運輸省航空事故調査委員会の報告書考

 更新日/2023(平成31. 5.1栄和元/栄和5).2.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、当事故事件を調査した運輸省航空事故調査委員会の報告書の中身を確認しておく。何故、ブラックボックスが公開されないのか? 何故、無編集のボイスレコーダーが公開されないのか?

 2010.08.16日 れんだいこ拝


【運輸省航空事故調査委員会の報告書考】
 事件後、航空管制を監督する運輸大臣直属の常設機関である航空事故調査委員会が設置された。委員は委員長を含め定員5名。武田峻委員長は前宇宙技術研究所長だが、委員には航空局OBが2人入っている。航空機事故調査委員会はいわば身内を裁く委員会となるから、事故原因調査にあたってその独立性を保持せねばならぬところ、独立性に大いに疑問がある構成となった。

 1985.9.14日、中間報告が出され、これを境に事故調の委員長及び委員の半数が、任期で交替している。

 1987.6.19日、事件から2年後のこの日、運輸省航空事故調査委員会が、橋本運輸大臣に事故の原因に関する報告書を提出し公にした。事故原因について次のように結論づけている。
1・該当の機体は事故の7年前の1978年(昭和53年)6月に伊丹空港でしりもち事故を起こして客席と機体外壁を隔てる「圧力隔壁」が破損した。
2・「隔壁」の破損を米ボ―イング社で修理したが、修理ミスがあった。
3・以後の飛行による劣化で、事故当日、修理ミス部分に金属疲労が生じ、「隔壁」に亀裂が入った。
4・気圧差でその亀裂から客席の空気が吹き出し、一気にマッハを超える勢いで噴出したため、その圧力で尾翼を破損させ噴き飛ばした。
5・尾翼の破損で油圧系統がすべてダウンし、飛行性の低下と主操縦の機能も失われた。
6・迷走の果てに御巣鷹山に墜落したものと推定される。
 「本事故は、事故機の後部圧力隔壁が破損、引き続いて尾部胴体、垂直尾翼、操縦系統の破損が生じ、飛行性の定価と主操縦昨日の喪失をきたしたために生じたものと推定される。飛行中に後部圧力隔壁が破損したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂にそって同隔壁の強度が低下し、客室与圧に耐えられなくなったことによるものと 推定される。疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、 それが同隔壁の破損に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される」。

 これによると、JAL123便は、ハイドロプレッシャーダウン(油圧系統のダウン)により機体後部の圧力隔壁が破壊されたのが原因で垂直尾翼が3分の2損傷し、墜落したと推定されている。即ち、「後部圧力隔壁の破壊に伴う、垂直尾翼を含む機体後部の破壊」としている。これを仮に「圧力隔壁破壊説」とする。しかし、航空機の垂直尾翼は非常に頑丈なものであり、機内与圧空気の急激な噴流などで壊れたとする報告書に疑問が投ぜられている。生存者の落合由美氏は、「乗客は降りてきた酸素マスクは当てているが、混乱はなかった」と証言しており、機内に急減圧が起きているフシはない。我々は単刀直入に垂直尾翼が破壊された原因を考えねばなるまい。これを常識的に考えると、何らかの飛行物体が尾翼にぶつかったのではないかということになる。事故調査委員会は、外部原因説の可能性に一切言及せず、内部原因説の「後部圧力隔壁破損説」を固持し続けている。その癖、相模湾に落ちた垂直尾翼や 尾部胴体 、その他多数の部品についても解析と調査を まったく行っていない。

【日航乗員組合連絡協議会の報告書考】
 日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。

 被害者の遺族たちは、1999年1月に事故原因再調査要求を提出した。しかし、事故調査委員会はこれを完全に無視し今日に至っている。それどころか、1999年11月、情報公開法施行を前にして、JAL123便墜落事故関係の全書類をにすべて廃棄処分にすると云う挙に出ている。その重量は1160キログラムであったと云う。一体何の為に証拠書類をすべて廃棄処分にしたのだろうか。既に多くの識者が、「高度高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼に飛行機かミサイルのような謎の飛行物体が激突した」可能性について言及している。一体誰が何の為にと云う「もう一つの推理」までは避けているが、外部原因説は既に衆知の事実のように思われる。

