目撃者&記者証言

 更新日/2021(平成31.5.1栄和元/栄和3).8.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「目撃者&記者証言」を確認しておく。  

 2010.08.16日 れんだいこ拝


 2016.8.14、週刊現代2016年8月20日・27日合併号「1985年夏「日航機墜落事故」、発生直後に駆けつけた3人が目撃したもの」。
  お盆入り前日、観光客、帰省客で満席だったジャンボ機は、離陸から44分後に墜落する。乗員乗客524名のうち生存者は4人。この悲劇を風化させてはならない。事故直後に現場に駆けつけた3人の証言。

米田憲司  よねだ・けんじ/1944年生まれ。フリージャーナリスト。航空、鉄道、軍事、環境問題等の分野を取材。著書に『御巣鷹の謎を追う 日航123便墜落事故』など
松本逸也  まつもと・いつや/1946年生まれ。'69年朝日新聞入社。カメラマンとして墜落現場を取材。東京写真部編集委員、名古屋写真部長を経て、目白大学社会学部教授
藤原洋  ふじわら・ひろし/1928年生まれ。元運輸省航空事故調査委員会首席調査官。日航機事故では現場調査の責任者を務める。NPO法人航空・鉄道安全推進機構顧問
 現場はどこだ!?
米田憲司  昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日航123便が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落。乗客、乗員併せて520名もの犠牲者を出し、4名が重傷を負いました。犠牲者には歌手の坂本九さんもいました。単独機の航空機事故としては史上最悪で、早いものであれから32年目の夏を迎えます。
松本逸也  私はアラブなどで戦場も取材しましたが、あれほど凄惨な現場はほかにはありませんでした。
藤原洋  私も大型機の事故調査は何度か経験していますが、キャリアの中で一番悲惨な事故です。
松本  第一報は19時10分頃、時事通信の緊急ファックスでした。「東京発大阪行の日航123便がレーダーから消えた」と。私は車にカメラ機材などを積み込み、とりあえず朝日新聞本社から西に向かって車を走らせました。
藤原  私に連絡があったのはNHKの19時のニュースが始まったとき。自宅でこれから夕食をとろうかというときに勤務先の運輸省から電話があり、霞が関に向かいました。
松本  夜間の山奥ということで、なかなか墜落現場がわからなかった。しばらくして本社から連絡があり、「横田基地から半径70~80km内」と、謎解きみたいなことを言うんです。いったん本社に戻り、それから現場探しの大迷走が始まりました。
藤原  自衛隊は、墜落当日の夜に現場を確認しています。ところが、自衛隊から上がってきた墜落現場の情報は3地点、しかも位置にかなりばらつきがありました。
米田  防衛庁(当時)の公式発表は御座山北斜面、御座山南斜面、扇平山の北側、御座山の東5kmと、次々に変わりました。
松本  現場周辺の山は大混乱でした。報道陣の車が殺到し、山の上の一本道で鉢合わせすると、お互いに「どこに行くつもりだ!」、「現場だ!」と怒鳴り合っている。結局、そこが現場ではないことがわかると、みんなで山を下りました。
藤原  翌日朝、自衛隊によって現場が確定されると、私は埼玉県の入間基地からヘリコプターに乗り、現場に直行しました。空から墜落現場を見てまず驚いたのは、あの大きな飛行機がまったく原形をとどめていなかったことです。翼が一枚だけ見えましたが、あとはただ残骸の山。「本当にここにジャンボ機が落ちたのか」と思いましたね。
米田  まるで東京湾の「夢の島」のようでした。
 泣きながら写真を撮った
松本  私はふもとから6時間ほどかけて登っていったのですが、道なき道を登りきったところに紙くずや衣類、ぬいぐるみなどが所狭しと散らばっていました。まさかそこが墜落現場とは思わずに、一瞬、「なんて汚い山なんだ」と勘違いしたほどです。でも、上を見ると、いきなり視界が開けた。
藤原  ジャンボ機が滑り落ちたところですね。御巣鷹の尾根に衝突したジャンボ機は斜面を滑り落ちて行き、そこにあった樹木すべてをなぎ倒しましたから。
松本  ええ。そこだけぽっかりと空間が広がり、きれいな空が見えました。
藤原  機体は壊れながら谷底まで落ちて止まりました。そこがゴミの山のようになっていたのです。
松本   現場ではどこにカメラを向けても遺体が写ってしまうような状況だったので、最初は生存者がいるなんて思いませんでした。ところが、担架にのせられた比較的きれいな状態の女性に望遠レンズで照準を合わせると、指がピクリと動いたのです。驚いて消防団の団員に伝えると、「生きています」と。4人の生存者の一人、吉崎博子さんでした。ファインダー越しに動いた指は今もこの目に焼き付いています。
藤原  上空から見たときも、直感的に生存者がいるとは思えませんでした。生存者は機体の一番後ろのほうの座席に乗っていたのが幸いしたんです。樹木がクッションのような役割を果たしてショックを吸収しながら機体は頭から落ちていったので、一番後ろが最も衝撃が少なかったわけです。
米田  ボイスレコーダーはどこで見つかったのですか?
藤原  ボイスレコーダーも生存者が発見された付近で、遺体を収容した後に見つかりました。ボイスレコーダーは最後部のトイレの天井裏にあるんです。実は生存者がいないことを確認したら、国際機関の事故調査マニュアルでは現場を保存するために遺体を動かしてはいけないんです。後日、米国の調査団から文句を言われましたが、私どもは「日本はブッダの国だ。遺体を放り出したまま仕事をするなんてことはできない」と反論しました。
松本  私は現場に辿り着いた当初は後頭部を殴られたような思いで頭が真っ白になってしまいましたが、すぐに夢中になってシャッターを切りました。吉崎さんは痛さに呻き声をあげ、落合由美さんは血だらけで声も出せない様子で目の前を通りすぎて行きました。カメラマンは興奮して、みんな泣きながら写真を撮っている。私も知らぬ間にボロボロと涙を流していました。ああいう感情になったのは初めてです。
米田   松本さんが登った翌日14日に、御巣鷹の尾根に登りましたが、現場は足の踏み場がなかった。
松本  そうですね、どうしても残骸の上から足元の遺体を踏んでしまう。まるで布団の上を歩いているような、ふわふわとした感じでしたが、あの靴底の不気味な感触は絶対に忘れられません。
米田  上を見ると、内臓や皮膚が木の枝にまとわりついてひらひらとぶら下がっている。周囲の樹木全体がそうなんです。炭化した遺体の足や手も地面のあちこちから出ていて、私は遺体に目の焦点を合わせないように歩いていました。
松本  まさに地獄絵です。
米田  救出された川上慶子さんは短パンをはいていたので、最初は男の子に間違われたそうですね。
松本  ええ。川上さんは比較的意識がはっきりしていて、担架にのせられて運ばれていくときに、シャッターを切るのも忘れて「がんばれ、がんばれ」と声をかけると、「うん」と答えてくれました。
米田  救助された4人はヘリコプターで上野村にあった対策本部に運ばれてきました。当初「生存者は8人」という情報が流れましたが、実際に運ばれてきたのは4人。水玉のブラウスを着ていた落合さんは青い顔に血痕が付着し、痛々しかった。
松本  私が現場にいたのは、1~2時間程度だったと思います。現場上空を飛んでいた朝日新聞のヘリコプターに無線で連絡。ロープで降りてきてもらって撮影したフィルムを手渡しました。
米田  ヘリでの救出シーンはフジテレビが生中継しましたが、新聞で夕刊に間に合ったのは朝日新聞だけでしたね。
松本  私はたまたま運が良かった。その後、別のヘリコプターに乗り、朝日新聞本社の屋上に降りたんです。すぐに局長室に連れていかれ、「見たこと、感じたことを全部しゃべれ」と。社会部の記者が、私の話をまとめて記事にしました。
 219字の遺書
米田  あれだけの報道陣が集まりながら、現場までたどり着けたのはほんの一握りでした。
藤原  山で迷子になった人は無数にいました。私たちも13日に現場に入る予定でしたが、視察に訪れた運輸大臣の対応に時間をとられ、翌14日の朝一番で現場に向かいました。消防団に案内を頼んだのですが、調査団10数名に加え、日航関係者が40~50人連なって登っていくと、「これに付いていけば大丈夫だろう」と報道陣が集まってきたのです。事故現場に着いたときの人数は出発した際の倍以上になっていました。
米田  現場に近づくと、機械油の臭いや焦げくさい臭いがしてくるんです。
藤原  現場に着くと遺体の臭いが酷かったですね。
米田  事故から2~3日後、山を降りたところにある取材拠点でハエや蚊を見なくなったんです。地元の人に聞くと、「臭いを求めて山に上がった」と。私は東京に戻っても、腐臭を感じました。実際はそんな臭いはしないのですが、鼻孔にこびりついていたのかもしれません。気にならなくなるまで1ヵ月かかりました。
松本  遺体は藤岡市の市民体育館に収容されました。棺に納められた遺体をご家族が確認し、静かに戻ってくる。毎日、その繰り返しでしたね。
米田  体育館の中は線香の匂いで充満していました。最初は完全遺体の方が多かったのですが、だんだん部分遺体が増えていきました。部分遺体は山の上で何日も経っているので、虫がたくさん湧いている。見たこともない大きなウジ虫です。関係者の方が体育館の裏で洗い流していました。
藤原  私は2ヵ月間現地にいて、雨の日以外はほぼ毎日現場に通いました。事故の原因を調査するためです。感傷に浸っていては仕事にならないので、あえて感情を押し殺して山に登り続けました。
米田  事故報告書では、後部圧力隔壁の修理部分に亀裂が生じ、それが引き金になって隔壁に穴が開き、機内の与圧された空気が一気に流れる「急減圧」が発生。それにより垂直尾翼が破壊されて操縦不能となり、墜落したとされました。
藤原  調査初日に胴体の中にしかない断熱材が尾翼の中にたくさん入っているのを見つけました。圧力隔壁が破れないと、断熱材は尾翼には入りません。隔壁が破れたことが事故の引き金になったということを、その時点で確信しました。
米田  いろいろな説が出ました。なかにはミサイル撃墜説なんてトンデモないものもありましたね。
藤原  海上自衛隊が新しいミサイルを試射したところ、それが123便に命中してしまったため、証拠隠滅のために撃墜を命じたが、2発目は外れてしまったという説です。デタラメもいいところですが、これを一笑に付すわけにもいきません。当時出たさまざまな説に対しての反証を報告書に盛り込んだつもりです。
松本  残骸から会社員の方が機内で家族へ書いた遺書も見つかりました。「マリコ、津慶、知代子」と始まり、「どうか仲良くがんばってママをたすけて下さい」、「本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」と結ぶ、219字の遺書は予期せぬ死を前に家族への深い愛情に満ち溢れています。
米田  いまはJALの安全啓発センターで保管されていますね。事故に関係するものは、可能なかぎり置いてあります。
松本  私はこの遺書を読んだとき、現場の凄絶さを目の当たりにしたときと同じように、ショックを受けました。事故の存在すら知らない若者たちにも伝えたいと思って、いまも大学のゼミで毎年、取り上げています。
米田  事故から30年の昨年、私は現地を訪れました。当時、取材に協力していただいた方が別れ際に言った、「御巣鷹を520人の命を奪った『恨みの山』だというが、わしら村の人間にとっては4人も助かった『奇跡の山』だと思っている」という言葉が忘れられません。
藤原  私も去年、御巣鷹に登りました。いまは登山道が整備され、かつて3時間ほどかかった墜落現場まで1時間かからずに行けます。何度登っても厳粛な気持ちになりますね。事故で削られた山肌に植えられたカラマツの苗木がいまは樹齢30年を超えて、うっそうと茂っています。'85年以降、日本のエアラインは職員も含めて一人も犠牲者を出していません。ゼロというのは奇跡的です。この事故の教訓が生かされていると私は信じています。

