1994(平成6).2.23日 藤田小女姫(こととめ)親子射殺事件

 更新日/2017.4.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「藤田小女姫(こととめ)親子射殺事件」を確認しておく。

藤田小女姫とは何者だったのか――少女時代から殺害されるまでの人生をたどってみよう。
(前後編記事の前編・「新潮45」2005年4月号特集「昭和史七大『猛女怪女』列伝」掲載記事をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記は執筆当時のものです。文中敬称略)

 2014.11.12日 れんだいこ拝



【藤田小女姫(こととめ)】
 2024.10.17日、「「人の運命を見るのは好きじゃないの」 射殺された「天才霊感少女」藤田小女姫の数奇な人生」。
 謎多き美人霊感占い師。本名は藤田東亞子(とあこ)。
 1938(昭和13年)1.4日、福岡県生れ。藤田小女姫こと東亞子。福岡県福岡市にあった鉱山会社に勤める父常吉と母久枝の長女として生まれている。彼女が4歳のときに両親は離婚し、母子は各地を転々とした。この間の足取りはまったく不明で、分かっているのはその8年後、産経新聞に登場した当時、二人が横浜市鶴見区に暮らしていたということぐらいとなる。
 9歳の時、ハワイで狐が憑依し霊感を得、「ことど姫と名乗れ」というお告げを受けたという。 
 1950(昭和25)年5.1日産経新聞、小学6年生12歳の時、朝鮮戦争が勃発し、日本中が特需景気にわいていた年、藤田小女姫が、「奇蹟の少女現る 科学時代にこんな話題が」記事に載った。予知能力を持つ12歳の少女のもとに、捜査への協力を要請する地元警察が足を運び、事業の相談などを持ちかける人が後を絶たないと伝えていた。母一人子一人の家庭でつましく暮らしていた少女は、その不思議な能力が、体に宿った瞬間を自覚していたらしい。取材記者には、こう話した。ハワイから来た狐が耳元で、「コトドヒメ」とささやいた4年前の夜を境に、「ものを聞かれると頭の中でタイプを打つような音がして無意識のうちに言葉がヒョイヒョイと口から出てくる」ようになったとい。12歳の少女は、こんなことも言っていた。「私は人の運命などを見るのあまり好きじゃないの、でも人がどんどん来ちゃうの」(産経新聞)。
 すっとんきょうな調子で予言を口走る、一風変わったおかっぱ頭の美少女は、たちまち時の人となった。母子は独特なバランス関係にあった。予言を売りに、相談業務を切り盛りする母に手を引かれ、小女姫はただ無邪気に、足下の不確かな娑婆の花道を、ふわふわと走っていたようにも見える。
 だがこのときは、やがては首相の岸信介や政商と呼ばれた小佐野賢治、また松下幸之助といった財界の重鎮までもが、彼女の無垢な声に耳を傾けるようになるとは、誰も予想しなかった。この記事をきっかけに、彼女の華やかな人生が突如開けた。
 古参の産経新聞OBらの間で、実は霊感があったのは小女姫の母であり、娘は母のプロデュースによってつくられたただのタレントだという話がひそかに残っている。

 昭和28年3月号の「オール讀物」誌上に、記者と担当編集者が相談者を装い、彼女の相談部屋にひそかに取材に入った記事が掲載されている。当日、相談者が並ぶ一室に、「派手な緋色のワンピース、キラキラピカビカ光るネックレス、イヤリング、腕環、南京虫という時計」を身にまとった15歳の小女姫が、厚化粧の母親にせき立てられて現れた。だが、ファンらしき少女とおしゃべりに興じる彼女は相談などまるで上の空となる。「こんど菓子屋をはじめるのですが、この場所であたりましょうか」、「いいですって……」、「いつごろからはじめたらいいでしょうか」、「早いほうがいいですって」、「早くと申しても、いつがいいでしょうか」、「夏まえがいいです」、「最中を売るのですが……」。彼女は人形に気をとられていてなかなか返事をしない。商売上手らしい母親がサイソクする。「トクイをとれば繁昌します」。そこで男は喜んでひきさがる。お姫さまは男のほうを見もしないで、人形をいじり、ゆで卵をたべている。これで六百圓!」(オール讀物)。万事がこんな調子らしかった。母久枝は、ときに相談者もそっちのけに、娘にブロマイドへのサインを始めさせたり、あるいは、つたなすぎる答えに納得しない客を、「霊感だから、その通りにやってごらんなさい」とあしらい、一切を傍らで仕切っていたようだった。 ものおじせず、ときに開き直りともとれる態度で堂々と相談者を煙に巻く母の強烈な個性が、「霊能者は母である」といううわさの源らしかった。
 色白で細面、切れ長の瞳を持った魅惑的な容姿も受け、若き日の小女姫はタレント並にラジオやテレビ、雑誌にひっぱり回された。
 顧客には首相の岸信介、政商と呼ばれた小佐野賢治、松下幸之助など政財界の大物が多数いた。
 ある実業家は、上機嫌の岸が新安保条約成立後に車のなかで、 「あのとき、ヒメがいなかったら、いまの俺はなかったよ」と話したのを覚えていた。小女姫の死まで10年来のつき合いがあった、年輩の元実業家は、彼女の“信者”が、右翼から政財界、芸能スポーツ界にまでも広がったいきさつを、こうみていた。 「いくら雑誌やテレビでもてはやされても、子どもの霊感に、政財界のお歴々が、いきなり注目したわけではないでしょう。最初に彼女を認めたのは、前田久吉さんでしょうね」。

