ドリフターズと志村けんの履歴考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「志村けんの死の経緯考」をものしておく。「ウィキペディア志村けん」その他を参照する。 2011.03.21日 れんだいこ拝 |
【志村けんの履歴】 | |||
1950(昭和25).2.20日、東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)で男三人兄弟の末っ子として生まれる。父は志村憲司(けんじ)で小学校教諭。母・和子(かずこ)。二人の兄(長男・知之、次男・美佐男)が大学を卒業して公務員になったが、末っ子の彼は後述の通り異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父親の名前から取ったものである。本名は志村康徳(しむら・やすのり)。166センチ、血液型A。趣味は音楽鑑賞。 | |||
幼い頃、父は厳格な人物で、彼の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。志村は、「その時だけは父も声を出して笑っていた」と語り、そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。志村が中学生だった頃の父・憲司は、校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、自身は「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。 | |||
東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。 | |||
その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。志村の中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高ではサッカー部に所属しGKとして在籍した。この頃、ギターに夢中になっている。 | |||
志村が、はっきりとお笑いの道を意識したのは、ドリフに付き人志願することになる高校時代。同じ高校に通っていた旧友のひとりは、こんなエピソードを。「志村が『コント55号』のモノマネをみんなの前で披露して、大ウケしたことがあるんです。それで一気に人気者になって。女の子にもモテ始めて、手作り弁当をもらったりしていました」。 | |||
**頃、学校をサボって見たジェリー・ルイスの映画に感銘を受けている。 | |||
1967年、高校二年時、由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが断られた。 | |||
1968.2月、高校卒業間際に、ザ・ドリフターズのリーダーだったいかりや長介さんの家へ直接押しかけ、弟子入りを直談判した。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで突き放されたが、食い下がった根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。由利徹やコント55号とザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだと云う。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。 一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し仕事に戻っている。こうして人気コミックバンド「ザ・ドリフターズ」の付き人となった。当時のドリフターズは地方巡業が多く、付き人となった志村は主に楽器運びやセッティングなど重労働に追われる一方、メンバーやスタッフがコントをつくりあげていく過程を見ながら笑いについて学んでいった。 |
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加藤茶の付き人となる。 | |||
1年余り後、舞台公演を翌日に控え、前夜まで稽古をして、持ち道具の仕込みや舞台で渡す段取りまで確認していたにの直前に逃亡した。で一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをした。仲間が伝えるのを忘れていたため脱走したとメンバー内で騒がれていた。志村と同じ小学校の地元の旧友・岸田正/氏は、その付き人時代は次のように述べている。
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1969.10.4日、ザ・ドリフターズが大ブレイクするTBS系「8時だョ全員集合よ」がスタートする。「ハナ肇とクレージーキャッツ」と人気を二分し、最高視聴率50%を誇り1985(昭和60).9.28日まで16年間続く国民的バラエティ番組となる。 | |||
一年後、いかりやの家に行きづらかったことから加藤の家に行って再度の入門を頼み込み、いかりやへ口添えしてもらったところ、いかりやは、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。志村がメンバーの前で土下座をしたところ、許されて再度の付き人となった。 | |||
その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。 | |||
1972年、22歳の時、井山淳とお笑いコンビ「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。小柳ルミ子コンサートの前座を勤めている。 | |||
1972.10-12月、「シャボン玉ホリデー」の後番組で日本テレビ冠番組「ぎんぎら!ボンボン!」。(後に放送時間を変更の上で「シャボン玉ボンボン」に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運を得るが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷する。いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12.31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)した。 | |||
