ドリフターズ、クレージーキャッツ考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「志村けんの死の経緯考」をものしておく。「ウィキペディア志村けん」その他を参照する。

 2011.03.21日 れんだいこ拝



【】
 「ドリフターズ」は、1957年に結成された。「ハナ肇とクレージーキャッツ」を始めとする黎明期のマルチコミックバンドの1つである。1969年までのミュージシャン期、1970年以降のコメディアン期の双方で大きく活躍し、特に後者の活動によって昭和の芸能史に揺るぎない一時代を築いた。

 いかりやを始めとして荒井までのメンバーの芸名は、先輩であったクレージーキャッツのハナ肇が名付け親だといわれている。特に加藤・仲本・荒井は「芸事を水に例えた」事で「茶」「(水道)工事」「注(部首がさんずい(氵)・要注意人物の意味もあるという)」とされたが、高木だけは何故か太っていたから「ブー」になったという。 志村は自身の父の名前から自ら付けたらしく、すわはいかりやによる命名だという。

 かつては岸部清桜井輝夫坂本九小野ヤスシなどが在籍していたが、加入と脱退の激しいバンドグループであり、1962年にいかりや長介と加藤茶が加入して現在に続くドリフターズの産声を上げる。 1964年にいかりやがバンドリーダーへ昇格すると、同年9月に高木ブーと荒井注が、翌年1月には仲本工事が加入して現在のドリフターズメンバーの基礎が確立される。荒井曰く「音楽喫茶全盛期には『ジャズ喫茶の帝王』の異名を持っていた」とされるほどの人気を誇り、1966年6月のビートルズ来日公演における前座を内田裕也尾藤イサオなどと共に務めた。 この頃から徐々に「コントも出来るコミックバンド」から「コント主体のコメディアングループ」に方向性を変え、音楽活動よりも映画やテレビなどへのメディア出演に比重を置いてクレージーキャッツを追い抜く人気者となり、1969年に放送を開始した『8時だョ!全員集合』(以下、全員集合)主演を契機にコメディアンとしての人気を不動のものとする。

 1974年3月に迎えた荒井の降板に伴う志村けんの正規メンバー入りによって一時は陰りを見せたが、いかりやと志村それぞれの作詞、作曲を取り入れた『東村山音頭』で爆発的な人気を博すとを矢継ぎ早にヒットギャグを連発するようになり、従来の大ボケ役であった加藤と『加トケン』の図式を生み出してさらなる人気を集めた。

 1977年からは、全員集合のテイストを残しつつスタジオ収録形式による一味違ったバラエティー番組ドリフ大爆笑』(以下、大爆笑)を開始し、異なる放送局で巨大な冠番組を掛け持ちする絶頂期を迎えた。

 1981年に入ると「同じコントグループとしてコント55号を追い抜く」という目標を実現してみせたドリフターズ同様の目的でビートたけし明石家さんま島田紳助など当時のニューウェーブが結集した『オレたちひょうきん族』の放送が始まり、業界史上最大の視聴率抗争『土8戦争』の幕が切って落とされた。

 ところが、この時点で志村を除く4人の平均年齢が40代中盤となっていた事に加え、番組での不謹慎な表現内容に対する抗議やメンバーの不祥事が続き、さらには笑いの流れの変化に対応しきれなくなり、1985年に「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」のコメントを発表して同年9月に全員集合を終了し、以降はドリフターズとしての活動を大爆笑にのみ絞りつつ、いかりやは俳優、高木はハワイアンミュージシャン、仲本は演劇役者、加藤と志村はコメディタレントとしてそれぞれの道を歩むようになる。

 なお、加藤と志村の売り出しを強力に後押ししたTBSは、半年後の1986年1月から全員集合の放送枠を受け継ぐ形で『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始し、諸般の事情による1989年のひょうきん族打ち切り決定で土8戦争覇者への返り咲き、もっと言えば「全員集合に引導を渡したひょうきん族にドリフターズの後番組が引導を渡す」という大逆転劇を成し遂げた。

 1980年代後半になると、しばらく途絶えていた音楽活動に再び向き合うようになり、志村が『ウンジャラゲ』のカバー、加藤が『ミヨちゃん』のラップアレンジや『Scatman』のカバーを手掛け、1990年には加藤、高木、仲本がオールディーズナンバーを中心としたトリオバンド『こぶ茶バンド』を結成、1996年にはいかりやがキリンビールのCMでコントラバスによるベース演奏を披露して一世を風靡した。

 5人ドリフとしては晩年にあたる1990年代~2000年代はメンバー間の溝が深刻化していたと言われており、揃う機会が大幅に減った。それでも大爆笑で新作コントをお茶の間に届ける、フジカラーのCMで七福神として出演した際は、活動休止扱いのメンバーである荒井注を含めて登場する(荒井は間もなく逝去)、最初で最後の紅白出演など、大きなイベントが続いた。しかし2000年代になるといかりやの健康問題から、5人揃った活動は2003年に結成40周年を記念して撮り直しを行った「ドリフ大爆笑のOP」が最後となった。その翌年の始めにいかりやは逝去、これによりドリフターズの活動は大きく縮小する。

