神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史考

 更新日/2021(平成31. 5.1栄和元/栄和3).9.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「神戸A少年猟奇殺人神隠し事件史」を確認する。「ウィキペディア神戸連続児童殺傷事件」その他を参照する。

 2004.3.19日 れんだいこ拝


 「神戸連続児童殺傷事件」は、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した連続殺傷事件で、小学生2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点などで特異な事件となっている。別名「酒鬼薔薇事件聖斗事件」とも呼ばれる。警察は聞き込み捜査の結果、当時14歳の中学生(以下「A少年」と記す)を逮捕し、犯人とされ今日に至っている。一方で、「A少年」の「声明文」の執筆能力を疑い、警察が少年に虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性を指摘する者もある。

 事件の経緯は次の通りである。

 1997年2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。これが第1事件となる。

 3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。これが第2の事件となる。

 5月24日午後、神戸市に住む男児(地区に住む放射線科医師の次男で身体障害者、当時11歳)を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。これが第3の事件となる。午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。5月25日、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。5月27日早朝、二枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。6月4日神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。

 6月28日、少年逮捕。6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年を男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検送検。10日間の拘置が認められる。6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。7月2日、少年の顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。7月11日、少年をバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年を再逮捕。7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年を送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。7月21日、警官2名が、少年の二人の弟に対し、少年が再逮捕された通り魔事件について、少年の学校での行動、言動などを聞く。特に少年の母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。7月24日、警官が少年の両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。


 当初マスコミは、被害児童の頭部が発見された5月27日早朝、中学校正面門を見下ろせる丘にいたとされる「黒いポリ袋を持った20-30代のがっしりした体格の男性」の存在について繰り返し報道していた。中学校付近のマンション1階で住民に目撃された、黒いポリ袋を持った挙動不審者、中学校付近で目撃された黒塗りの車(ワンボックスカーの説あり)の存在。各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年の写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。これら一連の取材合戦について、後に産経新聞が「命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件」(産経新聞大阪本社編集局)で批判と自戒の総括を行っている。これらは警察が犯人に油断を与える為に流した偽情報であるとの説や、マスコミが「犯人は少年の可能性」と流した場合、少年Aが逃亡や自殺する可能性を危惧して、意図的に流した偽情報のであると説もある。また、少年逮捕を伝える臨時ニュースで、須磨警察署前のテレビカメラに向かって、地元の少年らが笑顔でピースサインする姿にも批判の声が上がった。

 少年は冤罪か

 逮捕された少年が犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。

 多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年が在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。

  • 第二の事件で殺害された女児の頭の傷は八角げんのうを左手に持って殴りつけてできたと考えられ、右利きの少年がやったとは考えにくい。
  • 第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している[12]
  • 筆跡鑑定の結果は声明文が少年Aによって書かれたものだと断定はできないというものであった[13]。のちに、鑑定結果を弁護士から知らされた少年は「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている[14]。ただし、赤インクの太字と定規を使用したと見られる直線で描かれたもので、筆跡をごまかしているため、鑑定の結果自体は冤罪の根拠とはならないという意見もある。
  • 取り調べにおいて警察は声明文の筆跡鑑定が確定的であるかの様に説明し、それを受けて少年は自白を始めた。これは違法行為であるため、家裁審判においてこの自白調書は証拠として採用されなかったが[13]、少年Aの弁護士は非行事実について争おうとはしなかった。
  • 少年の素行についての証言が逮捕直後から多数報道されていたが、調査してみると多くは伝聞情報ばかりで直接の目撃証言が確認できない。
  • 判決文による非行事実は荒唐無稽で実行不可能な部分が多い。
  • 14歳少年に実行可能な犯罪とは到底考えられない。犯行声明文は14歳少年が作成したものとは思えないほど高度である[15]。岩田は、この犯行声明文は全体的に難解な論理を特異な比喩を使いながら展開しているにもかかわらず論旨は明快で、成績の悪い少年Aに到底書けるとは思えなかったと述べている[16]

 少年の母が2002年5月に少年と面会し、冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「それはありえない」と語っている。

 精神鑑定結果と犯行の動機

 成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院中等少年院医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人の人格障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。

