ユダヤ人と彼等の嘘その2、本文前段

 (最新見直し2007.5.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ユダヤ人の偽りの引用」を参照しつつコメントしておく。ルターの「ユダヤ人と彼等の嘘」は読まれていない。そういう状況を前提にして、パウル・アサールの著書「アルザスのユダヤ人」(宇京早苗訳、平几社)のような悪質な曲解が流布されることになる。それによれば、ルターが云ってもない事を云ったとして紹介することによりルターの評価を貶めている。ここでは、ルターが次のように評されている。
 「このユダヤ人追害の指導者となったのが、驚くべきことに宗教改革で知られるマルティン・ルター、あのルーテル・アワ−〃のルターであった。彼の提案は、アサールによれば以下の通りであった。…まず第一に、ユダヤ人のシナゴーグや学校には火を付けること。…第二に、彼らの家も同じく取り壊すこと。…第三に、祈薦書やタルムードもすべて取り上る事,…第四に、ラビがユダヤ教を講ずるのを禁止すること。これを守らぬならば、命を奪うこと… 」。

 パウル・アサールは、ルターの言説を意図的に悪意を持って捻じ曲げて紹介している。政治的論争の場合によくあるマナーの悪い手法であるが、事情を知らない者は誑かされてしまう。そういう訳で、ここで、ルターの肉声をサイトアップしておこうと思う。

 余りにも貴重であり、ネット空間から失われることを惜しみ、「ユダヤ人と彼等の嘘 目次: マルチン ルター著」を転載しておく。読解テキストと思われる「歴史情報研究所 島講一氏ブログ」、 「ユダヤ人の偽りの引用」を参照し、次第にれんだいこ訳に切り替えていくこととする。但し、れんだいこは、「ユダヤ人と彼等の嘘」の原著ないしは英訳文を読んでいない。従って、規制訳の日本語的推敲を通じて意訳した。原文から遠ざかったか近づいたのかは分からない。

 以下の文章が目次通りの配列なのか全文なのかも分からない。いずれ考証してみたいと思う。原書に各章ごとのタイトルが付けられているのかどうかも分からない。れんだいこは、趣意を読み取りタイトル名を任意に変えた。

 2006.2.28日、2007.5.24日再編集 れんだいこ拝


 ルターの序文
 私はもうこれ以上、ユダヤ人のこともユダヤ人に反対することも書かない決心をしていた。けれども、これらの哀れで邪悪な連中が我々キリスト教徒に打ち勝とうとすることを止めないので、私もユダヤ人のかかる有害な企てに抵抗する人々の隊列に加わるペく、私はこの小冊子の出版を許し、彼らに対してキリスト教徒が自らの防備を固めるぺく警告を発した。私は、キリスト教徒がユダヤ人に馬鹿にされ、彼らの追放と悲惨さをユダヤ人達と分かちあうようになるとは考えてもみなかった。

 しかしながら、悪魔がこの世では神である。そして神の言葉の無い場所においては、悪魔は弱者の間だけでなく、強い者達の間をも容易に航海するのである。神が我々に御加護を与えんことを。 アーメン  マルチン・ルター
 私はもうこれ以上、ユダヤ人のことも、ユダヤ人に反対することも書かない決心をしていた。しかし、この哀れで邪悪な連中がわれわれキリスト教徒に打ち勝とうとするのを止めないので、ユダヤ人のかかる有害な企てに抗議する人びとの隊列に加わるべく、私はこの小冊子の出版を認め、ユダヤ人に対する防備を固めるよう、キリスト教徒に警告した。私は、ユダヤ人がキリスト教徒を馬鹿にし、そのために彼らが追放される悲劇を見ることになろうとは考えてもみなかった。

 だが、悪魔がこの世では神なのである。そして、神のない場所においては、弱者だけでなく強者のあいだをも、悪魔はやすやすと航海するのである。神がわれわれに御加護を与えられんことを。アーメン。マルティン・ルター

 主による恩寵と平和のあらんことを 親愛なる閣下並びに友人諸氏

 私は、キリスト教徒と論争を続ける一人のユダヤ人の論文を受け取った。そのユダヤ人は論文の中で、聖書(我々はそれを主キリストその御母マリアヘの信仰のために用いるのであるが)の一節を曲解させ、ねじ曲げるというあつかましさを示している。彼は我々の信仰の土台をひっくり返そうとたくらんでいるのだ。この事に関し、私は、あなた方並ぴにこのユダヤ人に対して以下のごとく解答を与える。

 私の目的とするところは、ユダヤ人達と論争したり、彼らが聖書をどのように解釈したり理解したりするかを彼らから学ぶ事にあるわけではない。私は、既にそれらの事をすぺて知っているからである。ましてや私がユダヤ人を改宗させようなどと考える事はない。そんなことは不可能なのだ。ユダヤ人達の間では至るところで良い事は何一つなく、彼らは一般に悪性状態になっている。

 彼らは天罰に関して非常に無関心になっているので、彼らが1400年以上追放され続けており、未だ彼らが仮定しているような終末とはっきりした救済の期日を分からないでいるという恐ろしいジレンマについて分別しようとしない。熱烈で絶えまない神への叫び声でごまかしている。もし、天罰が役に立たないとすれば、私は、連中に対しては、我々の話や解釈がなおのこと役に立たないと思うのだ。

 ●主による恩寵と平和のあらんことを!

 親愛なる閣下ならびに友人諸氏へ。私は、キリスト教徒と論争を続ける一人のユダヤ人の論文を受け取った。その論文のなかでユダヤ人は、聖書(われわれはそれを主キリストとその御母マリアへの信仰のために用いるのであるが)の一節を曲解し歪曲する厚かましさを示している。彼はわれわれの信仰の土台を覆そうと企図しているのだ。これに関して私は、あなたがたおよび当のユダヤ人に次のように回答を与える。

 私の目的は、ユダヤ人と論争したり、聖書をどのように解釈し理解するかを彼らから学ぶことではない。私はすでにそれらをすべて知っているからである。ましてや、ユダヤ人を改宗させようなどと考えてもいない。そんなことは不可能なのだ。

 ユダヤ人に良いことは一つもなく、いたるところでおおむね悪い状態になっている。彼らは天罰についてまったく無関心なために一四〇〇年以上も追放され続けており、想定している終末と救済の日がいまだに不明であるという恐ろしいジレンマについて意識しようとはせずに、熱烈な絶え間ない神への叫び声で誤魔化しているのである。天罰が役に立たないとすれば、われわれの話や解釈などなおのこと役には立たないと私は思っている。


 ユダヤ人のジレンマ

 それ故に、キリスト教徒は現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしあなた方が彼らと話さざるをえなくなったり、話したくなったときには以下のこと以外には云うべきではない。
 「ユダヤ人よ、あなた方の会堂及び司祭たちとともに、あなたたちの王国は1460年間破壊されているという事を知らないのか。我々キリスト教徒がキリスト生誕後1543年に記すように、この年は正確には1469年間であり、ヴェスバシアヌスとティトスがエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を追い払ってから1500年が過ぎているのだ」。

 この小さいクルミをユダヤ人に与えて彼ら同士の間で好きなだけそれに噛み付かせ、議論させるとよいのだ。

 神のこのような恐るべき怒りこそが、彼らが確実に誤っており、悪をなしている充分な証拠なのである。子供でさえ、そんなことは理解できるであろう。自らの国民をそれほど無慈悲に処罰し、慰めの言葉も、また、その様な悲惨さが続く期間や期限も示すことなく沈黙を保っているような神というものを誰も想像すらできない。誰がその様な神を信じ、希望を見出して信頼したいと思うであろうか。それゆえ、この怒りによって、ユダヤ人は、はっきりと神に拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また、神も彼らの神ではないという結論に達ぜざるをえないのである。
 ホセア書第1章9節「ロアンミ、あなたがたは、私の民ではなく、私は、あなた方の神ではない」。

 そう、彼らは恐ろしいジレンマに入っているのだ。彼らがこうした事に対してどんな解釈をしようと、我々は自の前に我々を欺く事ができない事態をみているのである。

 ●ユダヤ人との論争の無益さ

 それゆえ、キリスト教徒は、現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしもあなたがたが彼らと話さざるを得なくなったり、話したくなったときには、次のこと以外に話してはならない。

 〈ユダヤ人よ、あなたがたの会堂と司祭たちと共に、あなたがたの王国は一四六〇年間破壊されたままであることを知らないのか。われわれキリスト教徒は、キリスト生誕後一五四三年と記すように、その年は正確には一四六九年であり、ヴェスパシアヌス〔九〜七九、ローマ皇帝(六九〜七九)〕とティトゥス〔三九〜八一、ローマ皇帝(七九〜八一)。ヴェスパシアヌスの息子〕がエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を追い払ってから一五〇〇年が過ぎているのだ〉

 この小さいクルミをユダヤ人に与え、彼ら同士をかみ合わせ、好きなだけ議論させるとよい。

 こうした神の恐るべき怒りこそ、彼らが確実に誤っており、悪を行なっているという十分な証拠である。そんなことは、子どもでさえ理解できる。自分の民をそれほど無慈悲に処罰し、慰めの言葉もなく、またそうした悲惨さが続く期間や期限を示すこともなく沈黙を保っているような神など想像すらできないことだ。そのような神を信じ、希望を見いだして信頼したいと誰が思うであろうか。それゆえ、この怒りによってユダヤ人は神にはっきりと拒絶されており、もはや彼らは神の民ではないし、また神も彼らの神ではないという結論に達せざるを得ないのだ。

 〈その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ〉(「ホセア書」第一章九節)

 そう、彼らは恐ろしいジレンマに陥っているのだ。彼らがこのことについてどう解釈しようとも、欺くことができない事態をわれわれは眼前にしている。 


 ユダヤ的選民主義とゴイム思想

 そして、感覚と理性のひらめきのある者は、必ず次のように自ら考える事であろう。
 「ああ神よ、事態は我々にとってよくない。我々の悲惨さは大きすぎる。迫放は長すぎ、過酷すぎる。神は我々を忘れ給うた」。

 もちろん私はユダヤ人ではない。しかし、私は、この国民に対する神の恐るべき怒りについて考えを馳せるのは身の毛のよだつほど嫌な事である。私は身震いするが、その考えは私の体と生命の中にしみこんでくる。すぺての偽りのキリスト教徒と信仰なきものに対する地獄での神の永遠の怒りとはどのようなものなのであろうか。ユダヤ人達が、主イエス・キリストに対し彼らが望むどのようなものとみなしても別にかまわない。我々はルカ伝第21章20−23節の成就をみる。
 概要「エルサレムが軍隊によって囲まれるのを見たら、その滅亡は間近である。なぜならそれは、書き記されているすぺてのことが成就する報復の時だからである」。

 要するに前述した如く、我々の信仰に関してはユダヤ人とあまり論争すぺきではない。子供のころから彼らは我らの主に対して毒と憎しみを持って育てられてきているので、彼らが自らの悲惨さを通して柔軟になり、救世主が到来し、それが主キリストであるという事を告白せざるをえないような地点に到達するまでは何の希望もないのである。さもなければ彼らと議論するのは概して時期尚早であり、無駄な事なのである。

 我々の信仰を更に強めるために彼らの信仰と聖書解釈における幾つかの愚かさ加減を考えて見よう。なぜなら彼らは我々の信仰をその様な汚いやり口で非難するのだから。万一、一人のユダヤを改心させたとしたら、彼は恥じ入ることであろう。恥じ入れば恥じ入る
ほど良いのである。我々は、ユダヤ人達とは、ユダヤ人とその行為に関して以外話す事はない。

 そうした事については、我がドイツ国民は熟知しているのである。ユダヤ人たちは一つの原則を保持して、それを頼りにしている。即ち曰く、彼らは地上でもっとも高貴な国民の生まれであり、アプラハム、サラ、イサク、リペカ、ヤコプ等の子孫である。ゴイム(異教徒)は、彼らの目から見ると人間ではなく、ほとんど虫けらにも値しない。(我々は、かの高貴な貴族の血統ではないからという理由でそういう扱いを受けることになる)

 これが彼らの主張であり、私の考えでは主要にして最も強固な部分である。それゆえ神は、彼らの宗派、祈り、歌、教義そして全生涯において、彼らを苦しめなければならないことになる。そこで彼らは神の御前に立ち、「彼」を苦しめる。(私は神について人になぞらへて話している) 

 神は、異教徒から彼らを分離した事で、また聖なる父達の子孫たる事を彼らに許した事で、更にまた、神御自身の神聖な民として彼らを選んだ事等々で、彼らがいかに自らを高みにおき、神を誉めそやしているか、その声を聞かねぱならない。父祖達の血筋と子孫である事を自慢する事には際限がないのである。

 ●神の怒りの犠牲者

 そして感性と理性の閃(ひらめ)きのある者は、必ずや次のように考えるであろう。

 〈ああ神よ。事態はわれわれにとって良くない。われわれの悲惨さは大きすぎる。追放は長すぎ、あまりにも過酷だ。神はわれわれを忘れてしまった〉

 もちろん私はユダヤ人ではない。そして、私はこの民族に対する神の恐るべき怒りについて深刻に受け止めたいとは思わない。身震いすることではあるが、そうした考えが私の身体といのちのなかにしみ込んでくるのである。すべての偽キリスト教徒および信仰なきものに対する地獄における神の永遠の怒りとは、いったいどのようなものなのであろうか?  ユダヤ人が主イエス・キリストをどう見なそうと構わない。われわれは「ルカ伝」(第二十一章二十〜二十三節)の成就を見るのである。

 〈エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。……これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです〉
                                  
 要は先に記したように、われわれの信仰についてユダヤ人と論争すべきではない。彼らは、子どもの頃からわれらが主に対する有害な説と憎悪をもって育てられてきているので、自己の悲惨さを通して柔軟になり、救世主が到来し、それが主キリストであると告白せざるを得なくなるまで、希望はまったくないのだ。とすれば、彼らと議論を交わすことは一般に時期尚早であり、無駄なことだ……。

 われわれの信仰をさらに強固なものにするために、彼らの信仰と聖書解釈における愚劣さをいくつか考えてみよう。彼らがどのような汚い手口でわれわれの信仰を非難しているかを知るためにも。そうすることにより、あるいは一人のユダヤ人を改心させたとしよう。彼は恥じ入るだろうが、恥じ入れば恥じ入るほど良いのだ。