 「★阿修羅♪ > 戦争94 」の救国の草莽の志士 氏の2007 年 7 月 17日付投稿「123便が低空で機体が水平な状態のとき、,中性子爆弾を被弾した閃光の瞬間乗客の姿が地面に放射され放射化された」。投稿者: 123ja8119
 123便が中性子爆弾を被弾した閃光の瞬間の乗客の姿が地面に放射され放射化された大地から地獄絵が発し続けられています。これは墜落時ではなく低空で機体が水平な状態のときです。こうなって落下したわけです。私たちは家族で123便を墜落数分前に目撃したものです。ただし墜落当時はその目撃した機体が123便だと思っていませんでした。理由はその当時マスコミでいわれていた状況と目撃した状況が違いすぎたからです。正常な機体と垂直尾翼が綺麗な二等辺三角形で小さい以外は何の異常も見えなかったのです。圧力隔壁が破裂したという事故報告ですがその後ろのテールコーンも正常で壊れておらず飛行姿勢もひどいダッチロールはなく正常に飛行しているようにしか見えない状況だったのです。速度はまるで着陸しようとしているような比較的低速で、着陸ギヤを出し、フラップを下げているのを見ています。高度も低く窓がはっきり確認でき、大部分の窓に日よけのブラインドのようなものがおろされていて開いている窓から女性が一人両手を頭の上で交差させて振る仕草が見えるほどだったと記憶しています。

