「ユダヤ人と彼等の嘘その2、本文前段」 |
(最新見直し2007.5.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「ユダヤ人の偽りの引用」を参照しつつコメントしておく。ルターの「ユダヤ人と彼等の嘘」は読まれていない。そういう状況を前提にして、パウル・アサールの著書「アルザスのユダヤ人」(宇京早苗訳、平几社)のような悪質な曲解が流布されることになる。それによれば、ルターが云ってもない事を云ったとして紹介することによりルターの評価を貶めている。ここでは、ルターが次のように評されている。
パウル・アサールは、ルターの言説を意図的に悪意を持って捻じ曲げて紹介している。政治的論争の場合によくあるマナーの悪い手法であるが、事情を知らない者は誑かされてしまう。そういう訳で、ここで、ルターの肉声をサイトアップしておこうと思う。 余りにも貴重であり、ネット空間から失われることを惜しみ、「ユダヤ人と彼等の嘘 目次: マルチン ルター著」を転載しておく。読解テキストと思われる「歴史情報研究所 島講一氏ブログ」、 「ユダヤ人の偽りの引用」を参照し、次第にれんだいこ訳に切り替えていくこととする。但し、れんだいこは、「ユダヤ人と彼等の嘘」の原著ないしは英訳文を読んでいない。従って、規制訳の日本語的推敲を通じて意訳した。原文から遠ざかったか近づいたのかは分からない。 以下の文章が目次通りの配列なのか全文なのかも分からない。いずれ考証してみたいと思う。原書に各章ごとのタイトルが付けられているのかどうかも分からない。れんだいこは、趣意を読み取りタイトル名を任意に変えた。 2006.2.28日、2007.5.24日再編集 れんだいこ拝 |
ルターの序文 |
私はもうこれ以上、ユダヤ人のこともユダヤ人に反対することも書かない決心をしていた。けれども、これらの哀れで邪悪な連中が我々キリスト教徒に打ち勝とうとすることを止めないので、私もユダヤ人のかかる有害な企てに抵抗する人々の隊列に加わるペく、私はこの小冊子の出版を許し、彼らに対してキリスト教徒が自らの防備を固めるぺく警告を発した。私は、キリスト教徒がユダヤ人に馬鹿にされ、彼らの追放と悲惨さをユダヤ人達と分かちあうようになるとは考えてもみなかった。 しかしながら、悪魔がこの世では神である。そして神の言葉の無い場所においては、悪魔は弱者の間だけでなく、強い者達の間をも容易に航海するのである。神が我々に御加護を与えんことを。 アーメン マルチン・ルター |
私はもうこれ以上、ユダヤ人のことも、ユダヤ人に反対することも書かない決心をしていた。しかし、この哀れで邪悪な連中がわれわれキリスト教徒に打ち勝とうとするのを止めないので、ユダヤ人のかかる有害な企てに抗議する人びとの隊列に加わるべく、私はこの小冊子の出版を認め、ユダヤ人に対する防備を固めるよう、キリスト教徒に警告した。私は、ユダヤ人がキリスト教徒を馬鹿にし、そのために彼らが追放される悲劇を見ることになろうとは考えてもみなかった。 だが、悪魔がこの世では神なのである。そして、神のない場所においては、弱者だけでなく強者のあいだをも、悪魔はやすやすと航海するのである。神がわれわれに御加護を与えられんことを。アーメン。マルティン・ルター |
主による恩寵と平和のあらんことを 親愛なる閣下並びに友人諸氏 |
私は、キリスト教徒と論争を続ける一人のユダヤ人の論文を受け取った。そのユダヤ人は論文の中で、聖書(我々はそれを主キリストその御母マリアヘの信仰のために用いるのであるが)の一節を曲解させ、ねじ曲げるというあつかましさを示している。彼は我々の信仰の土台をひっくり返そうとたくらんでいるのだ。この事に関し、私は、あなた方並ぴにこのユダヤ人に対して以下のごとく解答を与える。 私の目的とするところは、ユダヤ人達と論争したり、彼らが聖書をどのように解釈したり理解したりするかを彼らから学ぶ事にあるわけではない。私は、既にそれらの事をすぺて知っているからである。ましてや私がユダヤ人を改宗させようなどと考える事はない。そんなことは不可能なのだ。ユダヤ人達の間では至るところで良い事は何一つなく、彼らは一般に悪性状態になっている。 彼らは天罰に関して非常に無関心になっているので、彼らが1400年以上追放され続けており、未だ彼らが仮定しているような終末とはっきりした救済の期日を分からないでいるという恐ろしいジレンマについて分別しようとしない。熱烈で絶えまない神への叫び声でごまかしている。もし、天罰が役に立たないとすれば、私は、連中に対しては、我々の話や解釈がなおのこと役に立たないと思うのだ。 |
●主による恩寵と平和のあらんことを! 親愛なる閣下ならびに友人諸氏へ。私は、キリスト教徒と論争を続ける一人のユダヤ人の論文を受け取った。その論文のなかでユダヤ人は、聖書(われわれはそれを主キリストとその御母マリアへの信仰のために用いるのであるが)の一節を曲解し歪曲する厚かましさを示している。彼はわれわれの信仰の土台を覆そうと企図しているのだ。これに関して私は、あなたがたおよび当のユダヤ人に次のように回答を与える。 |
ユダヤ人のジレンマ | ||
それ故に、キリスト教徒は現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしあなた方が彼らと話さざるをえなくなったり、話したくなったときには以下のこと以外には云うべきではない。
この小さいクルミをユダヤ人に与えて彼ら同士の間で好きなだけそれに噛み付かせ、議論させるとよいのだ。
そう、彼らは恐ろしいジレンマに入っているのだ。彼らがこうした事に対してどんな解釈をしようと、我々は自の前に我々を欺く事ができない事態をみているのである。 |
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●ユダヤ人との論争の無益さ それゆえ、キリスト教徒は、現状に満足し、ユダヤ人と論争してはならない。しかし、もしもあなたがたが彼らと話さざるを得なくなったり、話したくなったときには、次のこと以外に話してはならない。 〈ユダヤ人よ、あなたがたの会堂と司祭たちと共に、あなたがたの王国は一四六〇年間破壊されたままであることを知らないのか。われわれキリスト教徒は、キリスト生誕後一五四三年と記すように、その年は正確には一四六九年であり、ヴェスパシアヌス〔九〜七九、ローマ皇帝(六九〜七九)〕とティトゥス〔三九〜八一、ローマ皇帝(七九〜八一)。ヴェスパシアヌスの息子〕がエルサレムの神殿を破壊し、そこからユダヤ人を追い払ってから一五〇〇年が過ぎているのだ〉 この小さいクルミをユダヤ人に与え、彼ら同士をかみ合わせ、好きなだけ議論させるとよい。 〈その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ〉(「ホセア書」第一章九節) そう、彼らは恐ろしいジレンマに陥っているのだ。彼らがこのことについてどう解釈しようとも、欺くことができない事態をわれわれは眼前にしている。 |