 ユダヤ人とその行為について話すこと以外、われわれは彼らと話すことはない。しかしわがドイツ民族は、そうしたことについてよく知っている。
 彼らは一つの原則を保持し、それに依存している。すなわち、自分たちは地上で最も高貴な民族として生まれたのであり、アブラハム、サラ、イサク、レベッカ、ヤコブ等の子孫であるということだ。

 したがって彼らの目から見ると、われわれ異教徒は人間ではなく、まったく虫けらにも値しない存在なのである。それはかの気高い貴族の血統ではないからだ。これが彼らの主張であり、私の意見では主要にして最も強固な部分である。それゆえ神は、彼らの宗派・祈り・歌・教義、そして彼らの全生涯を苦しめなければならないのである。

 そこで彼らは神の御前に立ち、神を苦しめる(私は神を人に準えて話している)。神が異教徒から彼らを分離したことで、また聖なる父たちの子孫であることを彼らに許したことで、そして神御自身の神聖な民として彼らを選んだこと等々で、彼らがいかにみずからを高みに置き、神を誉めそやしているか、その声を聞かねばならぬ。彼らは父祖たちの血統と子孫であることを際限もなく自慢するのである。


 ユダヤ教理の核心
 彼らのうわ言のような気違いじみた無意味さが徹底されている為に、彼らは神を讃美しつつ次の事に感謝をささげる。第一に彼らが人間であって勤物ではないという事に。第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(獣)ではないという事に。三番目に彼らが女としてでなく男として創造されたことに。

 かかる馬鹿げた祈り行為を、彼らはイスラエルから学んだのではなく、ゴイムから学んだのである。というのは、仮にこのような冒涜と涜神の行為とが神の讃美と言われ得るとすれば、ギリシャのプラトンもまた毎日同様に神に対する讃美と感謝とを捧げていたと歴史家達は記しているのであるから。プラトンは次の三点において神を讃美していた。即ち、彼が人間であって動物でない点、男であって女でない点、ギリシャ人であって野蛮な非ギリシャ人でない点である。思うに、こうした捉われこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。

 誰も、彼らがイスラエルの血統及ぴ種族である事について大言壮語するのをやめさせられない。旧約聖書によれば、そのため彼らは多くの戦闘で敗れてきた。(ユダヤ人達は誰もこの事を理解できない) すぺての預言はその故に彼らを叱責している。なぜならそうした事は魂と信仰を抜きにした誇りと現世的な憶測にすぎないからである。

 ●自己を正当化する大言壮語

 彼らのうわ言のような気違いじみた無意味さを完璧なものとするために、彼らは神を讃美し、次のことに感謝を捧げる。つまり、第一に彼らが人間であって動物ではないことに、第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(異教徒)ではないことに、そして第三に彼らが女としてではなく男として創造されたことに感謝を捧げるのである。彼らはかかる馬鹿げた行為を、イスラエルからではなくゴイムから学んだのである。仮にこのような冒と神の行為が神への讃美であると言い得るならば、ギリシアのプラトンもまた毎日同様に神を讃美し感謝を捧げていたと歴史家は記しているからである。プラトンは次の三点において神を讃美していた。つまり、彼が人間であって動物でないこと、男であって女ではないこと、ギリシア人であって野蛮な非ギリシア人でないことにおいてである。

 こうしたことこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。それはちょうどマラキらが、自分たちだけが人間であり、世界の他のすべての者はアヒルやネズミにすぎないと夢想していたのと同じことである。

 誰も彼らがイスラエルの血統および種族であることについて大言壮語するのをやめさせることはできない。旧約聖書によれば、そのために彼らは多くの戦闘に敗れてきた(ユダヤ人はだれもこのことを理解できない)。それゆえにすべての預言は彼らを叱責している。そうしたことは、魂と信仰を抜きにした奢りであり、現世的な憶測にすぎないからである。


 アプラバムの子孫というより悪魔の子供達である
 我々の主は、また彼らを「毒蛇ども」と呼ぴ給うた。
 ヨハネ伝第8章39節「もしあなたたちがアプラバムの子孫であるなら、アブラハムの行ないを為すはずである」。
 同第8章44節「あなたたちはあなたたちの父、悪魔に作られた者である」。

 彼らが悪魔の子供達であるという事は、彼らが現在でも未だにそのような呼ばれ方に耐える事ができないように、彼らにはとても耐え難い事であった。というのは、もし彼らがこのよりどころ(アプラハムの子孫であるという)を示さねばならないとするなら、全て彼らが築いたものは崩壌し、違ったものになってしまうからである。

 
もし神がユダヤ人達に封して慈悲深くあるぺきだとすれば、ユダヤ人達はまず彼らの宗派から、彼らの心から、彼らの口から、すぺての涜神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわねばならない。かかる祈りこそがユダヤ人に対する神の怒りを絶えず増大させているのであるから。しかし彼らは決してそうすることはなく自ら控えめになることはないであろう。神が与え給う筈の彼らへの恐るべき絶減から特別にお救いになろうとするほんの数名の者を除いては。

 ●悪魔の子どもたち

 われらの主はまた、彼らを「蛇ども」と呼ばれた。

 〈あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい〉(「ヨハネ伝」第八章三十九節)
 〈あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって……〉(同第八章四十四節)

 彼らが悪魔の子どもたちであるということは、彼らが現在でもそのような呼ばれ方に耐えることができないように、彼らにはとても耐え難いことであった。それは、もしも彼らがこの拠りどころ(アブラハムの子孫であるという)を示さねばならないとすれば、彼らが築いたものはすべて崩壊し、違ったものになってしまうからである。(このあとで彼らの自己讃美は根拠のない仮定としてルターによって論破されている。これらの論述は次の言葉で結ばれている)

 しかし、このように私があえて言うのは、われわれの信仰の強化のためである。というのは、先に述べたように、ユダヤ人にその高慢さや貴族と血統の栄光を捨てさせることはできないからだ。ユダヤ人は凝り固まっているのだ。けれども、われわれキリスト教徒はこれらの頑固で呪われた人間ども(彼らは神が嘘をついたと非難し、全世界を得意げに軽蔑する)に騙されぬよう警戒しなければならない。というのも、ユダヤ人たちは彼らの信仰をわれわれが受け入れるよう積極的に勧誘するだろうし、それが可能なところでは、どこであろうとそうするであろうから。

 神がユダヤ人に対して慈悲深くあってほしいと願うなら、ユダヤ人はまず彼らの宗派から、彼らの心から、すべての神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわなければならない。そうした祈りこそが、ユダヤ人に対する神の怒りをたえず増大させているのだから。しかし彼らは決してそうすることはなく、自分から控えめになることはないだろう。神が与え給うであろう彼らの恐るべき絶滅から特別にお救いになろうとするほんの数名を除いては。


 鼻持ちなら無いエリート主義
 ユダヤ人達が自分達を他の民族より高い位置におき、他の民族を軽蔑する際にその根拠としているのは、彼らがアプラハム以降、割礼を行っているという事である。その故に、我ら異教徒はその宗派、祈り、賛美歌、そして教義においてどんなに災難を被らねばならないのだろう。我らが割礼を為さぬがゆえになんと我ら軽蔑さるぺき国民は、彼らの鼻の前で醜くも悪臭を発しているのであろうか。

 その中では彼らユダヤ人達は、すぺての異教徒達の前で主人ぶった尊大な様子に描かれている。というのは、彼らに於いては、非ユダヤ人達はいつでも邪悪な偶像崇拝や誤った教義を実行し、割礼を受けていない心を持つ、まさにその様な民族なのであるから。それゆえ、モーゼ自身及びすぺての預言者達はその事を嘆き悲しんだのである。しかし彼らは同時に、神を喜ばせようと努力し、それゆえ預言者達を殺害したのである。

 聖書が、いたるところで証明しているように、彼らは預言者達の説教や教えや叱責によって自分達の邪悪な心を善きものにしようなどとは金輪際考えない、罪深く高慢な国民なのである。それでも彼らは神の召使いたらんとし、神の御前に立とうというのだ!

 彼らは今日にいたるまで自らの高貴さと血筋を自画自賛する以外、何もできない。彼らは自らの宗派、祈祷、教義において自分達だけを讃美し、全世界を罪あるものと宣告する。しかし彼らは自分達が神に最も親しい子供達として神の御前に立っていると勝手に想像しているだけなのである。

 ●自分たちを高みに置く

 ユダヤ人が自分たちを高みに置いて他の民族を軽蔑するさいに、その根拠としているのは、アブラハム以降、割礼を行なっているということである。そのためにわれら異教徒は、宗派・祈り・讃美歌・教義において、どれほど災難を被らねばならなかったことであろう。われわれが割礼を行なわないために、なんとわれら軽蔑すべき民族は、彼らの面前では醜くも悪臭を発しているというのである。(ここから聖書からの多数の引用に基づく長い神学的論述が続く)

 そのなかで彼らユダヤ人はすべての異教徒の前で主人ぶった尊大な様子に描かれている。それは、彼らユダヤ人は、常に邪悪な偶像崇拝や誤った教義を実行する、モーセと同じくまさに割礼を受けていない心をもつ民族であるからだ。それゆえ、すべての預言者がそのことを嘆き悲しんだのである。しかし、彼らは同時に神を喜ばせようと努めた。そのために彼らは預言者たちを殺害したのである。

 聖書がいたるところで証明しているように、彼らは預言者の説教や教えや叱責によって自分たちの邪悪な心を善きものにしようなどとは一切考えない罪深い高慢な民族である。
 それでも彼らは、神の僕たらんとし、神の御前に立とうというのだ!

 今日にいたるまで、彼らはみずからの高貴さと血統を自画自賛する以外にできることはなにもなかった。彼らはみずからの宗派・祈祷・教義で自分たちだけを讃美し、全世界を罪深きものと宣告する。彼らは神に最も近い子どもとして神の御前に立っていると勝手に夢想しているにすぎないのである。  


 嘘つきにしてしつこい犬

 彼らは本当の嘘つきにしてしつこい「犬」である。彼らは聖書の全ぺ−ジを始めから終っわりまで彼らの解釈で絶間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすぺてがいつの日か我々異教徒を、彼らがかってエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱いたいという所に向けられているのてある。ああ彼らはなんとエステル書を偏愛している事であろうか。

 その書は、彼らの血に飢えた、執念深く残酷な欲望と希望とをまことにすばらしくも肯定しているのである。自分達を神の民と妄想し、異教徒を殺し、押しつぶしてしまいたいと望み、またそうせねぱならぬと考えている彼らユダヤ人達ほど血に飢え、執念深い人達はいない。そういう彼らの上には太陽が輝く事は決してなかったのである。彼らが期待する彼らの救世主の主要な約束は、神が彼らの剣によって全世界の人々を殺害する事なのである。彼らがまず我々キリスト教徒に対して示したように、可能な限り彼らはしばしばそうしようと試みて、繰り返し自分達の鼻先をこっひどく叩かれてきたのである。

 つまり、彼ら自身の欠陥と高慢的なプライドとを暴露している。

 (ルターはここで割礼に加えて、ユダヤ人達が自慢する多くの文献を列挙している。寄せ集め的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており不信心で邪悪である事を嘆く聖書の中の多敷の文章を引用し、その上で悪魔をユダヤ人と比ぺて語っている)

 ●嘘つきで、執念深い「いぬ」

 彼らは根っからの嘘つきで、執念深い「いぬ」である。彼らは、聖書の全ページを最初から最後まで自己流にたえず曲解したのみならず、偽造した。ユダヤ人の野望と吐息のすべては、いつの日かわれわれ異教徒を、かつてエステルの時代にペルシアで扱ったと同様に扱いたいという一点に向けられているのである……。

 ああ、彼らはなんとエステル書を偏愛していることか。この書は、彼らの血に飢えた執念深く残忍な欲望と野望とを、実にみごとに肯定している。自分たちを神の民と妄想し、異教徒を殺害し押しつぶしてしまいたいと熱望し、またそうせねばならないと考えている彼らユダヤ人たち、血に飢えた執念深い者どもの上に、太陽は決して輝くことはなかった。彼らが期待する救世主の主たる約束は、彼らの刃によって神が全世界の民衆を殺害することなのである。彼らは、まずわれわれキリスト教徒に示したように、可能なときにはしばしば殺害しようと試みたが、繰り返し自分たちの鼻先をこっぴどく叩かれてきた。

 (ここでルターは、繰り返されるユダヤ人迫害の最も核心的な理由、すなわち彼ら自身の欠陥と高慢な態度について明らかにしている。ルターは、割礼に加え、ユダヤ人たちが自慢する多くの文献を列挙している。寄木細工的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており、不信心で邪悪であることを嘆く聖書の中の多数の文章を引用し、そのうえで悪魔をユダヤ人と比較して語っている)


 異教徒より邪悪な者達

 もしユダヤ人達が神の戒律を持たず、またそれを知らなかったとしたら、どんなに彼らにとって、ましな事であっただろう。なぜなら、もし彼らがそれを持っていなけれぱ、彼らは有罪を宣告される事はなかったからである。彼らは神の戒律を持っていながら、それを守らぬばかりか、絶間なくそれに反逆して行動するが故に呪われているのである。

 そういうことなら、もし例えば殺人者、売春婦、泥棒、ならず者達、そしてすぺての悪人どもが、仮に彼らが神の言葉を持ち、神を恐れ、従うぺきである事を知り、神を愛し、彼に仕え、神の御名を称え、殺人や不倫を犯すぺきでばない事等々を知っているとしたなら、知っていると云うだけで免責され、これらの者共が目分達は神の神聖にして選ばれた人々である等と公言しても良いというのと同じ事になってしまう。

 しかしながら、彼らは現に罪を犯しており、呪われているのだから、彼らが例えもっとも神聖にして正しいところの神の言葉を所有しているとしても、これら悪漢どもがそれに反して罪を犯しているという事には変わりはないのである。それなら、ユダヤ人達と同様、これら悪党どもに、神は神の律法を通して彼らを神聖化し、彼らを神の特別な民として選抜なされたという事を、すぺての諸国民の前で彼らに自慢させようではないか。

 ユダヤ人達が自らの宗派を自慢し神が神の律法を通して彼らを浄化して神の選民と為し給うたことで、神を賞美し感謝を捧げている時、一方では彼らは自分達がそれらの戒律などまったく守っておらず高慢と妬み高利貸し、貪欲、そしてすぺての卑しさに満ちているという事をよく承知しているのである。

