中国の孫小果事件考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「身代わり被告人&身代わり処刑事件考」をものしておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元).7.4日 れんだいこ拝


 関連サイト

 2019.7.4日、「中国で「夜の顔役」を逮捕したら、処刑されたはずの死刑囚だった話」。
 殺人を16年間見て見ぬふり

 中国では2018年1月に、中国共産党と国務院が『“掃黒”・“除悪”特別闘争に関する通知』(以下「掃除通知」)を出した。「掃黒」は「掃黒社会」の略で、「黒社会(暴力団)」を一掃することを意味し、「除悪」は悪人や悪事を除去することを指す。すなわち、暴力団の一掃と悪人や悪事の徹底除去を目的とした特別闘争を展開することを全国へ通知したのだった(以下、「掃黒」・「除悪」特別闘争を「反社会勢力一掃特別闘争」と呼ぶ)。

 習近平は中国共産党中央委員会総書記に就任した直後の2013年1月に、特権を利用して大きな腐敗を行う指導幹部の「トラ」と、庶民の周囲で小さな腐敗を行う小役人の「ハエ」を取り締まるための『トラ退治とハエ駆除を同時に行う腐敗撲滅運動』(以下「トラ退治とハエ駆除」)を発動した。掃除通知はトラ退治とハエ駆除に続いて全国規模で着手する反社会勢力一掃特別闘争を全国へ通達したものであり、その標的はトラやハエと連携して羽振りを利かせる反社会勢力を摘発し、彼らを獄舎に繋いで社会の安定を図ることを目的としたものであった。

 さて、 2019年6月20日の午前0時頃、湖南省西部の懐化市に属する新晃侗族自治県にある「新晃侗族自治県第一中学校」(略称:新晃一中)の運動場の地下から白骨死体が発見された。新晃侗族自治県では反社会勢力一掃特別闘争を展開する中で、2019年4月に故意傷害、不法監禁、集団乱闘などの容疑で杜少平など7人を逮捕した。この直前に2003年に失踪した鄧世平の息子の鄧藍氷が、「父親は新晃一中の運動場工事に絡んで杜少平に殺害されたに違いない」と告発していたことから、警察が杜少平を取り調べたところ、杜少平から2003年1月に鄧世平を殺害して、当時工事中であった新晃一中の運動場に埋めたとの自供を得たのだった。6月18日の午前9時に地元警察は新晃一中の運動場を掘り起こし作業を開始し、丸2日近い作業を経て、日付が20日に変わる頃に白骨死体と衣服および残留物と思われるものを発見したのだった。

 正義漢はバカをみる

 2001年に新晃一中は運動場を建設することになったが、当時校長であった黄炳松は当該建設工事を随意契約で自分の甥である杜少平に請け負わせたために、工事期間中に「偸工減料(手抜き工事と材料のごまかし)」や工事代金の水増しなどの問題が出現した。当時、新晃一中の教師で、工事品質の監督管理の責任者だった鄧世平は問題点を指摘して、杜少平から要求された関係書類へのサインを拒否したことにより、杜少平に殺害されて工事中であった新晃一中のトラックの下に埋められたのだった。こうして鄧世平は2003年1月22日に突然に行方不明となった。心当たりを尋ねても何の情報もなく、思案に余った家族は3日後の1月25日に新晃侗族自治県公安局に失踪届を提出した。それから16年後の2019年6月23日に、6月20日に掘り出された白骨死体は懐化市公安局の刑事科学研究所によってDNA鑑定を行われた結果、2003年に失踪した鄧世平であることが確認された。白骨死体が2003年に失踪した鄧世平であると確認されたことを受けて、その当日の6月23日に中国共産党の新晃侗族自治県紀律検査委員会と新晃侗族自治県監察委員会は、新晃一中の元校長である黄炳松に対する立件審査と監察調査を開始した。かつて新晃一中で鄧世平と一緒に働いていた元教員の張航はメディアの記者に次のように語ったという。