 その後の少年の処遇
 
 1997年10月13日、神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。1999年、第二の事件で死亡した女児の遺族と少年側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。2001年11月27日、治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。2002年7月、神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。2004年3月10日、成人した少年は少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。2005年1月1日、少年の本退院が認可される。2005年5月24日、被害者少年の八周忌。少年が弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。2007年3月、第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、少年の両親が出版した本の印税の他、1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。


 少年の情報漏洩騒動

 少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を出版した。

 写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

 また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

 土師守『淳 それから』。「少年審判への関与と情報開示の要求」。まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、被害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。

 この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。

 1998年8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

 1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。

 1998年8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年およびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年の両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。このしばらく後に、少年の両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

 参考文献

 外部リンク


 「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ15」の「Re: 酒鬼薔薇事件」。
 投稿者 少年Aが酒鬼薔薇ではない理由 日時 2001 年 11 月 15 日 20:35:09:

 回答先: 酒鬼薔薇事件 投稿者 甜菜薫 日時 2001 年 11 月 14 日 00:35:33:

 神戸事件(1997年)をめぐる主な疑問点・争点50項目

 戸田清  (長崎大学環境科学部助教授)
  2001年6月29日
 「また嘘を書くために飛ぶヘリコプター」 岩田信義

 神戸事件は物証も目撃証人もなく、自白のみで非行を認定されたA少年はいまも医療少年院に収監されている。自白の信用性の判断基準(草加事件判決、最高裁2000年)である (1)秘密の暴露、(2)自白と客観的証拠の整合性、 (3)自白を裏付ける客観的証拠、(4)自白の変遷、も全く満たさない。自白と遺体所見の矛盾も印象的。ますます高まる冤罪の疑惑。

 公式発表

1.神戸事件をめぐる兵庫県警の公式発表は、回数が少なく時間も短かった。それはなぜか。他方で膨大なリーク情報が垂れ流された。公式発表は4回(熊谷2001:192。参照箇所は著者、年、頁数を示す。頁数はしばしば省略する。以下同様)。
    (1)5月27日午前(頭部発見)、
   (2)同日午後9時4分(解剖結果)、
   (3)6月28日午後9時35分(A少年逮捕、5分間)、
   (4)7月15日(A少年再逮捕、10分間)。

2.山下課長の5月27日記者会見は明晰であったのと対照的に、6月28日の記者会見はしどろもどろであった。「凶器はナイフ」「刃渡りは何センチですか?」「わかりません」(安倍1998:51)にその杜撰さは象徴されている。しかも、会見の時間もおかしい。A少年逮捕は午後7時過ぎ、家宅捜索開始は逮捕直後、家宅捜索終了は午後12時ころであった。ところが記者会見は午後9時過ぎに行われている。家宅捜索が進行中であるのに、凶器などがわかるはずがない(熊谷2001)。

 違法捜査

3.神戸家裁少年審判最終決定の第四項目でいうように6月28日に警官がだまして取った自白が違法なら、同日に「だまされたままの人」から検事が取った自白も違法のはずである。本上弁護士も1998年に「検面も排除すべきだった」と述べている(戸田1999b、熊谷2001:29)。少年がだまされたことを知ったのは8月4日であった。(野口1998)

4.だましてとった自白は憲法38条違反であるとの1970年の判例があるので、違法であることに加えて違憲でもある(後藤1999、戸田1999b)。今回も虚偽自白の疑いが強い。

 第二頸椎

5.5月27日の山下課長発表の内容は、なぜ新聞報道されなかったか。重要なのは (1)死因が扼殺(扼頸)による窒息死であったこと、(2)第二頸椎下部を鋭利に切断されていたこと、の2点である。このことの報道は、
  (1)1997年9月発行の毎日新聞単行本『少年』(毎日新聞社1997:64)と
  (2)1998年4月発行の朝日新聞単行本『暗い森』(朝日新聞社1998:18、朝日新聞社2000:20)だけであった。
 あと「第二頸椎」が警察リークとして『週刊文春』1997年6月12日号に、神戸大学法医学龍野教授インタビューとして1997年10月発行の神戸事件の真相を究明する会第2集に出ただけである(戸田1999b)。すなわち「第二頸椎情報」は雑誌と単行本、パンフレットに4回(朝日文庫を入れると5回)流れただけで、一切新聞報道されていない。朝日新聞連載「暗い森」(1997年10月18日〜11月15日)でも第二頸椎への言及はない。もし第二頸椎問題が詳細に報道されていれば、A少年犯人説があれほど容易に流布定着することはなかったであろう(熊谷2001:125)。「社会学者は第二頸椎に関心をもたない」(徳岡秀雄教授発言1999年)