 そしてまた、彼らは何よりも祈祷において敬虔にして神聖にふるまう者達ではあるのだが、彼らユダヤ人達の栄光もまた前述の悪党共の栄光と同じ事になってしまうのである。彼らは高利賃しを行うのみならず、(私は今は彼らの他の悪徳についてば黙っていよう)高利貸しを神がモーゼを通して彼らに命じ給うた権利として教えるほどに盲目であり、この点に関しても、彼らは他の場合と同様ひどいやり方で神について嘘を述べているのであるが、これについて今は詳細に述ぺる余裕はない。

 ●異教徒より邪悪な者ども

 もしもユダヤ人が神の戒律をもたず、またそれを知らなかったならば、どんなにましであったことか。というのは、もし彼らがそれをもっていなければ、有罪を宣告されることはなかったからだ。神の戒律をもっていながら、それを守らぬばかりか、絶え間なくそれに反逆して行動するがゆえに、彼らは呪われているのである……。

 こんなことが成り立つならば、殺人者・売春婦・泥棒・ならず者・すべての悪人どもが神の言葉をもち、神を恐れ敬うことを知り、神を愛し、神に仕え、神の御名を称え、殺人や不倫を犯すべきでないことを知ってさえいれば、自分たちは神の神聖にして選ばれた民であると公言してもよいというのと同じことになってしまうではないか。

 しかし、彼らは現に罪を犯しており、呪われているのだから、たとえ最も神聖にして正しい神の言葉を所有しているとしても、これら悪党どもはそれに反して罪を犯していることに変わりはないのである。ユダヤ人と同様、神はその律法を通してこれら悪党どもを神聖化し、神の特別な民として選抜されたということを、全諸国民の前で彼らに自慢させてみようではないか。

 ユダヤ人たちが自分たちの宗派を自慢し、神がその律法を通して彼らを浄化し神の選民にしたという理由で、神を讃美し感謝を捧げる一方、自分たちはそれらの戒律をまったく守らず、高慢・妬み・高利貸し・貪欲・あらゆる卑しさに満ち満ちていることをよく承知している。

 また彼らユダヤ人は、なによりも祈祷では敬虔を装い神聖に振る舞いはするが、その栄光も前述の悪党どもの栄光と同じことになってしまうのだ。彼らは高利貸しを行なうのみならず(ここでは彼らの他の悪徳については黙っていることにする)、高利貸しは神がモーセを通して彼らに命じた権利であると教えるほど盲である。この点についても彼らは、他の場合と同様、実にひどいやり方で神についての嘘を伝えているが、いまその詳細を述べる余裕はない。


 彼らは十戎の背徳者である

 もし十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を患か者の如くに扱う詐欺師かペテン師以外の何者でもない。

 それはあたかも、悪魔の統領が祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、その様な方々のすぺての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。しかしながら、その様な精神の面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵冒涜者が居り、福音も十戒もともに踏みにじり、呪いそして非難しているのである。神の御前でそれを為すとは何と素晴らしい聖人ではないか。

 あるいはもしこの世で、一人の美しい女性が慎み深いしとやかさと純潔さに満ちたマナー、公正さ、立居振舞をしながら処女である事を示す花飾りをつけてそぞろ歩いていたとしても、裏では十戎に背く淫らで恥ずぺき売春婦であったとしたら、例え彼女が見える所では純潔の公正さや振舞いを守ったとしても彼女の素靖らしい従順さはいったい何の役に立つのだろうか。彼女はだらしのない公娼達の7倍も軽蔑されるという 結果になるだらう。

 このように神は、彼らが外見は戒律と高潔さの様子を示しながら、あらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行いをしているので、神の預言を送ることにより、常にイスラエル人を卑しい売春婦と見なして叱ったのである。特にホセアが2章4、5で嘆いたように。
 「私はその子らを哀れまない。彼らは淫行の子等だからである。彼らの母は淫行をなし、彼らをはらんだ披女は恥ずぺき事を行った。彼女は言う。『私は我が賢人達についていこう。彼らは私にパンと水、羊の毛と麻と油、そして飲み物を与える』」。

 乙女や女性が敬虔かつ清潔で見苦しくなく装い外見上、慎ましやかに振舞うを見るのは、実に素晴らしい事である。しかし、彼女がもし売春婦であるなら、その(すばらしい)衣装、装身具、花飾り、そしてアクセサリーは、ぬかるみの中の雌豚が身につけたほうが、よりまともにみえる事であろう。ソロモンが言うように「きれいで馬鹿な女は、雌豚の鼻の上につけられた黄金のモールのようである」。

 親愛なるキリスト教徒よ、こうした事から盲目のユダヤ人どもが貴方たちを誤り導くのを黙認する時には、自分達が何をしようとしているのか、よく気を付けるぺきである。このような場合には一つの諺が確かに成り立つであろう。即ち、「盲目の者が盲目の者を導くなら、両者とも、堀に落ちるであろう」という諺が。それ以上のことで彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らず、それでも異教徒達に封し高慢で居丈高になる。神の前に出るなら、異邦人のほうがまだましである。何故なら、彼らは神聖さに関してそんな高慢さを持っていないが、しかしおごり高ぶる聖人達や罪深い涜神の者や嘘つき者どもより、はるかに律法に適ったことを為すからである。

 ●彼らは十戒を愚弄し、神を馬鹿にする

 もしも十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を愚か者のように扱う詐欺かペテン以外のなにものでもない。それはあたかも、悪魔の統領が祭司か牧師の衣装をまとってわれわれのあいだを歩き回ったり、戒律や生き方をすべて遵守するかのように振る舞っているのと同じことである。けれどもそうした精神的な装いのもとに真の悪魔・狼・教会の敵・冒者が跋扈し、福音も十戒も踏みにじり、呪い、非難しているのだ。神の御前でそれはなんとも素晴らしい聖人であることよ。

 もしもこの世で一人の美しい女性が、慎み深い貞淑さ・気品にみちた作法・公正さをもって立ち居振る舞い、かつ処女であることを示す花飾りをつけてそぞろ歩きしていたとしても、裏では十戒に背く淫らで恥ずべき娼婦であったならば、表面的な純潔・公正・振る舞い・素晴らしい従順さなど、いったいなんの役に立とうか。彼女は、だらしない公娼らの七倍も軽蔑されることになろう。

 かくして神は、表面的には戒律と高潔さを示しながらあらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行ないを彼らがしているので、預言を通していつもイスラエル人を卑しい娼婦と叱ったのである。とくにホセア〔前八世紀のヘブライの預言者〕が嘆いたように。


 〈わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから。彼らの母は姦淫をし、彼らをはらんで恥をさらし、そして言った。「私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油の飲み物を与えてくれる」と〉(「ホセア書」第二章四〜五節)

 敬虔かつ清潔で見苦しくない装い、外見上、淑やかに振る舞う乙女や女性を見るのは実に素晴らしいことである。だが、彼女が娼婦であるなら、その衣装・装身具・花飾り・アクセサリーは肥溜の雌豚が身につけたほうがよりまともに見えるであろう。ソロモンが言ったように、「雌豚の鼻の上につけた黄金の飾りは、綺麗で馬鹿な女のようだ」ということになるだろう。ゆえに彼らは、神の十戒を本当に信じない表面だけの信奉を自慢するのはやめたほうがよい。そうなのだ。それは、異教徒と比べて神の民である彼らの価値を七倍も低下させることになるのである。彼らを彼らだけにしておこう。われわれは、哀願や五十一番目の讃美歌を唱える者、すなわち律法がなんであり、それを遵守することとしないことの意味がわかり、理解できる者たちと共に居させてほしいのだ。

 親愛なるキリスト教徒よ、かくして盲のユダヤ人どもがあなたがたを誤り導くのを黙認するときには、自分たちがどうされようとしているのか、よく気をつけるべきである。そのような場合には、一つの諺が確かに成り立つであろう。「盲が盲を導くなら、両方とも堀に落ちるであろう」という諺が。それ以上、彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らないのに異教徒に対して高慢で居丈高になる彼らより、神の御前では、異邦人のほうがまだましである。なぜなら、彼らは神聖なものにそうした傲慢さをもっておらず、奢り高ぶる聖人や罪深い神者、嘘つきどもよりはるかに律法に適ったことを行なうからである。


 彼らの宗派は、悪魔の巣窟である
 それゆえあなた方はユダヤ人達に封して警護を固め、次の事を知るぺきである。即ち、彼らが集いを持つ場所は悪魔の巣窟以外の何ものでもなく、そこでは自分違を自ら讃美し、虚栄、嘘、冒涜、神と人間に恥辱をもたらすといったことが、悪魔がなすのと同様に最も強烈にして最も有害なやり方で実行されているのだと言う事をである。

 ユダヤ人違が説教している所で聞くということは、それがどこでも、「一にらみで人々を傷つけ殺害した、危瞼なバシリスク(中世の伝説)」が話すのを間いているのと同じ事であると、あなた方は考えねぱならない。

 
神の怒りを通して彼らは自分達を自慢する事、虚栄、神に偽りを言う事、すぺての異邦人を呪う事、等のすぺてが正しく、そうした事が神への偉大な奉仕であり、この様な高貴な父親の血筋と割礼をした聖人にふさわしい事なのだと信じるよう教えられてきた。(例え、彼らが甚だしい悪徳の中にあって、他の点でどんなに自分達を卑しいと思ったとしても)彼らはこうした事によって神の加護が与えられてきたと考えているのてある。彼らを監視せよ!

 彼らは自分達がカナンの地、エルサレムの町、神による神殿を所有していた事を自慢する。神が、その様な高慢と虚栄とを何度も覆しになったにもかかわらずに。とりわけバビロンの王(彼はユダヤ人を遠くへ連れ去ったのだが)を通して、以前にアッシリア王が彼らを遠く連れさり、全イスラエル人を殺害したのと同様、ユタヤ人の殺害へと導いた。

 
そして、最後には彼らユダヤ人達はローマ人達によって根こそぎ移住を強制され、荒廃させられた。こうして1400年前、彼らは、いかに神が彼らの国家、町、神殿、聖職者、そして君主に配慮を示されなかったか、また今後も重視しないことを理解した。ところが、イザヤがかってこう呼んだように(彼らの)頑な首は頭を下げる事もなく、鉄の額は恥じ入って赤くなる事もなかった。彼らは絶えず強情で、頑固で、盲目で、ものに動じることがないままである。そして神が再ぴ故郷へ連れ戻しになり、彼らに全てのものをお返しになる事を望んでいるのである。

 ●彼らの宗派は悪魔の巣窟である

 それゆえにあなたがたは、ユダヤ人に対して警護を固め、次のことを知るべきである。すなわち彼らが集う場所は悪魔の巣窟以外のなにものでもなく、そこでは自画自賛・虚栄・嘘・冒・神と人間に恥辱をもたらすことが、悪魔の所業と同様に最も強烈で有害なやり方で実行されているのだということを。

 ユダヤ人が説教しているどの場所でも、ひとにらみで人びとを傷つけ殺した危険なバシリスク(中世の伝説)〔アフリカの砂漠に棲むという伝説上の爬虫動物〕が話すのを聞いているのと同じであるとあなたがたは考えなければならない。

 彼らは、神の怒りを通して、自分たちを自慢すること、見栄を張ること、神に偽りを言うこと、すべての異邦人を呪うこと等のすべてが正しく、そうしたことを行なうことが神への偉大な奉仕であり、高貴な父祖の血筋と割礼した聖人にふさわしいことだと信じるよう教えられてきた(たとえどんなにひどい悪徳のなかにあっても、どんなに自分たちが卑しいと思ったとしても)。彼らは、こうしたことを行なうことによって、神の加護が与えられてきたと考えているのである。彼らを監視せよ!

 彼らは、自分たちがカナンの地、エルサレムの町、神殿を所有していたことを自慢する。神がそのような高慢と虚栄をなんども覆滅なされたにもかかわらず。以前にアッシリア王がイスラエル人を遠くに連れ去り殺害した〔前七二一年北王国イスラエル、アッシリア王シャルマネセル五世に滅ぼされる〕のと同様に、とりわけバビロンの王(彼はユダヤ人を遠くに連れ去ったのだが)によってユダヤ人は殺害されることになった〔バビロニア捕囚時代=前五八六〜前五三八〕。そして最後に彼らユダヤ人たちは、ローマ人によって根こそぎ移住を強制され、荒廃させられたのである。

 こうして千四百年前に彼らは、神が彼らの国家・町・神殿・聖職者・君主にいかに配慮をお示しにならなかったかを、またこれからも重んじようとされないかを、つまり彼らを神の選ばれた民であると見なしていないかを知ったはずである。ところが、イザヤ〔前八世紀のイスラエルの預言者。神ヤーウェの正義と救世主の出現とを説いて民を警醒・激励した〕がそう叫んだように、鉄の首は頭を下げることもなく、鉄の額は恥じて赤くなることもなかった。彼らはたえず強情で、頑固で、盲目で、ものに動じることがないまま今日にいたっている。そして、神が再び故郷に連れ戻し、彼らにすべてのものをお返しになることを待ち望んでいるのである。


 悪魔にとりつかれた者
 ユダヤ人達は自分達が神の戒律を守るという目的の為に、神にすぺての物を与えられているのであって、それ故にこそ自分達が神の民、集会の民と呼ばれているのだという事を理解しようともしないし、聞こうともしない。彼らの血筋と高貴さに関しても、神は、神の戒律を彼らに守らせる為にこそ彼らを選んだにもかかわらず、彼らはその事をわかろうとせず考慮しようともしないで、ただ自らを自慢するだけなのである。

 彼らは割礼を自慢する。しかし、彼らが割礼を受ける目的と神の戒律を守るという事とは彼らには何の意味もないのである。彼らは自分達の法律、会堂、宗教儀式、町、田舎、そして国家を自慢する。しかし、彼らは、自分達が戒律を守るという目的の為にこそ、それらを所有させてもらっているのだという事をすっかり忘れているのだ。

 悪魔はかかる民族にこそ彼の全ての天使達と共にとり憑き続けているのだ。彼らは目にみえるもの、自分達の才能、業績、行為等を常に自慢する。
しかし、そうした事は中身のない空っぽの「見せかけだけのもの」を神に棒げるのと同じなのである。

