遺体埋葬事情考

 更新日/2019(平成31).1.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2010.8.16日 れんだいこ拝


 2022.8.9日、「遺体を引き取らない外国人と「早く家に連れて帰りたい」日本人―日航機123便墜落事故」。
 あの8月12日から37年​……。乗員乗客524人中520人の命が奪われた日本航空123便の墜落。単独飛行機事故では世界最多の死者となった。夏休みで帰省する家族が多く乗った羽田発伊丹空港行きは、群馬県・御巣鷹山(おすたかやま)の尾根で発見される。著者の飯塚訓(いいじま・さとし、当時48歳)は遺体確認捜査の責任者として、127日間にわたりその悲劇の真っただ中にいた。すべてのご遺体を遺族のもとへ。その一心で団結した医師や看護師、警察官たち。だがそこには誰も味わったことのない極限状況があった──。いまなお読み継がれる『新装版 墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』。いつの世も数字だけでは伝えきれない、悲嘆、怒り、そして号泣が止まらない記録を特別掲載する。第4回目には、外国人の犠牲者についても綴られている。遺族の悲しみに浅深の差はないが、韓国人、アメリカ人、イギリス人と宗教によって死生観が異なることを著者は知らされる……。*掲載記事に登場する人物の肩書・年齢は当時のものです。
 外国人犠牲者の遺族にみる宗教観の違い
 8月18日、事故後6日目になると、面接による確認は皆無となる。もちろん五体の揃った完全遺体の収容もほとんどない。バラバラに分解した遺体を確認するのは非常に困難な作業である。まして、炭化や挫滅、挫砕の遺体が多い。手や足だけの離断遺体で指紋や足紋が利用できない状態では、性別や年齢、血液型、足のサイズ等が個人識別の頼りになる。犠牲者が520人と多数の場合でも、性別、年齢、血液型の別に整理すると、各組みあわせに入る該当者は少なくなる。たとえば、20代の女性で血液型がABといえば1人か2人、といった具合である。また、飛行機事故の場合、機体が分断、飛散するため、搭乗者の座席位置によって遺体の収容地点が広範囲に違っているので、収容場所により、年齢、性別、血液型等から被害者をしぼる有力な資料となる。このようにして、指紋や歯型といった積極的な識別方法を利用できなくなった時点では、蓋然性を高める方法や除外法(消去法)を用いていった。東京歯科大学の橋本正次は、「このような方法を用いたことについてオーストラリアで説明すると、参加者は怪訝な顔をして『なぜ手や足を識別しなければならないのか』と質問する。そして、『死んでいるということは精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、すべてをまとめて火葬にすればいいだけである』という」と、日本人的宗教観との大いなる相違点を強調する。

 犠牲者の中に、20代の韓国人女性がいた。両足と左手だけの離断遺体で、指紋と身体特徴によって確認された。遺族に説明したら、「間違いありません。ありがとうございました」と礼をいわれた。「ご遺体はどのようにされますか」と尋ねると、「娘は神さまのところに召されて幸せです。肉体は一緒になくなった人とともに、埋葬してください」という。事故から9日目の21日、医師と警察官がようやくにして確認した遺体であった。何か残念な気もする。8月28日、左腕の離断遺体を指輪から確認する。アメリカの男性であった。外務省を通じて、アメリカ大使館そして駐米の日本大使館から、遺族に連絡した。確認理由を話すと納得
したが、「遺体はそちらにおまかせします」という返事が来た。「飛行機が落ちた場所に埋めていただいてもいいし、荼毘(だび)に付してもいいです」と。28歳のイギリス人男性の完全遺体。8月19日に指紋、歯型、着衣で確認した。イギリスから父親が来て、息子を確認。通訳を入れて確認調書を取った際、「息子は死んで神に召された。死んだことがわかったので、死体はもち帰らなくてもいい」という。そして涙をボロボロとこぼしながら、「日本の警察は親切だ。息子をこれほどまで大事に扱ってくれてうれしい」と何度も礼をいって帰った。この父親は宗教観の問題ではなく、日本の警察の心に感謝してくれた。宗教は人間の心の内奥にある問題であるのだから、心がそこにあればどの宗教にも通じなくてはならないのではないか。

 この事故での外国人犠牲者は22名であった。韓国人(キリスト教徒を除く)以外の外国人は、死と遺体の処置に関する考え方は、ほぼ共通している。橋本講師はこんなこともいった。「両親をアメリカの航空機事故で失ったオーストラリア人の話を聞く機会があった。彼の話で印象に残ったのは、事故の連絡でアメリカに行き、ホテルに着くと航空会社の人が部屋に来てまず謝罪する。ここまでは当然のこととして聞いていたが、驚いたのは、このあとすぐに慰謝料の交渉に入ったというのである。そして、このオーストラリア人は何の抵抗もなく、提示内容等を聞いたという。そこで彼に『遺体はどうしたのか』と尋ねると、『現場に行き、事故の状態を見た時、誰も助からないだろうと判断し両親の死を認めた』といい、遺体をそのままに、引き取ることもなく帰った、という。なぜ遺体を引き取らなかったのか、と日本人的な感情も入ってつい、強い口調で尋ねると、デス・イズ・デス、つまり、死は死である。もらっても生き返ってくるわけではない。魂は神のもとへ召された、ということだった」と。