6.第二頸椎切断であったにもかかわらず、検面調書はバラバラ事件でのふつうの頭部切断(仰向けにしてノドボトケ付近すなわち第五頸椎付近)のようにしか読めない(検面1997=1998:123)。仰向けで第二頸椎を切断するためには、頭部をのけぞらせるのが自然である。しかしアンテナ基地には後頭部を入れる大きさの溝や窪みはなかった。この矛盾についての説明責任は放棄されている。

7.通常の第五頸椎付近切断では頸部が大きく残って安定が悪いので、地面においても首がごろんと倒れてしまう。第二頸椎を切断したのは頸部がほとんど残らず安定し、地面に置いて目線が45度上を向いて安置されることを目的としたとしか考えられない。「さらし首を目的とした理想的な切断面」を少年が考えつくだろうか(熊谷2001:123)。不可能ではないにしてもきわめて不自然である。サレジオ事件(1969年)とは違う。

 扼殺

8.死因が扼殺であったことを山下課長は5月27日に明言している(毎日新聞社1997:64、朝日新聞社1998:18、朝日新聞社2000:20)。しかも6月9日、6月12日、6月21日などの報道(いずれもA少年逮捕以前であることに注目されたい)によれば右手のみで扼殺したという(熊谷2001:79)。6月21日の報道で舌が突き出された状態になっていたと指摘されているが、これも扼殺の所見である(熊谷2001:141)。ところが検面調書のストーリーによると、両手で扼殺を試みたがういまくいかず、靴紐を解いて絞殺に移行して殺したとなっている(検面1997=1998:114〜116、熊谷2001:78)。家裁への送致事実(毎日1997:210)でも家裁最終決定(朝日2000:249)でも「両手と靴紐で絞めて殺した」と認定されている。この矛盾についての説明責任も放棄されている。

9.自白では口を開けられず舌を切り取れなかったとしているが、舌が歯のあいだに突き出されていた遺体所見と矛盾する(熊谷2001:141)。

 死斑と凍結

10.死斑の色は淡紅色で通常より赤っぽいと龍野教授は証言している。これは一酸化炭素中毒、青酸中毒、凍死に近い状態だが、一酸化炭素中毒と青酸中毒が否定されるので、凍結や冷蔵しか残らない(究明する会1997b、安倍1998:47、熊谷2001:70)。死斑の色についての説明責任が放棄されている。

11.淳君の遺体発見は5月27日であるのに5月24日昼に食べたカレーライスが胃内でほとんど消化されていなかった(安倍1998:101、熊谷2001:138)。その理由についての説明責任も放棄されている。たとえば殺害直後に急速に凍結されたとすれば説明できる。

12.凍結説によって (1)赤い死斑、(2)消化されぬ胃内容、(3)内蔵が多いためふつうは胴が頭より先に腐るが、逆であった、(4)鋭利に切断、(5)土中の血液検出、(6)頭部の濡れ、などの謎が一挙に説明できるが、凍結説の検証が放棄されている(安倍1998:48、熊谷2001:149〜154参照)。

 その他遺体関係

13.少年の自白では午前1時から午前3時に頭部を校門前においたとしているが、午前5時5分に新聞配達員は頭部を目撃していない(熊谷2001:116)。

14.頭部は少なくとも3回置き直されている。地面にも塀の上にも置かれている(安倍1998:30〜31)。少年は162センチ、塀は198センチであった。約4キロの頭部をひとりで塀の上に置くことは困難である。大人2人が肩車して置くことは容易である。校門前の道や校門前の丘の上の道を走る新聞配達員やクルマを見張る人も必要である。頭部の置き直しは大人3人であれば容易である。

15.土師守氏によれば淳君が家をあとにしたのは5月24日午後1時40分であった(土師1998、熊谷2001:138)。『週刊現代』6月21日号によれば殺害推定時刻は午後2時頃である。少年の自白で時間をかけて格闘して殺したというストーリーと矛盾する。

