搭乗キャンセル者考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).3.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2010.8.16日 れんだいこ拝 |
【日航機123便キャンセル有名人考】 | |
「日航機の御巣鷹山墜落事故 搭乗回避した人物が語る当時の様子」その他参照。 | |
シャープ元副社長兼東京支社長/佐々木正 佐々木氏は自宅のある大阪に帰るため当便を予約していたが、前日、佐々木に「明日、会えないか」と連絡をしてきた人物がいた。フィリップス社の東京支社長である。急きょ仕事が入り予約を変更した。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しようとしたりして関係が深かった。年末に社長が来日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変更してもらったんです」。日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった。ちょうど同じ頃、大阪では悲鳴があがっていた。淨子(じょうこ)夫人は、夫が123便をキャンセルしたことを知らされておらず、いつものように、伊丹空港まで迎えに来ていた。そこにもたらされたのが事故の一報。「家内は、かなり遅くまで待っていたようだ。いったんは私が亡くなったものとあきらめたらしいですがね。ところが東京に残って仕事をしていることを誰かが伝えてくれて、安心して帰宅したようです」。淨子夫人は空港で待つ間、“あの日”を思い出していたかもしれない。実は佐々木は以前にも、航空機事故を奇跡的に逃れた経験を持っているからだ。それは昭和49年、佐々木がシャープの専務時代にさかのぼる。マレーシアに設立された生産会社の竣工式に出席した翌日のことだった。空港に行き、次の目的地であるクアラルンプール行きの飛行機を待っていると、前日竣工式で祝辞を述べてくれたマレーシアの農林大臣と出くわした。「私の乗る便は途中クアラルンプールに寄る。早く着くから一緒に行かないか」と誘われた。心は動いたが、早く到着しても誰も迎えに来ていないと思い、佐々木は断った。その後、農林相を乗せた飛行機は墜落し、彼は命を落とした。「生かされた命ですから、人の役に立つ製品をつくらなければと思って、これまでやってきました」。電卓、真空管、半導体、液晶、太陽電池と、シャープ躍進の鍵を握る技術に佐々木は関わってきた。そしていまは老化の原因である細胞の「酸化」を食い止める「還元」技術を勉強中。技術確立のために、「自分を実験台として使ってほしい」とまで熱く語る。「『知恩報恩』という言葉が好きでね。これまで生かしてくれたご恩に報いたいと思っています」。 |
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フジテレビアナの逸見政孝 逸見氏は、妻の母親の助言で一家で新幹線に変更して難を逃れた。逸見氏は、その年、不惑を迎えていた。彼はあの日、妻と息子、娘の4人で、実家のある大阪へ飛行機で帰省するつもりだった。逸見が希望したのは、なぜか123便だった。だがその便を予約しようとすると、満席を告げられた。おそらくその後だろう、妻・晴恵が近所に住む実母に帰省の件を話すと、こんな懸念を口にした。「4人で飛行機に乗って、もし事故でも起きたらどうするんだい」。晴恵にとってその一言は重みがあったようだ。逸見の長男でタレントの太郎(当時小学6年生)によると、「祖母は霊感があるというか、不思議な存在だった」という。祖母は、世田谷区奥沢でよろず屋を営んでいた。店は十字路のすぐ脇にあったのだが、そこには太郎が知っているだけで3回、車が突っ込んでいる。「そのたびに店はメチャクチャになるんです。でも、いつもは店番をしている祖母がそのときに限って、近所で世間話をしていて助かっている。そういう祖母の言葉だから、母も新幹線にしようと考えたのでしょう」。父親は怖い人だったと太郎は言う。「テレビの印象からは想像できないかもしれませんが、家では笑顔をほとんど見せず、頑固一徹。君臨するタイプなんです。自分が決めたことに不用意に口出しすると怒り出す。帰省の件でも、もし母が“お母さんが言っていたから”などと伝えていたら、“お前たちは新幹線で行け、お父さんは1人飛行機で帰る”と言いだしたことでしょう」。事実、晴恵はこう説得している。「4人だし、飛行機よりも新幹線のほうが安いから」。それが功を奏し、一家は新幹線で帰省した。日航機墜落のことを知ったのは実家に着いてからだった。フジテレビでは露木茂アナが速報を伝えていた。「自分が乗るかもしれなかったという驚きもあったでしょうね。よく覚えているのは、お盆休み中、父がずっとやきもきしていたことです。テレビや新聞を頻繁に見たりして、話しかけても上の空だったし。