を動かし、ホースをつなぎ変えた。南明隊は途中、東電の要請で部隊増強を図った。
 消防車周りの仕事はたいてい屋外作業となる。そのため、常に高い値の放射線にさらされたし、1号機や3号機が爆発した時はがれきの雨に打たれた。
 吉田も気遣ってはいたが、なにせ彼らの代わりができる人間が東電にいなかった。
 一方、がれきの撤去作業では、一部のゼネコンが一肌脱いだ。
 福島第一原発では15日以降、各号機の核燃料プールの冷却が大きな課題になっていた。特殊な消防車で地上から放水することが考え出されたが、がれきが、各号機へ消防車が近づくことを拒んでいた。
 がれきは、1、3、4号機の相次ぐ爆発で発生したもので、がれき自体が高い値の放射線を発していた。
 それを人と重機を投入して片付けた。これもまた高い値の放射線量のもとでやってのけた。

写真|消防車による原子炉への注水=2011年3月16日、福島第一原発で、東京電力撮影
がれきの状況を話す吉田昌郎所長
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――― こういう爆発があって、例えば3月13日とか14日というのは、保安院の方というのはどうなんですか。
吉田「よく覚えていないんですけれども、事象が起こったときは、保安院の方もみんな逃げて来て、免震重要棟に入られたんです。それから即、オフサイトセンターができたので、オフサイトセンターに全部出ていった。私の記憶がなかったので、先ほどDVD議事録を見ていたら、武藤が途中で大熊にあったときのオフサイトセンターから保安検査官をこちらに送り込むという話はあったんです。結局あれは14日だったんですけれども、来られなかったんです」
――― 来なかったんですか。
吉田「はい。私は記憶がないんだけれども、今みたいに24時間駐在で来られるようになったのは、もうちょっと後だと思います」
――― 保安院の方が来られると、例えば情報を得ようと思ったら緊対室に来ますね。
吉田「はい」
――― そのときというのは、所長に何かあいさつなりというのは、向こうからするんですか。そのまま本部の円卓の辺りにいるんですか。
吉田「我々別に保安検査官を拒絶するつもりもないし、来られるようなときに来られればよくて、彼らは保安院の制服を着ていらっしゃいますから、いらっしゃるということで、ごく普通に会議の中に入ってもらえばいい、という形で対応しています」
――― それは円卓に保安院用の席があるんですか。
吉田「もともとはなかったんです。そんな話があって、保安院の人に座っていてもらえという話をしたんです」
――― それはいつごろですか。
吉田「最初に武藤から電話があって、保安院さんが来るという話のときに、短期間で1回来られたかも知れないんです。14日ごろにね。そんな記憶もあるんです。ちょこっといらっしゃった。オフサイトセンターが福島に引き揚げるとなったときに、みんな福島に引き揚げられて、結局、16日、17日ぐらいまで、自衛隊や消防がピュッピュやっているときはいなかったような気がするんです」
――― サイト内に来られたとすれば、例えば保安院の事務所の方にずっといるわけではないんですか。
吉田「住むところは免震棟しかないわけですから、事務所には行きようがないんです。線量もあるし、被曝もあるしね」
写真|上空から見た福島第一原発の3号機(左)と4号機周辺=20日午前11時3分、福島県大熊町、本社ヘリから
 各原発には、原子力安全・保安院、今なら原子力規制庁に所属する原子力保安検査官が、常駐する制度になっている。
 東日本大地震発生時、福島第一原発内にも当然いて、地震後一時、免震重要棟に入っていた。だが、しばらくして南西5kmのところに福島オフサイトセンターが立ち上がると、そこへ移動した。
 2日後の3月13日午前6時48分、そのころオフサイトセンターに詰めていた東電原子力担当副社長の武藤栄が、吉田に、保安検査官が福島第一原発に戻ると連絡してきた。
 「保安院の保安検査官が、そちらに4名常駐をしますと。12時間交替で1時間ごとに原子炉水などプラントデータを、報告をするということになります」
 吉田は即座に「保安検査官対応!」と受け入れ態勢を整えるよう部下に指示した。
 保安検査官はその後しばらくしてやって来たが、3月14日夕方、2号機の状況が急激に悪化するとまたオフサイトセンターに帰ったとみられる。そして、15日朝、オフサイトセンターが原発から60km離れた福島市へ撤収すると、いっしょに行ってしまった。
――「みんな福島に引き揚げられて」
 一方、原発から5km離れたところにあるそのオフサイトセンターだが、原発事故があったら、10以上の省庁から40人超が集まり、原発や周辺自治体と連携して、情報を収集・発信する拠点になると定められていた。甲状腺がんを防ぐ安定ヨウ素剤の配布指示でも大きな役割を担っていた。
 それなのに、今回の事故では半数強しか来なかった。班が七つ立ち上がり、それぞれが班長の指揮のもと作業にあたることになっていたのだが、班長が3月末近くまで来ない班もあった。
 最も大変な事態が進行しているときに、原発を操作できる唯一の組織である電力会社が収束作業態勢を著しく縮小し、作業にあたる義務のない者が自発的に重要な作業をし、現場に来ることが定められていた役人が来なかった。
 これが多くの震災関連死の人を出し、今もなお13万人以上に避難生活を強いている福島原発事故の収束作業の実相だ。

第2章1節「真水か海水か」に続く









(私論.私見)