警察の闇を追及し続けた元警察官の黒木昭雄変死事件考

 (最新見直し2014.11.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「警察の闇を追及し続けた元警察官の黒木昭雄変死事件考」を確認しておく。怪しげな臭いがするからである。

 2010.05.10日 れんだいこ拝


警察ジャーナリスト。岩手の殺人事件の真相を追っている最中、車の中で死体で発見された。他殺説があり、その解明番組がテレビでも放送された。

黒木 昭雄(くろき あきお、1957年12月19日 - 2010年11月)は東京都出身、元警察官の警察ジャーナリスト。

1976年3月、修徳高校卒業後、警視庁採用 巡査拝命
1977年4月 警視庁警察学校卒業、本富士警察署配置
1983年 この頃巡査長
1986年7月 警視庁第二自動車警ら隊へ異動
1995年2月 警視庁荏原警察署へ異動
1999年2月 巡査部長に昇任。退職

23年間の警視庁在籍中、23回もの警視総監賞を受賞。退職後は、捜査するジャーナリストとして、警察内部の様々な問題や世間を騒がせた事件などを独自の視点で解析し捜査していた。2010年11月2日 千葉県市原市で、駐車した車の中で死亡しているのが発見された。自殺とみられているが、不審死であるとの指摘もある。2011年4月3日、テレビ朝日系『ザ・スクープSP ジャーナリスト黒木昭雄さん死の真相』にて、その不審死について疑問を投げかける番組が放送された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9C

 2010.11.2日午前11時5分頃、警視庁の元警視庁巡査部長で、退職後は警察組織内部の問題や事件、防犯などをテーマにした警察ジャーナリストとして活動していた黒木昭雄さん(52歳、千葉県市原市郡本5丁目)が父親の墓がある寺(千葉県市原市今富)の敷地内に止まっていた乗用車内で死亡しているのを長男が見つけ、119番通報した。救急隊員(消防隊員や市原署員)が駆けつけたときには、黒木さんは助手席で亡くなっていた。外傷はなかった。後部座席で練炭を燃やした跡があったといい、同署は自殺の可能性もあるとみて調べている。「遺書」については、朝日新聞が「遺書らしきものも見つかった」としているが、毎日は「遺書などは確認されていない」、産経も「遺書は見つかっていない」と二様の記事になっている。

 黒木昭雄・調査取材事務所によると、黒木さんは1日、家族に「仕事の打ち合わせに行って来る」と言って外出し、家族に「東京都内に泊まる。墓参りをしてから帰る」などと連絡したという。帰宅しなかったため、家族が行方を捜していたという。

 黒木さんは元警視庁巡査部長で、事件や警察内部の問題などをテーマに活動していた。黒木氏はウェブ上に「たった一人の捜査本部」というサイトを立ち上げ、現在「連載 警察はなぜ堕落したのか」というコラムを執筆していた。警察による冤罪の捏造、キャリア官僚への批判を繰り返しており、その身を案ずる関係者、ファン、ブログ読者、ツイッターのフォロワーが多かった。


 黒木氏が直近で取り組んでいたのは岩手県警問題であった。2008年10月1日に放送された、みのもんたが司会を務める「テレビ公開大捜査SP/あの未解決事件を追え」(TBS系)で関わった「岩手少女殺害事件」に拘っておりブログの中で再三にわたり、岩手県警の捜査手法を批判、指名手配を受けている容疑者とは別に真犯人がいると主張してきた。事実、この事件に関して被害者家族・加害者家族双方から再捜査依頼の出されており、ブログやツイッターで疑問を呈する人も増えている。黒木氏の発言により、岩手県警への批判がネット上で広がっている状態であり、既に海外のブログでも紹介され始めている。

 「岩手県警 疑惑の捜査 完全取材メモ」(http://www.akuroki.jp/index_z.html)は次のように記している。

 川井村地内における女性殺人、死体遺棄事件(岩手17歳女性殺人事件)】

――事件概要――

 平成20年7月1日午後4時30分ころ、岩手県川井村の松草沢の川床にうつぶせの状態で倒れている女性の遺体が道路工事作業員に発見された。宮城県栗原市に住む佐藤梢さん(当時17歳)だった。司法解剖の結果、頭部に深い傷があるものの死因は手で首を絞められた事による窒息死だった。梢さんは3日前の6月28日午後9時30分ころ、同棲していたAさん(17)に、「友達の彼氏に『恋の悩みを持ちかけられたので相談にのってくる。……私殺されるかも。その時は電話するからね』と笑いながら言い残し、待ち合わせのコンビニ(セブンイレブン小金井町店)に出かけていった。

 一方、電話で梢さんを連れ出したとされる岩手県下閉伊郡田野畑村出身の無職、小原勝幸容疑者(28)は、3日後の7月1日午後9時ころ、岩手県下閉伊郡田野畑村と同郡普代村を結ぶ県道で電柱をなぎ倒す自損事故を起こし、翌日の7月2日午前10時40分ころ、弟への連絡を最後に行方を絶った。そして3日午後4時ころ、鵜の巣断崖の突端近くで小原勝幸のものと思われるサンダル、タバコ、などの遺留品があるのを清掃作業中の田野畑村役場職員が見つけ警察に通報し、翌日周辺を捜索したが現場に飛び降りた形跡がないことから岩手県警宮古署捜査本部は、佐藤梢さんを誘い出した小原勝幸が車内で梢さんの首を絞めて殺し、遺体を川井村の沢に遺棄して投身自殺を偽装したと断定、7月29日、小原勝幸を佐藤梢さん殺害の容疑で全国に指名手配した。そして警察庁も10月31日付けで小原勝幸を「警察庁指定重要指名手配被疑者」に指定すると、翌11月1日、指名手配からわずか3ヶ月という異例の早さで公的懸賞金(100万円)を掛けその行方を追っているが小原容疑者に関する情報はない。

■岩手県警ホームページ  http://www.pref.iwate.jp/~hp0802/index.html

■警察庁ホームページ   http://www.npa.go.jp/reward/contents09.html

 02. 2010年11月08日 17:05:49: WdUZRlOZh6
 これ? Z氏=林下 本名(林下かずひろ)? 型枠大工で筋彫り(色を入れる前の下書きの様な刺青)がある。Z氏・・・超チンピラ。ただし、親戚の叔父が岩手県警の要職に就いている。自らも土木関係の職についていることから、小原勝幸を知人の職場に斡旋する。小原勝幸は住み込みで働くことになったが、小原勝幸は仕事の辛さから逃亡。メンツを潰されたことを餌に小原勝幸に120万円を恐喝するが、小原勝幸は支払いに応じず、さらに恐喝の被害届を提出したとの警察の捜査が入る。甘く見られた、舐められていると思ったZ氏は激怒し、佐藤梢Aを殺害しようとするが、間違えて佐藤梢Bを殺害してしまう。

 事件は女子高校生殺人事件の犯人として指名手配されている男性をめぐるもので、黒木氏は「指名手配されている男性は殺人事件と関連のある恐喝事件の被害者である。これは岩手県警の完全な捜査ミスだ」としていた。2009/7/21(火) 午後 2:46、黒木氏は「岩手県警こそが事件関係者である。警察の捜査結果に絶対異議あり!」と断言するブログを遺している。

 10月1日午前午前2時37分(9月30日深夜)、「重大事件発覚」として次の一文を寄せている。

 「みなさんへ。昨夜、当ブログの重要部分が根こそぎ削除されていることが判明しました。ツイッターでつぶやいた事のみお伝えします。岩手県警、警察庁、中井、元国家公安委員長らに関する記事が狙い撃ちされた如く削除されています。誰が、どんな意図のもとこのような愚業に出たかはわかりませんが、復元に努めますので皆さんも注視下さい。取り急ぎよろしくお願い致します」。「何者かが、黒木氏のブログに不正アクセスし、警察に都合の悪き記事の削除を行っているのだ。これらの状況を受けても千葉県警は自殺と判断するのであろうか。不正アクセスの犯人の割り出し、黒木氏の遺体解剖を実施して頂きたいものである」。http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki/17144672.html

 「たった一人の捜査本部」(11月1日午後0時51分)は次のようにブログしている。

 「拡散と転載を希望します。小原容疑者に懸けられた懸賞金が今日、11月1日、300万円に増額されました。小原勝幸をめぐる事件に、謎が多い事はこれまでに散々書きました。しかし、『捜査中』の一言で、つぶされてきた事も事実です。ですが、この懸賞金の掛け方についてだけは、私は強力に抗議します。もとより懸賞金はポスターの一枚に至るまで税金で賄われます。ならば、懸賞金が懸けられた経緯を知る権利が国民にあります。しかし警察庁は答えず、5月の決算委員会で質問すると約束した藤田幸久代議士も質問しませんでした。『岩手17歳女性殺害事件』の裏にはとてつもないウソが隠されています。しかし、それを暴く為には個人には限界があります。私は、全ての国会議員に、なぜ小原に懸賞金が懸けられたのかの追及を要求します。その経緯がつまびらかになれば、『岩手17歳女性殺害事件』の謎も解き明かされると信じるからです。警察庁は岩手県警の請託を受けて小原に懸賞金を懸けた。わたしは、そう思っています。なお、このブログは削除される可能性が非常に高く、前回不正に削除されたその目的は、『警察書類が懸賞金の謎を暴く』と題する本稿の抹殺と思われます。どうか皆さん、転載をお願いします。そして、マスコミがこぞって立ち上がり追及することを望みます。黒木昭雄」。

 ◎黒木氏のツィッター(11月1日午後3時45分)

 「【転載・拡散】本日、手配中の容疑者小原勝幸の懸賞金が300万円に増額されました。岩手県警の請託を受けた警察庁が隠したかったのはこの事実です。税金が警察の犯罪隠しに使われています。皆さん、追及の声を上げて下さい。お願い申し上げます」、「岩手17歳女性殺害事件」については、黒木氏による「岩手県警 疑惑の捜査 完全取材メモ」(下記参照)や、下記〈関連記事〉でも取り上げたが、要は、岩手県警の真犯人取り違えという失態事件である。

 上の写真Aは、警視庁渋谷警察署の1階ホールの掲示板だ(撮影日11月3日)。近づいてみると、ポスター(下:写真B)の左から2番目に、この岩手での殺人事件“犯人”として「小原勝幸」という男性が全国に指名手配れていることがわかる。しかし、黒木氏によれば、警察の捜査はめちゃくちゃで、現在行方不明になっている小原勝幸“容疑者”の家族からは、「捜査には疑問が多く、息子を殺人犯と断定した指名手配は不当」として、県警本部長や警察庁長官などを相手取り、指名手配の中止や600万円の損害賠償を求める訴えも起こされている。家族からの提訴について警察は全面的に争う姿勢を示し、11月1日からは写真でもわかるように、これまでの100万円から300万円に懸賞金が増額されている。

 ◇〈関連サイト〉

 ◎ 黒木氏のブログ「たった一人の捜査本部」(11月1日午後0時51分)

  http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki/17626560.html


 2010.11.8日付け産経新聞が、黒木氏の死に対して「消された可能性も」とする記事を掲載している。これを転載しておく。
 ジャーナリスト黒木氏自殺に不審な影「消された可能性も」
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101108/crm1011081455019-n1.htm

