基本教義 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
人間は或る程度の頭脳を発達させていることにより、生き方を問う生き物になっている。生き方問題は思われている以上に重要である。これを踏まえて、たすけあい宗の開祖れんだいこ畢生の気づきを基本教義として以下披露する。世の有益な思想を摂取し、新たに紡ぎ出した珠玉の御教えである。まず南無と唱え、全文朗読後一拝すればお陰がある。この御教えを参照参考し日々の生活の糧とせよ。お陰を受けたと感得した者は、我が宗の賽銭箱に喜捨せよ。 |
目録 | ||
【テーゼ総論】 | 【れんだいこの「対謝」論】 | |
テーゼ1 | 【汝自身を知れ】 | 汝自身を知れ |
テーゼ2 | 【土還霊思想に立脚せよ】 | 土還霊思想に立脚せよ |
テーゼ3 | 【此岸思想】 | 脳内を此岸思想で武装せよ |
テーゼ4 | 【カオス思想】 | カオス思想で対峙せよ |
テーゼ5 | 【身の丈思考】 | 身の丈思考に立脚せよ |
テーゼ6 | 【身の内と世界の通関】 | 身の内と世界は通関していることを知れ |
テーゼ7 | 【極通の理】 | 極と極とは相通ずる法理を悟れ |
テーゼ8 | 【稼動人生五十年】 | 「稼動人生五十年」人生観を樹立せよ |
テーゼ9 | 【人生の主人公】 | 人はすべからず己の人生の主人公になれ |
テーゼ10 | 【類の集い】 | 類は類に拠りて集うことを知れ |
テーゼ11 | 【朱の交わり】 | 朱に交わりて自律しつつ赤化せよ |
テーゼ12 | 【一事万事の理】 | 世事万事「一事万事の理」を知れ |
テーゼ13 | 【三派の理】 | 世事万事「三派の理」を知れ |
テーゼ14 | 【2対6対2の原理】 | 世事万事「2対6対2の原理」なるを知れ |
テーゼ15 | 【節から芽が出る】 | 節から芽が出る |
テーゼ16 | 【ネアカ愛嬌役者人生】 | ネアカの陽気人生、愛嬌役者人生を目指せ |
テーゼ17 | 【ツボ(コツ)を心得よ】 | 万事にツボ(コツ)を心得るようになれ |
テーゼ18 | 【人生は稽古事】 | 人生を稽古事と心得よ |
テーゼ19 | 【お役たちお助けマンたれ】 | 世の中にお役たちお助けマンたれ |
【テーゼ1、汝自身を知れ】 | |||
古代ギリシャのデルフォイにあるアポロン神殿に「汝自身を知れ」なる銘文が掲げられていると聞く。れんだいこは未だ見てはいないので機会があれば確認したいと思う。余りにでき過ぎた話の気がしないでもない。それはともかく現に掲げられているものと仮定して問いたい。「アポロン神殿に何故にわざわざ『汝自身を知れ』なる文句が垂示されているのか」。「汝自身を知れ」とは如何様にも解釈を生む万華鏡文である。これを、どう解するか解すべきか。この解き方に解く者の能力が試されていると思う。たすけあい宗の開祖れんだいこは次のように解く。 どんなに智を磨こうとも、人は第一に己の生物的存在性を踏まえるべしとの警句と解する。人は、他の諸生物に増したる多少なりとも高等な頭脳を活用することにより学問を形成し、学的体系まで構築する。それは「必要は発明の母」なる知見に従い徐々に発展させてきたものである。しかしながら、その後の学問並びに学的体系がいつの間にか始発時の現実的必要性と云う面を忘れ、人間の生物的存在性を失念させ却って逆襲し始めることがある。その結果、人があたかも頭で立っているかのような認識論に至ることがある。この愚を避けねばならない。虚論を排斥せねばならない。「汝自身を知れ」とは、これを諭す名句ではないかと窺う。 「汝自身を知れ」は、まずこのことも示唆しているのではなかろうか。つまり、正しき知恵に導かれよと戒めているのではなかろうか。次に、正しき知恵に導かれたものであるにせよ、正しき知恵も低次から高次のものへの階梯がある。つまり、人の思想の深さは「汝自身を知る」具合で測られることを含意させているのではなかろうか。かく了解し、この戒めの価値を高く評価する故、「汝自身を知れ」をテーゼ1とする。 