 この事を覚えていた最大の理由が異常なエンジンコントロールの音だったのです。頻繁にエンジンの回転速度を変化させるジェットエンジンの使い方においてタブーとされる使い方をしていたことでした。壊れた垂直尾翼もあまりにも綺麗にナイフで切ったような真っ直ぐな切れ口で元々そう言う形をしていたかのように思ったのです。その123便が尾根の向こうに姿を消し音もほとんど聞こえなくなった数分後、最初の直近に落ちた落雷のような鋭い音があり、その時閃光が下から上に向かっておおぎを広げたように空にまるく広がるのを見たという話なんです。その3秒ほど後に今度は閃光はなく雷鳴が遠くで響き渡るような、厚木で輸送機が墜落したときに似たような音が響き渡ったのを家族で聞いたのです。今考えればジェット音が聞こえなくなるほど離れたのに直近の落雷の音のようなバシッという鋭い音がしたのはおかしいのですが、閃光もあり落雷に似た音だったので20年もその音があの123便の墜落音だと気が付かないまま来てしまったのです。そのことを書いたわけです。私が気が付いた理由は最近出版されたDVD付きの123便墜落事故に関する詳細な記録本を本屋で立ち読みしたことがきっかけでした。そこには事故当時のTV報道とは全く違う事実がいくつも書いてあったのです。その事実が私の記憶を呼び覚ましたのです。あの当時の報道がいかに事実と異なっていたかの証明のようなものでした。

 「★阿修羅♪ > 戦争94 」の真相ハンター氏の2007 年 7 月 17 日付投稿「事故現場に派遣されて捜索に加わったJALの整備士と自衛隊の同窓生墜落機の尾翼部分に周辺に『米軍の模擬弾』が発見された」。投稿者: ja8119
 奇跡的に生還した川上慶子さん(当時12歳?)の証言。 同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。 「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみん な死んでいた」 。慶子さんから上記の話を聞いた祖母はご近所のひとに伝えたらしい。しかし「慶子は夢でも見たんじやろう」で終わってしまった。

・無人標的機の塗装であるオレンジ色の金属片が墜落現場で見つかっていること。(墜落現場に入った直後のビデオテープの映像に、ジャンボジェット機には使われていないはずのオレンジ色の金属片が映っている)

・この金属片を機動隊員が運び出す作業も映っていたが、墜落現場から運び出された機体の破片の搬出先の倉庫にも、この破片は見つからなかった。

・32分間の迷走のうち14分間の管制官との無交信部分(自衛隊機に誘導されていたのではないか・・)

 エンジンがバラバラになりすぎている。乗客の遺体の損傷が激しすぎる。事故直後に日航の技術者が現地入りしている。 会社の上司の人で同窓生にJALの整備士と自衛隊の人が居て、この二人は事故現場に派遣されて捜索に加わってたそうです。最近同窓会で10年ぶりにこの2人に会って、この事故について話を触れたらしく 話の中で驚く事を言っておられました。 現場に派遣された2人の話では この墜落機の尾翼部分に『模擬弾』が当たった跡があったらしく尾翼が発見された周辺にも『米軍の模擬弾』と見られる物も一緒に見つかったそうです 。2人のうちの一人は確かに『米軍』と言ったそうです。日本政府が墜落から早急に救助活動に踏み込まなかったのも現場を真っ先に把握したのが米軍なのも『米が当事者』だったからなのかもしれないですね。

 医師の証言。事故当夜、旅行先の伊豆町稲取のホテルで「水戸黄門」を見終えたあと、窓の外を見るとおびただしい数の軍艦がライトで海上を照らしていた。怖くなり、窓を閉め部屋の電気を消した後、カーテンの隙間から様子を窺った。そのあとテレビで事故を知った。

 2、自衛隊パイロットの見たもの 元航空自衛隊パイロットの証言。
 事故当夜、基地で待機していると「相模湾で魚雷が行方不明になったので捜せ」との命令があり僚友を含む数機が飛んだ。僚友は見つけなかったが、「別の機が海上の浮遊物を発見した」と語った。自衛隊に出動の確認を取ったところ「機密である」とし回答はなかった。

 事故機の高度がフライトレコーダーの記録より大幅に低かったたと目撃証言等から推測できます。(せいぜい3000m?)

 証言
 3日ほど前に地元の静岡で釣りしてたら、おっちゃんに話しかけられて、坂本Qの話になってさ。「昔、ここで釣りしてたらジャンボジェットが低空で高草山の上を飛んでったよ、んで家帰ってテレビ見たらジャンボジェットが墜落したってニュースでやっててよ。あれがそうだったのか、って思ったよ」つー話したぞ。ちなみに場所は静岡県焼津市の小川港ってとこな。高草山は標高1000mも無い山で、その上をすれすれで飛んでったらしいけどな。静岡通って墜落したんだな。

 <証言>伊豆半島で目撃された証言に,事故機が「ふだん見ている飛行機の倍の大きさ」とあるからだという.このことから,角田氏は事故が生じた高度は15000フィート(約4600m)だったと推定している。それで,角田氏が見たのは10000フィート,3000m程度ということになる。

 <証言>角田氏は大月付近にキャンプに出かけ,そこで事故機を目撃しているという.事故機は北から南に向かって飛び,続いて南西に向かって飛んでいった。角田氏はこの飛行機について,「民間機と瞬時に思ったのは、窓が一列に沢山見えたからである

 <証言>
 M2様こんにちわです。ブッチャケ書きますが自分はこの当時富士宮市に住んでいまして墜落事故当時おかしな日航ジャンボジェット機?を見たんです。夕方、普段飛ぶ事のない高度(肉眼で航空機の垂直尾翼のマークが確認(日航ジャンボジェットクラス機普段飛ぶ事のない空路(方向)に飛んでいく日航機を見たのを憶えています。123便が高度22000ftは6700mで飛んでいたなら別の便かもしれませんね。あれは待機だったのかな?航空機の垂直尾翼のマークが確認(日航ジャンボジェットクラス機でも6700mで飛んでいたなら見れませんよね。あの当時、もしかしたら、って言うのがあったのですが別の便だったのかも知れません。

 6:30に急降下後低空飛行

 <遺書>
 18:30 2回目の爆発 投稿者:F19 投稿日: 8月17日(木)17時52分35秒  v049112.ppp.asahi-net.or.jp
 今六時半だ。飛行機は まわりながら急速に降下中だ

 18・30 急に降下中

 PM6・・・30
 知子 哲也(両親を)をたのむ 圭市。突然 ドカンといってマスクがおりた。ドカンといて降下はじめる。しっかり生きろ。哲也 立派になれ 。

 場所
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35%2F0%2F54.557&lon=138%
2F53%2F30.882&layer=1&mode
=aero&size=l&pointer=on&sc=4

