2018. 3.11日、三陸巨大震災7周年れんだいこコメント |
更新日/2018(平成30).3.5日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、三陸巨大震災7周年に当たり、思うことを書き綴っておく。 2017.03.11日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1299 投稿者:れんだいこ/2018.3.11日 |
三陸巨大震災7周年れんだいこコメント 2018(平成30).3.11日、またこの日がやってきた。今年の3.11で事故発生以来7周年の8年目を迎えている。地震、津波被災の宮城、岩手、青森、茨城、千葉の復旧と復興が遅滞しているとしたらそれは政治の怠慢以外の何物でもない。問題は福島原発事故絡みの被災である。現代文明はこれを御す力がない。にも拘わらずこれを活用して安全と偽って操業し続けてきた。今そのツケに苛まされている。福島に事態の深刻さを見て取るべきところ、耳障りの良い良薬口に甘い政治、行政対応ばかりが目について仕方がない。 福島原発事故事態は少しも改善されていない。否、むしろ放射能汚染数値が益々深刻になっている。凍土工法はやってみただけで何の役にも立たない。これから気の遠くなるような期間と費用をかけて対策して行かねばならない。しかも今のところその成算はない。こういう事態であるにも拘わらず、日本政治は事態を隠蔽し続けている。最近の動きとして、原発被害直下地域の浪江町、双葉町、原発現地、大熊町、富岡町、飯館村、小高町、田村市、楢葉町、南相馬市、川俣町、川内町、葛尾村の避難指示圏の幾つかの市町村に対して、根拠が不明のまま住民帰還が催促されつつある。今年3月末、9市町村の旧避難区域の被災住民に支給されていた一人当たり月10万円の精神的損害賠償が打ち切られる。対象は約1万9千世帯、約5万6千人に上る。 アンダーコントロールと嘯く自公政権はあろうことか原発再稼動、原発輸出、原発新設の動きを加速している。福島原発事故及びその放射能汚染が存在しないかのように平然と東京オリンピックを誘致し、目下開催へ向けて槌音を高くしつつある。冬季オリンピックを終えた今、残された期間は2年半になっているが、この間に福島原発ゴジラがますます巨大化する。果たして東京オリンピックが安全に開催できるのか誰も問わない。あたかも、見ようとしなければ存在しないかの如く「見ざる、聞かざる、云わざる」の三ザル姿勢を取り続けている。この態度は、日本人民は無論のことオリンピック目当てで来日する外国人も含めての「命」に関わっているだけに看過できない。これを意に介さない日本政治は狂っており「気違い政治」が続いている。そういう意味で、三陸巨大震災が事件化している。 ところで、最近は「気違い」と云う言葉が言葉狩りされているようで、これに一言しておく。言葉狩りの流れに従えば「気違い」表現は禁句なのだろう。そこで、これに拘る向きの者に対しては「識違い」と云う言葉を造語して「識違い政治」と言い換えておく。が、やはりシックリしない。「気違い」の方が語感がピッタリする。「気違い」表現が既に歴史的に獲得された言語として馴染んでいるからであろう。 言い添えておくが、「気違い」はヘイトな言葉ではないのではなかろうか。「狂人」を「気の間違いにより現象している病気」と見做しての「気違い」表現であり、この表現には「気の間違い」を直せば正気に戻る可能性を担保させているのではないのか。そうなるとむしろ漢音式「狂人」表現に比べ優しい気遣いをしていることが分かる。即ち、便所を「お手洗い」と表現するのと同様の日本語特有の上品言葉なのではなかろうか。してみれば、そういう上品言葉にまで言葉狩りを進行させて良いものだろうか。ヘイト表現は鼻つまみもんであるが、目下の言葉狩りの乱用にも鼻じらむべきではなかろうか。著作権強権化の流れと並行して言葉狩りが進行しつつあり、それは決して良い流れではないと思う。 もとへ。折も折、毎日新聞記者/伊藤智永のブログ「時の在りか」の2018.3.3日付「愛とは被曝(ひばく)し合うこと」が議論を呼んでいる。原発の西45キロにある三春町で生家の禅寺を継ぐ芥川賞作家/玄侑宗久(61)氏が震災から7年かけて書き下ろした最新作「竹林精舎」(朝日新聞出版)からの引用で、古里でもない福島の放射線量が高い山寺に20代の男女が移り住むまでの恋愛物語を作品にしていると云う。その中での一節に、「愛し合うって、被曝(ひばく)し合うことだよね」という「か細いつぶやき」があり、伊藤氏は、その下りを紹介した上で、「読後も余韻を引く」としている。作者の玄侑氏も記者の伊藤氏もステキな文句であるとして肯定的に紹介しているようである。 これに対して、私のみならず多くの人が違和感を表明している。私の見解はこうである。両者とも原発の恐ろしさについて宥和的過ぎる。「愛し合うって、被曝(ひばく)し合うことだよね」と労り合う恋愛を取り上げて好意的に評すべきだろうか。この式の恋愛は果たして「読後も余韻を引く」純愛だろうか。私なら、原発を正しく怖がり、原発事故事件に適切に対応すべく助け合っている、あるいは呻吟している恋愛の方をステキだと思う。 作者の玄侑氏も記者の伊藤氏も、この恋愛をどのレベルでステキと評価しようとしているのだろうか。私には、原発に対しての両者の宥和的思想、感情が鼻につく。そういう姿勢により「愛し合うって、被曝(ひばく)し合うことだよね」をステキとしているのなら、それは変態方向への誘導に加担していることになるのではなかろうか。