 元警視庁の警察官で、ジャーナリストの黒木昭雄氏(53)=千葉県市原市=が遺体で見つかった事件。千葉県警市原署は現場の状況などから自殺と断定し、遺体は4日、荼毘に付された。だが、「岩手の未解決事件を追うなかで、何者かに消された可能性もある」との物騒な声も根強い。(夕刊フジ)

 黒木氏は2日午前11時10分ごろ、市原市内にある寺に停めてあったワゴン車助手席でぐったりしているのを長男に発見され、救急隊員が死亡を確認した。車内後方には、燃えた練炭が置かれていた。市原署は早い段階で自殺と判断。司法解剖は行わず、遺体は同日遺族に引き渡された。関係者によると、黒木氏は1日に「打ち合わせに行く」と言い残して出かけた。2日朝、黒木氏は家族に「墓参りに行く」とメールを送信。遠隔地に住む長男がたまたま仕事が休みで、寺に様子を見に行くと車を発見した。裏金問題を現役警察官として告発した元愛媛県警巡査部長、仙波敏郎氏(現鹿児島県阿久根市副市長)は「岩手の事件ではかなり真相に迫っていた。7月に話した際、ホンボシ(真犯人)にたどり着いたと聞いた。『1人で大丈夫か?』と伝えたが、私も阿久根におるので手伝うことができなかった。私の感覚だと完全に殺されたと思う。警察は解剖すべきだった」と悔やむ。岩手の事件とは2008年7月、岩手県川井村で当時17歳の少女が絞殺体で発見され、知人の男(30)が三陸海岸の断崖に遺留品を残し、飛び降り自殺を偽装し、逃げたとされるもの。

 黒木氏はこれまでの取材で、容疑者の男を脅迫していた別の人物を突き止めていた。指名手配犯はその人物によってすでに消され、容疑者の“身代わり”となった可能性を複数の証言や証拠をもとに指摘している。黒木氏と親しかった交通ジャーナリストの今井亮一氏は「事件にのめり込んでいた。あそこまでやるジャーナリストはいないでしょう。今月1日は、事件の報奨金が100万円から300万円に上がった。のめり込んでいたからこそ、矢折れ力尽きたのか…。経済的に困っている様子もなく、『今度、飲みに行きましょうね』という話もしていた」と話す。一方、元警視庁刑事の北芝健氏は「練炭自殺と見せかけることは簡単。血液を分析して睡眠薬成分などを調べるべきだった。ただ、黒木氏は生活に困窮していたとも聞いている。私も援助を考える矢先の出来事だった」とコメント。「近い関係にあった反権力陣営や仲の良かったメディア関係者が彼の困窮を知りながら、なぜ救えなかったのか? いまはただただご冥福をお祈りするのみです」と話している。

 黒木氏は偶然にも、(6日既報の)警視庁に痴漢容疑の取り調べを受けた後に自殺した原田信助さん=当時(25)=の母、尚美さん(54)と同日午後4時ごろ、電話で話していた。尚美さんは「私が(新宿駅の)現場近くで目撃者捜しを続けていたところ、駅員がその様子を写真に収めてきた。そのことを黒木さんに伝えると『駅側が構内の目撃者捜しをやめさせるため、偽計業務妨害の証拠として撮影した可能性が高い。しばらくは駅構内での活動は自粛した方が安全です』と親身にアドバイスしてくれた」と明かす。黒木氏は、死亡する前夜も全面的なバックアップを約束していたという。それだけに「翌日に自殺するなど、到底信じられない」と尚美さんは驚きを隠さない。


 《参考》 これまで警察に【自殺】と発表された例
 
* 大阪、タクシー運転手 - 首にロープを巻いて、家の門扉の前でジャンプしロープを門扉にひっかけて首吊り。門扉の高さは数mあった。
* 東京、アフガン航空常務 - 全財産をつぎ込んだFX取引きで失敗し、社内で自分の心臓を刺してから窓枠を乗り越えて離陸。
* 大阪、社長 - 全身をロープと粘着テープで縛って、ビル屋上の鉄柵を飛び越えた。
* 千葉、少年 - 全身をロープと手錠で縛って、柵に囲われた線路に飛び込み。
* 東村山市議 - 逆立ちしてマンションの窓際まで、指でひきずった跡をつけながら歩行、足から手すりにぶら下がり、空中で方向転換して50cmの隙間に向けて飛行。
* 沖縄、社長 - 全身をめった刺しにして自殺。背中や手の甲もきちっと刺してあった。血の跡ひとつつけずに非常ボタンを押した。
* 大阪、潜水ルポライター - 水深数十センチの川で全身を縛ってめった刺しにしてからうつぶせに水中に横たわった。ご丁寧に背中に重しまで乗っけた。
* 神戸、ヤクザ - 自分で自分の首をはねて自殺した。首はみつかっていない。
* 東京 - 火の気のない玄関で人体発火現象を起こして、燃え尽きるまで気管に煤が入らないようじっと息を止めて焼身自殺。
* 愛媛 - 風呂場で自分で自分の頭をハンマーで殴り自殺。
* 茨城、おばさん - 首吊りしたあと歩いて川に入り息を止めて自殺。気管には水なし。
* 熊本 - 某病院主要関係者を乗せ、峠道を時速80キロで、ガードレールのわずかな隙間をタイヤ痕ひとつ残さない絶妙な運転テクニックですり抜けて50m下へダイブ。
* 福岡、高校生 - 400kgの重しを抱いて海に飛び込む。
* 東京 - 頭に穴があく不思議な方法で首吊り。
* 千葉 - 首吊りをしてからわざわざ飛び降り自殺。死因は飛び降りではなく窒息。
* 名古屋 - 車で首吊りをしようとして首を切断。しかし、首がないまま駐車、車庫入れをこなす。
* 大阪 - 歩道橋から飛び降り自殺するも、なぜか歩道橋から45メートル離れた路上で発見される。
* 茨城、社長 - 拳銃で自分の頭を撃った後、電柱に登って首吊り自殺。
* 福岡 自分でロープを首にかけて死ぬまで締め上げて自殺したあと、首からロープを外してクルマのトランクに入り、トランクを閉めて自殺。


 「世界の真実の姿を求めて!」の「私が警察官を辞めたわけ もうこんな組織とはおさらばだ p128-131」を転載する。「黒木昭雄のたった一人の捜査本部」を転載する。
 警察官だった父への挑戦

 
私が二十三年間勤めた警視庁を退職したのは平成十一年二月のことだった。当時、私は四十一歳。私ごとき者にも人並みに「人生」というものを感じるときがある。「四十代は人生の踊り場である」と言われるように、杜会人となって一直線に駆け上がってきた人生の階段で、はじめて曲がり角を感じていた。振り返れば自分の歩んだ過去が見える。見上げると虚しい人生の終着地点が見えるような気がした。「もう一度過去に戻って人生をやり直すことができたなら……」と考えることはあっても、それはできない。家庭もあるし、思うほど若くはない。自分勝手に身動きができないのだ。しかし、薄っすらと彼方に見える将来にも明るさを感じなかった。

 今から二十五年前、当時十八歳だった私は、進学か就職かで悩んでいた。父が警視庁の警察官だったため、幼いころから警察官という職業を身近に感じ、憧れを持ちつづけていた。いつのころからか、ひそかに父と同じ道を歩むことを意識していたのも事実だった。しかし父に相談しても、「俺は警察官になれとも、なるなとも言わないが、警察はそんなに甘くはない」と、突き放されるだけだった。私は反対されたとまでは思わなかったが、父の言葉に反発を感じ、「親父の鼻を明かしてやろう」と、家族に内証で警視庁警察官の採用試験を受ける決意をした。


 合格通知を受け取ったとき、「俺は警察官になれとは一言も言ってない」と言いながら見せた父のはにかむ笑顔は、今も忘れることができない。以来、私はことあるごとに父から警察官としての心構えを教え込まれ、頑固者で融通のきかない「警察職人」を自称する父への挑戦がはじまった。「仕事のできない警察官はいらない。警察官は現場が勝負だ。間違ったことをするな。常に反省をしろ」これが父の□癖だった。警視庁の先輩として、仕事に取り組む姿勢などについて厳しく私を指導した。一方、酒を飲んでは若かりしころの武勇伝を披露するなど、内心は私に大いに期待を寄せていたようだ。
採用は昭和五十一 二九七六)年のことだった。一年間の教養課程を修了し、無事に警察学校を卒業した私は、東京都文京区本郷の本富士警察署に卒配(卒業配置)された。当時はまだ学生運動の名残があり、本富士署に近い東京大学の学生とのあいだで小競り合いを繰り返していた。東大では「五月祭」という大学祭が今でもあるが、当時の五月祭はイデオロギーの発露の場でもあった。後楽園の裏手にある礫川公園から出発した学生デモ隊は外堀通りを東に進み、順天堂大学を左折、本郷三丁目を経て東大正門に至る。シュプレヒコールの声が変わったことに気づかなかった私が、デモ隊の渦巻きに巻き込まれ、先輩の必死の枚出によって危うく難を逃れたこともあった。このように警察現場をとりまく環境は、今とはちがう緊張に包まれていた半面、警察内部の団結は、今からは想像できないほど強く固いものがあった。私が新米警察官だったころは、そんな時代だったのだ。

 それから約二十三年間におよぶ警察人生の大半を、私は暴力団構成員らに対する銃器・薬物の取り締まり活動に費やすことになるのだが、はじめから誰もが嫌がる恐ろしい相手を対象としていたわけではない。マニュアルに定められたとおり、はじめは新米警察官の役目として、自転車に乗った一般人を相手に職務質問を繰り返したり、必要性のない交通違反の取り締まり活動に時間を使ったものだった。だが、時間がたつにつれて拝命当初の意気込みとは裏腹に、実績ノルマを重ねるだけの毎日に不快な気持ち(ときには暗澹たる気持ち)を抱くようになった。「なんで立場の弱い者だけを取り締まりの対象に選び、日々のノルマを達成しなくてはいけないのか。はたしてこのままでいいのだろうか」と思い悩むこともあった。
 警察職人への道 p131-133

 そんなある日のこと、管内を警ら中に一人の「不審な人物」に出会った。「不審」といっても、一見、暴力団員風だという以外は、とくに何かがあったわけではない。私は、自分の度胸を試す機会にした。「こんにちは、ちょっとすみません」と、警察学校で習った型通りの声がけをおこなったが、何の反応もなく、男はすたすたと立ち去ろうとした。このとき私の頭をよぎったのは、父からさんざん聞かされた若き日の「武勇伝」だった。「あのね、人があいさつしているのに無視するの?」と、こちらから喧嘩を仕掛けた。たぶん彼の目には「なんだガキおまわり」としか映らなかったにちがいない。その証拠に「若造、そんなに点数が欲しいのか、もう少し勉強したらまたおいで」とからかわれたのだ。しかし、私は生まれてはじめて暴力団員風の男に声をかけたということに興奮し、相手を勝手に怪しいやつだと決めつけていた。