付言すれば、このことは観念、想念力の偉大さを斥けるものではない。人が大地に二本足で立っているという認識の基に頭脳活動の偉大さを評せねばならないということである。この意味は、哲学的には古来より唯心論対唯物論として争われてきた。哲学的な意味での唯心論は虚妄であるにしても、唯心論が観念の重要性を指摘し続けてきたことには根拠があり、この観点から唯心論を捉えなおすことも必要と解する。双方とも俗物的な唯物論と唯心論ならば唯物論の方に軍配が挙がる。しかし、二本足で立たせた唯心論のようなものが登場すれば、俗物的な唯物論よりは賢明だろうとも思う。但し、二本足で立っている唯物弁証法の方がもっと賢明とも思う。このことを弁えねばならない。しかし今や最新の遺伝子学により唯物弁証法の更なる高次化が望まれており、その先の哲学が問われている。こうして無限の発展過程にある。但し、いつでも戻るのが、この警句「汝自身を知れ」ではなかろうか。故に、この文句の意義は高い。 |
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「汝自身を知れ」は、古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれていると聞かされている。筆者は、つくづく名言にして神言であるように思う。人は自分自身であるのに己を知らない。故に、足下を照らして、自身がまず何者であるかを知ることから始めよ、これが万事の始まりであり終りである、と云われているような気がしてならない。補足すれば、野球の野村監督は次のように述べている。「自分のことは自分が一番よく知っていると思っているかもしれないが、往々にして他人のほうが自分のことをよく知っていることが多い」。名言ではなかろうか。ここで云う「汝自身を知れ」は、野村監督の名言に続く神言だと思えば良い。
日共から目の仇にされ、諸悪の元凶視されてきている角栄であるが、筆者の評は違う。第64代首相の角栄は、「戦前戦後通じて不世出の異能政治家」と称されるべきであろう。その角栄の学生運動活動家を見る眼差しは、かくも温かかった。というか、筆者は、角栄は本質左派の偽装体制派としてのし上がった権力者だったのではなかろうかと推定している。 それに比して、日共の学生運動観は邪鬼を見るように厳しかった。筆者は、角栄と対極的に本質右派にして左派に闖入している偽装左派ではないのかと推定している。日本の近現代政治史にはこういう倒錯、歪み、捻じれが垣間見える。これが生身の政治の実態であることを知らねばならない。それはともかく、時の政権支配者が、こういう眼差しで学生運動を見ていたところに、当時の戦後学生運動家は感謝せねばなるまい。「親の心子知らず」では、ろくな運動が展開できまい。(「田中角栄の徳球系全学連活動家/早坂雇用の意義考」については別途にどこかで論及したい。今は先を急ぐ→「早坂秘書考」) かく構えて、戦後の敗戦の荒廃と不戦の誓い、鳴り物入りで導入された戦後民主主義の理念と諸制度、国家再建の歩みの中から生み出された学生運動の経過を共認していきたい。まだまだ資料が揃わず、且つ筆者の能力が乏しく咀嚼しきれていないところ多々あるが、どうぞ諸賢の力を貸していただきたい。そして、現代、次代の青年子女に読ませたい。ここから生み出される知恵は必ずや明日の社会づくりに有益に資するものがあると思うから。 今我々が確認せねばならないことは次のことである。なぜこの運動が潰れたのか、潰されたのか。その原因を尋ねずんばなるまい。筆者が考えるのに、一貫して横たわっているのは「理論の大いなる貧困」である。これを踏まえずに、左派戦線のかような無惨な落ち込み期に旧左翼であれ新左翼であれ、今なおしたり顔して人様に説教ぶるなどという痴態を許してはならない。その種の厚顔無恥な連中をよそに一路検証、新理論の創造に向かわねばならない。これが肝要であるように思われる。 2008.1.5日再編集 れんだいこ拝 |
