事件その後3

 更新日/2021(平成31. 5.1栄和元/栄和3).8.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大阪中1少年少女殺人事件その後3」を確認しておく。

 2019(平成31→5.1栄和元).5.21日 れんだいこ拝


 2019.5.21日、月刊『創』編集長/篠田博之控訴取り下げ!寝屋川事件・山田浩二死刑囚の最近の手紙に揺れる心情が書かれていた!」。

 そして最近の手紙を読み返してみると、なかなか微妙な心情が書かれていたことに気が付いた。 例えばこういう文面だ。

 《今こう見えて、かなり精神的に不安定なところもあって、気持ちは前向きですけど、時には凹んでしまったり、押したらアカンボタンを押したくてたまらない感覚? つまり控訴取り下げ手続きをして、死刑確定し、早く執行してもらって(自ら控訴を取り下げると執行時期が早まると聞いたことがあります)この淋しさや苦しさ悲しみ等から解放されて楽になるんじゃないかなぁ……もうすべてに絶望し過ぎて疲れたわ……と考えることだってあります。 そんな弱音を吐くと、私を応援してくれる人達に怒られそうですけど、やっぱ、このような日々がずっと続いていると、ふとした瞬間ですけど、もうどうだっていいやっていう気持ちになります。この気持ちは実際、求刑や判決で極刑を宣告された人でしか判らない。》

 これに続いてさらに山田被告は、自分の揺れる気持ちをあれこれと書き綴っていた。しかし、まさか本当に控訴取り下げをやってしまうとは思わなかった。明後日にも会って真意を聞こうと、さきほど電報を打ったが、さて本当に接見できるかどうかわからない。というのも、今回とそっくりな体験を私は2006年、奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)との間でしていたからだ。

 今回の山田被告との違いと言えば、小林死刑囚の場合は、公判中から死刑を望み、控訴取り下げを頻繁に口にしていたから、私は何度も「それは絶対にやめてほしい」と説得していたことだ。小林死刑囚の気持ちは揺れ動いていたが、やはり今回の山田被告のように休日が続いた時に思い悩んだ末に取り下げを決意したようで、休み明けに手続きを行った。 何しろ小林死刑囚がいたのは奈良で、仕事を片付けて2~3日後に駆け付けた時には、早朝、接見希望の列に並んだ私に刑務官が近づいてきて「今朝早く移送されました」と告げられたのだった。控訴取り下げの報に接した時も一瞬、めまいがしたが、奈良まで駆けつけて会えないとわかった時にも目の前が真っ暗になった。それ以来、小林死刑囚とは会えないまま、彼の死刑は執行されてしまったのだった。 その2006年のことがまざまざと思い出されて、今回も私は気分が落ち込んだ。

 死刑確定というのは、本当に重たい現実だ。山田被告は、友人などが全く接見に来てくれないと淋しがっていたが、確定後は外界との交流が全く遮断される。その状況に果たして彼は耐えられるのだろうか。 恐らく関西のマスコミは今回の事態を大きく報道するだろう。そこでこの間、月刊『創』に2号にわたって掲載した山田被告の獄中手記を参考に供するために、ヤフーニュース雑誌に全文公開することにした。実は山田被告からは次の号に載せてほしいと手記も届いていた。それらを含めて、彼の心情については今後も報告することにしよう。

 とりあえず既に掲載した2回分の手記は下記をご覧いただきたい。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190521-00010000-tsukuru-soci

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190521-00010001-tsukuru-soci

 今回の顛末については近々改めて報告しよう。


 2019.5.21日、「寝屋川中学生殺害事件・山田浩二死刑囚獄中手記!」。
 死刑を宣告された瞬間は現実を受け止められなかった

 ●はじめに(編集部)
 ここに掲載するのは、2018年12月19日、大阪地裁で死刑判決をくだされた寝屋川中学生殺害事件の山田浩二被告の獄中手記だ。裁判について本誌が12月7日発売の1月号にレポートを掲載したことがきっかけで山田被告から編集部に手紙が届いた。その後、手紙をやりとりした後、今年に入って被告本人から手記掲載を依頼してきたものだ。 そして2019年5月に突如、彼は控訴を取り下げてしまった。死刑が確定することになる。

 そもそも事件が起きたのは2015年8月、大阪府寝屋川市駅周辺にいた中学1年生の星野凌斗君と平田奈津美さんが行方不明になり、遺体で発見された。防犯ビデオに残された2人の映像が連日、テレビで放送され、いたいけない姿に多くの人が涙した。逮捕されたのは、その夜そこを車で訪れていた山田浩二被告だった。被告が黙秘したこともあって、捜査は難航し、昨年11月1日から行われた裁判員裁判で山田被告は、星野君は熱中症で死亡、平田さんについては過失致死と主張した。大阪地裁の判決は、山田被告の主張を退け、死刑を宣告したものだった。本誌編集部に被告から手紙が届いたのはその数日後だった。

 過去、この事件について書いた本誌記事も差し入れたが、山田被告は動機を性犯罪ではないかと捉えた当時のマスコミ報道を前提にした本誌の記事についても、それは立件もされていない誤りだと指摘した。一審では検察側弁護側の主張が全く食い違ったまま死刑が宣告されたが、事件の細部についてはいまだに薮の中だ。事件について詳細に検証するためには、裁判記録を含め、独自の取材を行う必要があるが、今回の手記は事件内容というよりも、死刑判決についての山田被告の心情を書いたもので、掲載の意義はあると判断した。(編集部)