 写真
http://www.youtube.com/watch?v=ubegLGVhye0

 証言
 1995年の初夏か冬ごろ週刊誌記事にこんなのがありました。丁度その日その程度の時間に、沼津市上空で「ドン」と音を聞いた知人がいます。そのご日航機が事件になったので、もしかしたら、、、と思っているそうです。

  「★阿修羅♪ > 戦争94」の真相ハンター氏の 2007 年 7 月 17日付投稿「Re: 事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話」。投稿者: ja8119
 自衛隊に狙撃されたhttp://hw001.gate01.com/virtua1994/のは本当ですよ。墜落させる為の撃墜でしょ? 首都東京に墜落させない為にね。そしてその機体はF4EJだよね。尾翼を破壊したのは自衛隊じゃないよな。

 聞き込み情報の結論としては以下となります。
1)日航機123便の尾翼の損傷は米軍戦闘機の接触が原因
2)接触後の処理方法、日米政府、米軍の一部で隠蔽工作
※当時の情報の流れと隠蔽のシナリオ作成は、米軍>米政府>日本政府です。

 補足をしておきましょう。
・実態は簡単に推察できる内容ではありませんでした。
・残された資料をもとに聞き込み情報で疑問点を解析、再度、聞き込み検証を繰り返しました。
・急減圧が無かったことから圧力隔壁が一気に破壊したのではなく、また圧力隔壁の部分損壊が原因で漏れた客室余圧は尾翼を破壊できない情報も得る事ができました。
・本件についていろいろなサイトも閲覧しましたが、インターネット特有の偏った情報や個人的な意見が多く見受けられ実際の聞き込み情報と比較して参考にはなりませんでした。
・今年の御巣鷹山(御巣鷹の尾根)でも焼けた木と異臭が残っていました。現実の墜落現場を見た人の思いと、事故の実態隠蔽の思惑は、遺族の方の話からも、全く異なるものだと実感しています。
・事故調査報告書を丹念に読み、聞き込み情報との矛盾を照らし合わせました。
・その結果、隠蔽工作のために「ある前提条件」までもが、ねつ造されています。
・遺族の方との会話でも「大きな力による隠蔽工作」は容易に想像できます。(裁判、不起訴等)
・インターネットは自由言論の場ですから、批判なども結構ですが、いつか真実が明らかになったときに(そうなることを期待していますが・・・)、有力情報としての書き込みを思い出していただければ納得していただけると思います。
・この有力情報の目的は「事故再調査」を啓発することより「遺族の方の思い」を代弁するものです。

1)事故の発生箇所は「伊豆大島の北東、約20km」の地点。
※事故調査報告書の付図-20と海底調査の報告書を参照。
2)事故地点を改竄するために公式飛行経路も改竄。
※公式事故地点から時間と距離を稼ぐために経路を実際よりも東に飛んだようにしている。
※目撃情報など、一般情報を参照。
3)事故現場の直下から既にAPU、その他の損傷機体は引き上げられている。
4)CVRで、「(英語で)木更津へレーダー誘導を依頼した箇所」の時刻は、16:47:07とされているが、実際は事故直後。

 F-117について補足しておきます。事故を起こしたのは、機体はF-117ですが中身は開発中のラプターの技術を取り入れています。厳密に言えば、開発実験機体で名称はありません。ラプターは空戦可能な戦闘機でナイトホークとはコンセプトが違うのは重々承知です。ラプターの公式の初飛行の前に日本で飛行実験をしていました。このことは極秘扱いで行われており、公式発表はありません。

1) 日航機123便に接触した米軍機の機体はステルス戦闘機F-117(通称:ナイトホーク)。
2) F-117は、a) エンジンに整流板が付き飛行音は静か、b) レーダーに映りにくい、等の特徴を持つ。
3) F-117は、音速飛行は不可。
4) 接触した機体は、1981年に初飛行に成功したF-117の機体に、開発中のラプター戦闘機(ステルス型)のエンジンが組み込まれた開発テスト飛行のための実験機。
5) ステルス戦闘機のF-117(ナイトホーク)の機体は意外に頑強では無く日航機123便との接触で、ほぼ全壊。
6) 接触後に、米軍>米政府>日本政府へ連絡があり、19:47に中曽根首相は軽井沢の静養地から首相官邸へ戻る。
7) 米軍の日本での事故の後処理は自衛隊が行うのは、従来からのルールで、以後、米軍に対しては、事故調も関わりを持っていない。
8) 尚、ステルス戦闘機の開発については極秘事項。
9) この事実は、米軍の一部、日米政府の一部、自衛隊の一部、が知るのみで日航関係者すら推測はしていても事実として認識しているかは不明。

補足:
a) ナイトホーク、ラプター等のステルス戦闘機の機体の特徴は簡単に検察できます。
b) 当時の中曽根首相の行動時間は公表されています。
c) 事故当日の日航機123便の乗客が機内から撮影した写真を解析、日航機123便に近づくナイトホークの機影が確認できます。
d) ナイトホーク(NATO軍)が、撃墜された写真から機体の脆さが確認できます。
ナイトホーク撃墜写真
http://www.linearossage.it/aereinat.htm

1)垂直尾翼の破損は内圧ではなく、外部からの衝撃によるもの。
2)APUは、衝撃による部分的破損が確認されている。(この破損は圧力隔壁破壊に起因する内圧では発生しない)
3)救出が遅れた原因は二つ。
・外部から衝撃を受けた部分の確認。(現実には確認不可とのことで、証拠は残らないと判断された)
・搭載していたアイソトープの影響。

 入手情報パート2/7:(聞き込み情報)
 ボイスレコーダーは、当時の高浜機長や日航関係者に対する様々な意見に対して、機内の様子を伝えようとした関係者がリークしたもの。但し、一部の会話や様子は削除されながらも、ヒントを残している。

 思考のための史実:

 横田、厚木、嘉手納各米軍基地の爆音被害にたいして裁判所は、総額二十七億六千六百万円の賠償命令を下していますが、アメリカ政府は支払いをいっさい拒否。賠償は日本政府が立て替え。2006年6月

 東京・八王子市で昨年末、米海軍厚木基地(神奈川県)の女性水兵が、ワゴン車を運転、交差点を渡っていた小学3年生をはね、そのまま逃走。防衛施設庁が医療費や補償を負担。2006年1月

 日航機、米軍機のF15戦闘機とニアミス報告。那覇空港付近-衝突防止装置が作動。2003年11月
※日航はこのニアミス時のフライトレコーダーやボイスレコーダーなどの記録を廃棄。