 メンバー一覧
 いかりや長介
本名 碇矢長一(いかりや ちょういち)
生年月日 1931年11月1日
出身地 東京都
身長 175cm
体重 不明
血液型 A
担当 ベース

 戦前生まれでは珍しい175cmの長身、大きな唇とシワの多いゴリラのような顔、負担をかけすぎた声帯によるダミ声が特徴。 コントでは憎まれ役や災難に遭う役を主体とし、「綿密な台本を用意して徹底的な稽古を行った上での完璧なコント」をこそ良しとする信念で舞台に臨んだ反面、それとは真反対の暴力的なツッコミや強引なアドリブで観客の笑いを取る加藤と志村の手法を快く思わないながらも許容する一面も持っており、傑作コントの1つとされる『威勢の良い銭湯』が代表例に挙げられる。加藤曰く、実際は「長さんは台詞の覚えが悪く、長さんに覚え込ませるために何度もリハーサルしていた」とのこと。

 グループ内ではギャラ配分のせいで最もメンバーからの反感を買っていた人間でもあった。とはいえいかりや自身のドリフへの思いは熱く、最後の仕事となったドリフ大爆笑のOPも、病み上がりで不調(本人は知らなかったが余命宣告までされていた)ながらも自ら進言して撮り直しを決行、撮影当時はいつものピリピリムードはなく、和やかな雰囲気で参加していた。この時、志村がアドリブで前にいたチアガールの背中を突き飛ばしたが、それをいかりやが穏やかに見守っている姿が残っている。
ドリフ自身は子供の教育に悪いと非難され続けたが、いかりや自身は客を相手にする時は必ず丁寧な口調で視聴者に語りかけていた。ドリフ大爆笑における司会は正にそれである。

 ドリフターズ映画時代から俳優としての片鱗を見せており、晩年には『踊る大捜査線』『八丁堀捕物ばなし』『弁護士・猪狩文助』などで軽妙な演技を披露するバイプレイヤーとして活躍した。実は吹き替え声優の経験もあり、実写版ポパイを吹き替えたことがある。

 2004年3月15日、頚部リンパ節がんに起因する転移がんにより病没。享年72。
 加藤茶
本名 加藤英文(かとう ひでゆき)
生年月日 1943年3月1日
出身地 福島県
身長 163cm
体重 60kg
血液型 A
担当 ドラム・ヴォーカル
※古い資料ではAB型とされているが、後の血液検査でA型と判明

 コミックバンド時代からボケ役を演じる一方、卓越したジャズドラムの腕前で音楽活動におけるドリフターズの中核を担い、喉の良さから代表曲の大半でソロヴォーカルやメインヴォーカルを務め、整った顔立ちも相まってメンバーの中ではアイドルの立ち位置でドリフターズ映画作品での二枚目役を数多く演じた。

 志村加入以前の大ボケをほぼ一手に担い、「加トちゃんペッ!」「どうもすんづれいしました。」「ちょっとだけよ。アンタも好きねぇ~」や擬似くしゃみの「へっくしっ!」、吐き真似の「うぅえぇえ…」、歌舞伎ネタ(『楼門五三桐』の石川五右衛門、『道行初音旅』の佐藤忠信)など様々なヒットギャグを持ち、特にサイレントコントによる酔っぱらいの千鳥足については志村の演技に大きな影響を与えている。

 いかりやに多く反発していたのは加藤だったという。理由は「長さんが台詞を覚えないうえに、自分とは笑いの流れが違ったから(突っ込んで欲しい時に突っ込んでくれないなど、逆に志村はほしい時に突っ込んでくれると評価している)とのこと。とはいえ、台詞覚えが悪いのは加藤も多少は似たりよったりな部分がある(コント途中で台詞が抜けている部分が見られる)。 実は現在まで我々がよく知るドリフそのものと行く末がもしかしたら変わっていたかもしれない鍵となった人物でもある。それは後述の「荒井注の脱退」の頃に実は加藤も荒井と一緒にドリフ脱退を企てていたという。ただし、荒井の方が先にいかりやに申し入れてしまった事でタイミングが狂い抜けようが無くなってしまってそのままになったとされる。もしも加藤が去っていたら志村の才能の開花を経て名コンビによる掛け合いやヒゲダンスさらには「加トちゃんケンちゃん」も無かったかもしれないのである。 しかし大爆笑が中心になり、会う機会が減ったためわだかまりも少しは溶けたのか、40周年のOPの際は病気療養から復帰したいかりやへ積極的に話しかけている姿が見られる。
 高木ブー
本名 高木友之助(たかぎ とものすけ)
生年月日 1933年3月8日
出身地 東京都
身長 160cm
体重 不明
血液型 O
担当 リードギター→キーボード

