諸氏の事件考

 更新日/2017(平成29).8.19日


 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「識者の1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」を開陳しておく。

 2010.8.16日 れんだいこ拝


【新ベンチャー革命氏の事件考】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK134」の五月晴郎 氏の2012.8.13日付け投稿「日航123便御巣鷹山墜落事件とオスプレイ(鷹)をつなぐ糸 (新ベンチャー革命)」を転載しておく。
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/30141716.html

 タイトル:日航123便御巣鷹山墜落事件とオスプレイ(鷹)をつなぐ糸:1985年、濡れ衣を着たボーイングへのご褒美はおいしいオスプレイ開発受注(2兆円)だった?

 1.年々、疑惑は深まるばかりの1985年日航123便墜落事件:絶対に風化させない!

 2012年8月12日は1985年の今日起きた、あの忌まわしい日航123便御巣鷹山墜落事件(注1)の犠牲者(521人、胎児一人含む)の命日です。本ブログでも、この時期には本事件を過去何回か取り上げてきました(注2、注3)。本ブログでは、日本政府の公式な事故調査報告書をまったく、信用していません。これは事故ではなく、事件だと確信します。筆者は物理科学的に矛盾した説明を平気で書いて済ませている政府調査レポートを絶対に許せないと考えている日本人の一人です。国民を愚弄するのもいい加減にしてほしい。みんな怒らないから、国民は日本政府になめられるのです。ネットには(新)日本の黒い霧(注4)というブログがあって、本事件の真相に迫っています。このブログの著者は、何者かに常時、監視されて命を狙われているようです。にもかかわらず、それにくじけず地道に本事件を追及しています。

 もうひとつ、JALの元エリート社員・佐宗邦皇(故人)(75年東大法卒)の本事件追及にも頭が下がります。故・佐宗氏によれば、本事件は、米軍機の核ミサイル被弾による撃墜事件とのこと(注5)。同氏はJALの経営企画部出身であり、本事件に深く係わってきた人物でしたが、JALを退社した後、米軍機による中性子爆弾ミサイル使用説を唱えている時期2009年8月9日、59歳にて急逝(不審死)されています(注6)。日本政府もJALもこれを妄言として無視していますが、同氏はJALの東大法卒エリート社員だっただけに、本事件の関係者は佐宗氏の証言を無視できないことは容易に想像できます。

 2.日航123便が米軍核ミサイルに撃墜されたのなら、日米安保条約がひっくり返る

 この123便撃墜ミサイルは空対空の中性子爆弾搭載ミサイル(注7)とのことですが、被弾航空機の残留放射能を最少にして核使用の証拠隠滅ができるように設計されているようです。それでも、123便が核ミサイル攻撃されたのなら、放射能汚染されていたはずですが、緊急来日したボーイング社員など米国関係者が事故から3日後の8月15日には墜落現場に行っています(注2)。したがって、核知識をもつ米国関係者が無防備で現場に行った事実から、中性子爆弾が使用されたとは、にわかには信じられません。ちなみに、123便は医療用核物質(ラジオアイソトープ)を大量に積んでいたという情報はあります(注1)。これは放射能が検出されたときのカムフラージュだったのでしょうか。しかしながら、本事件に米軍が関与していることが事実なら、これは重大事件であり、日米安保条約がひっくり返るような国家的一大事です。佐宗氏の中性子爆弾ミサイル撃墜説はさておいても、同氏は、本事件の動機が1985年9月のプラザ合意強要の対日威嚇であるとの説を採っています。そして本ブログ(注3)も同じ説を採っています。なお、プラザ合意がその後の日本の転落の重大なトリガーであったことは、衝撃作・孫崎享著『戦後史の正体』(2012、創元社)の298頁に詳しく書かれています。

 本事件に米軍の関与があったのなら、相模湾上空にて123便の機長が聞いた最初の爆発音は、米軍もしくは自衛隊の軍事演習用の無人標的機(爆弾搭載せず)が尾翼に突き刺さった衝撃音という説(注8)の信ぴょう性が増大します。ところが、123便はこれでは墜落せず、米軍横田基地に不時着しようとしたが着陸直前に拒否されたのです、なぜか、それは、民間機が軍事演習の標的にされたと知った日本国民の反自衛隊化、反米軍化、そして、日米安保反対運動激化を恐れたと思われる親米・中曽根首相が、自分の地元である群馬県山間部上空での123便撃墜を米軍に依頼したというのが、故・佐宗氏の証言です。なお、本証言に関し、当の中曽根氏からは何の反応もありません。中曽根氏は沈黙したままあの世に逝くのは許されません。
 3.ボーイング社はなぜ、濡れ衣を着ることに同意したのか

 本ブログでは、123便墜落事故後のボーイング社(123便ジャンボ機のメーカー)の対応に着目してきました(注3)。筆者は過去、100回近く日米間を往復した経験から、サマーバケーション中、ボーイングの専門分野の異なる技術者が10人もそろって、事故2日後の8月14日に早くも日本に到着した事実に非常に強い疑惑を抱いています、なぜなら、あまりに手回しが良過ぎるからです、そして、翌15日に現場に入り、16日に、記者会見して、事故原因は123便が以前にしりもち事故を起こして破損した後部圧力隔壁の修理不良と断定したのです、おのれのミスをこんなにも簡単に認めるとは・・・。これは事前にシナリオができていたとしか考えられません、すなわち、彼らは事故前からスタンバイしていたのではないかという強い疑惑が生じます。

 上記、佐宗氏の推論が当たっていれば、123便のしりもち事故を修理したボーイング社にまったく非はないわけです。ところが、事故現場調査の翌日に早くも、事故原因をボーイング社の修理ミスとボーイング社自身が断定したのです。しかしこれはいかにも不自然です。なぜなら、521人も死んだ巨大事故の原因が、自社の修理ミスであることを素直に認めれば、ボーイング社にとって巨額賠償金を払わされるわけですから、簡単に、ボーイングのミスを認めるのは自殺行為となります。筆者の日米経験からも、あのしたたかな米国企業がおのれの非をあっさり認めるのは非常におかしいのです。

 ボーイング社があっさり修理ミスを認めたのは、事前に、当事者と何らかのウラ取引きができていたからとみなすのが自然です。そういえば、その後、JALがボーイング社を相手取って、損害賠償訴訟を起こしたという話はあまり聞いていません、実に不思議です。一方、JALはこの事件が発端で、その後、経営がおかしくなり、2010年、遂に会社更生法の適用を申請して倒産してしまいました。しかしながら、その後、ボーイング社は自社の修理ミスを認めても、日本側から何ら目立った訴訟も起こされず、今日に至っています、おそらく、ボーイング社はみずから濡れ衣を着ても余りある“おいしい見返り”を受け取ったのではないでしょうか。

 そこでネットを調べてみますと、ボーイング社がベルと組んで、例のオスプレイ(注9、注10)開発提案を競争入札で落札したのが、132便墜落の1985年です(注9)、これは偶然でしょうか。そういえば、米国サイドからもオスプレイの技術的欠陥を指摘する声がありますが、ボーイング社のライバルは、1985年のGive &Takeのウラ話を知っているのではないでしょうか。なお、オスプレイ開発費は2兆円だそうです(注11)。本ブログでは123便事故当時のボーイング社の動きがコスカライ米国企業にしてはあまりに不自然だったので、何かあるとは睨んでいましたが、ボーイング社のオスプレイ開発の受注が1985年とは絶句、あまりに出来過ぎています。これが事実なら、オスプレイ(鷹)の実験を群馬県御巣鷹山上空でやるのもなんかの因縁です。そういえば、7月のオスプレイ騒動時のTVニュースにて、群馬県の住民が、米軍機の群馬県上空の訓練飛行日をカレンダーに記していましたが、驚くほど頻繁に行われています。御巣鷹山に眠る521人の御霊は安らかに眠ることもできません。
 注1:日本航空123便墜落事故
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%
BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85


 注2:ベンチャー革命No.173『1985年日航ジャンボ墜落事故の疑惑』2005年8月12日
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/mvr173.htm

 注3:本ブログNo.6『日航ジャンボ機御巣鷹山墜落の疑惑再考』2009年8月13日
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/171513.html

 注4:(新)日本の黒い霧
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/

 注5:「御巣鷹山の真相について」佐宗邦皇代表WF200908例会
 http://www.youtube.com/watch?v=Y-rbgPbmmTo&feature=relmfu