 大阪生まれの前田は、戦時中に大阪界隈にひしめく産業関連の業界紙を統合し、産経新聞を創刊した名物経営者だった。戦後の公職追放を経たのち、昭和25年に社長に復帰し、東京進出という大事業を一気に押し進めた。小女姫が、産経紙上に登場した年だ。好奇心旺盛な前田が、その記事を面白がり、試しにいくつかの相談を持ちかけてみたのが、始まりらしかった。先見の明があった前田は、放送事業の成長を見込み、東京進出の7年後には東京タワーを建設、さらに翌年、関西に二つのテレビ局をつくった。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのメディア王だった。
「前田さんは晩年ですが、重要な事業のことごとくを、小女姫さんに相談していたと言っていましたね。それが見事に的中するものだからびっくりしたと。逆に相談せずに手がけた事業は、はじから失敗したそうです。ですから、あの再建事業も……、そうだったんでしょうか」。 

 前田は昭和33年、経営不振の時事新報社の再建につまずき、産経新聞社長のイスを水野成夫に譲ることになる。前田に引導を渡した水野を危険視する警告を、小女姫が早くから前田に伝えていたとも、彼は周囲に漏らしたという。余談だが、前田を追い落とした水野にも、小女姫はずいぶんとひいきにされた。現役時代の前田は、彼女の能力を買っていることを、誰彼構わずに語って聞かせたわけではなかったようだ。
 元実業家は続ける。
「親交の深かった小川さんには、早くに彼女を紹介しています。小川さんこそが、彼女を大々的に売った張本人です」。

 小川とは、安田信託銀行の辣腕行員で、戦後、旧藤田財閥の解体を陣頭指揮し、藤田興業の社長になった小川栄一。さらに藤田観光を創設し、観光産業の草分け的な経営者となった。
「小川さんは忙しい人ですから、日本中を飛び回っていた。それで一時期、彼女も一緒に連れ回して歩いたらしいんです。厚く信奉していたというより、ペットのようにかわいがっていた感じかな。だから、小川さんの周りに集まる著名人の間に、一気に顔が売れたんです。彼女に人気が出たのは、小川さんの信用半分、天真らんまんな彼女のキャラクター半分であったと思いますよ」(元実業家) 。
 そういう彼は往時の小女姫を、 「常識はゼロ。世の中のことをなにも知らない。なんせ彼女にかかれば、岸さんだって松下幸之助さんだって、子どもみたいに扱われていましたよ。死ぬまで、あの人は小学生のままだったな」と懐かしそうに思い起こした。
 1960年、政治評論家の細川隆元も彼女の能力を大いに買ったひとり。 『隆元のはだか交友録』(山手書房)には、政財界の友人に、小女姫を紹介したくだりがいくつか紹介されていた。日米安全保障条約の改定案成立に、日本中が騒然となった昭和35年、ときの首相・岸信介が、 「細川くん、藤田小女姫に会わせてくれ。そっと会いたい」(『隆元のはだか交友録』)と頼み込んだという。このとき彼女は22歳だ。以下は前掲書からの抜粋である。
「会って、藤田小女姫に『安保条約は通るか通らんか』と岸さんが訊いた。彼女は目をつぶるわけでもないし、いろんな道具を使うわけでもない。(中略)その間、約五分。『断固としておやんなさい。通ります。そのかわりに、通ったあと、あなたの内閣は長く持ちませんよ』と彼女は言った」。

 学生らデモ隊33万人が異様な熱気を迸らせ国会を包囲するなか、6月19日午前0時に、衆院通過後1カ月を経て安保条約は自然成立した。約3週間後に岸内閣は、総辞職した。
 細川は、アメリカ進出を見据え、社名変更を考える野田醤油の社長(当時)茂木啓三郎が、細川の紹介状を持ってサンケイ会館に出かけた経緯も記している。彼女はひとこと、「キッコーマン」への改名を勧め、3年後には必ず事業の目は出ると短く補足した。結果は、予言の通りであったという。
 昭和36年、銀座で貸金業を営む男性との結婚を控え、23歳の小女姫は「婦人公論」3月号に寄せた手記で、めったに語ることがなかった母久枝と自身の少女期について、簡単に触れている。ついでながら、この結婚はわずか3年で破綻した。
「母が離婚されて、横浜の祖父の家に帰って来ていたとはいえ、その苦労は並大抵のものではなかったと思います。母は、わたしを立派に育てたいため、弱い体をむちうちながら、寮の舎監をしたり、ある会社の秘書をしたり、また終戦後には、ひょっとしたゆきがかりで、横浜に進駐したばかりの兵隊さんのために、ランドリーをひきうけたりして、ママさんランドリーなどと呼ばれました」。
 私生活では離婚も経験した小女姫だが、仕事は、好調そのものだった。が、30歳のとき、思わぬ事故につまずいた。