16.A少年の自白では格闘の末淳君を殺したことになっているが、遺体には格闘の跡はなかった(熊谷2001:74)。

17.アンテナ基地に遺体切断の形跡はなかった(安倍1998:36、熊谷2001:140)。

18.アンテナ基地に置かれた死後3日の遺体の死臭が気づかれないはずがない(安倍1998:37、岩田2001:82)。

 物証

19.7月6日に見つかった金ノコギリからルミノール反応は明らかでない(安倍1998:55)。「物証の欠如」(自白のみで物証も目撃証人も皆無である)の1例である。このことも追及されていない。

20.7月6日に金ノコギリが発見されたが、7月5日の検面調書でも7月7日、7月9日の検面でも糸ノコギリと言っている。知っていたはずの検事が訂正していない。7月17日の検面で突然「金ノコ」に変更されている(安倍1998:115)。

21.5月28日の報道にあるように電動ノコギリによる切断が疑われたが(安倍1998:41)、そのことの検証がない。金ノコギリで切ったとは考えにくいと整形外科医が証言している(安倍1998:42)。

22.すり替えのきかない南京錠は発見されていない(安倍1998:55、熊谷2001)

23.家宅捜索で見つかったタライからも風呂場からもルミノール反応はない。
 「物証の欠如」の1例である。このことも追及されていない(究明する会1999b)。

24.タライは返却されることなく所有権を放棄させられている(A少年の父母1999、究明する会1999b)。このことも追及されていない。

 懲役13年と挑戦状

25.「懲役13年」によく立ち読みできる岩波文庫のダンテ『神曲』ではなく、ダンテの壽岳文章訳(集英社1987年)が引用されていることは不自然である(戸田1999b)。

26.「懲役13年」に「プレデター2」(1990制作、日本公開1991)が引用されている。ビデオ「プレデター2」の字幕よりも引用文のほうが英語の直訳に近い。A少年の英語力との整合性はどうか(戸田1999b)。

27.「懲役13年」にニーチェやロバート・レスラーが巧みに引用されている(戸田1999b、安倍1998:83)。

28.「懲役13年」の文章の巧みさはA少年の国語力と整合しない(岡田2000、岩田2001)。

29.「酒鬼」や「殺死」は中国語の素養を示唆している(戸田1999b)。

30.挑戦状・犯行声明とA少年6年生の作文の筆跡の違いが安本美典教授(言語心理学)によって指摘されている(安倍1998:69)。神戸大学の魚住教授も同一筆跡としがたいと述べている(魚住2001:220)。

31.「懲役13年」というタイトルが不思議である(安倍1998:83)。神戸事件が起きるまでは犯罪少年の少年院収容期間は3年であった。1997年9月8日の法務省通達で「最長26歳まで」となった。それを6月頃に「先取り」したA少年は「予知能力」があったのか。

32.第二挑戦状の投函場所の郵便局の消印が「神戸西局」から「須磨北局」に変更された(安倍1998:57〜60)。その根拠の説明責任が放棄されている。

 2月事件と3月事件

33.3月事件の犯人は水平に強打しており、左利きである。ところがA少年は凶器を振り下ろしたと供述しており、しかも右利きである(熊谷2001:40〜44)。この矛盾についての説明責任も放棄されている。

34.2月事件の被害者は「赤い顔の若い男」としか言っていない。しかし当時のA少年は両手に荷物を持って通学していた。そのことが記憶に残らないはずはない(熊谷2001:39)。この矛盾についての説明責任も放棄されている。

その他

35.黒いごみ袋を持った中年男と黒いブルーバードについての目撃証言の一転無視(安倍1998:33、熊谷2001)に関する説明責任が放棄されている。こちらのほうがむしろ真犯人グループにつながるのではないだろうか。

36.警察は目撃証人の聞き取りに不熱心であった(安倍1998:34、熊谷2001)。

37.検面調書によればA少年は首を置きに行くために2階から出入りしたことになっている(検面1997=1998:136)。ところが2階からの出入りはほぼ不可能の状況であった(安倍1998:131)。この矛盾についての説明責任も放棄されている。

38.A少年が淳君と連れだってタンク山に向かったところは目撃されていない。

39.町の中や池の周辺を頭部を持って歩き回り、目撃されないのは不自然ではないのか(安倍1998:124)。

40.自白では自転車で出かけたとなっているが、両親の手記で歩いて出かけたことがわかった。シナリオが時間的にくずれてくる(究明する会1999b)。

41.インターネット上の文字の疑問が解明されていない(岩田2001:69〜75)。

42.6月7日の元同級生調書だけが根拠でA少年に絞り込まれたと推定されるが(熊谷2001:55)、この問題についての説明責任が放棄されている。

43.神戸新聞社の佐藤公彦氏が指摘したように「猫の舌の瓶詰め」「同級生の前歯を折った」等は誤報であったが(究明する会1998b)、そのことについての訂正記事がない。