 私は橋本講師の話を聞いて、死に対する宗教観が日本人と外国人でこれほどまでに違うのか、と大きな驚きを感じた。日本人は来世を信じ、そこでも生きると考える。いや、そうありたいと欲するのかもしれない。したがって、死んだ後も完全な死体が必要になり、死体を生きた人間と同じように扱うことにもなる。
 日本人遺族の心情
 身元確認の当初の方針では、離断や部分の確認遺体は、すべての部分が回収され、確実に確認されるまでは遺族に引き渡ししない、という姿勢で臨んでいた。バラバラになった離断遺体をジグソーパズルのように埋めていくのである。左手があれば右手も対照しやすい。その都度返していったら整理がしにくいのは当然である。520人という数は正確なのだから、五体それぞれの数も決まっている。頭から足まで足りない部分を対照しながら確認していく方法がもっとも確実でやりやすい。しかしながら、遺族の方たちは、「こんな暑いところに1日でも置いておけない。確認されたのだから、早く家に連れて帰りたい」と、強く要望した。しかし、最初のうちは、「遺体をお引き渡しすれば、他の離断部が回収されたとき確認する手段が減り、次の確認がむずかしくなります……それでもいいですか」と聞いた。どの家族も一様に「それでいい」という。したがって、遺体が完全に揃わなくても、確実な識別手段で確認されていれば、指1本でも歯牙1つでも引き渡す、ということになった。これをあくまで警察の方針として、離断遺体の引き渡しを拒んだとしたら、警察側と遺族側との間に大きな摩擦を生み、さらに確認作業に支障を来したかもしれない。遺族の心情を理解することが確認作業の基本方針であるのだから、しかたがなかったのだとも思う。

 それはそれとして、1週間も経過すると多くの遺族がふたたび確認場所に戻ってこられ、離断部分を探してください、という。「あの世に行くとき、足がなければ三途の川を渡れないじゃあないですか」、「右手がなければあの世でご飯が食べられないじゃあないですか」という理由であった。これが日本人の宗教感覚、あるいは仏教思想に代表される究極の行動であり、考え方のように思える。もちろんすべての日本人遺族が同じというわけではない。日本人の中にも、「仏に召されたのだから一蓮托生、他の未確認遺体と一緒に荼毘に付してください」という考えの人もいた。また、確認した医師に対して、「あんた、般若心経を百遍書いてくださいよ。確認してくれた先生に書いてもらえば多少娘も救われるでしょう」と、頼むというよりは、どうしても書けという感じで迫った人もいた。
 深い悲しみは共通
 日本人は全体の7割が「無宗教だ」といい、それでいて75パーセントが「宗教心は大切だ」という。確かに、無宗教だといいながら、彼岸にはお墓参りをし、お盆にはご先祖さまが帰ってくるからと、休暇を取って田舎に帰省する。一周忌、三回忌等の法要を尊び、仏滅での祝い事を忌み嫌う。日ごろ神社に足を運ぶこともしない若者も初詣に出かける。中高年者だってそうだ。入学、入社等の願いごとがあると、神社に行ってお賽銭を投げ、柏手を打ち、祈願する。勝手といえばそれまでだが、これを「自然宗教」というらしい。特定の宗教の信者は少ないが、宗教心は豊かであると解釈していいのか。通常の警察業務の中でいわゆる自然死ではない変死体については、犯罪に起因するおそれありとして、検視が行われる。この「検視」を行うにあたって、まず死者に対して「礼」をする。「死者に対しての礼を失してはいけない」という教えに基づく日本の警察の習慣といえる。特定の宗教の教えによるものではない。そして死者を「ホトケ」という風習が成立している。死者を「ホトケ」ということこそ「葬式仏教」の極致だともいう。生前どのような人生を歩んでいたかは問われない。生前、特別な宗教をもっていなくても、人が死ねば等しく「ホトケ」になれるので安心して無宗教を標榜していられるのだ、と。