 昭和43年、小女姫が名目上オーナとなっていた有楽町にあったサウナが火災を起こし、3人の客が一酸化炭素中毒で死亡したのだ。経営者の過失責任を認めた東京地裁は、のちに禁固10カ月、執行猶予2年の有罪判決を彼女に下している。
 このとき週刊誌が、火災発生時にサンケイ会館で相談者の悩みを聞いていた彼女の予知能力に対する疑念記事であざとく爪を立てた。彼女の口癖は、「私、自分のことだけは、なにも分からないのよ」だった。4年前の離婚のときには愛嬌として受け取られたこの言葉も、今回は辛辣な響きを伴って、誌面に取り上げられた。信望の失墜は、予言者には致命傷となった。サウナは即閉鎖、サンケイ会館の相談室も間もなく看板を下ろした。この頃から、政財界の名士や、文化人らが静かに、彼女と距離を置くようになったという。政治家の派閥パーティーに顔を出すことも、すっかりなくなった。
 経営していたサウナの火事、離婚などもあり、小女姫の占い能力を疑問視する声が高まるようになり人気は下火になっていった。
 彼女が、逃げるように日本を離れ、母親とハワイに移住したのは、事件から5年後の昭和48年の夏である。この年、彼女は生後間もない吾郎を、養子に迎えている。
 出国から9年の歳月を経て帰国した小女姫は、経営コンサルタントとして、本格的に活動を再開している。その後、日本とハワイを行き来していた。
 昭和57年、彼女と人生を共にしてきた母久枝を病気で亡くした直後に帰国している。成城の自宅に小女姫の母久枝の遺骨があった。母と別れるのが辛いという小女姫は、その生前ずっと母の遺骨を埋葬できずに手許に置き続けた。
 1994(平成6)年2.23日(現地時間)、ハワイのワイキキ海岸近くに所有していた高層マンションコンドミニアムの建物32階の部屋でボヤ騒ぎが起こり、消化に駆けつけた消防隊員がクローゼットの中で小女姫の射殺体を発見した。胸を銃弾で撃ち抜かれていた。
 さらにマンションから数キロ離れたホテルの駐車場に停車していた車の助手席から小女姫の養子に迎えたひとり息子の吾郎が銃殺死体となって発見されるという事件が起きた(藤田小女姫殺害事件、享年56歳)。母同様、胸には弾痕があった。
 一世を風靡した藤田小女姫(コトトメ)が悲惨な結末をもって、あまりにも唐突に幕を引いた。その生も死も多くの謎が残されたままとなった。藤田小女姫は、最後の最後まで不可思議な人だった。 
 藤田さん母子殺害事件は当時、日本のワイドショーなどで連日取り上げられた。登場人物の数奇な人生も含め、あまりにもドラマチックなものだったからだ。

 「藤田小女姫母子殺人事件」は発生直後から日本とハワイで盛んに報じられた。発生の約2週間後、日本に帰国していた福迫受刑者は神奈川県警に出頭。当時の報道で事件を追うシリーズ第1回では、東京高検に仮拘束される前日の福迫受刑者が、事件への関与を全面否定したインタビュー(「週刊新潮」1994年4月14日号)をお届けした。  
 ハワイでの事件後に、小女姫の遺骨を引き取ったいとこの一人は、冗談交じりに母久枝の印象を「とにかく、ぶっとんだばあさん」であったと、笑った。
「箱根の家には、よく遊びに行ったんですが、有名人が頻繁に出入りしていましたね。それだけじゃなくて、誰か分からない居候までいる。で、彼女と母親は、驚くような高額な金の貸し借りを巡って、言い争っている。彼女は、金銭感覚がなくて、欲しい物は借金をしてでも、なんでも買ってしまうようでした。まあ、二人ともタイプは違うけど、まったく世間離れしていたのは一緒でした」。
 息子の友人だった容疑者福迫雷太が間もなく逮捕される。しかし、彼が有罪判決を受けたいまでも、事件の真相が究明されたとは言い難い。冤罪説、複数犯行説は依然根強く、犯行の背後関係はぼやけたままだ。加えて、事件後二人の遺骨が行方知れずになるという混沌とした末路が重なり、その死は一層謎めいた。
 1994年、占い師の藤田小女姫(こととめ)さん(当時56)と長男の吾郎さん(同21)を殺害した容疑で、終身刑の判決を受け、服役していた。当人は一貫して殺害を否定した。
 真相の見えにくい事件の謎と一緒に、彼女と息子吾郎の血縁に関する数々の推論が噴き出すことになる。遺骨の引き取りや遺産相続、保険金の受け取りが、一筋縄では片付かなかったのだ。
 「東亞子と洋三」(出版研、平成16年に出版)の著者藤田洋三は、東亞子の死後に縁者の名乗りを上げた腹違いの弟で、彼女より5歳年下。著書にある東亞子の素性は、にわかに信じがたいほどに奇怪である。単刀直入に洋三に聞いてみた。「つまり戸籍上では、あなたと東亞子さんは母違いの姉弟ですが、記載はすべてでたらめで、本当は、あなたと東亞子さんが実の姉弟ということですね」、「そういうことです」。