ユダヤ的選民主義とゴイム思想 | ||
そして、感覚と理性のひらめきのある者は、必ず次のように自ら考える事であろう。
もちろん私はユダヤ人ではない。しかし、私は、この国民に対する神の恐るべき怒りについて考えを馳せるのは身の毛のよだつほど嫌な事である。私は身震いするが、その考えは私の体と生命の中にしみこんでくる。すぺての偽りのキリスト教徒と信仰なきものに対する地獄での神の永遠の怒りとはどのようなものなのであろうか。ユダヤ人達が、主イエス・キリストに対し彼らが望むどのようなものとみなしても別にかまわない。我々はルカ伝第21章20−23節の成就をみる。
要するに前述した如く、我々の信仰に関してはユダヤ人とあまり論争すぺきではない。子供のころから彼らは我らの主に対して毒と憎しみを持って育てられてきているので、彼らが自らの悲惨さを通して柔軟になり、救世主が到来し、それが主キリストであるという事を告白せざるをえないような地点に到達するまでは何の希望もないのである。さもなければ彼らと議論するのは概して時期尚早であり、無駄な事なのである。 これが彼らの主張であり、私の考えでは主要にして最も強固な部分である。それゆえ神は、彼らの宗派、祈り、歌、教義そして全生涯において、彼らを苦しめなければならないことになる。そこで彼らは神の御前に立ち、「彼」を苦しめる。(私は神について人になぞらへて話している) |
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●神の怒りの犠牲者 そして感性と理性の閃(ひらめ)きのある者は、必ずや次のように考えるであろう。 〈ああ神よ。事態はわれわれにとって良くない。われわれの悲惨さは大きすぎる。追放は長すぎ、あまりにも過酷だ。神はわれわれを忘れてしまった〉 もちろん私はユダヤ人ではない。そして、私はこの民族に対する神の恐るべき怒りについて深刻に受け止めたいとは思わない。身震いすることではあるが、そうした考えが私の身体といのちのなかにしみ込んでくるのである。すべての偽キリスト教徒および信仰なきものに対する地獄における神の永遠の怒りとは、いったいどのようなものなのであろうか? ユダヤ人が主イエス・キリストをどう見なそうと構わない。われわれは「ルカ伝」(第二十一章二十〜二十三節)の成就を見るのである。 〈エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。……これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです〉 |
ユダヤ教理の核心 |
彼らのうわ言のような気違いじみた無意味さが徹底されている為に、彼らは神を讃美しつつ次の事に感謝をささげる。第一に彼らが人間であって勤物ではないという事に。第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(獣)ではないという事に。三番目に彼らが女としてでなく男として創造されたことに。 かかる馬鹿げた祈り行為を、彼らはイスラエルから学んだのではなく、ゴイムから学んだのである。というのは、仮にこのような冒涜と涜神の行為とが神の讃美と言われ得るとすれば、ギリシャのプラトンもまた毎日同様に神に対する讃美と感謝とを捧げていたと歴史家達は記しているのであるから。プラトンは次の三点において神を讃美していた。即ち、彼が人間であって動物でない点、男であって女でない点、ギリシャ人であって野蛮な非ギリシャ人でない点である。思うに、こうした捉われこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。 誰も、彼らがイスラエルの血統及ぴ種族である事について大言壮語するのをやめさせられない。旧約聖書によれば、そのため彼らは多くの戦闘で敗れてきた。(ユダヤ人達は誰もこの事を理解できない) すぺての預言はその故に彼らを叱責している。なぜならそうした事は魂と信仰を抜きにした誇りと現世的な憶測にすぎないからである。 |
●自己を正当化する大言壮語 彼らのうわ言のような気違いじみた無意味さを完璧なものとするために、彼らは神を讃美し、次のことに感謝を捧げる。つまり、第一に彼らが人間であって動物ではないことに、第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(異教徒)ではないことに、そして第三に彼らが女としてではなく男として創造されたことに感謝を捧げるのである。彼らはかかる馬鹿げた行為を、イスラエルからではなくゴイムから学んだのである。仮にこのような冒と神の行為が神への讃美であると言い得るならば、ギリシアのプラトンもまた毎日同様に神を讃美し感謝を捧げていたと歴史家は記しているからである。プラトンは次の三点において神を讃美していた。つまり、彼が人間であって動物でないこと、男であって女ではないこと、ギリシア人であって野蛮な非ギリシア人でないことにおいてである。 |
アプラバムの子孫というより悪魔の子供達である | ||
我々の主は、また彼らを「毒蛇ども」と呼ぴ給うた。
彼らが悪魔の子供達であるという事は、彼らが現在でも未だにそのような呼ばれ方に耐える事ができないように、彼らにはとても耐え難い事であった。というのは、もし彼らがこのよりどころ(アプラハムの子孫であるという)を示さねばならないとするなら、全て彼らが築いたものは崩壌し、違ったものになってしまうからである。 もし神がユダヤ人達に封して慈悲深くあるぺきだとすれば、ユダヤ人達はまず彼らの宗派から、彼らの心から、彼らの口から、すぺての涜神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわねばならない。かかる祈りこそがユダヤ人に対する神の怒りを絶えず増大させているのであるから。しかし彼らは決してそうすることはなく自ら控えめになることはないであろう。神が与え給う筈の彼らへの恐るべき絶減から特別にお救いになろうとするほんの数名の者を除いては。 |