 初公判2日前まで公判前整理手続き

 平成最後の2019年4月4日に、私は49回目の誕生日を迎えます。4月1日に新しい元号が発表されるとのことで世間はその話題で盛り上がっている頃、私は現在拘禁生活を送っている大阪拘置所でひっそりと誕生日を迎えます。今回の逮捕で大阪拘置所にて生活を送ることになって4度目の誕生日であり、接見禁止が解除になって丸1年が経とうとしています。この1年を振り返ってみると、あっという間だったような気がします。私はノートにその日あった出来事、その日に出た食事、その日に流れたラジオ番組、そのラジオ番組から流れた曲目、その日に起こった世間の出来事、その日に起こった身近の出来事等々…を欠かさず記載しています。拘禁生活は今回が初めてではなく、過去にも経験していますが、その頃からの習慣みたいなものです。今、それを見ながらこれを書いています。

 全体的に総括してみると接禁解除から現在までの約1年間は私にとって色々な意味で試練も多く、楽しい出来事より辛く苦しい出来事や悔しくて泣きたくなりそうな出来事の方が多かった気がします。やはり一番のトピックは裁判員裁判でしょう。これまで5回、刑務所生活を送っており、その数だけ法廷に立っているのですが、一般市民が裁判官とともに一つの合議体を構成し裁判する制度である裁判員裁判の法廷に立つのは、全くの初体験です。初公判2~3日前からすごく緊張して、いつも以上に夜も眠れず食事も喉(のど)を通らない日々でした。

 今回の私の逮捕から初公判までの期間は約3年2カ月、公判前整理手続き期間中に約4カ月半(2017年8月~2018年1月)は精神鑑定の為、身柄が東京拘置所に移されていたこともあり、初公判までの期間がすごく長く感じました。公判期日が決まっても、まだまだ随分先の出来事…って感じで実感が湧きませんでした。弁護士との公判の打ち合せも本格的に始めたのは初公判の数週間前だったし、公判前整理手続きも、初公判2日前の10月30日まで行われていた為、なかなか実感が湧かなかったのです。公判前整理手続きがようやく終了して気持ちを初公判に向けてリセットした感じです。しかし、その時は2日後に初公判という現実が待っていて、あまりの期間の短さに気持ちの切り替えがうまく出来ず、本当、今思い出してもすごく緊張して頭の中が真っ白になりました。判決前よりもドキドキしていたかもしれません。

 弁護士と打合せをしていても全然頭に入らず「どれだけ大きな法廷なんだろう?」、「どんな裁判員なんだろう?」等々…もう緊張だけでなく不安や心配で死にそうになりました。大阪地方裁判所で一番大きな法廷と聞いていたんですが、どれくらいの大きさなのか想像も出来ず、不安は募るばかりです。傍聴席は報道記者でいっぱいになるんだろうなぁとか傍聴席からアンチがやじを飛ばしたり、最悪、襲撃されたらどうしようなんてことも考えたりしました。

 拘置所に戻ってから目の前が真っ暗に

 そんな中11月1日を迎え、裁判所へ向かい法廷へ……。ついに始まった初公判でした。いろいろな意味で必要以上に世間から注目されることになってしまいました。そして11月21日に論告求刑、12月19日に判決が宣告されましたが、この期間の法廷での出来事や心境等を書き出せばすごく長くなるので割愛します。とりあえず結論として求刑通り死刑判決となりました。死刑という極刑を宣告されたにもかかわらず「今何が起きているんだ?」と場の空気や現実を受け止められず、時の流れについていけてない感じだった当時の私。私自身より弁護士の先生方が悔しがっていたのが印象的でした。結果として一番望んでいない形の判決が出たわけですが、その原因や責任を弁護士のせいにするつもりもなかったし、本当によく弁護して頂いたとその時は感謝の思いでいっぱいでした。やるだけやっての結果なんだからそれを責任転嫁するのは間違っている、とその時は思っていました。

 私は判決理由をうまく聞き取れなかったし、何故あのような主文を宣告されたのか意味も判らなかったのですが、弁護士は判決理由について明らかな事実誤認があると指摘し、即日控訴を申立てました。また判決が出て、第一審が終了したため、第一審弁護団(国選)が事実上の解任となりました。

 裁判所から拘置所に戻り居室(監視カメラ付き単独室で床はフローリングで出来ている新棟C棟6階、オウムの井上嘉浩元死刑囚もこのフロアにいたらしい)で、一人になり、その日あった出来事を改めて思い返しました。夕方のラジオ「NHKニュース」で報道されるかなと思いましたが、大阪拘置所ではこの時間帯は主に午後のニュースを録音したものが放送されるため「判決は午後2時からの言い渡し」との報道だけで、私の判決が流れることはありませんでした。また領置金がなく新聞を購読することも出来なかったため、翌日の新聞で私の判決記事を見ることもできませんでした。ただ拘置所の居室に戻り、一人になって判決のことを思い返し、「死刑」という判決の意味や大きさについて考え、ようやくこれは大変なことになったぞと気付きました。目の前が真っ暗になって行きました。求刑の前もそうでしたが、判決も一番厳しいものが出たことで、希望を失い絶望しか考えられず、もう何が何だか判らなくなりました。ラジオからは平成最後の3連休「天皇誕生日」からのクリスマスや年末年始ということで、DJの楽しそうなトークやクリスマスソングが流れてきます。その時の私が一番聴きたくないラジオ放送でした。スイッチをOFFにし、誰にも会いたくない思いでした。