 書籍によれば、東亞子と洋三は、さる大物右翼活動家と、のちに著名な政治評論家の妻となる女性との間に生まれている。洋三は生後間もなく、東亞子は5歳のころ、誘拐同然に戸籍上の父常吉の手で、それぞれの母のもとに連れて来られた。つまり、年端もいかない霊感少女が、政財界の顧客をこうも取り込めたのは、のちに雑誌などで小女姫の姿を発見した、実の父母たちの後ろ盾あってのこと、という。洋三は、実家にあった数々の東亞子の写真と親族の断片的な伝聞、戸籍に記載された地を自分で訪ね歩き、この本を書いたと、持論の根拠を語った。たしかに、実の父母だと推測する両名と、小女姫との間に、近しい付き合いはあったようだが、なぜそれが親子関係に結び付くのかは不明。小女姫の母方のいとこの一人は、「彼女は、父親(常吉)のことをひどく嫌っていました。父親とは、生前一度だけ会ったことがある、とは聞いています」と語った。ある知人は、「別れた父親が、彼女に金をせびりに来ていると聞いたことがある。そのとき、あの人は、本当のお父さんじゃないのと言っていたな」という古い記憶を口にした。その言葉が、戸籍の問題を指したものか、彼女の素直な心情だったのかは、いまとなっては誰にも分からなかった。

 負債額は約2億3000万円。ハワイに出かけて遺骨を引き取ることになったのは、母久枝の実弟の息子である尾崎宜明、同じく妹の息子である浅田直也。彼ら母方の親族は、早々に小女姫の遺産相続を放棄している。浅田は、「彼女の交友関係は、政治家から芸能人までさまざまです。各方面から、しのぶ会をしたいから、遺骨を持参してほしいという要望が寄せられて対応に苦慮しました。マスコミの取材も激しく、遺産目当てという報道まで出る始末です。さらには、彼女にお金を貸しているというところから、次々と有象無象の催促がきて、本当に弱りました」と、当惑した顔で当時を振り返った。

 結局、小女姫の負債も含めた遺産を相続したのは、異母弟の藤田洋三だった。洋三は、その結末をこう説明した。「私が、限定承認という手続きを取って相続しました。これは、資産額を負償が上回る場合、資産を処分して得た額だけを、負債に充てればいいという制度です。たしか負債額が2億3000万円ぐらいで、成城や箱根のマンションを処分した額が9000万円ほどでした。保険金? こちらは最高裁まで争ったのですが、裁判所の判断は、東亞子より吾郎が後に死んだということで、吾郎の親(戸籍上)を支払先と認めるというものでした」。債権明細の一部で知る限りでは、小女姫と吾郎には、互いが受取人になり合う形で、少なくとも総額5300万円になる5タイプの保険がかけられていた。「吾郎は間違いなく実子」との証言。最も奇怪なのは、母方の親族も、洋三も誰も肝心な遺骨の行方、彼女の墓の在処を知らなかったことだった。遺骨を一時保管していた尾崎は、「骨は、親戚付き合いのあった母方の親族20人ほどが集まって神式の祭り(葬式)を営んだ後、成城の自宅で小女姫の会社の残務処理をしていた秘書に、私がたしかに手渡しています。ただその後、どうなったかはまったく聞いていません。その秘書の方も、もう亡くなられたと聞いていますが」と話す。唯一考えられるのは、吾郎方の縁者に引き取られたということだ。

【著者紹介】
 駒村吉重(こまむら・きちえ)

 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌「新潮45」に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。
 藤田洋三
 小女姫(東亜子)の実弟・洋三。
 1943(昭和18)年生まれ。福岡県糟屋郡篠栗・明治鉱業(株)経営の幼稚園修了。福岡県糟屋郡篠栗村立勢門小学校入学。東京都江戸川区立小岩小学校卒業。東京都江戸川区立小岩中学校卒業。東京都立江東工業高校卒業。拓殖大学商学部卒業。東京消防庁消防学校修了。東京消防庁勤務の後2回転職の後、リサイクル業を30数年継続、現在に至る。
 謎の多い小女姫の生涯について実弟の藤田洋三が『東亞子と洋三 藤田小女姫の真実』のなかで衝撃的な事実を語っている。

