生存者の証言 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).8.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
奇跡的に生還したのは落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子の4名。どういう理由でか事件の事を語りたがらない。その中で遺されている証言は以下の通りである。共通しているのは、事故直後には生存者がかなり居たとしていることである。但し、その後の救出されるまでの「かなりの空白時間」の証言がないことである。川上証言では「その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした」、落合証言では「たぶん、それから私は眠ったのだと思います」としている。これが真相かも知れないし、何らかの事情で証言拒否しているのかも知れない。 「川上慶子さん証言 (1)」、「落合由美さん証言 (1)」、「吉崎博子さん証言 (1)」、「アントヌッチ元米軍大尉の証言 (1)」、「管制官の証言 (1) 」その他を参照する。 2010.08.16日 れんだいこ拝 |
【川上慶子証言】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
奇跡の生還を遂げた4名の一人の川上慶子さんが次のように証言している。川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に寄るため羽田に戻り、キャンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳。
事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配り始めたころ。機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が 開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。母和子さん(39)は即死状態だった。
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同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。祖母が、慶子から聞いた話として近所の人に伝えている。「慶子は夢でも見たんじやろう」で終わってしまった云々。
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「生存者の証言 -川上慶子さんの証言-(-高崎国立病院での証言-)」より。
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最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いたと証言した。この証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「ば○こう○ちの納得いかないコーナー」の「幸せを掴んだ川上慶子さん」参照。
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川上慶子さんは家族4人での北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に寄るため羽田に戻り、キャ ンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳だった。564はこちら。とりわけ需要の高い18時台の便で4人もキャンセル待ちでチケットが取れるってなかなかあり得ない話である。それがあり得たのは、123便のチケットを事前に購入しながら、日航機撃墜計画を知ってキャンセルをした人々がいたからである。2015年に放送されたTBS系の番組の中で、川上慶子さんのお兄さんの千春さんが、自分が北海道ツアーに参加していれば、5人となり、キャンセル待ちをしてもチケットが取れないからこのような事にならずに済んだのにと後悔していると言う話が出てきた。需要が高い日であり更に需要が高い時間帯なのに、123便はとてもキャンセルが多かった。特に政治家のキャンセルが多かった。実にひどい話である。明石家さんまはおそらくあるルートから123便に乗ってはいけないと言う情報が入り、ドタキャンしたと推測される。川上慶子さんはいろいろな意味でこの事故のキーパーソンである。川上慶子さんの並外れた強い精神力は、事故後の彼女の人生に見事に反映されている。アメリカ人男性と出会い結婚しアメリカで力強く生きている。 464.川上慶子さんがアメリカ人と結婚したのはなぜか? http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-666.html 2015年8月12日、TBS系で「8.12日航ジャンボ機 墜落事故30年の真相~生存者 川上慶子さんの兄が語る“妹と事故”~」と言う番組が放送されました。 8.12日航ジャンボ機 墜落事故30年の真相~生存者 川上慶子さんの兄が語る“妹と事故”~8月12日水曜よる7時放送 番組ホームページ http://www.tbs.co.jp/osutaka30/ TBSの番組<(1)の動画>にも紹介された通り、川上慶子さんの父親は町議会議員だった。番組では、「町議会議員」と紹介されただけだったが、当時の島根県簸川郡大社町の日本共産党の町議会議員だった。大社町はその名の通り、出雲大社の門前町である。川上慶子さんの父親である英治さんがJAL123便墜落事故<御巣鷹山事変>で逝去された後、赤旗日曜版では当時の島根県簸川郡大社町の日本共産党の町議会議員としての立場で紙面に登場した。なお、簸川郡大社町は、2005年3月22日の市町村合併により出雲市の一部となった。 (3)川上慶子さんの証言 http://hp35.0zero.jp/gamen/s_scr.php?num=8&uid=JAL123&dir=707
★JAL123便日航機墜落事故関連資料集-川上慶子さんの証言 http://mania.daa.jp/blog/123/keko.html 事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(中学生の)兄の3人で生活し、親戚の小田さんも大阪から足繁く通って、彼女等の面倒をみた。慶子さんは美少女だったから励ましの声と同時に好奇の目も集中し、ストーカーまがいの行為に長く悩まされた。自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いた。その後、川上慶子さんは保健師だった母親の遺志を継いで看護師となって兵庫県の病院で働き始めた。1995年の阪神淡路大震災の際には兵庫県尼崎市で怪我人の手当に奔走した。その後、川上慶子さんは趣味であるスキューバダイビングをするためにアメリカを訪れた際に知り合ったアメリカ人と2002年に結婚した。その後、看護師の仕事を辞め、現在は息子二人と幼い娘の子育てに奮闘している。 |
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2020/8/8 、毎日新聞「御巣鷹墜落事故で救出、今は3児の母に 川上慶子さんの伯父が振り返る35年」。 宇都(うと)政幸さん(鹿児島県姶良(あいら)市)の妹が事故で犠牲になった。そのめいとおいが事故の生存者4人の一人、川上慶子さんと兄の千春さん。二人はともに結婚し親になった。北海道旅行を楽しむ妹一家4人。妹の和子さん(当時39歳)、夫の英治さん(同41歳)、長女慶子さん(同12歳)、次女咲子さん(同7歳)。旅行の帰りに事故機に乗り合わせ、慶子さんだけが奇跡的に助かった。あの日、自宅で晩酌をしている時だった。テレビから日航機墜落のニュースが流れてきた。和子さん一家が搭乗していたことを知るのはその日の深夜。もう1人の妹から連絡があり、電話の前でぼうぜんとした。翌朝、義弟2人と鹿児島。 |
【落合由美証言】 | |
520名(厳密には、赤ちゃんを含めた521名)が死者となった。乗客のうち重傷4名は8月13日に救出された。このうち、日本航空のアシスタント・パーサー(パーサーを補佐するスチュワーデスの地位)の落合さんが当日は非番で乗客として乗っていて、事故当時の機内の様子を証言している。貴重な証言となっている。「生存者の一人・落合由美さんの証言」を転載する。
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【吉崎博子証言】 | |
「生存者の証言 -吉崎博子さんの証言-」。吉崎博子さんは家族4人で123便に搭乗し事故に遭った。長女の美紀子さんとともに生還。博子さんは事故当時35歳。美紀子さんは8歳。
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フライデー2012.12.3「創刊28周年企画 重大事件、事故、天災「九死に一生」生存者たちの秘話15 part1」。
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【証言】 | |
2019.6.13「日航機墜落事故、30年目の初証言」。
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(私論.私見)