ユダヤ人と彼等の嘘その3、本文後段

 (最新見直し2007.5.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ユダヤ人と彼等の嘘 目次: マルチン ルター著」の読解テキストと思われる「歴史情報研究所 島講一氏ブログ」、 「ユダヤ人の偽りの引用」を参照する。

 2006.2.28日 れんだいこ拝


 統治者の方々ヘの進言
 ユダヤ人達を配下に持っている王侯、領主諸侯殿が私の進言を容れぬとあらば、要するに皆さん自らがより良い「解決方法」を見つけるぺきであろう。つまり、それによって我々全員がユダヤ人という耐え難い悪魔的くびきから解放され、また我らの主イエスキリスト、その御母、すぺてのキリスト教徒そしてすぺての統治者の方々と我ら自身に対して、荒れ狂うユダヤ人達が神の御前でなしているあらゆる嘘と悪口、つばを吐き掛ける行為、呪いに対し共犯者にならないで済む「解決方法」を。即ち、あなたがたはユダヤ人達に対して保護や安全通行手形や組合員の地位を与えてはならない。ましてやあなたがた及び臣下の方々の所持金や財産を彼らの高利貸しの元手とするのを許してはならない。

 我々はいまだに多くの自分自身の罪を背負っている。そして我々が神の恩籠と御働きに感謝する事を忘れたり、軽んじたりする事で日々その罪をさらに付け加えている。この上ユダヤ人などという卑しい外国人の悪徳をそれに付け加え、さらには我々の所持金や財産を彼らに与える必要など全くないのだ。

 我々が日々トルコと戦闘状態にあり、それゆえ我々は自分達自身の罪から免れて魂の成長と向上を計る必要が多いにあるのだという事を思い起こそうではないか。この事に関して私は一連の事態を暴露し、それに警戒を促した者として自らの良心が潔白であり、何らやましい所が無い事を望むものである。

 牧師であり伝道士である私の親愛なる方々、そして友人の皆さん、私は皆さんが、教区民達に対して永遠の破滅に陥る事のないよう警告を発するという自らの役目を誠実に思い起こされるよう願うものである。あなたがたはその為にどうしたらよいのかよく承知されている筈である。

 即ち、教区民はユダヤ人に対して警戒の構えをとり、彼らを避けなければならない。しかし決して彼らを呪ったり個人に対して傷害を与えたりすぺきではない! 何故なら彼らが不幸な事に1400年の間そうし続けてきたようにナザレ人イエス、マリアの御子息を呪う事とは、実は自分達自身を呪い侮辱し続けてきた事になるのであるから。こうした点であなたがたは統治なさる方々に対し、私が申したごとくにユダヤ人達を取り扱うよう促す事が可能であろう。この点に関し統治なさる方々が何らかの処置をなそうと為すまいと、すぺての人々が自分自身の中にユダヤ人達に対するそのような決意と見通しを持つことによって自分自身と自分の良心を大切にするぺきなのだ!

 ●統治者への進言

 要は、ユダヤ人を配下にもつ王侯、領主諸侯がもし私の進言を容れぬとあらば、みずからよりよい「解決方法」を見いだすべきであろう。われわれ全員がユダヤ人という耐えがたき悪魔の軛から解放され、わが主イエス・キリストとその母、全キリスト教徒、そして全統治者とわれわれ自身が、荒れ狂ったユダヤ人どもが神の御前で演じているあらゆる虚偽、悪口、唾を吐く行為、呪詛の共犯者とならないですむ「解決方法」を。つまり、あなたがたはユダヤ人に対して保護と安全通行手形と組合員の地位を与えてはならないのである。ましてや、あなたがたや臣下の所持金や財産を彼らの高利貸しの元手とするようなことは決して許してはならない。

 われわれはいまだに多くの罪を背負っており、神の恩寵と御働きに感謝することを忘れたり、軽んじたりすることにより、毎日その罪を重ねているのである。そのうえユダヤ人という卑しい外国人の悪徳を積み重ね、加うるにわれわれの所持金や財産を彼らに与える必要などまったくないのだ。日々トルコと戦闘状態にあるがゆえに、われわれはみずからの罪を免れて、魂の成長と向上をはかる必要が大いにあるのだということを想起しようではないか。

 こうした件について、一連の事態を暴露し、警戒を促した者として、私はみずからの良心に照らして潔白であり、なんら疚しいところはないことを願っている。牧師であり伝道師であるわが親愛なる方々、そして友人の皆さん、私は皆さんが教区民に対して、永遠に破滅することのないよう警告を発するという自分たちの役割を誠実に想起されんことを願っている。あなたがたは、そのためにはどうしたらよいかを知っているはずである。

 つまり、教区民はユダヤ人に警戒体制をとり、彼らを遠ざけねばならないのである。だが、彼らを呪ったり、個人に損傷を加えたりしてはならない。なぜなら、不幸にも彼らは千四百年間、ナザレびとイエス、つまりマリアの御子息を呪いつづけてきたが、それは実はみずからを呪い侮辱しつづけてきたことなのだから。こうした観点から、あなたがたは為政者に対して、私が述べたようにユダヤ人を処置するよう促すことができる。この点に関しては、為政者がなんらかの処置をしようとしまいと、すべての人びとがみずからのうちにユダヤ人に対する決意と展望をもつことによって、自分とみずからの良心を大切にすべきである。


 キリスト教徒の死を熱望する

 一人のユダヤ人に会ったりその男の事を考える時にはいつでも、あなたがたは自分で自分に次のように言い聞かせるぺきである。見よ、自分が向こうに見るあの「口」は、毎週土曜日には、そのかけがえのない血によって私を救って下さったわが主イエス・キリストを呪い、忌み嫌い、そして唾をかけ続けている。そしてまた神の御前で私や私の妻子達とすぺてのキリスト教徒が最も悲惨な形で刺し貫かれ、殺されるのを祈願し、呪っているのだ。