 20代の頃から全く変わっていないとされている肥満体が特徴。大学在学中にはすでにウクレレ奏者で名を馳せ、プロミュージシャンとなってからもエレキギターやバンジョーをこなすバンドマンとして様々なバンドを渡り歩いていた所、欠員となったピアニストを探していたいかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入する。

 一部のコントを除いて必要以上にボケ役に回らないスタンスを保ち続けたため、「コメディアンでありながら笑いを狙わない=無能」のイメージを浸透させ、後にこれを無力な失恋男の揶揄に置き換えた『高木ブー伝説』(『筋肉少女帯』)が生まれるきっかけとなったものの、いかりやは晩年の自著『だめだこりゃ いかりや長介自伝』の中で「ドリフの中では最も音楽性が高い」「自分の方から高木をやめさせようと思ったことは一度もない」と綴って厚い信頼を寄せている。

 事実、高木ブー中心のセリフ付きコントでは高い演技力を見せている。また、喋らないながらも存在感を見せる役としてはしばしば活用されており、登場した際の存在感も目覚ましい。また、一円に執着する男を演じた「一円コントシリーズ」は必見である。その為、他のメンバーには無い独特の個性と存在感が彼の持ち味と言える。

 健康面では長年の不摂生から様々な症状に悩まされ、医者から痩せろと言われるほどだった。よって80を越えた現在では往年と比較して明らかに痩せてきている。また、ドリフターズでは現在最年長ながら、インターネットなど新しい文化への関心が最も強い御人であり、Instagramでは私生活、仕事、バンド、そして往年の写真などを公開している。
 仲本工事
本名 仲本興喜(なかもと こうき)
生年月日 1941年7月5日
出身地 東京都
身長 160cm
体重 66kg
血液型 A
担当 サイドギター(R&Rナンバー限定でリードギター・ヴォーカル)

 厚い黒縁の伊達眼鏡が特徴。高校在学時は文武両道の秀才であり、大学卒業後に東京商工会議所への就職が内定していたが、いかりやが仲本の両親を必死に説得した末にギタリストとして加入した経歴を持つ。

 コントでは器械体操の経験を活かしたアクロバティックな、サイレントコントやリアクションギャグを得意とする。秀才だったことを活かしてインテリの役も多くこなしていたが、その一方で生意気な子供の役も印象深いと言えるだろう。 ビートルズ来日公演の前座で『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)のセンターを務めるなど音楽面においても確かな実績を併せ持つ。

 ドリフとしての活動が落ち着いてからは俳優としての活動も盛んに行うようになっている。私生活では居酒屋も経営している。
 志村けん
本名 志村康徳(しむら やすのり)
生年月日 1950年2月20日
出身地 東京都
身長 166cm
体重 65kg
血液型 A
担当 サイドギター→キーボード

 幼少の頃からコメディアンへの憧憬を抱き、高校3年生の卒業間近にいかりやに弟子入りを直談判してボーヤ(ローディー=雑用係)となる。しばらくして加藤の付き人になるも程無く失踪し、様々なアルバイトを転々とした末、加藤にいかりやへの口添えを頼み込んで「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と快く復帰を許され、内弟子の形で加藤の付き人兼居候として再出発する。

 お笑いコンビ『マックボンボン』の結成するが一発屋レベルの活躍で消滅、その後は付き人への再降格、荒井の休業宣言に伴うメンバー見習い昇格と降板後の正規メンバー入り、2年に渡るスランプを経て前述の『東村山音頭』で一躍人気者となると「アーミーマー、ユーヤーユー!」「お前、それはないだろう。」「あんだってぇ?」「怒っちゃやーよ!」(後の「アイーン」)や加藤との共演による「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」」「ヒゲダンス」など様々なヒットギャグを量産し、コメディアン活動におけるドリフターズの中核を担うようになる。

 近年では大規模な舞台美術を用いたコントが廃れ行く風潮に対して先頭に立って警鐘を鳴らし、これまで培った技術と経験を次世代に伝承するべく全員集合や大爆笑時代のコントを再構成して自身の番組で積極的に演じている。ドリフメンバーが志村と加藤を並べて語る時「加藤は天才、志村は秀才」と評価されるほど、大御所となり晩年になってもなおもお笑いの研究に余念がなかった。

 2020年3月29日、新型コロナによる肺炎のため永眠。享年70。
 過去のメンバー

 荒井注

本名 荒井安雄(あらい やすお)
生年月日 1928年7月30日
出身地 東京都
身長 158cm
体重 不明
血液型 不明
担当 ピアノ・キーボード
※血液型はA型説とAB型説があるが、資料の信憑性に乏しく真相は不明