 注6:つむじ風“暴かれるか、日本航空123便墜落事故の真相?!⑨”2009年10月30日
 http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2009/10/123_84bc.html

 注7:中性子爆弾
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%80%A7%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE

 注8:JAL123便 日航機墜落事故の真相
 http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm

 注9:V-22(航空機)JVX計画
 http://ja.wikipedia.org/wiki/V-22_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)

 注10:本ブログNo.598『日本全国が危険なオスプレイの実験場にされる:なめられっぱなしのわれら日本国民』2012年7月11日
 http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/29881433.html

 注11:日刊ゲンダイ“米軍2兆円回収の悪巧み”2012年7月26日
 http://gendai.net/articles/view/syakai/137771

 ベンチャー革命投稿の過去ログ
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/1386/melma.htm

 テックベンチャー投稿の過去ログ
 http://www.elmstadt.com/news/techventure.html
 http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/8285/column-top.html  

 ★阿修羅♪ > 昼休み41 」の愉快通快氏の2014.8.12日付投稿「日航ジャンボ123便 。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は」を転載する。
 日航123便はなぜ墜落したのか

 今日は「8.9」(ナガサキ)65周年である。冒頭の写真は、私の1年ゼミ(2009年度)の女子学生が平和記念式に参加するため広島を訪れ、「8.6」(ヒロシマ)65周年の朝焼けを撮影したものである。式典には、国連事務総長や駐日米大使が初参加するとともに、「広島平和宣言」が「核の傘からの離脱」を日本政府に求めるなど、 「核兵器のない世界」に向けた新しい兆候も生まれている 。この問題についてはまた別の機会に論ずることにして、今回は「8.12」の25周年について書いておくことにしよう。

  「あの日」から四半世紀を迎えるにあたり、遺族の著書や近況などを紹介する記事が新聞に載るようになった。特に、「8.12」の来る今週は、関連した特集がテレビや新聞をにぎわすことだろう。 そのことを見越して、私は「8.12」の4カ月前に、少し早めにこの問題を取り上げた 。なぜならこの問題は、私自身、長年疑問に思ってきたことだからである。

 4カ月前の「直言」で 、「123便」に乗務したグループに所属していた元日航客室乗務員、青山透子さんの著書『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド、2010年4月刊)について紹介した。その後、 本書のホームページが開設され、そこに読者からの感想も書き込まれるようになった。

 出版以来メディアのなかには、青山さんに取材を申し込む動きが何件かあったものの、これまでのところ大きく取り上げられることはなかった。 『読売新聞』7月5日付夕刊が「だれもが責任を問われることなくうやむやにされてきた事故の原因や経緯を、当時の報道を丹念に追い、関係者たちの取材で迫った労作」と評価し、 また、「四半世紀を経てなお残る深い闇」と題する書評(『週刊金曜日』2010年7月30日号)が出た程度である。本書のタイトルから、あるいはザッと読んだ印象から、「日航側にいた人間」の回想録と受け取られてしまう傾きがないとは言えない。 だが、読んだ方は直ちに納得していただけると思うが、著者がこだわったのは、「123便はなぜ墜落したのか」である。 著者は、驚くほど丁寧に、粘り強く調べた当時の新聞や、関係者への取材などをもとに、このテーマを執拗に追っている。客室乗務員としての青山さんの体験や亡くなった先輩・同僚についての叙述があまりにインパクトが強いため、「なぜ」の方が見えにくくなってしまう面があることは否定できないものの、「なぜ」にこだわる著者の執念と意志は十分に伝わってくる。ここでは、本書の問題提起のなかから、5つの「なぜ」について触れておこう。

 第1の「なぜ」は、墜落の原因とされた「後部圧力隔壁損壊」説をめぐってである。私自身が見聞きした範囲でも、「123便」墜落をめぐって、本当に多くの人がこの説に疑問を表明している。運輸省事故調査委員会報告書は、「後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される」という結論だったが、これは説得力がまったくなく、私が地方講演で出会った方によれば、航空整備関係では、「後部圧力隔壁損壊」説をまともに信じる人はいないという。

 加えて、1986年10月26日のタイ航空機事故が、「なぜ」の一つの側面を明確にしている。タイ航空機は高知上空で機体後部の圧力隔壁が損壊し、大阪空港に緊急着陸した。その時、機内で何が起きたか。ドーンという爆発音とともに、機内与圧が急激に低下。白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客が一瞬で航空性中耳炎になった。だが、123便の場合は急減圧が起きず、白い水蒸気のような気体が生ずることもなかった。つまり、事故調査委員会の「後部圧力隔壁損壊」説は、タイ航空機事故により事実上破綻したと言えるだろう。詳しくは本書を参照されたい。

 第2に、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」である。本書によれば、墜落の20分後には、現場は特定されていたことになる。なのに、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠。これらは御巣鷹山から8~10キロの円のなかに入る。当時の上野村村長、黒沢丈夫氏(元海軍少佐、零戦パイロット)は、青山さんの取材に対して、墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかった。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と。なぜ墜落現場の特定が遅れたのか。それは「遅らされていた」のではないか。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないか。本書によれば、黒沢元村長をはじめ、救援にあたった地元の方々のなかには、この点についていまも疑問を抱いている人がいる。

 第3の「なぜ」は、上記と関連するが、救助の遅れである。自衛隊が到着するのは12時間後である。これについて本書は、『星条旗新聞』1985年8月27日付に注目する。米空軍第345戦術空輸団所属の中尉が、C130輸送機で横田基地に向かう途中、123便の緊急無線を傍受。御巣鷹の尾根に煙があがるのを目撃している。すぐに米軍の救難チームのヘリが厚木基地から現場に向かい、午後9時5分に現場に到着。隊員が現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部から「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という命令を受け、救助活動を中止して帰還する。生存者の落合由美さんは、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と述べている。なぜ、救難ヘリに帰投が命じられたのか。自衛隊は本当に夜間に到着していなかったのか。最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」という。彼らは一体、いつ現場に到着したのか。

 第4に、なぜ遺体は黒こげだったのか、である。ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、マイナス50度の上空でも凍結しないように、灯油よりも純度が高く、水分が少ない。燃料は主翼内の区切られたタンクに入っているが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤(すす)も出にくい。にもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さんは何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。詳細は本書に譲るが、遺体の惨状はジェット燃料の火力のせいだと思い込んでいた私は、この箇所を読んだとき鳥肌がたった。

 第5に、123便墜落の決定的な「なぜ」である。『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに「何か」が写りこんでいる。これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

 青山さんはパソコン上でこの写真を拡大していったところ、オレンジ色に変色していったという。画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」という。ネガを直接鑑定すれば、この「オレンジ」の正体も分かるだろう。123便は「横」からのG(圧力)によって機体が揺れている。「後部圧力隔壁損壊」では横揺れは起きないという。この「オレンジ」が右方向から123便に接近しているとすれば、この「オレンジ」と123便墜落との間に重要な関連があるとは言えまいか。

 これらが解明されるまでは、25年たってもなお、日航123便の520人に対して、「安らかに眠ってください」とは到底言えないのではないか。123便の右側から接近する「オレンジ」の正体をはじめ、いくつもの「なぜ」に対してきちんとした解明が求められている。メディアの真摯で本格的な取材が求められる所以である。

 http://www.asaho.com/jpn/index.html  

コメント
 08. 2010年8月16日 14:09:23: qKow3IyN6E
 あの当日、中曽根は軽井沢の別荘にいて、事故のことを知らなかったというように報道されている。(そんなバカなことはあるまいが)次の日東京にもどって車を降りた時、記者達から事故の件を知らされた。その時のテレビに映った中曽根のすっとぼけた表情はいまだに忘れられない。「ほぉー、そんな事故があったの」。私は今初めて知りました、そんな演技が丸出しの顔つきであった。今なら危機管理がなっていないと猛烈な批判を浴びるだろうが、当時は危機管理などと言う意識はなく、「なにも知らなかったことにしよう」と判断したのであろう。それぐらい関わることを恐れた事情があったということではないのか。本当に知らない意外な事実を知らされてびっくりした時の顔と、知っていながら知らないふりをするときのとぼけた顔の違いは、テレビを通してより一層わかるものである。
 10. 2010年8月16日 18:45:01: yQWO2OkyEc
 日航ジャンボ機墜落事故から25年、日本は未だに責任追及型の事故調査の体制のままで、これでは再発防止の真の原因追求はできないままだ
http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-1752.html
http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-285.html
http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-138.html
 13. 2010年8月16日 22:34:41: JNt4FPkdeY
 