 彼らは、もしそうできるものであれば、我々の財産を所有しにやって来たいのだ。彼らは(自分達の習慣に従って)まさにこの今日という日において、イエスの名に対し地面に唾を吐き、多分、その唾は彼の口やあご髭にかかっているのだが、まだ彼の顔のその辺りには、まだ十分につばが付く余裕があるのだ。かかる悪魔的な連中(口)と食ぺたり、飲んだり話したりするぺきなのであろうか? 私はあのユダヤ人の中に住んでいるすべての悪魔達の仲間となり、キリストの貴重な血液に唾を吐きつつ、確実に多くの悪魔達の盧になってしまうのであろうか。神よ、どうか私にそうさせないで下さる事を!。

 もしも彼らが我々のようには神を信じないなら、我々はそうするように手助けする事はできないし、信仰を受け人れるように強いる事もできない。しかしながら我々は、彼らが故意に嘘や冒涜、呪い、そして恥をかかせんとする点において彼らを力付けてしまう事だけは避けなけれぱならない。そして彼らに庇護(肉や飲物、宿泊場所、そして近隣者としての親切)を与える事によって彼らの悪魔的な夢と大言壮語の共犯者になってはいけない。特に、我々が彼らに対し友好的であったり、彼らに奉仕している所ではどこでも、彼らは神が彼らを主人にさせ、我々を召使いにさせたのだと得意になって、そして横柄に自慢するのであるから。

 安息日にはキリスト教徒が彼らの火をつけ、彼らが望むものは何でも料理してやるのだが、この事に関して彼らはまるでなにか良い行いをしているかのように我々を呪い、唾を吐き、中傷するのである。しかし彼らは我々から盗んだ我々の財産をすっかり食ぺ尽くしているのだ。ここ1400年の間、我々の疫病神にして害毒、そしてあらゆる災難の元凶であり続け、現在もそうであるユダヤ人達は、かかる絶望的、悪魔的であり、害悪を流す者どもなのである。

 ●キリスト教徒の死を熱望する

 ユダヤ人に出会ったり、その男のことを考えるときには、あなたがたは常に自分に次のように言い聞かせるべきである。見よ、あの「口」は、かけがけのない血で私を贖って下さったわが主キリストを毎週土曜日に呪い、忌み嫌い、唾を吐きつづけている。そしてまた、神の御前で私と私の妻子と全キリスト教徒がこの上なく悲惨な状態で刺し貫かれて殺されることを祈願し、呪っている。彼らは、できるものならば、われわれの財産を所有したいと思っているのだ。彼らは(自分たちの習慣に従って)今日まさにイエスの御名に唾を吐いており、おそらくその唾は彼らの口や顎髭を濡らしているが、彼らの顔面にはまだ十分に唾が付く余地がある。こうした悪魔のような連中(口)と一緒に食べたり飲んだり話したりすべきなのだろうか? 私は、ユダヤ人のなかに棲む悪魔の仲間となり、キリストの尊い血に唾を吐きつづける多くの悪魔どもの虜になってしまうのだろうか。神よ、どうか私がそうならないようにして下さることを!

 もしも彼らがわれわれのように神を信じないならば、彼らがそうなるように手助けすることはできなし、信仰を受け入れるように強制することもできない。けれども、彼らが故意に虚偽・冒涜・呪詛・恥辱を加えるのを手助けすることだけは避けねばならない。また、彼らに庇護(肉や飲み物、宿泊場所、近隣者としての便宜)を与えて、彼らの悪魔的な夢と大言壮語の共犯者になってはいけない。とくに、われわれが彼らに友好的で奉仕する場所ではどこでも、彼らは神が自分たちを主人とし、われわれを召使いにしたのだと得意げに横柄に自慢するからである。

 安息日にはキリスト教徒が火をつけ、彼らが望むものはすべて料理してやるが、彼らはそれをまるで善い行ないをしているかのように、呪い、唾を吐き、中傷する。だが彼らはわれわれから盗んだ資産を食べ尽くしているのである。この千四百年間われわれの疫病神にして害毒、あらゆる災難の元凶でありつづけ、現在もそうであるユダヤ人どもは、このように絶望的で、悪魔的で、害毒をたれ流す者どもなのである。
 


 説教士の方達への忠告

 とりわけあなたがた説教士の方達は、あなたがたの王侯や摂政の方々が神から課されたものとしての祈祷の義務を思い起こさせ、ユダヤ人達に労働を課し、彼らが高利貸しを営むのを禁じ、彼らが神への冒涜と呪いを為すのを妨げるよう繰り返し主張しなければならない。それらの方々が、我々キリスト教徒の盗人やかっぱらい、殺人者、中傷誹謗する者ども、その他の悪魔的行為を為す者を処罰しているというのに、ユダヤ人どもの中の悪魔の子達が我々に同じ様な悪行を働くのを放置しておくのは何ゆえだろうか?

 我々はスペイン人達からよりもユダヤ人達からこそ多くの災いを被っているのではないか。これらの者どもは、彼らの主人達から台所、酒倉、たんす、金袋をかっぱらい、それに加えて主人の方々を呪い、死をもってこれらの方々を脅迫するのである。そして我々も同様にかかる響応をユダヤ人達から受けているのである。かくして彼らは我々から盗み、強奪し、我々の首に寄り掛かり、怠惰で怠け者の腹をだし、食ぺたり飲んだりの大食漠ぶりを発揮し、我々の祖国の中で安逸な日々を送り、その代償として我々の主キリストや教会、王侯、そして我ら全てを呪い、絶え間なく我々を脅し、我らの死と災難を願うのである。

 我らキリスト教徒がかかる怠け者ども、神を冒涜する者どもをいかに金持ちにさせ、その代償としては彼らが我々に対して望むあらん限りの呪い、中傷、不幸のほかに何も得ることがないという有りさまを良く考えて見て欲しい。この点ては我々はめくらの犬同様である。

 丁度ユダヤ人達が彼らの不信仰の中にいるように、私達はかかる無慈悲な悪漢からの圧政を被っている事がわからず、感じもせずに、彼らを我々の王に、貪欲な専制者にしているのである。我々は彼らの捕虜であり臣下てある。それにも拘らず、彼らは我々に捕虜として捕らえられていると嘆き、当然の如く我々を馬鹿にするのである! 