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●悪魔の子どもたち われらの主はまた、彼らを「蛇ども」と呼ばれた。 〈あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい〉(「ヨハネ伝」第八章三十九節) 彼らが悪魔の子どもたちであるということは、彼らが現在でもそのような呼ばれ方に耐えることができないように、彼らにはとても耐え難いことであった。それは、もしも彼らがこの拠りどころ(アブラハムの子孫であるという)を示さねばならないとすれば、彼らが築いたものはすべて崩壊し、違ったものになってしまうからである。(このあとで彼らの自己讃美は根拠のない仮定としてルターによって論破されている。これらの論述は次の言葉で結ばれている) |
鼻持ちなら無いエリート主義 |
ユダヤ人達が自分達を他の民族より高い位置におき、他の民族を軽蔑する際にその根拠としているのは、彼らがアプラハム以降、割礼を行っているという事である。その故に、我ら異教徒はその宗派、祈り、賛美歌、そして教義においてどんなに災難を被らねばならないのだろう。我らが割礼を為さぬがゆえになんと我ら軽蔑さるぺき国民は、彼らの鼻の前で醜くも悪臭を発しているのであろうか。
その中では彼らユダヤ人達は、すぺての異教徒達の前で主人ぶった尊大な様子に描かれている。というのは、彼らに於いては、非ユダヤ人達はいつでも邪悪な偶像崇拝や誤った教義を実行し、割礼を受けていない心を持つ、まさにその様な民族なのであるから。それゆえ、モーゼ自身及びすぺての預言者達はその事を嘆き悲しんだのである。しかし彼らは同時に、神を喜ばせようと努力し、それゆえ預言者達を殺害したのである。 聖書が、いたるところで証明しているように、彼らは預言者達の説教や教えや叱責によって自分達の邪悪な心を善きものにしようなどとは金輪際考えない、罪深く高慢な国民なのである。それでも彼らは神の召使いたらんとし、神の御前に立とうというのだ! 彼らは今日にいたるまで自らの高貴さと血筋を自画自賛する以外、何もできない。彼らは自らの宗派、祈祷、教義において自分達だけを讃美し、全世界を罪あるものと宣告する。しかし彼らは自分達が神に最も親しい子供達として神の御前に立っていると勝手に想像しているだけなのである。 |
●自分たちを高みに置く ユダヤ人が自分たちを高みに置いて他の民族を軽蔑するさいに、その根拠としているのは、アブラハム以降、割礼を行なっているということである。そのためにわれら異教徒は、宗派・祈り・讃美歌・教義において、どれほど災難を被らねばならなかったことであろう。われわれが割礼を行なわないために、なんとわれら軽蔑すべき民族は、彼らの面前では醜くも悪臭を発しているというのである。(ここから聖書からの多数の引用に基づく長い神学的論述が続く) |
嘘つきにしてしつこい犬 |
彼らは本当の嘘つきにしてしつこい「犬」である。彼らは聖書の全ぺ−ジを始めから終っわりまで彼らの解釈で絶間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすぺてがいつの日か我々異教徒を、彼らがかってエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱いたいという所に向けられているのてある。ああ彼らはなんとエステル書を偏愛している事であろうか。 つまり、彼ら自身の欠陥と高慢的なプライドとを暴露している。 (ルターはここで割礼に加えて、ユダヤ人達が自慢する多くの文献を列挙している。寄せ集め的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており不信心で邪悪である事を嘆く聖書の中の多敷の文章を引用し、その上で悪魔をユダヤ人と比ぺて語っている) |
●嘘つきで、執念深い「いぬ」 彼らは根っからの嘘つきで、執念深い「いぬ」である。彼らは、聖書の全ページを最初から最後まで自己流にたえず曲解したのみならず、偽造した。ユダヤ人の野望と吐息のすべては、いつの日かわれわれ異教徒を、かつてエステルの時代にペルシアで扱ったと同様に扱いたいという一点に向けられているのである……。 |
異教徒より邪悪な者達 |
もしユダヤ人達が神の戒律を持たず、またそれを知らなかったとしたら、どんなに彼らにとって、ましな事であっただろう。なぜなら、もし彼らがそれを持っていなけれぱ、彼らは有罪を宣告される事はなかったからである。彼らは神の戒律を持っていながら、それを守らぬばかりか、絶間なくそれに反逆して行動するが故に呪われているのである。 しかしながら、彼らは現に罪を犯しており、呪われているのだから、彼らが例えもっとも神聖にして正しいところの神の言葉を所有しているとしても、これら悪漢どもがそれに反して罪を犯しているという事には変わりはないのである。それなら、ユダヤ人達と同様、これら悪党どもに、神は神の律法を通して彼らを神聖化し、彼らを神の特別な民として選抜なされたという事を、すぺての諸国民の前で彼らに自慢させようではないか。 |
●異教徒より邪悪な者ども もしもユダヤ人が神の戒律をもたず、またそれを知らなかったならば、どんなにましであったことか。というのは、もし彼らがそれをもっていなければ、有罪を宣告されることはなかったからだ。神の戒律をもっていながら、それを守らぬばかりか、絶え間なくそれに反逆して行動するがゆえに、彼らは呪われているのである……。 |
彼らは十戎の背徳者である | |
もし十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を患か者の如くに扱う詐欺師かペテン師以外の何者でもない。 それはあたかも、悪魔の統領が祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、その様な方々のすぺての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。しかしながら、その様な精神の面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵冒涜者が居り、福音も十戒もともに踏みにじり、呪いそして非難しているのである。神の御前でそれを為すとは何と素晴らしい聖人ではないか。 このように神は、彼らが外見は戒律と高潔さの様子を示しながら、あらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行いをしているので、神の預言を送ることにより、常にイスラエル人を卑しい売春婦と見なして叱ったのである。特にホセアが2章4、5で嘆いたように。