何故、ブラックボックスが公開されないのか?何故、無編集のボイスレコーダーが公開されないのか?これって、異常ではないかい?(笑)何故、疑惑ばかりの論調なのか?ブラックブックス、生のボイスレコーダーを公開すべきとの、声が今一でないのか?疑惑の論調に誘導にされているのか?
 19. 2010年8月17日 13:22:55: GCayz6Rk0o
 
「意図的計画的な撃墜」なのか、「誤射」なのか。意味合いはずいぶん違う。その後の自衛隊の対応の「手際の良さ」から判断すると、おぞましい話だが前者のような気がする。角田氏の「疑惑」という本の中に、事故前日に500もの棺桶が地元の業者に発注されていたことが書かれてある。その後その会社は「不審火」で全焼、伝票類は灰になってしまったと。
 20. 2010年8月17日 15:54:35: 7SGXXjHTuY
 
何故、「123便」でなければならなかったのか? それは、作戦に携わる人間が決して間違えることのないように・・・「1.2.3.」と。何故、「9.11」でなければならなかったのか? それは、テロの実行を知る米国側関係者への「暗号」・・・(911は米国の110番) 第二次中曽根内閣は、「JAL123便墜落事故」から40日後の1985年9月22日に米国の圧力に屈して「プラザ合意」を呑むハメとなった。これを契機に、この日本は急激な「円高」と進み、「日米構造協議」の絨毯攻撃に晒されることとなった・・・
 22. 2010年8月17日 19:27:02: yQWO2OkyEc
 http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/c31c55afccc9088e86fc3d6f9831f2e1#comment-list
 日航ジャンボ機・墜落事故の真相 (Unknown)
 2010-08-16 21:03:28
 http://alternativereport1.seesaa.net/article/159465914.html
 「日航ジャンボ機墜落事故当時、横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。『事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。 UFO(当時はステルス機もUFOとされた)又は日本の古代兵器等を隠す目的ではないでしょうか (123)  2010-08-17 06:02:15 ↑のアントヌッチ中尉談話ですが、・相模湾沿いの各都市で多数目撃された「オレンジ色の閃光」との整合性がありません。従いまして、何か、もっと大きな案件(UFO又は日本の古代兵器)等を隠す目的ではないでしょうか。

 この意味においては、今回のこの記事の管理人様のご指摘のように、発光体が、フーファイターなのか、F19とラプターを併せたような岐阜の航空実験体の実験なのか、デュートロンやれんだいこ等の日本の超古代兵器も関わっているのか、等を、よく検討しなければなりません。 JAL123便コックピット内でのもうろうとしたやりとり、JAL123便乗客の遺書の字がひん曲がっている、航空自衛隊JFS71便の乗組員に記憶障害が発生している (123)  2010-08-17 17:43:54 ・JAL123便コックピット内でのもうろうとしたやりとり、・JAL123便乗客の遺書の字がひん曲がっている、・JAL123便尾部にオレンジ色の閃光が走った頃、付近を飛行していた航空自衛隊JFS71便の乗組員に記憶障害が発生している。(18:25頃に明瞭な交信で聞いた高度を18:28頃に再度確認している) 以上、どれをとっても、単なる誤撃等では済まされない重大な案件が潜んでいるのである。

 24. 2010年8月17日 20:06:53: yQWO2OkyEc
 安全啓発センターの40番のオレンジ色の残骸は在韓米軍烏山基地の救援塗色C130ではないか。
 http://www.asyura2.com/10/lunchbreak41/msg/586.html
 元、自衛隊パイロットで、操縦の腕も日本で5本の指に入ると絶賛された、高濱機長をJAL123便に搭乗させた。高濱機長は、その驚異的な手腕を遺憾なく発揮し、JALの期待通り、相模湾でのアクシデントの後もジャンボを飛ばし続けた。これにあわてた自衛隊は、中曽根総理に撃墜許可を迫り、「なんとかしろはなんとかしろだ」という命令を引き出した。優秀なJAL123便の高濱機長は、長野県川上村付近の高原レタス畑に不時着しようと試みた。自衛隊は、高濱機長の巧みな操縦に、さらに恐れをなした。そして、自衛隊は不時着寸前のJAL123便に対し、核ミサイルを発射した。自衛隊はさらに・米軍機・米国政府機(U2)・在韓米軍救援機を撃墜した。第二次中曽根内閣は、「JAL123便墜落事故」から40日後の1985年9月22日に米国の圧力に屈して「プラザ合意」を呑むハメとなった。これを契機に、この日本は急激な「円高」と進み、「日米構造協議」の絨毯攻撃に晒されることとなった・・・。
 30. 2010年8月18日 15:51:12: yQWO2OkyEc
 御巣鷹の尾根に登られる際には、警視庁の墓、にも是非とも手をあわせていただきたい。警視庁ヘリも自衛隊に撃墜されたhttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/6a/e4d95669c7f752991b6edff87e9bad2f.jpg
から数メートルの所には、なんと警視庁ヘリの残骸が突き刺さっている。警視庁ヘリに搭乗されておられたであろう遺品も出てくる。自衛隊のクレージーな愚行は、・米軍機撃墜・米国政府機撃墜(U2)・在韓米軍救援機撃墜にとどまらず、・警視庁ヘリ撃墜にも及んだ。さらに、JAL123便には、グリモリ捜査の警察庁、公安庁、の優秀な人材も搭乗していた。しかし、驚くべき事に、御巣鷹の尾根では、自衛隊による生存者の無差別な虐殺が行われていた。

 警察、公安もクレイジーな自衛隊に殺された。
 http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/669.html

 32. 2010年8月19日 18:13:53: yQWO2OkyEc
 
日航ジャンボ123便ですが、早い段階では200人近くは生還できる状態で生きていただろうということです。一番悲劇的なのは、自衛隊「西川博之」氏28歳でしょう。若いですが、結構格が上の勲章をつけています。(新)日本の黒い霧、にも、西川氏について書かれた記事があったと思います。墓碑の場所と、JAL123便座席表からして、当初生き残っていた可能性が高い。さて、運良く生き残った。↓自衛隊が来た↓喜んだ↓わけも分からず殺された
 http://www.asyura.com/09/lunchbreak27/msg/669.html

 御巣鷹の尾根に行くと、まず最初に西川博之氏の無念があります。最下段、右側に、西川博之氏の墓碑が。運良く助かったのに。仲間が救助に来たと思ったのに。いかに無念であっただろうか。

 34. 2010年8月19日 21:41:57: yQWO2OkyEc
 当方がU字溝側で撮影(昨年10月前後)した   http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/03/08/3bc7105d198ba
933d2f053d6eff0
16e9.jpg 

は、後部油圧配管に挟まっていた。24年が過ぎ、退色しているが、
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/images/2010/08/03/firebee_03.jpg
である可能性が高い。また、
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/9a/58bed7002bca41c72554405e2c7e7d8b.jpg
は、非常に極めて特殊な素材だった。水平尾翼の近くに落ちていた。これら物証から、角田四郎氏「疑惑」・自衛隊標的機が尾翼部に刺さった・御巣鷹でミサイルにより撃墜されたが裏付けられる。
 40. 2010年10月10日 12:35:37: JsOU79nyaQ
 ここに偶然立ち寄りました。私の知り合いも一人亡くなっています。手帖に遺書を走り書きした人です。あの時、日航の社員で奇跡的に生き残った女性の身内が、天に両手を突き上げ、万歳、万歳と何十回も喜び叫んでいるのを、テレビニュースで見ました。沢山亡くなっているのに万歳、万歳はないだろうと唖然としたものです。これで一生あの時の女性は世間に出てこれないなあと思いましたが、あの時の女性は青山透子と云う人だったんですね。本まで出されていましたか。知りませんでした。

