パリサイ派が、イエスを謀殺した
「中世キリスト教ヨーロッパは暗黒の時代であった」という常識が、いまの日本では広く行きわたっている。しかしこれは全く事実に反する。 「中世ヨーロッパは、ユダヤ教徒にとっては暗黒時代であった」ということは事実だろう。何故なら、そこでは、人々は「ユダヤはイエス・キリスト=神を殺害した民族である」と、端的に指さして言ったからだ。
けども、恐ろしく不可解なことに、キリスト教徒の経典の中には、ユダヤ教と共通の旧約聖書が含まれている。このために、キリスト教徒のユダヤ観は混乱し、自己矛盾せざるを得ない。彼らの排ユダヤは首尾一貫し得ない。キリスト教徒はユダヤ教との腐れ縁を切ることが出来ないのだ。恐らく、この難問に、2000年の間、凡てのキリスト教徒が苦しんで来たに違いない。
16世紀になってようやく、ヨーロッパのキリスト教神学者たちによるヘブライ語研究が本格化し、それから、400年以上の真剣な研究がつみ重ねられて、ごく僅かな先覚者たちが隠された秘密をさぐり当てたようだ。
我々は、デ・グラッペがロシア語に訳したブレーニエの「世界撹乱の律法、ユダヤのタルムード」(原著は1913年頃の出版か)に、この学問的成果の一端をうかがい知ることが出来る。その結果、「イエスを殺害した真の犯人は、バビロン捕囚期に秘密結社として成立したパリサイ派のラビ集団である」ということが、ついに突きとめられた。
イエスが伝道を始めたその当初から、パリサイ派はイエスに対する殺意を抱いた。彼らは、3年の間準備し、ついにイエスは捕縛せられて、パリサイ派が首脳部となっていたサンヘドリン(最高評議会)に引き出された。
祭司長等及び長老等(これ等の最高職位を自派から出していたパリサイ派)によって煽動されたユダヤ民衆は、当時のローマ政府の長官ピラトに向かって、凶悪なる強盗のバラバを赦免して、その代わりにイエスを十字架にかけることを請願した(その当時は、過越の祭に、十字架にかける罪人の一人を必ず赦免する規則になっていた)、と福音書には記述されている。
ピラトが、イエスを死刑にすることに全く気乗りしていなかったことは、新約聖書の言々句々にあまりにも明らかだ。だが、彼は、パリサイ派に煽動されたユダヤ民衆が執拗にイエスの殺害を要求するので、ついに根負けして、イエスを十字架につける命令書に署名せざるを得なかったのではなかろうか。 |
なぜ、パリサイ派はイエスを謀殺しなければならなかったか
イエスの伝道は、パリサイ派を震撼せしめた。イエスの声がパリサイ派の偽善を暴いた時、彼等の支配は破局に瀕した。 イエスの最初の奇蹟が、ユダヤの民衆の待望したメシア(救世主)の出現であると感ぜしめた時、如何に大きな驚異がパリサイ派の人々を衝撃したかは、新約聖書によく描写されている。
イエスはすでにその以前にも、安息日の祝典について、外面的敬拝を過大に遵守することを装って心中ひそかに律法の破壊を謀っていたパリサイ派の「偽善」を面と向かって責めた。
イエスの往く所に従い、その行なった奇蹟を見て鼓舞されつつあった民衆の勢いを見ると、これは、「聖殿で売買を行なう者」の権勢の終焉を予報していたかのように見えた。
パリサイ派は、イエスのもとに使者を派遣した。この使者の一団は、ガリラヤの岸辺でイエスに会った。 彼らは、パリサイ派の設立した洗浄式の一つを口実として、イエスの弟子がこの儀式を守らないことを責め、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」とイエスに言った。
イエスは「なぜ、あなたがたも自分たちの言い伝えによって、神のいましめを破っているのか」と言い、また、「偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』」と言った、と聖書にある。