 斜め右の居室で見た異様な光景

 判決から約1週間後の12月27日にこんな出来事がありました。大阪拘置所は起床時間が午前7時30分で、その時間になるとチャイムが鳴ります。起床の合図です。そして寝具を定められた位置に片付け、洗面や居室内の掃除をします。大体10分後の7時40分頃に朝の点検があります。「点検準備」という職員の号令のあと「点検」の号令が流れます。「点検なおれ」の号令がかかり「配食準備」の号令が流れるのが7時45分前後です。号令通り朝食の配食を待っていました。すると私の居室の向かって斜め右の居室に数名の職員が集まっていました。私が生活しているフロアの新棟は「対面舎房(マジックミラーの窓になっており、対面の居室の部屋の中までは見えない仕組み)」となっています。私の居室のフロアは全部で36居室あり、1~18室が北側、19~36室が南側になっています。北側の居室で向かって斜め右側の28室前に数人の職員が集まり、開錠し「これから面接するから、すぐ終わるから出て来て」と職員が言い、その居室で生活をしていた人を連れてどこかに行きました。最初、私は「こんな朝早くから面接なんて大変やなぁ」程度しか思わず、それにこの時間帯は資格異動(未決から受刑者に刑が確定し身分が変わること)で連行される人が多いので、その為の「領置調べ」なのかな?とも思っていました。私自身全く面識もない人だし、興味もその時は特にありませんでした。ただこの日に限って朝食の配食がいつもより20~30分程遅くなりました。炊場は1階にあり、大体点検終了ぐらいにフロア周辺にあるエレベーターを使用して各階に運ぶシステムです。この日の朝食の配食が遅くなっているのは、炊場で何らかのトラブルがあって遅くなってるのかなあ?と思っていました。

 この日は朝早くに共同通信社の報道記者の面会依頼がありました。判決直後はさすがに誰とも会う気分になれず、何度か報道記者の面会依頼がありましたが、すべて断っていました。裁判が始まれば手紙の数も嘘のように減って、テレビの報道でも面白おかしく事実と異なる視聴率重視の内容で放送されたことを知りました。マスコミに利用されていたんだ、報道記者に信頼していたのを裏切られ、所詮ビジネス面会だったんだというショックを受け、人間不信になっていました。だから、この日の面会も断ろうと思っていましたが、判決から1週間経ち、少しは気持ちの整理がついたし、年内ラストになると思うので、判決後初の面会を受けました。そして面会が終わり、28室前を通るとまだ点検終了後に連れて行かれた人は居室に戻ってきていません。「えらい長い時間面接をしているなぁ~」と思いました。その後、午前10時頃でしょうか、28室の前に大きな台車とゴミ箱が置かれているのを見ました。そしてこのフロアの主任職員がその居室に入り、居室内にある荷物を台車に積んで行きました。その様子を「面接で暴れて保護房に入れられついでに転房させられたのかなぁ」と思いながら見ていました。居室から運ばれる荷物が訴訟関係の書類みたいで大量の書類が台車に積まれていました。私も居室内に大量の訴訟資料書類を所持していますが、私より数倍以上の量でした。その後、居室からその人が日常的に使用している私物のコップやハンガー等をゴミ箱の中に入れていきました。転房なら私物も台車に積むはずなのに何故捨てる? おかしいなぁ…と思った時にふと、こんな事を思い出しました。「死刑執行は週末(木~金曜)に行われる事が多い」。そういえばこの日は木曜日。何かの本でそのような記事が書かれていたのを何故このタイミングで思い出したのか判りません。

 ちなみに私が死刑判決を宣告されたちょうど1年前の2017年12月19日に東京拘置所A棟8階で生活していたときに同じフロアで生活していた死刑囚の刑が執行されてましたが(ちなみにこの時は火曜日)まさかなぁ…。けど大阪拘置所新棟6階で生活している収容者は基本各階の移動は階段を使用せずエレベーターを使用するんですね。そういえば今朝は朝食の配食が遅れたけど、それは炊場での何らかのトラブルでなく「何らかの理由」でエレベーターが使用出来なかった為に配食が遅れたのでは?

 あと大阪拘置所は週2回の入浴が実施されます。普通は居室ごと順番に入浴するのですが、私が現在生活しているフロアは何故か順番とは関係なくある特定の人たちが朝一番に入浴をしているんです。またその人達が入浴する時は立ち合いの職員が3~4人(警備隊)なんです。普段の立ち合い職員は2人なのに…です。朝一番に入浴しているメンバーはいつも一緒だし、おかしいなぁ、これってもしかして…?とは思っていましたが、そういえば今朝連れて行かれた人も朝一番に入浴しているメンバーだったなぁ…と思い、もしかして…?って思いました。点と線がつながった瞬間でした。この時期はまだ落ち着いてラジオを聴く気分ではなかったのでラジオのスイッチはOFFにしていましたが、午後と夕方に流れるニュースの時間だけスイッチをONにしました。そして夕方、午後のNHKニュースを録音したものが放送されましたが、その時にこの日大阪拘置所で2名の死刑囚の刑の執行があった事を知りました。「やっぱりそうだったんだ…」。犯行から30年、死刑確定から14年、「コスモリサーチ事件」で死刑判決を受けて刑が確定した人達の執行だと知りました。私の向かって斜め右の居室だった人は再審請求中だったそうです。山下貴司法務大臣就任後、初の死刑執行。法務大臣が「刑事訴訟法第475条」という法律を何故守らないんでしょうか?