その後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅へと向かう。 | |||
1973.1-4月、日本テレビ「シャボン玉ボンボン」。 | |||
1973年、父・憲司逝去(享年54歳)。志村はテレビの収録直前、母・和子から電話で一報を知らされて駆け付けたが、「(亡くなった父の)顔は見れなかった」と振り返っている。 | |||
1973.12月、その後ドリフターズの付き人に戻り、「メンバー見習い」の扱いで「志村けん」に改名した上でドリフに加入する。 | |||
1974(昭和49).3.31日、メンバーの一人の荒井注が脱退。荒井注は1973.10月に脱退を表明しており、「迷惑をかけないために半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた。志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった。 | |||
4.1日、正式にドリフのメンバーとなる。志村24歳。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及び、すわ親治(当時・しんじ)の昇格も検討していたが、志村の順番であったことと加藤の推薦により若手の志村が起用された。すわは次のように証言している。
“ただの付き人”と本人は謙遜するが、当時のすわは、兄弟子である志村よりも先に『8時だョ!全員集合』(TBS系)などで舞台デビュー。そのため'74年に元メンバーだった故・荒井注さんがドリフを脱退した際には、誰もが「すわが次のドリフメンバーになる」と思われていた。志村さ抜擢されたことで、すわが正式メンバーになれなかった、とも云われた。これに対し、次のように述べている。
楽器はギターを担当した。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)はギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。 |
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いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。 | |||
グー/チョキ/パーの3すくみ手遊びの「じゃんけん」の出だしの掛け声となる“最初はグー”を考案したのは志村けんだと云われている。1969~85年まで放送されていた人気コントバラエティ番組「8時だョ!全員集合」(TBS系列)の「ジャンケン決闘」というコントで、志村と仲本工事がじゃんけんする際に、志村が“最初はグー”の掛け声を使ったことから、日本中に広まった。コーナーとしては西部劇の酒場のようなセットに志村、仲本の両名がやってくる。そして2人の決闘がはじまるのだが決闘の方法はじゃんけん。その時の掛け声が「最初はグー。またまたグー。いかりや長介あたまはパー。正義は勝つ(ここでガッツポーズ)。じゃんけんぽん」たった。一説によると、志村が“最初はグー”を思いついたのは、ドリフとスタッフとの飲み会の席。誰がお金を支払うかの会計を決めるためにじゃんけんしたところ、全員が酔っ払っていたせいで手を出すタイミングが合わなかった。そこで「最初はグーだよ!」と号令をかけたことから、この掛け声が生まれた云々。 | |||
1976.7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長の熊木令治から感謝状が贈られた。当初、志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には否定的な者もいた。志村が当時テレビでギャグネタに「東村山市名誉市民・志村けん」を名乗ったため、本当に志村が名誉市民称号を授与されたと思い込んだファンがかなり存在するが、実際にはその事実はなく、東村山市当局も公式にこれを否定している。またいかりや長介が「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。 なお、この時に東村山駅東口の交番前に、感謝状授与記念と志村への激励の証として3本のケヤキが植えられた。通称「志村けんの木」。2015年に東村山市が市制50周年記念として木の前に看板を設置した。この看板の題字「志村けんの木」は志村の直筆であり、またサインも掲載されている。 | |||
1979年、加藤茶との「ヒゲダンス」。チョビひげ姿で加藤茶さんと踊る「ヒゲダンス」が大流行し、国民的な人気となった。 | |||
1970年代後半、志村のドリフ加入からしばらく経過したこの頃、『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内において沢田研二とよく共演し、コントのやり取りで息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ。当時、沢田と志村は同じ事務所に所属していたこともあり、共演する回数は多かった。また、志村はドリフ加入前の「マックボンボン」時代に沢田のコンサートの前座を何度も務めていたことがある。1980年代中頃以降は共演する機会も減っていたが、2001年にNHKの番組で久々に共演し「東村山音頭」を一緒に歌うなどをした。同年には沢田の希望により、共同でラジオ番組『ジュリけん』(文化放送)もやっていた。2003年には沢田と志村の両方が主役として、沢田の希望で舞台「沢田・志村のさぁ、殺せ!!」での共演が実現した。沢田とは同一事務所時代から30年以上の交流があるが、プライベートで行動を共にする機会は比較的少なかったものの、2000年代に入り徐々にではあるが交流の機会が増えていた。志村は女性の友人で付き合いの長い人物は若手を中心に多いが、男性の友人で付き合いの長い人物は極めて少ない方であり、ドリフメンバーや志村ファミリーを除くと沢田程度しかいない。 | |||
1980年、テレビ番組「8時だョ!全員集合」の中で、童謡「七つの子」の替え唄)「♪カラスの勝手でしょ〜」が放映され子供たちの人気を博し流行した。志村はこの替え歌の前半コント(中場またはオチがつくところで出ることが多い)、少年少女合唱隊、後半コントのいずれかの場面で登場していた。この替え歌の歌詞については志村けんの作ではなく、笑福亭鶴光がDJを務めたニッポン放送のラジオ番組「鶴光のオールナイトニッポン・サンデースペシャル」の中の替え歌コーナーがもととなっているとの説がある。志村けんの著書では、自身の作ではなく近所の小学生が歌っていたのを番組で歌ってみたと語られている。 | |||