posted by 管理者 at 03:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 御巣鷹山事故の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 雫石事故とは71年、全日空機のジェット機727型機に航空自衛隊のF86F戦闘機が衝突した事件である。この時、自衛隊は全日空にも管制にも訓練を報せていなかった。この時、ある疑いがもたれた。自衛隊機が民間機の全日空機を敵機に見立てて戦闘訓練をしていて誤って衝突したのではないかという疑惑である。乗客乗員162名が死亡。この時は航空幕僚長の辞任で収まっている。運輸省管轄の航空事故調査委員会はこの事故をきっかけに誕生している。

 2021.8.11日、「日航機墜落 事故調査官100ページの手記に書かれていたこと」。
 520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から36年。

 国内最悪の航空機事故を調査し、報告書をまとめた調査官らが手記を残していたことが、去年、NHKの取材でわかりました。調査官限りの内部文書とされ、これまで決して表に出ることのなかったおよそ100ページにわたる手記。そこに書かれていたこととは。(沖縄放送局デスク 山口健)

 "史上最大の航空事故"
 36年前、日本航空のジャンボ機が群馬県の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が犠牲になりました。単独の航空機事故としては史上最悪の悲劇でした。事故から2年後、墜落の主な原因などについてまとめた事故調査報告書が公表されました。報告書ではアメリカのメーカーの修理ミスにより客室内の圧力を一定に保つ圧力隔壁が破損。その結果、機内の空気が客室後部に一気に吹き出し、垂直尾翼の大半が失われ、操縦が困難な状況に陥ったと推定されると結論づけられました。

 100ページの手記に書かれていたこと
 事故の2年後にまとめられた手記


 報告書の公表後、事故調査官ら11人は調査の過程を振り返って今後に生かそうと、手記をまとめていました。報告書は付録もあわせておよそ600ページありますが、調査官の思いは直接記されてはいません。偶然、手記の存在を知った私は、手記を入手することで調査官がどのような思いで調査をし、現場で何を感じていたのかに迫れるのではと考えました。およそ100ページに上る調査官限りの極秘の内部文書。そこには厳格に調査にあたる調査官の姿勢や葛藤、人間味あふれる感情が隠されることなく赤裸々に描かれていたのです。

 奇跡の生存者の証言
 
事故調査官による現場調査


 手記によると、事故翌日の8月13日朝、藤原さんたち調査官はヘリコプターで初めて現場を確認しました。調査官のひとりは「いろいろな事故を見てきたが、こんなに壊れかたがひどく、飛行機の形の残っていない事故現場は初めてだ」と振り返っています。そして、生存者4人を発見したという情報が入ってくると、調査官は直ちに病院に直行。乗客として搭乗していた日本航空の客室乗務員から、極めて重大な証言を得ました。その時のやり取りです。

 
生存者への聴き取りは病室で行われた

 手記より
 「あのう、デコンプ(※急減圧)があったんです」(中略)彼女がスチュワーデスであることを初めて知った。我々はR5ドア(※後部ドア)が気になっていたが「ドアは飛ばなかったんですが、後の天井付近が壊れて…」と話してくれた。(中略)疑われていたR5ドア(※後部ドア)ではないらしいが、デコンプはあったということが判ったことだけでも大きな成果であった。これで、DFDR(※飛行記録装置)とCVR(※音声記録装置)の回収が更に重要になった。

 見つかった決定的な証拠

 次の日の14日、藤原さんたち調査官は初めて現場に入ります。バラバラになった翼の部材が沢に突き刺さっている様子を目の当たりにするとともに、客室内の断熱材が水平尾翼の中に大量に入り込んでいるのを発見。そして下山時刻直前の午後2時9分、決定的な証拠となるDFDRとCVRを発見したのです。


 手記より
 もしこのDFDRとCVRが何日も見つからなかったならば、我々も焦ったろうし、霞が関からもプレスからも相当に非難されたと思う。

 貴重な証拠をゴミ袋に…

 
記者会見する藤原洋 次席調査官(昭和60年8月)