 いかりやのスカウトを受けてドリフターズに加入し、自身の丸い頭の薄さを逆手に取った「This is a pen!」で脚光を浴び、想像よりもピアノの演奏技術が低かった事実を加藤が指摘したことで生まれた「なんだバカヤロー。」「なに見てんだよ。」「文句あるか。」などに見られるふてぶてしさを全面に押し出したキャラクターで人気を博したが、体力の限界を理由に1974年3月に志村と交代する形で休業(事実上の脱退)する。だが、実際の理由はやはり方向性の違いや俳優業に転身したかった説が濃厚とされている。実際に荒井は脱退後に俳優業に転身していた。その為、荒井がドリフターズのメンバーだった事を全く知らない世代も多い。

 6人体制で稼働していたのは荒井の休業宣言発表から降板までの約3ヶ月間だった。ちなみに先の通り休業扱いであり、コントでは「永久追放」とネタにされたものの、一応ドリフ6人目の男として扱われる時がある。ちなみにあまり知られていないが、ドリフ脱退後もしばしば全員集合にゲスト出演しており、最終回にも参加した(クレジット上はゲストなのでドリフターズとしてではない)。ドリフ大爆笑でも散発的にゲストとして登場しているため、6人体制のドリフターズはその後もしばしば見られた光景である。

 以後はコメディアンや俳優として様々な映像作品で活動。2000年にはドリフのメンバーとして富士フイルムのCM『2000年だョ!七福神』(いかりや:寿老人、加藤:福禄寿、高木:布袋、仲本:恵比寿、志村:大黒天、荒井:毘沙門天田中麗奈弁財天)に参加。しかしすでに持病の糖尿病に起因する重度の肝硬変および腹水で苦しむ深刻な状態にあり、奇しくもこれが生涯最後の仕事となった。

 同年2月9日、慢性肝不全により病没。享年71。実は年齢を少しごまかしており、本当はいかりやや高木よりも年上であった。
 すわしんじ(現・すわ親治)
本名 諏訪園親治(すわぞの ちかはる)
生年月日 1952年11月14日
出身地 鹿児島県
身長 167cm
体重 69kg
血液型 A
担当 サイドギター・ドラム

 ドリフターズに憧れて付き人募集の面接に臨んで不合格となるも、必死の思いで食い下がって加藤の運転手として採用される。後に付き人を経て正式にいかりやに弟子入りし、音楽活動としては得意のアコースティックギターと加藤のドラム代行、コメディアン活動では出世作となった「奇声を上げて暴れ回るブルース・リー」や「」などで準メンバー『ドリフ第6の男』として活躍したが、正規メンバー昇格を先送りにされ続けるうちに全員集合が終了した1985年に脱退する。 この事もあって荒井同様に彼を知らない世代も多い。

 サラリーマン勤務をしていた頃に「手押し車とのソシアルダンス」「スコップギター」(スコップをエレキギターに見立てたハードロックギタリストの形態模写)を編み出して芸能界に復帰し、芸名を『すわ親治』に改めた1987年頃からソロ活動を始め、兄弟子である志村の冠番組やメンバー昇格の約束を果たせずに才能を惜しんだ師匠のいかりやの公演などへのゲスト出演をこなすようになる。

 メンバーの中でも抜群の歌唱力を持ち、ギターの腕前を活かした「怪しい流し」(歌謡曲の歌詞に強烈な下ネタやブラックジョークを挟む)は志村のお気に入りであり、コミックミュージシャンとしての才能を高く評価している。また、形態模写という観点に限れば、日本でエアギターが認知された2004年よりも遥か前に持ち芸としてエアギターを完成させている。

 各メンバーの没後

 2004年3月のいかりや逝去後も人気は衰えず、特選映像を収録したDVDシリーズの他、正規メンバー(いかりや、加藤、高木、仲本、志村)をモチーフとした『CR フィーバードリフ外伝 ドリフだよ!全員集合』(SANKYO)や、ケーズデンキのCM、またメンバーをオマージュした外国人5人組『ウリフターズ』(アンカー、ブラウン、ジェイコブ、マット、ケント)のCMで話題を呼んだ。

 いかりや逝去後、『4代目リーダー継承問題』が有耶無耶のままとなっている。「社会的な年功序列から高木とするか、実質的な活動年数から加藤とするか」で別れているが、これを理由に対立が起きているわけではない。なお、声高にリーダーを自称しているのは高木である。

 2020年3月に入り、17日に志村が倦怠感を覚えて自宅療養していたが、20日に発熱と呼吸困難で体調悪化し翌日に入院した事で新型コロナウイルス(COVID-19)の陽性反応が診断され罹患した事が判明した。そして29日の23時過ぎにコロナ肺炎によって帰らぬ人となった。翌日午前に発表された速報は世間に衝撃と悲しみを与え、加藤は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎い」仲本は「長さんの次に一番歳下の志村が逝くのは悔しい」高木は「志村早いよ、俺より先に逝くなんて」と無念のコメントを公式サイトに掲示した。舵取り役のリーダーとメンバー最年少のエースを喪ったことにより、ドリフターズは「こぶ茶」の三人のみとなる。