 「おい、逃げるのか」。「別に……」。「おまえ、なんか隠してんだろ」。完全な見込み捜査だったが、なんとか人定事項(氏名、生年月日など)を聞きだし、無線で照会センターに問い合わせると、男はなんと「覚醒剤の前歴を有する暴力団構成員」だったのだ。当時はいまほど情報化が進んでいなかったため、無線一本で前歴がバレた「不審な男」は仰天した。なにしろ私自身もはじめての体験で動揺し、互いにオロオロするばかり。じつに滑稽な話である。私が有利だったのは、警察官という権力を持つ立場にいたことだ。照会センターとの通話状況を傍受していた担当警部補がいち早く応援に駆けつけてくれた。結局、根負けしたその「不審な男」がビニール袋に入った三包みの白い粉を捨てたことを白状し、みごと「御用」となったのだ。

 私にとって卒業配置後半年にしての初手柄だった。以来、数々の薬物事件を手掛けることになったが、そのたびに胸を張って父に報告した。しかし父は、「書類の書けない警察官が多すぎる、犯人をつかまえても書類に不備があったのでは仕事をこなしたことにはならない」と職人らしい言葉を私に浴びせるのだ。素直に褒めてくれない父に反発を覚えながらも、私は自分に鞭を打ち、文字どおり警察職人としての道を選ぶことになる。

 「警察の仕事は階級ではない」という父の言葉は「職人は出世しない」ことを意味している。そのとおり、私は昇任することもなく本富士警察署で九年七ヵ月の歳月を過ごした。しかし、覚醒剤所持犯人の検挙を主眼として警察活動をつづけたことや、赤坂警察署に共同捜査本部を設置した多額窃盗犯人を偶然逮捕するというタナボタや、拳銃五丁を所持していた犯人を苦心のすえに捕まえたことなどもあって、昭和六十一(一九八六)年七月、憧れの「警視庁第二自動車警ら隊」に配転になった。
 不当な懲戒処分 p133-135

 私は昭和五十一年四月に警視庁に採用されてから平成十一年二月に退職するまでの二十三年間に、拳銃七丁、実弾七十一発を押収したほか、覚醒剤、大麻、麻薬などの薬物摘発で各部部長賞を二百回以上、警視総監賞を二十三回受賞したほか、警視庁優良職員表彰、警視庁精励章、警視庁功績章を受賞している。

 警視総監賞は一人の警視庁警察官が生涯に受賞する平均回数が約一・五回以下で、四十年ほど勤めあげても一、二度受賞できるかどうかというものだから、私の警視総監賞受賞二十三回という数はずば抜けて多いわけだ。その多くは、私が警視庁第二自動車警ら隊(二自ら)に所属していたときの「勲章」である。

 私がなぜあえてこの受賞経歴について記したかというと、なにも自慢したいからではない。それは私が不祥事や成績不良によって警視庁を追われたわけではなく、それどころか警察官として誇りをもち、その職務を全力でまっとうしてきた人間だということをきちんと理解してもらいたいからである。

 自動車警ら隊は警視庁警察官にとってあこがれの花形部署だ。私のいた「二自ら」は、暴力団に対する検挙活動では全国警察一と言われ、警察署単位の管轄区域を持たずに束京二十三区で主に所轄署支援を目的として警察活動を展開する、パトカー約四十台、隊長以下隊員数二百五十名で構成される精鋭集団だった。

 しかし、私の八年七ヵ月におよぶ自動車警ら隊生活は、まったく予期せぬトラブルがきっかけで幕を閉じることになった。詳しくは拙著「警察官は銃弾を込め、撃鉄を起こした」(草輝出版)などで明らかにしているが、要は上司との酒の上の些細な揉め事で「暴力警察官」の汚名を着せられ、組織的陰謀ともいえる不当な懲戒処分を受けたのだ。

 私が処分を受けたのは上司とのトラブルから一年四ヵ月もたってからのことだった。きっかけは、本庁の人事一課監察係への匿名のタレコミだった。あとでわかったことなのだが、タレコミ者は「黒木を処分しないと、マスコミに情報を流す」と脅したという。結局、組織はマスコミを怖れ、私の不当な処分に踏み切ったのだ。

 平成七(一九九五)年二月二十三日付の処分説明書にはこう書かれている。〈第六中隊の秋の一泊レクで栃木県下へ旅行した際、宿泊ホテルで行われた宴席において、担当小隊長に酌をしようとして体調不良を理由に断られ、なおも執拗にこれを勧めたところ、同小隊長から平素の不行状を指摘されて激高し、更に仲介者に罵冊雑言を浴びせた上、同小隊長の胸元をつかみ、同人の顔面を殴打するなど、職員としてふさわしくない行状をなし、規律を乱した〉

 一般読者にはわかりにくいかもしれないが、警察官や検察官など法律に携わっている者ならば、一瞥しただけでわかるほど、この処分説明書は不完全なものだ。警察書類は、「いつ、どこで、だれが、なにを、どのように、どうした」という5WIHの最低六項目から成り立っており、そのなかのどれか一つが欠けていてもすべて却下されるのだ。警察学校の学生でさえ知っているこの六項目を、まさか警視庁本庁の頭脳集団が知らないわけがないだろう。それなのに、この処分説明書には「いつ」という日時が記載されていない。処分説明書は刑事事件では披疑事実の要旨に相当する。犯罪の日時が特定されなければ、当然、事件として立証されない。これが、私に与えられた処分の実態だ。

 警察官として語り尽くせぬほど頑張りつづけた結果が、納得できない「懲戒処分」だった。言いようのない虚しさと先行きの不安に、目の前が暗くなる思いだった。そして、私は警視庁荏原(えばら)警察署への配転となったのだ。
 発端となった署内「マリンクラブ」の結成 p135-138

 どれほどの実績を残し、どれほど社会に貢献しようとも、非情な警察社会はわずかな過ちも忘れようとしない。それどころか、見せしめ的な仕打ちと差別は半端ではない。平成七年三月のオウム真理教への強制捜査以後、警視庁の全警察官に対して「オウム憎し、全信者を検挙せよ!」という命令が発信された。全国に張りめぐらされた警察の車輛監視装置「Nシステム」にはオウム真理教関係の全車輛が登録され、一日何回もオウム車輛をヒットさせた。それはただちに「オウム情報」として警察無線に流された。相手がオウム信者ならば、たとえわずかな罪でも寄ってたかって逮捕しろというのである。これがいわゆる「オウム狩り」だ。

 オウム狩りに積極的に参加した警視庁の警察官は、「特別昇給」システムによってほとんどが昇給した。しかし、例外的に私だけは取り残された。懲戒・戒告処分を受けた私には、もはやそんな権利などなかったのだ。私は挫析感にも似た焦燥感にかられた。顔に出さなくとも心の中では、何か重たいものが堆積していくように感じられた。そんななかにあって、あらためて前述の理不尽な処分に屈辱を感じつづける毎日だった。

 この項の冒頭でふれたように、四十代は人生の踊り場という言葉を実感として感じたのはこのころだった。あるとき、そんな私の心のすきまを埋める一冊の本に出会った。ヨットで全国を巡るクルーが、困難な状況下で果敢に自然に立ち向かう姿が描写されていた。「海か……」。それがきっかけで、私は自分の趣昧として海に出ることを考えるようになった。

 平成九年十一月、私は友人の勧めで小型船舶操縦士免許を取ることを決めた。同僚のA巡査長も同調し、ともに受験し合格後、早々に一隻の小型クルーザーを購入した。仕事を離れ、船には警察官としてではなく友だちとして集まった。海の世界には階級も男女の別もない。すべてが平等で、経験が優先される。岸壁から見る景色と船から見る景色は明らかにちがっていた。おかげで、固定観念にとらわれず、多角的にものを見ることができるようになれた気がした。それが私の人生観に変化をもたらしてくれたのだろうか、人生はいつ果てるとも知れない、だから仕事のトラブルなんか小さなことだと思えるようになった。

 船に集まる友人も五十人を超え、やがて常連として乗船する「クルー」が生まれた。どこからともなく「クラブをつくろう」という声があがり、話は一気に具体化した。M巡査長は一級小型船舶操縦士免許を持っている。だから彼が初代会長となった。会の規約もつくり、会報も発行した。会計係は女性警察官のS巡査長とM・O巡査長、そして前出のA巡査長が担当することになった。さらに四人の巡査長が中心になってクラブの企画立案に携わり、相談役としてS警部補が名を連ね、総勢十名の「マリンクラブ」が署内に誕生した。

 テレビの刑事ドラマなどでは警視庁の警察官は仲間同士の固い結束が売り物のように描かれているが、あれはウソだ。組織がでかいだけに、内部の人間関係は殺伐としたところがある。転勤直後は連絡を取り合うことはあっても、行った先の水に慣れれば、前任警察署のことなど忘れてしまう。寂しい話だが、それはどこに所属していても言えることだ。さらに、警察はれっきとした階級社会だから、職制も内動と外動に分かれ、上下関係が優先され、いつまでも同じ思いの中では生きていけない。人はいずれ変わってしまうのだ。

 わがクラブの会員はほとんどが経験十年以上の警察官だった。一所属(一警察署)しか経験のない青二才はいなかった。みんな心のどこかで警視庁のすさんだ人間関係を感じとっていたのである。だから、生涯を通して付き合える友人を船に求めたのだった。クラブ員のあいだから、いつしか「俺たちも免許を取ろう」という声があがった。それは海に魅了された結果であり、安全意識の高まりでもあった。三ヵ月以内を目標に受験勉強がはじまった。海技、法規、ロープワークなどに真剣に取り組み、平成十年八月、十名のクラブ員のうち八名が小型船舶操縦士免許保持者となった。しかし、このことが私が警視庁を退職するきっかけになろうとは、想像すらできなかった。
 狙い撃ちされたクラブ員 p138-143

 それは、平成十年十二月三日の朝のことだった。われわれクラブ員は突然、上司からの呼びだしを受けた。全員がバラバラにされ、「犯罪者」として取り調べを受けたのである。上司はすでにわれわれの会報「舵」を手にしており、「違法行為」に手を染めた不穏な連中として取り調べがおこなわれた。当目、われわれは非番で、前夜は布団に入ってゆっくり寝ることもできないという悪コンディションをねらった打ち込みだった。

 調べの骨子は以下のとおりだ。一、「危険なレジャー」であるマリンクラブの結成目的。二、届け出を怠って免許を取得した事実。三、乱れた男女関係。四、ゲストの勧誘行為。五、クラブ員の経済的負担。

 取り調べ対象者は、クラブ員以外のゲスト(いずれも署員)にまでおよんだ。「なんとしても決定的な違法行為を探しだす」という組織の強い意思が感じられた。しかし、彼らに決定打はない。クラブ員の誰一人として法に触れた事実はないし、また、非難にあたいする非倫理的な行為もいっさいおこなっていないのだから当然だ。

 午後にまでおよんだ取り調べからつぎつぎに解放されたメンバーは、荏原警察署の独身寮「荏原寮」に集まった。クラブ員の結束は固い。「誰にも話すなよ」と口止めされても、取り調べ内容を突き合わすなど知れたことだ。誰もが上司に対して事実をありのまま答え、隠し立てなどいっさいしなかった。われわれの活動は署内でもオープンにおこなわれており、署長以下の幹部に事実上、認知されていたのだ。だから罪の意識もまったくなく、雰囲気はいたって明るかった。しかし、会計を担当していた女性警察官のS巡査長からの電話で、その雰囲気は一変した。