----------
(1)新晃一中の運動場は2001年前後に工事が開始され、約2年の歳月をかけて完成した。その建設の要点は、重点中学の標準である400メートルのトラックを完備することと、新晃侗族自治県の創立50周年式典を挙行するために運動場の敷地を拡げ、完成後は舞台が設置できるようにすることだった。--
(2)当時、新晃一中の校長であった黄炳松は運動場建設工事を甥の杜少平に請け負わせたが、その工事を学校側の監督管理者として機能したのが鄧世平であった。彼は同様の工事の経験があり、責任感が強い人物で、杜少平の行う建設が「豆腐渣工程(手抜き工事)」であることを見抜くと、たとえ工事が終わっても引渡し書類にはサインしないし、告発も辞さないと申し入れたものと思われる。彼は恐らく事態を新晃侗族自治県の教育局へ報告したが、教育局はこれを新晃一中へ差し戻し、新晃一中で処理するよう命じたと聞いている。
(3)新晃一中では「春節(旧正月)」の前に教職員全てが集まって会食する伝統があり、2003年1月23日にその会食が行われた。その会食の後に鄧世平の妻が新晃一中へ夫をさがしに来たが、誰も鄧世平を見た者はいなかった。その後、新晃一中の教職員一同で学校周辺を探し回ったが、鄧世平の行方はようとして知れず、失踪したという結論になり、家族は新晃侗族自治県公安局へ失踪届を提出した。
(4)鄧世平が失踪した時、工事はほぼ完了していて、工事車両はすでに現場を離れ、最後の仕上げ工事を残すだけだった。ただし、トラック部分はまだ舗装されておらず、日光で砂が乾燥したら砂利とセメントで固め、その上で最終的な舗装を行うことになっていた。鄧世平が失踪した後に、当該工事を誰が監督したのかは分からないが、工事が完了した後に杜少平は撤退した。

 助け合う黒社会

 新晃一中の運動場の下から白骨死体が発見された翌日の6月21日に鄧世平の息子の鄧藍氷はネットの「微博(マイクロブログ)」に次のような内容を書き込んでいた。
----------
 父親が失踪した後、家族は父親がなんらかの事件に巻き込まれた可能性があるとして、何度も公安局に通報を入れたし、検察院にも協力を要請したが、警察は父親の失踪を事件として立件するのに消極的であり、検察院は「愛莫能助(同情はするがどうしようもない)」という対応だった。家族は再度事件に巻き込まれるのを恐れて「県城(県の中心部)」から引越した。父親が失踪した後、家族で唯一の男は自分であり、それからは勉学しながら母を助けて家を守る重荷を背負ったが、そうした16年間の生活は容易なものではなかった。

 翌22日に鄧藍氷は上記の書き込みをなぜか削除した。これを知った人々は新晃侗族自治県政府のどこかが鄧藍氷に圧力を掛け、当該書き込みを削除させたと判断した。

 鄧藍氷が自身の書き込みを削除したのと同じ日に、官製メディアの『人民日報』海外版傘下の個人ブログ「侠客島」は「事件は人々に警戒心を高めると同時に、犯罪組織が下層の行政組織や社会秩序を侵害していることの証」と題する評論を掲載した。メディアの報道によれば、鄧世平殺害の容疑者である杜少平は地元の有名人で、彼には子分の集団がいるという。この事件への関与が疑われる新晃一中元校長の黄炳松は杜少平の叔父であるが、黄炳松は地元に膨大な関係ネットワークを持ち、一族の多くが政府に在職している。近頃全国規模で展開されている反社会勢力一掃特別闘争により、今年4月に杜少平一味が逮捕されたことで、16年前の殺人事件が明るみになった。容疑者の杜少平とその一味が少なくとも16年間も逮捕されずにいたのは、「保護傘(後ろ盾)」だけの問題ではなく、地元に張り巡らされた「保護網(庇護者ネットワーク)」によるものである。関係者は、面子、姻戚、権力および利益関係によって、種々の動機で相互にかばい合い、助け合い、それが殺人事件であることなど全く考慮せず、少しも恥ずかしいとは思っていないのである。多数の犯罪組織が地方の権力構造に紛れ込み、暴力組織を後方支援するようになっている。今回の事件は全国で反社会勢力一掃特別闘争を展開することの必要性を証明した。もし反社会勢力一掃特別闘争が行われなければ、今回の鄧世平が運動場の下に埋められていた事件や「孫小果」などの古い事件が表面化して、中国国民に広く知られることはなかったはずである。