 「★阿修羅♪ > 昼休み27」の愉快通快 氏の2009.9.10日付投稿「日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた」を転載しておく。
司会 それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。
M氏[1] 私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。
司会 その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?
M氏[2] そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
司会 ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・
M氏[3] はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイが着いてきましたから。でも、普通のバイクなので切替しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。
司会 すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?
M氏[4] あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。
司会 午前4時という時刻はどうやって確認したのですか
M氏[5] 当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)
司会 そこで何を見ましたか?
M氏[6] 既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
司会 ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか?どれくらいの人が生きていたのでしょう。
M氏[7] 全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
司会 自衛隊員は何を拾っていたのでしょう。
M氏[8] まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。
司会 現場にはどれくらい滞在したのですか。
M氏[9] 到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これで大丈夫なのかなと思いました。
セミナー参加者からの質問
Q1 4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?
M氏[10] それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
Q2 この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?
M氏[11] ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。
Q3 事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。
M氏[12] 日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)
Q4 大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?
M氏[13] それは見ていないので分かりません。
Q5 現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?
M氏[14] そういうことは特に感じませんでした。
Q6 機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?
M氏[15] 言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。
Q7 事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。
M氏 報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。
Q8 その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。
M氏 山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。
司会 ありがとうございました。
 「★阿修羅♪ > 昼休み27」の氏の2010.8.29日付投稿「日航ジャンボ123便 ある隊員はベルトに巻かれて動けなくなっている元気な生存者を大丈夫ですかと楽しそうに腹部を裂き死に至」。
 ある隊員は、証拠に残らない薬品の入ったガラスの分厚いビンを各生存者の周りに巻き、投げつけ嘔吐、窒息死させ、ある隊員はぴんぴんしていた生存者を器具で皆で抑えてけ、火炎放射器で焼きはらったのです。その焼いた人間の中には首を更に切断されていた元生存者も居ました。それから、5人目の生存者はあまりにもピンピンしていた為、そのまま連行され今でも監禁されています。そして最後の米軍からの支持は、16時間後に救助に向かうように命令され、そのため自衛隊が情報を総作させ他の救助を遅らせました!全ては公安管轄の支持の元!!その場に居た自衛隊員たちにも証言して欲しくなかったのもあり、ある隊員はベルトに巻かれて動けなくなっている元気な生存者をアーミーナイフで大丈夫ですかと楽しそうに笑いながらベルトに沿いながら腹部を裂き死に至らしめ、その間100名以上は生存者が居たって言っていましたが、ある自衛隊の人がまだ山を登るなとの命令を無視して救助に向おうとした際に射殺されたと報道していましたが、苦しんでいる乗客には目もくれずに、何やら黄色い塗料の付いた部品(U2)を横一列になって自衛隊の人たちと海兵隊の連中とで拾い集めて、さっさと皆、下山したと云うことです!

 日航ジャンボ機123便の真実の一部!!墜落して何分もしないうちに山の麓からワイワイ人が上る声が聞こえて川上慶子ちゃんは、もう助けに来てくれたんだと喜んだのもつかの間、

<参考>
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/8e/c51a93f72c50d39fbabe87a00fc9f8c4.jpg
日航ジャンボ123便 ある隊員は、証拠に残らない薬品の入ったガラスの分厚いビンを各生存者の周りに巻き、投げつけ嘔吐、窒息
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak35/msg/418.html  

コメント
 04. 2012年7月30日 18:48:52 : BucWiX5jkI
 懐疑的な記述があったので指摘させて頂きます。アーミーナイフというのはちゃんと定義されていて、これは日本で言うところの10徳ナイフを指します。これは刃渡りも短く、折りたたみ式なので力をかけた作業には不向きで、仮に殺傷に用いようとすれば非常に危険です。鋼材も軟らかめのステンレスで(ヴィクトリノックス製でHRC=56程度)重作業に用いればすぐに切れなくなります。以上の点から考えて、筋肉のある部位を生きたまま大型のアーミーナイフで切断するのは難しいと思われます。そしてそもそもアーミーナイフに大型のラインナップはありません。刃渡りの短いナイフで腹部を裂いたところで簡単には死なないでしょう。次にアーミーナイフと呼称したのが誤りで実際には軍用の大型ナイフであった場合の懐疑点を指摘させていただきます。まず自衛隊に大型のナイフの支給はないです(角鉈はあるそうです)。したがって所持していたとしても私物でしょう。しかしこれは上官の検品を受けるはずです。実際に聞いた話でも大型のナイフを所持している自衛隊員はごく少数とのことでした。そしてこれらの刃物で人の腹部を裂けるかというはなしですが、ハンターならわかるでしょうがこれは大変な作業です。ナイフというのは汎用性を高めた道具なので、大型の物ほど厚みがあり、ある程度以上の変形しにくさを持った物体に切り込みながら刃を沈めるというのは非常に難しいのです。解体専用の刃物でも一回でスーッと人体を割くのは不可能でしょう。つまり何が言いたいかと申しますと、これは刃物について良く知らない人が作った脚本のような記述に見受けられるということです。
12. 2014年3月19日 22:03:14 : 48zr6NAfks
 JAL123墜落事故は、確かに何らかの事件性は隠蔽されていると思うが・・・。”・・・何やら黄色い塗料の付いた部品(U2)を横一列になって自衛隊の人たちと海兵隊の連中とで拾い集めて、さっさと皆、下山したと云うことです!・・・”いかに毎日肉体の鍛錬を重ねている軍人とはいえ、登山道も整備されていない標高2,000mの山中で、しかも夜間において、急坂と樹木に囲まれた中で、クレーンなどの重機も無しに、丸ごと軍用機1機分の残骸を夜間に拾い集めて下山するなど。

 まあ神業ですね。さらに、片手で持てるような細かい残骸部品を集めるだけならともかく。機体の主要部品を集めるには、クレーンなどの重機が必要でしょうに。”元気な生存者をアーミーナイフで大丈夫ですかと楽しそうに笑いながらベルトに沿いながら腹部を裂き死に至らしめ、・・・”かりにこの情報が本当の情報とすれば、日本人のメンタルではありませんね。自衛隊員に偽装した在日の米軍兵ではなかろうか?結局、この手の情報は、幾つかは本当の情報も含まれるが、最も隠蔽したい真相を大嘘でごまかすための謀略情報だと考えます。


 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ45」の黄昏時のパルチザン兵士氏の2006 年 8 月 14 日日付投稿「「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」 日航ジャンボ機墜落事故(1985年)特別インタビュ―◎安部譲二 」。
 ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知られている520人の命を奪った大事故の原因である。全てが公開されなかったボイスレコ―ダ―、二転三転した事故調査委員会の文言・・・・・・・。事故から21年、まだ謎は解けていない。 作家・安部譲二氏は日航機の客室乗務員だったという時代がある。単発エンジン小型機の操縦免許も持っている。その安部氏は1985年、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した事故を、事故ではなく、事件だと確信している。著書、『日本怪死人列伝』(02年、扶桑社文庫)で安部氏は、<無残に撃墜されたのだ>と断言している。

 85年8月12日、羽田発大阪伊丹行きの日航機123便、ボ―イング747型機が墜落して520名という航空機単独の事故としては史上最大の被害者を出した。飛行機事故の歴史に残る大事故である。この事故には、当時から数多くの疑問が投げ掛けられていた。「墜落した日の夜中に日航のスチュワ―デスをしていたおばさんから電話があってね。日航のイチニイサン(123)便が〝行方不明〟で大騒ぎになっている、って言うんだ」。事故発生の時点で安部氏は首を傾げている。「だってね、あんな大きい飛行機がいなくなっちゃったって言う。85年でしょ。その頃は日本全国、軽飛行機ですら行方不明になるなんてことはあり得なかった」。安部氏によると、この時代には米軍のレ―ダ―サイトが張り巡らされ、自衛隊のレ―ダ―監視網も日本の全ての空域をカバ―していた。さらに空港の管制塔はエリアごとにすべてをフォロ―していたという。JAL123便を示す影が管制塔のレ―ダ―から消え、機体の消息を絶った、とされているのは18時56分。18時18分に羽田を離陸した約40分後である。18時24分に123便は緊急事態を告げる〝スコ―ク・セブンセブン〟というサインを送っている。このサインを送る直前、123便は操縦能力をほぼ完全に失い、関東上空を迷走したうえでのレ―ダ―からの消滅だった。「行方がつかめなくなった末にどこに墜ちたかわからない、(自衛隊、米軍の防空能力が)そんなことだったら戦争なんかできないでしょ」。機体の発見まで長い時間がかかったことは事実である。国民はやきもきして臨時ニュ―スを夜通し流すテレビを観続けた。埼玉県と群馬県の県境にある御巣鷹山の山腹で123便の残骸が発見されたのは翌日の9時である。消息を絶ってから13時間が過ぎていた。たしかにこれでは、例えば国籍不明機が侵入してきても、いったん機影を失えば半日間は発見できない可能性がある、というのに等しい。