【メンバー間の不仲について】
 ドリフを語るうえで欠かせないのは不仲説である。いかりやの生前は表立ってこれに触れる機会はなく、都市伝説レベルの話題が多かった。しかし逝去からしばらく経った後は「死んでからありがたみがわかった」という前置きありきで、よくコメディの方向性の違いから対立していたことを明かしている。 一方、いかりや長介の長男は多くの不仲説を否定しており、いかりや自身も死去の直前にメンバーのことを思った行動を起こしたり、先に旅立った荒井注とCMで共演した際は包容を交わすなど、少なくともいかりや単独ではドリフターズというグループを大切にしていたことが伺える。

 ちなみに対立の理由としてよくあげられていたのは、ギャラの配分や笑いの方向性の違いなど。特にギャラについてはいかりやだけ多く取っていたことから、メンバーの反感を買いまくっていたのは有名な話。ただしこの話には続きがあり「その代わり経費はいかりやがほぼ全て出していたため、多少の差はあれいかりやもそこまで収入は変わらなかった」という側面もあるという。

 なお、先の通りこの不仲説をドリフはよくネタにしており、これを題材にしたコントも多数ある。体を張って笑いを取る際は「私怨でいかりやにキツく当たってはいないか?」となることもしばしばだった。このように自身らの痛い所や不祥事を逆に笑いのネタにしてしまう芸風であり、つくづくなんでも笑いに変えてしまう方向の集団であった。

 志村けんはいかりやの逝去後、ドリフに関係ないコント番組において加藤茶と共演すると、しばしばいかりやとの不仲説を逆手に取ったネタで笑いを取っている(「いかりやの葬儀で香典を安く済ませた」など)。後に金スマで師であるいかりやの思いを知った際は、「自分の師匠としては間違いなかった」と目を潤ませながら語っている。

 逝去後のメンバーの関係もやや歪ながら、それぞれが深く対立しているわけではない。特に高木が中心となって、加藤、仲本の二人とバンド、CM、インターネット生放送でしばしば共演している。

 志村だけはドリフ絡みの集まりに積極的でないが、加藤との共演は多い。また、自身の新感覚コント番組で急遽追加キャストを欲した時には高木にオファーを取ったり、「ドリフのようなコントを改めてやりたいから」という理由で志村から全員集合を呼びかけるなど、それぞれ目指す方向性にややズレこそあるが、目立った対立があるわけではない。仲本との間に不和が生じているという記事もあるが、仲本は2018年のインタビューでも志村のことを高く評価している。

【ハナ肇とクレージーキャッツ】
 野村ハナ肇とクレージーキャッツのすすめ」参照。
 クレージーキャッツ(略称:クレージー)は1955年に結成された。戦後日本で起こったジャズ・ブームの中で生まれた。クレージーのバンドとしての特徴は「笑い」にある。1950年代も後半に入るとジャズ人気にも陰りが見えはじめ、ロカビリーなど別の音楽が好まれるようになる。そんな中でクレージーは普通のジャズ演奏だけでなく、「笑い」を取り入れた演奏をすることで注目を集めた。1959年に初のレギュラー番組「おとなの漫画」(フジテレビ)が始まり、これは時事問題をコントにするという番組で、クレージーの音楽の部分でなく笑いの部分が求められてのキャスティングだった。その後も、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)、「植木等ショー」(TBS)などコントを中心としたバラエティで人気を集めていった。しかし、その本質はジャズ・バンドであり、各メンバーも俳優やタレントとして活躍する傍ら最晩年まで音楽活動を続けた。

 バンドリーダーはハナ肇。当時は、「原信夫とシャープス&フラッツ/1951年結成」、「小野満とスイングビーバーズ/1956年結成」など「(リーダー名)と(バンド名)」という名付けがよくされていた。結成当初はクレージーキャッツという名前ではなく、「キューバン・キャッツ」という名前で活動していた。これが、なぜ「クレージー」(気が狂った)になったかというと、結成当初に進駐軍キャンプで演奏した際、洗面器で頭をたたくギャグが米兵に受けて「You CRAZY!!」と言われたからだという。改名した時期は、「1955年10月」〔佐藤、2010〕、「1957年3月から6月のいつか」〔小林、2005〕、「谷啓が入ってきて(1956年)、本格的にギャグをやるようになってきた頃」〔犬塚・佐藤、2013〕など諸説ある。1956年以降とみるのが妥当。なお、この「クレージー」の表記は、レコードでは表記が「クレイジー」に統一されている。映画・テレビは「クレージー」。「クレージーキャッツ」〔谷、1989〕、「クレージー・キャッツ」〔谷、1995〕、「クレイジー・キャッツ」〔犬塚・佐藤、2013〕など多様な表記が混在している。ちなみに、所属事務所であるワタナベエンターテインメントの、谷啓の紹介ページによれば、中黒なしの「クレイジーキャッツ」となっている。クレージー結成10周年記念として作られた映画「大冒険」(1965年、東宝)のタイトルクレジットでは「クレージィキャッツ」となっている。