乙女や女性が敬虔かつ清潔で見苦しくなく装い外見上、慎ましやかに振舞うを見るのは、実に素晴らしい事である。しかし、彼女がもし売春婦であるなら、その(すばらしい)衣装、装身具、花飾り、そしてアクセサリーは、ぬかるみの中の雌豚が身につけたほうが、よりまともにみえる事であろう。ソロモンが言うように「きれいで馬鹿な女は、雌豚の鼻の上につけられた黄金のモールのようである」。 親愛なるキリスト教徒よ、こうした事から盲目のユダヤ人どもが貴方たちを誤り導くのを黙認する時には、自分達が何をしようとしているのか、よく気を付けるぺきである。このような場合には一つの諺が確かに成り立つであろう。即ち、「盲目の者が盲目の者を導くなら、両者とも、堀に落ちるであろう」という諺が。それ以上のことで彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らず、それでも異教徒達に封し高慢で居丈高になる。神の前に出るなら、異邦人のほうがまだましである。何故なら、彼らは神聖さに関してそんな高慢さを持っていないが、しかしおごり高ぶる聖人達や罪深い涜神の者や嘘つき者どもより、はるかに律法に適ったことを為すからである。 |
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●彼らは十戒を愚弄し、神を馬鹿にする もしも十戒が守られないのであれば、他の戒律など守ったとしても、それは神を愚か者のように扱う詐欺かペテン以外のなにものでもない。それはあたかも、悪魔の統領が祭司か牧師の衣装をまとってわれわれのあいだを歩き回ったり、戒律や生き方をすべて遵守するかのように振る舞っているのと同じことである。けれどもそうした精神的な装いのもとに真の悪魔・狼・教会の敵・冒者が跋扈し、福音も十戒も踏みにじり、呪い、非難しているのだ。神の御前でそれはなんとも素晴らしい聖人であることよ。 敬虔かつ清潔で見苦しくない装い、外見上、淑やかに振る舞う乙女や女性を見るのは実に素晴らしいことである。だが、彼女が娼婦であるなら、その衣装・装身具・花飾り・アクセサリーは肥溜の雌豚が身につけたほうがよりまともに見えるであろう。ソロモンが言ったように、「雌豚の鼻の上につけた黄金の飾りは、綺麗で馬鹿な女のようだ」ということになるだろう。ゆえに彼らは、神の十戒を本当に信じない表面だけの信奉を自慢するのはやめたほうがよい。そうなのだ。それは、異教徒と比べて神の民である彼らの価値を七倍も低下させることになるのである。彼らを彼らだけにしておこう。われわれは、哀願や五十一番目の讃美歌を唱える者、すなわち律法がなんであり、それを遵守することとしないことの意味がわかり、理解できる者たちと共に居させてほしいのだ。 |
彼らの宗派は、悪魔の巣窟である |
それゆえあなた方はユダヤ人達に封して警護を固め、次の事を知るぺきである。即ち、彼らが集いを持つ場所は悪魔の巣窟以外の何ものでもなく、そこでは自分違を自ら讃美し、虚栄、嘘、冒涜、神と人間に恥辱をもたらすといったことが、悪魔がなすのと同様に最も強烈にして最も有害なやり方で実行されているのだと言う事をである。 ユダヤ人違が説教している所で聞くということは、それがどこでも、「一にらみで人々を傷つけ殺害した、危瞼なバシリスク(中世の伝説)」が話すのを間いているのと同じ事であると、あなた方は考えねぱならない。 神の怒りを通して彼らは自分達を自慢する事、虚栄、神に偽りを言う事、すぺての異邦人を呪う事、等のすぺてが正しく、そうした事が神への偉大な奉仕であり、この様な高貴な父親の血筋と割礼をした聖人にふさわしい事なのだと信じるよう教えられてきた。(例え、彼らが甚だしい悪徳の中にあって、他の点でどんなに自分達を卑しいと思ったとしても)彼らはこうした事によって神の加護が与えられてきたと考えているのてある。彼らを監視せよ! 彼らは自分達がカナンの地、エルサレムの町、神による神殿を所有していた事を自慢する。神が、その様な高慢と虚栄とを何度も覆しになったにもかかわらずに。とりわけバビロンの王(彼はユダヤ人を遠くへ連れ去ったのだが)を通して、以前にアッシリア王が彼らを遠く連れさり、全イスラエル人を殺害したのと同様、ユタヤ人の殺害へと導いた。 |
●彼らの宗派は悪魔の巣窟である それゆえにあなたがたは、ユダヤ人に対して警護を固め、次のことを知るべきである。すなわち彼らが集う場所は悪魔の巣窟以外のなにものでもなく、そこでは自画自賛・虚栄・嘘・冒・神と人間に恥辱をもたらすことが、悪魔の所業と同様に最も強烈で有害なやり方で実行されているのだということを。 |
悪魔にとりつかれた者 | |
ユダヤ人達は自分達が神の戒律を守るという目的の為に、神にすぺての物を与えられているのであって、それ故にこそ自分達が神の民、集会の民と呼ばれているのだという事を理解しようともしないし、聞こうともしない。彼らの血筋と高貴さに関しても、神は、神の戒律を彼らに守らせる為にこそ彼らを選んだにもかかわらず、彼らはその事をわかろうとせず考慮しようともしないで、ただ自らを自慢するだけなのである。 彼らは割礼を自慢する。しかし、彼らが割礼を受ける目的と神の戒律を守るという事とは彼らには何の意味もないのである。彼らは自分達の法律、会堂、宗教儀式、町、田舎、そして国家を自慢する。しかし、彼らは、自分達が戒律を守るという目的の為にこそ、それらを所有させてもらっているのだという事をすっかり忘れているのだ。 悪魔はかかる民族にこそ彼の全ての天使達と共にとり憑き続けているのだ。彼らは目にみえるもの、自分達の才能、業績、行為等を常に自慢する。しかし、そうした事は中身のない空っぽの「見せかけだけのもの」を神に棒げるのと同じなのである。 神はそうしたものを神にささげる民族である彼らを神の民とし、すぺての異教徒に優先して彼らを賞賛し、祝福する。故に、彼らは神の戒律を守らねばならないし、自らの神として神を守らねばならない。ところが、その事を彼らは引き受けようとはしないのだ。 モーゼの次の言があてはまる。