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「年相応の分別を弁えよ」。これを「提言1の2」とする。これを提言するのは、「提言1の1、汝自身を知れ」だけでは不十分だと気づいたからである。具体的には、若い時の分別と還暦期の分別に分けて考察されるべきではなかろうかということになる。実際には、その中間項として、青年期分別から還暦期分別に至る振り子の如く行きつ戻りつする壮年期の分別が考えられる。認識はかく、いわゆる弁証法的らせん構造になっている。この識別が存外大事なのではなかろうか。筆者は、この観点を得ることによって、学生運動観を相対化することができたように思う。 若い時の「汝自身を知れ」は、それまでの成長期に培った個人的感性、知性を原資にして活動に取り組むのが流れとなる。青年は青年期特有の尻軽の勢いを特質とし、体内燃焼の活発さに応じて自ずと過激急進主義的に取り組む。これが青年期の特徴だからして、このことが悪いということでは決してなかろう。この過程で更に体験、経験を積み重ね、理論を吸収しながらあるいは切磋琢磨しながらあるいは生を享楽しつつ次第に自身に似合いの智を獲得する。これが流れに逆らわぬ成長の仕方であり、それで良いのではなかろうか。これを仮に「青年期智」略して「青年智」と命名する。 問題は、「青年智」からいつ脱却するかであろう。これは分別のその後の到達点を仮に「還暦期智」略して「還暦智」と命名すると、「青年智」から「還暦智」へはどのように変転して行くのだろうか、これを愚考したい。ここでは「還暦智」の側から考察したい。「還暦智」は「青年智」に比べ、次のような出藍ぶりを見せるのではなかろうか。 青年智が親元を離れ、故郷を離れ、コスモポリタンに憧れる傾向を強める。やがて社会に出て稼ぎ手になりながら世間に揉まれる。この段階の智を「壮年期智」略して「壮年智」と命名する。「壮年智」は「青年智」のパフォーマンスであり、多岐多様な在り方を見せる。仕事を持ち、家庭を持ち、様々に履歴しながらな体験、経験を積み重ね、理論を切磋琢磨しながら次第に自身の気質、能力に応じた智を獲得する。いずれにせよ、社会での落ち着き先を見出す。 次に「還暦智」が訪れる。「還暦智」には明らかに違いが認められる。「青年智」が肯定より否定に向かいがちで、流行理論を追っかける傾向が認められ、「壮年智」が自身のパフォーマンスに精一杯となり、いわば自己発のあれこれで社会に関わるのに比して、「還暦智」は角栄の云うが如く重心が低くなり、世間の持ちつ持たれつ関係を味わうようになり、いわゆる円熟味を増す。「還暦智」は青年智、壮年智とは逆コースに向かい始め、次第に帰巣本能を強め、更には己の出自の民族的宗教的紐帯を嗅ぎ分けるようになる。民族的宗教的紐帯とは社会的アイデンティティーとも言い換えることができよう。これは、青年智、壮年智には備わらない智ではなかろうか。民族的宗教的紐帯に対する気づきは「いわば正しい民族的宗教的紐帯への覚醒」まで問い始める。古より流れるDNA的な民族的宗教的紐帯の真の流れを嗅ぎ取りつつ、時代変化に合わせると云う課題をも引き受けながら、新しい認識を獲得せんとするようになる。 興味深いことに、これに青年智が大いに関係するように思われる。なぜなら還暦智は単に壮年智の延長としてもたらされるのではなく、突如青年智を復活させ、さて余生をどう生きるべきかを問い掛ける面があるからである。そういう意味で、青年智が格別重要なことが分かる。青年智が還暦智を運命づけるからして、若い時の脳に刻まれるシワこそ財産なのかも知れない。こうして、還暦智も又要するにその人に似合いのものを導き出す。これが一般化するのかどうかは分からないが、筆者はこのように自問自答して来たし、筆者的変化は普遍性を持つと考えている。 留意すべきは、青年期に培った批判精神を媒介させるのとさせないのとでは、還暦智の出来上がりの質が違うことであろう。青年期に批判精神を養わないと還暦智に於いてもやはり当局言いなりの御用的通俗智にしか辿り着けない。分かりやすく云えば、政府やマスコミがプロパガンダする通りの口真似しかできない。この子羊性が市民生活に於いて悪政政府によりもたらされる環境公害、食品公害、医療公害の憂き目に遭わされ虐待されることになる。