 日本人の考えには、初めに死がある。そして遺骨というものに意味をもたせている。それは、戦争犠牲者の遺骨収集団が、戦後フィリピンやニューギニア等に行き、多くの骨や現地の石や木まで収集してきたという事実を思い起こさせる。収集した骨は火葬して皆で分ける。その中に自分の肉親、関係者がいることを信じて。日航機事故の際、老齢で御巣鷹山に登れない遺族の自宅に「これが御巣鷹山の石です」といって売りに行った非常識というか、とんでもない商売をしようとした奴が出てきた。これも、遺骨収集団に見られる日本人の文化的な背景をうかがわせる問題でもある。歯科カルテをもって肉親の歯を探してまわり、炭化して人体のどこの部分かもわからなくなった塊でも、「これがあなたのご主人です」といわれれば、頬ずりして涙する。私はこういう光景を数えきれないほど見たり、その確認の場に立ち会ってきた。愛する人を失うという悲しみは、万人、皆同じに決まっている。しかし、その表現のしかたは大きく異なる。その国の文化的背景、とりわけ宗教観に起因している、と痛感した。
 霊魂を信じたい……
 疲労が極度に達したころになると、霊魂に関する話題も多くなった。「おう! 今日はずいぶん来てるなあ」、「おい、おまえの後ろにもいるぞ!」など朝の検屍前の医師待機所で、大きな声で指を指しながらいう歯科医師がいた。この先生は、「俺にはよく見える」といい、一時期は毎朝そんなことをいっていた。渋川市からオートバイで通っていた歯科医師の福田も、「うちの女房はよく見えるんですよ」という。「女房は、私が帰ると、夜中でも玄関先まで迎えに出てくれるんですが、『あなた、今日はついてきてるわよ』と平然というんです。『僕は悪いことをしているわけではないから、ついてきてもかまわないよ』と気にもしてませんでしたけどね」と笑う。

 後日談になるが、確認作業中の不思議な話も当然出てくる。群馬県北部から毎日1時間半もかけて長期間、確認作業に通っていた歯科医師の川越は、「遺族にいろいろな生前のデータを教えられる。覚えのある遺体なら別だが、何百という棺の中から探すのだから、通常は端から順に見てまわるしかない。しかし、疲労で判断力も思考力も鈍っているのか、足は自然と違う方向に進んでいる。そして迷いもなくある棺の位置に到着し、なにげなく棺の上に貼ってある遺体カルテを見ると、そこには間違いもなく、遺族にいわれた遺体があった」といい、「こういうことが4例もありましたよ。信じてもらえないかもしれませんが、不思議としかいいようがなく、自然とそこの場所に立っていた、というのが本音です。『早く見つけてくれ』と呼ばれているみたいな気がしました」と当時を思い起こす。同様の話は他の数人の医師、歯科医師そして若い警察官からも聞いた。真夜中に枕元に正座し、何かぶつぶついいながら何回も頭を下げている私を見て、女房が「お父さん、どうしたの」と声をかけながら私の体をゆすったら、すぐに布団にもぐりこんだ、というのもこの時期だったろうか。もちろん私は何も覚えていない。検視班長の久保も、「夜中にトイレに行き、座ったとたん、腰が抜けたように便器にはまりこみ動けなくなり、女房に引っぱりだしてもらうまで大変だったよ」といっていた。
 「被害者の霊が俺たちを守ってくれたんだ」
 関越自動車道(東京―新潟)が開通したのは1985年(昭和60年)10月2日である。新潟県境の大清水トンネルまでを管轄区域にもつ群馬県北毛地区の「沼田警察署」からも正田警部補以下4人が、身元確認班員としてパトカーで藤岡市まで通っていた。日航機関係作業に従事している沼田署員は、この開通直前にある高速道路の通行を、道路公団の特別の計らいで、許可されていた。沼田市から藤岡市まで、車で普通1時間半はかかるが、高速道路を使わしてもらうと30分あれば藤岡インターに着く。毎日のことなのでありがたい限りである。開通前の高速道路は、藤岡市へ通う沼田署員の専用道路のようであった。時たますれ違う車両は道路公団の黄色い専用車くらいである。8月下旬のある朝のことであった。その日は朝から霧が巻いており視界が悪かった。沼田インターから高速道路に入り10分ほど走ると、霧はだんだんと濃くなってくる。さらに1~2分走り、車が霧の名所として有名な「赤城インター付近」にさしかかるころには、10メートル先も見えないほどになった。運転していたのはパトカー乗務員のN巡査部長であるが、彼はセンターラインを目標に運転をつづけ、速度もほとんど落とさなかった。通行車両はないわけだから、真ん中を走っていれば安全だ、という意識があった。だが、1~2分走った時、彼はなぜか突然ハンドルを左に切り、左車線に入った。その瞬間、道路公団の黄色い車両がビューとすれ違っていった。道路の片側2車線を1車線ずつ、上下線で使用していた区間であった。誰もが口を開かない。頭が硬直したようになり、背すじに寒気のようなものが通る。渋川市に近くなり、霧がすっかり晴れたころ、4人はそれぞれ、ふうっと息を吐きだしたり、大きな溜息をついたりしてお互いが顔を見あわせた。「命拾いしたなあ、おまえあの時公団の車が来るのがわかったのか」と正田が運転のNに聞く。「まったく気がつかなかった」。まだ恐怖の覚めぬこわばった顔でぼそっと答えた。「じゃあなぜあの時だけ、左車線に入ったんかや」という問いには、「わからねえんだよね。ハンドルを切ったことさえ覚えてねえんだもの」という。「被害者の霊が俺たちを守ってくれたんだ。まだ確認にならない遺体を頼むということなんだなあ」。長くつづいた沈黙の後で、正田がいうと、他の3人も大きくうなずいた。無宗教の若い警察官たちが、神仏の加護を真剣に信じた瞬間でもあった。





(私論.私見)