 日航機に米軍機が異常接近:【神奈川県相模原市上空5,800m】を羽田から名古屋に向かっていた日本航空のDC10型機の空中衝突防止装置(TCAS)が作動し、【右手後方160m】から戦闘機が異常接近。日航機が緊急退避操作をしようとしたところ、接近機は下を通過。機長によると、接近した航空機は米軍のFA18型機。乗員・乗客157人は無事。1998年8月

 F14戦闘機、富士山で記念撮影:駐日米大使の乗ったF14戦闘機は、8月10日に厚木基地を飛び立ち、横須賀基地に向かって太平洋を航行中の米空母キティホークに着艦後、午後3時ごろ帰路についたが、厚木基地到着は午後5時過ぎ。関係者によると、途中富士山上空でコンバット・マニューバーと呼ばれる戦闘機4機で富士山をバックに記念撮影、厚木基地におり立った大使は、エキサイティングと大興奮。1998年8月

 18時24分19秒~34秒までのボイスレコーダーが削除されている。陰謀ではなく、米軍演習に絡んだ事故との情報を得ました。一部の「事実を知っている関係者の方」の話し声が時間の経過とともに漏れ聞こえてきます。だとすれば、状況的にはつじつまが合うので妙に納得してしまいます。また、意外な場所にAPUがあるようにも聞きました。  

  「★阿修羅♪ > 戦争94」の救国の草莽の志士氏の 2007 年 7 月 17 日付投稿「事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話」。投稿者: ja8119
 私は当時某公共放送局でアルバイトをしており、事故当日も通常の4、5倍の局員でごったがえした報道の現場にいた。さまざまな情報の錯綜する中、現場の特定にあまりにも時間がかかることに疑問を感じ、その後の事故の特集番組制作にも関わったこともあり、原因究明など常に関心をもって見守ってきた。実はこの本の中に指摘してある、相模湾での自衛隊護衛艦試運転時でのミサイル誤発射等の可能性は、事故の翌日には既に軍事・航空関連に詳しい局員が指摘していた。当時は単なる憶測でしかなく調査困難ということで番組中では触れていない。相模湾で14日見つかった尾翼下にある補助動力装置の吸気口は、機体の右側にとりつけられていた部品。この部品は、胴体に内臓されているもので、よほどの力が加わらない限り抜け落ちない。この装置の本体らしいものは墜落現場で見つかっており、同省では、吸気口だけがなぜ、本体から離れて海上に落下したにかに注目。圧力隔壁から流れ込んだ空気は分割された区画ごとに拡散され、事故調が最初に垂直尾翼が破壊したとする最上部付近 FS 520~570(鶴のマーク辺り) 迄、一気に垂直尾翼内を駆け昇ることは出来ない。圧力隔壁破壊とされる報告書は垂直尾翼後部隔室を単一の隔室としている。垂直尾翼には動的圧力は入り込めない。JAL123便墜落事故当時、日航役員が「うちのジャンボは、北朝鮮のミサイルに撃ち落された……。今はそれしか分からない」と発言したという。当時事故調査委員長をしていた方の「アメリカの調査(圧力隔壁破壊説)で楽になった」というコメント。

 機内の白い霧についての経験談

 ご無沙汰しております。急減圧でおきる白い霧についてですが、私が10年ほど前に経験した、白い霧について報告します。当時、確か4月の終わりでしたが、商用で台北へ向かうため関空発のキャセイ(トライスター)に搭乗しました。沖縄上空あたりでキャプテンアナウンスがあり、低気圧の影響で台北国際空港がクローズし、オープンするまでマニラ(フィリピン)に待避するという内容の話をされました。それから約2時間ほどでしたか、4月といえどもマニラ上空にさしかかりますと、機内であっても窓側ですと、すごい暑さを感じました。ギアが降りる音が鳴り、窓から赤ちゃけたフィリピンの土を見ながら、そろそろ着陸と思った瞬間、すごいバウンドを感じ、その瞬間に機内の前から後ろへ白い霧が発生し流れて行きました。機内は多少パニック状態になっていましたが、キャプテンアナウンスで、着陸の衝撃でエアコンが故障し、白い霧が発生したと言っていました。何かドライアイスの煙のような匂いに感じました。酸素マスクは降りてきませんでしたが、霧は暫く機内に滞留していました。私は専門家でも何でもありませんが、急減圧がなくても何らかの衝撃を受けた場合、白い霧は発生するのではないでしょうか?123便の場合、自衛隊の無人爆撃用ターゲットが当たったとの話を聞いた事があります。もしこの話が有り得る事実なら、このターゲットが垂直尾翼辺りに当たった衝撃で白い霧が発生したのではないでしょうか? 不確かな話ではあるのですが、もしこのようなターゲットが今も民間航空機用のエンルート上に存在しているのでしたら、これからも起きうる事故ではないでしょうか?

 伊豆半島の伊豆急行河津駅での目撃者談「普段の二倍の大きさに見えた」*推定14200フイート{約4400m} Say altitudeの問いに対して124(12400フィート)と答えていることからも、そのことがうかがえます。

 なによりお金にかわる価値観でも見つからない限りこれからも事故は起こり続けると思います。日航も被害者でありながら保険金の関係で軍や整備の過失にならない修理ミスに便乗したという点では汚点を残しました。墜落させたほうが儲かる仕組みが是正されないと空は安全にならないと思います。

 当時、TV局や新聞社に、自衛隊員という触れ込みで、「相模湾上にいた戦艦-たかちほ-から発射された防空ミサイルが日航機に当たってしまった」という怪文書が届いたという話も根拠になっている。 そんな誤爆なんてあり得ないと信じたいが、最近、黒海で起きた民間機へのロシア軍の誤爆事件などを見ると可能性は皆無でもないかも知れない。軍の論理は、「演習中の所で入ってくる方が悪い」なのだ。 もしかしたら、ハワイの「愛媛丸」を撃沈させた米海軍の潜水艦のように、未納入自衛艦「まつゆき」の試運航中に民間人(技術者)が、誤ってミサイルを発射させたのかも知れない。左側にはありません。

 あの忌まわしい事故から、21年も経つのですね。しかし、当時から今日まで友人が語ってくれた話がどうしても私の脳裏から離れる事ができないのです。事故当時、航空○○隊に勤務していた友人が、事故から数週間後に休暇を貰って地元に帰ってきた時に聞いた、本当の話です。友人は、私(普通の一般人)に対して嘘をつかなければいけない理由なんてないだろうし、そして、まだ事故原因も分かっていない時期に、私に、いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、 「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と言っていました。 当時まだ事故から数週間しか経っていない時にそう言ったのが当時、凄く印象的でした。もちろん当時私は半信半疑でしたが、今考えても彼が私に嘘を語る理由もないし、嘘の話をしたところでなんにもないのです。ただ、彼も自分が知っている事を誰かに話したかったんだと思います。そして、一般隊員(だと思います)の彼が知っているくらいだから、当時○○隊内ではこの話を知っていた人は結構いたのではないでしょうか。