 2年連続して同フロアの獄中者に死刑執行

 それはともかく2年連続、年末に同じフロアの人の死刑が執行され、あまりいい気分はしないものです。一時は苦しみや淋しさ悲しみ等にもう耐えられず、控訴を取り下げ刑の執行をして貰ったら、この苦しみや淋しさ悲しみ等から逃れられて楽になるのでは? それもいいかなぁ…と考えました。「初公判での土下座謝罪は形だけのパフォーマンスで誠意がない」、「涙の謝罪も減刑作戦だから裁判員はだまされるな」等と、さんざんマスメディアで批判されましたけど…あの謝罪は本心でパフォーマンスじゃなかったんだと世間に信じて頂けるのなら、それもありかなぁと考え悩みました。刑が執行されたら、面白おかしく私の謝罪の思いを踏みにじったマスコミの報道記者やコメンテーター、ジャーナリストを呪い、子孫の代までたたり続けてやろうと覚悟もしました。怨霊となれるのなら…。

 しかし、このまま黙って国家権力に殺されることで、世間からは「やっぱり2人とも殺した事件の犯人だった」、「これ以上ごまかしきれないから控訴を取り下げ現実から逃げた卑怯(ひきょう)者」と負け犬扱いにされたまま、この世を去るのも悔しいし納得がいきません。裁判で納得のいく結果を出して失った信用を取り戻すまでは死ぬに死ねないと思い、気持ちを前向きに切り替えることにしました。
 
 それに今回の件で世間を敵に回しましたが、それでも私を信じてくれる人や応援をしてくれる人、大切な仲間がいます。そのような大切な存在が私にもいる以上は簡単に控訴を取り下げるとか、自ら命を縮める訳にはいきません。そんな人達の為にもこの苦しみや淋しさ悲しみ等を乗り越えなければと思いました。

 昨年の夏、ある雑誌に私の投稿や取材記事が掲載されました。接禁解除になった時、弁護士から「マスコミとは一切関わるな。取材等を受けたり接触はしないこと。マスコミは知人等を利用してあなたに接触してくる可能性もあるので知人であっても油断せず用心して下さい」と言われていましたが、接禁解除になっても誰一人面会に来ない淋しさや、裁判が始まる前に私から世間にどうしても伝えたいことが3つありました。その情報発信をしたいと思い、ある雑誌に手紙を書き、その編集部の人と手紙のやり取りをすることになり、ある日「取材したい」と言われ「実名掲載」が条件みたいなことを言われ、実名はちょっと…と躊躇(ちゅうちょ)しましたが、誌面を通して伝えたい事が伝えられるならと思い了承しました。

 ちなみに私が世間に伝えたい3つとは、第1に、起訴前に大阪府警捜査一課の捜査官(刑事)や大阪地検の検事から受けた違法な取調べでの「暴言、脅迫、自白強要、恫喝、死刑判決前提の脅し、差別発言等」の告発(ちなみに全て録音録画した記録媒体が存在しており、現在国賠提訴済み、大阪地裁第24民事部にて受理されています)、第2に黙秘権は憲法38条1項や刑事訴訟法98条2項で権利として定められ、被疑者の不利益とならないと保障されているのに、世間的には「黙秘=取調べで話せないことをしているから黙っている」という認識です。マスコミの印象操作もあり、実際私が黙秘をしているのは犯人という前提で罪を認めず反省していないという感じで報道されてます。そんな誤った一般論について訴えたかった、第3に報道、新聞や雑誌、そしてネット上のまとめ記事等の大半は嘘だということ。掲示板のスレッドの書き込みなんて便所の落書きレベルです。ネット配信の記事なんて塀の中に入っている者は読めないと思われているのかデタラメばかりです。また「捜査関係者の取材で分かった」との名目で憶測的ストーリーが報道を通して面白おかしく流されて、それが伝言ゲームみたいになり誤情報に尾ひれがついて更に誤情報となって、それが今もネット上で拡散されてます。

 そんな誤情報が私一人だけに対するものや、批判だけなら、まだ私一人だけが辛抱して済むことですが、実際は私一人だけでなく私の家族、両親や兄弟、彼女、友人知人、職場の関係者まで飛び火しています。また加害者側でなく被害者やご遺族の方まで批判やバッシングの対象になっているのを知り、大変心を痛めています。

 そのような被害者やご遺族に対するマスコミの批判が被害感情に火をつけて裁判にも影響を与えました。実際、私の誠意をこめた謝罪をパフォーマンスと批判された為、ご遺族に謝罪の思いが届かなかった。なのでこの3つを伝える為、実名で記事掲載して頂きました。記事掲載については正直、納得のいかない形で私の伝えたいことが総て掲載されることなく残念な気分でしたが、それなりに反響もあって色々なところから手紙が届きました。

 その中に現在、岐阜刑務所にて拘禁生活を送っている伊藤寛士代表という方がおられました。「Is Empire Group」というグループの代表で、塀の内外諸々の活動をしています。「絆に重きの共助集団」というのがコンセプトで、決して反社会的集団ではありません。昨年9月に伊藤代表から手紙が届いたんですが、すぐに意気投合し10月に加入させて頂きました。代表と知り合い4ヵ月が過ぎましたが本当に良くして頂いてます。価値観も一緒で目指す道も一緒、手紙のやり取りを重ねる度に「絆」を深めてます。