『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。 | |||
1980年代から1990年代中盤にかけて、太地喜和子やいしのようことの交際の噂が各メディアでたびたび報じられたものの、結婚へは辿り着かなかった。太地、いしのともに番組で共演した。太地は志村の熱心なファンだった。志村の著書によると、若い劇団員に対し「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ」と言ってくれたと記されている。太地は『だいじょうぶだぁ』の常連ゲストとしてたびたび出演している。太地の急死直後には追悼番組を企画し放映している。 | |||
1981.2.18日、仲本工事、居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。 | |||
また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。この時志村が仲本・居作と同様に略式起訴され罰金刑となっていたら、競馬法の規定で馬主になることはできなかった。 | |||
1982年、第二の故郷となる麻布十番に3LDKのマンションを購入する。 | |||
1985年、「8時だョ!全員集合」番組終了。 | |||
1986年、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」がスタート。カトケンコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。85年の同番組終了後も、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのバカ殿様」「志村けんのだいじょうぶだぁ」と出演し続け、コントへの並々ならぬこだわりを持っていた。 | |||
1986年、フジテレビ系列で志村けんの冠番組として毎年正月・春と秋の番組改編時期に「志村けんのバカ殿様」を企画し活躍した。元々は、TBS系列のバラエティ番組『8時だョ!全員集合』のコントの一つだった。ドリフメンバー以外(田代まさし、松本典子、桑野信義、石野陽子、ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。イザワオフィスの企画・制作により1986年から2020年までゴールデンタイム・プライムタイム(JST)に不定期放送されていたお笑い時代劇バラエティ番組の特別番組だった。 | |||
1986.1月、TBS「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」。1992年3月まで続く。現在のYouTubeの走りだと云われている、視聴者投稿の笑えるビデオ作品を紹介する「おもしろビデオコーナー」が当った。企画発案者は志村。そして、今後も廃れることがないであろう「じゃんけん」の最初の掛け声である「最初はグー」をテレビで初めて披露したのも志村だ。 | |||
1986.10月、自身をメイン出演者とした初の冠番組日本テレビ「志村けんの失礼しまぁーす!」で活躍。 1987年9月まで続く。 | |||
1987年、三鷹市内に約3億円を投じて一軒家を新築する。 | |||
1987.11月、フジテレビ系バラエティー冠番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」。1996.9月までの9年間続く。この時期にコメディアンとして名実ともに頂点を極めた。ここで田代まさし、桑野信義、いしのようこなど芸人以外のレギュラー陣と共にコントを演じた。第1回目の放送で、顔はオタマジャクシ模様のホクロなどやシミが数箇所あり、髭は青々としており頭の上部分が禿げ上がっている「へんなおじさん」姿で登場し人気を博した。初期は衣装が固定されていない普通の服装であったが、後にラクダシャツ・ももひき・腹巻という格好に固定される。更にいつの頃からか、変なおじさんのイラストが全身に描かれた肌色のラクダシャツやももひき(現在では上下ピンク色で腹巻のみ紫色)を着るようになった。のちにメガネをかけている。この頃からドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し第2の人気を迎える。 | |||
1988年の大晦日、山中秀樹と共にニュース番組「デイトライン特別版」のキャスターを担当した。 | |||
1992年頃から数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。ただしドリフターズとしての出演や志村名義でのゴールデンタイムの番組はタイトルを変更しながらも継続されており、当時と比較するとやや低迷気味と解釈される部分があった。 | |||
1992.4月、TBS「KATO&KENテレビバスターズ」。 9月まで続く。 | |||
1993.10月、フジテレビ系「志村けんはいかがでしょう」。1995.9月まで続く。舞台コントを続けながらもクイズコーナーを設けるなどしてリニューアルを施す。しかし、視聴率低迷は免れず、放送日や番組名を変更するなど苦戦を強いられた。 | |||
1993年、個人事務所名義で、熱海の高台のリゾートマンションの1室を約3億円で購入する。 | |||
1995.10月、フジテレビ「志村けんのオレがナニしたのヨ?」。1996年3月まで続く。 | |||
1995、東村山市商工会が主催した東村山駅開業100周年記念イベントで司会を務めた。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、当時東村山市役所職員の兄の紹介で出演が実現した。 東村山市商工会ウェブサイトではタイトルロゴに「あい〜ん」と表記していたことがある。志村の小学校時代の同級生が先代の社長を務めた和菓子店「餅萬」では、先代社長時代より志村にちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」や「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」として販売している。 なお、長兄である志村知之は、東村山市職員として2017年4月まで勤務していた。知之は60歳の正規職員としての定年退職以降も臨時職員として70歳まで東村山市に奉職した。知之が退職日に渡部尚と握手している写真が掲載され、「志村けんそっくり」と話題になった。 |