 私がこの話を投稿(このような話を真実と確認していないのにいいのかと迷いましたが、聞いた話は本当だったので)したのは、「8・12連絡会」が発行した「旅路」を目にしたからです。目次のページに書かれている、「21年の間に見えてきた真実があります。それだけの歳月を費やしても、またはその歳月の長さゆえに、依然として見えない真実もあります。闇に葬られようとしている真実もあるかも知れません」という文を読んだからです。勿論私が言っている事とはまったく違う意味での謎なのかもしれませんが、私には「8・12連絡会」の方達も私のような話を聞かれたりしているのではないかと思ったのです。ただ、証拠がない為に真実は闇に包まれているのでないでしょうか。私は遺族でもありませんし、ただ当時、事故原因もハッキリしていない時期に友人が言った言葉が忘れられなくてこちらに辿り着きました。

 今まで、「疑惑-JAL123便墜落事故」の内容は、単なる可能性程度にしか考えていなかったが、 2002年1月31日の田中真紀子元外相の更迭事件を見ると、日本の役所は外にどころか大臣にさえ報告しない秘密が多い。


 ”御巣鷹山の日航機事故はミサイルの誤射?…・事故原因がボルトの締め方ミスとはあまりにお粗末すぎる…・相模湾から回収された垂直尾翼の破片には…ペイントが付着していた…赤と黄色は米陸軍の弾頭塗装色…回収作業を放映している際には明確に映っていた…”

 直接的な原因は尾翼下にあった補助動力装置APUの爆発により圧力隔壁が破壊されたと言うのが真実だろうと思います、当時事故調査委員会はこの件で意見が分かれし何人かの方は御辞めになりました、ではなぜ爆発したのかに付いては、外部から何かかぶつかったかも知れないし内部に何らかなの爆発する物が有った可能性もあります、今で言うテロの可能性さえ否定出来ないのです、つまり乗客の誰かかあるいわ、乗る予定だった誰かををターゲットにし巧妙に事故に見せた可能性です、でももう時間が達過ぎました、もう真実は深い闇の奥です、ちなみにAPUは未だに 見つかっていないと言われています。

 この事故では分からない事が多すぎるのです、裏で正体不明の大きな組織が動いていたと言う噂もありました、当時この機の追尾する様に飛行していた機も特定出来ていません、もう分からないでしょう、この事件ではメーカーも航空会社も関係省庁も全て最終的には無罪となっていると思います、この事から、ある極めて限られた極小数の人々のみが真実を知っていたのかも知れません。米軍無人偵察機?の破片が発見されています。垂直尾翼にはオレンジ色の衝突跡も発見されています。

 今年もNHKのラジオでは、遺族の人たちの動きを報道していた。ボイスレコーダーとブラックボックスを公開してくれるように、と。航空会社に未だに請求しているようです。事故から経過しながら、なお、遺族から事故報告について、異議が出される。そんな航空機事故が他にあるでしょうか。この事故も、米軍がらみになると、真相の究明はタブーなのか、と言う失望感があります。事故調査委員会の報告書は最後まで事故機の航跡のように迷走しています。機体にあった修理歴は事実としても垂直尾翼の欠落が墜落の直接原因とは思えないのです。専門家ではありませんから、いろいろな著述からの知識でしか有りません。しかし、尾翼欠落後にクルーは操縦不能のはずの機体を30分以上も飛ばし続け帰還を目指したのです。東京へ向かっていた機首を山へ向けたのは何か。そもそも尾翼の欠落は何故か。疑問は消えていません。機内の空気が一気に抜けて尾翼内の圧力が吹き飛ばしたという論は数々の証言と証拠写真、その後の実験でも急減圧が無かったと否定されています。

 下田でアルバイトしとった頭の上通過

 御巣鷹山もそうだけど、私は愛媛○事件が悔しいです。あんな、すぐわかりそうなウソついて、バラバレで。子供が犠牲になったのが 。

 交信が途絶えたとされている「空白の時間」に地上から山へ向かうよう指示があったのでは?米軍基地に降りられては困る理由があったのでは?との疑いがあります。 その日の内に群馬県内に棺桶を調達させた中曽根元首相は、3日後に靖国神社に行っても、現地には一度も来ていません。全てを知っている中曽根さんが目の黒いうちに、御巣鷹の尾根に登って激白されることが、520人に対する最大の弔い、戦後政治の本当の大決算になるのです。

 中曽根内閣の運輸相は、JA8119号機の123便の前の便に乗っていたのです。山下運輸大臣は「この事故は不可抗力であった」と述べています。

 123便が横田基地の手前でクルッと180度引き返して逝ったのは横田基地からそういう誘導電波が出ていたため。

 酸素マスクが落下し、その後「ただちに録音してあるアナウンスでただいま緊急降下中 酸素マスクをつけてくださいと日本語と英語で流れました」。報告書は 27 点の部品についてそれらを分解し、それぞれの作動状況を確認し、報告書に載せてる。 しかし、なぜか客室与圧のを管理する上で最も重要な部品である客室与圧排出弁作動器(キャビンプレッシャ-・アウトフロ-・コントロ-ル・バルブ・アクチュエーター)についてはその存在すら触れられていない。事故調は被与圧側からの加圧を議論したくないため、キャビンプレッシャー・アウトフロー・コントロー ル・バルブ・アクチュエーターを隠匿したのである。

 事故後、垂直尾翼を目立つように赤に変更                                          http://gray.ap.teacup.com/applet/123ja8119/archive?b=30


 「くすのき日記」の2017-08-22日付ブログ 「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る/青山透子」。
 「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」青山透子 河出書房 2017年7月30日

 こちらが朝日新聞の広告欄に出ていたので、早速読んでみた。青山透子氏は元日本航空客室乗務員のかたで、事件当初は圧力隔壁の損傷が原因という公式発表に疑問を持っていなかったが、過去の記事を読み込むうちに、これは事故ではなく、事件なのではないかと思うようになった。そして新聞の過去記事や、資料を読み込むうちに湧き出てきた事故原因への疑問をまとめて、2010年に「天空の星たちへ 日航123便 あの日の記憶」(マガジンランド)を出版された。