 神はそうしたものを神にささげる民族である彼らを神の民とし、すぺての異教徒に優先して彼らを賞賛し、祝福する。故に、彼らは神の戒律を守らねばならないし、自らの神として神を守らねばならない。ところが、その事を彼らは引き受けようとはしないのだ。

 モーゼの次の言があてはまる。
 「彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は彼らを私の民とは見なさない」。

 これはホセア書(第一章九節)にも言はれている事であるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、誰もユダヤ人達が神の選ぱれた民ではないと彼らを説得する事などできはしなかっただろう。何故なら彼らはその邪悪さ、不服従、強情さにもかかわらず、未だに会堂、町、田舎、を保持しているであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫ぴ、沢山のモーセ達が立って、「汝らは不服従であり、反抗的であるゆえに神の民ではない」と宣べたとしても。

 離散せられ、1500年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自からが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような、高慢きわまりない考えをあきらめきれないでいるのである。彼らは依然として自分達の利益の為に、故郷の地に戻る事を望んでいる。しかし、彼らが自分達の勝手な想像によって、聖書の中に塗りたくっておいた言葉以外には、彼らがせめてもの慰めとして頼れる約束は何もないのだ。

 かくして、ユダヤ人達はわがままを言い続け、また意識的に過ちを犯したがっており、彼らのラピ達を見限ろうともしない。それ故、我々もまた、彼らが有害な冒涜を犯し、嘘を付くのてあれば彼らをそのままに放置し無視しなけれぱならない。

 ●悪魔にとり憑かれた者ども

 ユダヤ人たちは、自分たちが神の戒律を守るという目的のために神からすべてのものを与えられているのであって、それゆえにこそ自分たちが神の民、教会の民と呼ばれているのだということを理解しようとも、聞こうともしない。彼らの血筋と高貴さについても、神の戒律を守らせるためにこそ神は彼らを選んだというのに、彼らはそのことをわかろうとせず、考えようともしないで、ただひたすら自分を自慢するだけなのである。

 彼らは割礼を自慢する。だが、割礼を受ける目的(神の戒律を守ること)は彼らになんの意味もないのである。彼らは自分たちの法律・会堂・宗教儀式・町・田舎・国家を自慢する。しかし彼らは、戒律を守るという目的のためにこそ、自分たちがそれらを所有させてもらっているのだということをすっかり忘れているのだ。悪魔は、かかる民族にこそ、その全天使たちと共に取り憑きつづけているのである。彼らは、目に見えるもの・自分たちの才能・業績・行為などを常に自慢する。しかし、そうしたことは中身のない空虚な「空念仏」を神に捧げるのと同じことである。神は、そうしたものを捧げる民族である彼らを神の民とし、すべての異教徒に優先して彼らを称賛し、祝福する。ゆえに彼らは神の戒律を守らねばならないし、自分たちの神として神を守らねばならない。ところが、それを引き受けようとはしないのだ。

 モーセの次の言葉が当てはまる。

 〈彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は、彼らを私の民とは見なさない〉

 これはホセア書(第一章九節)にも言われていることであるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、ユダヤ人は神の選ばれた民ではないと彼らを説得することなど、誰にもできなかったであろう。なぜなら、邪悪さ・不服従・強情さにもかかわらず、彼らはいまだに会堂・町・田舎を保持していたであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫び、たくさんのモーセが立って「汝らは不服従であり、反抗的であるがゆえに神の民ではない」と主張したとしても。

 離散させられ、千五百年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自分たちが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような高慢きわまりない考えを諦めきれないでいる! 彼らは依然として自分たちの利益のために故郷の地に戻ることを望んでいる。しかし、彼らが自分たちの勝手な想像によって聖書のなかに塗りこめておいた言葉以外には、せめてもの慰めとして頼れる約束はまったくないのだ……。

 かくして、ユダヤ人はわがままを言いつづけ、また意図的に過ちを犯そうとしており、ラビたちを見限ろうとしない。それゆえにわれわれもまた、彼らが有害な冒を犯し、嘘をつくのであれば、彼らをそのまま捨ておき、無視しなければならない。


 聖書に関する偽り
 私はまた以下のような経験を持つ。(中略) 我々がウイッテンペルグで、ヘプライ語を読み始めた事を知って、三人の学識あるユダヤ人が、(ユダヤ教に転宗しようとしている)新しいユダヤ人に会えるのではないかと期待してやってきた。彼らは、我々キリスト教徒が彼らの書を読み始めたからには、事態はすぐに改善されるだろうなどと錯覚していたようだ。

 私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書のテキストに基づいて解釈するよう迫ると、彼らはテキストを放り出し、ちようど我々が牧師や博士達の言葉を信じなければならないのと同様に、彼らはラビを信じなけれぽならないのだといった。それで私は彼らが不憫になり、彼らがキリストの為に、安心してたどって行く事がてきる案内書を推薦した。後になって私は、彼らがキリストを「トーラ」即ち「磔にあって吊下げられた犯罪人」と呼んでいる事を知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人とも関わりを持つ気が全く無くなったのである。

 聖パウロは、彼らが天罰にさらされていると言っている。
あなた達が彼らを助けようとすれぱするほど、彼らはより邪悪で、頑固になって行くのである。彼らを彼らだけにして放っておこう!

 (この後、聖書からの沢山の立証が続く。それらは神学上の細かく厳正な、それ故一般には理解が困難な引用である。それらの文章は力強く、ルターのドイツ魂を良く表わし、とびきり先駆的な形で核心を突いた発言をしている。その分量の多さ故に、ここには採録する事ができない。珠玉のようで、感動的な聖書の章句の引用の中から、ここにはただ以下の文のみを引用する)

 ハガイ書2章6節、7節「万軍の主はこう仰せられる、しぱらくして、いま一度、私は天と地と、海と乾いた地(陸)とを震わせる。わたしはまた万国民を揺り動かす。万国民の財宝がもたらされ、私はこの宮を栄光で満たす」。(「万国民」の意は「異教従」に等しい)

 ユダヤ人達は、その寺院がまだ立っていた特代に救世主がやって来た事を否定し、救世主は依然としてこれからやってくるだろうと主張する。彼らは、神殿崩壊後1568年も待ちつづけていることになる。しかし、こんなに長い期間が経過しても未だにその時期がわからない以上、「そのうち暫くして」等とは云えないだろうに。

 ●聖書に関する偽り

 私はまた以下のような経験をもつ……。われわれがヴィッテンベルクでヘブライ語を読みはじめたことを知って、三人のユダヤ人の学者が新しいユダヤ人に会えるものと期待して私のところにやって来た。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書物を読みはじめたからには、事態はすぐに改善されるだろうと錯覚していたようだ。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るよう彼らに迫ると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならないと言った。私は彼らを不憫に思って、安心してたどって行くことができるキリストのための案内書を推薦した。しかし後で私は、彼らがキリストのことを「磔にあった犯罪者」と呼んでいると知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人ともいっさい関わりをもつ気にならなくなった。

 聖パウロは、彼らは天罰にさらされていると言っている。あなたがたが彼らを助けようとすればするほど、彼らはより邪悪になり、頑固になっていくのである。彼らを彼らだけにして放っておこう。

 (このあと、聖書からの多くの立証が続く。それらは神学上の細かく厳正な、それゆえ一般には理解が困難な引用である。文章は力強く、ルターのドイツ魂をよく表わし、きわめて先駆的なかたちで核心を突いた発言をしているといえる。その分量の多さゆえに、ここには採録できない。珠玉のようで感動的な聖書の章句の引用のなかから、ここには以下の文のみを引用する)

 〈まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる〉(「ハガイ書」第二章六〜七節) 「すべての国々」は「異教徒」に等しい。古代の人びとは「すべての国々の宝物」を「救世主」と見なしたのである。

 ユダヤ人は、その神殿がまだ立っていた時代に救世主がやって来たことを否定し、神殿崩壊後千五百六十八年も待ちつづけているのに、救世主は依然としてこれからやって来るだろうと主張する。しかしもはやそれは、こんなに長い時間が経ってもいまだにその時期がわからない以上、「しばらくして」などとは呼べないだろう。


 彼らの救世主は金と銀

 彼らの救世主は決してくる事はないだろう。と云うのは、「そのうち暫くして来る」はずだったのにかくも長い期間になってしまっている以上、もはや決して何も起こらないという事なのである。なぜなら、預言は「暫くの間」と云っているのであって、「長い期間」とは言っていないのだから。

 しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは、「そのうち暫くして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、その言葉が「救世主」を指しているのではなく異教徒のすべての金銀を示していると言い換える。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。

 すると、この文章は今や次のように読む事ができるのである。「ほんの少し後には、すぺての異邦人達の欲望が姿を表わすであろう」。一体これは何なのか。異邦人達は何を望むのか。金、銀そして宝石か。

 あなた達は、ユダヤ人達がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのかを聞きたくなるかもしれない。私は次のように言おう。
 「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽の下に存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人達ほど貪欲な者はかっていなかったし、現在も、そしていつの世でも存在しない」。

 彼らは又、次のような事に満足を見出している。「救世主がやってくる時、その方は世界中の全ての金と銀を所有し、それをユダヤ人の間に分配するであろう」。かくして彼らが飽く事を知らぬ貪欲へと聖書をねじ曲げる事ができる所ではどこでも、ユダヤ人達は邪まな事にそうするのである。あなた方は神と神の預言は、ユダヤ人達の計り知れぬ貪欲がいかに異教徒達の金銀によって充足されたかという事以外には何も預言しなかったのだと思うであらう。

 子供の頃から、彼らは両親及びラピ達から、「ゴイム」(異教徒)に対するこのような有害な憎しみの言葉をむさぼるやうに吸収し、いまも休みなく吸収しており、詩編109篇によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄の中にまで浸透し続けて来ており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、彼らが肉体と血液、骨と骨髄をほとんど変える事ができないのと同様に、彼らは、このやうな高慢と妬みを変える事ができないのである。神が特別の奇跡を起こさぬ限り、彼らはこうした状態のまま破減して行くしかないのだ。
 

 *訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節)

 彼はまた呪うことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。彼は己の衣のように呪いを身にまといました。それは水のように彼の内蔵へ、油のように、その骨々にしみ込みました。それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。

 ●彼らの救世主は金と銀

 彼らの救世主は決して来ることはないだろう。「しばらくして」来るはずであったのに大変に長い期間になってしまっているが、これは決してなにも起こらないということなのである。預言は「しばらくして」と言っており、「長い期間」とは言っていない! しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「しばらくして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、「救世主」ではなく異教徒のすべての金銀を示していると言うのだ。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。するとこの文章は、いまや次のように読むことができるのである。

 〈しばらくして、すべての異教徒たちの欲望が姿をあらわすであろう〉

 いったいこれはなんだろう。異教徒たちはなにを望むのか、金、銀、そして宝石か。あなたがたは、ユダヤ人がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのか聞きたくなるかもしれない。次のように私は言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽のもとに存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人ほど貪欲な者はかつてなく、現在もなく、そしていつの世においても存在しない」からだと。彼らはまた次のようにして満足する。

 〈救世主がやって来るとき、その方は世界中のすべての金と銀をお持ちになり、それをユダヤ人のあいだに分配するであろう〉

 あなたがたは、神と神の預言は、ユダヤ人のはかり知れぬ貪欲が異教徒の金銀によってどのように充たされるかということ以外になにもなかったと思うであろう。

 子どもの頃から、彼らは、両親とラビから、「ゴイム」(異教徒)に対するこのような有害な憎悪の言葉をむさぼるように吸収し、今も休みなく吸収し、「詩篇」(百九章)によれば、それは彼らの肉体と血液、骨と骨髄のなかにまで浸透しつづけてきており、彼らの生命と存在そのものになっているのである。そして、肉体と血液、骨と骨髄を変えることがほとんどできないのと同様に、彼らはその高慢さと妬みとを変えることができないのである。神が特別の奇跡を起こさぬかぎり、彼らはそうした状態のまま破滅していくしかないのだ。

 *訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節)
 彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内蔵へ、油のように、その骨々にしみ込みました。それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。


 強い敵意を持った有害な敵

 我が親愛なるキリスト教徒よ。それ故、心よりユダヤ人たらんとしているユダヤ人ほど敵意を持ち有害で強力な敵は、悪魔以外には誰もいないという事を知らなければならない。彼らの内には牛やアヒルが信じる事を信じる者もいるかもしれない。しかし、彼ら全員が、彼等の血と割礼の信仰の中に包まれているのだ。それ故、歴史上彼らはトレントやワイセンシー等におけるが如く、しばしぱ井戸に毒を投げ込み、子供たちを誘拐、殺害したかどで有罪を宣告されているのてある。

 もちろん彼らはこれを否定する。しかしながらそれが事実であるにせよ無いにせよ、彼らが秘密にしていようがそうでないにせよ、そうした事を行動に移す事が可能な場合には、彼らには、それらの事をなすのに十分用意の整った意志があるという事を私はよく承知している。こうした事をしっかりと知って欲しい。そして、このことを踏まえて行動して欲しいのだ!