 まだまだ私は新入りで半人前以下の若輩者なので、代表から叱責されることもしょっちゅうですが、その都度、何事も身の丈に合った所作を心掛けるよう考え方を改めています。また代表を通じてたくさんの仲間とも知り合いました。それぞれ住む世界や育った環境は違いますが、コンセプトである「絆」はブレることなく、お互い助け合い協力し合って「絆」を深めています。私がこの雑誌の取材を受けず実名で記事掲載されていなければ代表と出会うことはありませんでした。いやそもそも接禁解除となってなければ弁護士以外との人達との出会いはなかったし、月刊『創』にも出会うこともありませんでした。篠田編集長とも出会えなかっただろうし、こうして手記を書くこともなかったでしょう。これも何かの「縁」であり「必然的」な「運命」だと信じています。不自由な生活、死刑被告人という苦しい立場、これから歩む道もでこぼこ道だらけで大変だと思うけど、しっかり前を見て進んでいけば、おのずと答えは出ると信じています。


 2019.5.21日配信、「寝屋川中学生殺害事件・山田浩二死刑囚獄中手記2」。
 出頭しようと福島から大阪に戻って身柄拘束

 ●はじめに  
 前号に続いて寝屋川中学生男女殺害事件の山田浩二被告の手記を掲載する。前号の手記は下記をご覧いただきたい。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190521-00010000-tsukuru-soci
 
 寝屋川事件とは、2015年8月、大阪府寝屋川駅周辺にいた中学1年生の男女が行方不明になり遺体で発見された事件だ。逮捕されたのがその夜、そこを車で通りかかった山田被告だった。この裁判では、検察と被告側との主張が全く対立し、裁判所は被告の主張を退けて死刑判決を下した。ただ、動機を含めて事件の真相はほとんど解明されていない。本誌は山田被告の主張に同意して手記を掲載するわけではない。ただ真相解明のためにわずかでも役に立てばという思いからこれを掲載するものだ。犠牲になった2人の冥福を改めて祈りたい。(編集部)

 私は平成27年8月21日午後6時20分に身柄確保され、同22分に死体遺棄罪で逮捕状の緊急執行をされました。その数日前まで私は福島県の被災地で除染作業に就き、真面目に働いていました。平成26年10月22日に前刑で約12年務めていた徳島刑務所を出所し、その日のうちに刑務所の斡旋(あっせん)により福島県に移ったのです。私は、今回の事件発生後に、とある理由で「出頭」しようと思い、福島県から大阪に戻ってきていました。諸事情等で「出頭」するタイミングが合わず、当時交際していた元カノに大阪に戻ってきた理由や、これから「出頭」しようと決めていることなどを説明しようと思って接触し、私が運転する車に同乗させて、一緒に実家のある寝屋川市に行こうとしていました。実家に住む両親に、事件に関するそれまでの経緯を説明して高槻警察署へ「出頭」しようと考えていたのです。ところが、元カノを乗車させた3分後に捜査車両で道路を封鎖されて身柄確保となったのです。大阪市城東区の路上で、数人の捜査員にうつぶせにされ押さえ込まれました。無抵抗だったのに殴られたりもしました。ここまでするか?レベルの押さえ込みや暴行を受けたのです。何の事情も知らない元カノや逮捕の瞬間を目撃した通行人はさぞ驚いたことでしょう。既に大阪府警は私を内偵、尾行していて、元カノと接触するのを把握していたようです。身柄確保されたその瞬間には現場に報道記者も数名いたそうです。そして、私は両脇を捜査員に抱えられて捜査車両に乗せられ、大阪府警まで連行されました。高槻署に「出頭」するプランがすべて台無しになった事で頭の中がパニック状態となり、何が私の身に起こっているのか理解できず、これから何が始まるのかさえ考えられませんでした。

 そんなとても正常でない精神状態の中、連行中の捜査車両内で両脇にいた捜査員たちから「何故2人を殺したんや、人を殺したら死刑になるんわかっているやろ」、「これが娑婆の夜の見納めになるぞ」、「(殺害を)認めたらお前と彼女は2人とも死刑になるのう」、「彼女もしばらくは家に帰れへんぞ」、「男の子の居場所は彼女も知っているだろう。彼女から話を聞かなアカンし、お前の家族もしばらく帰れないぞ」などと、脅し口調で言われました。もう既に「私が被害者2人を殺害したこと、逮捕前に一緒にいた元カノが共犯で男の子の居場所を知っていること、私の両親も事件に関与していることなど、勝手に決めつけられ、捜査員の中では憶測ストーリーがいくつか出来上がっていたようでした。「私は殺害していない」ことを説明する為に「出頭」しようと、全てを捨てて福島県から大阪に戻ってきたのに、しかも身柄確保された時点では男の子の遺体や身柄も確認されていないはずなのに、殺害していると決めつけられていました。 

 事件には全く関与もしていないし事情すら知らない元カノや両親が共犯扱いされたりしていることにすごくショックを受けました。このまま正直に事情を説明しても信用されないだろうし、とにかく元カノや年老いた両親を事件に巻き込む訳にはいかない。「それだけは阻止しなければ…」と考え、見納めになるだろう夜景など、のん気に楽しむどころではありませんでした。そして大阪府警本部周辺に来た時に「府警本部前はマスコミ報道陣でいっぱいやぞ」と言われました。そんな短時間で報道記者がたくさん集まるものなのか?と思いました。