 今回出版されてたのは、その出版以降に調べたこと、インタビュー、前の本に書ききれなかったことである。事故現場近くの小学校、中学校の文集、当時の運輸大臣との話し合い他、精力的に調査されている。驚いたのは、遺族となった吉備素子氏の体験と記憶である。血液検査を頼んでいたご主人の遺体と思われる一部を、荼毘にふすとの連絡があって、それはちょっと違うと警察ともめた。納得がいかないので、日航の高木社長のところに連れて行ってもらって話をしたが、社長は現場をみていない様子だった。そこで一緒に中曽根首相のところにいって直訴しようと言ったら、そうしたら私は殺されると震え出したと。一体どういうことなのか。このときはすでに後部圧力隔壁の修理ミスということで九月七日にボーイング社より手落ちがあったと報道されているのに。

 ほか、「山案内を依頼された猟友会が機動隊員32名を案内するが、地元に詳しい猟友会側は墜落現場をスゲノ沢と特定して機動隊へ進言するが、聞き入れず、隊を分けることになった。しかし機動隊の足が異常に遅く現地へ到着せず。空が明るくなっても機動隊は別の場所を主張。消防団、猟友会独自にスゲノ沢へ移動。夜明けになると急に機動隊はレンジャー部隊編成のためといい、本部へ引き返した。」(P.197)というのも不審な行動に思えます。

 また生存者が発見されてから、救助のヘリに乗せられるまでに時間がかかっている。落合さんは消防団員によって10時54分に発見された。日赤の医師2名と、看護婦2名がヘリコプターで12時13分位現場上空に到着し、降下したが、そのあとまったく救護のヘリが来なかった。やっと救護用ヘリが到着し、13時5分にようやく生存者のヘリへの収容が始まった。ほか、公式発表に疑問を持つ人々の声がたくさん掲載されている。

 これを読んで思うのは、点と線のこと。飛行機を見かけた時間、どちらに飛んでいったか、どこの部隊が救助に来たか、一人一人の証言をつないでいくとぼんやりと絵が見えてくる。隊員の様子をした人たちが来たら、警官の様子をした人がきたら、まるまる信用しないで、こっそりと写真の一枚でもとっておいたほうがよさそうだと思いました。

 「★阿修羅♪ > 昼休み27」の「愉快通快 日時 2009 年 9 月 10 日」付け投稿「日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた」。
司会 それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。
M氏[1] 私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。
司会 その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?
M氏[2] そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
司会 ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・
M氏[3] はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイが着いてきましたから。でも、普通のバイクなので切替しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。
司会 すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?
M氏[4] あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。
司会 午前4時という時刻はどうやって確認したのですか
M氏[5] 当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)
司会 そこで何を見ましたか?
M氏[6] 既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか?どれくらいの人が生きていたのでしょう。
M氏[7] 全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
司会 自衛隊員は何を拾っていたのでしょう。
M氏[8] まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。
司会 現場にはどれくらい滞在したのですか。
M氏[9] 到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これで大丈夫なのかなと思いました。
 セミナー参加者からの質問
Q1 4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?
M氏[10] それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
Q2 この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?
M氏[11] ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。
Q3 事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。
M氏[12] 日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)
Q4 大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?
M氏[13] それは見ていないので分かりません。
Q5 現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?
M氏[14] そういうことは特に感じませんでした。
Q6 機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?
M氏[15] 言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。
Q7 事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。
M氏 報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。
Q8 その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。
M氏 山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。
司会 ありがとうございました。  
コメント
10. 2018年8月14日
現場では毒ガス瓶も見つかっているし、救助隊員が胸ポケットに毒物のケース
らしきものを入れていたという証拠写真もある。

JAL123便墜落事故-真相を追う-31年目の真実 ((新)日本の黒い霧)
https://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9eeb1d4d7dc5bd46d041bff6081ff801


 「(新) 日本の黒い霧」の2016-08-12日付JAL123便墜落事故-真相を追う-31年目の真実」。
 読者の皆様へ

 本日は日航機123便が御巣鷹の尾根に墜落し、多数の乗客乗員がお亡くなりになった日です。520名の乗客乗員の他、軍関係者を中心に知られざる多くの命が失われたことが、これまでの調査により判明しています。墜落推定時刻は18時56分。僅かでよいので、この時刻にお心を御巣鷹の尾根に向けてください。そして二度とこのようなことが繰り返されないようお祈りください。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

ブログ「(新)日本の黒い霧」管理人 日月土
 31年前の8月12日、私は小型バイクに乗り東京から長野県松本方面に向かい甲州街道を北上していました。夜少し暗くなり始めた頃に目的地に到着したところ、出会った知人からいきなり「日航機が行方不明になったようだ」と告げられました。その晩、知人宅のテレビで事の成り行きを見守ることになるのですが、その時は多く方々と同じように、たいへんな事故が起きたものだと思っていました。
 ■今でも忘れられない異質な報道
 テレビでは、番組中に流れるテロップや臨時ニュースなどで行方不明機の墜落地点が段々と特定されていくのですが、その時に墜落予測場所が2転3転し、情報が錯綜していたのをはっきりと覚えています。日航機関連情報が相次いで報じられる中、今でも忘れることのできない異質なニューステロップが流されました。

 「日航機の救助に向かおうとしていた自衛隊員が射殺された」

 後にこの報道は誤報として否定されるのですが、救助に向かった自衛隊員が何で射殺されなければならないのか、誤報だとしてもあまりに突飛な話であり、こんな誤報がなされること自体が当時の私には理解不能でした。
 ■南相木小学校に集結していた自衛隊
 同機墜落後も多くの生存者がいたことを証言されたM氏ですが、実はもう一つ重大な事実を証言されています。テレビ報道では未だに墜落地点が判明していなかった頃、M氏はバイクで通りかかった長野県側の南相木小学校のグランドに、自衛隊の部隊が集結しているのを目撃しています。M氏が現場を目指して南相木村の林道終点地点から入山したのが午後9時頃ですから、自衛隊の集結を目撃したのはそれより前ということになります。まさに一般報道で墜落地点が不明だと大騒ぎしていた頃です。そして、何より不思議なのが、南相木小学校への部隊展開については、公式記録に残されていないことです。

 墜落地点も分からない状況下でそこそこの規模の部隊を展開するのは、普通では考えにくいことです。もっとも、この証言だけではその部隊が日航機の救助が目的だったかどうかも分かりませんが。少なくとも、自衛隊は南相木村の山間部に関わる何か重大な情報を掴んでいたことだけは類推できます。

 本ブログでは米国軍・旧ソ連軍が123便事件に絡み現地に展開し、ごく短時間ではあっても交戦状態が発生しただろうとの説をとっています(詳しくは過去記事をお読みください)。そして、その主戦場となったのは、墜落地点(御巣鷹の尾根)の西側に続く南相木村の山間地域であり、現在は山ごと土砂が取り除かれ、大規模地下施設である東京電力神流川揚水発電所の一施設である南相木ダムとなっている一帯と推定しています。南相木小の非公式展開部隊は、当初から救助目的などではなく、これら初期戦闘行動に呼応したものであると解釈するのが、最も合理的な説明なのではないかと思われます。
 ■偽装自衛隊員と生存者への殺戮行為

