神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史考1

 (最新見直し2015.09.01日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史」を確認する。「ウィキペディア神戸連続児童殺傷事件」その他を参照する。

 2004.3.19日 れんだいこ拝


 「神戸連続児童殺傷事件」は、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件で、小学生2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点などで特異な事件となっている。別名「酒鬼薔薇事件聖斗事件」とも呼ばれる。警察は聞き込み捜査の結果、当時14歳の中学生(以下「A少年」と記す)を逮捕し、犯人とされ今日に至っている。一方で、「A少年」の「声明文」の執筆能力を疑い、警察が少年に虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性を指摘する者もある。事件の経緯は次の通りである。
 1997年2月10日午後4時頃、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。これが第1事件となる。 仮に「第1通り魔事件」と命名する。

 (当初、警察の調べでは、左利きの人物が水平に殴ったとされているが、少年Aは右利きなうえ、上から振り下ろしたと供述してる)
 3月16日午後0時25分、第1事件の約1ヶ月後、神戸市須磨区の「竜が台の公園」で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。

 同日午後0時35分頃、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。これが第2の事件となる。
 5月24日午後、神戸市に住む男児(地区に住む放射線科医師の次男で身体障害者、当時11歳)を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。「小学生男児バラバラ殺人」となる。これが第3の事件で「酒鬼薔薇事件」として知られることになる。

 (この日、少年Aは、偶然、道端で出会った小学5年生の男児(知人)に対して、「向うの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」とタンク山に誘い出し、山頂の手前にある「ケーブルテレビ・アンテナ施設」の入り口付近まで連れて行き、その場で絞殺する。殺害後、「ケーブルテレビ・アンテナ施設」に遺体を隠した、と供述している)
 午後8時50分、被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。
 5月25日、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。

 (殺害日から1日目のこの日、少年Aは、昨日、男児の遺体を隠した場所(タンク山のケーブルテレビ・アンテナ施設)に再び行って、金ノコギリで死体の解体を始めた、と供述している。解体作業に使ったとされる凶器について、少年Aは、被害者の頭部と胴体を切り離す際、金ノコギリを使ったと供述している。だが、専門家は、頸部は骨だけでなく、頸動脈などの血管やいろいろな神経や筋肉や靱帯などの組織が入りまじっている。この頸部を金ノコギリで切ろうとしても、神経や靱帯などがノコギリの刃にひっかかって、とても切れるものではない。仮に切れたとしても、その切り口は「ズタズタ・ボロボロ」になる。専門家のこのような指摘があるなか、見つかった凶器には、そのようなキズはついてなかった。なお、被害者の頸部には、金ノコギリではなく「電動ノコギリ」で出来たような傷跡が確認されている)
 (5月、26日、殺害日から2日目のこの日、少年Aは、再度、解体現場(タンク山)に行って、男児の頭部だけを持ち出し、自宅に持ち帰る。その日の深夜、持ち帰った頭部と犯行声明文を、自身の通っていた中学校の正門に置きに行った、と証言している)
 被害者の頭部と共に、中学校の正門前に置いてあった犯行声明文は次の通り。
 さぁ、ゲームの始まりです

 愚鈍な警察諸君
 ボクを止めてみたまえ

 ボクは殺しが愉快でたまらない
 人の死が、見たくて見たくてしょうがない

 汚い野菜共には、死の制裁を
 積年の大怨に、流血の裁きを

 SHOOLL KILL
 学校殺死の酒鬼薔薇

 5月27日早朝、二枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見され全国ニュースになる。

 紙片のなかで、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。

 (中学校の正門前に被害者の頭部が置かれた時刻につき、少年Aは、5/27の01:00~03:00の間に首を置きに行った、と供述している。但し、周辺住民の目撃証言で、少年Aの供述に反する証言が多数出ている。午前5時~5時15分の間、頭部は無かった、という証言。 午前5時30~6時40分の間、頭部の位置が何度も変わっていた、という多数の目撃証言が寄せられている。これらの目撃証言から、当初の警察の見方は「犯人は午前5時30~午前6時40分の間に頭部を正門に置いた」としていた。だが結局、後に少年Aの供述によって、警察はこれらの目撃証言を全て無視することになる)
 被害者の胴体部分がタンク山から発見される。

