御言葉

 (最新見直し2007.10.15)

 「理屈は後からついてくる」
 (御意)

 新約聖書(キリスト教聖書)の一つ「ヨハネ伝」に「はじめに言葉ありき」という絶対命題が有る。ヨハネ伝は、イエスの御言葉をユダヤ教理から裏付けており、その分イエスの御教えからは離れているが、キリスト教徒の多くが他の福音書より重き価値を置く福音書である。キリスト教はこういう風にイエス教とユダヤ教を混交させている。れんだいこは、「はじめに言葉ありき」をイエスの御言葉とは受け取らずユダヤ教の教義としてこれを受け取る。

 この命題を安易に考えてはいけない。この命題はユダヤーキリスト教の世界観を規定するものであり、曰く「この世はロゴスである」として神による創造、秩序、予定調和、規律等々諸々一切を一括して表現した原理原則として最重要な思考のレールであることを知る必要がある。いわば、ユダヤーキリスト教の踏絵であり、この踏絵を通過したものだけが真のユダヤ−キリスト教徒であるという構図になっている。我々は、かく認識しているだろうか。

 実際には、ユダヤ−キリスト教徒だけが「はじめに言葉ありき」を受け入れているのではない。この踏絵は、人間のロゴス的思考気質の表現であり、凡そ世の中の三分の一の者がこの言葉に共感を逞しゅうする癖があるということを見て取る必要がある。残りの三分の一の者はこの意味を深く考えようとしたがらない。残りの三分の一の者がこの命題を受け入れない。これが世の中だと云うことを知らねばならない。世の中万事こうした三項分立で成り立っており、こうした対立にも拘らず窮極調和によって成り立っていることが知られねばならない。

 さて、それでは、この命題を受け入れない三分の一の者にこれに代わる命題は無いのだろうか。ここが重要である。有る。それは何か。それが 「理屈は後からついてくる」精神である。先の命題に対抗的に言い換えれば、「はじめに行為ありき」ということになる。更に言い換えれば、「この世はカオスである」ということになる。これもまた絶対命題である。

 では、弁証宗は、この相対立する命題のどちらを選ぶのか。そのことをはっきりさせる前に言い聞かせておかねばならないことがある。この命題は、どちらを選ぶにせよ、人類の思考にレールを敷く役割を果たしており、このレールを敷くことにより以降一切がこのレール上で知識、経験、叡智を研鑚習得していくことになるということである。

 しかしてこのレールの敷き違いの差は天文学的に大きい。このレールは互いが平行線の関係であり、時に交叉することはあっても絶対に溶け合うことは無い。この思考の二大対立により、以降は同じ言葉を使っても妙に理解が異なってくるということを知らねばならない。つまり会話が通じない。世の識者にあっても案外とこの識別が為されていないので、このことを強調しておきたい。

 もう一つはっきりさせておかねばならないことがある。それほど重要なこの命題がどちらにしても論証不能ということである。つまり、帰納法的に収斂された命題ではなく、いわば演繹的に措定された絶対定理としての命題であり、論証以前の、受容するかどうかの踏絵としての役割を担っているということが知られねばならない。

 我々は、この世の一番大事な思考のルーツがかような論証不能なままに受容され、以降一切の認識の源となるレールとして敷かれているという不条理を知らねばならない。つまり、我々はものの最初の思考や判断に当たって、二股に分岐しているレールのどちらかを論証不能なままに選び取らねばならず、その選択は決断以外には無いという不条理から始発しているということを弁えねばならない。

 この認識からもたらされる実践的な帰結は、どちらの系を選ぶにせよ知ったかぶりは良くないということである。なぜなら、排除した系の知識、経験、叡智については無関心無知なのだから。従って、我々は、事象に接するのに謹厳実直に具体的に処世せねばならない。ゆめ手引きを持ち出して万事解決済みなどという処世法を受け入れてはならない。選び取った系の知識、経験、叡智と共に状況即応的な感性の指令を常に重視せねばならない。