 もしも統治者の方々が、ユダヤ人達を自国から追い立て、言われているように彼らをエルサレムの彼ら自身の国へと移動させ、そこで今我々の中で行っているように嘘や呪い、冒涜、唾かけ、殺人、盗み、高利貸しなどあらゆるたちの悪い忌むぺき行為を行うよう彼らに強制せず、彼らのわがままを抑へないならば...。


 もちろん彼らはこうした事が彼らにはなんの助けにもならぬというふりをする事ができた。何故なら何人もそのような忌むぺき事を行う自由を容認する権利をもってはいないのであるから。自由はそうした忌むべき所業によって完全に失われるのである。あなたがた説教士や牧師達が熱心に、そして殊勝にもこうした警告を発し続けても、どの君主や臣下の方々もこれについて何も実行しないならば、その時は(キリス トが言われたように)我々の靴から塵を払って次のように言おうではないか。

 概要「私達はあなたがたの血に対して潔白である。何故なら私はあなたがたの統治が厳格であるぺきにもかかわらず、いかに温情に満ち、慈悲深いあぺこぺの世になっているかを知っており、経験して来たからである。その代わり、本来温情に満ち、慈悲深くあるぺき時にはやたらと厳格なのである」。

 この世の王は11代目のアバプ王(訳者注一列王記一六:二九)の加くにこの世を統治する。同様に彼らは、我らキリスト教徒と人間に対する血に飢えた敵であるユダヤ人達に寛容であり、それによって天国を手に入れたいと願うっているかもしれない。

 
しかしながらユダヤ人達は我々哀れなキリスト教徒を捕虜とし、苦しめ、拷問にかけ、既に記したごとく、あらゆる災いを与えるのてある。即ち彼らが我らから奪った金銭を貯えている所ではどこでも、我らは苦しめられ、そしてまた、まことにお人好なキリスト教徒と見なされるという次第なのである。

 一方、我々哀れな説教士達は何を為すぺきなのであろうか。第一に、我々は主イエスが、主の御言葉を受け入れず、主を十字架にかけたユダヤ人達に関して、「お前達は毒蛇であり悪魔の子である」と述ぺられた時の主の御言葉が真実である事を我々は信じたいと思う。洗礼者ヨハネもまた同様の事を言っている! ユダヤ人達が良い状態になる事を望む支配者や慈悲深い聖者の方々は、我々が主イエスキリストの御言葉を信じているのを許しておくような人達てはない。もちろんキリストはそんな慈非深い聖人達よりも良くすぺての核心を御存知なのである。

 つまり、これらのユダヤ人達が毒蛇の子孫であり、悪魔の子供達以外の何者でもないという事。そしてまた、彼らの父である悪魔と同じくらいに良き事を私達にもたらしてくれるであろうという事を。

 我らキリスト教徒は、あの者どもが我々に対してどんなに良い事をなしてくれたものかという事を聖書の記述の他にも自らこうむった経験に基づいてずっと以前から、良く理解しておくぺきであったのだ。このような毒蛇や若い悪魔ども、即ち我々及び主キリストの最悪の敵どもを宿泊させ、世話をし名誉を与えたがり、自らがののしられ、略奪され、盗まれ、唾をかけられ、呪はれ、すぺての災いに見舞われてもよいと考えているもの達にはユダヤ人達が推薦されるぺきであろう。

 もしこれで十分でなければ、彼を又ジョッキの中に押し込めるかその様な神殿を這いずりまわらせ、礼拝させよう。そしてその後で我々の主と、主が我らにもたらして下さった尊い血を汚すために悪魔と悪魔の子供達を彼が慈悲深くも力付けてやった事を彼に自慢させてやろうではないか。かくして、彼は慈悲の行為にあふれた完壁なキリスト者となるであろう! かかる行為に封してはキリストは審判の日には彼にユダヤ人と共に永遠の地獄の炎というお答えを出されることであろう。

 粗野な言い方を許してもらえば、それはユダヤ人達の野蛮な呪いと言われている。この点に関しては他の方達が多くを記しており、ユダヤ人達も彼らがそれによって故意に呪い、冒涜したいと願っているのであるから、それが呪いと呼ばれるぺきものであるという事は良く承知しているのである。この点につき、我々もまた明晰に、そしてキリスト教徒として霊的な表現て話す事としよう。

 我らの主イエス・キリストは次の加く宣べられた。「マタイ伝」第10章40節「私を受け入れるものは誰でも、私をお遣わしになった方を受けいれるのである」。「ルカ伝」第10章16節「あなたがたを拒む者は、私を拒む者です。私を拒む者は、私を遣わされた方を拒む者です」、「ヨハネ伝」第十五章二十三節「私を憎んでいる者は、私の父をも憎んでいるのです」、「ヨハネ伝」第5章23節「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」。

*訳注――アハブ王/オムリの子アハブは、ユダの王アサの第38年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで22年間、イスラエルの王であった。オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシュラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった。(列王記T第16章29〜33節)

 ●説教師に対する忠告

 とりわけあなたがた説教師は、神から課された祈の義務を王侯や摂政たちに思い出させ、ユダヤ人に労働を課し、高利貸しを営むことを禁じ、神への冒涜と呪詛をやめるよう繰り返し主張しなければならない。彼らがキリスト教徒の盗賊や追剥、殺人者、誹謗中傷者、その他の悪魔的行為者を処罰するのに、ユダヤ人の悪魔の子らがわれわれに同様な悪事をなすことを放置しなければならないのはなぜか? われわれは、スペイン人よりもユダヤ人からより多くの災いを被っているではないか。