 ★すべて公開しない謎

 事故そのものが不測の事態だから、思いもつかぬことが重なって混乱したということは考えられるが、航空機事故という大事に、いったいこんなことがあり得るのか。ともあれ、安部さんは事故発生のその日から深い疑問を抱く。「その頃は、もう知っている人間は乗っていなかったけど、飛行機乗りってのは、(事故には)敏感なんですよ。まだプロペラの時代だけど、昔『木星号』という旅客機が墜ちた。大島の三原山に墜ちたんだけど、マスコミには相模湾に墜ちたとミスリ―ドして引きつけておいて、そのあいだに何かを回収した。ああ、またやってるなと」。木星号事件とは52年に起きた航空機の墜落事件である。乗客乗員37名全員が死んだが、当時、空路を管理していた米軍からもたらされる情報が交錯矛盾し、疑いをもたれた。松本清張がこの事件を題材に『52年日航機「撃墜」事件』という小説を著している。航空機事故で、事故原因の解明にきわめて重要な役割をもつのが操縦席の会話を録音したボイスレコ―ダ―だ。後年、テレビで123便のボイスレコ―ダ―が公開された。「聴きました。それでプライバシ―に関わることなので一部は公開しないという。あれは犯罪じゃないですか」。安部さんが言う通り、ボイスレコ―ダ―の全ては公開されていない。「520名が亡くなった事故だよね。コクピットで何を叫んでいようと、たとえ『お前のかあちゃんと寝た』と叫んでいようとも、公開しない理由にはならないでしょ」。テレビで公開されたのはダビングしたものだが、オリジナルは他の資料といっしょにすでに廃棄処分されている。航空事故調査委員会はこの事故をボ―イング社の修理ミスに起因するものと結論ずけたが、当時からこの結論に疑問を呈する声、真っ向から否定するものは多かった。

 事故調―――航空事故調査委員会が報告した事故原因を簡略化してまとめてみよう。

1、 該当の機体は事故の7年前に伊丹空港でしりもち事故を起こして客席と機体外壁を隔てる「圧力隔壁」が破損した。2、「隔壁」の破損を米ボ―イング社で修理したが、修理ミスがあった。3、以後の飛行による劣化で、事故当日、修理ミス部分から「隔壁」に亀裂が入った。4、気圧差でその亀裂から客席の空気が吹き出し、圧力で尾翼を破損させた。5、尾翼の破損で油圧系統がすべてダウンし、操縦の機能も失われた。6、迷走の果てに墜落。 ということである。いったいそんなことで尾翼が吹き飛ぶのだろうかという疑問はあったが、事故調支持の学者は材料工学などを駆使して、「あり得る」とした。

 ★急減圧はなかった

 であるとしても、そこには強烈な空気の移動があったことが前提になる。繰り返し議論になっている客席の「急減圧有無論争」である。急減圧とは、どういう事態なのか、急減圧が起きたら、機内はどうなるのか。「僕は、急減圧を経験したことはありません。だけど急減圧に対する訓練ってのはね、乗務員が不時着水よりも時間をかけてやることなんです。だからパイロットは急減圧があったら、それこそ急減圧のキュを聞いたら(酸素マスクが)落ちてこなくても落ちても反射的に手を伸ばすものなんです。客室には客席分の酸素マスクのほかにバゲッジに10メ―トルごとに携帯用の酸素ボンベがあって、乗務員はとりあえず酸素を確保できるようになっているんです」。事故調は急減圧があったとしたうえで、パイロットが酸素マスクを装着しなかった理由については「不明」としている。だが安部さんによると、あの高度、メ―トルで推定6000から8000くらいで急減圧があった場合であれば酸素マスクをつけなくても操縦は可能だという。「エベレストの高さで酸素マスクをつけずに登ったって言う、それと同じでそれほどの高々度ではない」。しかし高度にかかわらず、エンジンの出力だけを操作して困難な飛行を数十分も続けることは超人的な技能なのだ。生存者のひとり、客室乗務員の落合由美さんの証言は、どう解釈しても急減圧はなかったことを証明している。落合さんは急減圧を感じなかったと事故後の調査で証言している。繰り返し急減圧の訓練を受けている乗務員の彼女が、実際にはあった急減圧をなかったと勘違いすることはあるのだろうか。「それはあり得ない」(安部氏)。酸素マスクを装着していた遺体はひとつもない。これらのことから、日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。だが事故調は急減圧があったと報告をまとめ、運輸省に提出し了承されている。「事故調は急減圧はあったと言っているけど、どっちが正しいかと言うと100対0でこっち(日航乗員組合側)が正しい」。

 ★修理ミスを認めた理由

 事故調を支持する側の学者は、すると急減圧はなかったが、ゆるやかな減圧はあったのだとした。しかし急減圧がなかったのなら、事故調が報告した隔壁の亀裂そのものが疑わしくなり、尾翼が急激な気圧で吹き飛んだという説が成り立たなくなるのである。つまり事故調の報告はまったくの虚妄ということになる。「ボ―イングが、ずいぶん早くにまず修理ミスから圧力壁の破壊と言いだしたんだよね」。どうしてボ―イング社が、修理ミスを早々に言い始めたのか。ボ―イング社がそうする必要がどこにあったのだろうか。「今、日本ではダグラスとかほかの社の飛行機はほとんど飛んでいないじゃないですか」。幹線を主にして、確かにボ―イング機がほとんどである。「当時の日本の航空会社のトップはボ―イングっていう名前にアレルギ―があったんですよ。ボ―イングのB29からB17にさんざん爆撃されたからね。聞くのもイヤな名前で、だからダグラスばかりだったんです。その隙をついて、ロッキ―ドとか売り込みにきて、ボ―イングは大苦戦だったんですよ」。戦後、日本の民間航空を再建したのは、旧陸海軍で航空に携わった者たちだった。こうして日航、日本政府に貸しをつくったボ―イング社が、のちに日航をはじめとして日本の民間航空機の市場を制したという。日航乗員組合連絡協議会の元日本航空のベテラン機長、藤田日出夫さんは、尾翼が壊れた原因として『新潮45』(00年8月号)で「フラッタ―説」を書いている。フラッタ―とは、分りやすく言えば細かい震動である。航空機の場合、旗がはためくように震える現象を指し、機体の破壊につながる。「藤田さんは、僕みたいな小説家と違って、専門家として冒険ができなかったんです。思うことはあったとしても、パイロットの立場としてはいえないことがあるんでしょう」。藤田氏は、ボ―イング機の構造的な欠陥によってフラッタ―が起こり、尾翼が破壊されたと、わずかな行数で遠慮がちに指摘している。「航空機の尾翼は、戦闘と、(衝突の)事故以外で壊れたことは、プロペラ時代も含めて、ライト兄弟以来、一回もないんですよ。それくらい尾翼というのは堅牢な中でも堅牢なものなんです」。

 では安部氏が主張する事故原因、尾翼破壊の原因とはなんなのか。それは、自衛隊の無人標的機が123便の尾翼に衝突して破壊したのだというのだ。事故当時、新造された護衛艦「まつゆき」が相模湾で試運転中だった。その「まつゆき」艦上からテストで無人標的機が発射され、123便の尾翼に衝突した、というのである。「ぶつけたんじゃなくて、ぶつかってしまったんでしょ。標的機はジェットエンジンで高速で飛ぶものだから、当てようとしてもなかなか当たらないものだそうです」。