 ここまで云えばお分かりだろう。弁証宗は、カオス派宗教である。且つ我が理論を宗教と公然と言い張る理由もお分かりだろう。そこから一切が生まれる基点である最初のものを論証不能なままに選び取っているからである。これを宗教と云わずして何と云おうか。

 近時、科学的思考何がしかが頻りと云われる。しかしてその言い回しの是非についてここで述べて見る。肝要な事は、科学的知見とは、ここで述べている二項対立と無縁な地平で純学問的に営為されねばならず、そうした実験室的な狭い領域でのみ通用するものであるという限定でもってその成果を受け取らねばならない。

 科学的という冠詞のもとに世の全てを解明し尽くしたかの如くに了解しようとするのは基本的に間違いであり、傲岸不遜であり、本来の科学精神から大幅に逸脱していることを知らねばならない。それが証拠に、科学は常に発展途上のものであり、現在は過去より余程科学的に見えようとも、後世から見れば凡そ拙い段階での学問でしかないというジレンマの中にあることを思えば容易に分かるであろう。

 付言すれば、カオス派にはロゴス派が宣べるような創造、秩序、予定調和、規律等々諸々一切が無いのかというとそうではない。在るには有るが、カオスの中から生まれ来る亀の甲羅の筋のような理としてこれを認めているのであって、亀の甲羅全体を規定する理を受け入れている訳ではないという違いに有るということである。

 れんだいこがなぜかようなことに拘るのか。ここに一切の我々の認識と行動と処世法の秘訣があると認識するからである。この世の一切の対立の端緒としてこの命題の重要性があると知るからである。

 2002.1.2日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝

 「脳の鍛錬はなぜ重要なのか」
 (御意)

 人間と脳の関係は一般に思われている以上に重要である。ある意味で、脳こそが人間足りえていることを証左していると云える。養老先生の命名による「唯脳論」はまさに創見であり卓見であると云える。その生物学的科学的解明は先生から学ぶとして、れんだいこは脳の働きの実践における意義について以下概述することにする。

 この世の森羅万象はカオス的であり弁証法的である。生物は各々生命の節目を持ちつつ寿命の中で暮らしている。その中で、人間種族は最も頭脳を発達させた生物であり、独特の社会を形成している。発生後にいわば自然に衝動的に生じる言語活動、引き続く教育活動、おっつけ始まる社会活動は、人間種族が持ついわば第二次本能とでも云えるものである。この第二次本能の高等さこそが人間を人間たらしめている。このことを熟知しておく必要がある。

 ところで、人は、人ゆえに持つ高等頭脳故に第二次本能的社会を創り上げるが、それ故に却って悩みを深める生物となっている。というように頭脳活動には背反性がある。分かりやすく云えば、良いことばかりではないということである。これを象徴的に云えば、頭脳故に人は十字架を背負っているということになる。

 十字架の持つ通常の意味は、殺生せざるしては生きてはいけないという自然界の連鎖の掟の中に棲息しているということであるが、人間ならではの十字架とは、人は生活していく上で生み出されるイデーの十字架に繋がれているという意味に解すべきであろう。論及すべきは、人はこのイデーから逃れられないということである。これも人の宿命と云えよう。

 ところで、この宿命的イデー活動としての十字架が「脳の鍛錬」と大いに関係しているから、人は脳の鍛錬を怠ってはならないということになる訳である。脳活動は面白いもので、それにより人を縛り、人を自由にさせる。つまり、二律背反的である。この原理を見据え、人は極力頭脳活動を旺盛にさせることにより、縛りと自由を合理性の上に打ち立てねばならないということになる。

 注意すべきは、合理性とは理性ばかりでは無いということである。人は何より生物であるからして第一次的本能に立脚しつつ第二次本能をも開花せねばならないということである。俗に、情念と理性の相関関係として問われるが、この場合情念とは第一次的本能によりもたらされる諸活動のことを指していると思えば良い。