 この証拠は、毛布にくるまれた状態で現地の対策本部に届きます。中身を撮影したいという報道陣と、一刻も早く解析を急ぎたい事故調査委員会との押し問答が始まり、対応していた調査官の焦る心境も記されていました。そんな中、証拠は、ある機転を利かせた対応で、東京に運ばれていきました。

 手記より
 問題のDFDRとCVRをどうやって報道陣の目を逃れて外へ運び出したのだろうか?結論からいうと、警察の大きなゴミ袋の中へ入れて、あたかもゴミを捨てるようなそぶりで堂々と報道陣の中をかきわけて運び出し、一般車両に積んで東京へ運んだのだそうだ。その道のり、調査官は車のトランクに入れるのではなく、ひざの上に抱えていったと記されていました。この証拠がいかに重要か、調査官の思いが伝わってきます。

 わずか2日で原因に迫っていた

 東京に運ばれた証拠の解析は、すぐに始まりました。事故発生から3日目の未明でした。焦点は、一連のいきさつが最後まで記録されているかどうか。今回の事故は異常発生から墜落までおよそ31分間でしたが、装置に記録できる時間は30分だったからです。

 装置の中のテープを取り出したときの様子です。

 手記より
 くしゃくしゃで切れかかった部分があったが、ほんの数センチをオーバーラップさせるだけで修復は完了した。ここが解析に影響のない部分であったのが何よりであった。このCVRはエンドレス・テープで録音時間が約30分であるため、何事かが発生した時刻の18時25分頃の録音は消されているという大方の見方であったが、その心配は再生数十秒後に消し飛んでしまった。大変な音を聴いてしまった。この音はこれまでの私の人生で聴いたどの音より強く印象に残っている。

 

これまでの人生で最も印象に残った音だった

 録音されていたのは32分10数秒。
 実際の録音時間は2分余り長く、異常発生の瞬間が記録されていました。この決定的な証拠と生存者の証言から、藤原さんたちは客室内の気圧を保つ圧力隔壁と呼ばれる設備が破れた可能性があると推測しました。2年後に公表される事故原因の核心に事故からわずか2日で迫っていたのです。

 ラジオに盗聴マイク?

 手記には、「ラジオの差し入れ名乗らぬ市民の好意」と題されたエピソードが記されていました。読み進めると、激励で差し入れられたラジオを活用していたら、事故調の情報が報道陣に漏れていることで、ラジオが疑われたという、思わぬ顛末でした。


 手記より
 ひょっとしたら、委員室に盗聴マイクが仕掛けられているのではないか心配し、専門の捜査員に捜して貰ったが何もでてこない。そこでついにこのラジオまでが疑われることになった。ひょっとしたら、盗聴マイクが組み込まれているのではないかというわけである。そこで、警視庁の捜査員立会いのもとに、このラジオを分解してしまった。結果は「白」。なにも怪しいところはなかった。一時にせよ、名乗らぬ善意の市民の好意を疑ってしまい、誠に申し訳ないことをしてしまった。

 背景には報道陣の連日の取材の激しさがあったのですが、調査官限りの手記で名もなき市民に謝っていることに、調査官たちの誠実な人柄を感じました。

 コミュニケーションの重要性

 コミュニケーションの重要性も随所に記されていました。調査の立場からは当たり前のことでも、別の立場からは理解されないことがままあったからです。現場は、群馬県上野村、群馬県警、応援の警視庁、自衛隊、海上保安庁など複数の機関がいました。救助・捜索活動のはざまで、調査の意義を理解してもらい、速やかに進めるためには、各機関との調整が欠かせず、重要な依頼・申し入れ事項はすべてトップに行うようにしたという記述がありました。


 誠実な人柄も

 手記には、事故からおよそ4か月後の12月の中旬、雪深くなる前に最後の残骸調査が行われたときのことも記されていました。それまでは地面ばかり見ていましたが、木の枝に引っかかる形で残っているものがあると連絡があったからでした。

 手記より
 今まで何回か登山をしたが、上を向いて歩いた登山は今回が初めてであった。しかし、これも坂本九さんが事故原因を調べてくれと頼んでいるような気がして、ご冥福を祈りながら家路に着いた。ここからも、調査報告書からはうかがい知れない調査官の人柄が伝わってきました。
 なぜ取材に応じてくれたのか
 