 府警本部前は報道陣で大混乱だった

 まだ府警本部まで辿り着いていないのに大阪府警の周辺で構えていた記者の集団を発見、カメラを向けられてあわててしゃがみ、大阪府警本部地下の駐車場に着くまでずっと下を向いていました。気配で、私が乗車している捜査車両は府警本部入口付近に停車していたのがわかりましたが、想像以上の人混みやフラッシュの嵐、報道記者の「山田さんですか?」、「殺害したのですか?」、「今の気分はどうですか?」などといった質問の声に、「うゎぁ~これガチで明日の朝刊一面クラスの報道になるパターンや」と察しました。また入口周辺で報道記者が捜査車両の前を陣取っているんでしょう、車両は前に進めずに停止状態。乗車している捜査員が「どいてください」、「邪魔や邪魔や」と報道陣に大声で叫んでいる声が聞こえました。今、大阪府警前がどのような状況になっているのか想像出来ました。すごく怖かったです。報道記者が捜査車両の前に陣取って前に進めないという光景を想像していましたけれど、今思うと、報道記者に逮捕したのを見せつけるかのようにわざと囲まれて停止してるんじゃないかとも考えられます。報道陣と警察はグルですからね。

 ただ私の方はもう訳がわかりません。ようやく地下の駐車場に到着しました。そのまま取調べ室に直行となりましたが、取調べ室内には録音録画の装置があり、私の姿を記録していました。取調べ室では数名の捜査員に囲まれ逮捕状記載の犯罪事由の要旨及び弁護人を選任することが出来ることなどを告げられました。それが「任意」であること、「黙秘」出来ることなど知らない私は、告げられた内容すら頭に入らず、とりあえず連行中の捜査車両内で捜査員から脅された言葉にびびっていたのです。それだけで頭の中がいっぱいでした。何とか元カノや両親に迷惑をかけたくないと思いました。そもそも正直に事件の「事実」を自分の口で説明する為に大阪に戻ってきて「出頭」しようと決めていたのに、その時はそういう気分でなくなっていました。逮捕状の犯罪事由の内容についても理解できず、元カノや両親を助ける為に自分でも訳のわからない供述をしてしまいました。元カノや両親が警察に拘束されたりせず関与も一切していないことを証明する為に咄嗟に嘘を言ってしまいました。その嘘も辻褄(つじつま)が合ってるような合っていないようなデタラメを言いました。「元カノも死刑にされてしまう」、「両親まで身柄拘束されてしまう」。そうなるのが嫌で必死に作り話を供述してしまいました。「それで元カノや両親が助かるのなら…」。それしか考えられませんでした。ただでさえ正常な精神状態でなかったのに逮捕された数日間はろくに睡眠も取れず寝不足状態、そして疲労がたまっていたこと。予定したプランがいきなりの身柄確保ですべて台無しとなったショック等で頭の中が大混乱になった為に、自分でも訳がわからない供述をしてしまい、弁解録取書に署名指印をしてしまいました。当時の私はもうどうかしていたとしか思えません。「出頭」とは全くかけ離れた行動や展開になって行くのが理解すらできず、一人になって何が自分の身に起きているのかゆっくり考えたい気分、ただそれだけでした。

 弁護士に渡された「被疑者ノート」

 署名指印をしたあと捜査員から、これから弁護士面会と言われました。「逮捕されてもう弁護士?」というのが一番の感想でした。身柄確保された瞬間、元カノ宅周辺に張り込んでいた捜査員や報道記者、大阪府警前の報道陣達、そして弁護士面会の段取りの良さ…まるですべてが想定内の対処で、こうなるのは必然的な流れなのか? と、悪い夢ならば上出来過ぎるので早く醒めて欲しいと思いました。そういえば寝不足気味だったな、どっかで居眠りをしているんだ…と自分に言い聞かせていました。けど残念ながら夢ではなかったのです。

 そして大阪府警の取調べ室から弁護士面会室に連行されて行きました。面会室には3人の弁護士の先生がいました。軽く自己紹介をしたあと何か説明をしてくれましたが、ほとんど憶えていません。憶えているのは「弁護方針として取調べでは黙秘をすること、雑談にも一切応じないこと」、そして「弁護士には嘘をつかないこと、弁護士にだけは正直に話をすること」それくらいです。そこでは「被疑者ノート」というのを渡されて「取り調べで何か言われた時はこのノートに書いて下さい。おおげさに書かずありのままを書いて下さい」と言われました。いきなりの弁護士面会で意味がわかりませんでしたが、こんなに早く3人の弁護士が来たというのは、よほど重大な状況なんだと理解し、とりあえず弁護士の指示に従おうと決めました。

 弁面終了後、いきなり取調べが始まりました。夜中の12時過ぎまで行われましたが、取調べでは顔を一切上にあげず、下を向いたまま黙っていました。捜査員の刑事(その時はまだ名前も知らない)から「しゃべった方が裁判の心証も良くなるぞ」、「正直に話して死刑になるか、黙ってふてくされた態度で死刑になるのかどっちが良いのか」、「話をしなかったら不利になる」、「これから世間はお前を見ているぞ、正直になった方が印象も良くなる」みたいなことを言われました。弁解録取書の時の捜査員とは違う捜査員でしたが、その時とは180度私の態度が変わったこともあったのでしょう、時折、怒鳴られたり、脅迫的な言葉や強圧的なものの言い方をされ、身の危険を感じる程怖かったです。

 8月23日に検事調べの為、検察庁へ。そして8月24日には勾留請求の為、裁判所へそれぞれ行ってきましたが、いずれも弁護士の指示通り黙秘をしました。その為、この日、裁判所から接見禁止が付けられました。黙秘している以上は仕方無いかな…とは思いましたが、中途半端な形で身柄確保されたし、やり残してきた事もたくさんあるので、外部と連絡が取れない接禁はすごく辛かったです。