 吾郎は、戸籍上は名古屋に住む元国鉄職員の三男である。が、事実は、元国鉄職員は戸籍を貸しただけで、吾郎は間違いなく小女姫の実子であり、父は別にいるのだという声にぶつかった。前出の元実業家は、小女姫が成城の自宅で開いたくだけた酒席で、自分を捨てた吾郎の実父に対して、激しく感情をむき出した場面に遭遇したことがあったという。そこにいた面子は、小女姫が世に出るきっかけとなった新聞記事を書いた産経新聞の内川源司と、藤田観光社長だった田中雄平、そして彼だけだった。田中は、小女姫の能力を政財界に売り出した、あの小川栄一の後継者である。面倒見の良かった田中と内川は生涯、彼女の気の置けない特別な友人であった。
「話の経緯は覚えていませんが、急に膝を突き合わせるような深刻な話題になってしまって。実は、吾郎さんは、小女姫さんと名古屋に住む歯科医の間に生まれたお子さんなんです。一時は結婚の話まで出て、お母さんの久枝さんが熱心に準備を進めていたのですが、なぜだか彼が一方的に断ってきたようです。せめて子どもだけでも認知してほしいと願ったようでしたが、それもかなわず、彼女はずっと、だまされたと言って相手を恨んでいたんです。そのことで、内川さんや田中さんは、随分相談に乗ったらしいですね。これは彼女の親しい友人の間では、周知の事実です」 。

 30年前の占師・藤田小女姫さん親子射殺事件で服役中の男が獄中で死亡 首や頭部に外傷」。2024.10.17日、「首相も財界トップも手玉に取った「天才霊感少女」 藤田小女姫殺害犯がハワイの刑務所で殺されていた」。2024.10.17日、「ハワイで遺体発見、消えた3体の遺骨…「天才霊感少女」藤田小女姫、謎に包まれた56年の生涯」。
 14日、ハワイの刑務所で殺害された福迫雷太受刑者。1994年に起きた占い師、藤田小女姫(こととめ)さん母子殺害事件の実行犯として終身刑を言い渡され、服役中の身だった。刑務所で誰が何のために彼を殺害したのかはまだ分かっていない。
 現地時間10月13日夜、ハワイの刑務所で59歳の日本人受刑者が死亡した。1994年2月23日に占い師の藤田小女姫(こととめ)さんと息子の吾郎さんがハワイで殺害された事件で有罪となり、終身禁固刑が確定していた福迫(ふくさく)雷太受刑者である。現地警察の発表によると、福迫受刑者を刺殺したとみられる男は居室が同じだった38歳。詳しい身元などは明かされておらず、殺人事件として捜査が始まっている。
 30年前、ハワイのホノルルで占い師の藤田小女姫さん親子が殺害された事件で、殺人の罪で服役中だった日本人の男が死亡しました。現地メディアは、同じ監房に収監されていた別の受刑者による犯行だと伝えています。

 この事件は1994年2月、ハワイのホノルルで占い師の藤田小女姫さんと息子の吾郎さんが射殺され、その後、放火された事件です。金銭トラブルの末の犯行として、日本人の福迫雷太受刑者(59)が逮捕され、その後の裁判では殺人の罪で有罪評決(終身刑判決)が下っています。

 地元当局によりますと、14日未明、刑務所の職員が監房内で血を流し、意識不明の状態で倒れている福迫受刑者を見つけました。福迫受刑者はその後、現場で死亡が確認されました。

 現地メディアによりますと、発見時、福迫受刑者の首には鋭利な物体が刺さっていたということで、地元当局は同じ監房に収監されていた別の受刑者による犯行とみて詳しい状況を調べています。
  2024.10.19日、「藤田小女姫事件の公判で「完全否定」を一転 獄中死した日本人受刑者は「真犯人」を知っていたのか」。
 1994年8月、ハワイに送還された際の福迫受刑者。日米犯罪人引渡条例に基づく送還の第1号だった

 だが、1995年2月から始まった裁判では全面否定の主張が一転。部分的な関与を認めた上で、殺人の実行犯ではないとした。それでも5月には陪審員の評決で有罪となり、8月の判決公判に至る。第2回と第3回では、この裁判の詳細を報じた記事を再掲する。 (全3回の第2回:「週刊新潮」1995年9月7日号「藤田小女姫殺しで服役三十年となった意外の確証」を再編集しました)  ***


