芥川龍之介のイエス論

 (最新見直し2008.3.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 芥川龍之介の作品の中に西欧宗教の「切支丹もの、キリスト教、ユダヤ教に関するもの」がある。その他和洋問わずの「宗教的受難もの」がある。次のようにリストアップできる。「芥川龍之介とキリスト教 −切支丹物を中心に−」、「「日本近代文学の中のキリスト教―」、「芥川龍之介の切支丹小説―」」等々を参照する。
作品名 発表時期
 煙管 1916(大正5).11月
 煙草と悪魔 1916(大正5).12月
 尾形了斉覚え書き 1916(大正5).12月
 さまよえる猶太人 1917(大正6).5月
 るしへる 1918(大正7).8月
 奉教人の死 1918(大正7).9月
 邪宗門 1918(大正7).11月
 きりしとほろ上人伝 1919(大正8).4月
 じゅりあの・吉助 1919(大正8).8月
 黒衣聖母 1920(大正9).4月
 南京の基督 1920(大正9).6月
 神神の微笑 1922(大正11).1月
 報恩記 1922(大正11).3月
 おぎん 1922(大正11).8月
 おしの 1923(大正12).3月
 糸女覚え書 1923(大正12).12月
 西方の人 1927(昭和2年).7月
 続西方の人
 侏儒の言葉 1927(昭和2年).
 侏儒の言葉の序 1927(昭和2年).
 
 以下、これらの著作に表われた芥川のイエス、キリスト教、ユダヤ教に関する観点を検証する。

 2008.3.17日 れんだいこ拝


【芥川のイエス、キリスト教に関する観点考】
 れんだいこは、芥川のイエス観の解析に向かおうと思う。それは、芥川のイエス観が滅法イエスの何者であるかを鋭く嗅覚しているのでは無いかと思い始めたことによる。イエス観は、イエス没後の福音書から今日まで悠久の二千年を費やして様々なイエス像が語られている。しかし、イエスがキリストとして称えられたり、ユダヤ教的観点から批評されるばかりで、真正のイエス像に迫っていない恨みがある。この点で、芥川のイエス観は大いに参考になるように思われる。

 それはそれとして、れんだいこは、イエス論の要諦は、イエスのユダヤ教パリサイ派との論争の質の高さにあると思っている。これに着目し、イエスの弁論の秀逸性を引き出すことこそイエス論の核心であると思っている。にも拘らず世上のイエス論はこの作業に向かわず、イエスの周縁事情に関心を向け事足れりとしてるように見える。それは、本来のイエス論からの脱落であり、悪意の場合にはすり替えではないかと思っている。

 この点で、芥川のイエス論は、当初はイエスの周縁事跡の解説に向かうも次第にイエスの本質に迫って行った経緯を見せている。ここに芥川イエス論の秀逸性があると思う。これを確認したい。以上を前置きとして、芥川の観たイエス像を解析する事にする。 
 「西方の人」。「1 この人を見よ」で、キリストの一生を概括している。興味深い箇所は次のような記述である。
 わたしは彼是(かれこれ)十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――殊にカトリツク教を愛していた。長崎の「日本の聖母の寺」は未だに私の記憶に残つている。こう云うわたしは北原白秋氏や木下杢太郎氏の播(ま)いた種をせっせと拾っていた鴉(からす)に過ぎない。それから又何年か前にはクリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或る興味を感じていた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のように病的な興味を与えたのである。
 日本に生まれた「わたしのクリスト」は必しもガリラヤの湖を眺めてゐない。赤あかと実のつた柿の木の下に長崎の入江も見えてゐるのである。従つてわたしは歴史的事実や地理的事実を顧みないであらう。(それは少くともジヤアナリステイツクには困難を避ける為ではない。若し真面目に構へようとすれば、五六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである。)それからクリストの一言一行を忠実に挙げてゐる余裕もない。わたしは唯わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳《いかめ》しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。

 「25、天に近い山の上の問答」で、次のように述べている。
 彼の投げつけた問は「我等は如何に生くべき乎《か》」である。クリストの一生は短かつたであらう。が、彼はこの時に、――やつと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみを嘗《な》めてゐた。