 彼らは、主人から台所・酒蔵・箪笥・金袋を盗み、加えて主人を呪い、死の脅迫を行なう。そして、われわれも同様にユダヤ人からそうした扱いを受けているのである。彼らはわれわれから盗み、強奪し、われわれの首にぶら下がり、怠惰な怠け者の腹を突き出し、大食漢ぶりを示し、わが母国のなかで安逸な日々を送っているが、その代償として彼らは、わが主キリストや教会、王侯、そしてわれわれすべてを呪い、絶え間なく脅迫し、われわれの死と災難を願うのである。

 かかる怠惰な神者を、われわれキリスト教徒がどのように金持ちにしてきたか、その代償としてわれわれが彼らから望みうるのは、あらんかぎりの呪いと中傷と不幸のみであるという体たらくを少しは考えてほしい。

 この点でわれわれは盲の犬と同じである。ちょうどユダヤ人が不信仰の渦中でうろたえているように、われわれはかかる無慈悲な悪漢から圧政を被っていることがわからず、感じもせずに、彼らをわれわれの王、貪欲な専制者にしているのである。われわれは彼らの捕虜であり臣下なのだ。それにもかかわらず、彼らはわれわれに捕虜として捕らえられていると嘆き、当然のごとくわれわれを馬鹿にしているのだ。

 もしも統治者がユダヤ人を自国から強制的に追い立て、言うところの彼ら自身の国エルサレムへと移送し、いまわれわれに行なっている虚偽・呪詛・神・唾罵・殺人・窃盗・高利貸し等々あらゆる質の悪い忌むべき行為をその地で行なうようにさせ、自国での彼らの勝手な振る舞いを抑えこまなければ……もちろん彼らは、素振りだけは、こうしたことは彼らにとってなんの救いにもならないとしてきた。なんびとも、そうした忌むべき所業を行なう自由を容認する権利は有していないからである。自由はそうした忌むべき所業によって完全に失われるのである。

 あなたがた説教師や牧師たちが、熱心に、そして殊勝にもかかる警告を発しつづけても、君主や臣下がなにも実行しないならば、そのときは(キリストが言われたように)われわれの靴から塵を払って次のように言おうではないか。

 われわれはあなたがたの血に対して潔白である。あなたがたの統治が厳格であるべきにもかかわらず、温情に満ちた慈悲深い倒錯した世の中になっていることを私は知っており、経験してきたからである。そして、温情に満ち、慈悲深くあるべきときには、非常に厳格なのである。

 この世の王は十一代アハブ王のように統治する。彼らは、われらキリスト教徒と人類に対する血に飢えた敵であるユダヤ人に寛大であり、そうすることで天国を手に入れたいと願っているかもしれない。

 だがユダヤ人は、われわれ哀れなキリスト教徒を捕虜とし、苦痛を与え、拷問にかけ、すでに記したように、あらゆる災いを与えるのである。すなわち、彼らがわれわれから奪った金銭を貯えているところではどこでも、われらは苦しめられ、そしてまた実にお人好しのキリスト教徒と見なされるという次第なのである。

 一方、われわれ哀れな説教師はなにを行なうべきなのか。第一に、主イエスの言葉を受け入れず、主を十字架にかけたユダヤ人どもに対して、主が「お前たちは毒蛇であり、悪魔の子である」と述べられたときの言葉が真実であることをわれわれは信じたいと思う。洗礼者ヨハネもまた同じことを言っている。

 ユダヤ人がよい状態になることを望んでいる支配者や慈悲深い聖人たちは、われわれが主イエス・キリストの言葉を信じるのを許しておくような人間ではない。もちろん、キリストはそうした慈悲深い聖人たちよりもすべての核心をよくご存じである。つまりこれらユダヤ人どもは毒蛇の子孫であり、悪魔の子以外のなにものでもないということを。そしてまた、彼らの父である悪魔と同じくらいに「良き」ことをわれわれにもたらしてくれるであろうということを。

 われわれキリスト教徒は、あの者どもがわれわれに対してどんなに良きことをなしてくれたか、聖書の記述以外にもみずから被った体験にもとづいて以前からよく理解しておくべきであった。

 こうした毒蛇や若い悪魔ども、つまりわれわれと主キリストの最悪の敵を宿泊させ、世話をし、名誉を与えようとし、罵られ、掠奪され、盗まれ、唾を吐かれ、呪われ、あらゆる災難に見舞われてもよいと考えている者には、ユダヤ人が推奨されるべきであろう。もしこれで十分でなければ、彼を壺のなかに押しこめるか、そのような神殿を這いずりまわらせ、礼拝させることにしよう。そのあとで、わが主と主がわれわれを贖った尊い血を汚すために悪魔と悪魔の子らを慈悲深くも元気づけてやったことを彼に自慢させてやろうではないか。こうして彼は、慈悲の行為にあふれた完璧なキリスト教徒になるであろう。こうした行為に対して、審判の日に、キリストは彼とユダヤ人に永遠の地獄の炎という回答を出されるであろう。

 粗野な言い方を許してもらえば、ユダヤ人の野蛮な呪いと言われるが、これについては他の人びとも多くを記しており、ユダヤ人もそのように故意に呪い冒涜したいと願っているのだから、やはりそれは呪いと称されるべき性質のものであることは十分に承知しているのである。これについては、われわれもまたはっきりと、そしてキリスト教徒として霊的な表現で話すことにしよう。わが主イエス・キリストは次のように言われた。

 〈わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです〉(「マタイ伝」第十章四十節)
 〈あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です〉(「ルカ伝」第十章十六節)
 〈わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです〉(「ヨハネ伝」第十五章二十三節)
 〈それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません〉(「ヨハネ伝」第五章二十三節)