藤原洋 元次席調査官

 取材に応じてくれた当時次席調査官だった藤原洋さん(93)です。旧運輸省を定年後も現場の御巣鷹の尾根に慰霊の登山を続けてきました。昭和62年に公表された事故調査報告書では、事故の7年前に起きたしりもち事故の際に行われたアメリカのメーカーによる修理ミスが事故の主な原因とされました。しかし修理ミスがなぜ起きたのかについてはアメリカの協力が得られずできませんでした。

 藤原洋さん
 「なぜ修理ミスをしたのか、アメリカ側に何回申し入れても最後まで回答がもらえず原因を究明できませんでした。それについて批判を受けてもしかたなく、一生背負っていくことになると思います」。 そのうえで後世に残す教訓としてこう語りました。

 藤原洋さん
 「初心にかえり、現在やっていることがベストなのか、常に反省しながら仕事をすることが大切です。今よりもっとよくする方法はないのか、もっと安全に出来る方法があるはずだと考えれば、道は開けると思います」。
 取材後記
 今回の取材を通して、人の命を奪った原因を調べる調査官の厳格な姿勢を改めて知りました。同時に、調査報告書からはうかがい知れない、人間くさい一面も感じました。立場は違っても、思いを同じくする1人として、私も事故のことを記録し伝えていきたいと考えています。

 「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ9」の「一刀斎 日時 2000 年 8 月 12 日」「日航ジャンボ機 御巣鷹墜落事故 事故調「圧力隔壁説」と食い違い本紙入手ボイスレコーダ記録で判明(赤旗)」。
 十五年前の一九八五年八月十二日、群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、単独機としては史上最大の犠牲者五百二十人を出した日本航空123便(乗客・乗員五百二十四人)のボイスレコーダー(操縦室音声記録=CVR)の記録を四日までに本紙が入手しました。航空関係者らの協力で分析した結果、会話の内容は、運輸省航空事故調査委員会が作成した事故調査報告書と、事故原因の究明にかかわる重要部分で食い違いが判明。聞き違いと思われる個所とともに、まったく違う時間帯の会話を入れ替え、作為的としか考えられない部分があるなどの問題点が明らかになりました。

 123便のボイスレコーダーは、十二日午後六時二十四分十二秒から始まり、同三十五秒ころ、「ド、ドーン、ドーン」という爆発音か破壊音があり、直後に機長が「なんか爆発したぞ」「ギア(車輪)見て、ギア」と続いています。このあと報告書では、不可解な解読として「エンジン?」や「オールエンジン」という機長や航空機関士の言葉が記録されています。しかし、この不可解な言葉を本紙が入手したテープで、複数のパイロットらが聞くと、いずれも「ボディギア(胴体側の車輪)」と聞こえました。事故機のボーイング747型機には四本の主車輪があり、左右の主翼にウイングギア、胴体部分に二本のボディギアがついていて油圧だけで収納されます。機長らのやりとりがボディギアであれば、異常事態に伴って油圧系統が機能しなくなった事実からボディギアの収納位置がずれた可能性があります。

 航空事故調査委員会が八七年六月に発表した事故調査報告書は、過去、大阪で「しりもち事故」を起こしていた123便の後部圧力隔壁が修理ミスによる金属疲労で破壊され、加圧された客室の空気が噴出したため、胴体尾部、垂直尾翼、操縦系統の損壊につながって操縦不能に陥ったと推定しています。しかし、操縦室では事故調が推定している隔壁破壊による急減圧ではなく、車輪の異常に注意が向けられた会話になっており、事故原因に疑問を投げかけるものになっています。

 また、ボイスレコーダーでは、酸素マスク着用の会話が異常発生から九分十秒以上経過した時点であったにもかかわらず、事故調の発表では異常発生から一分五十五秒後に変えられていたことが明らかになりました。