 事件の5日後にマークされていた

 1994年2月23日、ホノルル市アラモアナ通りにある高級コンドミニアムの33階に住む小女姫さんが、左胸を銃で撃たれた上、室内に放火された。発見は午後5時すぎ。同じ日の夜10時半、ワイキキの「パークショア・ホテル」の駐車場で、赤い車が燃えているのが見つかり、その助手席から車の持主で小女姫さんの息子の吾郎君が、やはり銃で胸を撃たれた遺体となって発見された。  ホノルル警察が親子殺害の重要参考人として、吾郎君の友人で、小女姫さんの自宅から徒歩で14、5分の所にあるコンドミニアム「ディスカバリーベイ」に住む福迫雷太をマークし出したのは、事件から5日後のことだった。  その時すでに、福迫は日本に帰国していた。だが、ホノルルの大陪審は3月30日、福迫を第1級殺人罪と、親子それぞれの殺害を計画性の低い第2級殺人罪として、併せて3件で起訴した。(注:当時は氏名、罪名を伏せた極秘起訴)

 「単独犯行」説を突き崩す戦略

 その後、日米犯罪人引渡条約に基づいて、福迫がホノルルに移送されたのが8月。陪審員選定を経て、1995年2月下旬から実質的審理に入った。  検察側の主張は――吾郎君に借金のあった福迫が、母親の小女姫さんから2万ドルをゆすりとろうとして失敗。小女姫さんを彼女の自宅で殺害し、さらに福迫の自室に監禁していた吾郎君を同じく射殺した。その死体を吾郎君の車に乗せ、『パークショア・ホテル』の駐車場に運んで火を付けた――というもの。2万ドルという数字は、殺される直前の小女姫さんが、ホノルルにある日系銀行の旧知の会長に電話で用立てを頼んだ額だった。  一方、弁護側は実質審理に入ると、それまでの全面否定から一転。福迫が借りていたコンドミニアムのエレベーター内の防犯ビデオに、遺体らしきものを選ぶ福造が映っているのを認めたのだ。そして、福迫は脅されて吾郎君の遺体の処理をやむなく手伝ったが、真犯人はほかにいる、と事件への関与は肯定したのである。はっきり遺体と認識していたわけではないという苦しい論法だが、検察側が主張する「単独犯行」説を突き崩す戦略ではあった。

 「被告は真犯人を知っている」

 ところが、5月下旬の陪審員12人による評決は有罪。第1級殺人は退けられたものの、第2級で有罪である。ホノルルのさるジャーナリストが解説してくれる。 「検察側は、被告の他に犯人がいるとは考えられないという戦術を展開してきました。一方の弁護側は『被告は真犯人を知っているが、それについては一切喋れない。それが誰かを調べるのは、検察の仕事ではないか』という戦術に出てきた。証拠と反証で戦った裁判ではなく、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感は否めませんでしたね」 「そもそも訴因は第1級、第2級殺人ともに、被告の単独犯ということだったんです。それが評決の前日になって、陪審員に対する判事からの説示に、検察側が『共犯でも有罪になる』という内容を加えるように申請。結局、この主張が容れられて、これが弁護側にいわせれば、有罪評決の決定打になったというわけです」 (注:福迫受刑者はその後に上訴。ハワイ最高裁は福迫受刑者が「銃器で殺害した主犯」か「共犯」かを陪審員が判断したかどうか不明であるとして、検察に対し、「最低15年」のない再判決に同意するなら有罪判決を支持、同意しない場合は有罪判決を取り消して再審という2択を提示した。検察は前者を選択したため、有罪判決は変わらなかった) 「状況証拠が弱く、被害者の吾郎君と被告の間に金銭の貸借関係があったという主張も説得力に欠けていた。ただ一点、被告が遺体の搬送を手伝ったという部分を認めているため、検察としてはそこに賭けたのでしょう。検察の手法もいかにも、『ちょっとなあ』という感じですが、一応は州法で認められているんだから、それを阻止できなかった弁護側にも非があります」。

 ***  陪審員の有罪評決を経て、8月の判決公判へ。ここでの福迫受刑者は、被告が本来取るべき行動を取らなかったという。第3回【藤田小女姫事件で「濡れ衣を着せられた」 獄中死した日本人受刑者の主張はなぜ退けられたのか】では、判決公判を傍聴した人物や識者の見解を伝える。 デイリー新潮編集部
 2024.10.19日、「「殺人犯にされてしまう」 藤田小女姫事件の「福迫雷太受刑者」がハワイで獄中死…仮拘束前日の「2時間の肉声」」。
14日、ハワイの刑務所で殺害された福迫雷太受刑者。1994年に起きた占い師、藤田小女姫(こととめ)さん母子殺害事件の実行犯として終身刑を言い渡され、服役中の身だった。刑務所で誰が何のために彼を殺害したのかはまだ分かっていない。謎多き人生を送った藤田さんを巡っては死後も多くの謎が残った。遺骨や墓がどこにあるのか、近しい人すら知らないというのだ。その死から30年がたち、さらに新たな謎が生まれたということだろうか。
 謎多き殺人事件の当事者が殺人事件で世を去るという奇しき因縁――。ハワイの玄関口、ダニエル・K・イノウエ国際空港から車で15分足らずの場所にあるハラワ刑務所で13日夜、59歳の日本人受刑者が死亡した。発見された際は、居室の床に倒れて血を流し、首に鋭利な刃物が刺さっていたという。