 S巡査長はその日の午後、子供の学校で個人面談があるため、半日休暇を申請し、許可が下りていた。しかし、彼女は当時直属の上司で現在警察庁情報管理課に勤務する豊泉哲男警部に缶詰め状態にされ、半日以上にわたって陰湿かつ執拗な取り調べを受けていたのだ。調べのはじまった当日の朝、彼女が午後には個人面談に行きたいと言うと、「今は子供の個人面談なんて言ってられないだろ」と怒鳴られたという。

 机の上に白紙と鉛筆が置かれ、住所、氏名、職業、生年月日、出生地、家族構成、同居親族の有無、家族の年齢、初任科期別教場、拝命年月日、着任年月日を書かされた。それらは人事記録に書かれている事柄であり、上司である豊泉警部が知らないはずはないのに、それをあえてしたというのは、「おまえは警察官を辞めたいのか。本当のことをしゃべろ、こっちは全部知ってるんだぞ」という脅し言葉に、より具体的な迫力を持たせるための悪質な演出なのである。

 昼食も取調室に運ばせ、トイレにも立ち会い、家族への電話にも立ち会うという脅迫的かつ屈辱的な取り調べ手法は、私が第二自動車警ら隊時代に体験した人事一課監察係のそれとまったく同じだった。取り調べがS巡査長のクラブでの役割におよんだとき、豊泉警部は待ってましたとばかりにクラブの出納簿、貯金通帳、キャッシュカードなどを取りあげたのだ。

 いかに閉鎖的で「特殊」といわれる警察杜会においても、これは異常なやり□だ。豊泉警部に不法領得(自己または第三者のものにする目的で他人の財産を奪うこと)の意思がないにしても、何の手続きもなしにS巡査の所持していた貯金通帳などを数日間にわたって取りあげるとは、まさに犯罪行為である。さらに、「届け出なく試験を受けた行為は内規違反、危険なスポーツを未届けでおこなった行為は服務規定違反だ、場合によっては人事にかかわる」と脅した行為は脅迫罪を構成する。しかし、豊泉警部の「犯罪」はいっさい不問に付され、S巡査長への執拗ないやがらせだけが以後もつづけられることになる。出勤時に携帯電話を取りあげ、退庁時に返されるという日々がつづき、ミニパトカーヘの乗務も禁じられてしまった。

 そのS巡査長から電話が入ったときは夜七時近くになっていた。彼女は怯えた声で、「いま、署を出たところだけど、公安係(警備課公安係=各警察署に十人ずつぐらぃ配置)のT警部補とS巡査部長に尾行されているの」というのだ。われわれは動揺するS巡査長にすぐにそちらに向かう旨を告げ、荏原中延駅前の交番前で合流することにした。少し前の明るい雰囲気は消え、クラブ員の心の中には憤怒の波紋が広がっていた。

 到着したわれわれは、駅前の少し離れたところから公安係の二名がこちらの様子をうかがっているのを確認した。「これは偶然じゃないぞ」仲間の一人がつぶやいた。われわれは全員で電車に乗った。いつしか「追っかけ要員」は他所属(他の警察署)の公安係員と入れ替わっていた。一名は以前、荏原警察署公安係で勤務していた男だったが、悪びれた様子もなく、堂々とわれわれの前の席に座り、監視しているのだ。

 われわれは結局、五反田駅で降りて居酒屋に入った。彼らはわれわれの足取りをとらえ、そこで「消えた」(おそらく、その後は秘匿配備に切り替えたのだろう)。そこにはS巡査長を含めて七人のメンバーが集まっていた。そして、冷静に一日を振り返った。「人に刺される理由はない、警察幹部は証拠たるものを握っていたわけではない、なんらかの謀略がそこにある」。それが警察官としての一致した見解だった。しかし、現職の警察官がゾロゾロと公安に尾行されるのだから、まるでマンガのようなお粗末な話である。自然に笑いが洩れた。

 そんなことがあった翌々日の十二月五日、今度は私が個別に上司に呼ばれた。「クラブの解散は考えていないのか? 船の売却を考えろ」というのだ。私は「個人の財産処分にまで、命令ともとれることを言われる筋合いはない」ときっぱり断った。そして逆に、「この数日間われわれに尾行までつけて大々的に調べたようですが、われわれに何か警察的不具合はありましたか」と質問をした。「それは別にない」とT警部は言う。「なんで後ろを気にしながら歩くのか」と、みずから尾行の事実を認める間抜けな発言をしたS巡査長の直属上司の豊泉警部は、意地悪もそこまでいくとお粗末にすぎる。

 なぜ、われわれに尾行をつけたのか。そんなことは当事者となった人間が上司に聞くことではないが、私は当時、信頼できる上司だったがゆえに、あえて公安係のE警部に聞いた。彼は「俺はまったく知らない。俺はそんな汚いことはしていない。信じてくれ」と真剣に言った。ならば他所属員まで使って「作業」にあてられる立場にあったのは、現在、某警察署で警備課長の職にあるT警視(当時、荏原警察署警備課長)と、現在警視庁の警備部理事官の職にある唐崎(からさき)郁夫警視(当時、同副署長)だけだ。
 嫉妬から生まれた追い落とし工作 p143-146

 結論から言うと、一連の「事件」は、唐崎副署長の私に対する「嫉妬」が原因という、じつにくだらない話だったのだ。ここで、当時の荏原警察署幹部と私の関係について若干ふれる必要がある。まず、佐藤安行署長は私が本庁の第二自動車警ら隊に所属していた当時の副隊長で、警備課長のT警視は第三中隊当時の直属の中隊長だった。さらにクラブの相談役を引き受けてくれたS警部補も第三中隊の先輩で、そんな気心の知れた関係にあったため、私が他の署員とはちがった親密さで幹部と接していたことは否定できなかった。副署長の唐暗警視には、それが気に入らなかったのだ。

 「唐崎副署長がね、『あいつ(筆者のこと)は署長に呼ばれて署長室に入るとなかなか出てこない。中から笑い声が聞こえてくる。俺を無視していた、だから俺は黒木を辞めさせたかった』って言ってたわよ……」と、当時唐暗副署長からしつこく交際を迫られていたという荏原警察署出入りの女性生保勧誘員が私に語った。

 「事件」から四日後の十二月七日、私とS警部補の二人が、突然、配置(係)換えを命じられた。その理由を尋ねても、当時の担当係長は何も答えなかった。結局、署をあげてわれわれを調べた結果、処分にあたいするものが何も出てこなかったのだが、署長の息のかかった二人をそのまま捨て置くわけにはいかず、一般の内部異動として処理しようと考えたわけだ。署長を含めたわれわれ三人の関係は周知の事実で、退職を目前にした署長が表向きS警部補と私をかばうことはできなかった、というのが当時の署員たちのおおかたの見方だった。

 数目後、地域課長のF警視から、「黒ちゃん、始末書を書いてくれ」 と言われた。「何の始末書ですか? 追っかけまで付けて大騒ぎして、今回のことはたかだか始末書程度のことだったのですか」と私は意地悪く尋ねた。「黒ちゃんは、無届けで船の免許とったでしょ。届けなしにクラブもつくった。だから始末書を書いてもらいたいんだよ。雛形は用意しておくから。もし書く意思がないなら、署に来てもらっては困る……」と言う。

 それは承服しかねる始末書の要求だった。「バカにするのもいいかげんにしろよ、叩けば何かが出ると思い込んで、お前らが勝手に話を大きくしておきながら、最後は始末書だって。書かなければ署に来るな、か。上等じゃないか、こっちから辞めてやるよ!」と言ってやりたか った。しかし、その場は「ぐっと」我慢することにした。

 そして、事態収拾のためにメンバー全員が同じように始末書の提出を求められた。「これは強制ではないからな」と言いなから雛形どおりに書けというのだ。W巡査長への扱いはとくに面白かった。「俺は車の免許もないんだぜ、船の運転なんかできないよ」とみんなを笑わせて受験しなかった彼の扱いには、荏原警察署幹部も苦心したようだ。始末書の理由は「無届けで危険なマリンスポーツであるクラブに参加し、船に乗った」という「罪状」である。「ばか言うなよ、それじゃ釣り舟に乗ってる連中もみんな始末書だな」と、いまとなっては笑い話以外のなにものでもない。
 反撃ののろしを上げる p146-147

 私自身の意思はすでに固まっていた。前述した第二自動車警ら隊当時に受けた屈辱的な処分の一件で、「俺は以後、納得のできない組織の対応には従わない。納得できない始末書を求められたら、迷わず退職願を書く」と、腹を決めていた。だから迷いはなかった。「我慢もここまでだ。親父ゴメン」。私は仲間に退職の意向をひそかに伝え、「大警視庁」を相手に戦う作戦を立てた。

 まず、十二月八日、出勤早々に体調の不良を上司に申し出た。それも精神的不調である。ただちにタクシーで警視庁健康管理本部に案内され、担当した氏田章子氏のカウンセリングを受けることになった。「頭がボーッとなるんです。イライラするんです。不安に襲われるんです」。症状を訴えると、当惑した氏田氏は、私が事前に予想していたとおり、東京警察病院の神経科への受診を勧めた。警察病院の診断結果は「不眠症」だった。「おおむね一週間の自宅加療を要す」との診断書を受け取り、以後、その診断を更新しながら翌平成十一年一月まで合法的に休みつづけ、告発本の第一弾の執筆にとりかかったのだった。

 私の退職の意思を伝え聞いて小躍りしたのは唐崎副署長と豊泉警部だろうが、今となっては立場は逆転した。私が人生の踊り場でもがき苦しんでいたとき、今の立場(ジャーナリスト)に導いてくれたのは、まぎれもなく彼らなのだ。そして今また、警察を愛するがゆえにこの本を書くことができた。あらためて感謝の意を表したい。
2 恐るべきキャリア制度の実態 洗脳と服従がつくりあげた独裁体制
 
 脈々とつづく内務官僚人脈p148-150
 
 皇居桜田門の正面に威風堂々とそびえ建つのが、おなじみの警視庁である。桜田通りを西に進むと、そのすぐ隣に古ぼけた人事院ビルがある。(執筆当時) 警視庁の物々しい警戒態勢にくらべると、衛視が一人立つだけのこの庁舎は、きわめて地昧な感じがする。というよりも、広々とした桜田通りと官庁街の大きな建物に目を奪われて通り過ぎてしまう。そんな寂しいたたずまいだが、じつはこれがすべてのキャリア警察官にとっての古巣、警察組織の総本山「警察庁」なのである。
 
 人事院ビルは昭和八(一九三三)年に建設された老朽化の進むビルで、戦前までは「内務省」が入っていた「旧内務省ビル」である。警察社会にとっていわくつきの「旧内務省ビル」に警察庁が現在も居を構えているのだから、旧内務省と警察庁の血流がいまも脈々とつづいていることをあらためて感じさせる。
  