 隔壁破壊はなかった 真相追及する元日航パイロット藤田日出男さん

 もし、事故調が指摘するように急減圧によって隔壁が破壊されているなら、機長はまず「マスクオン」(酸素マスクをつけて)と指示しているはずだ。ボイスレコーダーを聞くと、聞き違い、誤認というよりも「隔壁破壊先にありき」で、つじつまあわせの報告書づくりといわれても仕方がない。私は垂直尾翼が先に破壊され、油圧系統に異常が発生したとみているが、事故原因に関する新たな事実が出てきた以上、調査の再開を求めていきたい。

 ボイスレコーダー

 航空機の事故原因を解明するために、操縦室内の会話を三十分にわたってエンドレスで記録します。フライト・レコーダー(飛行記録装置)とともに、搭載が義務づけられています。

 日航機御巣鷹墜落 ボイスレコーダー入手で明らかになったもの 真の原因究明へ手がかり

 一九八五年八月十二日に起きた日航123便事故は、事故直後から事故原因の真相をはじめ、墜落地点の確認や救難活動の遅れなど、さまざまな疑問がある点で、極めて特異な事故として位置づけられてきました。今回ボイスレコーダーの入手で明らかになったのは、運輸省事故調査委員会が作成した事故調査報告書でしか分からなかった操縦室での機長、副操縦士、航空機関士の緊急時のやりとりです。事故調は、ボーイング社が自認した後部圧力隔壁の修理ミスによる破壊によって客室内の空気が一挙に噴き出て、垂直尾翼や油圧系統を壊したと推定しています。そうなると、操縦室や客室は急減圧で酸素不足になり、酸素マスクが必要になってきます。事故報告書では「パイロットらのマスクの着用については、ボイスレコーダーに18時26分30秒以降数回にわたり酸素マスク着用についての声が記録されているが、(中略)酸素マスクを着用しなかったものと推定される」と分析しています。しかし、本紙が入手したボイスレコーダーでは、26分台の時間帯にはそのような会話はありません。123便の事故の真相を究明してきた航空関係者らは、事故報告書が公表された時から報告書に疑問を呈してきました。例えば報告書にあるような事態であったとするなら操縦席のドアは吹っ飛び、客室内の物や人が穴のあいた後方に向かってすごい勢いで飛んでいきます。しかし、入手したボイスレコーダーでは、「ド、ドーン」という破壊音のあとには何も聞こえていません。急減圧が起こると、乗客・乗員の耳が痛くなり、室温もマイナス四〇度ぐらいになってしまいます。ところが、四人の生存者のだれ一人として、空気の激しい流れや「寒かった」と証言していません。ということは、報告書に記載されているような急減圧はなく、隔壁破壊はなかったことになり、事故原因の根本が崩れてしまいます。事故調が、隔壁破壊、急減圧にこだわった背景には、墜落事故直後から米政府やボーイング社が隔壁破壊を原因とする説を意識的に流したことがあるという指摘もありました。123便に限定された事故となれば売りこみに支障をきたさないからです。

 事故調査の基本は、事故の再発防止にあります。IC AO(国際民間航空機関)の第十三付属書の五の十三では、「調査の再開」として、新しく重大な証拠を入手した場合には、調査団はただちに調査を再開しなければならない、としています。運輸省は「事故原因の調査は公式に終了した」との姿勢をとってきましたが、多数の犠牲者の死を無駄にしないためにも調査の再開を検討すべきです。

(米田憲司記者)

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 「隠された証言 日航123便墜落事故」(藤田日出男)によれば、事故調報告書・資料は「情報公開法」が施行される前に廃棄されたが、関係者がその一部を持ち出して同氏のところへ届けた。藤田氏は日航のジャンボ機の元パイロットの経験を元に圧力隔壁破壊説を否定している。例えば事故機の機内で撮られたカラー写真、破壊で垂直尾翼吹き飛ぶ程の風圧があったのなら、乗客や機内の物が機外に吹き飛ばされても不思議ではないが整然としている。当日非番で事故に搭乗していたキャビンアテンダントの落合証言によると、急激な減圧は一切なかったと発言している、パイロットは全く酸素マスクを装着してないと思われる。垂直尾翼の方向舵は上下2枚あるが、擦れたような跡がある。




(私論.私見)