 (死体(胴体)の放置場所につき、少年Aは、男児の遺体を「タンク山のケーブルテレビ・アンテナ施設」に隠したと供述している。だが、この供述は、以下二つの点でおかしい事が指摘されている。1、殺害した5/24 から遺体が見つかった5/27まで、約3日間ほど遺体は隠されていたことになるが、発見された遺体の死斑は淡紅色だったと言われている(要は、腐敗の進行が非常に遅い)。その場合、死後、冷凍保存でもされていないと、まずありえない。これらの事から、死体の隠し場所が、タンク山のアンテナ施設であったことは、非常におかしい。2、5/27に遺体は発見されているが、5/25・26にも、総勢400名以上の地元住民や警察官達で、公開捜査をおこなっている。そして、タンク山というのは、地元の中では、人が行方不明になった場合、真っ先に疑うような場所である。実際、公開捜査の2日間でも警察・地元住人はタンク山を疑い、捜索していた。なのに、遺体は見つからなかった。警察犬まで連れていたのに、死臭にすら気づかなかったというのは、非常に考えづらい。しかも、遺体が発見された時の新聞記事では以下のように記載されている。”アンテナ基地内から足がハミ出し、犯人の慌てぶりを思わせる状態で発見された。”このような状態で、400人規模の公開捜査で見つからなかったわけがない。これら2点の事から、死後の遺体は、どこか別の場所で保管され、27日にアンテナ基地内に持ってきた、という説が立つことになる)
 神戸連続児童殺傷事件の被害者、土師淳(はせじゅん)くんの胴体は、腹が切り裂かれ腸が体の上に乗った状態で兵庫県警に送られてきたという第一報が大阪で流れたとの証言がある。
 6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。
 第二声明文は次の通り。
 ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも、実在の人間として認めて頂きたいのである。

 それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。

 今となっても、何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。

 持って生まれた自然の性(さが)としか言いようがないのである。

 殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

 ボクはこのゲームに命をかけている。
 捕まればおそらく吊るされるであろう。

 だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。

 今後一度でもボクの名を読み違えたり、また、しらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

 【犯行声明文の筆跡鑑定は、一致していなかった・・】

 2通の犯行声明文が筆跡鑑定に使われ、少年Aが過去に書いたとされる作文と比較された。筆跡鑑定の結果では、「同一人物の筆跡か否か判断することは困難である」という鑑定結果がでていた。そのため、少年Aの逮捕状を請求する事ができず、やむなく、任意同行という形で少年Aを連行した。その後、警察署内で、すぐに少年は自白することになるが、そのやり方が後に大きな問題として取り沙汰される。それは、少年に対して、犯人と同じ筆跡鑑定が出たとして少年を騙して自白させたのだ。これは、後に「偽計自白」だとして、逮捕・勾留した警察官・検察官を「特別公務員職権濫用罪」で裁判沙汰にまで発展している。(結局、不起訴処分に終わっている) 実際、この自白以外の「物的証拠」は何も無かったと、当時、酒鬼薔薇事件の裁判をおこなった家庭裁判官も認めていた。

 なお、上記の犯行声明文を見れば分かるように、「14歳の少年」が作り上げたモノとは思えないほどの高度な文章(大学生でも書くのは困難)であった事も、多くの評論家や世間にて疑惑を高めた。(少年Aの国語の成績は、当時、2/5段階だったと云う)

 6月28日、頭部が見つかってから約1ヶ月後、少年Aが、殺人・及び死体遺棄の容疑で逮捕される。
 6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年を男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検に送検。10日間の拘置が認められる。

 6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。

 7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。

 7月2日、少年の顔写真が掲載されたフォーカスが発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。

 7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。

 7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。

 7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。

 7月11日、少年をバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。

 7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年を再逮捕。

 7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年を送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。