ここで言われていることの真の意味は、イエスが、パリサイ派の自称する「古人のいいつたえ」とは、パリサイ派によるでっち上げであり、モーゼの律法とは別物である、つまりそれはニセモノである、「汝等(パリサイ派)は、ユダヤ教の神の誠令をふみにじり、破壊するものである」と、パリサイ派の使者たちに述べた。ということではなかろうか。
これによって見れば、イエスは、パリサイ派の正体を、その奥底まで見破っていたと推定できる。 「あなたがたはわざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである」(マタイ伝第23章)という一句は、福音書の中でももっとも有名で、よく引用されるところだ。
これによってパリサイ派は、完全に死命を制せられた。彼等のイエスに対する憎悪は頂点に達した。イエスを殺害しない限り、500年に亘って築き上げて来たパリサイ派の全秘密結社は崩壊する。イエスを殺す他ないのだ。 |
なぜ、パリサイ派はローマ軍にイエスを殺害させたか
福音書は、イエス殺害の経緯を詳しく記録しており、その本筋は疑う余地なく明瞭だ。つまり、パリサイ派は、イエスを、ユダヤの裁判によってでなくローマの刑によって殺害させた、ということである。ユダヤの死刑は、石撃ちの刑であった。イエスの死後、パリサイ派は十二使徒の一人・ステパノを殺害したが、彼は石撃ちの刑で殺された(使徒行法)と記してある。なぜパリサイ派はイエスを、直接、石をもって殺さなかったのだろうか。
福音書によれば、パリサイ派はイエスを「ローマに対する政治的反逆を煽勤しているが故に、ローマの法によって死刑とさるべきである」とピラトに対して請求した、となっている。
イエスが、ユダヤ民族によるローマに対する政治的(従って次には軍事的)な反乱を組織した、というのは事実だろうか? いや、福音書に見る限り、そんな形跡はひとかけらもない。彼のホコ先は、ユダヤ民族と、ユダヤ教の内部に向けられている。イエスは、ユダヤの民衆に向って、彼等の祖先に与えられた神の古代よりの約束を想起せしめ、離叛した彼らの祖先の信仰の記念を喚起せしめようと努めている。
イエスは、パリサイ派こそ預言者を殺害した者の子である、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と弾劾している。
つまり、イエスの伝道の核心は、ユダヤの民衆に対するパリサイ派秘密結社の支配を打ち崩すことであったのだ。
パリサイ派は、イエスのこの正々堂々の言論に、まともに立ちむかうことが出来なかった。彼らはイエスの主張を作りかえる戦術に出た。つまり、「イエスこそ、メシアである」というユダヤ民衆の信仰を逆手にとり、このメシアを、パリサイ派的なメシア、すなわち「政治的軍事的なユダヤの独立と、ユダヤ人に多大な物質的富を約束する指導者」という風にすりかえ、そして次に「ユダヤの民衆を失望させ、最後に、イエスをローマ軍に告発し、売り渡す」という作戦である。
そして、最終的に、(パリサイ派に言わせれば「ニセのメシア」であるところの)イエスを殺害した責任をローマ軍に転嫁してしまう。 この謀略は、大変入り組んでいて、表面だけ見るものには理解出来ない。
パリサイ派の手口は常にこんな具合なのだ。そしてこの謀略が、その後、キリスト教徒を混乱させる上で大きな力を発揮することになるのだ。 |
イエスは、パリサイ派の全教義と、全権威を土台からくつがえそうとした
「イエスは、僅か3年しか伝道の時間がなかった」とよく言われる。しかし、この3年の間に、イエスは、パリサイ派が500年をかけて築き上げた全殿堂を土台からくつがえす寸前のところまで達していた。イエスがそれをなし得たのは、実は、パリサイ派出現の当初から、バプテスマのヨハネに至る500年の歴史、パリサイ派に反対し、抵抗し、それを批判するユダヤの宗教的精神的伝統のすべてを、彼が継承していたからなのだ。つまり、彼は、パリサイ派の隠された正体のすべてを見てしまっていたのだ。
パリサイ派の全堂宇、全建築物は、その偽善、その陰謀、その欺瞞に依存している。 それが白日のもとにさらけ出されるとき、彼らの幻想の大宮殿、彼らの虚構の大神殿は一瞬のうちに崩壊し、消滅する運命にある。