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1996年、ゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で「志村〝X〟」、「志村〝XYZ〟」、「Shimura〝X〟天国」を2000年まで担当した。 | |||
1996.4月、フジテレビ系「けんちゃんのオーマイゴッド」。9月まで続く。 | |||
1996年9月頃ろ、「志村けん死亡説」の噂が日本中を駆け巡ったことがあった。パソコン通信などを通じて広まった。噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」、「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」、「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」、「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」、「四十九日が過ぎるまで遺族の意向でそのことが伏せられている」といったもっともらしい話がまことしやかにささやかれ、テレビ局や新聞社に問い合わせが殺到した。9.28日、栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。 最終的には事態を収束させるために本人自らワイドショーに出演。レポーターから「志村さん、死んでるんですか?」と問いかけられ、「生きてるよ」と笑って返している。母親ず心配して「大丈夫かい」と電話があり、「大丈夫かいって、いましゃべっているじゃないか」と返したと云う。 | |||
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものであった。 | |||
1998年前後あたりから、すでに大御所となっていたビートたけしや所ジョージと共演している。岡村によって知れ渡った“アイーン”の効果は絶大で、志村がひとたび披露すると、スタジオの共演者や観覧客は手をたたいて 爆笑した。 | |||
1998.12.30日、「21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜」後半部で、加藤と共に出演した。 | |||
1999.1.1日、朝日放送・テレビ朝日「志村&所の戦うお正月」。毎年1月1日午後放送。 | |||
1999.4.18日、テレビ朝日系バラエティ番組「神出鬼没タケシムケン」が毎週日曜 18:56 - 19:56 (JST) に放送され、2000年3月19日で打ち切られた。 | |||
1999年、「全員集合」の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた志村だったが、映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。 自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉の申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。 |
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「バカ殿様」や「変なおじさん」、「ひとみばあさん」などの個性的なキャラクターを生み出し、「カラスの勝手でしょ」、「アイーン」や「だっふんだ」などのギャグは世代を超えて親しまれてきた。長年にわたってテレビのタレントとして活躍する一方、平成18年からは自身が座長を務める舞台の公演を続けるなど精力的に活動していた。 | |||
『バカ殿』で共演していた東八郎に「東はいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。 | |||
2000年代になってから健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。ただし、トーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけていた。また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈していた。 2006年より自身のブログを更新していた。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えていた。2015年11月25日のブログでは、母・和子が11月23日に亡くなったことを明かした。 お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会であるTHE MANZAI2014では審査員として出演した。また、歌ネタ王決定戦でも第2回、第3回大会で審査員を務めた。 |
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2001年、「けん♀♂けん」名義で研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。 | |||
2001.12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。しかし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座をしたことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送った。 | |||
2002.4月、2001年、フジテレビ系「志村けんのバカ殿様」で女性アイドルグループ「ミニモニ」のメンバーである辻希美と共演したことをきっかけに持ちギャグの「アイーン!」を冠したシングル曲「アイ~ン体操/アイ~ン!ダンスの唄」をリリース。“アイーン”は、楽曲を通して国民的なギャグとして浸透していった。 | |||