 もっとひどい話

 ところで、ここで「侠客島」が言及した「孫小果」とはどのような事件なのか。話しは少し長くなるが、メディアが報じた事件の概要は以下の通り。

(1) 孫小果は1975年10月27日に雲南省昆明市に生まれた。1994年10月16日、当時「公安辺防部隊昆明指揮学校」学生であった孫小果など6人は昆明市内で無理やり車に乗せた女性2人を人気のない場所へ連れて行き、6人で女性2人を輪姦した。10月28日に拘留された孫小果は翌年4月4日に逮捕されたが、検察院の起訴状には年齢が「現在17歳(1977年10月27日生まれ)」と2歳若く書き替えられ、母親が偽の疾病証明を提出したことにより、同年6月に保釈された。同年12月に出された判決は懲役2年と6人中で最も短い刑期となった。しかし、孫小果は「保外就医(保証人を立て一時出所し入院する)」手続きを行い、収監されることなく一般社会で生活した。
(2)1977年4月、孫小果は16歳の少女をホテル内で強姦した。同年6月、無理やりホテルへ連れ込んだ女学生を強姦し、その4日後には同じホテルで別の女学生を強姦した。同年7月、強姦犯が本来なら収監されていなければならない孫小果と同一人物である考えた警官が、孫小果の母親に問い合わせたところ、母親は孫小果が病気治療のため四川省の祖母の所へ行っていると虚偽の回答を行った。
(3)1977年11月、孫小果を含む男性6人はカラオケの個室内で17歳の少女2人に対し,殴る蹴る、竹串や楊枝で乳房を刺す、タバコの火を腕に押し付ける、歯をへし折るなどの乱暴狼藉の限りを尽くして逮捕された。1998年2月、孫小果は強姦、未成年者を含む多数の女性に対する侮辱などにより、故意傷害罪、強姦罪などの罪名により「昆明市中級人民法院(地方裁判所)」の1審で死刑判決を受けた。孫小果は控訴したが、2審の「雲南省高級人民法院(高等裁判所)」は控訴を棄却し、死刑判決を維持した。しかし、死刑判決はなぜか「最高人民法院(最高裁判所)」から承認されず、1999年3月に判決は死刑、執行猶予2年に変更された。さらに、理由は明らかにされていないが、2001年9月に孫小果の刑期は懲役18年6か月に減刑された。
(4)2008年、孫小果が雲南省第一監獄に収監されていた時、その母親と義理の父親である「李橋忠」は監獄や裁判所の関係者と共謀し、孫小果の名義でマンホールの蓋に関する実用新案特許を申請した。これは、刑法78条第3項の規定「犯罪分子が発明創造あるいは重大な技術革新を行った際は減刑を獲得できる」の適用を受けるための方策で、2009年1月に雲南省第二監獄へ移された後に、孫小果は実用新案特許申請と服役態度良好を理由に2年8カ月の減刑を獲得した。それから1年3カ月後の2010年4月、理由は不明ながら、孫小果は雲南省第二監獄から釈放されたのであった。

 死刑判決でも釈放

(5)一度は死刑判決を受けた孫小果が、その判決に執行猶予2年が付き、続いて懲役18年6か月に減刑されたと思ったら、1997年11月に刑事拘留されてから約13年後の2010年4月に監獄から釈放されて自由の身になったというのだが、これは誰が考えても奇妙な出来事であり、本当の話だというから質(たち)が悪い。娑婆(しゃば)にでた孫小果は、その名を「李林宸(りりんしん)」変えて活動を開始した。昆明市の企業とビジネスを管理する昆明市商工行政管理局の記録によれば、2011年8月に李林宸の名前は「昆明福井餐飲服務有限公司(昆明福井飲食サービス会社)」の法人代表として登録され、2012年2月には同社が名前を「昆明飽食傑餐飲有限公司(昆明飽食傑飲食有限会社)」に変更し、李林宸は株主として登録された。
(6)2013年5月には“昆明咪兎娯楽有限公司”に属する「M2酒吧(M2バー)」を開業して、同公司の株42%を持つ株主の1人になり、2014年には他人と組んで「雲南咪兎投資管理有限公司」と「雲南熙元商貿有限公司」などの企業を設立した。また、2015年には名前を李林宸から本来の孫小果に戻し、社交界でも活発に動き始めた。2017年1月には、「雲南銀合投資有限会社」<登録資本:1000万元(約1億6000万円)>を設立し、95%の株主となった。また、この年にM2バーを別の場所へ移転して「銀河倶楽部(Galaxy Club)」と名前を変えた。2017年以降も孫小果は他の人々と出資を行い多数の会社を登記した。
(7)こうして昼間は正規の実業を装いながら、夜間は娯楽街の「老総(顔役)」として知られていた孫小果は、2019年3月中旬に傷害事件で逮捕されたことにより、かつて死刑判決を受けていたはずの孫小果と同一人物であることが判明したのであった。そして、4月には昆明市政府は孫小果を含む影響力の強い犯罪集団を殲滅したと発表して、孫小果問題の決着を付けようとしたが、世間はそれを許さなかったのであった。
(8)孫小果が死刑を免れただけでなく、自由を得て、一般社会で夜の顔役として生活していたのはなぜなのか。そこには中国特有の有力者との「関係(コネ)」が背景にあるのではないのか。中国社会はこの点に関する説明を要求した。5月28日、雲南省の「反社会勢力一掃特別闘争弁公室」は、孫小果の両親などの家庭状況を次のように発表した。「母親の孫鶴予は昆明市公安局官渡分局の警察官であり、1992年に李橋忠と再婚した。李橋忠は1996年に軍隊から転業して昆明市公安局五華分局の副局長となったが、1998年に孫小果が強姦事件を引き起こしたことにより処分された。その後、李橋忠は2004年に昆明市五華区『城市管理執法局』の局長となり、2018年10月に退職した。また、孫小果の実父である陳培忠は昆明市政府に所属する某工場の工員であったが、1996年に脳溢血で倒れて引退を余儀なくされ、2016年8月20日にこの世を去った。陳培忠は孫小果事件には何らの関わりもない。