 時折、彼らは何か善き事を為すかもしれない。しかしそれはあなた達への愛によるのでも、あなた達の福利の為になされるのでもないという事をよくよく承知しておかねばならない。まさしく我々のあいだで住んでいける余地を手に入れる為に彼らは何かをしなければならないだけなのだ。しかし彼らの本心は私が概に述ぺた通りであり、また依然としてそうであり続けているのだ。

 あなたは私の言う事を信じたくないのか。それならリラ、プルゲン、そして、その他の高潔で信頼できる方達の書物を読んで見て欲しい。万が一にも彼らがその事を書いていなかったと仮定しても、聖書は蛇と女性という二つの子孫が他の誰よりもキリスト教徒と対立しており、神と悪魔の間にはいかなる妥協も存在しないという事を明らかにしている。こうした事は彼らの著書や祈祷書にもまた、粗野な形で描かれている事なのである。

 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他の誰よりもキリスト教徒に対してそれ程までに敵意を抱くのか不思議に思うであらう。私達は彼らに封し善行のみを施すのだから、彼らがそうなる何の理由もないのだ。彼らは我々の祖国で、私達の庇護の下に住んでおり、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。

 王侯や政府は、みすみす傍観し、いびきをかき、口を空けたままでいるので、彼らの財布やたんすからユダヤ人達が思いのままに取ったり盗んだり、奪いとるのを許している。つまり、王侯や政府は自ら及ぴ臣下の者達がつけこまれ、スッカラカンの丸裸になるまで吸い取られ、自分達自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。というのは、ユダヤ人達は外国人なので、元々は間違いなく何も所有していなかった筈である。彼らが現在所有している物は、確実に我々が所有していた物に違いないのである。

 彼らは働かず、働いた報酬を我らから得たわけでもない。また我々が彼らにそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼らは我々の金銭や財宝を所有し、亡命先である我々の国で主人となっているのである。
もし盗人が10グルテン盗めば、この者は絞首刑にならねばならない。もし彼が街道で略奪を行えば、彼の首ははねられてしまう。ところが、ユダヤ人となると彼らが高利貸しによって10トンの金を盗んだ時でも、神様よりも大切に扱われるのである。

 ●強い敵意をもった有害な敵

 わが親愛なるキリスト教徒よ、それゆえに心よりユダヤ人たらんとするユダヤ人ほど、敵意を抱いた有害で強力な敵は、悪魔以外にはないということを知らなければならない。彼らのなかには牛やアヒルが信じることを信じる者もいるかもしれない。しかし彼ら全員が血と割礼の信仰に包まれているのだ。それゆえに歴史上、彼らはトレントやワイゼンシー等におけるように、しばしば井戸に毒を投げ込み、子どもたちを誘拐・殺害したかどで有罪を宣告されたのである。

 もちろん彼らはそれを否定する。だがそれが事実であるにせよないにせよ、秘密であるにせよないにせよ、そうしたことを行動に移すことが可能な場合には、それを実行するために十分かつ準備の整った意志が彼らに欠けているわけではない。こうしたことをしっかりと知ってほしい! そして、それに従って行動してほしいのだ!

 たまに彼らはよいことするかもしれない。しかし、それはあなたがたへの愛によるのでも、あなたがたの幸福のために行なわれるわけでもないということを、よくよく承知しておかねばならない。当然のことながら、彼らは、われわれの間に住む余地をつかむためになにかをしなければならない。だが、彼らの本心はすでに私が述べたとおりであり、今なお依然としてそうあり続けているのだ。

 あなたは私の言うことを信じられないだろうか。そのときは、リラ、ブルゲン、その他の高潔で信頼できる方々の書物を読んでみてほしい。万一それを彼らが書いていないと仮定しても、聖書は蛇と女性という二つの子孫が、他のだれよりもキリスト教徒と対立しており、神と悪魔のあいだにはいかなる妥協も存在しないことを明らかにしている。こうしたことは、彼らの著書や祈祷書にもまた粗野なかたちで描かれていることなのである。

 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他のだれよりもキリスト教徒に対してそんなにも敵意を抱くのか不思議に思うであろう。私たちとしては、彼らに善行のみを施すのだから、彼らがそうなる理由がわからないのだ。彼らは、われわれの祖国で、われわれの庇護のもとに住みついており、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。

 だが王侯や政府は、みすみす傍観し、鼾をかき、口を開けたままでおり、その財布や箪笥からユダヤ人が思いのままに取ったり盗んだり奪いとるのを許している。つまり王侯や政府は、自分と臣下がつけ込まれ、丸裸になるまで吸い取られ、自分自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。ユダヤ人は外国人なので、間違いなく何かを所有していたはずはなかった。したがって、彼らが現在所有しているものは、確実にわれわれの所有していたものに違いないのである。

 彼らは働かず、働いた報酬をわれらから得たわけでもない。また、われわれが彼らにそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼らはわれわれの金銭や財宝を所有し、亡命中のわが国で主人公となっているのだ。もし盗人が十グルテン盗むなら、この者は絞首刑にされねばならない。もしも彼が街道で掠奪すれば、首をはねら
れてしまう。ところがユダヤ人となると、高利貸しによって十トンの金を盗んだときでも、神御自身よりも大切に扱われるのだ。


 ユダヤ人達は密かに我々クリスチャンを呪う
 そして顕著な特傲として、彼らは自分達の間で次のように言い合う事で彼らの信仰と我々への激しい憎悪を強めているのである。
 「いかに神が我らと共にあるか、そして流浪の身である我々を見捨てていないかを見守り続けよ。我々は働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは我らの為に働き続けねばならない。我々は彼らの金銭を手に入れる。それ故我らは彼らの主人であり、彼らは我々の召使いである。イスラエルの子供達よ、事態は更に善くなって行くであろう。もし我らがかくの如くし続け異教徒達の「ヘムダート」(ヘプライ語の欲望、財産)を高利貸しによって我々のものにして行くなら、我々の救世主がやって来られるであろう」

 と。これら全てが我々が彼らを保護している間に彼らから被っている事なのである。彼らは、かくの如く我々を呪っているのだ。

 (歴史的な聖書注解の長い論述の後で、ルターがこの時代において既にタルムード及びシュルハン・アルクを知っていた事がわかる、大変興味深い一節が続いている。この事が、ルターのユダヤ問題に対する態度の変化を説明する)

 ユダヤ人達のタルムードやラビ達は次のように著述しなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺す事は罪ではない。しかし彼がイスラエルの兄弟を殺すならそれは罪である。もし彼が異教徒に対して彼の警約を守り続けなかったとしても罪ではない。それ故に異教徒から盗んだり略奪したりする事は(彼等が高利貸しにおいて為すのと同様に)神聖なる仕事なのである。というのは彼らは自分達が高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であり、一方我々は呪われたゴイムであるが故に、我々キリスト教徒に対し罪深くあり過ぎるという事は決してあり得ないという風に考えているのである。そして彼らは世界の主人であり、我々は彼らの召使い、そう彼らの家畜なのである。

 要するに、ラビ達が彼らに教えたように、そしてまた福音書の著者達が我々に告げたように、ユダヤ人達は、父母を祝福する事に関する第五の戒律を廃止したのである。(マタイ伝第15章6節「あなた方は『父又は母を敬わなくてもよろしい』と、言っている。こうしてあなたがたは自分達の言い伝えによって、神の言葉を無にしている」。また、マタイ伝第23章13節「偽善な律法学者、パリサイ入達よ、あなたがたはわざわいである。あなたがたは天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人々を入らせもしない」とあるように、彼らはより恥ずべき教義を実践してきているのである。マタイ伝第5章28節「しかし私はあなた達に言う。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである」も、言うに及ばぬ事である)

 彼らは十戎を何と狡滑に説教し解釈した事であろうか!そして彼らは神殿の中にお金の両替所や商人及びあらゆる種類の貪欲な商取引を持ち込んだ。主キリストは、彼らは神の家を盗賊の巣となしたといった事に符合する。神が御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ぱねばならぬとはなんと名誉な事であろうか。そのお住まいは何と栄光に輝く事であらうか。今やあなた達自身〔胸に手を当てて〕思い描いてみると良い。何故なら非常に多くの魂が貪欲で偽りの教義、即ち二重の偽善によって滅ぼされているのであるから。

 今日まで、ユタヤ人達はこのような教義にしがみつき、彼らの先祖達と同様に振舞っている。可能な所ではどこでも、そして彼らの子供達に教え続けられる所ではどこでも神の言葉を曲解し、貪欲で、高利賃を営み、盗み、殺人を犯しているのだ。

 ●ユダヤ人はひそかにわれらキリスト教徒を呪う

 さらに彼らの顕著な特徴として、自分たちのあいだで次のように言い合うことで、彼らの信仰とわれわれへの激しい憎悪を強めていることが挙げられる。 

 〈いかに神がわれらと共にあるか、そして流浪の身であるわれわれを見捨てていないか、見守り続けよ。われわれは働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは、われわれのために働き続けなければならない。われわれは彼らの金銭を手に入れる。それゆえにわれらは彼らの主人であり、彼らはわれわれの召使いである。イスラエルの子どもたちよ、事態はさらに良くなっていくであろう。もしもわれわれがかくのごとく継続し、異教徒たちの「ヘムダート」(欲望、財産:ヘブライ語)を高利貸しによってわれわれのものにしてゆくならば、われわれの救世主がやって来られるであろう〉

 (歴史的な聖書注釈の長い論述のあとに、すでにこの時代にルターが「タルムード」〔ユダヤの律法とその解釈〕と「シュルハン・アルク」を知っていたことがわかる大変興味深い一節が続いている。このことが、ルターのユダヤ問題における態度の変化を説明する)

 ユダヤ人の「タルムード」やラビたちは次のように述べなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺すことは罪ではない。しかし、彼がイスラエルの兄弟を殺すなら、それは罪である。もし彼が異教徒に対して誓約を守り続けなかったとしても罪ではない。それゆえに、異教徒から盗んだり掠奪することは(彼らが高利貸しで行なうのと同様に)神聖なる仕事なのである。なぜならば、彼らは高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であるが、一方のわれわれは呪われたゴイムなので、われわれキリスト教徒に罪深くありすぎることは決してあり得ないというふうに考えているからである。そして、彼らは世界の支配者であり、われわれは彼らの召使い、そう、彼らの家畜なのである。

 要するに、ラビが彼らに教えたように、そしてまた福音書の著者がわれわれに告げたように、ユダヤ人は父母を祝福する第五の戒律を廃止したのである(「『……父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」マタイ伝第十五章六節)。

 また、マタイ伝第二十三章十三節(「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです」)にあるように、彼らはより恥ずべき教義を実践したのである。マタイ伝第五章二十八節(「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」)も言うにおよばぬことである。彼らは十戒を、なんと狡猾に説教し、解釈したことであろうか!

 そして彼らは神殿のなかにお金の両替所や商人およびあらゆる種類の貪欲な商取引を持ちこんだ。それは主キリストが、彼らは神の家を盗賊の巣にしたと言ったことである。神御自身のお住まいを盗賊の巣と呼ばねばならぬとは、なんと名誉なことであろうか。その住まいは、なんと栄光に輝くことであろうか。いまやみずから〔胸に手を当てて〕思い描いてみるとよいのだ。非常に多くの魂が、貪欲で偽りの教義すなわち二重の偽善によって失われているのだから。

 今日までユダヤ人はこのような教義にしがみつき、彼らの先祖たちと同様に振る舞っているのである。可能なところではどこでも、そして彼らの子どもたちに教えられるところではどこでも、神の言葉を曲解し、貪欲で、高利貸しを営み、盗み、そして殺人を犯しているのだ。


 異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード

 異教徒の哲学者や詩人達は神の統治や来世についてのみならず、現世の美徳について彼らよりはるかに立派に著述している。キケロや、彼に同様な人々によって示されたように、人間は生まれつき他者に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、特に必要な時には、彼らに対して、誠実で役に立たねばならないと彼らは記述しているのである。

 さて、私は三つのイソップ物語の中にはタルムード主義者やラピ達のすぺての著書の中によりも、そしてユダヤ人達の心の中にこれまでに育まれてきたあらゆるものよりも、さらに多くの知恵が存在している事を主張したいと思う。人は私が少し言い過ぎていると思うかもしれない。しかし、私は云い過ぎどころか、あまりにも少ししか言っていないのだ! と云うのは、私は、彼らがその著書の中でいかに我々ゴイムを呪い、自分達の学校や礼拝の場で、我々に災いがふりかかる事をどれほど望んでいるか、良く理解しているからである。

 彼らは高利貸しによって我らの金をかすめとり、可能な場所ではどこであっても我々をあらゆる種類の策略にかけるのである。何よりも悪い事に彼らは、この点においてそうする権利を持っていると確信しており、うまくやってのけようとしているという事である。つまり、彼らは自分達がそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、また彼らはそうした事がなされるぺきだと教えているのである。
 
 悪魔自身、そして悪魔が取りついている者(ちようどユダヤ人のように)以外に、いかなる異教徒もそんなことはした事はなく、また、これからも誰もそうすることはあり得ないであろう。減多に起こらぬ事なのだが、博識なラビで、神の恩寵によりキリスト教徒となったブルゲンシスは、自分達の宗派において彼らがキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)という事実に心を動かされ、この事から自分達は神の子ではないという結論に達した。何故なら、もしも彼らが神の子であるなら、彼らは捕囚されたユダヤ人達がバビロンで振舞ったのと同様に振舞うであろうから。

 即ちエレミヤはこの人達に開して次のように記してい
る。
 「汝らを捕囚している都市の王の為に祈りなさい。彼らの平安は又汝らの平安なのだから」。

 しかしながら、我が下劣でにせ者のユダヤ人達は彼らが可能な所ではどこても、そして彼らにできる事であればなんでも、何の理由もなしに我々を呪い、憎み、害悪を与えねばならないと考えているのである。だから彼らが神の子ではない事は確賞な事なのである。この点に開しては後に更に述ぺる事としよう。

 ●異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード

 異教徒の哲学者や詩人は、神の統治や来世のみならず、現世の美徳についても、彼らよりはくかに立派に著述している。キケロや彼と同様な人びとによって示されたように、人間は生まれつき他人に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、とくに必要なときには、彼らに対して誠実で役に立たねばならないと彼らは記述している。

 そう、三つのイソップ物語のなかには、タルムード主義者やラビのどの著作よりも、これまでユダヤ人の心のなかに育まれてきたあらゆるものよりも、さらに多くの知恵が含まれていると主張したいと思う。少々私は言いすぎではないかと思う人がいるかもしれない。だが、言いすぎどころか、私はあまりにもわずかしか言っていない! というのは、彼らがいかにわれわれゴイムを著作のなかで呪い、自分らの学校や礼拝の場でわれわれに災いが振りかかることをどれほど望んでいるか、私はよく理解しているからである。

 彼らは、高利貸しによってわれらの金を掠め盗り、可能な場所ではどこでも、われわれをあらゆる種類の策略にかけるのである。なによりも悪いことに、彼らはこの点において、そうする権利をもっていると確信しており、うまくやってのけようとしているということである。つまり彼らは、自分たちがそうすることで神に奉仕していると思っているのであり、またそうしたことがなされるべきだと教えているのである。

 悪魔自身と、そして悪魔が取り憑いている者(ちょうどユダヤ人のように)以外、いかなる異教徒もそんなことをしたことはなく、またこれからも誰も、そうすることはあり得ないであろう。
 滅多に起こらぬことなのだが、博識なラビで、神の恩寵によってキリスト教徒となったブルゲンシスは、自分たちの宗派でユダヤ人がキリスト教徒を恐ろしいほどに呪っている(リラも記しているように)という事実に心を動かされ、このことから自分たちが神の子ではないという結論に達した。もしも彼らが神の子であれば、彼らは捕囚の身となったユダヤ人たちがバビロンで振る舞ったのと同様に振る舞うであろうからだ。