これはホセア書(第一章九節)にも言はれている事であるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、誰もユダヤ人達が神の選ぱれた民ではないと彼らを説得する事などできはしなかっただろう。何故なら彼らはその邪悪さ、不服従、強情さにもかかわらず、未だに会堂、町、田舎、を保持しているであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫ぴ、沢山のモーセ達が立って、「汝らは不服従であり、反抗的であるゆえに神の民ではない」と宣べたとしても。 離散せられ、1500年間拒絶された後の現在でさえ、彼らは自からが神の選ばれた民であるという、異常な夢のような、高慢きわまりない考えをあきらめきれないでいるのである。彼らは依然として自分達の利益の為に、故郷の地に戻る事を望んでいる。しかし、彼らが自分達の勝手な想像によって、聖書の中に塗りたくっておいた言葉以外には、彼らがせめてもの慰めとして頼れる約束は何もないのだ。 |
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●悪魔にとり憑かれた者ども ユダヤ人たちは、自分たちが神の戒律を守るという目的のために神からすべてのものを与えられているのであって、それゆえにこそ自分たちが神の民、教会の民と呼ばれているのだということを理解しようとも、聞こうともしない。彼らの血筋と高貴さについても、神の戒律を守らせるためにこそ神は彼らを選んだというのに、彼らはそのことをわかろうとせず、考えようともしないで、ただひたすら自分を自慢するだけなのである。 〈彼らは私を神と見なさず、それゆえ私は、彼らを私の民とは見なさない〉 これはホセア書(第一章九節)にも言われていることであるが、もしもエルサレムの民が離れ離れに引き裂かれて彼らの土地から追い立てられるのを神が許さず、以前と同様に彼らに土地を保持させていたとすれば、ユダヤ人は神の選ばれた民ではないと彼らを説得することなど、誰にもできなかったであろう。なぜなら、邪悪さ・不服従・強情さにもかかわらず、彼らはいまだに会堂・町・田舎を保持していたであろうから。たとえ多くの預言者が日々叫び、たくさんのモーセが立って「汝らは不服従であり、反抗的であるがゆえに神の民ではない」と主張したとしても。 |
聖書に関する偽り |
私はまた以下のような経験を持つ。(中略)
我々がウイッテンペルグで、ヘプライ語を読み始めた事を知って、三人の学識あるユダヤ人が、(ユダヤ教に転宗しようとしている)新しいユダヤ人に会えるのではないかと期待してやってきた。彼らは、我々キリスト教徒が彼らの書を読み始めたからには、事態はすぐに改善されるだろうなどと錯覚していたようだ。
私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書のテキストに基づいて解釈するよう迫ると、彼らはテキストを放り出し、ちようど我々が牧師や博士達の言葉を信じなければならないのと同様に、彼らはラビを信じなけれぽならないのだといった。それで私は彼らが不憫になり、彼らがキリストの為に、安心してたどって行く事がてきる案内書を推薦した。後になって私は、彼らがキリストを「トーラ」即ち「磔にあって吊下げられた犯罪人」と呼んでいる事を知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人とも関わりを持つ気が全く無くなったのである。 ユダヤ人達は、その寺院がまだ立っていた特代に救世主がやって来た事を否定し、救世主は依然としてこれからやってくるだろうと主張する。彼らは、神殿崩壊後1568年も待ちつづけていることになる。しかし、こんなに長い期間が経過しても未だにその時期がわからない以上、「そのうち暫くして」等とは云えないだろうに。 |
●聖書に関する偽り 私はまた以下のような経験をもつ……。われわれがヴィッテンベルクでヘブライ語を読みはじめたことを知って、三人のユダヤ人の学者が新しいユダヤ人に会えるものと期待して私のところにやって来た。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書物を読みはじめたからには、事態はすぐに改善されるだろうと錯覚していたようだ。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るよう彼らに迫ると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならないと言った。私は彼らを不憫に思って、安心してたどって行くことができるキリストのための案内書を推薦した。しかし後で私は、彼らがキリストのことを「磔にあった犯罪者」と呼んでいると知らされた。それで私は、いかなるユダヤ人ともいっさい関わりをもつ気にならなくなった。 〈まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる〉(「ハガイ書」第二章六〜七節) 「すべての国々」は「異教徒」に等しい。古代の人びとは「すべての国々の宝物」を「救世主」と見なしたのである。 |
彼らの救世主は金と銀 | |
彼らの救世主は決してくる事はないだろう。と云うのは、「そのうち暫くして来る」はずだったのにかくも長い期間になってしまっている以上、もはや決して何も起こらないという事なのである。なぜなら、預言は「暫くの間」と云っているのであって、「長い期間」とは言っていないのだから。 しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは、「そのうち暫くして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、その言葉が「救世主」を指しているのではなく異教徒のすべての金銀を示していると言い換える。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。
彼らは又、次のような事に満足を見出している。「救世主がやってくる時、その方は世界中の全ての金と銀を所有し、それをユダヤ人の間に分配するであろう」。かくして彼らが飽く事を知らぬ貪欲へと聖書をねじ曲げる事ができる所ではどこでも、ユダヤ人達は邪まな事にそうするのである。あなた方は神と神の預言は、ユダヤ人達の計り知れぬ貪欲がいかに異教徒達の金銀によって充足されたかという事以外には何も預言しなかったのだと思うであらう。 |
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*訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節) 彼はまた呪うことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。彼は己の衣のように呪いを身にまといました。それは水のように彼の内蔵へ、油のように、その骨々にしみ込みました。それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。 |