青年期に批判精神を養っておけば、この災難から多少なりとも逃げ出すことができよう。 この精神行脚過程を「成人」と云うのではあるまいか。「成人」とは、身体の成人的変化のみならず精神の成人的変化をも云う。後者の変化を辿らない成人は、「肉体老人、精神未成人」と云われて然るべきだろう。その基準をどこに置くべきかが問われるが、絶対的基準というものはなく、相対的に判断されるべきであろう。今日、「肉体老人、精神未成人」が多過ぎる世の中になりつつあるのは確かである。 この未成人が社会的権力を持たない限りは人様々であろうから大過ない。問題は、「肉体老人、精神未成人」のみならず「肉体未成人、精神未成人」な手合いまでもが大量生産されつつあることである。彼らが社会の要職に就き、中枢にのさばり、権力的に良からぬ事をし始めたらどうすべきか。もはや掣肘せねばなるまい。そうしなければろくな世の中にならず為にならない。現下の政治貧困は、この辺りに起因しているのではなかろうか。 還暦智は、己の社会的責任を嗅ぎ分け、身の回りを処理し、仕事をこなし、地域や職場や団体での協調と指導能力を磨き、良き後継者を育成せんとし始める特徴を持つ。田中角栄の「次第に重心が低くなる」なる弁は、このことを述べているように思われる。筆者が憧憬する天理教教祖中山みきは「山の仙人、里の仙人。里の仙人になれ」と指図している。毛沢東式大衆路線論も同じ意味であろう。その手法もこれまた人により千差万別で、体制内改良主義から革命主義まで、穏和主義から急進主義までいろんな手法がある。人様に極力迷惑をかけない限りに於いては、そのいろんな型が認められるのが健全であろう。肝腎なことは、共同し合えるかどうかである。改良主義と革命主義、穏和主義と急進主義は本来ぶつかり合うものではない。むしろ互いに縁の下の力持ちとなって助け合う補完関係にあるというべきだろう。 これが見識になるべきところ、どういう訳か日本左派運動には通用しない。「我が」、「我が」とお山の大将になり、どちらかが相手を倒さないと気がすまないらしい。それでいて左派運動的に何らかの前進なり権力樹立まで辿り着いているのならまだしも却って後退している。否博物館入り寸前まで追いやられている。こうなるとオカシイというより滑稽なことであるが、実際には多くの血が流されているのでからかう訳にはいかない。補足しておけば、党派間ゲバルトについては、筆者は内ゲバ問題とはみなしていない。これについては、「提言12の暴力主義を否定し競り合い運動に転換せよ」で言及する。 もとへ。それもこれも、汝自身を知らない、分別を弁えない咎めではなかろうか。本来はこのように発育して行くのが自然なところ、現代人は妙なほどに「汝自身を知ろうとしない」安上がり人間にされている気がしてならない。社会が健全に発達していたと考えられる時点に於いては、いつでも上下問わず人には皆な、この弁えがある。逆の場合には、この弁えを欠く。筆者は、これは偶然ではなく、意図的故意な愚民化政策によりもたらされているのではあるまいかと疑惑している。従って、これは解ける問題である。解かねばならない問題である。とりあえず、以上の気づきを提言しておく。誰か、この気づきを共認せんか。以上を提言1としておく。 2008.8.16日 れんだいこ拝 |
【テーゼ2、土還霊思想に立脚せよ】 | |
世界は顕界と霊界に分かれる。顕界は生物の感覚器官で把握できる一切の現象界、霊界は生命没後の姿形に於いて捉えられない幽界と理解することができる。これにつきもっとなるほどの表現があれば書き換えることにする。構図としてかく認識しておきたい。 | |