 クレージーキャッツの結成当初のメンバーは、以下の7人〔犬塚・佐藤、2013〕。ハナ肇(ドラムス)、犬塚弘(ベース)、萩原哲晶(クラリネット)、橋本光雄(ピアノ)、柴田昌彦(テナーサックス)、南晴子(ボーカル)、筑波礼子(ボーカル)。ここから、「クレージーキャッツ」に名前が変わるまでにハナ・犬塚を除くメンバーが入れ替わり、1957年9月までに、以下の6人に固まりった。

 ハナ肇(1930-1993)

 リーダーでドラムス。本名、野々山定夫。「萩原哲晶とデューク・オクテット」などを経て、1955年にキューバン・キャッツを結成します。メンバーの中でいち早く「足にさわった女」(1960年、大映)で映画に主演するなど、俳優としての評価も高く、数多くの賞を受賞している。とりわけ、「男はつらいよ」で渥美清と組む前の山田洋次監督とは、「馬鹿まるだし」(1964年、松竹)から「喜劇 一発大必勝」(1969年、松竹)まで名コンビを組んでいた。バラエティ番組でも活躍し、「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」(日本テレビ)ではヒッピー姿で叫ぶ「アッと驚くタメゴロー」という言葉が大ヒットしました。このヒットを受けて、そのまま「アッと驚く為五郎」(作詞:河野洋、作曲:宮川泰)というタイトルの曲が発売されたほか、「男一番!タメゴロー」(東映・NETテレビ)というテレビドラマが製作、さらには、「アッと驚く為五郎」(1970年、松竹)をはじめとする「為五郎シリーズ」という映画シリーズ(全5作)まで出来てしまいます。また、「ゲバゲバ90分」でできたもう一つのヒットフレーズ「あんたかてアホやろ、わいかてアホや」という言葉は、当時朝日新聞朝刊に連載されていた「サザエさん」(長谷川町子)でも取り上げられた。1985年には谷啓(トロンボーン)、稲垣次郎(テナーサックス)、宮川泰(ピアノ)らを集めて「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」というバンドを結成し、音楽活動を再開させまたが、1993年、肝臓ガンで亡くなった(享年63歳)。死去の数週間前に、「徹子の部屋」(テレビ朝日)の撮影をしており、「はやく放送になるといいな」と楽しみにしていたが、残念なことに亡くなった次の日が放送日で、お悔やみのテロップを入れて放送された、というエピソードが残されている。

 植木等(1926-2007)

 ボーカル・ギター。名古屋市の出身で、後に「名古屋嫁入り物語」(東海テレビ)という名古屋が舞台のドラマシリーズに主演している。クレージーのなかでは、一番の人気と知名度を誇っていた。「萩原哲晶とデューク・オクテット」、「植木等とニュー・サウンズ」、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」などを経て、1957年に「クレージーキャッツ」に参加する。1961年に発売した「スーダラ節」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)が大ヒットし、以後「無責任一代男」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)、「ホンダラ行進曲」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)など発表したコミックソングは軒並みヒットしていく。テレビでも、「シャボン玉ホリデー」で生まれた「お呼びでない?」というギャグが流行し、映画の世界では、初主演作「ニッポン無責任時代」(1962年、東宝)が大ヒット。「無責任男」として国民的なスターになる。ところが、本人は真面目な性格で、当初は非常に悩んだと云う。後年は、黒澤明監督の「乱」(1985年、東宝)や木下惠介監督の「新・喜びも悲しみも幾年月」(1986年、松竹)、大林宣彦監督の「あした」(1995年、東宝)など演技派俳優として数々の作品で重用されるようになる。

 俳優としての地位を確立した1990年、過去のヒット曲メドレー、「スーダラ伝説」(編曲:宮川泰)を発表し、ミュージシャンとしても再び人気を集めることになった。この年に出演した紅白歌合戦では、その回の最高視聴率を叩き出したそうです。晩年は肺気腫を患っており、2007年、肺気腫による呼吸不全で亡くなった(享年80歳)。

 谷啓(1932-2010)