 さて、十字架は個々人が個的に背負っていると同時にその時々の時代とも云える社会も又担っている。これはかなりに高次な相関関係であり、これをどうシステムアップしているかによりその社会の成熟度が判定される当のものである。このシステムは可変的であり、社会も又この世の森羅万象と同じくカオス的であり弁証法的である。ここに妙味がある。

 ところで、我々は、個的寿命と血族的な紐帯に規制されながらこの社会と関わらざるを得ない。この際に「脳の鍛錬」が非常にものを云う。人は、脳の指令無くしては行動を継続できない。経験から学び次の行動を促すのは全て脳活動に規定されている。試行錯誤とは、この脳活動自身の発展とその脳活動と我々の肉体が統一されたところに生まれている。且つ次第に熟練していくことにより成果を生み出すという仕掛けになっている。「脳の鍛錬」はその際のモーター性能のようなものであると思えば良い。

 最後に検討せねばならないことは、モーター性能的「脳の鍛錬」を相互にどう調整し合わねばならないかである。これは非常に難しいテーマで、永遠の課題となり続けるであろう。今在るようにありこの先在るようになる、としか云い様が無い。はっきり云えることは次のことである。かほどに重要な「脳の鍛錬」に水を差す諸制度、諸党派の論理に対して、断じて首肯してはならないということである。弁証宗は逆に、ルネサンス精神を称揚し続ける。これが一番の脳に対する栄養分であるから。

 2002.9.14日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝

 「神とは何か」(2002.9.15日)
 (御意)

 この問いに対する答えはれんだいこの面目躍如のところのものである故に勿体ぶって今は明示しない。云える事は、既に述べているように「神と云うのは有ると云えば有る。無いと云えば無い。成って来る理が神や」の御言葉を拝すれば良いということである。

 2002.9.14日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝

 「今の時代をどう読み取るのか」
 (御意)

 歴史は常に時代性を帯びて廻っている。それは常に左右上下表裏、中と外とのバランスの中にあるが、バランスとは中間という意味では無い。中庸という意味の確定をせねばならぬが、ある種そのようなものとしてある。しかしてそれは偏していないという訳では無い。むしろ、どちらかに偏した部分がその時代の特質となり得ている。この偏したところから新しい質が生まれるということが法則のようなものとしてあり、であるが故に偏したところにはより注意深く洞察せねばならない。これが、弁証らん宗の態度となるべきである。

 では、現代とはどのような特質を帯びた時代であるのか、それについて述べてみる。まずアウトラインをスケッチしておけば次のように云える。この問いに対する答えはれんだいこの面目躍如のところのものである故に勿体ぶって今は明示しない。 

 2003.2.5日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝

 「人類の歩みをどう読み取るのか」
 (御意)

 人類社会はどういう方向に歩んでいるのか、その目的方向はあるのかないのか、ここをまず明らかにせねばならない。多くの政治的・宗教的結社は、ある種信念に支えられたその未来図を指し示すことが多い。が、れんだいこは少し違うのではないかと思っている。目的方向はカオス的であり、型にはまったものはないのではなかろうか、無いとした方が却って良いのではなかろうかと思っている。

 では、一切が無規定無秩序なのかというと、そうでもない。あるにはあるのだが、常に対症療法的であり、現在から未来へ向けての企てがあるばかりなのではなかろうか。その連続が人類史なのでは無かろうか。それ以上でも以下でもない。こう考えるべきでは無かろうか。この観点は、公式主義、図式主義を排斥する。常に弁証法的思考と行動で、対象に生き生きと創意工夫精神で取り組まねばならないことを示唆する。

 歴史における企てとは、過去から現在までの不満、不良、未完部分に対しての改良的なまたは時にドラスティックな革命的なものも含めて、万事必要から生まれており、そういうものがあるばかりではなかろうか。こう考えた方が良いのでは無かろうか。この思考は、改良主義を否定しないし同時に革命的手法をも包摂しているところに特徴がある。どういう訳か世の識者はかように構えず、一方が他方を批判し排斥するという構図上での識見を競いたがる。れんだいこはナンセンスと思う。