 死亡した受刑者の名前は福迫(ふくさく)雷太。1994年2月23日に占い師の藤田小女姫(こととめ)さんと息子の吾郎さんがハワイで殺害された事件で、その翌年に終身刑が確定した人物である。現地警察の発表によると、福迫受刑者を刺殺したとみられる男は居室が同じだった38歳。詳しい身元などは明かされておらず、殺人事件として捜査が始まっている。

 仮拘束の前日に2時間インタビュー

 「藤田小女姫母子殺人事件」は発生直後から大きく注目された平成の重大事件である。母子はともに射殺され、小女姫さんは自宅のクローゼットの中で、吾郎さんは愛車の中で見つかった。どちらの現場にも火が放たれていたという残忍な手口に加え、「政財界と縁が深い占い師」と「父親の名前が伏せられた息子」という母子の素性、小女姫さんが事件前に求めていた2万ドルの調達など謎が多い状況も、事件への関心が衰えない理由といえる。  事件から約2週間後、日本に帰国していた福迫受刑者は神奈川県警に出頭した。この際は聴取で終わったものの、ハワイの大陪審は3月30日(日本時間31日)、福迫受刑者を容疑や氏名を非公開のまま極秘起訴。これを受けて、地元のマスコミは翌31日の夕刊からすでに実名を報道していた。  福迫受刑者が東京高検に仮拘束されたのは4月4日のこと。「週刊新潮」はその前日、福迫受刑者に2時間のインタビューを敢行していた。ハワイでの裁判で主張が変わった箇所もあるが、第1回ではこのインタビューを再掲載し、当時の声を振り返る。 (全3回の第1回:「週刊新潮」1994年4月14日号「藤田小女姫殺害犯とされた本人と『会見二時間』の真贋」を再編集しました)  ***

 次々と報じられた「疑わしい状況」

 福追は地元の公立中学を卒業後、アンカレッジの高校に留学。ロサンゼルスの大学に進学したが、卒業しないまま、幾つかのビジネスを手掛けた。フリーターのような生活を経て、ロスで知り合った女性と一緒にハワイに移り住んだのが昨年7月。小女姫さんの自宅から徒歩15分ほどのコンドミニアム「ディスカバリーベイ」に住んでいた。  容疑者と目されたのは、ホノルル警察が部屋を捜索したところ、床に血痕が残っていて、血液型が吾郎さんのものと一致した上、絨毯が1メートル四方にわたって切り取られていたこと。家賃を滞納するなど金に困っていて、吾郎さんやダイバーズショップの店長に借金をしていたこと。事件当日のアリバイがなく、しかも「ディスカバリーベイ」の監視カメラに吾郎さんの車を運転する福迫の姿が映っていたこと。2日後の2月25日に質屋に宝石を持ち込み、換金後に航空券を購入、そのまま急いで帰国していること。カリフォルニア州で飲酒運転と銃の不法所持で逮捕歴があること等々、疑わしい状況が次々と報じられたからである。 「それでも大陪審が開かれるのは、血痕のDNA鑑定の結果が出てからだろうと見られていました。ところが、警察が鑑定を待つ一方でコンドミニアムの防犯カメラを念入りに調べたところ、そのうち地下駐車場に設置してあった1台に長椅子を運び込む福迫の姿が映っていた。そこで地下倉庫を調べると、その長椅子が見つかり、そこには血痕があったばかりか、小女姫さん殺害に使われたのと同じ弾丸がめり込んでいた。これが決定的だったようです」(現地事情通氏の話)

 「最初から僕を犯人扱い」

 「僕が最初に自分が疑われていると知ったのは、帰国後の3月3日のことでした。(中略)これは何とかしなくちゃいけないと、友人や親とも相談して、翌日さっそく、警視庁に出頭したんです」(注:最初に出頭した先は神奈川県警)  4月3日、午後6時過ぎから都内・西新宿のホテルでインタビューに応じた福迫雷太は時折表情を強張らせながらも、淡々とした調子でこう語った。 「ところが、その時にはすでハワイの捜査当局から連絡があったのでしょう。その日のうちに車に乗せられ、宿泊施設のあるホテルのような場所に行き、『今日は一泊してくれ』と言われて、そのまま泊まりました。その後、髪毛と指紋も欲しいと言われたので任意で提供しましたが、要するに警察の姿勢は最初から僕を犯人扱いしていたんです」  福迫によれば、事件を最初に聞いたのは日本に帰る前日の2月24日朝。吾郎さんが勤めるダイバーズショッブに電話をしたところ、店員から「吾郎くんのお母さんが亡くなって、未確認だが吾郎くん本人も亡くなったようだ」と告げられたという。