 
芥川は「西方の人」で云い足りなかったのか、「続西方の人」で続編を記している。れんだいこは、「続西方の人」の方が、イエスに関する雑多な知識に振り回されず、本質的なイエス論にアプローチをしているように思える。全てを解説するのは却って煩雑なので、れんだいこが注目するところを確認批評しておく事にする。

 「1 再びこの人を見よ」で次のように述べている。
 クリストは「万人の鏡」である。「万人の鏡」と云ふ意味は万人のクリストに傚《なら》へと云ふのではない。たつた一人のクリストの中に万人の彼等自身を発見するからである。わたしはわたしのクリストを描き、雑誌の締め切日の迫つた為にペンを抛(なげう)たなければならなかつた。今は多少の閑(ひま)のある為にもう一度わたしのクリストを描き加へたいと思つてゐる。誰もわたしの書いたものなどに、――殊にクリストを描いたものなどに興味を感ずるものはないであらう。しかしわたしは四福音書の中にまざまざとわたしに呼びかけてゐるクリストの姿を感じてゐる。わたしのクリストを描き加へるのもわたし自身にはやめることは出来ない。

 「2 彼の伝記作者」で次のように述べている。
 ヨハネはクリストの伝記作者中、最も彼自身に媚びてゐるものである。野蛮な美しさにかがやいたマタイやマコに比べれば、――いや、巧みにクリストの一生を話してくれるルカに比べてさへ、近代に生まれた我々には人工の甘露味を味はさずには措《お》かない。しかしヨハネもクリストの一生の意味の多い事実を伝へてゐる。我々は、ヨハネのクリストの伝記に或|苛立《いらだ》たしさを感じるであらう。けれども三人の伝記作者たちに或魅力も感じられるであらう。人生に失敗したクリストは独特の色彩を加へない限り、容易に「神の子」となることは出来ない。ヨハネはこの色彩を加へるのに少くとも最も当代には、up to date の手段をとつてゐる。ヨハネの伝へたクリストはマコやマタイの伝へたクリストのやうに天才的飛躍を具へてゐない。が、荘厳にも優しいことは確かである。クリストの一生を伝へるのに何よりも簡古を重んじたマコは恐らく彼の伝記作者中、最もクリストを知つてゐたであらう。マコの伝へたクリストは現実主義的に生き生きしてゐる。我々はそこにクリストと握手し、クリストを抱き、――更に多少の誇張さへすれば、クリストの髯の匂を感じるであらう。しかし荘厳にも劬《いたは》りの深いヨハネのクリストも斥《しりぞ》けることは出来ない。兎《と》に角《かく》彼等の伝へたクリストに比べれば、後代の伝へたクリストは、――殊に彼をデカダンとした或ロシア人のクリストは徒らに彼を傷《きずつ》けるだけである。

 芥川はここで、「しかし荘厳にも劬《いたは》りの深いヨハネのクリストも斥《しりぞ》けることは出来ない」としながらも、ヨハネ伝福音書に違和感を表明している。れんだいこ研究に拠ってもヨハネ伝は異質であり、イエス教から転じてユダヤ教式キリスト教に転じさせた「功績?」を持つ。そのことを感知した芥川の感性が素晴らしいように思う。

 「3 共産主義者」で次のように述べている。
 クリストはあらゆるクリストたちのやうに共産主義的精神を持つてゐる。若し共産主義者の目から見るとすれば、クリストの言葉は悉(ことごと)く共産主義的宣言に変るであらう。彼に先立つたヨハネさへ「二つの衣服《うはぎ》を持てる者は持たぬ者に分け与へよ」と叫んでゐる。しかしクリストは無政府主義者ではない。我々人間は彼の前におのづから本体を露《あらは》してゐる。

 芥川はここで、イエスの思想を共産主義的精神に通底していることを見て取っている。そのことを感知した芥川の感性が素晴らしいように思う。

 「4 無抵抗主義者」で次のように述べている。
 クリストは又無抵抗主義者だつた。それは彼の同志さへ信用しなかつた為である。近代では丁度トルストイの他人の真実を疑つたやうに。――しかしクリストの無抵抗主義は何か更に柔《やはら》かである。静かに眠つてゐる雪のやうに冷かではあつても柔かである。……