 すなわちエレミヤは彼らについて次のように記しているように。

 〈あなたがたを捕らえている都市の王のために祈りなさい。彼らの平安はまたあなたがたの平安なのだから〉

 しかし、わが国の下劣で偽者のユダヤ人たちは、可能なところではどこでも、そして出来ることであればなんでも、なんの理由もなしにわれわれを呪い、憎み、危害を加えねばならないと考えている。従って、彼らが神の子でないことは確実なのである。この点については、あとでさらに述べることにしよう。  


 彼5はイエスの御名を冒涜する

 (偽りの名でイエスに対する自分達の憎しみを隠し持っているユダヤ人のすれっからしなやり方に対する諸論述は、大変興味深いものがる。ここでは次のように云われている)

 それ故に彼らはイエスの御名を次のように扱う。へブライ語で「」Jesus」は「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人は「Heirichi」またば「Hiprichi] という名称を用いた。それは我々が現在「Helprich」と呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしながらユダヤ人達は故意にねじまげて彼を「Jesu」と呼ぶ。それはヘブラィ語では名前でも言葉でもなく、単なる3つの文字か、数字か、暗号でしかない。

 それはあたかも私が「CLU」という文字を数字と見なし、「CLU」を155であるとするようなものである。(CLU:ローマ字ではC−100、L−50、Vー5=155。VとUは語源的には同じである) かくして彼らはイエスJesuを316と呼ぶのである。その様な数字は「Nebel Borik」を意味するもう一つの単語を連想させるといわれている。この点について読者はアントン・マルガリタムの著書においてより多くの事を学ぺるであろう。

 ユダヤ人達はそれらの数字や単語を使って何という悪魔的な所業をなしている事であろうか。彼らは我々キリスト教徒を同様のやり方で扱うのである。我らが彼らを訪問し、彼らに迎え入れられた時、彼らは「神があなたを歓迎する」(ドイツ語ではGot wilkommen)という言葉をねじ曲げて、「Shed wil kom」即ち「悪魔よやってこい」又は「悪魔がやってくる」と云う。彼らは、我々がヘプライ語を理解できないのを良い事に密かに我らに対する呪いをかけているのである。つまり、ユダヤ人達が我々を地獄とあらゆる災厄の炎で呪っているというのに、我々は彼らが友好的なのだと思っているわけである。

 ●彼らはイエスの御名を冒涜する

 (偽りの御名でイエスに対して憎しみを隠しもつユダヤ人たちの擦れっからしなやり方についての諸論述はたいへん興味深いものがあるが、ここでは次のように述べている)

 それゆえに彼らは、イエスの御名を次のように扱う。ヘブライ語でJhesusは「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人はHeiprichまたはHiprichという名称を用いた。それは、われわれが現在Helprichと呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしユダヤ人たちは、それを故意に捩じ曲げて、彼をJesuと呼ぶ。これはヘブライ語では名前でも言葉でもなく、単なる三つの文字か数字か暗号でしかない。それはあたかも私が、CLUという文字を数字と見なし、CLUを155とするようなものである(CLU=ローマ字ではC‐100、L‐50、V‐5‐155。VとUは語源的には同じである)。

 かくして彼らはイエスJesuを316と呼ぶのである。そのような数字は Nebel Borikを意味するもう一つの単語を連想させるといわれている。この点について、読者はアントン・マルガリタムの著作でより多くのことを学べるであろう。ユダヤ人はそれらの数字や単語を使ってなんという悪魔的な所業を行なっていることか。

 彼らはわれわれキリスト教徒を同様のやり方で扱う。われわれが彼らを訪問し、彼らに迎えられたとき、彼らは「神があなたを歓迎する」(ドイツ語では Gott wilkommen)という言葉を捩じ曲げて「Shed wil kom」すなわち「悪魔よやってこい」ないし「悪魔がやって来る」と言う。われわれがヘブライ語を理解できないのをいいことに、彼らはひそかにわれらを呪っているのである。つまり、ユダヤ人がわれわれを地獄とあらゆる災厄の炎で呪っているというのに、われわれは彼らが友好的だと思っているというわけである。


 彼らは処女マリアを売春婦と呼ぶ
 かくして彼らは彼(イエス)を売春婦の子と呼び、彼の母マリアを売春婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。まことに不本意な事であるが、私は悪魔と闘うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人達がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受け入れてしまわぬよう、我らの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。

 サバスティアヌス・ムエンスターもまた彼の自著「Biblia」の中で、聖母を「マリア」と呼ばず、「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると云われていると指摘している。そして、ユダヤ人達が彼らの仲間内だけでなしているもっと多くのことを誰も知る事はできないのである!

 (ルターは救世主やバーコハブについての入念で厳密な議論においてユダヤ人的性格、彼らの著書、願望に開する彼の博識の完全さを示し、最後に、いわゆるキリスト教徒の中に於ける「捕囚」の問題に到達する)

 彼らが我々の内部に捕囚された事を嘆くのは、全く途方も無いひどい嘘であることを良く知っておいて欲しい。エルサレムは1400年以上前に破壊された。〔70年陥落、神殿炎上。叛乱軍の残党、死海西岸のマサダ砦に立て籠もって抵抗するも陥落、シカリ党全員自決(〜74)〕。それ以来、 我々キリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受け続けているのである。凡そ1300年近くにわたって(上記のごとく)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し殺害したと訴えるのは正当な事なのである。その上、今日にいたるまで我々はどんな悪魔が彼らを我々の国へ連れ来たったのか知らない。我々が彼らをエルサレムから連れてきたわけではないのだ!

 これらすぺてに加えて、誰も彼らを今日において拘束しているわけではない。土地も公道も彼らに開放されている。彼らがその気になればいつでも自分達の国へ移動できるのである。我々は彼らから自由になるために彼らに提案をしたい。彼らは我々の国にあって疾病やペストそして災難以外の何物でもない、我々にとっての重い荷物である。ある人間が自らの家の中である者に我慢ならぬ時、読者はそ奴を捕らえられていると云うであろうか。

 彼らはなぜ我々キリスト教徒を我々の国の中で捕囚の身とする事ができるのだろうか。彼らはなぜ我々を額に汗して働かせ、一方、自分達は暖かいストーブの後ろに座っていて金や商品を所有しているのであろうか。なぜ彼らは怠け者の大食漢や大酒のみで、我々が働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、呪うぺき彼らの高利貧しによって我々及ぴ我々の財産を略奪するのであろうか。なぜ彼らは我々を嘲り、我々の上に唾を吐きかけるのてあろうか。

 何故なら我々は自分達を犠牲にして働かねばならず、彼らが貴族であるのを許さねばならないのだから。かくして彼らは我々の王であり主人なのである。我々は自らの財産と汗と労働を以て彼らの召使いなのである! 
そして彼らは我々に感謝し、報いんが為に我らの主を呪っているというわけなのである!

 ●彼らは聖母マリアを娼婦と呼ぶ

 かくして彼らは、彼(イエス)を娼婦の子と呼び、彼の母マリアを娼婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。実に不本意なことであるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。

 彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受容してしまわぬよう、われらの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。サバスティアヌス・ムンスターもまた自著『聖書Biblia』のなかで聖母を「マリア」と呼ばず「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると指摘している。そして、われわれが知らない、ユダヤ人たちが仲間内だけで行なっているもっと多くのことは誰も知ることはできない!(ルターは、救世主やバーコハブについての入念で厳密な議論でユダヤ人的性格、その著書、願望に関する学識の完全さを示し、最後にキリスト教徒のなかにおけるいわゆる「捕囚」の問題にたどり着く)

 われわれが彼らを捕囚の身にしていると嘆くのは、なんともまったく途方もなくひどい嘘であることをよく知ってほしい。

 エルサレムは千四百年以上前に破壊された〔七〇年陥落、神殿炎上。叛乱軍の残党、死海西岸のマサダ砦に立て籠もって抵抗するも陥落、シカリ党全員自決(〜七四)〕。それ以来、われわれキリスト教徒は世界中でユダヤ人によって苦しめられ、迫害を受けてきた。およそ千三百年近くにわたって(前述のように)ずっと彼らはキリスト教徒を捕獲し、殺害してきたと訴えることは正当なことである。そのうえ今日まで、われわれはどんな悪魔が彼らをわが国へ連れてきたかわからないままになっている。彼らをエルサレムから連れてきたのはわれわれではない!

 かてて加えて、今日だれも彼らを拘束してはいない。彼らには、土地も公道も開放されており、その気になればいつでも自分たちの国に移動できる。彼らから自由になるために、われわれは彼らに提案をしたい。彼らはわが国のなかの疾病やペスト、災難以外のなにものでもない。われわれにとって重い荷物なのである。ある人間が自分の家のなかのある者に我慢ならぬとき、彼は捕らえられていると言うであろうか。

 なぜ彼らは、われわれキリスト教徒を、われわれの国のなかで捕囚の身にすることができるのだろうか。なぜ彼らは、われわれを額に汗して働かせ、自分たちは暖かいストーブの前に座って金や商品を所有しているのであろうか。彼らはなぜ怠け者の大食漢や大酒飲みで、われわれが働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、呪うべき高利貸しによって、われわれとその財産を掠奪するのであろうか。彼らはなぜ、われわれを嘲り、唾を吐きかけるのであろうか。

 われわれは自分を犠牲にして働かねばならず、彼らが貴族であることを認めなければならないからである。かくして彼らは、われわれの王であり支配者なのである。われわれはみずからの財産と汗と労働を捧げる彼らの召使いなのである! つまり、彼らはわれわれに感謝し、われわれに報いんがために、わが主を呪っているというわけである!


 彼らは我々の富をつかって我らを奴隷とする

 こうしたやり方で悪魔が我々キリスト教徒の間に自分の天国を持つ事ができた暁には、悪魔は笑い踊るのではなかろうか。そこでは彼の使徒であるユダヤ人を通して悪魔は我々の所有物をむさぼり食らい、我々に感謝して神と人間を冒涜し呪い、我々の口と鼻を呪詛で満たすのである。彼らがダピデ王やソロモン王の下でのエルサレムで自分が所有していたものは、我々の下で日々盗み略奪しているほどではなく、これほどに良き日々を享受する事はできなかったのである。

 それでも彼らは、我々が彼らを捕囚していると文句をいうのだ。そうなのだ、我らはユダヤ人達を所有し、捕囚している。丁度私が自分のリューマチや「肺病」や、他のすぺての病や不幸を持ち続けているように。誰が自分の持つ金や財産やすぺての物を持参してまで貧しい召使いとして待っていなければならないのか。私は、それらの災いがユダヤ人とともに、そしてまた彼らと一緒に居たい者は誰でもエルサレムへ行ってくれれぱと心より願う! 

 我々が彼らを捕囚しているわけではない事は明らかなのに、あれ程偉大で高貴な聖人達が、どうして我々に対してそれほどまでに怒りを露にするのであろうか? 彼らはイエスの母マリアを娼婦と呼ぶが、我々は自分の妻を娼婦とは呼ばないし、彼らはわが主を私生児と呼ぶが、我々は彼らを私生児とは呼ばない。我々は、彼らを呪わず、あらゆる種類の肉体的および精神的な幸せが彼らの上にあるよう祈り、我々と一緒に暮らすことを認めている。彼らの子どもを誘拐したり、切り刻んだりなどしない。彼らの水に毒を入れないし、彼らの血を渇望することもない。

 何によって我々はかかる神聖なる神の子達の恐ろしい怒り、妬み、そして憎しみに値するのであろうか? 神が正気とはおもえぬ無分別と荒れ狂う心を持って彼らを処罰したという事は我々がモーセから引用したとおりである。

 かくしてユダヤ人達がエルサレム崩壊後の1300年間にわが主やキリスト教徒、そして(まだその目や肌に揮きがある)子供達に流させた汚れのない血に対して仕返しをしなかったということは、我々の失敗であった。我々が彼らを殺害せず、彼らの全ての殺人、呪い、冒涜と恥辱に対してとがめもせずに我らの間に住まうことを許し、彼らの学校、家、身体、財産を守り、それによって彼らを怠惰にし、彼らが我々から金銭や財産を絞りとるのを信頼して保証し、手助けした。

 ところが、彼らは我々をあざけり、つばを吐きかけ最終的には彼らが我々に勝利し、その様な大きな罪によって我々全員を殺害し、我々の財産のすぺてを持ち去る事を望み、日々祈っているのである。こうしたすぺての事は我々の失敗である。教えて欲しいものだ。彼らには我々呪われたゴイムを僧み、呪って我々の最終的で完全な、そして永遠の没落を求める大きな動機がないのだろうか?