 新潟県警不祥事で発覚した「カラ監察」以来、とかく話題にのぽる国家公安委員会と警察庁との関係をご存じだろうか。警察法の第四条には、「内閣総理大臣の所轄の下に、国家公安委員会を置く」と記され、同法第一五条には「国家公安委員会に、警察庁を置く」と、それぞれの関係が明記されている。この条文は、警察庁は国家公安委員会の管理下にあり、他のいかなる機関からも指揮監督を受けないという独立権をうたっている。
 
 しかし、同法七一条には緊急事態の特別措置として、「内閣総理大臣は、大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態に際して、治安の維持のため特に必要があると認めるときは、国家公安委員会の勧告に基き、全国又は一部の区域について緊急事態の布告を発することができる」ことになっている。
 
 警察庁長官は国家公安委員会が内閣総理大臣の承認を得て任命するシステムとなっているから、日本の警察は、緊急事態に対しては内閣総理大臣が直轄する「国家警察」となるわけだ。
 
 法律上、警察は国家公安委員会の管理のもとに運営され、政治的にも中立であることとされている。しかし、このタテマエは虚構と言わざるを得ない。警察機構の実質的トップである警察庁長官および警察庁次長が、国家公安委員会と同じビルで、屋根をひとつに同居していることからもそれは明らかだ。
 
 ためしにNTTの電話番号案内で、国家公安委員会を調べてみるといい。教えられた番号に電話をすると、「はい、警察庁です」と出る。つまり、国家公安委員会は警察を管理するのではなく、警察に管理されているというわけだ。そもそも国家公安委員は警察庁が人選しているというのも常識なのだ。こうした名誉職的お飾りに税金から高額の報酬が支払われていることに、国民の理解が得られているとは思えない。いずれにせよ、その国家公安委員会を実質的に「管理」している警察庁の長官は内閣総理大臣の承認を得て任命される。それが政治的に中立だとは、とても思えない。
 三十歳で署長が務まるか p150-152
 
 さて、一連の不祥事でキャリアの実態はすでに多くのメディアによって解き明かされているが、彼らの隠された実態は、たんにごく一部の強大な権力を持つエリート集団であるという程度のものではない。昭和三十二二九五七)年からはじまった国家公務員上級職試験(現二困家公務員試験I種)は過去に多くのエリートを生みだし、世に送りだした。そして、退職後は民間の優良企業への天下りもさることながら、政界に転出した者も多い。
 
 現在、警察刷新会議の牽引役として活躍している後藤田正晴氏(昭和十四年内務省人省。元警察庁長官)を筆頭に鈴木貞敏氏(戦後キャリアとしてはじめての警察庁長官)、故人となった元警視総監の原文兵衛氏(昭和十一年内務省入省)も警察官僚OBである。現職議員としては、内閣総理大臣を経験した元警察庁監察官の中曽根康弘氏(昭和十六年内務省に人省、終戦時は海軍主計将校)をはじめ、仏田智治氏、亀井静香氏、阿南一成氏、平沢勝栄氏もその面々である。
 
 つまり警察キャリアと政界との癒着の歴史は古く、「不偏不党、公平中立」の精神は、それら警察官僚OB率いる強大な勢力によって歪められていると言っても言いすぎではない。
 
 彼らが政争のために警察情報や組織をフルに活用していることは、これまで多くのジャーナリストが指摘しているが、かつて現場警察官だった私のような者には、それがどうしても許せないのだ。警察組織は国民のために存在するのであって、特定の政洽勢力に加担してはいけないはずだ。
 
 警察におけるキャリア制度の問題点は、教育界にたとえて考えるとわかりやすい。それはまるで文部官僚と現場の教職員が回居しているようなものなのだ。キャリア警察官のスタートラインは警部補だが、教師でいうなら、それは教務主任クラスだろうか。新任教師がいきなり主任をまかされたら、いったいどんなことが起きるだろう。想像するだけで恐ろしい。しかし、これはまだほんの序の口。キャリア警察官はその後「飛び級」を重ね、「実戦」経験もそこそこに、三十歳前後の若さで、約三百人の部下を持つ警察署長という職につく。警察署長といえば、校長である。

 二十歳代前半でキャリア試験に合格したというだけで、親子ほど年のちがう、いわば人生の大先輩(副署長)を秘書のように従え、まわりの感情を無視した、やりたい放題が通用してしまうのだから、人間性が変わってしまうのも無理はない。しかも、それすらわずか一年余の任期で卒業し、「つぎのステップ」に進んでいくのだから、志を立てて巡査から這い上がって署長の座を射止めた者とは、思い入れの面でも相当のちがいがある。もしも三十歳前後の若さで、しかも実践経験の少ない校長だとしたら、はたして学校運営自体が成り立つだろうか。学校にはPTAがあり、教職員組合もある。地域との協力も重要だ。それより、現場で働く教員たちの理解が得られるだろうか。
 
 それぞれにみずからの教育理念を持った叩きあげの教員が、はたしてキャリアという肩書を持つ若き校長の指示に従うだろうか。こんなことが通用するのは、おそらく警察組織以外にはあり得ない。それがなぜ、警察社会では綿々とつづいてきたのだろう。じつは警察機構の複雑な矛盾を考えるうえで、そこがいちばん重要なポイントなのである。
 マスコミ対策のための巧妙な内規改正 p152-155
 
 
 警察杜会では「組織防衛」という言葉をよく耳にする。それは一〇〇パーセント上級幹部から発せられるもので、下っ端の警察官から出ることはほとんどない。たとえばマスコミ対策もその一つだ。
 
 平成十二年四月に、警視庁の内規(服務規程)が改正された。私はあるルートを通じて資料を人手し、改正部分を分析したが、内容は旧態依然であり、たいした改正箇所は見当たらなかった。では、警視庁はなぜ仰々しく内規の改正をぶちあげたのか。現職の現場警察官の声を聞くと、さらなる「組織の締めつけ」という目的が浮上してきたのである。
 
 警察の杜会には「訓授」と呼ばれる制度がある。民間企業における朝礼と似たようなものと考えればいい。本部から各警察署に訓授のモトになる「訓材」がファックスで送られてくる。警務係の担当者は、訓材を訓授整理簿に綴り、内容を講堂の黒板に記載することになっている。そして、土日祝日を除く毎朝、所属長(警察署長)がその「訓材」に沿って長々と訓授(説教)をする。
 
 一方、訓授を受ける側の警察官の仕事は昼夜を問わない完全シフト制だから、全員が毎朝一堂に会することができない。そのため、警察署ではもっとも人数の多い地域課のシフトにあわせて内動員を四つに分割するので、一人の警察官は四日に一度の頻度で訓授を受けることになる。訓授の目的は、津々浦々で勤務する全庁職員に本部の意思を伝えることにある。
 
 今回の内規の改正も、当然、訓授の材料(訓材)になった。では、警視庁管内の各警察署長は、この訓材を使ってどんな話をしたか。じつはかつての警官仲間数人から、私のもとに立てつづけに通報があった。「黒木、大変だ。うちの署長が、おまえのかかわった『週刊朝日』の記事をやり王にあげて批判していたぞ……」。
 
 複数の仲間からの「通報内容」は一致していたから、本部の指令にもとづいたものであることは間違いない。各署長は、改正された内規の「所見公表の禁止」という部分をとりあげて訓授をおこなったのである。「所見公表の禁止」とは、警察官がおおやけの場で個人的な意見を述べてはいけないということだ。
 
 じつは、警視庁が内規改正を発表する約一ヵ月前、私は『週刊朝日』(四月十四日号)誌上で、史上初の現職警官(警視庁二人、神奈川県警一人)による制服座談会をおこなったばかりだった。座談会では日ごろから抱える警察制度の問題、とくに交通取り締まりのノルマ制度、超過動務手当の詐欺的不払い、いまでもつづくニセ領収書問題など、現場の警察官にとってきわめて身近な題材がテーマとなり、その詳細が記事になった。
 
 なにしろ現職警察官の赤裸々な告白だけにその反響はすさまじく、警視庁の現職警察官からは「よくぞ言ってくれた、もっと頑張ってくれ」という激励の言葉が寄せられ、他府県警の警察官からも「わが県警も、『週刊朝日』に書かれていたこととまったく同じだ」と同調する意見が多数寄せられたのである。
 
 しかも、編集部のたっての希望で全員が階級章付きの制服着用で登場した。当然、上層部にとってはおもしろくない。ある警察署長は『週刊朝日』の記事と「所見公表の禁止」の内規とを引き合いに出して、「許可なく所見を公表した場合は、理由のいかんにかかわらず即刻クビだ」とまで言い放ったという。
 
 もちろん何かあるとは予想していた。座談会終了後も、私は出席してくれた三人の現職警察官の身辺が気がかりだった。日本の警察組織がこの種の事案を見過ごすはずがないからである。私は彼らとの連絡を極力控え、警察上層部の動きを察知することに集中した。ところが案に相違して、不思議なことに今回は表向き「犯人探し」はおこなわれなかった。反撃の準備をしていた私にとっていささか拍子抜けの感はあったが、さすが警視庁、黙って見過ごしていたわけではなかった。驚くほどずる賢い方法で、わずか一ヵ月のあいだに素早く対応したのである。
 
 彼らは一人二人の告発者を探し、見せしめ的に処分するよりも、すでに屋台骨の腐った組織の立て直し(組織的締めっけ)に重点を置いたのだ。それが、あのもっともらしい警視庁内規の改正だったのである。
 
 読者は、実質中身の変わらない内規の改正がなぜ組織の立て直しに役立つのかと疑問に感じるだろうが、内規改正を口実に「訓材」に載せれば、管内津々浦々で勤務する全庁職員に、「内部告発者をクビにする」という本部の意向を伝えることができるのだ。じつに巧妙である。
 
 『週刊朝日』の記事は、病める組織の根幹にかかわる内容だったため、当然、警視庁はこうした内容がふたたび表に出ることを恐れたのだろう。しかし、いくら組織防衛を目的にしているとはいえ、一週刊誌の一記事を訓材に載せるわけにはいかない。ましておおやけになれば、またまたマスコミの餌食となる。そこで、内規を表向き改正し、そのうえで所属長訓授の個人的な言葉として「週刊朝日に書かれている記事のように内部告発をすれば……」と訓授をさせれば、脅しは完璧に伝達されることになる。つまり、無意昧な内規改正の「意昧のある」目的がそこに隠されていたのだ。
 
 実際、効果はてきめんだったらしい。知り合いの週刊誌記者が、「それまでネタ元(情報源)にしていた警察官にいつものように連絡すると、『あんたらと話していることがバレるとクビになるから、勘弁してよ』と断られた」とボヤいていたほどだ。
 キャリアによる一党独裁体制 p156-157
 
 
 警察杜会は完成された共産主義と同じである。これが、二十三年間におよぶ警察経験から得た私の結論である。少数のエリート(キャリア)による一党独裁。警察学校からはじまる洗脳教育。組織の命令には絶対服従するように訓練され、反論することをいっさい許さない。知らず知らずのうちに管理されることがあたりまえで、この社会に見放されたら生きていけないのだと思い込まされるのである。
 
 警察組織は、みずからにとって都合のよいだけの、しかも現実離れした、とうてい遵守できるはずのない内規をつくりだし、さらにその内規をもとに、監察・公安の秘密組織が二本柱となって得体の知れない恐怖心を警察職員に植えつけ、支配し、絶対に抵抗のできないロボット人間をつくりあげるのである。(監察・公安については、本書の「おわりに 警察は立ち直れるか」で詳しく述べる)。
 
