神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史考 |
更新日/2021(平成31. 5.1栄和元/栄和3).9.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史」を確認する。「ウィキペディア神戸連続児童殺傷事件」その他を参照する。 2004.3.19日 れんだいこ拝 |
「神戸連続児童殺傷事件」は、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件で、小学生2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点などで特異な事件となっている。別名「酒鬼薔薇事件聖斗事件」とも呼ばれる。警察は聞き込み捜査の結果、当時14歳の中学生(以下「A少年」と記す)を逮捕し、犯人とされ今日に至っている。一方で、「A少年」の「声明文」の執筆能力を疑い、警察が少年に虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性を指摘する者もある。 |
事件の経緯は次の通りである。 1997年2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。これが第1事件となる。 3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。これが第2の事件となる。 5月24日午後、神戸市に住む男児(地区に住む放射線科医師の次男で身体障害者、当時11歳)を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。これが第3の事件となる。午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。5月25日、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。5月27日早朝、二枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。 少年は冤罪か逮捕された少年が犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。 多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年が在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。
少年の母が2002年5月に少年と面会し、冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「それはありえない」と語っている。 |
精神鑑定結果と犯行の動機 成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人の人格障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。 その後の少年の処遇1997年10月13日、神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。1999年、第二の事件で死亡した女児の遺族と少年側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。2001年11月27日、治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。2002年7月、神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。2004年3月10日、成人した少年は少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。2005年1月1日、少年の本退院が認可される。2005年5月24日、被害者少年の八周忌。少年が弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。2007年3月、第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、少年の両親が出版した本の印税の他、1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。 少年の情報漏洩騒動 少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。 写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。 また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。
立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。 この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。 1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。 参考文献
外部リンク |
「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ15」の「Re: 酒鬼薔薇事件」。
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「 ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ15」の「甜菜薫 日時 2001 年 11 月 14 日」投稿「酒鬼薔薇事件」。
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(私論.私見)