 *訳注――アハブ王/オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年間、イスラエルの王であった。オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。さらに彼は、サマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。アハブはアシュラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前のイスラエルのすべての王たちにまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行なった。(列王記T第十六章二十九〜三十三節)


 彼らは新約聖書を冒涜する
 あなた方は、「そうです。ユダヤ人達は新約聖書を受け入れないのだから、前章でキリストが言われたような事を信じないし、知らないのです」とでも言うのだろうか。私はこれに答えよう。「願はくば、ユダヤ人達がそれらのうちの一つでも知るか、信じてくれる事を」と。我々キリスト教徒は、彼らがイエスを冒涜し、呪っている時、彼らは公然とその父なる神を冒涜しているのだという事を知っている。

 もし神が我々に今、または審判の日に次のように言われたとしたら、私達は何と答えたら良いのか教えて欲しい。「お前達はキリスト教徒でありながら、ユダヤ人達が公然と私と私の息子とを冒涜している事を知っており、またお前達は彼らがそうする事ができる余地を与えた。そしてまた彼らがお前達の国や町や家の中において、妨害も盧罰も受けることなくそうした事ができるように彼らを守り、庇護した!」と。

 (原英訳書、訳者注、この後には、イエスの救世主としての御業に関する聖書の文章を引用した長い論述が続くが、それらは学術的、理論的性格の論述であるため、ここでは割愛する)

 従って、我々はかかる事態を冗談事としてすますわけにはいかないのだ。我々はこれに対抗する知恵を真剣に見つけだしてユダヤ人達から我々の魂を救出せねばならない。即ち、ち永遠の死より救出せねばならない。既に述ぺたようにこの知恵こそが、まず第一に肝心なものである。即ち、我々は彼らが会堂(シナゴーグ)を持つ権利を拒否する。ユダヤ人達がその内部において我らの創造主、そして父なる御方をその御子息といっしょに長きに渡り冒涜し続けるような建物を我々が許しはしないという事を世間に知らしめるためにである。そういう事を我々が知らずに黙認する事など断じてできないのだ。

 第二に、彼らのすぺての書物、祈祷書、タルムードは没収されるぺきである。更にその1ぺージたりとも残されるぺきではない。それらは改宗するかもしれないのためにとっておかれてはならない。何故なら彼らはそれらすぺてを神の御子即ち神御自身、御父、天地創造主を冒涜する目的でのみ用いて、他のいかなる目的で用いる事もないのだから。

 第三に、我々の領地においては彼らが神をたたえ、感謝し、祈り、説教する事は公的には禁止されるぺきである。そんな事は自分達自身の国においてか、我々キリスト教徒の耳に届かないどこか知られざる所でさせようではないか。これに関する理由は、彼らの神に対する讃美、感謝、祈祷、そして説教は彼らの心と口が父なる神をネーベル・ボリック(サムエル記T第二十五章二十六節、ダビデの要請を拒絶して死んだ富裕なカレブ人でアビガイルの夫ナバル、愚かの意がある?)と呼ぷ事に他ならないからである。そして神の御子、我らの主イエス・キリストをも彼らが同様に呼ぶからである。彼らが神の御子を呼ぴ、たたえるのと同様に父なる神の名か呼ぱれ、たたえられるからである。彼らが沢山の美しい言葉を使い、神の御名を華々しく用いたとしても彼らが救われる事はないであらう。次のように記されているからである。
 「汝は主、すなはち神の御名をいたづらに唱へるぺきでばない」。

 丁度彼らの祖先がイスラエル王国時代に神の御名を用い、そしていまだにその御方をバール(邪神、偶像)と呼んでも何の救いにもならないように。

 第四に、我々の前では彼らが神の御名について話題にする事は禁止されるぺきである。我々は確固とした良心を持っており、そんな目にあう事には耐えられないからである。彼らの冒涜的な心と口が神の御子をネーペル・ボリックと呼ぷ時、彼らは又、彼らの御父をも同じ名で呼んでいるのである。(我々キリスト教徒にとって他に解釈しようが無い、まさにその名前で) 我々は、神の御子が彼らにそう呼ぱれ、そうであると信じられている以上、その御父でさえそう呼ばれ、そう信じられているのだと考えるほかないのである。それゆえユダヤ人の口は、我々の耳の近くで神の御名をいう資格を持たないと考えるぺきである。そして、ユタヤ人が神の御名を唱へているのを聞いた者は誰でも為政者の方々に報告するぺきである。

 この件においては誰も慈悲深かったり、親切であったりしてはならない。何故なら、それは神の栄誉と我々全て(ユダヤ人も含む)の救済にかかわる事だからである。もし、ある人達がいて、ユダヤ人達はそんなに邪悪な事を意図しているわけではないと言い出し、ユダヤ人達は父なる神を冒涜し、呪っているという事も知らないのだ。(というのは、ユダヤ人達は主イエスや我々キリスト教徒の悪口を言っているにもかかわらず、神を最も高く、そして美しく誉めそやしているのだから) ある人がそのようにな云うとしたら、その時には以下のように答えるぺきであろう。もしユダヤ人達がその事を知りたがらず、またその事が良い事だとは思わないのであれば我々キリスト教徒がその事を知っておかなくてはならない。

 神は、彼らがこうした事を知らざるをえぬようにほぼ1500年にわたって伝道されるように取り計らって来たのであるからユダヤ人達は彼らが知らなかったのだと言い訳はできぬ筈である。神は又彼らにもそれを知るように要求されたのである。

 何故なら1500年にもわたって神の御言葉を聞きながら私はそれを知りたくないなどといっている者は誰でも当然の報いとして、その人間には卑しい言い訳、すなわち七倍の負債がもたらされるであろうから。