 警察官はこんな共通の幻影を抱いている。現場の警官は疑問を持たず言われるまま組織=キャリアのために働き、さらに一生秘密を守り通せば、その身分∴地位に応じて将来を保証される。反対に、組織に刃向かい、わずかでも謀反を起こせば、現在の地位はもとより将来の安泰もなく、仮に形式上、円満に退職したとしても、その後の活動は秘密組織によってマークされる。組織上不利益な事態を引き起こせば、本人はもとより、子供、孫、親戚に至るまで累は及ぶ、と。
 
 しかし絶対支配階級のキャリアも、じつは彼らの世界では想像を絶するほど長期にわたる警察的洗脳教育が施される。前述した警察官僚OBの偉大な権力(警察組織に対する強力な影響力)も、じつはこの幻影支配に一役買っている。しかも、政治の世界は一寸先は闇である。それゆえに絶大な権力を握る現役キャリアにとって、警察OBの政治家はいっそう恐ろしい存在なのだろう。
 
 警察の組織構造はキャリア独裁による共産主義国家体制に似ていると書いたが、じつは警察官僚OBが陰の黒幕集団として警察組織を牛耳っているのだ。彼らに比較すれば現職の警察庁長官など木っ端者にすぎない。
 
 歴然と存在する警察の裏金問題や、選挙違反の摘発指示、さらには事件のもみ消しなど、警察組織の最高幹部が腹を決めて直接指示を下せば改善・自浄できる事柄がいくつもあるにもかかわらず、それが改まらないのは、そうした黒幕集団の権益保護があるからにほかならない。
 キャリアはどのように洗脳されていくか p157-159
 
 では、キャリアはどのように洗脳されていくのだろうか。全国の有名大学を優秀な成績で卒業し、国家公務員試験Ⅰ種に合格した新米キャリアは、はじめからキャリア世界に毒されているわけではない。テレビのインタビューに答える彼らの姿はみな希望にあふれ、「社会正義実現のために一生をかけて働く」という気概を感じさせる。しかし、その新米キャリアも超スピードで飛び級を重ねて出世を果たしていくうちに、初心を忘れ、権力意識に目覚め、庶民感覚を失う。現場の警察官のなかにキャリア警察官を仲間だと意識するものは少ないが、その理由は、ただたんに飛び級の出世を果たすからだけではない。最大の理由は、一般警察官が各自洽体の採用であるのに対し、キャリアは警察庁採用の国家公務員であるからで、キャリアには、前述した警察官僚OBを頂点にした彼らの牙城があるからだ。

 キャリア候補生が警察庁に採用されるとまず警部補に任官し、警察庁の付属機関である警察大学校で三ヵ月間の初任幹部課程教育を受ける。その後、大きな警察署の第一線(の安全なところ)で約九ヵ月間の見習い期間を過ごすが、その修了時にはめでたく警部に昇任する。さらに実務にもとづいた補習課程を受けるため、ふたたび警察大学校に戻り一ヶ月半の時を過ごすが、キャリアヘの限りない「洗脳」教育はこれで終わるわけではない。その後二年間の警察庁勤務を終え、三度目の警察大学校入りとなり、一ヵ月間におよぶ最終教育を経て一人前(洗脳済み)の警視に昇任するのである。

 日本の最高機密に直接かかわる彼らキャリアに警察的洗脳教育が必要であることはいうまでもない。さしたる機密にアクセスすることのない一般警察官にさえ執拗な洗脳教育が繰り返されるのだから(これについてはあとの項目でふれる)、みずからの体制維持のためにキャリアに洗脳教育がおこなわれたとしても、なんら不思議はない。過去に不正行為をおこなったキャリアの実例がすべてを証明しているように、キャリアたるものには、ありあまる地位と名誉、そして権力を与え、国家が最大限その身を守る。そして将来は破格の天下り先を準備し、経済的富を約束する。

 では、現場の警察官として各地方自治体に採用された一般警察官はどうかというと、ある意昧では彼らにもそれなりのコースが保証されている。巡査という地位からスタートした一般警察官は、警視までは各都道府県警の職員だが、警視正に昇任した時点で国家公務員の身分となる。同一の都道府県警に所属して、外見上は警視と警視正とはわずかな階級のちがいにしか見えないが、ここには見えない厚い壁がある。地方採用のノンキャリアも、警視正に昇任した際には、いったん都道府県警を退職し、退職金の支給を受ける。そして、新たに警察庁に採用され、国家公務員となるのである。つまり、この時点で一般警察官もキャリア警察官の仲間人りを果たすわけだ。もちろん、警視正昇任時の年齢からして、飛び級で昇任する本来のキャリアと性格はまったく異なるが、少なくとも退職金の二重取りがあり、天下り先についても、地方公務員である警視との差は大きく、歴然としたちがいが発生する。 これが、キャリア世界に身を投じた者への契約事項である。

 しかし、その代償として、この世界の掟に背き、裏切り行為(秘密の暴露)のひとつでも組織が認めれば、本人は当然のこと家族、親族の身さえ保証はできないと言わんばかりの幻影を抱かせるのが、警察的洗脳教育の大目的なのだ。有名大学を卒業し超難関試験を突破したにもかかわらず、謝罪会見に立つキャリアや国会で答弁を求められた歴代警察庁長官が子供にもわかるようなウソを平然とつくのは、この警察的洗脳教育のなせるワザとしか言いようがない。
 キャリアの現場指揮が招いた大騒動 p160-162

 それは私がまだ警視庁本富士警察署に勤務していたころの苦々しい思い出である。平成七(一九九五)年にオウム真理教による一連の事件(小杉巡査長事件)発覚まで、警視庁本富士警察署の歴代署長には束京大学法学部を卒業し、警察庁志望者のなかで上級職試験成績トップの超一流のキャリア中のキャリアが就任するという不文律があった。私がその栄えある本富士警察署に勤務していた当時の署長も、警察庁採用後わずか五、六年の若き警視だった。

 どんよりと曇った昭和五十年代のある夏の日のこと。場所は上野警察署管内に隣接する池之端文化センター。われわれ本富士署員は署長以下約五十名態勢で現場に警備本部を設置し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人総聯合(朝鮮総連)の集会警備にあたっていた。警備実施に先立ち署長から、「公安情報によれば、敵対する在日本韓国人居留民団(民団)が同集会場を襲撃する可能性があるという話があった。会場の外周を固め、民団員の進人を絶対に阻止し、違法行為があれば必ず検挙せよ」と訓示があった。

 当時、新米巡査だった私は、同文化センターの正面玄関で出入りする者のチェックを担当していた。朝からどんよりと曇っていた空は一段と黒さを増し、いまにも雨が降りだしそうな空模様となっていったが、それが「事件」の発端だった。当時の現場警察官は、警備実施にあたるときは必ずUWという無線機を携行し、各ポイント間および隊長間で密接な連絡を取り合うことになっていた。私のUWに「地下鉄湯島駅付近に複数の男女が蝟集(いしゅう)している」と、外周を警戒している触覚員から報告が入った。

 警備係の主任はただちに、この状況を全警戒員に連絡した。一瞬にして付近に緊張が漂ったが、若き署長は上空の黒い雲が気になったらしい。五分、十分と時間が過ぎていくうち、彼は腕時計に目をやりながら、「あいつらまだ来ないだろう、雲行きが径しいから、いまのうちにカッパを取りに行かせたらどうだ」と軽く言いだしたのだ。

 警備課長は困った顔をしながら、「わかりました」としか答えなかった。「バスで戻るんだろ、いいからまとめて行かせろ」という署長の言葉に逆らえなかったのは警備係長も同じである。ただちに三十名ほどが集められてバスに乗り、警察署にカッパを取りに戻った。

 警備が手薄になったこのときを、民団員は見逃さなかった。五十名を超える民団員が二手に分かれ、文化センターの正面玄関に立ちふさがるわれわれを押しつぶすようにして分厚いガラス戸を破り、集会会場になだれ込んだのだ。館内は怒号で騒然となった。あちらこちらで悲鳴が聞こえ、阿鼻叫喚、乱闘の場と化したのである。

 緊急転進で現場に戻った警察官と、応援に駆けつけた機勤隊員との協力で現場が鎮められたのは、発生から一時間も経過してからのことだった。右腕を負傷した私に、警備諜長が静かにこう言った。「朝鮮総連の集会に民団が襲撃したからわれわれも助かったが、もしこれが逆だったら、こんなものではすまなかっただろうな」。

 この警備は相手を侮った失敗のお手本のようなものだった。まして彼らの突入時、最高責任者たる署長も現場を離れていたのだから、お話にならない。ちなみにこのキャリア署長は、その後に本部長として赴任したそれぞれの県警で不祥事が起きているが、いまだに失脚することなく生き残っている。

 日本の警察事情 警察の掟 2
 民間では尾行張り込みと言っているが、警察内部ではそれを総称して「まとわり」という。このような調査を数日間行われれば、誰でも、どれかに引っかかり、それを理由として退職に追い込めるのだ。これが現実であり、組織の手口であり、実際にこの手を食らって退職に追い込まれた者は多い。しかし、「まとわられ」ていることに気づいた者は注意を払い、落ち度のない行動をとる。この段階で組織は、調査方法を変える。今まではひそかなまとわりだったが、今度はあえて姿を見せ、公然と絶えずまとわり、「お前には将来がないぞ」と思わせるのだ。ここまで来ると、精神的に誰でも参る。そこで組織に嫌気がさし、早晩自ら退職の道を選んでしまうのである。こんな人権無視の内規が存在すること自体が、警察の後進性を示している。
 
 また、在職中だけ気をつければいい、とはならないのが警察組織だ。たとえ円満な退職であっても、警察の内部情報を漏らす者がいるのではないかと、退職後一定期間、公安や監察が公然と退職者への調査活動をすることがある。このような恐怖の調査活動を、警察内部では、「公安が動く、観察が動く」って恐れられている。

 公安、監察などは、あまり実態が見えない組織であるために、より警察組織の奥深さ、恐ろしさを増幅させ、一般警察職員の洗脳にその噂が効果的に使われているのだ。だから自身の退職後も、見えない警察署式の調査が行われているはずだと恐怖を実感し、在職中はもちろん、退職後も口は貝のように閉ざされることになる。結果として警察内部の情報は、どこからも漏れないという仕組みが築かれ、延々と機能し続けてきたのだ。

 しかし、このように骨抜きにされた警察官だけしかいないわけではない。組織のあり方に反発するものも結構いるが、それでも退職後は、警察組織と一切の関係を断ち切るだけで、恐怖が理由かどうかは別にして、内部情報を暴く人はほとんどいない。そのような先輩警察官が極めて多いのも事実なのだ。警察応援者であるべき、それら警察 OB が声をそろえていう言葉がある。「俺は警視庁にさんざんいじめられてきた。警察の悪質な取り締まり手口を知っている。今後は絶対に警察に協力しない」と声高に言うが、果たしてその真の意味は何なのか?警察幹部は、それをしっかりと受けとめ真剣に考えなくてはいけない。(拙著「警官は狙いを定め、引き金を弾いた」より)
 警視庁警察職員服務規定