 今や、我々キリスト教徒は、この捨てられ、呪われた民、ユダヤ人をどう扱ったらよいのであろうか? 我々の間に入りこんでいて、その虚偽と神と呪いの多くが我々に知られている彼らに、我々は我慢がならないのである。我々、彼らの嘘や呪いや神の共犯者とならないよう、黙って悩んでいるべきではない。我々は、(預言が述べているように)消すことのできぬ神の怒りを鎮めることはできないし、彼らはまた改宗しようともしない。我々が、彼らの一部でも火と灰のなかから救い出そうと欲するならば、祈りと敬虔さを持ってその炎と激しい熱の中から数人でも救ひ出せるよう大いなる手荒な慈悲を実践しなければなるまい。復讐は許されていない。復讐心は、我々が彼らに抱くよりも千倍も大きくなって自らの首に纏いつくだろう。

 私の本当の意見をあなたがたに述べることにしよう。第一に、我々は、彼らの会堂と学校を避け、また人々にそれらに対して反対するように警告せよ。こうした事は、神とキリスト教会の栄光のためになされるべきことである。そしてまた、我々がキリスト教徒であり、神の御子とキリスト教徒に封するそのような嘘や呪いや冒涜を承知の上でそれに封して寛容なのではない事を神にわかっていただくようになされるぺきである。何故なら、我々が無知で寛容である限り(私自身もその事を知らなかった)我々をお許しになるであろうから。

 しかしながら、我々がそれを知った今は我々の目と鼻の先で、ユダヤ人達がキリストと我々を冒涜し、呪い、つぱを吐きかけ、恥辱をもたらしているにも拘らず、そのようなユダヤ人達の建物に対して我々が寛容であるなら、良く御存知の如く、それはあたかも我々自身かそれをなしたか、あるいはもっと悪い事をなしたのと同様に大変な事になるだけなのである。

。モーセは「申命記」のなかで、偶像崇拝を行なっている都市は完全に火で燃やし、なにも残すべきではないと記している。もしモーセが今日存命なら、彼はユダヤ人の会堂や学校に火をつける最初の人間になるであろう(聖書の証言に従えば)。


 第二に、あなたがたは、彼らが自分の家を我々の間に建てることを拒否せねばならない。なぜなら、彼らは家庭でも会堂と同じことをしているからである。その代わりに、彼ら自身が主張しているように我々の土地の主人ではなく、捕らわれた放浪の身であることを知らしめるために、ジプシーのように軒先か馬小屋に収容してもよいであろう。これこそが、休みなく血生臭い殺人を吠え立て、神の御前で我々キリスト教徒に不平をこぼす彼らにふさわしいことなのである。

 第三に、虚偽と呪いと神を説く彼らの祈祷書とタルムードの写本を全部没収すべきである。

 第四に、彼らのラビの説教を禁止せよ。彼らは貧しいユダヤ人たちをモーセの章句(申命記第7、11、12章)の虜にし、仕事をする権利を剥奪したからである。モーセの章句では、そうしなければ身体と魂を失うとして、彼らのラビに従うよう命じている。けれども、モーセは明確につけ加えている。「主の律法にもとづいて彼らが教えることに関しては」と。このことを不心得者たちは見過ごしているのだ。そして、主の律法に逆らって、彼らの恣意に貧しい人びとが服従するのを利用して、そのような毒と神をふり注いでいるのである。

 
第五に、街道におけるユダヤ人の保護を廃止せよ。彼らは貴族でも役人でもないし、元々我が国にいる権利はないからである。彼らは家にとどまるべきなのだ。現在わが国では、ある金持ちのユダヤ人が12頭立ての馬車に乗っていると聞いている。そのユダヤ人はコホバ(Star Bar Kochab、「星の息子」、この偽メシアは紀元132−5年にかけてローマに対するユダヤ人の最後の反抗のリーダーであった)になりたがっているのだ。彼は高利貸しを王侯や貴族、地域住民、民衆に対して営んでいるが、高官たちはそれを黙認している。

 高官たちはこの件に関して黙認している。もしあなたがた、王侯及び諸侯の方々がこうした高利貸し達に対してこの地に住み、街道を往来する事を禁じないならば私はあなた達に封抗するために騎兵を集めたいと思う。何故なら、あなた方はこの書物を通してユダヤ人とは何者であるか、また彼らがいかに扱はれるぺきか、そして彼らの行動が保護さるぺきではないという事がよくわかったであろうから。

 彼らの醜悪な行為のパートナーになりたくなければ、あなた方は彼らを保護すべきでないし、またそうすることはできない筈である。あなた方がたとえ彼等の事をよく配慮してやったとしても、その結果は良くてもあなた方が減びるだけの話しなのである。

 第六に、ユダヤ人達にとって異国の土地において、自分の国の中の主人公でもない場所においては彼らの高利貸しは禁止されるぺきてある。それはモーゼによって禁ぜられていたのであり、すぺての貨幣、銀、そして金は没収し、保管のために持ち去られるぺきである。

 そういう訳で、彼らはほかに収入はないのだから、彼らが所有しているすぺでのものは高利賃しによって(上述のごとく)我々から盗み略奪したものなのである。その様な財宝は次の如く使用されるぺきである。即ち一人のユダヤ人が真に改宗した際にはいつでも、彼の人柄に応じて彼が自分の貧しい妻子や老人や弱者達を養うために1、2あるいは300フロ(金銭の単位)が与えられるであろう。不正に獲得されたかかる財産は、それが神の祝福を受けられるような正当な使用がなされぬ限り呪われたものとなってしまうからである。

 ●彼らはわれわれの富を使ってわれらを奴隷にする

 こうしたやり方で、われわれキリスト教徒のなかに天国をもつことができた暁には、悪魔は笑い踊るのではなかろうか。そこでは、悪魔の使徒であるユダヤ人を通じてわれわれの所有物を貪り喰らい、われわれに感謝して神と人間を冒して呪い、われわれの口と鼻を呪詛で満たすのである。ダビデ王〔前九九七ころ〜前九六五ころ〕やソロモン王〔前九六七ころ〜前九二八七〕統治下のエルサレムで彼らが所有していたものは、われわれのもとで日々盗み掠奪しているほどではなく、今ほどよき日々を享受することはできなかった。それでも彼らは、われわれが捕囚の身にしていると文句を言う!

 そうなのだ、われわれはユダヤ人を所有し、捕囚の身にしている。ちょうど私がリューマチや「ねぶと」、その他の病、不幸を一身に背負いつづけているように。お金と財産とすべての所有物を持参し、貧しい召使いとして傅きたいと願う者は誰か! 私は、そうした災いはユダヤ人と共に、さらに彼らと一緒にいたいと願う者も含めて、エルサレムに行ってくれればと心より願っている!

 彼らを捕囚の身にしていないのは明らかなのに、あれほど偉大で高貴な聖人たちが、なぜそれほどまでにしてわれわれに怒りを露にするのだろうか? 彼らはイエスの母マリアを娼婦と呼ぶが、われわれは自分の妻を娼婦とは呼ばないし、彼らはわが主を私生児と呼ぶが、われわれは彼らを私生児とは呼ばない。われわれは、彼らを呪わず、あらゆる種類の肉体的および精神的な幸せが彼らの上にあるよう祈り、われわれと一緒に暮らすことを認めている。彼らの子どもを誘拐したり、切り刻んだりなどしない。彼らの水に毒を入れないし、彼らの血を渇望することもない。

 なにゆえに、われわれは、かかる神聖な神の子の恐ろしい怒り・妬み・憎しみに値するのだろうか? 神が正気とは思えぬほどの無分別と荒れ狂う心をもって彼らを処罰したのは、モーセから引用したとおりである。

 かくして、エルサレム崩壊後の千三百年間にユダヤ人のせいでわが主やキリスト教徒、そして(まだその目や肌に輝きのある)子どもたちが流した穢れなき血に対して報復しなかったことは、われわれの失敗であった。

 彼らを殺害せず、彼らの殺人・呪い・冒涜・恥辱を咎めもせずにわれわれの間に住むことを許し、彼らの学校・家・身体・財産を守り、そうすることによって彼らを怠惰にし、彼らを信頼してわれわれから金銭や財産を搾取することを保証し、助けた。ところが、彼らはわれわれを嘲り、唾を吐きかけ、最終的に彼らが勝利し、大罪を犯してわれわれ全員を殺害し、その財産のすべてを強奪することを願い、日々祈っているのだ。こうしたことがすべて、われわれキリスト教徒の失敗だったのである。

 教えてほしいものだ。彼らには、われわれ呪われたゴイムを憎み、呪い、われわれの最終的で完全な、そして永遠の没落を求める大きな動機はないのか? いまやわれわれキリスト教徒は、この捨てられ、呪われた民、ユダヤ人をどう扱ったらよいのであろうか? われわれの間に入りこんでいて、その虚偽と神と呪いの多くがわれわれに知られている彼らに、われわれは我慢がならないのである。われわれは、彼らの嘘や呪いや神の共犯者とならないよう、黙って悩んでいるべきではない。われわれは(預言が述べているように)消すことのできぬ神の怒りを鎮めることはできないし、彼らはまた改宗しようともしない。彼らの一部でも火と灰のなかから救い出そうと欲するならば、祈りと敬虔に加えて手荒な慈悲をも用いなければなるまい。復讐は許されていない。復讐心は、われわれが彼らに抱くよりも千倍も大きくなって自らの首に纏いつくだろう。

 私の本当の意見をあなたがたに述べることにしよう。第一に、彼らの会堂と学校を避け、それらに反対するよう、国民に警告せよ。これは神とキリスト教会の栄光のためになされるべきことである。また、われわれがキリスト教徒であり、神の御子とキリスト教徒に対するそうした虚偽と呪いと神を承知したうえで、それらに寛大ではないことを神にわかっていただくようにすべきである。なぜなら、われわれが無知で寛大でないかぎり(私自身もそのことを知らなかった)われわれをお許しになるであろうから。

 けれども、このことを知ったいま、われわれの目と鼻の先でユダヤ人がキリストとわれわれキリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐きかけ、恥辱を与えているにもかかわらず、そうしたことが行なわれているユダヤ人の建物にわれわれが寛大であるなら、ご承知のように、あたかもわれわれ自身が行なったか、あるいはもっと悪いことをしたのと同じことになり、大変になるだけなのである。モーセは「申命記」のなかで、偶像崇拝を行なっている都市は完全に火で燃やし、なにも残すべきではないと記している。もしモーセが今日存命なら、彼はユダヤ人の会堂や学校に火をつける最初の人間になるであろう(聖書の証言に従えば)。

 第二に、あなたがたは、彼らが自分の家をわれわれの間に建てることを拒否せよ。彼らは家庭でも会堂と同じことをしているからである。その代わりに、彼ら自身が主張しているようにわれわれの土地の主人ではなく、捕らわれた放浪の身であることを知らしめるために、ジプシーのように軒先か馬小屋に収容してもよいであろう。これこそが、休みなく血生臭い殺人を吠え立て、神の御前でわれわれキリスト教徒に不平をこぼす彼らにふさわしいことなのである。

 第三に、虚偽と呪いと神を説く彼らの祈祷書とタルムードの写本を全部没収せよ。

 第四に、彼らのラビが教えることを禁止せよ。彼らは貧しいユダヤ人たちをモーセの章句(申命記第七、十一、十二章)の虜にし、仕事をする権利を剥奪したからである。モーセの章句では、そうしなければ身体と魂を失うとして、彼らのラビに従うよう命じている。けれども、モーセは明確につけ加えている。「主の律法にもとづいて彼らが教えることに関しては……」と。このことを不心得者たちは見過ごしているのだ。そして、主の律法に逆らって、彼らの恣意に貧しい人びとが服従するのを利用して、そのような毒と神をふり注いでいるのである。

 第五に、街道におけるユダヤ人の保護を廃止せよ。彼らは貴族でも役人でもないし、もともとわが国にいる権利はないからである。彼らは家にとどまるべきなのだ。現在わが国では、ある金持ちのユダヤ人が12頭立ての馬車に乗っていると聞いている。そのユダヤ人はコホバになりたがっているのだ。彼は高利貸しを王侯や貴族、地域住民、民衆に対して営んでいるが、高官たちはそれを黙認している。

 もしもあなたがたと王侯および諸侯の方々が、こうした高利貸したちがこの土地に住み、街道を往来することを禁止しないなら、私はあなたがたに対抗するために騎兵を集めたいと思う。というのは、あなたがたはこの書物を通してユダヤ人とは何者であるか、また彼らがいかに扱われるべきか、そして彼らの行動が保護されるべきではないことがよくわかったであろうから。彼らの醜悪な行為の共同者になりたくなければ、あなたがたは彼らを保護すべきではないし、またそうすることもできないはずだ。たとえ彼らに配慮したとしても、結局はあなたがたが滅びるだけのことなのである。

 第六に、ユダヤ人にとって異国の地、つまり自国の主人ではない場所においてユダヤ人が高利貸しを営むことを禁止せよ。それはモーセによって禁じられたことであり、貨幣、金銀は一切とりあげて保管すべきである。そういうわけで、彼らには他に収入はないのだから、彼らが所有しているすべてのものは高利貸しによって(前述のごとく)われわれから盗み、掠奪したものなのである。そうした財宝は次のように使われるべきである。つまり、ユダヤ人が本当に改宗した場合に、その人柄に応じて自分の貧しい妻子や老人や弱者を養うために百〜三百フロ(貨幣単位)与えることにする。不正に取得されたかかる財産は、神の祝福を受けられるような正当な使用方法を採用しないかぎり、呪われたものとなってしまうからである。


 彼らはモーセを裏切る事さえする

 ユダヤ人達はいつでも、モーゼが異邦人に封し高利貸しを営む事を彼らに許可したのだと公言する。(申命記第23章20節「異邦人からは利息を取って貸しても良い。ただ兄弟同胞からは利息を取って貸してはならない。これはあなたが入って行き住み着いている地で、あなたの神、主がすぺてあなたのする事に祝福を与えられるためである」。) これ以外には彼らに有利な章句は何もない。

 彼らには以下のごとき解答が与えられている。即ち、二種類のユダヤ人又はイスラエル人が存在する。一つは、神がモーゼに命じたごとく、モーセに導かれてエジプトを出てカナンの地に入った者達。モーゼは、彼らに対して神の戒律を与え、彼らば外国に出ることなく彼らの国土でひたすらメシアの到来までその戒律を守り続けていた。もう一つは、モ−セのユダヤ人ではなく(ローマ)皇帝のユダヤ人である。彼らは統治者ピラトの時代のユダの地に起源を持つ。ピラトが法廷の場で「キリストと呼ばれるイエスについて余はどうすぺきなのか」とユダヤ人に尋ねた時、彼らは叫んだ。彼を十字架にかけよ!彼を十字架にかけよ!」。 ピラトは言った。「お前達の王を十字架にかけるのか」と。彼らは叫ぷ。「皇帝以外に我らは王を持たぬ」と。神は、このやうな皇帝への服従をユダヤ人達に命じだことはなかったのであるが、彼らは自発的にこれをなしたのである。

  しかし、皇帝が服従を命ずると、すぐに反抗し、皇帝に歯向かって臣下となることを望まなかった。そこで皇帝はユダヤ人をエルサレムから追放し、彼の領土に完全に分散させ、その地において彼らは服従せざるを得なかったのである。

 現在ユダヤ人というクズどもがいるのはこうした事情によるものである。彼らの事はモーゼは何も知らない。ユダヤ人達もモーゼについて何も知ちない。彼らはモーゼの一節も暗唱していないのだから。彼らはまずカナンの地に戻り、モーゼのユダヤ人となって彼の戒律を守り異教徒や異邦人達を平定せねばならない。そこで彼らは異邦人達が許容する限りにおいて高利貸しを営めば良いのだ。

 だが彼らがローマ皇帝の領土である外国にいてモーゼの教えに従おうとしないのであれば、彼らは皇帝の法を守り、モーゼの戒律に徒うようになるまでは、彼らより身分が上位の方達に逆らって高利貸しを営むぺきではない,と云うのは、彼らが所有すぺき土地、あるいはイスラエルの国とはカナンの反対側の岸であるからである。

