中木田(なかきだ)中1少年少女殺人事件(以下、単に「中1少年少女殺人事件」と記す)を廻る世上の見解が余りにも酷く、それを補強する学者肩書きの薀蓄がこれ又酷過ぎるので、これを成敗しておく。
「リテラ」の2015.8.25日付けブログ「寝屋川中1殺害事件で「週刊現代」がやらかした!
容疑者逮捕に間に合わず星野くんの女性関係が原因とのデマ報道」(以下、「リテラ記事(伊勢崎馨)」と命名する)を参照する。但し、その論調には違和感を覚えるので同調しない。本稿執筆のきっかけになったと云う意味に於いて評価しておく。
「中1少年少女殺人事件」を廻る週刊主要4誌と云われる文春、新潮、現代、ポストの記事を比較してみる。新潮9.3日号(新潮社)は「寝屋川中1遺棄事件の全真相」、帯文「真人間を演じていたホオジロザメ」。文春9.3日号(文芸春秋社)は「大阪寝屋川中1男女惨殺 鬼畜山田浩二の正体」。ポスト9.3日号(小学館)は無記事。現代9.5日号(講談社)は「新聞・テレビが報じなかった大阪・寝屋川『中1惨殺』全真相」、帯文「少女が抱えていた家族問題 大阪府警がマークした人物」。
週刊ポスト9.3日号の無記事は、夏休み合併号の関係で前週の21日に発売されたため事件に触れることができなかったと云う。本当のポスト事情を知りたいところである。文春、新潮は共に山田容疑者を犯人と認定した上で凶悪変態者とみなしての悪口雑言の競い合いをしている。
この点で、「リテラ記事(伊勢崎馨)」によれば、現代9.5日号は「女児殺し男児犯人説」を打ち出し、併せて両家庭の親が関与しているとする倒錯的な大胆且つ的外れ憶測記事を書いてしまっていると云う。これは記事校了日が8.21日午後、発売日8.24日の制約による。即ち、この時点では山田容疑者が逮捕されておらず、男児の遺体も発見されていない。これにより「女児殺し男児犯人説」と云う大チョンボをしていると云う。
ところが、れんだいこが件の現代記事を読むとそういう風には書かれていない。せいぜい真犯人は誰だろう的な記事でしかない。途中で記事が差し替えられているのかとも思うほどである。
それはともかく、山田容疑者が登場するまでの段階において、マスコミ界の中で「リテラ記事(伊勢崎馨)」の指摘する如くな「女児殺し男児犯人説」が推理されていたのは確かなようで、「男児が女児を殺害して逃走、男児の親がそれをかばって遺体を隠蔽。真相は同じ中学生のグループによるリンチ殺人」云々なる論調の書き込みが存在するようである。
言論は自由であるから、そういう推理も許容されるのだろう。但し、この種の憶測記事には当らずとも遠からず的なものであることが要件とされるだろう。憶測記事の一部には真実があるのかとも思うが、その後に男児遺体が発見されたことにより、主張しているところの「女児殺し男児犯人説」は完全に破綻している。
とならば、大外れ責任が問われるべきではなかろうか。この場合、その出版社、編集長、担当デスク、記事執筆者、ネット発言者はヨタ記事責任を問われるべきだろう。現状は、良い意味での内部規律的なケジメのないままに次々とヨタ記事が許されているところが病気であろう。
ところで、「リテラ記事(伊勢崎馨)」は、「女児殺し男児犯人説」を大チョンボと批判しているが「山田容疑者真犯人単独犯」を疑っていないように見受けられる。れんだいこから見ればそれも誤りで第二チョンボに過ぎない。となると、第二チョンボが第一チョンボを貶しているに過ぎないことになる。但し、第一チョンボの方が重度過失であるから、批判の根拠はあると看做されるべきだろう。
ならば、れんだいこは事件をどう読んでいるのか。これから披瀝する観点も又チョンボなのだろうか、それとも正解だろうか。れんだいこ見解は次の通りである。1・本事件の真相はメーソン系結社による典型的な儀式殺人である。2・これの決め手は男児、女児の遺体の正確な所見である。これの発表がない間中は捜査が操作されている。3・山田容疑者は、事件にどう絡むのか、その経緯とか事情までは分からないが遺体の運び屋もしくはダミー的なオトリ役に過ぎない。この見立てをする者はごく少ない。しかし今後は、本稿をきっかけにして、この種の事件に遭遇するたびにピンと感ずくことになるだろう。
それで事件が解決する訳ではない。この種の事件は意図的故意に迷宮入りさせられることを常習とする。構図は「島根県立女子大生猟奇殺人事件」その他と同じである。解決しないのは、敗戦国日本を植民地支配している宗主国側の息のかかった犯罪だからである。こうなると、日本警察の捜査は深層の真相に近づくまいとして、あらぬ捜査にばかり傾注努力し始めるのがお笑いである。