 第一章 総則
 第1条(目的)
 この規定は、警視庁警察職員が、保持すべき職務にかかる倫理及び職員の服務について必要な事項を定めることを目的とする。
 第2条(準拠)
 職務倫理及び服務については、別に定めがあるもののほか、この規定の定めるところによる。
 
 第二章 職務倫理
 第3条(職務倫理)
 職員は、首都治安確保の重責及び警察の任務が国民から負託されたものであることを自覚し、国民の信頼にこたえることができるよう、高い倫理観のかん養に努め、職務倫理を保持しなければならない。
2前項の職務倫理の基本は、次に掲げる事項とする。
一 誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕すること。
二 人権を尊重し、公正かつ親切に職務を執行すること。
三 規律を厳正に保持し、相互の連帯を強めること。
四 人格を磨き、能力を高め、自己の充実に努めること。
五 清楚にして、堅実な生活態度を保持すること。
 
第三章 服務
第一節 服務の基準
第4条(服務の根本基準)
職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、かつ、その職務の遂行にあたっては、普遍不党かつ公正中立を旨とし、全力を挙げてこれに専念しなければならない。
第5条(法令の厳守)
職員は、その職務の遂行にあたっては、法令、条例、規則など及び上司の職務上の命令を厳守し、その権限を濫用してはならない。
第6条(信用失墜行為の禁止)
職員は、国民の信頼及び協力が警察の任務を遂行する上で不可欠であることを自覚し、その職の信用を傷つけ、または警察の不名誉となるような行為をしてはならない。
第8条(職務の公共の保持)
職員は、職務に支障を及ぼす恐れがあると認められる金銭、物品その他の財産上の利益の提供もしくは供応接待を受け、または職務に利害関係を有するものと職務の公正が疑われるような方法で交際してはならない。
 
第二節 職務
第9条(危険と責任回避の禁止)
職務上の危険又は責任を回避してはならない。
第10条(職務の遂行)
職員は、職務の遂行にあたっては情理をつくして相手方の納得のいくように努めるとともに、事の軽重、緩急を計って実情に即する措置を執り、かりそめにも警察の便宜から公衆に迷惑をかけるようなことがあってはならない。
第11条(急訴に対する措置)
職員は、急訴に接し、又は警察上緊急に措置する必要があると認められる事態に遭遇した時は、勤務の当否または管轄の内外にかかわらず、迅速かつ機宜の措置を取らなければならない。
第12条(上司の補佐)
職員は、職務に関する建設的な意見を積極的に上司に具申するとともに、進んで上司を補佐しなければならない。
第13条(応接の基本)
職員は、応接に際しては、親切、丁寧かつ迅速を旨とし、常に相手の立場に立ってこれに当たらなければならない。
第14条(言語態度)
職員は、各種取り扱いに際しては、相手方の言動などに左右されることなく、冷静ちん着を旨とし、いやしくも粗暴、野卑な言動は、厳に慎まなければならない。
第15条(相談事案等への的確な対応)
職員は、各種相談事案などの受理に際しては、積極的にこれに対応しなければならない。なお、相談事案などを処理する場合は、厳正公平に対処しなければならない。
第16条(呼出し)
職員は、参考人などに対し任意に出頭を求める場合は、相手方の都合を十分に考えて行い、また、通してきた者に対しては、礼を失することなく迅速かつ的確に措置するように努めなければならない。
第17条(身分の表示)
職員は、相手方から身分の表示を求められた場合は、職務上支障があると認められる時を除き、所属、階級、職、及び氏名を告げなければならない。
第18条(報告連絡)
職員の、職務上の報告連絡は、特別の場合を除き、順序経て迅速かつ正確に行わなければならない。
第19条(事故報告)
職員は、職務に関する紛争その他の事故が発生した場合においては、その詳細を速やかに上司に報告しなければならない。
第20条(情報の報告)
職員は、勤務の当否を問わず、警察上必要と認められる情報を入手した時は速やかに上司に報告しなければならない。
第21条(公文書などの取り扱い)
職員は、公文書、証拠品その他職務上の保管又は取り扱いにかかる物件について、その適正な管理に努めなければならない。
第22条 (勤務欠略の禁止)
職員は、勤務を怠り、又は理由なくこれを変更してはならない。
第23条(無断欠勤の禁止)
職員は、通信、交通機関などの途絶により、連絡の方法がない場合のほかは、届出をしないで欠勤、遅刻又は早退をしてはならない。
第24条(外部派遣者の服務)
国又は公共団体の機関に派遣されている職員及び研修などのため学校その他に派遣されている職員は、その派遣先の規律にも服さなければならない。
 
第三節 品位の保持
第25条(政治に対する中立性の保持)
職員は、特定の政党又は政党人のために特別の推薦をし、又は労務もしくは情報の提供をするなど、一党一派に偏するような行為をしてはならない。
2 職員は、政治に関しては、警察の中立性を堅持し、不用意な言動からこれを、疑られるようなことがあってはならない。
第26条(宗教活動の制限)
職員は、職務に影響を及ぼすような方法で、宗教的活動をし、または宗教的議論をしてはならない。
第27条(所見公表の制限)
職員は、所属長の承認を受けないで、職務に関し、又は職務に影響を及ぼす恐れがある所見を公表し、または、新聞雑誌などに寄稿してはならない。
第28条(寄付金募集行為の禁止)
職員は、警視総監の承認を受けた場合のほか、名目のいかんを問わず、寄付金などを募集してはならない。
第29条(品行)
職員は、起居、動作、服装その他身辺については、端正かつ清潔を旨とするほか、礼節を尊び、社会道徳を重んじ、常に職員としてふさわしい品行の保持に努めなければならない。
第30条(健全な生活設計)
職員は、計画性のある健全な生活態度を保持することに努め、いやしくも支払能力を超えて借財をし、経済的破綻から職務に影響を及ぼすようなことがあってはならない。
2 職員は、身分を利用して、借財をしてはならない。
第31条(飲酒)
職員は、勤務に支障をおよぼし、または品位を失うに至るまで飲酒してはならない。
 
第四節 その他
第32条(緊急時の招集)
職員は、病気、負傷などにより休養している場合のほかは、いつでも緊急の招集などに応じられるようにしておかなければならない。
第33条(療養専念)
病気、負傷などにより休養中の職員は、医師及び関係者の指示にしたがって療養に専念し、早期回復に努めなければならない。
第34条(外泊、旅行などの届け出)
職員は、外出又は日帰りの旅行をするときは、有事などの連絡に支障をきさないよう必要な措置を講じなければならない。
2 職員は、外泊又は2日以上にわたって旅行をするときは、所属長の承認を受けなければならない。
第35条(住居などの届出)
職員は、新たに住居を定め、またはこれに変更が生じた時は、速やかにその住居、管轄警察署名及び所管交番又は駐在所名を所属長に届け出なければならない。
第36条(管轄外居住の制限)
職員は、東京都の区域内に居住しなければならない。ただし、やむを得ない事情があって、所属長の承認を受けた場合はこの限りではない。
第37条(外部の受験届出)
職員は、警視庁以外の官公署その他の機関などの実施する資格試験その他の試験を受けようとする場合は、所属長に届け出なければならない。
 警察の掟 服務規程(正法)と掟(外法)
 
 次ページに書いたのが警視庁警察職員服務規定という内規である。
書かれている事の大部分は公務員として当然の事ばかりだ。
だが、この服務規程が警察官個人を縛り付ける掟となる。
服務規程の真の目的がこの条文を守らせるためにあるのではなく、いざという時に、合法的に組織に都合の悪い人物を退職させたい時など、口実を設けるための内規として存在していると言っても過言ではない。
 
たとえば、民間で以下のような規定があるだろうか。
 
1 外出、旅行の承認=休日でも管轄地域外に外出する時や、日帰り旅行は届け出が必要。
2 外泊承認=休日でも自宅以外に泊まる時や、2日以上の旅行の時は所属長の承認がいる。
3 車両保有届=車を購入する前に上司に相談し、購入後速やかに届けることが義務づけられている。
4 車両利用届=休日でも、車で旅行するときには、所属長の承認が必要。
5 携帯電話番号の強制的な届出
6 電子メールアドレスの強制的な届出
7 資格試験の受験=所属長に届出(運転免許を含む)
 
さて、ここに警察を辞めさせたい警察官がいるとする。
その時内規に照らして辞めさせるには、以下のような項目をチェックする。
すると、誰でも強制的に退職に追い込めるのだ。
 
◇朝、家を出る=届け出通りの通勤コースで出勤したか否か、定期券で乗車したか否かをチェック!
 
◇制服に乱れがないか=頭髪が伸びているかどうか、髭を剃っているか、アイロンをかけているか、靴は磨いているか、姿勢態度は良いか、チェック!
勤務表通りの勤務をしているか=見張り所で帽子を取っていないか、警ら中にサボっていないか、巡回連絡にいったかをチェック!
 
◇退庁時間を守ったか、届け出通りの帰宅コースを守ったか、飲酒を届け出か、梯子酒ではないか、節度ある飲酒だったか、立ちションベンをしていないか、身分相応の店で飲んだか(高級店は不可。ただし身分相応かは監察が決める)。同伴の女性は誰か、午前零時を過ぎたとき、外泊許可をとっているか、無断外泊をしたか、チェック!
 
◇休日=東京都から離れた場合、届け出があったか、車は保有届け出があったか、車両を利用届けがあったか、外泊、旅行の承認をとっていたかをチェック!
◇ふさわしくない交友関係があるか=みだらな男女関係かをチェック!
 考察と結論 3
 
 進むべき道 参院選出馬を断念

 最終の目的地に到達した訳ではありませんが、私はこれまで、できる限りを尽したと考えています。多くのテレビメディアに拒否される中、初プレゼンから1年以上を掛けて放送にこぎ着けた「ザ・スクープスペシャル」には感無量で、次なる展開に期待しました。しかし残念ながら警察は動かず、マスコミのただの一人も追跡取材に参戦しませんでした。お手上げだと思いました。期待は大きな落胆に変わりジャーナリズムの限界を痛いほど知ったのです。
 
 思えば、私の活動は「キャリアに傷を付けてはならぬ」とする鉄壁の掟を突破するどころか、結果的に、キャリア中のキャリア官僚の首まで吹っ飛ばすものです。警察が総力をあげて手を回し妨害すのは当然の理でした。その為に私は、第22回参議院議員選挙への出馬を考えたのです。「身の程知らず」と笑われるのは覚悟でした。むしろ、笑われることでこの事件の風化を防げるなら本望だとさえ思えたのです。議員の誰もが追及せずマスコミの追跡取材もない現状において、「ザ・スクープスペシャル」の放送が終わったとたん風化に向かうと確信したからです。
 
 初めに浮かんだのは岩手選挙区に無所属で出馬する事でした。当選など初めから考えていません。狙い目はただ一つ、地元メディアが報じないこの事件を、政権放送を使って岩手県民に伝え決起を促すことでした。これに対し、ネット上で賛否の声が湧きあがったのはご承知のとおりです。友人や知人から届く言葉の多くは「無謀」だというものでした。これまでの1年半で持ち合わせたスタミナの大半を使い果たし、その上選挙とは尋常な発想ではないというのがその理由です。
 