局から東京に戻れという指示はなかったのだと思いますが、やはり現場から伝えたかったんじゃないでしょうか」(太郎)。逸見は3年後の昭和63年にフリーとなりお茶の間の人気者に。しかし平成5年1月、がん告知を受け、1年足らずでこの世を去る。 太郎は取材の最後、興味深いことを明かした。「父がフリーになって初めて買った車が、メタリックシルバーのベンツでした。それにつけたナンバーが“123”だった。“イッツミー”の語呂合わせ。大阪人特有の笑わせてナンボということだったんでしょうが、それにしても123便とは妙な符合ですよね」。今となっては確かめようがないが、逸見があの日123便を希望したのも同じ理由だったのかもしれない。(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです) |
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明石家さんま
さんまは、 1985年8月12日、大阪でMBSラジオ『ヤングタウン』レギュラー出演のためいつも通りの伊丹行きの日航機JAL123便に搭乗予定だったが、直前の仕事である「ひょうきん族」(フジテレビ系)のレギュラー収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、日本航空123便墜落事故を逃れ間一髪のところで命拾いをした。さんまは「ヤングタウン」では言葉を失うほどのショックを受け、内容をこの事故の報道特番に切り替える旨のみを話した。さんまの座右の銘「生きてるだけで丸儲け」。 この事故から難を逃れたことに由来するのだとか。一人娘の「IMARU」はこの座右の銘を短縮して付けられたと云われている。明石家さんまは 幼いころに実母を亡くし、再婚した父と継母との間に生まれた年の離れた弟も火事で亡くしている。 |
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稲川淳二
稲川氏は、東京で健康番組「稲川淳二のためになる話」収録後、日本航空123便に乗るはずが当日体調が凄く悪くて乗らなかった。番組を手伝っていた友人の美容研究家は乗り帰らぬ人となった。 |
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ITジャーナリストの神田敏晶(53) |
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釣りライターの大西満(75) |
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医師の脇山博之(56) |
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「123便」直前キャンセルの医師、その後イラクへ 「生かされた命を役立てられれば」デイリー新潮2021年08月12日06時02分 「日航機」御巣鷹山墜落 死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生(3)520人が亡くなった「日航機123便」の墜落事故。その搭乗を間一髪で逃れた当事者たちは、事故が発生した昭和60年8月12日から現在までを、どのように生きてきたのか。 *** (週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪より) 「緊急オペが入ったぞ」 その一言で123便のチケットが反古になったのは、医師の脇山博之(56)だ。1年ぶりの帰省がかなわなくなった瞬間でもあった。 脇山は当時、研修医2年目の26歳。母校・防衛医科大学校の付属病院で、おもに消化器外科を担当していた。 しばしば「研修医は修業」と言われるように、仕事は過酷を極めていた。睡眠は3、4時間程度で泊まり勤務も多い。そんな中やっと取れた夏休みだった。 「8月12日は、実家のある福岡への直行便はとれず、まず123便で大阪へ飛び、さらに福岡行きに乗り換えるという面倒なルートでした。正直言って、あまり気が進まなかったですね」 当日はいつもと同様に、朝5時過ぎに病院に到着し、患者の採血、回診に同行した。8時頃に朝食を食べたあとだったろうか、前記の緊急オペの連絡を受けた。 研修医の場合、手術が終われば“放免”というわけにはいかない。というのも、患者の術後管理を何日にもわたって任されるからだ。 果たして、彼が墜落情報を聞いたのは病院の集中治療室の中でだった。 「驚きました。ただ、当時は、亡くなるかもしれない目の前の患者さんのことで精一杯。動揺するいとまさえなかったのです」 “何とかなる”しかし時間がたつにつれ、「自分がキャンセルしたことで、代わりに誰かが乗って犠牲になっている。そう考えると、いたたまれない気持ちになった」という。 