 権力に近いほど胡散臭い

 しかし、世間は上記の発表には満足せず、各種メディアが種々の推測を報じた。その一部を紹介すると、

 ・実父の陳培忠の父親は、中国共産党11軍の軍長で、かつて昆明軍区副司令員兼雲南省軍区司令員の陳家貴であった。

 ・母親の孫鶴予の死んだ父親は、かつて中国共産党雲南省委員会副書記で、雲南省政治協商会議主席の孫雨亭であった。大叔父は雲南省公安庁副庁長で「禁毒局(麻薬取締局)」局長の「孫大虹」、義弟はかつて昆明市中級人民法院(地方裁判所)院長を務め、現在は雲南省人民代表大会財経委員会主任の「孫小虹」、上から2番目の伯父さんはあの「周恩来」総理の秘書で、国務院弁公庁紀律検査組組長の「孫岳」だった。

 ・公開の資料によれば、孫雨亭と孫小虹は親子であり、孫雨亭、孫大虹、孫小虹、孫岳の本籍地は全員が山西省夏県であった。

 孫小果がどうして死刑を免れて自由を得ることができたのか。その真相が何なのかは現時点ではまだ分からないが、2019年6月末までの動きはこうなる。

 ・2019年4月初旬,中央政府の「反社会勢力一掃特別闘争」監督指導チームが雲南省へ入り、雲南省監獄局、雲南省高級人民法院、昆明市中級人民法院の関係者、および孫小果の母親、義理の父など11人を留置して取調べを行った。また、孫小果の出獄後の犯罪に関係したとして9人の犯罪容疑者を逮捕すると同時に、23人の犯罪容疑者を刑事拘留した。

 ・2019年5月28日には、昆明市公安局盤龍分局の元科長と警官が孫小果に関わる件で「以徇私枉法(私情に流されて法を曲げた)」として逮捕され、それぞれ懲役3年と4年の刑に処せられた。また、盤龍分局では他の警官4人にも処罰が与えられた。

 ・2019年6月4日,中国共産党「中央政法委員会」が先頭に立ち、中央紀律委員会、国家監察委員会、全国反社会勢力一掃特別闘争指導小組弁公室、最高人民法院、最高人民検察院、公安部、司法部で構成された全国反社会勢力一掃特別闘争関連特大事件督励チームが昆明市へ入り雲南省の関係部門に孫小果事件の究明を督促した。

 中国共産党が威信を掛けた特大事件督励チームが、孫小果事件の究明を督促したとしても、真実を解明できる保証はないが、万一にも究明が中途半端で終わるようならば、常にコネが横行する社会を憎悪している一般大衆は、中国共産党と中国政府に対する不満をさらに増大することになるだろう。

 習近平政権が推進している「トラ退治とハエ駆除」および「反社会勢力一掃」の2大闘争は、その成功の如何が中国共産党の存続に関わる重大なものである。

 上述した杜少平と孫小果の事件は、いずれも地方にはびこる悪人が引き起こしたものであったが、それを可能とするのは地元に深く根差した人的関係で、容易に根絶できるものではなく、中国にとっては今後も根絶に向けて永続的に取り組むべき重要な課題と言える。






(私論.私見)