 ★民間機相手の訓練

 この説を主張しているのは安部氏だけではない。「雫石のあとでしょ。あの時は自衛隊機が全日空機を相手に戦闘訓練を勝手にやってて、それで後ろから突込んじゃった」。雫石事故とは71年、全日空機のジェット機727型機に航空自衛隊のF86F戦闘機が衝突した事件である。この時、自衛隊は全日空にも管制にも訓練を報せていなかった。この時、ある疑いがもたれた。自衛隊機が民間機の全日空機を敵機に見立てて戦闘訓練をしていて誤って衝突したのではないかという疑惑である。乗客乗員162名が死亡。この時は航空幕僚長の辞任で収まっている。運輸省管轄の航空事故調査委員会はこの事故をきっかけに誕生している。日航機事故の当時は第二次中曽根内閣。中曽根康弘が内閣総理大臣、航空を含めた運輸行政を司る運輸大臣は山下徳夫、防衛庁長官は加藤紘一、内閣官房長官は藤波孝生だった。もし安部説が正しいとしたら、この日航機事故の情報はどこまで上がっていて、誰が処理に関する全ての決定権を持っていたかということだ。「それは中曽根でしょう」。安部氏は言う。自衛隊機が民間航空機を仮想の敵機として訓練することは今もあると安部氏は睨んでいる。「僕がいたときはしょっちゅうだった。米軍機だけだよ。やんないのは。ほかの国は日本を含めて予算がないから、民間機を相手に訓練するんだよ」。無人標的機が衝突したという話を最初に聞いたのは、いつ、どういう機会だったのか。「いつだったかな。日航の仲間からだったと思うけどね。彼らが自費で船を調達して、発見されなかった尾翼の部分を探しているって聞いた時かな。見つからなかったけどね。もうとっくに海上自衛隊が回収したんでしょう」。

 ★撃墜された日航機

 安部さんは123便が山に向かって北上したことにも、疑惑を抱いている。「機長は大阪行きなら、もし伊丹空港での着陸がなんかの事情で不能になったら、すぐ代わりにどこに着陸するか考えるものです。123便は相模湾上空でなんだかわからないけどアネ―ブル・コントロ―ル(操縦不能)になった。あの場合、海に不時着することを考えるのが普通なんですよ」。操縦席では尾翼が壊れていることはまったく分かっていない。「分かっていてもいなくても、操縦不能なんだから」。123便が海に向かわないで陸地に向かった理由は何だったのか。「僕はね、最終的には撃墜するためだと思いますよ。本ではそこまで書けませんでしたけど。123便の操縦士は横田か福生に降りようとしていたと思うんですよ」。123便は海ではなく、山の方に故意に誘導されたと安部さんは主張する。では123便はいつ、どこで撃墜されたのか。御巣鷹山近くの複数の住人が、123便が炎をあげて墜ちてきた、光るものが飛んできたと証言している。例えば123便が機体を安定させようとエンジンを操作し、最大のパワ―でジェットエンジンを噴出したとして、その排気を炎と見間違えることはあるのだろうか。エンジンからの排気、または金属の機体が折りからの夕日を反映したということも考えられはする。検証をせずに123便に炎があったと断じることは危険である。が、そういう目撃談があることは事実である。「自衛隊の浜松基地から2機の戦闘機(F14)が発進してるんですよ。どの時点で撃墜するためのミサイルをぶっ放したか、僕は分かりません」。
(私論.私見)
 ここの下りがいただけない。「あの場合、海に不時着することを考えるのが普通なんですよ」がオカシイ。海も横田基地も危険と考え羽田を要求し、それが適わずで山へ胴体着陸を試みたとしないと真相が見えてこないだろう。「123便の操縦士は横田か福生に降りようとしていたと思うんですよ」はデタラメで逆が真相でせう。「123便は海ではなく、山の方に故意に誘導された」も間違い。最後の最良の選択肢として山に向かったと考えねば辻褄が合わない。

 2015.8.16日 れんだいこ拝。

 ★NHKが故意に誤報した

 自衛隊が、ダッチロ―ルで飛行している123便をなぜ撃墜する必要があったのか。「あの機体が横田でも福生でも羽田でも、もしあのまま着陸してしまったら、内閣、吹っ飛びますよ」。安部さんはNHKが墜落地点を故意に誤報したとしている。NHKは翌日の朝まで墜落地点を長野県北相木村と報じた。これは報道陣をはじめとした人間たちを故意に違った地点に導くためだったとしている。御巣鷹山は群馬県上野村にある。上野村の当時の村長は黒沢丈夫氏だった。のちに御巣鷹山に慰霊施設をつくり、登山道を整備した名物村長である。海軍兵学校を出た黒沢村長は戦争中は零戦のパイロットでミッドウェイ海戦にも出撃した勇士である。その黒沢村長が飛行機乗りの経験者として村民の証言などから墜落地点を御巣鷹山だといちはやく推理している。のちにある座談会で、事故対策室や日航、自衛隊が墜落地点をなかなか特定できなかったことに疑問を呈している。

 
安部氏は言う。「(NHKを使って)積極的にミスリ―ドしたことは間違いありません。それは、無人標的機の残骸と、最後に123便にとどめを刺したミサイルの残骸とそれに傷つけられた機体を回収するためです。シコルスキ―(自衛隊の大型ヘリコプタ―)を持っていってすぐ、生存者よりもなによりも早くそれを回収するため行ったんです。なにかオレンジ色の大きなものを釣り上げている写真を新聞社か週刊誌は持っていたはずですよ」。オレンジ色の部品は123便にはない。無人標的機の塗装色である。当時、日航の大株主は日本政府である。35%の株を持っていた。「日航ってお役所でしょう。僕の経験では、日航は政府にまるで頭があがらんでしょ。だって運輸省の下部組織みたいなものだったんだから」。安部氏は日航機事故をもう一度書きたいと言う。「全日空にも日航にもエライさんに知っているのがいるんだけど、みな日航機事故のことをいうと黙るんだよね」。日本のマスコミは本当のことを言わないし書かない、調べようともしない。「だから、本当のことを言い続ける僕の仕事がなくなることはない。日航機の事故は必ず書く。これはライフワ―クだと公言しているんです」。

 別冊宝島1324 昭和・平成日本「怪死」事件史 〝疑惑の死〟から見える日本の「闇」と「タブ―」 取材・文◎桃井 四六  撮影◎金子 靖


 日航機墜落事故の真相を巡る謎のまとめ」。

 1985年8月12日、日本航空123便が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落し、520名の犠牲者を出した「日航ジャンボ機墜落事故」から30年がたつ。お盆時期の夕方だったためジャンボは満員で、単独の航空機事故では犠牲者が世界最多となる、非常に痛ましい事故だった。30年も前のことなので、20~30代だとこの事故のことをよく知らない人も多いだろう。私自身もこの事故を認識したのは、2000年に入ってから公開された機内のボイスレコーダーを聞いてからだ。この事故には謎が多く、いまだに陰謀説も囁かれるほど、事故の真相ははっきりと分かっていない。最近、この事故について書かれた「墜落遺体」「墜落遺族」を読んで感銘を受け感想を書きたいのだが、その前にこの事故を巡る謎を簡単にまとめたいと思う。

 日航機墜落事故のボイスレコーダー

 墜落したJAL123便(伊丹行)は、8月12日18時12分に羽田空港を離陸した。12分後の18時24分、異常事態が発生する。突然の衝撃音とともに、123便の垂直尾翼が破壊される。その時、ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムが損傷され、油圧関連の操縦が不可能になってしまう。

 下記のサイトでは、その時点から墜落する18時56分30秒までの11分39秒間を、ボイスレコーダーの音声と文字、飛行概略図で再現している。(注意:画面右の「FLASH」から飛行概略図に飛べるが、いきなり音声が流れるので注意)

 ★期間限定ページ★ JAL123便墜落事故

 (上のページが期間限定で見られない場合は、同じ内容が下の動画で見られる)

 このボイスレコーダーのサイトを初めて見た時は、非常に衝撃を受けた。油圧系ダウンのため飛行機が操縦できないという絶望的な状況の中、冷静にできる限りの努力を続ける機長たち。その努力の結末を知っているため、最後まで音声を聞くことは辛くてできなかった。このボイスレコーダーも、事故直後には公開されず、2001年に国土交通省が情報公開法施行に備え、この事故に関する多くの資料を処分した際に、危機感を持った関係者がコピーをマスコミに提供したことで明るみに出たという曰くがある。