 123便事件関連記事を書いていて、最も気が滅入るのが生存者に対する非道な行為の数々です。その詳細は「闇夜に蠢く者ーM氏の証言」中に示唆されているだけでなく、M氏の証言を裏付けるように、実際に墜落現場で軍用毒ガス瓶を回収していることが全てを物語っています。ここで、昨年の記事「あれから30年、真実が語られる時」に掲載した墜落現場での救出作業中の写真を再掲します


写真5:昨年掲載した写真

 ここに映っている自衛隊員の襟元に注目してください。


写真6:全員襟のエッジが張っており、襟章が縫い付けられている。

 隊服は全員同じように見えます。ところが、次の写真7を見ると、写真5と少し違うことに気がつきます。


写真7:別の隊員の写真

 ここでまた襟元に注目します。


写真8:襟元の比較

 ①の人物は写真6と同じように襟のエッジが張り、襟章が確認できます。②の人物については襟元の確認はできませんが、肩の位置といい、袖の長さといい、服装自体が全く身体に合っていないのがわかります。この隊員は普段からこんな不格好な隊服を着用していたのでしょうか?③の人物については襟章がなく、左側(向かって右側)のエッジが湾曲しているように見えます。


写真9:子供を抱え上げる隊員

 写真9は、抱えられた子供がこの時生きていたのではないかとネット上で騒がれたものですが、隊員の襟元に注目すると、襟章はなくエッジのたわみもはっきりと確認できます。


写真10:陸上自衛隊正規品のジャンパー襟元

 ここで、全く同じ隊服ではありませんが、比較のために陸上自衛隊正規支給品のジャンパー(写真10)の襟元を見てみます。襟がたわまないよう、襟の裏にしっかりと縫製がなされています。念のため服飾の専門家に、これら以外の写真を含む現場隊員の隊服を見ていただいたところ、明らかに、他と比べ粗雑な縫製の隊服を着た隊員が混じっているとのコメントをいただきました。

 これはどういうことでしょうか?私は、あまりに急な出来事だったため、偽装自衛隊員へ正規品の支給が間に合わず、サイズの確認もままならないまま、粗雑な急造品が宛がわれたのだと推測しています。また、隊服が異なる者同士が集団で行動していることから、正規の隊服を着ていたとしても、それが必ずしも正規の自衛隊員であるとは限らないことを意味すると捉えています。

 偽装自衛隊員については、123便事件について鋭い分析を著した角田四郎氏の「疑惑」(1993 早稲田出版)に、「大きな石の裏に、着替が詰められた袋が10数人分隠すように置かれていた」という著者本人の証言とも符号します。

 では、昼間に堂々と現れたこの偽装自衛隊員は悲惨な墜落現場で何をしていたのか?これについては、M氏の証言に現れた暗視スコープを着用した(見た目)自衛隊員の集団とほぼ同じ目的であっただろうと推察されます。すなわち (1)不都合な破片の回収と隠蔽 (2)生存者(事件の目撃者)の抹殺 の2点です。認めたくないことでありますが、上記写真が撮影されてることから分かるように、既にマスコミや地元警察、消防団など大人数が現場で活動している最中、彼らは目立たぬよう不都合品の回収や、生存者の抹殺を行っていたと考えられるのです。そうであればこそ、最初は7人と報道された生存者が、最終的に4人となったことにも合点がいきます。そして、その4人(全員女性)は、みな地元消防団員によって発見されています。衆人環視の中でおそらく彼らも手を下せなかったと考えれば、極めて辻褄の合う話です。


写真11:救出された川上慶子さん(当時12歳)。
 彼女の周りに写っているほとんどは上野村消防団や機動隊員であり(偽装)自衛隊員ではない

 写真5、7を見れば分かるように、この自衛隊員たちは、右の胸ポケットに隊服が肩からずれ落ちるほど、重く厚みのある長方形様の何かを忍ばせています。私の信頼する筋からは、それが「反応型炭素菌カプセル」との情報を得ていますが、本当に炭素菌かどうかは確認する術がありません。しかし、反応型の有毒物である可能性は極めて高いと考えられます。反応型とは、使用者に害が及ばないよう、また証拠にならないよう、単体ではそれぞれ無害のA剤、B剤を、人体に投入する直前に反応させ、毒物として使用するというものです。彼らは一人の生存者(事件の目撃者)も残したくなかったはずですから。
 ■なぜ生存者(事件の目撃者)を抹殺しなければならなかったのか?

 常識的に物事を考えるならば、衆人環視の下でリスクを犯してまで生存者を殺戮するなどあり得ないことです。これを逆に考えると、リスクを犯してでも生存者が見たものを絶対に世に出してはならないとする、隠蔽側の強い意志を感じます。

 それでは、「世に出してはならぬ秘事」とはいったい何だったのか?日本国内における米ソの軍事衝突?日本政府、警察や正規自衛隊を超越する闇組織(コードネーム「クロカモ」)の存在?それもあるのでしょうが、ここまでやる理由としてはまだまだ弱いと言えます。

 私はすでにその答に辿り着いていますが、事件から31年経過した今でもその情報を全て開示するのは時期尚早であると考えています。もったいぶってるようで申し訳ありませんが、その答に至るに必要な予備知識を本ブログ伝えていきますので、ぜひ今後もご愛読のほどをお願い申し上げます。

 どうしても答の片鱗が知りたい方は下の写真12をよく見てください。墜落現場で回収した物の一つで、以前にも掲載したのですが、彼らが隠さなければならない何かの意味が、全てこの中に集約しています。
 * * *

 本文で偽装自衛隊員という言い方をしましたが、ならば自衛隊は無罪であると言ってる訳ではありません。特別権限を有する超法規組織の言いなりとなり、この世の非道に手を貸したのは隠しようのない事実だからです。日本国民を守るという当初の誓いはいったいどこに消えてしまったのでしょうか?

 冒頭で「射殺された自衛隊員」報道に触れましたが、私は、この話が事実であり、そしてこの隊員こそ命を掛けて国民を守ろうとした本物の自衛隊員であると信じたいです。123便事件から31年が経過しましたが、今からでも遅くありません。真実を国民に伝えて欲しい。真実を語り許しを求めるならば、私はその方を全力で守りたいと思っています。

 大君の千代よぶたづの一声に御池の鴨も夢さますらむ (昭和十年 貞明皇后)

 遠つ祖霊の始りの地より 管理人 日月土




(私論.私見)