 このことは、例えば犬とか猫とかその他生物の寿命史を考えれば良く分かる。彼らは、その生命活動を他律的な何ものかに縛られているのでは無い。その生命の鼓動のある限り野生したり飼育されたりして寿命を経るばかりであるように思われる。彼らに何らかの価値観を植え付けたり、要求するのは土台無理なように思える。

 人間も、彼ら犬猫とかの生と本質的には同じなのでは無かろうか、そう考えた方が良いのでは無かろうか。違いが有るとすれば、彼らよりは少し高等な脳髄を持っており、為にもう少し複雑にいろいろな思惟を紡ぎだすという資性があるということではなかろうか。この知性によって人は他の生物と区別されるのであるが、これはある種期待しある種失望すべき程度のものとして踏まえるべきではなかろうか。

 これを過度に評価するところに人間技が生まれるが、過度評価のブレーキを知らなければ却って危険なものに転化する。但し、脳活動の意義、役割を過小評価するのも人間的で無い訳だからおかしいというジレンマの中にある。つまり、両方向においてのバランス思想こそが望まれているのではなかろうか。

 この見地から、史上の思考を検証し直し、新思想を創りたい。これがれんだいこ教学の骨子である。  

 2003.3.3日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝

 「判断能力について」
 人がその生を経るに当り一番大事なことは、判断能力の練磨であり、これに尽きる。案外このことが知られていないので、あたかも情報洪水社会が世の進歩を証明しているだの、単に博学故の自称インテリを輩出せしめている。そうではない。情報とか博学は、判断能力の練磨の必要条件ではあるが、それでもって十分という訳では決して無い。

 我々の人生は不断の実践の積重ねである。実践の中味は別として、実践の前には必ず決断が伴う。決断の際には二者択一式のあるいは三項選択式の判断が伴う。この判断の正否が実践を規制している。不断の実践と不断の判断の交互作用、つまり経験ないし体験において人の成長が認められる。

 こういう役割を持つ判断が貴重なものであることは自明として、その判断の質が問われることになる。しかしてその質は練磨されるべきものである。情報とか博学、経験、体験は判断練磨の前提であって、自慢するほどのものではない。ここのところがさっぱり分からない自称インテリが多すぎる。自称インテリのあまたは、情報と博学過剰で却って右顧左眄しかできなくされているというのに。

 ならば、判断能力の練磨の為に何を為すべきかが共有認識されねばならないだろう。あれこれ云っても多岐になるので一言だけ述べておく。まず、足下と脳内を的確な情報、博学、経験、体験によって導かねばならない。これを俗に基礎作りと云う。この基礎がいい加減なもので作られると上部がグラグラすることになる。いずれそうなるにしても、端から分かりきったいい加減な土台を据える訳には行かない。ところが世の中、こういう土台作りをする人、その上にのっかかる人が多い。我々は好んではその道に踏み込まないように処世すべきだ。

 世に偉人と云われる人がいる。これらの人に共通していることは、この判断能力の練磨が素晴らしいということである。故に稀有の指導者となり崇められもする。余人をもっては替え難いという訳である。この偉人は、政治的分野のみならずあらゆる領域に輩出する。彼らが大事にされねばならぬことは自明であるが、政治の悪さがそういう人士を圧殺する。その後釜は烏合の衆状態で、社会の生産的な営みをむしろ阻害さえする。人類史はそういう歴史に貫かれている。

 よって、叡智を持つ社会を創出し、これを護り育てねばならない。その第一歩が、個々の我々の判断能力の練磨から始まっている。ゆめ疎かにせざるべからず。

 2004.1.27日、2007.10.15日再編修 れんだいこ拝




(私論.私見)