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岩本忠夫の転向 反対運動からの離脱
1970年代に入ると社会党の左傾化と共に原子力に対しても反対の姿勢が強まった。1972年9月1日には社会党主催、総評、原水禁国民会議共催で「原発対策全国代表者会議」が開かれ建設が大幅に進行したプラントに対しては一時的な稼働停止を含めて信頼性向上のための監視を強め、新たな建設計画に対しては(同党の側から見て)安全の諸条件が満たされない限り取りやめを要求することなどを運動方針とした。「原発闘争で中央に共闘組織の結成へ 社会党・総評が「原発対策全国会議で決める」」『原通』1972年9月18日 2044号P10-12
請戸漁港は浪江・小高立地点にほど近い場所に位置しており、元々は保守色の強い漁村であった。請戸漁協は福島第二原子力および広野火力の建設の際にも漁業補償金の分配対象となっていた。ところが1974年5月、この補償について組合長に不正をしている事が組合員より指摘され、反対運動とも結びついた。結局、請戸地区の有権者1200名の内900名が浪江・小高立地点へ反対署名を行った。(岩本忠夫 1975, p. 39)
福島第二原子力発電所の建設に際して、岩本等後の反対同盟のメンバーは、学習会を開いて団結を高め、1970年からは土地収用法の勉強会を開始した。しかし、8月30日に開く予定だった3回目の学習会を前に、8月25日から26日にかけて反対運動に対する推進派の切り崩しは大詰めを迎え、建設阻止は失敗に終わったのである。岩本等は1972年8月8日、相双地方反対同盟として原子力発電所に反対するための組織を結成し、後に双葉地方原発反対同盟に改名したが、この団体を結成した背景には、この時の反省があったという。(朝日新聞いわき支局 編. 1980, p. 336)
1980年頃には社会党系労組員を中心に約30名が同盟の構成員であり、規模的には結成時と大差が無かった。朝日新聞は「着実に育ってきている」としつつも「とても地域の住民運動とまではいかない」と評していた。それでもスリーマイル島原子力発電所事故が発生した1979年、岩本は3度目の県議選に出馬しマスコミは「岩本の選挙に神風が吹いた」と喧伝した。しかし地域にビラまきをしても原子力発電による雇用、交付金等の恩恵を受けている地元にとっては「糠に釘を打つような感じ」で選挙の争点にはならず、岩本陣営にとっては追い風にはならなかった。この選挙以降、岩本は徐々に反対運動から離れ始めた。石丸は「あの選挙を通じて、原発反対運動をしていては政治的な思いを達成することはできないと思ったのではないでしょうか」と推量している。1983年の県議選落選後は家族と「政治からは一切手を引く」と約束し、暫くは家業の酒店を営んでいた。一族に東京電力社員となる者が現れた関係で、社会党は1984年暮れに離党したが、地元小学校のPTA会長や商工会の副会長などを引き受けていた。なお、石丸は上記岩本の親族の件を挙げ、そのために「推進派に転じたという人がいるけれど、そんなちゃちな人ではないですね」とコメントしている。
推進派として町長就任:
その後、岩本は1985年に双葉町長選挙に出馬した頃には明確に転向していった。1985年まで続いた田中清太郎町政では、1981年から始めた下水道工事で赤字を出し、穴埋めを町予算の付帯工事費名目で支出して秘密裏に解決しようとした。しかし、この問題が明るみに出て工事を請け負った建設会社には警察の捜査が入り、かつその会社は田中町長がオーナーであった。田中町長は逮捕こそされなかったものの町民の信用を失い、1985年12月の選挙では保守派は後継候補を立てたものの、岩本と争った末落選したのである。一方、この機会に岩本は周囲より要請を受けて立候補したが、約束違反であると3名の子供から反対された。『エネルギーフォーラム』によると過去の姿勢については選挙中保守派から大量の糾弾チラシも撒かれたが、岩本自身は「あのころの第一原発一号機はトラブルが多かった。立地町民そして県民の生命、財産を守る立場から数多く質問したのは事実だが、それを反原発とみるか安全重視とみるかは勝手ですが…。十年以上の歳月が流れ、原発立地町も増え、安全性もグンと高まっていると思う」「東電さん、ご安心を」と述べている。また『福島民報』の取材に対して「社会党の看板がなくなったら自由にモノが言えるようになりました」と述べている。
双葉町長時代の発言 「双葉町は、原子力発電所との共生をしてきた。共生していくということだけではなくて、運命共同体という姿になっていると実は思っています。ですから、いかなる時にも原子力には期待をしています。「大きな賭け」をしている、「間違ってはならない賭け」をこれからも続けていきたいと思っております。原子力発電は私の誇りです」。
その後岩本は7・8号機の増設誘致活動を主導し、かつての反対姿勢を知る者たちを唖然とさせた。恩田はこれを「アリ地獄」と批判した。「脱原発福島ネットワーク」の佐藤和良は1980年代に工業誘致などで進められたポスト原発政策が増設誘致策となったことや、議会決議を住民無視のものとして批判した。また、佐藤和良によれば、1989年の福島第二原子力発電所2号機で発生した再循環ポンプ破断事故の影響で、反岩本派の保守系元町議らは「双葉町原発安全推進町民協議会」を組織し、集会の開催や町長に対する公開質問状の提出などを行い、元町議の中には増設誘致を表明した岩本にリコールを求めたいと述べている者もいたという。
こうした岩本町政に対して、元町議となった鶴島は告発を行っている。内容は7・8号機建設のために双葉町側に建設された資材搬入用の道路(将来第二のメーンゲートとなるはずだった)の用地買収に際し、地主の一部に用地代を支払った他に無料で代替地を提供したり、買収地主の所得税を負担するといった応分以上の支出があったというものだった。国労出身の鶴島は粘り強く告発を続け、最終的に岩本町長、町幹部が弁済するところまで漕ぎ着けたという。後に開沼博は『フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたか』(2011年)等でポストコロニアリズムの文脈を基礎に、保守派でありながら徐々に反対派的な姿勢が強まり始めた佐藤栄佐久と対比している。石丸等反対運動家はこのような岩本の転向、町長時代の行動を「国と事業者に徹底的に利用されました」「国と電力にとって相当使い勝手があったはずです」としている。
プルサーマルへの協力要請は1997年2月に科学技術庁長官、通産大臣、次いで総理大臣の名前で福島、新潟、福井の立地3県知事宛に行われたことが発端であった。これを受け、福島県は「核燃料サイクル懇話会」を約1年間、7回に渡って開催、佐和隆光は懇話会からの参加者で、佐藤栄佐久とは旧知の間柄であったという(寺光忠男 & 松富哲郎 1998, p. 69)。なお、佐和は第1回懇話会で反対派の論点を「バックエンド対策について国民的合意を得ることが先決であり、それまではモラトリアムとすべき」とまとめ、佐藤栄佐久はこれを受け第2回懇話会で資源エネルギー庁の推進一辺倒の姿勢を批判している(寺光忠男
& 松富哲郎 1998, p. 69)。
岩本自身は晩節原発事故を見届けて2011年7月15日に82歳で逝去したが、事故後に原子力発電に対してはっきりしたコメントを残していないため最晩年の真意については推測が語られているのみである。