 芥川はここで、イエスを無抵抗主義者であったと評している。れんだいこはそうは思わないが、芥川はそう観たということを確認しておく事にする。

 「7 クリストの財布」で次のように述べている。
 かう云ふクリストの収入は恐らくはジヤアナリズムによつてゐたのであらう。が、彼は「明日のことを考へるな」と云ふほどのボヘミアンだつた。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかつた。

 芥川はここでも、「我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない」と評している。

 「9 クリストの確信」で次のように述べている。
 クリストも亦あらゆるクリストたちのやうにいつも未来を夢みてゐた超阿呆の一人だつた。若し超人と云ふ言葉に対して超阿呆と云ふ言葉を造るとすれば。……

 芥川はここで、イエスを「あらゆるクリストたちのやうにいつも未来を夢みてゐた超阿呆の一人だつた」と判じている。芥川独特の言い回しであろう。

 「21 文化的なクリスト」で次のように述べている。
 バプテズマのヨハネは彼の前には駱駝《らくだ》の毛衣《けごろも》や蝗《いなご》や野蜜に野人の面目を露《あらは》してゐる。クリストはヨハネの言つたやうに洗礼に唯聖霊を用ひてゐた。のみならず彼の洗礼(?)を受けたのは十二人の弟子たちの外にも売笑婦や税吏《みつぎとり》や罪人だつた。我々はかう云ふ事実にもおのづから彼に柔い心臓のあつたのを見出すであらう。彼は又彼の行つた奇蹟の中に度たび細かい神経を示してゐる。

 芥川はここで、イエスの悪人正機説を窺っている。

 芥川のイエス論は他にも言及されているように思うが、これを確認する手間隙が無い。そういう限定付きであるが、以上から云えることは、芥川がイエスの本質を共産主義的思想の持主にして名ジャーナリストであったという評価を下している事である。何気ない指摘であるが、イエスをそう評した芥川の慧眼を見て取るべきではなかろうか。念のため言い添えておくが、ここで云う共産主義とは現在の共産主義政党の在り姿とはとは何ら関係ない。

【芥川のユダヤ教、ユダヤ人に関する観点考】

 芥川のユダヤ教、ユダヤ人に関する観点で見過ごせない指摘がある。以下、これを確認しておく。

 芥川は、「煙草と悪魔」の冒頭で次のように書き起こしている。

 煙草《たばこ》は、本来、日本になかつた植物である。では、何時《いつ》頃、舶載されたかと云ふと、記録によつて、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあつたり、或は天文年間と書いてあつたりする。が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文禄年間になると、「きかぬものたばこの法度《はつと》銭法度《ぜにはつと》、玉のみこゑにげんたくの医者」と云ふ落首《らくしゆ》が出来た程、一般に喫煙が流行するやうになつた。――

 そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、歴史家なら誰でも、葡萄牙《ポルトガル》人とか、西班牙《スペイン》人とか答へる。が、それは必ずしも唯一の答ではない。その外にまだ、もう一つ、伝説としての答が残つてゐる。それによると、煙草は、悪魔がどこからか持つて来たのださうである。さうして、その悪魔なるものは、天主教の伴天連《ばてれん》か(恐らくは、フランシス上人《しやうにん》)がはるばる日本へつれて来たのださうである。

 かう云ふと、切支丹《きりしたん》宗門の信者は、彼等のパアテルを誣《し》ひるものとして、自分を咎《とが》めようとするかも知れない。が、自分に云はせると、これはどうも、事実らしく思はれる。何故と云へば、南蛮の神が渡来すると同時に、南蛮の悪魔が渡来すると云ふ事は――西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云ふ事は、至極、当然な事だからである。

 しかし、その悪魔が実際、煙草を持つて来たかどうか、それは、自分にも、保証する事が出来ない。尤《もつと》もアナトオル・フランスの書いた物によると、悪魔は木犀草《もくせいさう》の花で、或坊さんを誘惑しようとした事があるさうである。して見ると、煙草を、日本へ持つて来たと云ふ事も、満更嘘だとばかりは、云へないであらう。よし又それが嘘にしても、その嘘は又、或意味で、存外、ほんとうに近い事があるかも知れない。――自分は、かう云ふ考へで、煙草の渡来に関する伝説を、ここに書いて見る事にした。