44.いつものように神戸事件でも逮捕直後からマスコミの犯人視報道や「学者文化人」の犯人視コメントが氾濫した。推定無罪原則はフランス人権宣言(1789年)や世界人権宣言(1948年)に明記されている。

45.西鉄バスジャック事件(2000年)や池田小学校事件(2001年)のような現行犯逮捕でない限り、法の建前・形式からいっても、有罪判決が出るまで(少年の場合は非行を認定した家裁決定が出るまで)無罪を推定されなければならない。神戸事件の場合は、1997年10月17日(家裁決定)以前に本を出すのは無責任である。(たとえば小田晋、町沢静夫両氏。社会学者宮台真司氏も逮捕直後から犯人視コメントを始めた。戸田1999a参照)。

46.A少年に問診していない精神科医・心理学者や面接していない社会学者がコメントしたり、犯人説で本を書くのは無責任である。

47.A少年犯人説に疑問を投げかけること自体をとがめる変な雰囲気がある(岡田2000:238)。

48.朝日新聞社『暗い森』の単行本と文庫本の写真差し替え理由が説明されていない(戸田2001)。

49.精神鑑定は捜査側の枠組みでA少年犯人説を前提としたものだったと推定される。

50.6月28日の捜査状況が異常であった。両親から隔離され、同日に警察官と検察官が警察で調書をとっている(後藤1999、2000)。

●説明責任の放棄と国営詐欺・マインドコントロールを許してはならない。

文献
朝日新聞大阪社会部編1998『暗い森』朝日新聞社
朝日新聞大阪社会部2000『暗い森』朝日文庫
安倍治夫監修・小林紀興編1998『真相:神戸市小学生惨殺遺棄事件』早稲田出版
岩田信義2001『校長は見た!酒鬼薔薇事件の真相』五月書房
魚住和晃2001『現代筆跡学序論』文春新書
岡田啓2000『脱学校化社会』駒草出版
熊谷英彦2001『神戸事件を読む:酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』鹿砦社
現代社会問題研究会1998『神戸事件の謎』解放社
検面1997=1998「1997年7月5日、7月7日、7月9日、7月10日、7月13日、7月17日、7月21日検面(検事)調書、立花隆解説」『文藝春秋』1998年3月号
神戸事件の真相を究明する会1997a『神戸小学生惨殺事件の真相』第1集
神戸事件の真相を究明する会1997b『神戸小学生惨殺事件の真相』第2集
神戸事件の真相を究明する会1998a『神戸小学生惨殺事件の真相』第3集
神戸事件の真相を究明する会1998b『神戸小学生惨殺事件の真相』第4集
神戸事件の真相を究明する会1998c『神戸小学生惨殺事件の真相』第5集
神戸事件の真相を究明する会1998d『神戸小学生惨殺事件の真相』第6集
神戸事件の真相を究明する会1999a『神戸小学生惨殺事件の真相』第7集
神戸事件の真相を究明する会1999b『神戸小学生惨殺事件の真相』第8集
後藤昌次郎1999『偽計捜査を許してはならない』警察・検察の不正の告発を支援する会
後藤昌次郎2000a『新局面を闘う!神戸事件違法捜査の告発』警察・検察の不正の告発を支援する会
後藤昌次郎2000b「論争:見すごせない『神戸事件』の違法捜査」『週刊金曜日』10月27日号
後藤昌次郎2001a 『A少年はいかにして犯人とされたか』警察・検察の不正の告発を支援する会
後藤昌次郎2001b「少年Aは推定『無罪』!」『諸君!』10月号 文藝春秋
少年Aの父母+森下香枝1999『少年A この子を生んで』文藝春秋
戸田清1999a「神戸事件と恥ずかしい知識人たち」究明する会第7集所収
戸田清1999b「神戸小学生惨殺事件の文理融合(学際)的考察」『長崎大学総合環境研究』2巻1号
戸田清2001「神戸事件を考える」『根』長崎高教組長崎支部
野口善國1998『それでも少年を罰しますか』共同通信社
土師守1998『淳』新潮社
毎日新聞大阪本社編集局1997『少年[小学生連続殺傷事件・神戸からの報告]』毎日新聞社