 7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。

 7月21日、警官2名が、少年の二人の弟に対し、少年が再逮捕された通り魔事件について、少年の学校での行動、言動などを聞く。特に少年の母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。

 7月24日、警官が少年の両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。
 その後の少年の処遇
 1997年10月13日、神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
 1999年、第二の事件で死亡した女児の遺族と少年側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
 2001年11月27日、治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
 2002年5月、少年の母が少年と面会し、冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「それはありえない」と語っている。
 2002年7月、神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
 2004年3月10日、成人した少年は少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
 2005年1月1日、少年の本退院が認可される。
 2005年5月24日、被害者少年の八周忌。少年が弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
 2007年3月、第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、少年の両親が出版した本の印税の他、1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。
 2015年、事件から18年、少年Aが、自身の半生を綴った手記「絶歌」を世に出した。マスコミは注目し、TV・新聞・週刊誌・ネットと、多くのメディアで報道され、瞬く間に世間に広がっていき、増刷に次ぐ増刷で大ベストセラーになった。

 当初マスコミは、被害児童の頭部が発見された5月27日早朝、中学校正面門を見下ろせる丘にいたとされる「黒いポリ袋を持った20-30代のがっしりした体格の男性」の存在について繰り返し報道していた。中学校付近のマンション1階で住民に目撃された、黒いポリ袋を持った挙動不審者、中学校付近で目撃された黒塗りの車(ワンボックスカーの説あり)の存在。各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年の写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。これら一連の取材合戦について、後に産経新聞が「命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件」(産経新聞大阪本社編集局)で批判と自戒の総括を行っている。これらは警察が犯人に油断を与える為に流した偽情報であるとの説や、マスコミが「犯人は少年の可能性」と流した場合、少年Aが逃亡や自殺する可能性を危惧して、意図的に流した偽情報のであると説もある。また、少年逮捕を伝える臨時ニュースで、須磨警察署前のテレビカメラに向かって、地元の少年らが笑顔でピースサインする姿にも批判の声が上がった。

【少年は冤罪か】
 逮捕された少年が犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。

 多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年が在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。

1 第二の事件で殺害された女児の頭の傷は八角げんのうを左手に持って殴りつけてできたと考えられ、右利きの少年がやったとは考えにくい。
2 第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している。
特殊な切断方法はなぜ問われないか
▲浮かびあがった頭部切断の真相 龍野教授ら法医学関係者が重大証言!
 投稿者 竹中半兵衛 日時 2003年10月30日

 淡紅色の死斑の出現も腐敗の進行の遅さも、そして「淳君の頭髪がシャワーを浴びたように、びっしょりぬれていた」(「産経新聞」6月23日)ことも(解凍直後の状態であることをしめす)、また頸部切断であるにもかかわらず淳君の着衣に血痕がないことも(凍結切断のゆえに出血がほとんどない)、すべての謎が氷解するではないか。
▲Re: 浮かびあがった頭部切断の真相 龍野教授ら法医学関係者が重大証言!
投稿者 まさちゃん 日時2003年11月06 日

▲マスコミは「頭部切断方法」に頬かむり。少年Aは無実だ。
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004年5月23 日

▲バーグ氏斬首およびチェチェン斬首ビデオの意味するもの
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004年5月23日
3 筆跡鑑定の結果は声明文が少年Aによって書かれたものだと断定はできないというものであった。のちに、鑑定結果を弁護士から知らされた少年は「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている。ただし、赤インクの太字と定規を使用したと見られる直線で描かれたもので、筆跡をごまかしているため、鑑定の結果自体は冤罪の根拠とはならないという意見もある。
4 取り調べにおいて警察は声明文の筆跡鑑定が確定的であるかの様に説明し、それを受けて少年は自白を始めた。これは違法行為であるため、家裁審判においてこの自白調書は証拠として採用されなかったが、少年Aの弁護士は非行事実について争おうとはしなかった。
5 少年の素行についての証言が逮捕直後から多数報道されていたが、調査してみると多くは伝聞情報ばかりで直接の目撃証言が確認できない。
6 判決文による非行事実は荒唐無稽で実行不可能な部分が多い。
7 14歳少年に実行可能な犯罪とは到底考えられない。犯行声明文は14歳少年が作成したものとは思えないほど高度である。岩田は、この犯行声明文は全体的に難解な論理を特異な比喩を使いながら展開しているにもかかわらず論旨は明快で、成績の悪い少年Aに到底書けるとは思えなかったと述べている。