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●彼らの救世主は金と銀 彼らの救世主は決して来ることはないだろう。「しばらくして」来るはずであったのに大変に長い期間になってしまっているが、これは決してなにも起こらないということなのである。預言は「しばらくして」と言っており、「長い期間」とは言っていない! しかし、彼らはそれを、以下のような方法で言い逃れる。つまり彼らは「しばらくして」を否定できないので、「すべての国々の宝物」をヘブライ語でヘムダートと表現し、「救世主」ではなく異教徒のすべての金銀を示していると言うのだ。文法書によれば、「ヘムダート」という言葉は、異教徒の望むものとか、愛するものというように、事実「なにものかへの欲望、愛」を意味する。するとこの文章は、いまや次のように読むことができるのである。 〈しばらくして、すべての異教徒たちの欲望が姿をあらわすであろう〉 いったいこれはなんだろう。異教徒たちはなにを望むのか、金、銀、そして宝石か。あなたがたは、ユダヤ人がなぜこのような解釈をこの箇所に挿入したのか聞きたくなるかもしれない。次のように私は言おう。「彼らの吐く息は、異教徒の金や銀に飢えて悪臭を放っている。太陽のもとに存在するいかなる者も、高利貸しという呪われた業によってわかるように、ユダヤ人ほど貪欲な者はかつてなく、現在もなく、そしていつの世においても存在しない」からだと。彼らはまた次のようにして満足する。 〈救世主がやって来るとき、その方は世界中のすべての金と銀をお持ちになり、それをユダヤ人のあいだに分配するであろう〉 あなたがたは、神と神の預言は、ユダヤ人のはかり知れぬ貪欲が異教徒の金銀によってどのように充たされるかということ以外になにもなかったと思うであろう。 *訳注「詩篇」(第百九章十七〜二十節) |
強い敵意を持った有害な敵 |
我が親愛なるキリスト教徒よ。それ故、心よりユダヤ人たらんとしているユダヤ人ほど敵意を持ち有害で強力な敵は、悪魔以外には誰もいないという事を知らなければならない。彼らの内には牛やアヒルが信じる事を信じる者もいるかもしれない。しかし、彼ら全員が、彼等の血と割礼の信仰の中に包まれているのだ。それ故、歴史上彼らはトレントやワイセンシー等におけるが如く、しばしぱ井戸に毒を投げ込み、子供たちを誘拐、殺害したかどで有罪を宣告されているのてある。 悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他の誰よりもキリスト教徒に対してそれ程までに敵意を抱くのか不思議に思うであらう。私達は彼らに封し善行のみを施すのだから、彼らがそうなる何の理由もないのだ。彼らは我々の祖国で、私達の庇護の下に住んでおり、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。 王侯や政府は、みすみす傍観し、いびきをかき、口を空けたままでいるので、彼らの財布やたんすからユダヤ人達が思いのままに取ったり盗んだり、奪いとるのを許している。つまり、王侯や政府は自ら及ぴ臣下の者達がつけこまれ、スッカラカンの丸裸になるまで吸い取られ、自分達自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。というのは、ユダヤ人達は外国人なので、元々は間違いなく何も所有していなかった筈である。彼らが現在所有している物は、確実に我々が所有していた物に違いないのである。 |
●強い敵意をもった有害な敵 わが親愛なるキリスト教徒よ、それゆえに心よりユダヤ人たらんとするユダヤ人ほど、敵意を抱いた有害で強力な敵は、悪魔以外にはないということを知らなければならない。彼らのなかには牛やアヒルが信じることを信じる者もいるかもしれない。しかし彼ら全員が血と割礼の信仰に包まれているのだ。それゆえに歴史上、彼らはトレントやワイゼンシー等におけるように、しばしば井戸に毒を投げ込み、子どもたちを誘拐・殺害したかどで有罪を宣告されたのである。 |
ユダヤ人達は密かに我々クリスチャンを呪う | |
そして顕著な特傲として、彼らは自分達の間で次のように言い合う事で彼らの信仰と我々への激しい憎悪を強めているのである。
と。これら全てが我々が彼らを保護している間に彼らから被っている事なのである。彼らは、かくの如く我々を呪っているのだ。 ユダヤ人達のタルムードやラビ達は次のように著述しなかっただろうか。もしユダヤ人が異教徒を殺害したとしても、殺す事は罪ではない。しかし彼がイスラエルの兄弟を殺すならそれは罪である。もし彼が異教徒に対して彼の警約を守り続けなかったとしても罪ではない。それ故に異教徒から盗んだり略奪したりする事は(彼等が高利貸しにおいて為すのと同様に)神聖なる仕事なのである。というのは彼らは自分達が高貴な血筋であり割礼を受けた神聖なる人間であり、一方我々は呪われたゴイムであるが故に、我々キリスト教徒に対し罪深くあり過ぎるという事は決してあり得ないという風に考えているのである。そして彼らは世界の主人であり、我々は彼らの召使い、そう彼らの家畜なのである。 要するに、ラビ達が彼らに教えたように、そしてまた福音書の著者達が我々に告げたように、ユダヤ人達は、父母を祝福する事に関する第五の戒律を廃止したのである。(マタイ伝第15章6節「あなた方は『父又は母を敬わなくてもよろしい』と、言っている。こうしてあなたがたは自分達の言い伝えによって、神の言葉を無にしている」。また、マタイ伝第23章13節「偽善な律法学者、パリサイ入達よ、あなたがたはわざわいである。あなたがたは天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人々を入らせもしない」とあるように、彼らはより恥ずべき教義を実践してきているのである。マタイ伝第5章28節「しかし私はあなた達に言う。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである」も、言うに及ばぬ事である) 今日まで、ユタヤ人達はこのような教義にしがみつき、彼らの先祖達と同様に振舞っている。可能な所ではどこでも、そして彼らの子供達に教え続けられる所ではどこでも神の言葉を曲解し、貪欲で、高利賃を営み、盗み、殺人を犯しているのだ。 |