 「 ★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ15」の「甜菜薫 日時 2001 年 11 月 14 日」投稿「酒鬼薔薇事件」。

 ちょとした裏話(上)

 本当か分かりませんがちょっとした裏話です◆うーーん確証のとりようがありません、、◆あの衝撃的な酒鬼薔薇事件からはや数年、もう世間の興味は失せたかのようにも見えますが、 一般に公開された情報は全容のほんの一部にしか過ぎません◆これを知れば、あの異常な事件は起こるべくして起こったということがわかるはずです◆数年前、福岡で起きた美容師バラバラ殺人事件を覚えていますか?◆全てはここから始まったのです◆もっとも、その殺人に至った経緯は美容室店長をめぐる女二人の三角関係のモツレが原因というありふれたものでした◆しかし、遺体をバラバラにする過程で、殺した江田という女がある知り合いの男の協力を得たという部分はほとんどクローズアップされることなくこの事件も忘れ去られていました◆この男、江田が逮捕されて自分に捜査の手が伸びることを知るとすぐに自殺してしまいました◆が、マスコミはその事実を一様に伏せたままでした◆なぜか?それは、その男が地元福岡では、ある有名な外科病院の院長の息子だったからです◆その病院は佐田外科といい、福岡市の中心部天神に程近いところにある、外科手術では技術に定評のある大病院です◆この男自身は医者の道へは進まず、天神界隈で花屋を経営していました。生きていれば今年30才でした。花屋と言えば花◆花といえば薔薇◆薔薇といえばホモというのが連想されますが、実はそのまさか、この男、ホモだったようです◆その事実については決定的な証拠はないものの、生前の彼を知る人でそのことに疑問をもつ人はいないでしょう◆その殺人事件の原因ともなった美容室店長ともホモ関係にあったという噂もまことしやかに流れたものです◆ともあれ、彼は自殺し、佐田家では密かに密葬が行なわれ、周辺の住民のみがその詳細を知るにとどまっていました

 ちょとした裏話(下)

 と、ここまでは神戸の事件とは何ら接点がないように思われるでしょう◆しかし、です◆この男には上に兄と姉がいました◆兄は院長の志を受け継ぎ、現在副院長として病院に勤務しています◆そして姉の方はといえば、十数年前に結婚し、その後神戸に住まいを構えていました◆そうです、その姉こそが神戸小学生バラバラ殺人事件犯人の母親です◆つまり、美容師バラバラ殺人事件の共犯者だった花屋経営の男と、酒鬼薔薇聖人は従兄同志だった訳です◆母親はよく家族連れで福岡に帰省していたので、酒鬼薔薇聖人はその従兄を「花(薔薇)のお兄ちゃん」として慕っていたとしても不思議はありません◆さて、警察の調書では犯人の少年が「祖母の死」をきっかけに人の死に興味を持ったと書かれていたそうですが、それはこの従兄の事件と彼の自殺のダミーです◆自分が兄と慕っていた従兄がバラバラ殺人事件の共犯者でそのために自殺したということが、当時小学生だった一人っ子のシンイチロウに大きなショックと精神的ダメージを与えたとしても、ある意味、当然のことだったかも知れません◆しかし、彼の親、特に母親に多大な問題があったことは否めません◆現在、両親は福岡ダイエーホークスの本拠、福岡ドームがある高級住宅街、早良区百道(ももち)に密かに住まいを移し平然と生活しています◆知人にはこの事件に関して「今でもあの子があんなことをするなんて信じられない」と隠すでもなく、また、悪びれるでもなく平気で話しているようです◆問題児に屈折した家庭環境ありとは正にこのことでしょう◆

 本文は、末尾の「知人にはこの事件に関して「今でもあの子があんなことをするなんて信じられない」と隠すでもなく、また、悪びれるでもなく平気で話しているようです」に値打ちがある。投稿者は「問題児に屈折した家庭環境ありとは正にこのことでしょう」と揶揄しているが、それは投稿者の能力の問題であり、「今でもあの子があんなことをするなんて信じられない」と隠すでもなく、また、悪びれるでもなく平気で話しているようです」を紹介した意義は変わらない。




(私論.私見)