その精神は深部で体制迎合的なのではなかろうか。東電にとって何と好ましい評だろうか。こういう物言い定向進化させたらやがて、「愛し合うって、奪い合うことだよね」、「愛し合うって、殺し合うことだよね」へと辿り着くことになるのではないのか。即ち、物事が逆に語られ始め、それが罷り通るようになるのではないのか。言葉を大事にする職業の者がこの辺りに鈍感ではお粗末過ぎよう。 日本政治は福島原発の事件その後を隠蔽し続け、原発行政に水路を拓き続けている。東京オリンピックまでの2年半、陸も海も放射能汚染が酷くなり続ける。並行して被爆病人、被爆死者が増え続ける。これは端から分かりきっていることなのに、日本政治は与野党共々に目と意識を逸らし続けている。近未来、日本政治は現実の前に国際的詐欺として顰蹙を買うことになるだろう。 思うに、原発問題は折衷案件ではない。つまり程度問題事案ではない。これを受け入れるのか拒絶するのかの二者択一国策事案である。両者には共存がないと心得るべきだ。原発拒絶派は、原発容認派のうちの推進責任者を牢屋へぶち込むまで戦い続けるべき厳しい事案であると心得るべきだ。口で原発反対を唱えて事足れりとするのは原発容認派の側に位置していよう。原発事案に対してはこう認識して対応するのが正しい。これはまさしく原発戦争なのである。事態をこう深刻に認識して対応しなければならない。 事故発生時の民主党政権の対応の不快さは、これを程度問題の折衷事案として対応したことにある。故に、のらりくらりで、口では脱原発、実際には原発当分依存、遠い何十年も先の原発撤退と云うヌエ対応に終始してきた。避難対応、メルトダウン対応等々が逆向きで何の役にも立たなかったのは周知の通りである。 その民主党政権が滅び、元の木阿弥式に自公政権が誕生し今日に至っているが、この日本政府の福島原発事故対策がデタラメである。福島原発事故対応が混迷を深めつつあるのに国内外に対して「アンダーコントロール」宣言し続け、原発再稼動に向けて営為しており、世界のお笑いとなっている。この虚構が破綻するのは近々のように思われる。このサマは、日本全体がタイタニック号に乗船しており、最後の宴に興じているように思われる。既に死相を深めつつある不気味な宴である。 本来は被災住民を疎開させ、新天地で生活が成り立つよう援助していくべきところ、被災住民が地元を離れないよう囲い込みして現在に至っている。住民の過半がそれを良しとして放射能汚染下で生活し続けている。その悲壮なる郷土愛を思えば、政治の果たす役割は、在留住民と避難住民のどちらもの権利が正当に認められなければならない。即ち、被災地在留も、県外移住も、県内出戻りも、再転出も全てあり得て良い。ちなみに、福島からの県外避難者は約3万4000人、県内の他の自治体への避難者は1万5000人超とのことである。 この見地から行政すべきところ、実際の政治は、被災住民を被災地在留させ、いつの間にか避難指示が解除され、県外移住者の出戻りが督促されている。避難住宅支援の打ち切りが強行されている。この行政は逆采配であり犯罪であり世界残酷政治の一つとして語られることになるであろう。 「染作業に技能実習生 ベトナム男性『説明なかった』」によると、技能実習生として来日したベトナム人男性(24)が、実習先の建設会社の指示で、除染作業との説明がないままに東京電力福島第1原子力発電所事故に伴う除染作業に従事させられ、酷使被爆させられている。刑務所への服役者の雇用も組織化されている。この行政は逆采配であり犯罪であり世界残酷政治の一つとして語られることになろう。 日本は今や正真正銘の国難期に遭遇している。日本の存立そのものが不能にされつつある。そういう意味での危機の只中にある。この危機は偶然のものではないと心得る。れんだいこの国際ユダ邪論によれば、彼らから見て最も手強い相手である日本思想、日本精神を解体せんが為に陰謀が仕掛けられており、事態が陰謀シナリオに沿って誘導されている。この陰謀は近いところで、幕末の黒船来航が嚆矢になる。次に、第二次世界大戦に誘われ、広島、長崎への原爆投下でもって降伏を余儀なくされ、戦後の国際ユダ邪系占領軍支配を迎えた。これが第二の危機である。そして今、先の世界大戦の敗北を奇禍として原発を敷設され、その原発による日本溶解の危機を迎えている。これが第三の危機である。原発の真の目的は電力供給源としてより軍事的制圧にこそ狙いがあるように思われる。米軍基地と原発による二元支配が敷かれている気がしてならない。 この危機感、この情況認識を正しくせねばならないところ、目下のいわゆる戦後知識人どもにはここのところの認識能力がなく、その能力の底の浅さを晒している。彼らにはなぜこの危機感がないのか。それは、彼らに教授されているテキストに原発の悪魔科学性が記されていないからである。彼らは基本的に暗記屋であってテキスト通りにしゃべるオウムでしない。肩書きで辛うじてインテリ性を裏づけているが本質的にはバカで役立たずが多い。 こうして日本は原発により国体溶融を余儀なくされつつあるが、そういう時代に相応しい政治、経済、文化、精神を晒している。そういう低レベルの者どもによって、その者たちに相応しい低レベルの政治、経済、文化、精神を現出させている。そういう彼らに日本を御させるのは限界だろう。彼らを重役からどう引き摺り下ろし我々が任に就かねばならない。状況をどう読み解き、どう対応すべきか、ここが問われている。日本の能力が問われる正念場を迎えている。この認識と解析と適切対応政治が待ち望まれている。これを本年の餞の言葉にしておく。 |
(私論.私見)