 墜落後の救助が遅れた謎

 123便は、18時28分頃に緊急事態を表す「スコーク7700」を発信し、18時59分以降レーダーから消失する。つまり、飛行機がどこにいるのか(どこに墜落したのか)が分からなくなる。そのため、墜落現場が判明したのは、なんと翌日8月13日午前4時30分過ぎ(航空自衛隊救難隊による)であり、救助活動が行われたのは、墜落から14時間後の午前8時半だった。だが、事故直後に在日米軍が墜落現場を突き止め、救助活動を開始しようとしていたのに、寸前で中止を命じられ他言も禁じられたという証言もある(動画参照)。

 これは、墜落直後にヘリコプターが一度近づいたのに遠ざかっていった、という生存者の証言とも一致する。真実はどうだったのかは分からない。縦割りの行政当局が、「墜落位置が確定しないと救助要請など出せない」と、正確な墜落位置の特定に固執しすぎて救助が遅れたという話もある。また、123便は多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)を積んでいたため、自衛隊は放射能汚染を警戒して待機していたという話もある。もし墜落後比較的早く救助を行っていたら、もっと多くの命が救えたのではないかという点については、日本航空123便墜落事故 - Wikipediaから引用したい。

 生存者の証言によれば、墜落直後には相当数の乗客が生存していた可能性があった。救出された、当時12歳の少女の証言によると墜落した直後は周囲からがんばれという励ましや、早く助けに来ないのかなどという話し声が聞こえていたが、次第に静かになっていったと語っている。そのため、救出が早ければもっと多くの命を救えたのではないかという意見がある。

 事故原因の謎

 事故の原因、つまり、なぜ垂直尾翼が破壊されたかは、1987年6月に事故調査委員会が公表した報告書によると、ごく簡単に言うとこうである。

  • JAL123便は、7年前の1978年に着陸時に機体尾部が滑走路と接触し中破する「しりもち事故」を起こして いた。その時の、米国ボーイング社の修理が不適切だった。結果、圧力隔壁に金属疲労による亀裂が生じ、そこから客室内の空気が流出して垂直尾翼が破壊された。だが、この報告書を巡っても、議論が多々ある。垂直尾翼の大半は未回収のため、その破壊過程が特定できない。そもそも、尾翼の捜索自体が不十分で ある。最近でもこんなニュースもあるほどだ日航機墜落事故「陰謀説」は終わらない ― 伊豆で破片が発見→隠蔽?目撃者語った真実 。圧力隔壁から客室内の空気が流れ出すと、「急減圧」が発生する。だが、パイロットが酸素マスクを使用し た形跡がなかったり、生存者が急減圧時に発生する気温低下(マイナス40度にもなる)や強風を否定しているため、急減圧はなかったのではという意見もある。

 また、日本航空も独自に事故調査を行い、報告書を2002年8月にまとめているが、なぜか非公開である。

 日航機墜落事故の陰謀説

 上記のように、事故の原因を巡って多くの議論がある状況を反映してか、日航機墜落事故には陰謀説もある。

  • 米軍機の誤射説 。自衛隊機の誤射説。核兵器運搬の証拠隠滅説。当時総理だった中曽根氏が、この事故の真相は「墓場まで持っていく」と発言をしたという説(陰謀はともかく、新聞の首相動静によると、当時の首相で、墜落現場の群馬出身なのに、墜落当時はプール・ゴルフ・人間ドッグで、10月まで現場に来なかった。さらには、このことも「自分はこの事件に全く関わっていない」ことを立証するためという説もある) 。日本初のOS「TRON」の研究者17名の暗殺説。 実は、男の子の生存者がいたのに暗殺された(これは、4人の生存者のうちショートカットの女の子がいたため、当初男の子と間違われて報道されたことに由来するトンデモ説)。12日夜、待機命令を無視して救助に向かおうとした自衛隊員が射殺され、ニュース速報がNHKで出た(放送の事実はない)。 
(私論.私見)
 「12日夜、待機命令を無視して救助に向かおうとした自衛隊員が射殺され、ニュース速報がNHKで出た(放送の事実はない)」とはどういうことか。当時の今日的にカットされていない前のNHKニュース速報で確認すれば判明しよう。しかし、ニュート氏の「放送の事実はない」の断定の根拠が気になる。ここの下りは、「12日夜、待機命令を無視して救助に向かおうとした自衛隊員が射殺され、ニュース速報がNHKで出た報道」の真偽を明らかにする為の特別記述が必要なところだろう。

 2015.08.18日 れんだいこ拝

 まとめ

 日航機墜落事故にこれだけ陰謀説が存在するのは、多くの犠牲者を出した非常に痛ましい事故なのに、真相がはっきりしないからだと思われる。上記で簡単にまとめた中だけでも、これだけの謎がある。

  • なぜ、重要な証拠であるボイスレコーダーが、公開どころか秘密裡に廃棄されかけたのか? → 何か秘密があったのか? 。本当に、墜落した8月12日中に、墜落位置は分からなかったのか?。(米軍の救助申請が本当なら)なぜ断ったのか?。なぜ、垂直尾翼がいまだに全て回収されていないのか?。なぜ、ボーイング社は捜査に協力的ではなかったのか?(これは、今日放送のTV番組で当時の検事が言っていた)

 垂直尾翼の回収などは仕方ないことかもしれないが、それでも「何かが隠されている」感を、部外者でも感じてしまうのだ。

 墜落から30年、この事故を知らない人も増えている。だが、2014年3月のマレーシア航空370便墜落事故を皮切りに、再び飛行機事故が増えてきている中、これほど犠牲者を多く出した事故を真相不明のまま風化させてよいのだろうか。せめて、真相に近づく新事実が発見されないかを祈りたい。まだ書きたいことがあるが、続きは「墜落遺体」の感想記事で。


 「日本航空123便墜落事故を検証する」の「事故ではなく犯罪の隠蔽である」。
 日航123便航空機事故は国際刑事裁判の案件である。日本航空123便は、墜落したのではなく、山腹への胴体着陸という不時着である。過去の航空機事故で、離陸直後や着陸時の事故では生存者がいるが、飛行中からの墜落では生存者は一人もいない。生存者がいたということは123便は不時着したのだ。日本航空123便は4名の生存者が出て、生存者の証言では事故直後には他にも多数の生存者がいたという。

 8月12日の18時56分26秒に123便は群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に不時着。救護隊が遭難現場を発見したのは翌13日の4時で救出が始ったのが8時すぎ。1995年8月、当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉は、同機が事故現場を特定していたこと、米軍座間基地から飛び立った救難ヘリが現場に到着していたこと、そして、日本政府がこの救難作業を断ったことを証言している。この元在日アメリカ軍中尉の証言は、生存者の一人の落合由美さんの手記とも符合する。日本航空123便の航空機事故は事故原因の矛盾点に目が行きがちだが、生存者がいたという事実からこの事故を分析するべきであろう。

 政府は、意図的に生存者を救護しなかった。そして、それを隠蔽するために、後部圧力隔壁の損壊を事故原因とするストーリーを考え、そのストーリーに合うように嘘や詭弁を並べ、物証を改竄するなど、犯人は権力は使って事件を隠蔽している。政府の指示で生存者を見殺しにしたという事実は、国際人道法に対する重大な違反であり国際犯罪だ。しかし、官僚国家の日本で、政府が犯した犯罪を政府が明らかにするはずがない。この事件は、国際刑事裁判所に訴追する案件である。

 被告は、遭難場所を救助隊へ連絡せずに救助を放棄した、当時の日本政府の首相である中曽根康弘。現場に入り生存者の救助放棄と殺害、そして証拠物件を持ち帰るなど組織的犯罪を自衛隊に指示をし防衛庁長官の加藤紘一。そして、米軍の救助活動を拒否し、ねつ造した事故原因を、米国側と口裏合わせとして証拠隠滅を図った外務大臣の安倍晋太郎の三人だ。

 生存者の手記、1995年の元在日アメリカ軍中尉の証言、2000年に漏洩のかたちで公開された123便のボイスレコーダー。そして、ボイスレコーダーの改竄の事実と、ノイズ除去で明らかになった改竄した会話内容。そして、亡くなられた乗客が映した機内から見えた飛行体の写真。これら公開された物証だけで事故原因を特定し、123便が不時着するまでの経緯を明らかにするこてとは可能だ。公開された物証を一本の糸で結ぶときに、この事件の真相が見える。いや、結ぶことができたときに、この事件は、国際人道法上、重大違反を犯している政治犯罪であることがわかるであろう。