2002.5.29日、放送された『わたしはあきらめない』で、1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。 | |||
2004.3.20日、ドリフターズの具ループリだーいかりや長介(ちょうすけ)氏が逝去(享年72歳)。 | |||
2004.4.15日、自身がMCを務める日本テレビ系バラエティー番組『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、チンパンジーや犬と触れ合ったり可愛がる姿が話題の人気番組となる。当初は木曜日午後7時台の放送だったが、2007年4月から土曜日午後7時台に枠移動した。“園長”も務めた。出演者は“飼育係”の相葉雅紀、“秘書”の山瀬まみ。他にタカアンドトシ、ハリセンボン、DAIGO、滝沢カレンら。 | |||
2004.12.7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事だった。似たような事件が2年前小出義雄宅でも起こっており、約500万円の現金が盗まれている。小出は「警察には被害届を出さない代わりに、その金を元手に商売するか、まっとうに仕事をしろ!」と犯人にアピールした。志村のコメントは小出のアピールを引用したものと思われる。 | |||
2005年、ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。 | |||
2006.4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。舞台「志村魂」はシリーズ化し幼児から大人まで幅広い層に分かりやすい形で爆笑を生むスタイルを貫いた。 | |||
2007.1.7日、志村がレギュラー出演していた関西テレビ制作の「発掘!あるある大事典2」で、納豆のダイエット効果をねつ造したデータで仕立てる事件が起こった。1.23日、志村が、自分の公式ホームページで「残念です。裏切られた感じ」と記した。出演者が問題についてコメントするのは初めて。同局はこの日、千種宗一郎社長(62)ら役員の報酬カットなどの処分と、同番組打ち切りを正式に発表した。 | |||
2006年、本人肝いりの舞台「志村魂」を始めた。昭和の喜劇王・藤山寛美が演じた松竹新喜劇の名作喜劇に挑んでいる。 | |||
2007.6月、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。 | |||
2007年、フジテレビ、年に数回放送「志村けんのだいじょうぶだぁ」。本名の「志村康徳」名義で構成も担当している。 | |||
2008.5-7月、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。 | |||
2009.7月、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。 | |||
2010.7-8月、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。 | |||
2011.3.11日、三陸巨大震災が発生。その後の志村が次のように証言されている。
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2011.7月、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。 | |||
2012.3月、加藤が前年に入籍した妻との結婚式と披露宴を行った。高木と仲本が出席したが、志村はテレビ番組の収録を理由に欠席してビデオメッセージで済ませたため、一部のマスコミより加藤との不仲説が指摘された。 | |||
2012.6-7月、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。 | |||
2012.10.27日、志村が決める2代目変なおじさん決定戦として、変‐1グランプリが「めちゃ²イケてるッ!」で放送されている。 | |||
2014.6.3日、東京都港区の三陸鉄道開業30周年記念企画展のオープン記念イベントに登場。 | |||
2014年、NHK総合「となりのシムラ」(2016年12月まで全6回)をスタートさせ、メイクやカツラは一切なしのコントに挑んだ。日常を生きるおじさんの滑稽さと切なさを表現した“あるあるネタ”で構成されており、志村には珍しく等身大のキャラクターを演じた。 | |||
2015.7月、NHK総合「スタジオパークからこんにちは」に出演した志村は、「となりのシムラ」で共演した西田敏行について「いつも会ってる人だと『あ、だいたいこうくるだろうな』って思ってるけど、『そっちからくるのか!』とかっていうのはね(ほとんどない)。非常に緊張するし、また楽しい」と語っている。このあたりで、「俳優と演じる」ことの面白さを再確認していたのかもしれない。 | |||
2015.11月、NHK Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」の中で、テクノポップユニット・Perfumeと共演した志村が「理想の喜劇役者」について次のように語っている。
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2015.11.23日、「一番のファン」だった実母が老衰のため死去(享年96歳)。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。 一方、母・和子は踊りや芸事が好きで、自分は母の性格を受け継いだのかもしれないと志村自身は語っている。和子は、志村がドリフの付き人として修業を始めた時から常に志村を応援し続け、晩年まで「志村けんの一番のファン」であることを公言しており、『バカ殿』のコントでは志村と共演するなど、自らテレビに出演することもあったが、2015年11月23日に96歳で亡くなった。当時、志村も自身のブログにおいて、「私の1番のファンの母親が亡くなりました」と公式に語った。 | |||
2016.1月、「ダウンタウンなう」(フジテレビ系)に出演した際、こうコメントしていた。「俺の頭こうやって殴るの今、浜ちゃんだけだもんな」。 | |||