 食い違う証言

 「大変なことになった」と思った福迫だったが、25日の帰国はすでに決まっていたと主張した。昨年のダイビング中に負傷し、今年3月のインストラクター試験が受けられなくなったため、昨年12月ぐらいから彼女と帰国を決めていたという。 「これは周囲の人も知っていたことで決して急な話ではありません。治療費に充てる保険の手続きの問題もありましたし、アパートの契約期限も迫っていた。そのため、ガレージセールで家具なども売っていて、高椅子を買ってくれた旅行会社の女性に頼んで、当日の便の手配もお願いしたんです」  だが、ひと頃の福迫と吾郎さんは毎日のように、一緒に食事をするほど親しく付き合っていた。借金があったことも事実で昨年暮れに借りた500ドルのうち、その後300ドルはまとめて返済したが、残りは後払いということになっていたという。タイミングが悪かったといえばそれまでだが、なぜ吾郎さんの死も確認しないまま、帰国したのだろうか。  ダイバーズショップの店長の証言は、福迫の主張と大きく食い違う。 「福迫は人のいい吾郎の性格に付け込んでクレジットカードを借りていたんです。それで去年の12月頃、吾郎のカードからレンタカー会社に1100ドル払い込まれているのが判明しました。彼が吾郎のサインを偽造していたんです。吾郎からの借金はそれ以外にもキャッシュで400ドルあって、本当は合計1500ドルです。このことを吾郎は毎日のように僕に相談してました。クレジットカードも実際にはお母さんのものでしたから『早く返してもらいなさい』と言われていたそうです。帰国についても全然知りませんでした」  が、福迫はクレジットカードについても、400ドルの借金についても否定した。

 疑惑を次々と「完全否定」

 福迫の部屋に残っていた血痕と切り取られた絨毯の謎についてはどうか。 「血痕については、ダイビングでケガをした時にも血を流しましたし、彼女が帰国する日にも、スーツケースを選んであげたら、把手の部分が外れて踵に落ちて血が出たんです。そして、僕も吾郎くんも、血液型は同じAB型なんですよ。絨毯を切り取ったのは、内緒で飼っていた猫が部屋を汚したため、そのままにしておいたら内金が返ってこないので、クリーニングと張り替えをビルの中のメンテナンス業者に頼んだんです。その際に、サンプルとしてほんの少し切り取っただけです」  帰国当日に質屋で宝石を換金したという情報は完全に否定。監視カメラに映っていたといわれる吾郎さんの車を運転していた人物や、地下駐車場でソファーを運んでいた人物についても「絶対に自分ではない」と主張した。(編集部註:後の裁判で質屋の件と、「遺体らしきものを運んでいる人物」をとらえた別の監視カメラ映像は自身であると認める) 「吾郎くんの新車(アキュラ・インテグラ)には、一度だけ運転席に座ったことがあります。しかし、あの車はシフト式で、僕はシフト運転はずっと前にしただけですから、運転はできないんです。またソファーといっても、わざわざそんなものを地下に選ぶワケがないし、大体、僕はそんな食庫が地下にあることさえ知りませんでした。もし、そんな人物が映っているとしたら別人としか考えられません」。

 「主張を聞いてもらうことも出来なくなる」

 事件発生当時のアリバイがない理由は「1人で借りてきた日本のビデオを見ていた」からだという。また、過去にカリフォルニアで飲酒運転をして逮捕歴があることは事実だ。 「飲酒運転で拘置所に入れられたことがあるのは本当です。しかもその時はオモチャのエアガンを持っていたため、無理やりに収容されました。ただ、これには、人種的な問題もあると思います。それまで持ち出されて、僕が殺人犯に仕立て上げられてしまうのではたまったものではありません」  最後に福迫の憤りは、警察の対応に向けられた。 「とにかく、今の状態はフェアではありません。仮に僕に疑わしいところがあったとしても、僕としては包み隠さず話しているのだから、ぜひ再捜査をお願いしたいと思います。それなのに警察が言うことは『マスコミと接触すると吊し上げを食って家族も目茶苦茶になるぞ』とか『弁護士を雇うと、自分が犯人だと認めたことになる』など信じられないことばかりです。このままだと、本当に僕は殺人犯にされてしまいます。そしてハワイに連行されれば、もう自分の主張を聞いてもらうことも出来なくなりますよ」  

 事件との関係を完全否定した福迫受刑者だが、ハワイへの送還後、翌年2月から始まった裁判では主張を一転させる。「遺体らしきもの」を運んだのは事実だが、殺害はしていないというのだ。





(私論.私見)