 日本政府は、2015年、この事件に関する外交文書が一般公開されるのに合わせて、この事故の真相が明らかにならないように、被告本人や遺族ら関係者(田布施村閨閥)は秘密特定保護法を制定した。この法案の施行前に、事件の解明と国際刑事裁判の訴追手続きをしなければならない。

 「(新) 日本の黒い霧」の「■日航機撃墜計画はあったのか?」を転載しておく。
 現地調査の結果、墜落原因が事故などではなく撃墜によるものである可能性が高まれば、次に気になるのは撃墜の理由、そしてその計画の当事者が誰であるかとういう疑問です。当時の社会事情から照らし合わせれば、

・プラザ合意に向けた米国政府・米国企業の犯罪
・グリコ森永事件隠蔽を画策した、ヤクザ・同和団体など裏社会の犯罪
・トロンOSなど、日本製最先端技術を敵視した外国企業の犯罪

 等々、もっともらしい理由はいくつも挙げられます。これについても以前の記事でお伝えしましたが、上記の全てが理由として成立すると見るのが妥当だと私は考えます。どういうことか?つまり、日航機撃墜計画が先にあり、その情報を入手できる特殊な団体・機関だけが、それぞれが抱える問題の処理にこの計画を利用したというものです。また、裏を返せば、撃墜計画自体もこれら諸団体の事情に対処するため、一発で大きな成果を得られる手法として考え出されたというものです。

 この推論が成立するためには、これら裏社会を統括し、企業・政府に影響力のある組織の存在が必須となります。これまでの調査から、どうやらそのような組織体のあることがわかってきました。永年の読者ならもうお分かりのように、私はその組織をコードネーム「クロカモ」と呼んでいます。

 この説を裏付けるかのように、日航機撃墜計画を事前に察知し、その阻止に動かれていた方の存在を最近になって知りました。残念なことに、その方は既に鬼籍に入られています。それも、123便事件が起こる直前、停電の夜に割腹自殺するという不可解な去られ方で。もちろん、私がその方のことを聞いたのは、そのお子様からなのですが、私が123便の調査をしているということで、次のような証言を頂きました。

(1)「そういえば、父はあの頃『日航はとんでもない』と繰り返し言ってました。日航本社での会議にも度々出席していたようです」
(2)「父は、死の際に血文字で『NE128』と書き残していました」
(3)「父の事があったので、123便墜落が起きた日時や、当時のことは忘れられません」

 「日航はとんでもない」、もちろんこれだけでは日航機撃墜計画が存在した証明にはなりません。ここで、この方が123便事件発生の直前に自死されたこと、そして、血文字を書き残されたことに大きな意味が読み取れます。自死される方が果たして血文字などを残すでしょうか? 停電というのも都合が良すぎます。常識で推し量ればそこで何が起きたか想像がつくかと思います。そして決定的だったのが「NE128」という記号の示す意味です。

 この記号の解析には数日を要しましたが、何を意味しているかが判明した時、この方が日航機撃墜計画の阻止に動かれていたことが深く理解できました。嘘と暴力に満ちた123便事件の背景の中で、このように不正を許さず、命を懸けて正義を貫いた先人の存在を知ったことは、私にとっては大きな喜びであり、希望です。

 さて、「NE128」をどう解釈したかについては、まだそれを理解するための情報を本ブログで提示できていないため、ここでは割愛いたします。しかし、情報が出揃った時には必ずその意味をお伝えすると読者の皆様にはお約束いたします。

 最後に結論を、日航機撃墜計画は予め存在していたのです。それが計画者の思惑通りに行ったか行かなかったかは別にして。

 ■自衛隊と123便事件

 123便事件について調査をしていると、事実の正誤に関わらず、自衛隊の関与を示唆する言説に数多く出くわします。本ブログでも、海上自衛隊発射の標的機が衝突した説を否定し、また、M氏が早朝に墜落現場で遭遇したアーミーナイフを手にした集団は正規の自衛隊員でないとしてきました。

 しかし、自衛隊は全く責を負わなくてよいと認めた訳でもありません。私は、この数年間、自衛隊という組織が自ら真実を語ることを待っていたつもりですが、事件後30年を迎えるこの年になっても、目立った動きはなさそうです。やりたくはなかったですが、彼らを断罪する立場を取らざるを得ません。私には、現役、退役双方の自衛隊員の知り合いがおり、彼らの個人的人格を責めるつもりは毛頭ないことは、先にお伝えしておきますが、自衛隊という非常に問題のある組織に所属している、あるいは所属していたという事実については深く考えて頂きたいと願っています。

 問題の写真を下記に掲載します。この写真は調査仲間のS氏を経由して、当時の週刊誌カメラマンから提供されたものです。写真を受け取った時、このカメラマンは肺がんを患っていると聞きましたが、その後お元気にされているでしょうか? 生存者の現場目撃者であるM氏も10年後に肺がんを患っているので、その関連が気になります。もっと有体に言えば、墜落当時の現場は、ひどく放射能汚染されていたと考えられるからです。

 本日は事件から30年の記念の日ということもあり、この写真は追及ではく問題提起という形で掲載するに留めたいと思います。当時現場に向かった陸上自衛隊の皆さん、あなた方が現場でいったい何をしていたのか、この写真を見て自分のした事をよく思い出してください。もう逃げられませんよ。


 写真2:1985年8月13日、墜落現場でのあなた方 Bacillus Anthracis
    コウイチオカエリナサイ マッテイル トモダチダカラ

 「日航機墜落事故の真相!『幻のトロンOS』に対する陰謀とは?」。
 実は、今回の犠牲者の中には地球の未来を大きく変えかねないほどの“あるもの”を開発している人たちが乗っていたんだよ。その“あるもの”とは・・・TRON(トロン)という日本製のOS(オペレーティングシステム)この画期的なTRONプロジェクトに関わっていた天才エンジニアたち総勢17名がこの墜落事故で全員亡くなっている。主要メンバーが一気に消えてしまったのはTRONプロジェクトにとって大打撃だったのは言うまでもないよね・・・。 

 Windows、Macをも凌ぐ幻の日本製OS!TRONの実力

 現在、よく知られているパソコンOSといえば、・Windows(Microsoft)・Mac OS(Apple)の2つだよね。この事件があった1980年代当時実は、上記の2大巨頭よりも、『動作安定性』『セキュリティ面』で圧倒的な優秀さを誇っていたのが日本独自の技術『TRON-OS』だったんだ。今現在でも、TRONの安定性、セキュリティ面から現在の家電製品などにもTRONのシステムを応用したものが使われているほどなんだ。1980年~1990年代・・・これからパソコンや、インターネットが世間に普及していくであろうという時代、世界中の優秀なエンジニアたちが凌ぎを削っている中で頭ひとつ飛び抜けていたTRONシステムは、目の敵にされてしまったのかもしれない。

 情報を制する者は、世界を制す。 

 アメリカからロシアに亡命したあのエドワード・スノーデンがポロっと発言した内容

 「Windowsを提供しているMicrosoftはアメリカ政府に個人情報を提供している!」 。

 そう、Windowsを普及することによって、アメリカは世界中の情報を入手可能になる。そのためには、TRON-OSが世界水準になられてはとっても困る。・・・こんな一部の利権者たちの事情のために520人もの尊い命を犠牲にしてしまう大きな事件が起こってしまったんだとしたら、悲しすぎるよね。

 1989年アメリカから決め手となる制裁がッ!

 けっきょく、アメリカ合衆国通商代表部から不当な貿易への対処、報復を目的としたスーパー301条によって、TRONは制裁を受けることになりました。通常なら「半導体」、「自動車部品」とザックリな「カテゴリ」が対象となるものなんだけど、名前をご指名しての制裁は、異例中の異例。よって、TRONはパソコンのOSとして、世界進出を断念せざるを得なくなりましたとさ。 

 この日本航空123便墜落事件だけではなく、過去には『事故に見せかけた事件』はたくさんあるよ。それらはすごーく上手に隠蔽されているけどね。たとえば、マレーシア航空機墜落事故、9.11自爆テロ事件も報道されている事実の裏には、隠された真実がある。最近の旬なネタでいえば、熊本地震も人工地震陰謀説が囁かれてるよね。ただ、何でもかんでも陰謀だーーって騒ぐのもナンセンスだと思うんだけど。





(私論.私見)