2017年、『志村けんのだいじょうぶだぁ』で12年ぶりのドリフ再集結を果たし、『寝台車』など往年のコントが復活したが、再集結を呼びかけたのは志村である。そのきっかけについて、志村は「セットでコントをやる人が少なくなってきているので、実際にドリフはこういうことをやっていたというのを再確認して貰おうと思って集まって貰いました」と述べている。 | |||
2018.10月、フジテレビ「志村でナイト」開始。 | |||
2020.1月、同年3月放送開始のNHKの連続テレビ小説「エール」でテレビドラマに初出演することが報じられ、では日本を代表する作曲家の山田耕筰をモデルとする役で、去年の12月からこれまでに4回の収録にのぞみ、直近の収録は3月6日でした。次回は来月10日に収録に4月のぞむ予定だった。収録が終わったシーンは予定どおり放送されることになっていて、志村が最初にドラマに登場するのはことし4月27日放送分から。初のドラマ出演とあって、大きな話題を呼んだ。 | |||
3.30日、NHK連続テレビ小説『エール』の放映が始まる。役で出演することになっていて、 | |||
ことし12月に公開予定の山田洋次監督の松竹100周年記念映画「キネマの神様」(原作は原田マハによる同名小説)で初めて主演を務めることになっていて来月から撮影が始まる予定でした。 「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される映画「キネマの神様」にて俳優である菅田将暉とダブル主演を務めることが告知され、約20年ぶりに映画出演を果たす予定となっていた。 | |||
このほか新型コロナウイルスの影響で延期されたこの夏の東京オリンピック・パラリンピックでは聖火ランナーに選ばれ、ことし7月に都内を走る予定だった。 | |||
【映画】鉄道員 【舞台】志村魂 【著書】志村流遊び術 【アテレコ・アニメ】妖怪ウォッチ・誕生の秘密だニャン! | |||
朝日新聞のインタビューではかつて、こう答えていた。
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【志村けんの音楽通】 |
ソウル・ミュージック、ファンク、ジャズなど、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数のレコードやCDのコレクションがある。「ヒゲダンス」で使用されたBGMがテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のリフをループしたものであったり、「ドリフの早口ことば」が当時、渡辺音楽出版が発売権を買い付けたシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の印象に、ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」のバックトラックをはめ込んだものだったりしたが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。更に志村加入後に発売されたドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」では、志村によるソウルフルな合いの手も聞かれる。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。 ドリフにおける担当はギター(初期はキーボード)。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られるが、高木ブーは「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している。番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて三味線を弾いたり、コントで霊媒師を演じた時には琵琶でギターのテクニックの一つであるチョーキングを披露するなど、バンドマンとしての技能が見られた。 なお、『志村けんの全員集合 東村山音頭』はザ・ドリフターズ名義の曲として、唯一加藤以外がソロボーカルとなる曲である。 中学以来のビートルズファン。このためか、中学時代に畑でバンドをやっていたという(兄談)。ビートルズの日本公演を観に行った際、持参したカメラで1枚のみ隠し撮りをしており、その写真をパネル化してテレビ番組で公開したことがある。その写真ではジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、1966年7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、公式には一切収録されていない。 津軽三味線を趣味としており、上妻宏光の指導を受けて短期間で上達、舞台(『志村魂』など)の後半で度々披露していた。きっかけは、上妻の楽曲「紙の舞」を聴いて感銘を受けた志村が、その曲が弾けるようになりたいと上妻に指導を頼み込んだことにある。当初、上妻は「紙の舞」は非常に高度な技術が要求されるため、志村には基礎的なじょんから節から教えようと思っていたにもかかわらず、予想を超えるスピードで志村が「紙の舞」を習得してしまったという逸話がある。志村は、この上妻の楽曲「紙の舞」を舞台で度々演奏した。 |
【げそ太郎氏の志村けん人物批評証言】 |
2020.4.11日、「文春オンライン」特集班 /Webオリジナル(特集班)「「お前、ナメてんのか!」志村けんがファミレスで激怒した「忘れられないあの事件」愛弟子が初告白」。 |
2020/05/12 、「志村けんさん 兄語る『エール』への熱意「自宅でも台本を…」」。( 「女性自身」2020年5月26日号 掲載)
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2020/08/20 、(女性自身)「志村けんさん「泥酔しても…」“師匠”が明かす芸道への執念 」。(「女性自身」2020年9月1日号 掲載 )
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2020/08/25 、(女性自身)「“師匠”から見た志村けんさん「もの悲しさを好んだ人」」。
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(私論.私見)