人は、顕界に在住しながら、その生物学的寿命は凡そ120年とされている。「人の定命は病まず弱らず115歳」とする御教えもある。この意味は、人はただ漠然と生きるのではなく、この定められた寿命期間の生命充足法を磨き、それに即応した生き方論を身につけよと云う諭しにある。これに関する英明な教えが洋の東西を問わず五万とある。但し、問題が更にある。しからば、人の生命は寿命後に於いてどうなるのか、死して如何なるものになるのかならないのか、これを問う知的好奇心があり、これにも応えなければならない。たすけあい宗の開祖れんだいこは次のように解く。 生命は、個体としての身体生命と霊界生命の二面から複合的に成り立っているのではなかろうか。いわゆる死は個体としての身体生命の終了であり、この生命の復元はあり得ない。但し、霊界生命はどうなるのか。これを単純否定するのではなく、宇宙に還(もど)り見守る役をすると了解すべきではなかろうか。還(もど)る場所は山岳の森林であり平野の大地であり河川海域であり天空の星座である。これらに霊界があり、そこに霊界生命が宿ると理解すべきではなかろうか。この認識の是非は確かめようがない。故に、そう思うか思わないか、生命の仕組みをどう了解するのかだけのことである。ここに宗教の根拠がある。これは、科学とは別の知見である。故に、宗教と科学とは本質的に並列の学問ではないかと思っている。本来は排斥しない関係にあると思った方が良い。 れんだいこは、敢えて人の生命は土に還(もど)るとする知見に与する。更に、土に還(もど)った霊界生命が後世の成り行きに対して守護態にあると考える。これも論証し難い。しかしながら、かく了解することにより、過去現在未来の生命環が繋がっているとする思想を確立したい。現在は過去に守護されており未来を守護していると了解したい。この思想により、人の寿命が悠久の生命連鎖下にあるとしたい。これを仮に「土還霊思想」と命名する。「土還霊思想に立脚せよ」。これをテーゼ2とする。 付言すれば、輪廻転生又は生命の再臨思想で生命の永遠を説くのは邪教ではなかろうか。世に、見てきたような輪廻転生譚又は生命の再臨譚で説話する思想がはびこっているが、この教義の欠陥は個体としての生命の連綿思想であるところに認められると思う。これは知恵の虚構遊戯ではなかろうか。れんだいこ限らず人は誰しも死によって生命を終了するのであり、そのままの肉体での復元は有り得ない。有り得るのは、土に還り、いわば祖先霊共同体の仲に入ることにより次世を守護し、それぞれの霊の意志により現世人を支援している、その支援が多ければ多いほど運の強い人となり、逆は逆と考えるべきではなかろうか。これ以上でもなく以下でもない。この辺りの「土還霊思想」分別が日本古神道の叡智ではなかろうか。れんだいこは、古神道のこの観点を受け入れ、外来的な彼岸思想である輪廻転生又は生命の再臨思想を邪教としたい。 |
【テーゼ3、此岸思想で武装せよ】 | |
人の生き方の方法として此岸主義と彼岸主義の二通りがある。このどちらに力点を置くかで生き方が変わる。たすけあい宗は此岸主義に立つ。此岸に立てば為すべきことの様々が待ち受けている。その中で肝要なことは、人同志の互いの交互作用である。交互作用には善性のものと悪性のものとがある。善性の極致は「人の役に立つ」と云うことにある。これを「たすけあい」と云う。寿命に限りあることを思えば、他のあれこれの価値は顧みれば全て虚しい。これを知るところから、たすけあい宗信徒の生き方が始まる。 「たすけあい」交互作用の最初は家庭、家族から始まる。次第に地域、社会、国家へと関心が向かう。認識のこういう発展が自然であり、これに合わせて生き方を調御して行くのが素直な生き方である。この生き方は受け身のものであってはならない。積極的に「たすけあい」の絆を深める生き方を良しとする。更に、「たすけあい」を不条理に妨げる諸々の仕組み、悪法に対して不断に変更を迫る攻め身のものでなければならない。実際には、受け身と攻め身の交互作用が必要とされる。これを仮に「此岸思想」と命名する。脳内を「此岸思想で武装せよ」。これをテーゼ3とする。 これに対し、現実遊離を説く彼岸思想がある。これは邪教である。ひとまず彼岸思想の河に佇むことは良い。此岸捉え直しの一方法として彼岸から此岸を見るのも便法であるからである。この観点抜きの彼岸思想は此岸からの逃避であり、思想の汚染でしかない。かく弁えよ。 |
【テーゼ4、カオス思想で対峙せよ】 | |