 精神鑑定結果と犯行の動機
 成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人の人格障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。

【少年の情報漏洩騒動】
 少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。
 写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、週刊新潮が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。
 審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。
 後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。
 土師守『淳 それから』。「少年審判への関与と情報開示の要求」。まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、被害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。
 この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。
 1998年8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。
 1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。
 1998年8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

 016年3月16日ゆとり君-関連「元少年A:酒鬼薔薇聖斗は冤罪だった?神戸連続児童殺傷事件の真相や真犯人 ~本当の犯人は・・・国家権力と革マル派の動き」

 「権力の恐るべき犯罪 神戸小学生惨殺事件の真相」

 革マル派が疑惑を追及していく過程でおこなった特殊活動が大きな問題として取沙汰された。

  • 「神戸大学医学部侵入事件」・・・神戸連続児童殺傷事件の被害者の司法解剖がおこなわれ、解剖結果報告書などの資料が保管されていた「神戸大学医学部」に侵入した事件
  • 「神戸事件犯人両親宅侵入事件」・・・少年A の両親を自陣営に引き込むために両親の居所を調査し、事件後両親が転居した先に盗聴器をしかけた
  • 「関東医療少年院侵入事件」・・・少年A が収容された関東医療少年院。少年A の両親も時々面会に訪れていた。革マル派は、少年院内での両親との接触が可能かを確かめるため、関東医療少年院に侵入した。

 参考文献
  • 後藤昌次郎 『神戸酒鬼薔薇事件にこだわる理由…「A少年」は犯人か』 現代人文社(原著2005年1月30日)、初版。ISBN 4877982396。2009年6月23日閲覧。
  • 岩田信義 『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」』 五月書房(原著2001年5月28日)、初版。ISBN 4772703497。2009年6月23日閲覧。
  • 「少年A」の父母 『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋(原著2001年7月)。ISBN 4167656094。
  • 産経新聞大阪本社編集局編 『命の重さ取材して 神戸・児童連続殺傷事件』 産経新聞ニュースサービス、1997年10月。ISBN 4594023541
  • 『文藝春秋』(1998年3月号、検事調書7枚分が掲載されている)
  • 朝日新聞大阪社会部編 『暗い森―神戸連続児童殺傷事件』 朝日新聞社、1998年4月5日。ISBN 4022572426
  • 河信基 『酒鬼薔薇聖斗の告白―悪魔に憑かれたとき』 元就出版社、1998年5月28日。ISBN 4906631355
  • 安倍治夫著・小林紀興編 『真相―神戸市小学生惨殺遺棄事件』 早稲田出版、1998年10月。ISBN 4898271944
  • 高山文彦 『地獄の季節―「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所』 新潮社、2001年5月1日。ISBN 4101304319
  • 熊谷英彦 『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』 鹿砦社、2001年5月25日。ISBN 4846304140
  • 草薙厚子 『少年A矯正2500日全記録』文藝春秋、2004年4月6日。ISBN 4163658602
  • 今一生編 『「酒鬼薔薇聖斗」への手紙―生きていく人として』 宝島社、2003年10月15日。ISBN 4796635947
  • 土師守、『淳』(新潮社)1998年出版。
  • 土師守、本田信一郎共著『淳 それから』(新潮社)2005年10月15日出版。
  • 山下京子、『彩花へ-「生きる力」をありがとう』 河出文庫。

 外部リンク

  • あらためて神戸裏件の真相に迫る国民的世論をつくりだそう! 神戸事件と報道を考える会
  • 酒鬼薔薇聖斗事件・点と線




(私論.私見)