 いつまでも続くことはないかな? と思っていましたが、最終的には昨年、平成30年4月4日まで続きました。では何故その時期に接見禁止が解除になったのか説明します。前号の「獄中記」にも少し触れましたが2017年8月~2018年1月までの約4カ月半、精神鑑定の為、東京拘置所まで行ってきました。この期間は鑑定医の先生と面会をしないと鑑定にならないので「接見禁止の一部解除」という形で鑑定医の先生との面談を受けました。鑑定が終わって大阪拘置所に戻ってきましたが鑑定は終了したということで「一部解除」も取り消されて再び「接見禁止」が継続となりました。

 普通に考えると鑑定は終了しているので一部解除が取り消されるのは当然なのですが、その時にふと疑問を感じました。逮捕され、2年半以上経ち、公判前整理手続きでは公判に向け私の証言に対して少しずつ争点がしぼりこまれ、精神鑑定でも黙秘せず、弁護士に鑑定では正直に話すようにと言われてましたので正直に話をしています。鑑定での私の証言は公判前整理手続きの中でも争点として話題に出ているようですし、今更、接見禁止の理由である「罪証隠滅のおそれ」に意味や影響があるのだろうか? その理由に意味がないのなら接見禁止も無意味な物だし不必要だろう…と思い、ダメ元で弁護士の先生に接見禁止の解除を申し立てて欲しいと頼んだところ、意外にもあっけなく接見禁止の全面解除が認められたのです。それも私の誕生日である4月4日付で。最初は弁護士からは「接禁解除になるのは早くて公判が始まってから、下手すれば判決が出るまで接禁は続く」と言われていましたがこんな簡単に解除となるのならもっと早くから解除申請を申し立ててもらったら良かったと思いました。ただ、接禁解除となってから現在10カ月が過ぎましたが、いまだに弁護士以外では週に一度来てくださるカトリック教会の神父さん、そして報道記者やメディア関係者のみで、社会で交流のあった大切な人達の面会は両親を含め、まだ一度も叶っていません。面会があればあったで、第一審死刑判決、現在控訴中という身分として、面会に来てくれた人達にどのような顔をして顔を合わせればいいのか、面会室での再会後の第一声はどういう言葉を発せれば良いのかわかりません。「迷惑かけてすいません」的謝罪がベストアンサーかもしれませんがいきなり謝罪するのは気まずい雰囲気になりそうだし、謝罪に関しては初公判の時にパフォーマンスなどと批判されて嫌な思いをしたので、いまだにそれがトラウマとなってます。なので最初は明るくふるまった方がいいのかなぁ…などと悩んでいます。この気持ちは相手も一緒なのかも知れない。仮に私が面会に行く立場の人間なら死刑判決で拘置所生活を送っている人に対してどうやってふるまえばいいのかわかりません。たとえそれが親しい相手や親族であっても、分かり合えた者であっても…。だから社会で交流のあった人たちが面会に来てくれないんだろうな、と思っています。

 判決を宣告された時はどん底に

 この「獄中記」が月刊『創』に掲載され発表される頃は接禁解除となり1年が経っているでしょうけど、おそらく状況は変わっていないでしょうね。この面会のない状況が淋しくない、と言えば嘘になりますが、もうだいぶ慣れたし、求刑や判決を宣告された時に、これでもかというくらいのどん底まで落ちました。落ちる所まで落ちて、現在は少しずつはい上がっている所です。そんな地獄を見てきたのでもうどうでもいいかな、という気持ちもあります。この「獄中記」が掲載される頃は控訴審の弁護団や4月18日から始まる国賠訴訟の代理人弁護人も決まっているだろうし、毎週一回、私達の為に面会に来てくれるカトリック教会の神父さん「教誨師の先生」の支えがあります。社会にいた頃は知り合えなかった「絆」を育て合う間柄の仲間もできました。この先の人生を変えていくのはやはり自分自身の行動がすべてだと思います。このような不自由な生活を送っている以上は当然ながら社会生活を送っている人達に比べるとおのずと限界がありますが、その限界の先にある美しい景色を自分の目で見てみたいので今の自分に出来る範囲のことは精一杯頑張りたいです。私は今回取り返しのつかない結果を招く事件にかかわってしまいました。亡くなってしまった被害者のご冥福を心からお祈りするとともにご遺族の皆様に対して哀悼の意を表しお悔やみを申し上げる意味で毎日手を合わせています。昭和→平成に元号が変わった時は加古川学園(少年院)、そして平成から新元号に変わる頃は大阪拘置所、いずれも社会不在期間内でしたがこれも私の運命です。この運命を前向きに思えるよう悔いのない人生をこれからも送りたいと思います。


【大阪中1男女殺害事件初公判までの事件の歩み】
 2019.5.21日、大阪府寝屋川市の中学1年の男女2人を殺害したとして殺人罪に問われ、1審・大阪地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた無職/山田浩二被告(49)が5.18日付で控訴を取り下げ、求刑通り死刑を言い渡した昨年12月19日の大阪地裁判決が確定していたことがわかった。

 昨年12月の1審判決によると、山田被告は2015年8月13日早朝、寝屋川市の京阪寝屋川市駅近くで、星野凌斗りょうと君(当時12歳)と平田奈津美さん(同13歳)に声をかけて車に乗せ、同日午後7時~同11時10分ごろ、大阪府またはその周辺で、中学1年の平田奈津美さん(当時13)の首を手か鈍器で圧迫して窒息死させ、同日に平田さんの同級生の星野凌斗さん(同12)も首を何らかの方法で圧迫して窒息死させた、とされている。