 ●彼らは新約聖書を冒涜する

 あなたがたは、「そうです。ユダヤ人は新約聖書を受け入れないのだから、前節でキリストが言われたようなことを信じないし、知らないのです」とでも言うのだろうか。私はそれに対して次のように答えよう。「願わくば、ユダヤ人たちがそれらのうちの一つでも、知るか信じてくれることを」と。われわれキリスト教徒は、彼らがイエスを冒涜し、呪っているとき、その父なる神を公然と冒していることを知っている。

 もしも神がわれわれに、今または審判の日に次のように言われたとしたら、われわれはなんと答えたらよいか教えてもらいたい。「お前たちはキリスト教徒でありながら、ユダヤ人が公然と私と私の息子を冒していることを知っており、またお前たちは彼らがそうすることができる余地を与えた。さらにまた、彼らがお前たちの国や町や家のなかで妨害も処罰も受けずにそうすることができるようにし、庇護した!」と。

 (このあと聖書を引用した学術的および理論的性格の長い論考が続くので一部割愛)

 従ってわれわれはかかる事態を冗談として済ますわけにはいかないのである。それに対抗する知恵を真剣に見いだして、ユダヤ人からわれわれの魂を救い出さねばならない。すなわち永遠の死より救い出さねばならないのだ。この知恵こそがなによりも肝心である。まず第一にわれわれは、彼らが会堂をもつ権利を拒否する。ユダヤ人たちがそのなかで、われらが創造主、父なる方をその方の御子と共に長期間にわたって冒しつづけるような建物を認めないことを世間に知らせるためである。そうしたことをわれわれは断じて黙認することなどできないのだ。

 第二に、彼らのすべての書物、祈書、タルムードを没収すべきである。さらにその一頁たりとも残されてはならない。改宗する者たちのために残されてはならないのである。彼らは、それを神の御子と神ご自身すなわち御父、天地創造主を冒するためだけに用い、他の目的に用いることはないのだから。

 第三に、彼らがわれわれの領地で神を讃え、感謝し、祈り、説教することは公けに禁止されねばならない。そうしたことは、自分たちの国か、もしくはわれわれキリスト教徒の耳に届かないどこか知られざる地で行なわせることにしよう。それは、彼らの神への讃美・感謝・祈・説教はその心と口が父なる神をナバル・ボリック〔ダビデの要請を拒絶して死んだ富裕なカレブ人でアビガイルの夫ナバル(愚かの意がある)のことか? サムエル記T第二十五章二十六節〕と呼ぶことに外ならないからである。そして神の御子、われらが主イエス・キリストをも同様に呼ぶことになるからである。彼らは神の御子を呼び唱えるが、それと同様に父なる神の御名を呼び唱えるからである。彼らが多くの美しい言葉を用い、神の御名を華々しく唱えたとしても、彼らは救われることはないであろう。次のように記されているからである。「あなたがたは主、すなわち神の御名をいたずらに唱えてはならない」と。ちょうど彼らの祖先がイスラエル王国時代に神の御名を唱え、そしていまだにそれをバアル〔邪神、偶像〕と呼んでもなんの救いにもならないように。

 第四に、われわれの前で彼らが神の御名について話題にすることを禁ずるべきである。われわれは確固とした良心をもっており、そんな目にあうことには耐えられないからである。彼らの冒的な心と口が神の御子をナバル・ボリックと呼ぶとき、彼らはまた御父をも同じ名で呼んでいるのである(われわれキリスト教徒にとって他に解釈しようがない、まさにその名前で)。われわれは、神の御子が彼らにそう呼ばれ、そうであると信じられている以上、その御父でさえそう呼ばれ、そう信じられていると考えるほかないのである。

 それゆえユダヤ人の口は、われわれの耳の近くで神の御名を唱える資格をもたないと考えるべきである。そして、ユダヤ人が神の御名を唱えているのを聞いた者は為政者に報告すべきである。この点において、慈悲深かったり、親切であったりしてはならない。なぜなら、それは神の栄光とわれわれすべて(ユダヤ人をも含む)の救済にかかわることだからである。

 もしある人が、ユダヤ人はそんなに邪悪なことを意図しているわけではないと言い、ユダヤ人は父なる神を冒涜し呪っていることを知らないのだ(なぜなら、ユダヤ人は主イエスやわれわれキリスト教徒の悪口を言っているが、神を至高の存在として美しく誉め讃えているのだから)と言ったとするなら、そのときは次のように答えるべきであろう。

 もしユダヤ人がそのことを知りたがらず、またそのことが善いことだと思わないのであれば、われわれキリスト教徒がそのことを知っておかなければならない。神は、彼らがこうしたことを知ることのできるようにと千五百年間にわたって伝道されるよう取り計らってきたのであるからして、ユダヤ人は知らなかったと言い訳はできないはずである。神はまた彼らにもそれを知るように求められたのである。千五百年にわたって神の言葉を聞きながら、自分はそれを知りたくないなどと言っている者はみな、当然の報いとして卑しい言い訳、つまり七倍の負債が課せられるであろう。


 彼らの救世主は「にせもの」である。
 最後に、私は自分自身に以下のごとく言い聞かせる。もし神が私に対しユダヤ人達が望み希望する救世主とは異なった救世主を与える事を望まないのであれば、私は人間でいるよりも雌豚になった方がずっと良いのだ! この事に関して私はあなたがたに幾つかの正当な理由を示す事にしよう。ユダヤ人達は彼等の救世主にコハブや世俗的な王になって欲しいと強く望んでいるだけなのである。その王とはキリスト教徒を虐殺し世界をユダヤ人のあいだで分割し、そうして彼らを金持ちの王侯とし、最後には他の王や彼の子供達と同様に死んでいくような世俗的な王にである。

 もし、ユダヤ教の救世主が私という哀れな人間を私の精神的な貧しさにも拘らず、救ってくれないのだとすれぱ、そして私の人生を雌豚のそれの十分の一も良くできないのだとすれぱ彼は私にとって善いものと言えるであろうか。私はいうであろう。わが主なる神よ、あなたの救世主を我が物とする者に与えたまえ、と。しかし私は雌豚に変えて下さいと。何故なら全く死んだ人間であるより生きた豚の方がましであるから。そう、キリストが宣べられたように「生まれなかったとしたら、それはその人の為にはましだったろうに」。