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●ユダヤ人はひそかにわれらキリスト教徒を呪う さらに彼らの顕著な特徴として、自分たちのあいだで次のように言い合うことで、彼らの信仰とわれわれへの激しい憎悪を強めていることが挙げられる。 〈いかに神がわれらと共にあるか、そして流浪の身であるわれわれを見捨てていないか、見守り続けよ。われわれは働かず、よき怠惰な日々を満喫している。そして、呪われたゴイムは、われわれのために働き続けなければならない。われわれは彼らの金銭を手に入れる。それゆえにわれらは彼らの主人であり、彼らはわれわれの召使いである。イスラエルの子どもたちよ、事態はさらに良くなっていくであろう。もしもわれわれがかくのごとく継続し、異教徒たちの「ヘムダート」(欲望、財産:ヘブライ語)を高利貸しによってわれわれのものにしてゆくならば、われわれの救世主がやって来られるであろう〉 (歴史的な聖書注釈の長い論述のあとに、すでにこの時代にルターが「タルムード」〔ユダヤの律法とその解釈〕と「シュルハン・アルク」を知っていたことがわかる大変興味深い一節が続いている。このことが、ルターのユダヤ問題における態度の変化を説明する) |
異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード | |
異教徒の哲学者や詩人達は神の統治や来世についてのみならず、現世の美徳について彼らよりはるかに立派に著述している。キケロや、彼に同様な人々によって示されたように、人間は生まれつき他者に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、特に必要な時には、彼らに対して、誠実で役に立たねばならないと彼らは記述しているのである。 さて、私は三つのイソップ物語の中にはタルムード主義者やラピ達のすぺての著書の中によりも、そしてユダヤ人達の心の中にこれまでに育まれてきたあらゆるものよりも、さらに多くの知恵が存在している事を主張したいと思う。人は私が少し言い過ぎていると思うかもしれない。しかし、私は云い過ぎどころか、あまりにも少ししか言っていないのだ! と云うのは、私は、彼らがその著書の中でいかに我々ゴイムを呪い、自分達の学校や礼拝の場で、我々に災いがふりかかる事をどれほど望んでいるか、良く理解しているからである。
しかしながら、我が下劣でにせ者のユダヤ人達は彼らが可能な所ではどこても、そして彼らにできる事であればなんでも、何の理由もなしに我々を呪い、憎み、害悪を与えねばならないと考えているのである。だから彼らが神の子ではない事は確賞な事なのである。この点に開しては後に更に述ぺる事としよう。 |
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●異教徒の哲学よりも邪悪なタルムード 異教徒の哲学者や詩人は、神の統治や来世のみならず、現世の美徳についても、彼らよりはくかに立派に著述している。キケロや彼と同様な人びとによって示されたように、人間は生まれつき他人に奉仕しなければならないし、敵に対しても約束を守り、とくに必要なときには、彼らに対して誠実で役に立たねばならないと彼らは記述している。 〈あなたがたを捕らえている都市の王のために祈りなさい。彼らの平安はまたあなたがたの平安なのだから〉 しかし、わが国の下劣で偽者のユダヤ人たちは、可能なところではどこでも、そして出来ることであればなんでも、なんの理由もなしにわれわれを呪い、憎み、危害を加えねばならないと考えている。従って、彼らが神の子でないことは確実なのである。この点については、あとでさらに述べることにしよう。 |
彼5はイエスの御名を冒涜する |
(偽りの名でイエスに対する自分達の憎しみを隠し持っているユダヤ人のすれっからしなやり方に対する諸論述は、大変興味深いものがる。ここでは次のように云われている)
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●彼らはイエスの御名を冒涜する (偽りの御名でイエスに対して憎しみを隠しもつユダヤ人たちの擦れっからしなやり方についての諸論述はたいへん興味深いものがあるが、ここでは次のように述べている) |
彼らは処女マリアを売春婦と呼ぶ |
かくして彼らは彼(イエス)を売春婦の子と呼び、彼の母マリアを売春婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。まことに不本意な事であるが、私は悪魔と闘うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人達がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受け入れてしまわぬよう、我らの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。
サバスティアヌス・ムエンスターもまた彼の自著「Biblia」の中で、聖母を「マリア」と呼ばず、「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると云われていると指摘している。そして、ユダヤ人達が彼らの仲間内だけでなしているもっと多くのことを誰も知る事はできないのである! (ルターは救世主やバーコハブについての入念で厳密な議論においてユダヤ人的性格、彼らの著書、願望に開する彼の博識の完全さを示し、最後に、いわゆるキリスト教徒の中に於ける「捕囚」の問題に到達する)
これらすぺてに加えて、誰も彼らを今日において拘束しているわけではない。土地も公道も彼らに開放されている。彼らがその気になればいつでも自分達の国へ移動できるのである。我々は彼らから自由になるために彼らに提案をしたい。彼らは我々の国にあって疾病やペストそして災難以外の何物でもない、我々にとっての重い荷物である。ある人間が自らの家の中である者に我慢ならぬ時、読者はそ奴を捕らえられていると云うであろうか。 |
●彼らは聖母マリアを娼婦と呼ぶ かくして彼らは、彼(イエス)を娼婦の子と呼び、彼の母マリアを娼婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。実に不本意なことであるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。 |
彼らは我々の富をつかって我らを奴隷とする |