そんな思いがあったからだろう、事故から19年たった平成16年、自衛隊が、人道復興支援活動のためイラクに派遣されたとき、防衛庁所属だった脇山は、医官として現地に赴いている。 「危険を伴う任務ですから、断る こともできました。でも、生かされた命を役立てることができればと、お受けすることにしました」 宿営地はサマーワ。役職は、第一次イラク復興支援群衛生隊長。主な任務は、周辺病院に対して衛生指導することだった。車で移動中、現地の警官が地雷を見つけたり、地雷で大破した車を目撃したりした。 「死ぬかもしれない、という恐怖は常にありました。でも123便のときも難を逃れた。今回も“何とかなる”という気持ちがどこかにありました」 平成19年に防衛省を辞め、ある医療施設を引き継ぎ、「ひもんや外科内科クリニック」を開業したときも、内心かなり不安だった。けれど、このときも“何とかなる”という気持ちに支えられた。そしていまは地域医療に励む日々である──。 このように間一髪で助かった当事者たちは、巡り合わせとしかいえないものにかろうじて命を救われていた。キャンセル席が回ってこない、急用が入った……。吉凶は隣り合わせということが、これほど如実に表われた例はないだろう。もしかしたら自分も死んでいたかもしれない。それもあってか、問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にする人が多かった。 日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それを心のどこかに感じながら、助かった人たちはそれぞれの人生を今も生きている。 (文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです) *** 西所正道(にしどころ・まさみち) 「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪 掲載 |
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村尾晞峰 「123便に乗るはずだった書道家、鎮魂の初個展 大阪で」。 乗員乗客520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年となる。あの日、事故機に乗るはずだった書道家が鎮魂の思いを込めた個展が11日、大阪市内で始まった。搭乗便の変更と、節目の年にたまたまできたギャラリーの空き。これまで生きていることへの後ろめたさから事故について表現することにためらいがあったが、2つのキャンセルを縁に、哀悼の意をあらためて書で表した。昭和60年8月12日。大阪府箕面市の村尾晞峰(きほう)(本名・清一)さん(75)は東京で開かれた書道展の表彰式の帰り、墜落した123便を予約していた。しかし、予定より早く羽田空港に着いたため、キャンセルが出たひとつ前の121便に乗り換えた。搭乗しようとしたとき、ゲートで会った4人家族のことが今も忘れられない。なかに水槽を持った子供がいた。このままでは機内持ち込みができないと検査員に止められ、家族は村尾さんと入れ替わるように次の便に乗ることになった。のちに、犠牲者に4人家族がいたことを知った。一昨年の春、書道展でよく利用するホテルのギャラリーの係員から、今年のお盆前後の催しにキャンセルが出たと聞いた。事故から節目の30年。人生初の個展を開こうと申し込んだ。以来、書で作品に記す言葉を選び、さらには絵も学んで自分で紙をすいたりもして、36点をつくりあげた。そのなかには事故で亡くなった坂本九さんが歌った「見上げてごらん夜の星を」の歌詞もある。本当は今も、個展を開くことがこわいのだという。毎年のように墜落現場の御巣鷹の尾根へ慰霊登山に行くが、遺族とすれちがっても言葉を交わすことができない。偶然生きながらえた自分の立場を言い出しにくく、接点を持てなかった。 「後ろめたい気持ちがあるんです。こんなことをしていいのだろうか、と。でも30年の節目で、心を新たにしたいと思い切りました」。「感謝と鎮魂 村尾晞峰書作展」は16日まで、大阪市北区中之島のリーガロイヤルホテル1階のリーガロイヤルギャラリーで開かれる。入場無料。 |
「福田元昭の『桜の木になろう』」その他参照。 |