 しかしながら、もし私が霊的に私を救済し給う救世主を得られるなら、私は死を恐れる必要はないし常にそして永遠に人生に確信を持ち、悪魔や地獄をあざけり、神の怒りの前に身震いする必要もないであろう。その時には私の心は欣喜雀躍し、幸せに酔いしれる事であろう。そして私は神への愛の燈をともし、神に感謝し、神を賛美するのをやめないであろう。もしその時、神が私に金や銀や他の富を与えなかったとしても、全世界は私にとって楽園(バラダイス)であるだろう。たとえ私が牢獄に繋がれたとしてもである。その様な救世主を我らキリスト教徒は持っているのである。それゆえ我々は圧倒的な心の喜ぴを以って父なる神に感謝しているのである。

 そのようなメシアをユダヤ人達は望まない。彼らにとって、そのようなメシアはどんな善い事も与えはしない。彼らは自分達の悪臭発する腹を満足させてくれ、また、牛や犬のように彼らと共に死ぬような地上の楽園のメシアを所有しなければならないのだ。

 ●彼らの救世主は「にせもの」である

 最後に私は、みずからに次のように言い聞かせる。もしも神が私に対して、ユダヤ人が望みこいねがう救世主とは異なった救世主を与えることを望まないのであれば、私は人間でいるよりも雌豚になったほうがずっとよい!

 これについて、私はあなたがたにいくつかの正当な理由を示すことにしよう。ユダヤ人は、自分たちの救世主にコホバや世俗的な王になってほしいと強く望んでいるだけなのである。その王とは、キリスト教徒を虐殺し、世界をユダヤ人のあいだで分割し、彼らを金持ちの王侯とし、最後には他の王やその子どもたちと同じように死んでゆく世俗的な王である。

 もしもユダヤ教の救世主が、私という哀れな人間をその精神的な貧しさにもかかわらず救ってくれないのだとすれば、そして私の人生を雌豚のそれの十分の一も良くできないのだとすれば、ユダヤ教の救世主は私にとって善きものだといえるであろうか。

 私は言うことにしよう。わが主なる神よ、あなたの救世主をみずからのものとする者に与え給え、しかし私は雌豚に変えて下さい、と。生ける屍である人間であるよりは、生きた豚のほうがましだからである。そう、キリストが言われたように、「生まれなかったなら、それはその人のためにはましだったろうに」ということなのである。

 しかしながら、もしも私が霊的に私を救済して下さる救世主を得られるなら、私は死を恐れる必要はないし、常に、そして永遠に人生に確信をもち、悪魔や地獄を嘲り、神の怒りの前に身震いする必要もないであろう。そのときには、私の心は欣喜雀躍し、幸せに酔うであろう。神への愛の灯をともし、神に感謝し、神を讃美することをやめないであろう。そのときは、もし神が私に金や銀を与えなかったとしても、全世界は私にとって楽園となろう。たとえ私が獄舎に繋がれたとしてもである。このような救世主をわれらキリスト教徒はいただいているのだ。それゆえにわれわれは、圧倒的な喜びの心をもって父なる神に感謝しているのである。

 そのようなメシア(救世主)をユダヤ人は望まない。彼らにとってそのようなメシアは善いことを与えてくれないのだ。彼らは、自分らの悪臭発する腹を満足させてくれる、あるいは牛や犬のように彼らと共に死ぬような地上の楽園のメシアを所有しなければならないのである。


 彼らの神への冒涜と高利貸しを警戒せよ

 私の考えでは以下のような結論にならざるをえない。もし我々がユダヤ人達の涜神から潔白で、彼らの共犯者になってはならぬとすれば、我々は彼らと分離して住まねばならないし、彼らは我々の国を離れねばならない。かくして彼らは、もはや我々が彼らを捕らえていると嘆く事もできないし、神に嘘をつく事もできない。我々も彼らが涜神と高利貸しによって我らを悩ますと嘆く事もなくなるであろう。これが両者に封して安全を保証する最も手っ取り早い最善の方策である。

 (この後にはキリスト教の教義に反するユダヤ人達のキリスト教に封する非難に聖書からの長い引用による反論が績いている。−−英訳注)

 ●彼らの神への冒涜と高利貸しを警戒せよ

 私の意見では、以下のような結論にならざるを得ない。もしもわれわれがユダヤ人の神から潔白で、彼らの共犯者になりたくないのであれば、彼らと分離して住まなければならないし、彼らはわが国を去らねばならない。かくすれば、彼らはもはや、われわれが彼らを捕らえていると嘆くこともできないし、神に嘘をつくこともできない。われわれとしても、彼らが神と高利貸しによってわれわれを悩ますと嘆くこともなくなるであろう。これが、両者に安全を保証するもっとも手っとり早い最善の方法である。

 (このあとには、キリスト教の教義に反するユダヤ人たちのキリスト教への非難に対する聖書からの長い引用を含む反論が続いている)


 結びの言葉
 善良な閣下諸氏、友人諸氏、私はあなたがたの督励を受けてあなたがたの小冊子に多くのことを書き記した。そこでは、一人のユダヤ人が無関心なキリスト教徒に対して狡賢い議論を展開している。目下のところ、神の御加護により、彼は私になにもしていない。

 ユダヤ教徒になりたくないキリスト教徒が、盲目的で有害なユダヤ人に対抗し自衛するに十分な論拠を、この小冊子に見いだしてくれることを望むものである。また、ユダヤ人の邪悪さや虚偽、呪詛といったものに対抗すること、彼らの信念が偽りであるばかりか、彼らがあらゆる悪魔にとり憑かれていることを知るに至る縁とされんことを望む。