 芥川の真意は不明であるが、ここで芥川は、タバコを表象しつつ、それがバテレンがもたらした可能性に触れ、西欧文明と云う名のその実はユダヤ教パリサイ派的信仰の悪魔性とその浸透に触れている。この観点が素晴らしい。続いて、次のように述べている。

 天文十八年、悪魔は、フランシス・ザヴイエルに伴《つ》いてゐる伊留満《いるまん》の一人に化けて、長い海路を恙《つつが》なく、日本へやつて来た。この伊留満の一人に化けられたと云ふのは、正物《しやうぶつ》のその男が、阿媽港《あまかは》か何処《どこ》かへ上陸してゐる中に、一行をのせた黒船が、それとも知らずに出帆をしてしまつたからである。そこで、それまで、帆桁《ほげた》へ尻尾をまきつけて、倒《さかさま》にぶら下りながら、私《ひそか》に船中の容子《ようす》を窺つてゐた悪魔は、早速姿をその男に変へて、朝夕フランシス上人に、給仕する事になつた。勿論、ドクトル・フアウストを尋ねる時には、赤い外套《ぐわいたう》を着た立派な騎士に化ける位な先生の事だから、こんな芸当なぞは、何でもない。

 芥川は、こうタバコになぞらえて悪魔信仰の浸透経緯を記している。この後、南蛮の伊留満と牛小人のやり取りを記しながら、次のように述べている。

 が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代《かはり》に、煙草は、洽《あまね》く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜《きうばつ》が、一面堕落を伴つてゐるやうに、悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。

 それから序《ついで》に、悪魔のなり行きを、簡単に、書いて置かう。彼は、フランシス上人が、帰つて来ると共に、神聖なペンタグラマの威力によつて、とうとう、その土地から、逐払《おひはら》はれた。が、その後も、やはり伊留満のなりをして、方々をさまよつて、歩いたものらしい。或記録によると、彼は、南蛮寺の建立《こんりふ》前後、京都にも、屡々《しばしば》出没したさうである。松永|弾正《だんじやう》を飜弄《ほんろう》した例の果心居士《くわしんこじ》と云ふ男は、この悪魔だと云ふ説もあるが、これはラフカデイオ・ヘルン先生が書いてゐるから、ここには、御免を蒙《かうむ》る事にしよう。それから、豊臣徳川両氏の外教禁遏《ぐわいけうきんあつ》に会つて、始の中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまひには、完《まつた》く日本にゐなくなつた。――記録は、大体ここまでしか、悪魔の消息を語つてゐない。唯、明治以後、再《ふたたび》、渡来した彼の動静を知る事が出来ないのは、返へす返へすも、遺憾《ゐかん》である。……(大正五年十月)

 これによると、芥川は、南蛮の神と同時に南蛮の悪魔も叉同時に渡来したとしていることになる。この指摘は案外深刻なほど鋭いのではなかろうか。

 「さまよえる猶太人」も興味深い。イエス・キリストが磔の刑に処せられる直前にイエスを辱める非礼を行った為にイエス・クリストに呪われ、最後の審判の来る日を待ちながら永久に地上をさまよはなければならない運命を背負わされた「さまよえる猶太人」を登場させ、この伝説を追跡する物語を展開しているが、「さまよえる猶太人」を特定の個人にせず、流浪の民ユダヤ人総体として読み取れば、深刻な話となっている。

 芥川は冒頭、次のように記している。
 基督《キリスト》教国にはどこにでも、「さまよえる猶太人《ゆだやじん》」の伝説が残っている。伊太利《イタリイ》でも、仏蘭西《フランス》でも、英吉利《イギリス》でも、独逸《ドイツ》でも、墺太利《オウスタリ》でも、西班牙《スペイン》でも、この口碑が伝わっていない国は、ほとんど一つもない。従って、古来これを題材にした、芸術上の作品も、沢山ある。