恐らく、パリサイ派も、そのことをよく認識していたに違いない。 「神の永きにわたる忍耐が、イスラエルの民の罪悪のためにその力を失って、神がその仁恵をこの民から取り上げ、その特権を奪って、これを他国民の間に分配する時期が到達した」との警告を、イエスは、あの有名な、ぷどう園の主人云々のたとえ話で述べている。
この話は、ユダヤ人による神人の殺害、次いで彼らに及ぶ神罰の預言である。
福音書は、「祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬えを聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕らえようとした」と記している。
通俗のキリスト教史についての解説書(ユダヤ、パリサイ派色で偽造された)には、キリスト教は、ユダヤ教の改革派、改革主義運動の一種である、などと、安易に書かれているが、これは全く当たっていない。
そんな(改革などという)なまやさしい関係ではないのだ。
また、ユダヤ教が、復讐と憎しみ、怨恨の情念のこりかたまりであるのに対して、イエスは、愛の宗教を説いた、などと、よく言われるが、これも、問題の核心をそらしている。
イエスは、パリサイ派の「偽善」、その偽隔を突いたのだ。 「偽善」とは、明治初年につくられた英語からの訳語である。しかし、この新造日本語は、原語(ヘブライ語→ギリシャ語→ラテン語→英独仏語)の、恐ろしく強烈な、毒々しい、身の毛のよだつようなひびきを持つことばと、似ても似つかない、弱々しい感じしか与えない。あいにく、日本民族には、それに対応するような体験が存在しなかったのだ。 |
パリサイ派は、イエスの使徒たちの布教拡大に戦慄した
世界の救い主が、すべての罪人等の上に伸ばして広く左右に開いた両手を、パリサイ派の人々は、十字架の木に釘をもって打ちつけた。十字架に釘づけにされたキリストの足下に、その門下達や、門徒及び聖なる婦人たちが泣き叫んでいた時、神の子の殺害者たるユダヤ人は、高らかな笑声をあげて、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」という、忘れ得ぬことばをくり返していた。
パリサイ派は、巨敵キリストを謀殺したことによって、彼らが3年間悩んで来た脅威を駆除し得たと思った。それで最初彼らは、キリストの弟子等の伝道をすこしも意に介さなかったが、エルサレムに於て、キリスト教に帰依する者の数がますます増加したため、彼らは、ペテロとヨハネをサンヘドリン(最高評議会)の会議に引き連れて来て、伝道を中止しろと威嚇した。
しかし、使徒たちは伝道を中止しなかったので、再び拘引されて、鞭打ちの制裁を受けた。それでもなお、キリスト教に帰依する者を阻止することは出来なかった。
これによって、パリサイ派の不安が増すに従って、その暴虐の程度もいよいよ苛酷をきわめ、使徒ステパノは石を以て撃ち殺された。 ステパノが、死を前にしてパリサイ派の裁判官に向かって述べた烈々たることばは、使徒行伝7章に記録されでいる。すなわち、「強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
新約聖書の中核部分は、四福音書と使徒行伝であろう。 そしてここには、パリサイ派の正体が、誤解しようのない鮮明さで描写されている。 実際、ステパノのこのことばは、パリサイ派秘密結社のラビたちを戦慄させたのではなかろうか。
十二使徒の一人・ステパノはパリサイ派ユダヤによって殺害された。 しかるに、キリストの使徒たちは、互いにその伝道の地区を分配して、町から町へ、会堂から会堂へと巡歴して、全ローマ帝国の各地に分れて活勤し、いたるところに新しい信徒の数を増加させた。パリサイ派のユダヤ人に対する宗派的主権が危殆に瀕しつつあることを、彼らは悟った。 |