 裁判員裁判となり、自供などの直接証拠がないこともあって殺意や被告の刑事責任能力が争点となった。被告側は「星野君は熱中症などの体調不良で死亡した」と無罪を主張、平田さんについては「首は押さえたが殺意はなく、傷害致死罪にとどまる」と訴えていた。1審判決は2人の遺体の状況などから窒息死と認定。「窒息には首を数分間圧迫する必要があるため、殺意も認められる」などと判断した。その上で、「強固な殺意に基づく残忍で冷酷な犯行」であり、「生命軽視の度合いが著しく、極刑はやむを得ない」として求刑通り死刑判決を下している。


 大阪寝屋川の中1男女殺害事件で死刑判決を下され、即日控訴していたY被告が2019.5.18日、控訴を取り下げ死刑判決が確定していた云々。単独犯としては無理な情況が歴然の中で、本人が犯行を認め、当初共同犯、最終的に単独犯に転じた不可解、法廷で弁護士ともどもでナンセンスな陳述をした不可解、控訴から一転して控訴取り下げした不可解さ等々が付きまとっている。釈然としないことおびただしい妙な事件であると断言しておく。

 2019.5.24日、月刊『創』編集長/篠田博之寝屋川事件・山田浩二被告が控訴取り下げ後二度目の接見で語ったこと」。

【弁護人が取り下げ無効申し入れ書を大阪高裁に提出】
 2019.5.30日、大阪府寝屋川市の中学1年の男女2人が殺害された事件で、控訴を取り下げて1審・大阪地裁の死刑判決が確定した山田浩二死刑囚(49)の弁護人が、取り下げを無効とするよう求める申し入れ書を大阪高裁に提出した。山田死刑囚は、ボールペンの返却を巡って刑務官に怒られ、突発的に取り下げたと説明。「取り下げは事件とはまったく関係ない」、「頭に血が上り、もうどうでもいいと思った」と語る一方、後悔した様子も見せた。弁護士に「さよなら」と書いたはがきを送ったが事前に相談しなかったという。これに対し、弁護人は控訴審の開始を求めており、今後、高裁が認めるかどうかを判断するが、死刑判決の控訴取り下げの無効が認定されたケースは過去にほとんどない。死刑判決を受けた被告の控訴取り下げが有効か争われた例は過去にもある。奈良市の小1女児誘拐殺人事件(04年)で、06年9月に奈良地裁で死刑判決を受けた小林薫・元死刑囚(13年執行)は翌月に自ら控訴を取り下げた。弁護人が無効を申し立てたが、最高裁は08年に訴えを退け、取り下げが有効だと確定した。

 一方、例外的に無効と認められた例もある。神奈川県藤沢市の女子高生ら5人を殺害したとして、横浜地裁で死刑判決を受けた藤間静波・元死刑囚(07年執行)は1991年、独断で控訴を取り下げた。弁護人が無効を申し立て、最高裁は95年に「判決の衝撃で、自分の権利を守る能力を欠いていた」として無効と判断。ただ、再開した控訴審で死刑判決が維持され、最高裁で確定した。

 2015.8月、星野凌斗(りょうと)さん(当時12歳)と平田奈津美さん(同13歳)の首を圧迫するなどして殺害したとされる裁判員裁判の1審判決は2018年12月、殺害の動機や詳しい経緯が公判で解明されぬまま求刑通り死刑を言い渡した。本人と弁護側が控訴したが、山田死刑囚は今月18日、控訴を取り下げる書面を大阪拘置所に提出。死刑判決が確定した。

 2019.12.17日、大阪高裁が、2015年に大阪府寝屋川市の中学1年の男女2人が殺害された事件で、1審・大阪地裁で死刑が確定した山田浩二死刑囚(49)の控訴、その後の控訴取り下げについて「無効」と判断し、控訴審手続きを再開する決定を出した。

 山田死刑囚は公判で2人に対する殺意を否認したが、1審判決はいずれも殺人罪の成立を認め、求刑通り死刑を言い渡した。被告側が控訴したが、山田死刑囚が自ら取り下げ、今年5月、弁護人が無効を申し立てた。決定について、村山浩昭裁判長は「死刑は究極の刑罰で、1審判決に対する山田死刑囚の不服に耳を貸すことなく、直ちに刑を確定させてしまうことには強い違和感と深い躊躇(ちゅうちょ)を覚える」と述べた。大阪高検の畝本毅(うねもとつよし)次席検事は「予想外の決定。上級庁と協議し、適切に対応する」とコメントした。





【速報】寝屋川中1男女殺害 山田浩二被告の死刑が確定 最高裁『弁護側の特別抗告を棄却する決定』。
 2021.8.27日、最高裁は、大阪府寝屋川市で中学1年の男女を殺害し、一審で死刑判決を受けた水海(旧姓:山田)浩二被告(51)の控訴を取り下げたことを巡り、大阪高裁での「控訴取り下げを有効」とする決定を支持して弁護側からの特別抗告を棄却する決定をした。これにより水海(旧姓:山田)被告の死刑が確定した。

 水海(旧姓:山田)被告は2015年に寝屋川市の中学1年生の男女2人を殺害したとして、2018年に大阪地裁で死刑判決が言い渡された。その後、大阪高裁に控訴していたが、水海(旧姓:山田)被告が2019年5月と2020年3月の2度にわたり、控訴の取り下げを申請して、2020年11月に大阪高裁は控訴の取り下げを有効とする決定をした。この決定に対して、弁護側が異議申し立てを行ったが、2021年3月に大阪高裁が異議申し立てを退ける決定をした。さらに、弁護側が最高裁に対して特別抗告をしていたが、8月27日までに最高裁は弁護側からの特別抗告を棄却する決定をした。これにより水海(旧姓:山田)被告の控訴審が開かれないことになり、死刑が確定した。







(私論.私見)