 流浪の民ユダヤ人の辿り着いた国々が分かる仕掛けになっている。続いて、「さまよえる猶太人」の出没した場所と時期を記して、アルメニアのセント・アルバンスの修道院、フランドル、ボヘミア、ハムブルグの教会、マドリッド、ウイン、リウベック、レヴェル、クラカウ、パリ、ナウムブルグ、ブラッセル、ライプツィッヒ、スタンフォド、ムウニッヒ、イギリス、デンマアク、スウエデンを挙げている。間接的にユダヤ人の集落を告げていることになる。

 その後、18世紀になってユダヤ人が全ヨーロッパに割拠し始めたことを次のように記している。
 それ以来、十八世紀の初期に至るまで、彼が南北両欧に亘《わた》って、姿を現したと云う記録は、甚だ多い。最も明白な場合のみを挙げて見ても、千五百七十五年には、に現れ、千五百九十九年には、に現れ、千六百一年にはの三ヶ所に現れた。ルドルフ・ボトレウスによれば、千六百四年頃には、パリに現れた事もあるらしい。それから、

 日本への到来について次のように記している。
 第一の疑問は、全く事実上の問題である。「さまよえる猶太人」は、ほとんどあらゆる基督《キリスト》教国に、姿を現した。それなら、彼は日本にも渡来した事がありはしないか。現代の日本は暫く措《お》いても、十四世紀の後半において、日本の西南部は、大抵|天主教《てんしゅきょう》を奉じていた。デルブロオのビブリオテエク・オリアンタアルを見ると、「さまよえる猶太人」は、十六世紀の初期に当って、ファディラの率いるアラビアの騎兵が、エルヴァンの市《まち》を陥れた時に、その陣中に現れて、Allah akubar(神は大いなるかな)の祈祷を、ファディラと共にしたと云う事が書いてある。すでに彼は、「東方」にさえ、その足跡を止めている。大名と呼ばれた封建時代の貴族たちが、黄金の十字架《くるす》を胸に懸けて、パアテル・ノステルを口にした日本を、――貴族の夫人たちが、珊瑚《さんご》の念珠《ねんじゅ》を爪繰《つまぐ》って、毘留善麻利耶《びるぜんまりあ》の前に跪《ひざまず》いた日本を、その彼が訪れなかったと云う筈はない。更に平凡な云い方をすれば、当時の日本人にも、すでに彼に関する伝説が、「ぎやまん」や羅面琴《らべいか》と同じように、輸入されていはしなかったか――と、こう自分は疑ったのである。
 自分は最後の試みとして、両肥《りょうひ》及び平戸《ひらど》天草《あまくさ》の諸島を遍歴して、古文書の蒐集に従事した結果、偶然手に入れた文禄《ぶんろく》年間の MSS. 中から、ついに「さまよえる猶太人」に関する伝説を発見する事が出来た。その古文書の鑑定その他に関しては、今ここに叙説《じょせつ》している暇《いとま》がない。ただそれは、当時の天主教徒の一人が伝聞した所を、そのまま当時の口語で書き留めて置いた簡単な覚え書だと云う事を書いてさえ置けば十分である。

 この覚え書によると、「さまよえる猶太人」は、平戸《ひらど》から九州の本土へ渡る船の中で、フランシス・ザヴィエルと邂逅《かいこう》した。その時、ザヴィエルは、「シメオン伊留満《いるまん》一人を御伴《おとも》に召され」ていたが、そのシメオンの口から、当時の容子《ようす》が信徒の間へ伝えられ、それがまた次第に諸方へひろまって、ついには何十年か後に、この記録の筆者の耳へもはいるような事になったのである。もし筆者の言をそのまま信用すれば「ふらんしす上人《しょうにん》さまよえるゆだやびとと問答の事」は、当時の天主教徒間に有名な物語の一つとして、しばしば説教の材料にもなったらしい。

 「さまよえる猶太人」が日本史上の戦国時代に到来し、戦国武将や貴族と誼を通じ、イエズス会のフランシスコザビエルと「さまよえる猶太人」と濃厚な関係を築いていた事まで記している事になる。芥川がどういう意図で「さまよえる猶太人」を記したのか分からないが、恐ろしいほど事態の本質を見抜いていることには変わりない。その感性は鋭過ぎると窺うべきではなかろうか。





(私論.私見)



 
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