 わが主キリストがユダヤ人たちを恵み深くも改宗させ、我々を永遠の生命という叡知の中にしっかりと据えて下さいますように。アーメン。
 善良な閣下諸氏、友人諸氏、私はあなたがたの督励を受けてあなたがたの小冊子に多くのことを書き記した。そこでは、一人のユダヤ人が無関心なキリスト教徒に対して狡賢い議論を展開している。目下のところ、神の御加護により、彼は私になにもしていない。

 ユダヤ教徒になりたくないキリスト教徒が、盲目的で有害なユダヤ人に対抗し自衛するに十分な論拠を、この小冊子に見いだしてくれることを望むものである。また、ユダヤ人の邪悪さや虚偽、呪詛といったものに対抗すること、彼らの信念が偽りであるばかりか、彼らがあらゆる悪魔にとり憑かれていることを知るに至る縁とされんことを望む。わが主キリストがユダヤ人たちを恵み深くも改宗させ、われわれを永遠の生命という叡知のなかにしっかりと据えて下さいますように。アーメン。

 ●人類の評価

 以下には、ルターのさまざまな説教や著作より引用された数節が続いており、各文章のあとに引用文の原典が記されている。

*原注――「W」と記されたルターの著作からの引用はウェルマー版から、「E」と記されたものはエアランゲン版からのものである。

ユダヤ人は地獄行きを宣告された若い悪魔である。(E32巻二七六頁)

 おそらく、温和で心穏やかなキリスト教徒は、私が彼らを嘲笑し、多くの皮肉を湛えて彼らを扱っていると考え、哀れで迫害を受けているユダヤ人にはあまりにも厳しすぎ、激しすぎると思うであろう。だが実際には、私は弱すぎて、かかる悪魔的な獣を笑うどころではないのだ。できるものなら、私は喜んでそうしたい。しかし、彼らは嘲ることに関しては私よりも上手で、その技術にかけては達人の神を擁しているのだ。それは悪魔自身である。(E32巻二八六頁)

 旧約聖書以上の証拠はないが、私は以下のことを主張したいと思う。これらのことに関しては、地球上のだれも私の意見を変えることはできないだろう。つまり、ユダヤ人は現在そうであるように、世界中に広がるすべての真に堕落した評判の悪い悪漢どもの混合体であり、タタール人やジプシーと同様に世界のあらゆる国に離散してきたのである。
 そして彼らは、高利貸しによってさまざまな国の国民を苦しめ、他国民をスパイし、裏切り、井戸に毒を投げこみ、欺き、子どもたちを誘拐し、端的にいえば、あらゆる種類の不正と非礼を行なってきた。( "Von Schem Hamphoras und von Geschlecht Christi"からの抜粋、一五四三年)

 ●ユダヤ人の危険性

 外科医とか医者とか表明しているユダヤ人は、彼らの薬を用いるキリスト教徒の健康、財産を奪うであろう。それは、こうしたユダヤ人医師は、もしも彼らがキリスト教徒を苦しめ、ひそかにキリスト教徒を殺害するならば、彼らの神から特別の恩寵を得られると信じているからである。にもかかわらず、われわれ愚かな者たちは、自分の命が危機に晒されているときに、われわれの敵と彼らの悪魔的な技術に救助を求めさえするのである。まことに悲しむべきことだが、これは神の試練なのである。(E62巻三六七頁)

 ●ルターの遺言

 主要な著作が完成すれば、私はただちにユダヤ人の追放に全力を注がねばならないであろう。アルブレヒト伯爵は彼らに敵対的な態度をとり、すでに彼らを見限っている。しかし、いまのところ彼らはまだ誰によっても妨害されていない。神の御加護によって私が行なう説教で、説教台からアルブレヒト伯爵を支援し、彼らを追放してやろう。(死の直前にルターが妻へ宛てた一通の手紙からの引用)

 ●ルターの最後の説教「ユダヤ人への警告」

 ……そのうえ、国内にはたくさんのユダヤ人が居住しています。彼らは多くの災いをもたらします。……あなたがたは、これから述べる事実を知らなければなりません。つまりユダヤ人は、われらの救世主の御名を日々冒し、汚しているということを。この理由によって、あなたがた閣下ならびに当局関係諸氏は彼らに寛大を示すことなく、追放しなければなりません。彼らはわれわれの公けの敵であり、絶えまなく主キリストを冒涜しています。彼らは、われわれの聖母マリアを娼婦と呼び、その聖なる御子キリストを私生児と呼んでいます。そして彼らは、われわれキリスト教徒を「取り替えっ子」(妖精が替わりに置いていったという醜い子)とか「片端」といった悪口を言っています。

 もし彼らがわれわれ全員を殺戮することができるなら、彼らは喜んでそうするでしょう。実際に彼らの多くは、とくに外科医とか医者とか称する連中は、キリスト教徒を殺害しているのです。彼らは、一時間または一カ月で死をもたらす毒を人びとに与えるボルジア家〔一五〜一六世紀のローマの名家〕やメディチ家〔一四〜一六世紀のイタリア・フローレンス市の名家〕などイタリア流のやり方で、薬を扱う技術に習熟しているのです。

 それゆえ、激しく悶えながら主イエス・キリストを冒し、われわれの命と健康、名誉、財産を奪う以外になにもできない彼らを厳しく取り締まらなければなりません。私は、大切なわが救世主を故意に冒したり汚したりする連中と、耐え忍んで交際しつづけることはできません。私は、よき愛国者として、あなたがたが外国人の罪に加担することを止めるよう、まさに最後の警告を与えたかったのです。私はただあなたがた全員のために最善の統治者と最善の臣下を望んでいるだけなのだということを、あなたがたは知らなければなりません。(E62巻八九頁)

*原注一――マンスフェルトの伯爵たちの意見の相違がルターの旅行の動機であった。
*原注二――一五四六年二月の死去の数日前にアイスレーベンで行なわれたもの。
(了)  





(私論.私見)