 トロンボーン。本名、渡部泰雄。コメディアン、ダニー・ケイのファンだったから芸名を「谷啓」にしたということからもわかるように、メンバーのなかで唯一、最初からコメディアン志望でした。クレージーキャッツの音楽コントの脚本はほとんど谷啓が考えていたそうです。「原信夫とシャープス&フラッツ」「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」などを経て1956年に「キューバン・キャッツ」に参加。トロンボーン奏者としての評価は高く、「スウィング・ジャーナル」誌の人気投票では上位にランクインされていたそうです。1975年には自身のバンド「谷啓とザ・スーパーマーケット」を結成、更に1985年には「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」にも参加をしました。この他、俳優や声優としても活躍し、有名なところでは、「釣りバカ日誌」シリーズ(松竹)の佐々木課長(のち、次長)役や、テレビドラマ「おみやさん」(テレビ朝日)の七尾署長役、アニメ「スヌーピーとチャーリーブラウン」(NHK、のち東京12チャンネル)のチャーリーブラウン役などがあります。

 谷啓を代表するギャグが「ガチョーン」。「素敵なデイト」(日本テレビ)で初めて使われ広く流行した。このほか、「ビローン」や「ハラホロヒレハレ」といった擬音のようなギャグを得意としていた。60歳を過ぎても、「笑う犬の冒険」(フジテレビ)や「美の壺」(NHK教育)などバラエティ・教養番組に出演を続けた。こうした功績から、2010年に「したまちコメディ映画祭」の「コメディ栄誉賞」を受賞することが決まっていた矢先に私邸の階段から転落したことによる脳挫傷で急逝した(享年78歳)。

 犬塚弘(1929- )

 ベース。「キューバン・キャッツ」時代からの最古参メンバーであると同時に、クレージーキャッツ最後のメンバーでもあります。俳優として「素敵な今晩わ」(1965年、松竹)や「ほんだら剣法」(1966年、大映)など主演作も撮られる一方、山田洋次監督の作品に度々脇役として出演しています。近年でも、「少年メリケンサック」(2009年、東映)や「ツレがうつになりまして。」(2011年、東映)など話題作に出演するなど、80歳を過ぎても精力的に活動している。

 大柄で手足が長く、クレージーキャッツのステージで横並びになると、たいてい小柄な桜井センリの隣に立つのでその大きさが際立った。渥美清は犬塚のことを「長い手足を動かしてると昆虫みたい〔小林、2003〕」と評している。

 安田伸(1932-1996)

 テナーサックス・クラリネット。本名、安田秀峰。「フォー・デバーズ」「ザ・ファイブ」などを経て1957年に「クレージーキャッツ」に参加。東京藝術大学の出身で、作曲家としての作品も数多く残している。後年も、自身のバンド「シーラカンス」を結成するなど、最後まで音楽家として活躍していた。クレージーキャッツのステージでは、ブリッジをしながらサックスをかきならす「ブリッジ奏法」が有名で、度々映画でも披露している。映画監督の大林宣彦とは、音楽家として「終生の友」だった。奥様は体操家の竹腰美代子。香淳皇后の体操の先生としても著名。安田は愛妻家として知られ、結婚してからは所かまわず「ミヨコー」と叫ぶギャグが定番になった。晩年は肝臓ガンの闘病が続き、1996年、急性心筋梗塞で亡くなりました(享年64歳)。

 石橋エータロー(1927-1994)

 ピアノ。本名、石橋英市。父は尺八奏者で作曲家の福田蘭堂。つまり、その父である洋画家の青木繁の孫ということになります。芸術家の一族。「ザ・ファイブ」、「植木等とニュー・サウンズ」などを経て1956年に「キューバン・キャッツ」に参加。1960年に結核治療のため芸能活動を休止するも、翌年復帰。植木等に並ぶ美声として知られている。1971年に芸能界を引退し、料理研究家に転身した。その後はメディアへの露出は殆どなかったが、ハナ肇が主演した映画「会社物語」(1988年、松竹)には1シーンのみ出演している。1994年、胃ガンのため亡くなりました(享年66歳)。料理研究家に転身してから、渋谷に「三漁洞」という店を開いている。

 1957年に一通りのメンバーがそろったクレージーですが、前述の通り、石橋エータローが一時期離脱してしまいます。このとき、この穴を埋めたのが、桜井センリでした。桜井センリは、石橋エータローの復帰後もクレージーに残り、以後クレージーはピアノが2人の変則的な形になりました。
 桜井センリ(1926-2012)

 ピアノ。「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」などを経て、一時期は作曲と歌唱の講師になります。その後、1960年に石橋エータローのピンチヒッターとしてクレイジーキャッツに加入。石橋復帰後もそのまま残ります。コントでは女形が受けて、主婦役で出演した大日本除虫菊の「キンチョール」CMで放った「ルーチョンキ」というフレーズは当時の流行語になりました。このヒットを受けて「センリばあさんのクレージー大変記」(NETテレビ)という番組も作られています。

 俳優としては、山田洋次監督作品の「常連」として度々出演していた。しかし、若いころから難聴に悩まされ、近年は芸能活動を休止していた。2012年、自宅で亡くなっているのが発見された(享年86歳)。その死に対して、山田監督は「ほんの数カット映るだけで映画全体に和やかな雰囲気が漂う。そんなセンリさんは、ある時期、僕の映画にいなくてはならない俳優でした。謙虚でつつましくて遠慮のかたまりのような上品なセンリさん。僕の大好きなセンリさんの死を心から悲しんでいます」というコメントを出している。