この世はカオスである。故に我々の認識もカオス的にならざるを得ない。これを踏まえれば、社会貢献に向かう場合、あらかじめ次のことを知っておかねばならない。この世は分からないことだらけであり、徒に教条をもてあそぶべきではない。この世の仕組みが不可知であるが故に手探りで、お互いの認識の擦りあわせをすることが必要である。この練磨に向かうこと、練磨された認識を擦り合せし合うことが全ての始まりとなる。カオスに貫通する理を見出すこと、これが理論となるべきである。しかしながら、この世の本質がカオス的である以上、理論の公式化図式化は常に限定的であらねばならない。対蹠的に世のロゴス思想には危険なものが多い。思想を開放式に組立て「カオス思想で対峙せよ」。これをテーゼ4とする。 |
【テーゼ5、身の丈思考に立脚せよ】 |
人の脳髄の生み出す思考には限りがない。思考は常に生産的ではあるが、逆に、そうして生み出された思考に呪縛されることもある。こうした際に立脚すべきは、自身の身の丈であり足下である。大地に思考の基盤を置き、常に感性を磨きつつ世界の了解に向かえば誤ること少ない。これを賢明と云う。「身の丈思考に立脚せよ」。これをテーゼ5とする。 |
【テーゼ6、身の内と世界は通関していることを知れ】 |
身の内(これを仮に「小宇宙」と見立てる)と外の世界(これを仮に「大宇宙」と見立てる)は相似系で通関している。古来より覚者がこれを世の実相として喝破してきた。証明しようもないが認識観として確立しておく必要がある。「身の内と世界は通関していることを知れ」。これをテーゼ6とする。 |
【テーゼ7、極と極とは相通ずる法理を悟れ】 |
一見対極的な極と極とが本質上相通じているという法理がある。突き詰めれば、一方の極が他方の極を欲している、立て合っているという現象がある。これに思いを致し深く思案せよ。この法理を悟らない手合いが万年対立で机上遊びする。そういう傾向にある。「極と極とは相通ずる法理を悟れ」。これをテーゼ7とする。 |
【テーゼ8、稼動人生五十年」人生観を樹立せよ】 |
身の丈思考は、「稼動人生五十年」観を生み出す。昔は単に「人生五十年」と云ったがさすがに寿命が延びたので修正して「稼動人生」と言い換えることにする。いずれにせよ、我々の生命は誕生から死亡するまで旬々の節目の中で廻っている。この節目に応じた生き方をすることが人生の課題といえる。ちなみに、節目思考は東洋的叡智であり、これを造詣することが必要である。 「稼動人生五十年人生観を樹立せよ」。これをテーゼ8とする。 |
【テーゼ9、人はすべからず己の人生の主人公になれ】 |
人はどのような職業につくか運命に弄ばれるかにつき人知を超えたものがある。だがしかし、どのような境遇であれ、自身の人生のライフステージにおいては自身が主役となるよう努力せねばならない。そうさせないものと闘わねばならない。己を愛する者が人を愛することができる。「人はすべからず己の人生の主人公になれ」。これをテーゼ9とする。 |
【テーゼ10、類は類に拠りて集うことを知れ】 |
マルクス主義の社会階級認識は一つの偉大な発見であったが、この世の人の繋がりを社会階級認識だけで一括りして、そこから万事説き起こすことはやや粗雑ではなかろうか。相性の通交する似たもの同士の類化の世界でもあり、同類と異類間の協調と敵対ないし抗争、釣り合いの歴史でもあるとみなすべきではなかろうか。これを規制するのが法であり、習慣であり、文化である。そういう摂理に支えられている面もある。 従って、闘争と釣り合いの摂理を踏まえねばならない。実践的にはこうなる。人は、全ての者と理解し合おうとする努力より同類の誼の充実、その助け合い、共同に向かうべし。こうした生き方こそ生産的な生き方と云えるのではなかろうか。「類は類に拠りて集うことを知れ」。これをテーゼ10とする。 |
【テーゼ11、朱に交わりて自律しつつ赤化せよ】 |
例えとして「朱」と云うが、人と人とは自律しつつ通交せねばならない。これを俗にコミュニケーションと云う。「稼動人生五十年」観より導き出されるところであるが、人の生涯の値打ちはここにこそあり、しかない。且つ人は人によってのみ磨かれるという道理がしられねばならない。「朱に交わりて自律しつつ赤化せよ」。これをテーゼ11とする。 |