8.12日は日本のお盆休暇のただ中であり、取り分けて需要の高い18時台の時間帯の便のキャンセル待ちチケットが取れるってことはなかなかあり得ない。「羽田-伊丹のJAL123便の前に、JALとANAと2便ほど待つが、まったく乗れなかった。18:00発のJAL123便がラストチャンス」の証言がある。 ところが、JAL123便には判明しているだけで4名のキャンセルがあった。それがあり得たのは、事前に異変情報をキャッチしキャンセルした人々がいたからである。その中で政治家のキャンセルが云われている。但し、その政治家名は明らかにされていない。 芸能人では明石家さんまがキャンセルしている。とある番組(『オレたちひょうきん族』とされる)の撮影がキャンセルとなり(収録が予定よりも早く終わったためにの説もある)、「仕事がたまたま早く終わり、搭乗予定だった123便をキャンセルして一便早いANA35便に変更して大阪へ戻った。毎日放送「ヤングタウン」に出演予定だった」と語っているが、おそらくあるルートから123便に乗ってはいけないと言う情報が入り、ドタキャンしたと推測される。事故を知ってかなり落ち込んだという話もある。 急用でやむなく123便をキャンセルした結果、難を逃れた人もいる。シャープ副社長兼東京支社長の佐々木正もその1人である。次のように証言している。前日、フィリップス社の東京支社長が、佐々木に「明日、会えないか」と連絡をしてきた。「オランダ本社の社長が会いたがっているというんだ。フィリップスとは、(CDプレーヤーなどに不可欠な)半導体レーザーを共同で開発したり、液晶の生産拠点を設立しようとしたりして、関係が深かった。それで年末に、社長が来日して食事を共にするというのが恒例だったんだが、その年に限ってお盆のその日になってね。だから飛行機の予約を変更してもらったんです」、「日航機事故のことを知ったのは、ホテルニューオータニのレストランで会食しているときだった」。
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羽田沖墜落の時は数日後放送のTHE MANZAIで紳助が「機長の頭の中からカブトムシが2匹出てきた」とネタにしてウケてた模様 |
>ジャニー喜多川(芸能プロモーター・音楽プロデューサー・ジャニーズ事務所代表取締役)、少年隊(ジャニーズ事務所所属ユニット)のメンバー(錦織一清、植草克秀、東山紀之) - 以上4名は事故前日に大阪の新歌舞伎座で幕を開けた舞台「森の石松」主演の近藤真彦の応援のために搭乗予定だったが、ジャニーは初日に近藤が記者会見を開くので来て欲しいと要請を受けたため前倒しで大阪入りし、少年隊は東京に残った[119]。 |
尾翼吹っ飛ぶタイミングが一便早かったらナイン全滅していた阪神は球団社長亡くしたけど、本来ならその席には久万オーナーが乗る予定だった |
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【話題】『こん平師匠の鶴の一声がなかったら、笑点メンバーが日航機墜落事故に巻き込まれていた可能性があったんですね…』1985年8月12日、当時の他の笑点メンバーである5代目三遊亭圓楽、桂歌丸、林家木久扇(当時、初代林家木久蔵)、三遊亭小遊三、6代目三遊亭円楽(当時、楽太郎)、7代目桂才賀(当時、古今亭朝次)、山田隆夫と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りするために当初予約した徳島便が大幅に遅延した上に徳島空港が悪天候のため予約便が条件付き運行となった。そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して、神戸から船で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したことでそのまま予定通り徳島便に搭乗し、メンバーらは123便の墜落事故から逃れることができた。同墜落事故については、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという。 |
前原誠司の御巣鷹慰霊登山 2009年12月、前原誠司を後援する京セラの稲森が日航再建の責任者になった。2010年8月、日航機123便墜落事故の再調査が、前原を中心に行われた。また当時国土交通相に就任していた前原は、2010年8月12日、日航機123便墜落事故の現場に慰霊登山をした。高天原山事変<日航ジャンボ123便撃墜事件>後、航空行政の所管大臣<運輸大臣・国土交通大臣>が「御巣鷹の尾根」への慰霊登山をするのは初めての事だった。 日航機123便墜落事故の再調査。前原は2011年7月に、123便事故解説書を公開して、事故原因は後部圧力壁の損傷という結果を再主張した。後部圧力隔壁の損傷は、生存者の証言で有り得ない話であるにもかかわらず、前原らは従来の主張を繰り返した。 吉本興業を解雇された雨上がり決死隊の宮迫博之(49)は、明石家さんま(64)の事務所で出直すことが判明した。明石家と言えば寸でのところで123便に乗らずに済み事故を逃れたと言う話が有名である。その明石家氏が宮迫擁護派として出てくる事を少し不思議に感じた。ネット上で、「吉本興業の件で、島田紳助氏が出て来て、さんま氏とタッグを組、宮迫氏を保護する動きを見せていると言うことは、宮迫氏は裏社会のバラされたくない情報を握っている可能性が高い」の書き込みがある。 |
(私論.私見)