 クレージーキャッツが人気を博したのは主に1960年代。そのために、歌や映画作品などは1960年代のものが中心となる。

 映画

 「ニッポン無責任時代」のヒットに伴い、東宝は次から次へとクレージーキャッツがメインの映画を製作した。これは1971年まで続き、その数は30作にのぼる。これらを総称して「クレージー映画」と呼称される。ちなみに、クレージー映画は植木等が主演するものがほとんどである。クレージー映画の1本目が「ニッポン無責任時代」。その姉妹作の「ニッポン無責任野郎」(1962年、東宝)。「日本一のホラ吹き男」(1964年、東宝)は、植木等がポンポン出世していくさまが痛快。海外ロケを敢行した「クレージー黄金作戦」と「クレージーメキシコ大作戦」(1968年、東宝)はそのスケールの大きさに圧倒される大作(特に、「黄金作戦」のラスベガスの大通りを使った歌唱シーンはすごい)が、それぞれ本編が2時間半程度ある。末期の「クレージーの大爆発」(1969年、東宝)では、3000億円を盗んで富士山が爆発する。しっかりとした特撮で楽しませてくれる。「クレージー作戦 くたばれ!無責任」(1963年、東宝)。「クレージーだよ 奇想天外」(1966年、東宝)。この他、谷啓は東宝と東映で、ハナ肇も東宝や松竹で主演作がある。谷啓主演作では、「奇々怪々 俺は誰だ?!」(1969年、東宝)、ハナ肇主演作では「馬鹿が戦車でやってくる」(1964年、松竹)。1988年に公開された「会社物語」。焼き鳥屋で、当時のメンバー6人が話し合うシーンなど、クレージー映画での破天荒サラリーマンを知っていると時の流れが深く伝わってきてジーンと来る(とりわけ、このシーンは殆ど台本がなく、アドリブで進められたそう)。市川準監督、ありがとう、という感じです。

 テレビ

 YouTubeで、「シャボン玉ホリデー」「植木等ショー」。「8時だョ!出発進行」(TBS)。久しぶりにクレージーが集合し、往年のギャグを披露した1977年の「ビッグショー ハナ肇とクレージーキャッツ われらの演奏会」(NHK)。クレージー結成30周年記念番組「アッと驚く!無責任」(フジテレビ)でタモリやザ・ドリフターズと共演している貴重な映像。音楽コントが見たいという方は「クレージーキャッツ メモリアル」(2007年、「植木等 スーダラ BOX」(2010年、ポニーキャニオン/Amazonのページ、楽天ブックスのページ)がおすすめ。

 コミックソング

 最も有名なのは「スーダラ節」。他にも、途中でコロリと曲調が変わる「ハイそれまでョ」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)。後に天童よしみがカバーして、アニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」(フジテレビ)のオープニング曲としても使われた「だまって俺についてこい」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)。志村けんのカバーでも有名な「ウンジャラゲ」(作詞:藤田敏雄、作曲:宮川泰)。植木等が中心となる曲。クレージーキャッツのメンバー全員で歌っているものは、間奏にミニコントが入る「こりゃシャクだった」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)、迫力と勢いに圧倒される「大冒険マーチ」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)、大塚食品の「ボンシチュー」CMで植木等が放ったフレーズがもとになってつくられた「この際カアちゃんと別れよう」(作詞:青島幸男・上野玲児、作曲:萩原哲晶)。ほのぼのとした楽曲がいいという方には、「花は花でも何の花」(作詞:口羽洋一、補作詞:植木等、作曲:平尾昌晃)と「笑って笑って幸せに」(作詞:山口あかり、作曲:平尾昌晃)。この他、谷啓もソロで楽曲を出している。谷啓の曲は初期の「図々しい奴」(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶)「愛してタムレ」(作詞:ヒライワ・タカシ、作曲:萩原哲晶)からクレージー最後の楽曲で松任谷由実とデュエットした「Still Crazy For You」(作詞・作曲:松任谷由実)まで。レコードとして発売されたものを網羅しているのは「クレイジーキャッツ コンプリートシングルス HONDARA盤」(2005年、EMIミュージック・ジャパン/Amazonのページ、楽天ブックスのページ)ならびに「HARAHORO盤」(2005年、EMIミュージック・ジャパン/Amazonのページ、楽天ブックスのページ)。特に植木等の楽曲が良いという方は、「植木等伝説」(2010年、EMIミュージック・ジャパン/Amazonのページ、楽天ブックスのページ)を、谷啓の楽曲が良いという方は、「ガチョーン伝説」(2010年、EMIミュージック・ジャパン/Amazonのページ、楽天ブックスのページ)をどうぞ。





(私論.私見)