こうしたやり方で悪魔が我々キリスト教徒の間に自分の天国を持つ事ができた暁には、悪魔は笑い踊るのではなかろうか。そこでは彼の使徒であるユダヤ人を通して悪魔は我々の所有物をむさぼり食らい、我々に感謝して神と人間を冒涜し呪い、我々の口と鼻を呪詛で満たすのである。彼らがダピデ王やソロモン王の下でのエルサレムで自分が所有していたものは、我々の下で日々盗み略奪しているほどではなく、これほどに良き日々を享受する事はできなかったのである。 それでも彼らは、我々が彼らを捕囚していると文句をいうのだ。そうなのだ、我らはユダヤ人達を所有し、捕囚している。丁度私が自分のリューマチや「肺病」や、他のすぺての病や不幸を持ち続けているように。誰が自分の持つ金や財産やすぺての物を持参してまで貧しい召使いとして待っていなければならないのか。私は、それらの災いがユダヤ人とともに、そしてまた彼らと一緒に居たい者は誰でもエルサレムへ行ってくれれぱと心より願う! |
●彼らはわれわれの富を使ってわれらを奴隷にする |
彼らはモーセを裏切る事さえする |
ユダヤ人達はいつでも、モーゼが異邦人に封し高利貸しを営む事を彼らに許可したのだと公言する。(申命記第23章20節「異邦人からは利息を取って貸しても良い。ただ兄弟同胞からは利息を取って貸してはならない。これはあなたが入って行き住み着いている地で、あなたの神、主がすぺてあなたのする事に祝福を与えられるためである」。) これ以外には彼らに有利な章句は何もない。 だが彼らがローマ皇帝の領土である外国にいてモーゼの教えに従おうとしないのであれば、彼らは皇帝の法を守り、モーゼの戒律に徒うようになるまでは、彼らより身分が上位の方達に逆らって高利貸しを営むぺきではない,と云うのは、彼らが所有すぺき土地、あるいはイスラエルの国とはカナンの反対側の岸であるからである。 |
●彼らはモーセを裏切りさえする ユダヤ人はいつも、モーセが異邦人に対して高利貸しを営むことを彼らに許可したのだと公言する(「外国人から利息を取ってもよいが、あなたの同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたの神、主が、あなたの手のわざのすべてを祝福されるためである」申命記第二十三章二十節)。これ以外に彼らに有利な章句はない。 〈あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない〉(「創世記」第四章十九節) 彼ら神聖な民がストーブのまわりに陣どって怠けながらわれわれのパンを貪り喰らい、自分たちはキリスト教徒の主人であるなどと法螺を吹いて、われら呪われたゴイムを働かせ額に汗を流させるなどということを許してはならない。彼らの怠惰は自分たちの過去から生じたものなのである。だが、彼らをわれわれに奉仕させたり働かせたりするときは、われわれとその妻、子どもたち、召使、および家畜などを身体的に傷つける可能性がある。なぜなら、そうした労働になれていない世界の高貴な王侯ども、すなわち有毒な苦い蛆虫は、呪われたゴイムのもとでみずからを卑しめる行為をするのは極めて不熱心なはずだからである。 |
我らの富で慈善をなす |
ユダヤ人達は多額の金を政府に与え、それによって政府の役に立っているといわれているとのことである。然り。しかし、彼らはそれをどこから得て与えているのだろうか。それらは彼ら自身のものでなく、ユダヤ人達が高利貸しによって統治者達と臣下達の財産を奪い、それを与えているだけである! かくして、統治者の歴々はユダヤ人に取られたものを臣下の方達から取るのである。つまり、臣下の歴々はユダヤ人達の為にお金を出さねばならず、お金を巻き上げられるという二重の災難を被らねばならないのである。こうしてユダヤ人達は我が国の中で自由に嘘をつき、悪態をつき、呪い、盗みつつ居座っている事ができるという仕組みなのである。 彼らがあらゆる種類の悪徳をなすぺく、この国に滞在して居る事をみすみす許しておくぺきではないのではなかろうか? そしてまた我々が馬鹿にされ、彼らにお金を与えるためにあちこち鼻面を引きずり回される様子をやけっばちのユダヤ人違が高笑いしている事を。それらすぺてに加えて彼らは我々の汗と血によって金持ちとなり、一方我々は貧しくなって行き、彼らによって干からびるまて吸い取られつつあるのではないのか? もしそうした事が正しいなら、召使い、客あるいは捕虜は、主人に毎年10フロを与え、その代わりに千フロを盗んでいる事になる。召し使と客はすぐに金持ちとなり、雇い主と主人は短期間に乞食となるであろう。ユダヤ人達が、たとえその様な金額の金を万が一にも自分たちの財布から役所に与える事ができたと仮定しても、(そんなことはできない話しではあるが)彼らはそれによって自分たちの会堂で我らの主キリストについて嘘をつき、中傷し、つばを吐き、呪う事がおおっびらに保護される構利を我々から手に入れようとするのである。 そしてまた、我々の上にあらゆる種類の不幸−即ち、我々すベてが傷つけられ、我らのハマン(訳注・ユダヤ人達を減ぼそうとしたが、計画が露見してしまい、自分が作った高い絞首台で虚刑されたペルシャの大臣、エステル書参照)や皇帝、君主、諸侯、妻そして子供たちと共に減亡するのを望むのであり、且つまた、主キリストや全キリスト教界、我々の統治者の方々、我々の妻達、子供たちが哀れなまでに安売りされる事になるといったあらゆる種類の不幸が降りかかるよう彼らが望む事が保護されるのを手に入れようとするのである。 裏切り者のユダヤ人達は我々よりもずっと聖人の価値があるかもしれない。そう、ただし、ユダヤ人達が年に10万フロを寄進してくれる事ができればのはなしてはあるが。そうだとしても、我々は、彼等が一人のキリスト教徒を冒涜し、呪い、つばをかける権限を持つ事を許したり、彼らに高利貸しを営む事を許してはいけない。そんなことをすれば我々は自分達をあまりに安値で売り渡す事になってしまうことになるからである。 全キリスト教界と我々全員が自分達自身の金によって買収され、また高貴な方々や領主の方々全員の頂点にいるユダヤ人によって悪態をつかれ、呪われ、軽蔑の笑いにさらされるといった事を我らが許すなどというのであれぱ、それは何と我々の許容の範囲をはるかに越えた事であろうか! 悪魔とその使者にとってそれは何と楽しい事であろうか。それらの事態はまるで子豚に歯をむき出す雌豚のように彼らが我々を馬鹿にして鼻先でせせら笑うといった事になるかもしれない。だがそうした事は神の御前ではまさに天罰に値する事なのだ。 |
(私論.私見)