 しかし、やがて当選する事を思い描くようになりました。何度頼み込んでも腰を上げない国会議員をあてにするのではなく、自分自身が議員として事件解決に取り組み、全国に散らばる警察被害者の声を集め、独自のチャンネルで国民に洗いざらいを伝え、身をもって知った公安委員会制度のイカサマを改革するために賛同議員を募り、真に国民の為になる組織に変えるために働きたいと真剣に思ったのです。そうなると、万に一つでも当選するために出馬するなら、既成政党からの比例代表しかないありません。政党名は明かせませんが、悩んだ末に公認申請を持参しました。結果はまだ届きません。ですが、今国会の延長がなくなり投票日まで1ヵ月を切った今、準備等など、時間切れであることは間違いありません。事実上の出馬断念です。
 
 思えば、「ザ・スクープスペシャル」の放送からとても長い1ヵ月でした。議員会館をたびたび往復し、親しい友人にも会いました。公認申請を直筆で書きその足で出身校に出向き卒業証明書を受け取りました。その時、人生は不思議だと思いました。この歳にして卒業証明書とは滑稽の何物でもありません。
 
 ともあれ、出馬宣言ならぬ「出馬を検討中」以来多くの方々にご迷惑をお掛けした事を、謹んでお詫びを申し上げます。特に、選挙準備に取り掛かってくれた方、親身になって助言して下さった方々には重ねて謝罪します。本当に申し訳ありませんでした。
とはいえ、今でも出馬の意欲は衰えていません。縷々述べたとおり、この事件を解決するために考え出した最強の策が、私自身が国会議員になることだったからです。その判断に誤りはないと自信を持って言えます。私には公安委員会の制度改革という大きな目的があるからです。そのためにも、まずは、苦境の今を乗り切ることです。そして人生が無限大であると信じ、次なるチャンスをうかがいつつ、かねてから描いていた作戦に移行することだと考えているのです。
 
 警察問題を考える会(仮称)

 再三ご指摘を頂いたとおり、最強の権力機関の不正を正し、戦い抜くためには個人では限界があります。また、警察問題を抱えている者同士が歩調を合わせて活動する事も容易なことではありません。そこで、NPO法人の設立を目指す「警察問題を考える会」は、そうした個別に活動するみなさんのグループの中から一人ずつ理事を向かい入れ、警察問題に関する拠点として、互いに支援しあえる環境を作ることを主たる目的とします。後日、あらためてご案内しますが、こうした活動に関心のある方、警察のありかたに疑問をお持ちの方、理事としての活動を希望する方などなど、ご意見を頂けると幸いです。
 
 考察と結論 2
 
 二重構造

 警察という組織が、「キャリア」と「ノンキャリア」の二重構造になっている事は有名な話だ。だが、その実態を知る人は少ない。たとえば、所管大臣のいないキャリア官僚の巣窟警察庁は、表向き、内閣総理大臣に任命された国家公安委員会に管理されることで、警察権力の行きすぎを中立公正の立場で守られている事になっている。しかし実際は誰にも管理されてはいない。他方、都道府県警察本部も知事が任命した公安委員会に管理されているように装っているが、公安委員会が警察を管理しているなどと信じる者はいない。それどころか、都道府県警察と言いながら、そのトップの座に収まっているのが警察庁から出向してきたキャリア官僚なのだから、全国約23万人の都道府県警察官は、わずか500人程のキャリア官僚の下部として統括支配されているというわけだ。
 
 キャリアとノンキャリの違い

 
あらためて言うべきもないが、キャリアとノンキャリの違いは、入省時において、キャリアが国家公務員Ⅰ種試験の合格者であるのに対し、ノンキャリアは各都道府県警察が採用した地元組である。したがってキャリア官僚は国家公務員でありノンキャリは地方公務員である。キャリア官僚は、採用時のたった一度の試験に合格しただけで、その後の待遇、昇進、天下り先の確保までの人生を決定してしまうが、地元採用のノンキャリがキャリアに仲間入りすることは極めてまれだ。その違いを鉄道にたとえるなら新幹線と各駅停車である。繰り返しになるが、たった一度の採用試験に合格したキャリア官僚は、実社会からは考えられないほどの厚遇を受けており、キャリア官僚と地元で採用されたノンキャリ警察官の格差は時代劇に登場するバカ殿と従順な家臣のそのままである。キャリアが白と言えば黒いもの白くなるのが警察の恐ろしいところだ。信じられないだろうが、バカ殿を庇う家臣が身代わりで切腹して果てるなどの行為が、現実の警察社会で普通に行われているのだから、警察社会に刷り込まれた特殊な身分差別が「組織防衛」という名のキャリア保護の掟を生み出したとて不思議ではない。
 「岩手17歳女性殺害事件」

 様々な謎の残る「岩手17歳女性殺害事件」だが、長い時間をかけ丹念に調べ上げた私の見たてに狂いはない。事件は岩手県警久慈署の捜査ミスから始まった。特筆すべきは以下の4点である。
1 岩手県警は捜査ミスを隠すために小原勝幸を被害者とする「日本刀恐喝事件」を握りつぶした。
2岩手県警捜査本部は、小原勝幸を佐藤梢さん殺害の容疑者にするために必要な捜査を尽くさず、素人にでさえ簡単に見破られるような方法で小原勝幸を犯人と断定し指名手配した。
3 確たる証拠はないが、岩手県警は小原勝幸が殺害されている可能性を十分に認識し、犯人と断定する証拠もないのに小原勝幸を指名手配した、死人に口無しだからだ。
4 事件からわずか4ヵ月にして小原勝幸に懸けられた100万円の公的懸賞金は、岩手県警から依頼を受けた警察庁が、恣意的判断に基づき決定したことに間違いはない。
 
 さて、前述したとおり、岩手県警が犯した1~3までの引責者は、岩手県警のノンキャリ警察官で足りる。だが、情報公開請求で明かされた警察庁の「伺書」に、刑事局長が記した了のサインがある限り警察庁刑事局長に逃げ道はない。万一、こうした事実が公の場で追及されることになれば、本件事件は、日本警察始まって以来の大激震に見舞われることになり、守るべきキャリア官僚に責任追及の手が及ぶことになる。前代未聞のこの事件は、懸賞金制度の是非にまで議論が及び、私が推測する通り、岩手県警がみずからの不祥事隠しのために殺害された小原勝幸を指名手配したとなれば、日本警察の威信は文字通り根底から失われ、警察の屋台骨は崩壊寸前となる。だからこそ警察庁は、組織一丸となって、総力をあげてこの事件に封印しているのだ。
 考察と結論
 
 徹底的に調べ上げ、考え付く限りの策を労したこの事件は、なぜ解決しないのだろうかと考えてみた。日本国民は、これほど明確な警察犯罪に対し、なぜ批判の声をあげないのだろうかと考えてみた。
 マスコミ対策

 一つは、徹底した警察のマスコミ対策のために、警察の組織犯罪についての報道が厳しく抑制されたからである。これでは批判の声が上がるどころか、そうした犯罪があったことさえ大多数の国民は知らない。一部の人がインターネットなどを通じてその事実を知ったとしても局地的であり、警察追及の世論にはなりにくい。

 二つ目は、巧みな警察の情報操作のために多くの国民が「警察不祥事」に慣れっこにされたためである。チカン、万引き、盗撮、暴行などの警察官個人の不祥事が散発的に公表されることで、本来怒るべき国民も一瞬眉をひそめるだけで、驚きは瞬く間に呆れに変わり、「オイオイまたかよ~」と相成る。これでは警察批判の声にならない。
 
 つまり警察の情報操作とは、公表する情報(個人犯罪)と絶対に秘匿する情報(組織犯罪)を分別することなのである。
「岩手17歳女性殺害事件」における岩手県警の「日本刀恐喝事件」の握りつぶしがほとんど報じられないのは、まさしくこの事件が、絶対に秘匿するべき警察の組織犯罪だからであり、万一、それが公に追及されると、それを突破口に、小原勝幸に懸けられた公的懸賞金の恣意的運用までもが浮上することになる。そうなると警察の威信は地に落ち、警察トップが責任を取らなければならなくなる。すなわち、これほど疑惑に満ち溢れた本件事件に火がつかないのは、本件、「岩手17歳女性殺害事件」が、警察犯罪史に名を残す大事件だからだ。
 
 引責者は誰か

 小原勝幸を被害者とする「日本刀恐喝事件」の組織的握りつぶしなどは、もとより、岩手県警本部長の責任である。だが、「警察庁から出向してきたキャリア官僚に傷を負わせるわけにいかない」との理由から最終的に腹切り役(引責)を迫られるのは、さしづめ刑事部長ほか地元採用の警察官に違いない。だが、事件発覚から4ヵ月の超スピードで小原勝幸に懸けられた「公的懸賞金の恣意的運用」に対する責任だけはノンキャリに負わせるわけにはいかない。警察庁の刑事局長が了の文字をサインしているからだ。
 
 組織防衛の正体

 さて、巷間言われる警察の「組織防衛」とは何か。「組織防衛」とは読んで字の如く「組織」を「防衛」することだ。平たく言えば、組織にダメージを残さないために何らかの不都合を隠すことである。この言葉は官民を問わず使われるが官と民とでは意味合いが違う。たとえば民間なら最悪、倒産の危機から企業を守ることを意味するが、官である警察には倒産する危険はない。つまり、警察官の中で普通に使われる「組織防衛」とは、すなわちキャリア官僚を守ることなのである。前述した「公的懸賞金の恣意的運用」にキャリア官僚が深く関わっていることは明らかだから、ノンキャリに責任を押し付けるわけにはいかない。要するに「組織防衛(=キャリア保護)」を第一の掟とする警察社会にあって、国民の税金を恣意的に運用したこの事案だけは何があっても公にできないというのが、その真意である。それゆえに岩手県警がその導火線になりうる「日本刀恐喝事件」を握りつぶしても、誰も問題にしないのである。
 
 思えば、一件書類を受け取った中井洽国家公安委員長も微動だにしなかった。議員質問を約束した代議士もそれを反故にした。事件の再捜査を求める田野畑村民の署名を受け取った岩手県知事も完全無視。岩手県議会も、その他多くのマスコミも黙したままだ。小原の元交際相手の佐藤梢さんが身を切る思いで語った「梢ちゃんは私の身代わりで殺されたのかもしれない」という言葉は、「組織防衛」に名を借りた一部権力者を守るためだけのために封印されようとしている。こんなバカなことが許されても良いのか。





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2009/11/5(木) 午前 10:11
2009/10/19(月) 午後 1:50
2009/10/11(日) 午後 10:21
2009/10/9(金) 午後 7:48
2009/10/5(月) 午後 3:35
2009/9/30(水) 午前 9:17
2009/9/25(金) 午後 9:39
2009/9/24(木) 午前 10:56
2009/9/23(水) 午前 1:47
2009/9/11(金) 午後 3:31
2009/9/11(金) 午前 10:52
2009/9/11(金) 午前 10:28
2009/9/9(水) 午前 0:31
2009/9/7(月) 午後 9:10
2009/9/7(月) 午後 8:22








(私論.私見)