 モーゼは彼らをエジプト人やバビロニア人あるいは他のどんな国民の下へ連れて来たのでもなく、自ら申命記の中でしばしば述ぺているごとく、エジプトを出てカナンの地に連れて来られただけなのである。彼らは、ヨルダン河の反対側に所有するとした領土においてその様な戒律を守るぺきである。

 ほとんどモーゼによって作られた聖織者達、儀式、公国君主の権力に関する限り、それらは既に1400年以前に崩壊してしまったのであるが、その時代以前に存在したモーゼの律法もまた崩壊し終わりをむかえた事は確実である。それ故に、皇帝治下でのユダヤ人達は皇帝の法によって扱われるぺきであり、1400年間一人も存在しなかったモーゼのユダヤ人のように扱われるぺきではないのである。彼らはモーゼによって自分達が高利貸しを許された自らの国土を持たず、ましてや外国の領土を持たぬのであるから、そうするのが至当なのである。

 そして最終的には、若く頑強なユダヤ人達には(麦打ち用の)「から竿」や斧、踏みすき紡錘が与えられて、アダムの子達に課せられているのと同様に、自分達のパンを額に汗して稼がせるぺきである。創世紀第3章19節「あなたは顔に汗してバンを食ペ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから塵に掃らねばならない」。

 彼ら神聖なる民族がストーブの後ろにいて、怠けながら我らのバンをむさぼり喰らい、さらに自分達がキリスト教徒のご主人様であるなどとホラを吹きつつ、我ら呪われたゴイムをして額に汗して働かすぺきであるなどと言う事を許しておくぺきではない。彼らの怠借は彼らの過去からもたらされたものなのである。

 しかしながら、彼らが我々に奉仕させられたり、働かされた時には、彼らは我々、我々の妻、子供達、召使い、家畜などを身体的に傷つける可能性がある。何故ならその様な労働になれていない世界の高貴な王侯達、つまり有毒な苦い姐虫どもは呪われたゴイム達の下で自分達を卑しめる行為を為すのには極めて不熟心であろうからである。

 我々はフランスやスペイン、ボヘミア及びその他の地域での諸国民のユダヤ人に対する、ごくあたりまえな知恵を採用しよう。これらの諸国民達は、ユダヤ人達が高利貸しによってむさぼり取った額を計算させ、それを平等に分配したのである。その上で彼らをそれらの国から追放したのである。

 既に話したように彼らに封する神の怒りは非常に大きいので、穏やかな慈悲によってでは彼らはより罪深くなるだけであり、ただ苛烈な仕打ちによってのみ少しはましになるのである。それ故彼等を追放しょうではないか!

 ●彼らはモーセを裏切りさえする

 ユダヤ人はいつも、モーセが異邦人に対して高利貸しを営むことを彼らに許可したのだと公言する(「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである」申命記第二十三章二十節)。これ以外に彼らに有利な章句はない。

 彼らには次のような回答が与えられている。すなわち、二種類のユダヤ人またはイスラエル人が存在する、と。一つは、神がモーセに命じたように、モーセに導かれてエジプトを出てカナンの地〔パレスティナ西部の地域〕に入った者たちである。モーセは彼らに対して神の戒律を与え、彼らは外国へ出ることなく、彼らの土地でひたすらメシアの到来まで彼らの戒律を守りつづけていた。

 もう一つは、モーセのユダヤ人ではなく(ローマ)皇帝のユダヤ人である。彼らは統治者ピラト〔ポンテ・〜、キリストを処刑したユダヤ(パレスティナ南部の古代ローマ領)のローマ総督。処刑判決に際し、みずからに責任のないしるしとして手を洗った。マタイ伝第二十七章十九、二十四〜二十五節〕の時代のユダの地に起源を有する。ピラトが法廷の場で「キリストと呼ばれるイエスについて余はどうすべきなのか」とユダヤ人に尋ねたとき、彼らは「十字架にかけよ! 彼を十字架にかけよ」と叫んだ。ピラトは言った。「お前たちの王を十字架にかけるのか」と。彼らは叫んだ。「皇帝以外にわれらは王を持たぬ」と。こうした皇帝への服従を神はユダヤ人に命じたことはなかったのだが、彼らは自発的にそのように言ったのである。

 しかし、皇帝が服従を命ずると、すぐに反抗し、皇帝に歯向かって臣下となることを望まなかった。そこで皇帝はユダヤ人をエルサレムから追放し、彼の領土に完全に分散させ、その地において彼らは服従せざるを得なかったのである。

 現在、穀潰しのユダヤ人がいるのはかかる事情によるものである。彼らのことは、モーセはなにも知らない。ユダヤ人もモーセについてなにも知らない。彼らはモーセの一節も暗唱していないのだから。そこで彼らはまずカナンの地に戻り、モーセのユダヤ人となってその戒律を守り、異教徒や異邦人を平定しなければならない。そして、彼らは異邦人が許容するかぎりにおいて高利貸しを営めばよいのだ。

 しかし、ローマ皇帝の領土である外国にいるにもかかわらずモーセの教えに従おうとしないのであれば、モーセの戒律に従って皇帝の法律を守るようになるまで、彼らは自分たちより身分が上の人びとに逆らって高利貸しを営むべきではない。それは、彼らが所有すべき土地またはイスラエルの国はカナンの反対側の岸だからである。モーセは彼らをエジプト人およびバビロニア人または他のどの国民のもとへ連れて来たわけではなく、申命記でモーセ自身が何度も述べているように、エジプトの地を出てカナンの地に連れて来ただけなのである。彼らは、ヨルダンの反対側に自分たちが所有することになる領土でそうした戒律を守るべきである。

 モーセによって創造された聖職者・儀式・公国君主権力にかんするかぎり、それらはすでに千四百年前に崩壊しており、その時代以前に存在したモーセの律法もまた同様に崩壊し終焉したのは確かなことである。それゆえに、皇帝治下のユダヤ人は皇帝の法によって処置されるべきで、千四百年間ひとりも存在していないモーセのユダヤ人のように処置されるべきではない。モーセによって高利貸しを許された自分の国土をもたず、ましてや海外領土ももたないのだから、そうするのが至当なのである。そして最終的には、若く頑強なユダヤ人に(麦打ち用の)から竿や斧、踏み梳き紡錘を与えて、アダムの子らに課せられていると同様、自分のパンを自分の顔に汗を流して稼がせるべきである。

 〈あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない〉(「創世記」第四章十九節)

 彼ら神聖な民がストーブのまわりに陣どって怠けながらわれわれのパンを貪り喰らい、自分たちはキリスト教徒の主人であるなどと法螺を吹いて、われら呪われたゴイムを働かせ額に汗を流させるなどということを許してはならない。彼らの怠惰は自分たちの過去から生じたものなのである。だが、彼らをわれわれに奉仕させたり働かせたりするときは、われわれとその妻、子どもたち、召使、および家畜などを身体的に傷つける可能性がある。なぜなら、そうした労働になれていない世界の高貴な王侯ども、すなわち有毒な苦い蛆虫は、呪われたゴイムのもとでみずからを卑しめる行為をするのは極めて不熱心なはずだからである。

 フランスやスペイン、ボヘミアおよびその他の地域における諸国民のユダヤ人に対するごく当たり前の知恵を採用することにしよう。これらの諸国民は、ユダヤ人が高利貸しを営んで貪り取った額を計算させ、それを平等に分配した。そして、そのうえで彼らを国外へ追放したのである。すでに述べたように、彼らに対する神の怒りは非常に大きいので、穏健な慈悲ではかえって罪深くなるだけであり、彼らは、苛烈な処置によってのみ多少はましになるのである。それゆえに、彼らを追放しよう! われわれの富で慈善を行なう

 ユダヤ人は多額の金を政府に与え、そうすることで政府の役に立っていると言われている。そのとおり。しかし、彼らはそれをどこから得て与えているのだろうか。それは彼ら自身のものではなく、高利貸しによって統治者とその臣下の財産を奪い、それを与えているだけのことである。

 かくして、統治者はユダヤ人に奪われものを臣下から取ることになる。つまり、臣下はユダヤ人のために金を供出しなければならず、統治者から金を取られるという二重の災難を被らねばならないのである。こうしてユダヤ人どもはわが国で自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みながら居すわっていることができるという仕組みなのである。

 あらゆる種類の悪徳を行なうために彼らがこの国に滞在することを、みすみす許しておくべきではないのではなかろうか? 馬鹿にされ、お金を与えるために、われわれがあちこち鼻面をひきずり回される様子を見ながら、ユダヤ人どもがやんやと喝采していることを許すべきではないのではなかろうか? かてて加えて、われわれの汗と血によって彼らは金持ちになる一方で、われわれは貧しくなり、干からびるまで吸い取られつつあるのではないだろうか?

 もしこうしたことが正しいなら、召使いと客ないし捕虜は、主人に毎年十フロを与える代わりに千フロ盗んでいることになる。召使いと客はすぐに金持ちになり、雇い主と主人はたちまち乞食になるだろう。

 ユダヤ人どもが、万一そのような額の金を自分らの財布から政府に与えることができたとしても(不可能なことであるが)、そうすることで彼らは会堂でわが主キリストについて公然と嘘をつき、中傷し、唾を吐き、呪詛することを保護される権利を手に入れようとする。さらにまた、あらゆる種類の不幸がわれわれの上に、すなわち、われわれすべてが傷つけられ、わがハマン〔ユダヤ人を滅ぼそうとしたが、計画が露見し、自分が設けた高い絞首台で処刑されたペルシアの大臣。「エステル記」参照〕や皇帝、君主、諸侯、妻、そして子どもたちと共に滅びることを望み、主キリストと全キリスト教世界、わが統治者、そしてわれわれの妻と子どもたちが惨めなまでに安売りされるといった、あらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼らが欲することを保護される権利を手に入れようとするのである。

 裏切り者のユダヤ人は、われわれよりはるかに聖人に値するのかもしれない。ただし、彼らが年に十万フロ寄進することができればという条件付きであるが。そうだとしても、キリスト教徒を冒涜し、呪い、唾を吐く権利を彼らに与えたり、高利貸しを営むことを許してはならない。そんなことをすれば、われわれは自分たちをあまりにも安く彼らに売り渡してしまうことになるからである。

 全キリスト教世界とわれわれ全員が、みずからの金によって買収され、富貴なお方や領主たちの頂点にいるユダヤ人によって悪態をつかれ、呪われ、嘲笑されるといったようなことを許すというのであれば、それはわれわれの許容の範囲をはるかに越えたことである! 悪魔とその使者にとって、それはなんと喜ばしいことであろうか。そうした事態は、あたかも子豚に歯を剥きだす雌豚のように、彼らがわれわれを馬鹿にして鼻先でせせら笑うといったようなことになるかもしれない。だがそれは、神の御前ではまさに天罰に値することなのである。 


 我らの富で慈善をなす
 ユダヤ人達は多額の金を政府に与え、それによって政府の役に立っているといわれているとのことである。然り。しかし、彼らはそれをどこから得て与えているのだろうか。それらは彼ら自身のものでなく、ユダヤ人達が高利貸しによって統治者達と臣下達の財産を奪い、それを与えているだけである!

 かくして、統治者の歴々はユダヤ人に取られたものを臣下の方達から取るのである。つまり、臣下の歴々はユダヤ人達の為にお金を出さねばならず、お金を巻き上げられるという二重の災難を被らねばならないのである。こうしてユダヤ人達は我が国の中で自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みつつ居座っている事ができるという仕組みなのである。

 彼らがあらゆる種類の悪徳をなすぺく、この国に滞在して居る事をみすみす許しておくぺきではないのではなかろうか?
そしてまた我々が馬鹿にされ、彼らにお金を与えるためにあちこち鼻面を引きずり回される様子をやけっばちのユダヤ人違が高笑いしている事を。それらすぺてに加えて彼らは我々の汗と血によって金持ちとなり、一方我々は貧しくなって行き、彼らによって干からびるまて吸い取られつつあるのではないのか?

 もしそうした事が正しいなら、召使い、客あるいは捕虜は、主人に毎年10フロを与え、その代わりに千フロを盗んでいる事になる。召し使と客はすぐに金持ちとなり、雇い主と主人は短期間に乞食となるであろう。ユダヤ人達が、
たとえその様な金額の金を万が一にも自分たちの財布から役所に与える事ができたと仮定しても、(そんなことはできない話しではあるが)彼らはそれによって自分たちの会堂で我らの主キリストについて嘘をつき、中傷し、つばを吐き、呪う事がおおっびらに保護される構利を我々から手に入れようとするのである。

 そしてまた、我々の上にあらゆる種類の不幸−即ち、我々すベてが傷つけられ、我らのハマン(訳注・ユダヤ人達を減ぼそうとしたが、計画が露見してしまい、自分が作った高い絞首台で虚刑されたペルシャの大臣、エステル書参照)や皇帝、君主、諸侯、妻そして子供たちと共に減亡するのを望むのであり、且つまた、主キリストや全キリスト教界、我々の統治者の方々、我々の妻達、子供たちが哀れなまでに安売りされる事になるといったあらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼らが望む事が保護されるのを手に入れようとするのである。

 裏切り者のユダヤ人達は我々よりもずっと聖人の価値があるかもしれない。そう、ただし、ユダヤ人達が年に10万フロを寄進してくれる事ができればのはなしてはあるが。
そうだとしても、我々は、彼等が一人のキリスト教徒を冒涜し、呪い、つばをかける権限を持つ事を許したり、彼らに高利貸しを営む事を許してはいけない。そんなことをすれば我々は自分達をあまりに安値で売り渡す事になってしまうことになるからである。

 全キリスト教界と我々全員が自分達自身の金によって買収され、また高貴な方々や領主の方々全員の頂点にいるユダヤ人によって悪態をつかれ、呪われ、軽蔑の笑いにさらされるといった事を我らが許すなどというのであれぱ、それは何と我々の許容の範囲をはるかに越えた事であろうか! 悪魔とその使者にとってそれは何と楽しい事であろうか。それらの事態はまるで子豚に歯をむき出す雌豚のように彼らが我々を馬鹿にして鼻先でせせら笑うといった事になるかもしれない。だがそうした事は神の御前ではまさに天罰に値する事なのだ。





(私論.私見)