【テーゼ12、一事万事の理を知れ】 |
字義の通り、一事をもって万事を窺うことができる諭しである。「一芸は万芸に通ず」とも云う。例えば、一事の処理を見て能力を測り、他の万事に於ける能力推定を行うことができる。一事に粗雑な者は他の事をさせても同じと云うことになる。「一事万事の理を知れ」。これをテーゼ12とする。 |
【テーゼ13、三派の理を知れ】 |
「一事万事の理」の補テーゼとして「三派の理」がある。世の中の事象は三派から成り立つと云う意味である。世に二派理論がはびこるが排斥すべきである。例えば、積極派、消極派、中間(日和見派)の識別。「三派の理を知れ」。これをテーゼ13とする。 |
【テーゼ14、「2対6対2の原理」なるを知れ】 |
「三派の理」の補テーゼとして「2・6・2の法則」がある。「80対20」の法則を見出したイタリアの経済学者パレートによる分析は貴重である。これを更に「2・6・2の三派法則」として深化させ、諸事判断に応用すればあながち的外(まとはず)れにならない。一つの推論として応用するならば常に有効と考える。これは、れんだいこの卓見である。(「パレート分析・2対8の法則、れんだいこ分析・2対6対2の三派法則を知れ」参照のこと) 「2対6対2の原理を知れ」。これをテーゼ14とする。 |
【テーゼ15、節から芽が出る】 |
困難に直面したとき、正面から挑まねばならない。立ち向かうべき時に安穏を指示する者は胡散臭い。我々は、正面から挑み、そこから学び這い上がることによって一層の成長、発展が叶えられる。古来より、姿勢が尊ばれる所以はこの真理にある。ともすれば困難に当たって持ち場から離れたり、あるいはお茶を濁すようなことをして始末するが、得るものが少ない。「節から芽が出る」。これをテーゼ15とする。 |
【テーゼ16、ネアカの陽気人生、愛嬌役者人生を目指せ】 |
そう短くもなく、かといって長くもない我らが人生の処世法の要諦は、テーゼ8の「人はすべからず己の人生の主人公になれ」の教え通りに自身の人生のライフステージにおいては自身が主役となるよう努力せねばならないことにある。この理を踏まえつつ、各々がネアカにして愛嬌を持って役者足らんと精進することにある。その対極には気難しい無表情の唯々諾々処世がある。どちらの人生目指すも自由であるが、たすけあい宗信者は各々「ネアカの陽気人生、愛嬌役者人生を目指せ」。これをテーゼ16とする。 |
【テーゼ17、万事にツボ(コツ)を心得るようになれ】 |
人生(仕事)の達人を目指せ。それは、万事にツボ(コツ)を心得ることである。ここに至るまで何事も稽古、修行と思え。勘違いしてはならないことは、稽古、修行は荒業苦行することではない。上達は、創意工夫と経験の積み重ねと人と人とのコミュニケーションの交互作用を通じてもたらされる。楽しく遣るやら無いは情況次第で、どちらも有り得、どちらの時期も必要と思われる。 「万事にツボ(コツ)を心得るようになれ」。これをテーゼ17とする。 |
【テーゼ18、人生を稽古事と心得よ】 |
結局人生は、ある種の稽古事と思われる。学び、精進し切磋琢磨せねばならない。この時、肝心なことは、「自由、自主、自律」的に振舞える精神と環境を創出することである。この基盤抜きには稽古事は苦しいだけのものとなる。相共同して楽しく勇んで暮らせる世の中造りに励まねばなるまい。「人生を稽古事と心得よ」。これをテーゼ18とする。 |
【テーゼ19、世の中にお役たちお助けマンたれ】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人生は、人様や世の中にお役立ちできることこそ本望と知り、お助けマンとしての道を磨くのが良い。これをテーゼ19とする。その為には、まずはその本人が幸せな人であらねばならない。そうでない場合には、そうあるよう努力工夫する人でなければならない。故に彼を人生修行者と云う。彼は次の匂いを身につけている。その内容を確認しておく。
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(私論.私見)