ユダヤ人と彼等の嘘その1、序文

 (最新見直し2014.01.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ユダヤ人と彼等の嘘 目次: マルチン ルター著」のbP」は、ルター著「ユダヤ人彼らの嘘」に次のような序文を付している。これを転載し、解説しておく。

 2007.5.24日 れんだいこ拝


 

 この書を読むことはこれまでに出版された本の中でも、もっともセンセーショナルで考えさせる言に触れることとなるであらう。プロテスタンティズムの開拓者であるルター師によって書かれたこの論文を出版する者たちは必ずしもこの書物と自分たちが同じ立場であるとして出版するわけではない。この出版の主な理由は公人にとって、論議するにはもっともデリケートで危険な問題の一つであるユダヤ人問題についてルーテルがいったことの正確な翻訳を読者に提供することにある。

 この翻訳は宗教的な仕事とか、党派的な論文といふことでなされるわけではない。我々が原語でこの本を見つけ出し、その翻訳の手配にかかったとき、我々は、広範な、様々な方面からの妨害に直面して、驚かされることとなった。2人の翻訳者が脅迫を受け、文章は簡潔であるにも関わらず、かなり劇的な経験を経て、初めて我々はその翻訳を完成し得たのである。この本の翻訳(作業を経る事)によって、我々は次第にこの書物を隠されたままにしておこうとする巧妙に組織された陰謀が存在することを確信するに至った。

 ルーテルにとって、ユタヤ人と関わったその経験は彼を失望させるに充分なものてあった。彼はユダヤ人たちを永年にわたり改宗させようと努力し続けた。聖パウロのように彼はユダヤ人たちに福音を伝えようとした。しかし読者もすぐ理解するように、後年彼は、自らのこの方面での努力は全て無駄であったとの結論を付けるのである。

 本書は何よりも内容の正確さを尊重する立場から出版される。それゆえ、もしこの書の中に十六世紀、ドイツの高度な専門的知識を持った研究者の手によって誤りが発見された場合、我々はそれを次の版で改定する用意がある。この小さい本に封する需要は非常に大きいので我々はそれが数限りなく版を重ねるのを期待している。我々は誠実なキリスト教徒のあいだにマルチン・ルーターほどの卓越した人物の著作が彼の数知れぬ崇拝者達の目から巧みに且つ、故意に遠ざけられたままであったという事実に封する深い怒りが起こっていることを発見している。

 ルーテルの幾つかの言は、読者に衡撃を輿えずにはおかないであろう。しかし、この改革者の言葉に我々が同意するかしないかではなく、彼が書いたそのままのものを読者に提供すること、これこそが我々の仕事なのである。

 この翻訳は一つの基本的な目的のためになされる。即ち、我々の世代がユダヤ問題に直面した初めての 世代ではないということを知るために。それは、また、第二の目的のために出版される。即ちユダヤ問題に警戒心を持つという事が、そのままこの問題に警戒心を持つ人間が必ずしも堕落していたり、キリスト教精神に反しているわけではないのだという事をあらわすためにである。

 (注)疑惑を持つ人々ヘ

 この著作がマルチン・ルターのものであるかどうか疑いを抱く人も何人かいるであろう。本書の原文に関してはワシントンDCにある国会図書館や、幾つかの信頼されるぺきルー テル派の神学校にあるルーテルの著作集の中に見つけることができるてあろう。すぺての宗派の教恨りない聖職者達がこの著作の存在に気付いている。我々が確かめうる限りにおいて、彼らは又本書がアメリカで出版される最初の英語版てあるという事実にも気付いているのである。

 (注)

 このルーテルの著書は彼の全著作の最後のものの中にある。ルーテルは六十三才までしか生きず、その人生の最盛期に亡くなったのだということを思い起こさねぱならない。

 (注)

 この著作の読者はルーテルのユダヤ人に封する見解がプロテスタントの立場からの必然的なものであると結論づけないで欲しい。(実は、この問題に関して)多くのカトリックの教皇達もルーテル師が用いる言葉程、強くはないとしても、同程度の強さの言葉は使用していたのである。事実、教皇の回勅によってゲットーが創設され、ユダヤ人と、キリスト教徒社会を分離することがローマから発せられた回勅によって開始されたのである。この注の目的は読者に問題は単にプロテスタントとか、カトリックとか、また他のいかなる宗派にもあるのではないということに注意を喚起することにある。すぺての信仰するものが、ルーテルに同意するかしないかなのである。


 ★阿修羅♪ > カルト11」の仙芳丸氏の2013.7.2日付投稿「ルター「ユダヤ人と彼らの嘘について」(1)」を転載する。

 宗教改革者のルターは、偽ユダヤのタルムード思想を持つバビロン海賊団に対して、晩年に彼らの鬼畜振りに気付き、彼らについて
・シナゴーグやイェシーバーを、跡形残らず徹底的に焼き払うべし
・更にユダヤ人の所有する家をも打ち壊し、所有者を田舎に住まわせるべし
・宗教書を取り上げるべし
などと提言している。500年前のドイツにおいての文書を下記のリンクから拝借してその抜粋を学びたい。(全10回)
 http://rekishijyoho.seesaa.net/article/27881256.html

 ルター「ユダヤ人と彼らの嘘について」(1)

 これからご紹介する『ユダヤ人と彼らの嘘についてOn the Jews and Their Lies』は1543年にマルティン・ルターによって出版されたドイツ語原本の英語版を邦訳したものである。(訳者/島講一)

 この翻訳は、偉大な宗教改革者が人間関係における世界でもっとも深刻な問題の一つを取り扱った文書の最初にして唯一の英語版である。マルティン・ルター師がユダヤ問題を扱ったことは、実は一貫してアメリカ国民には隠されてきており、本論文の出版は、キリスト教国アメリカに深刻な衝撃を与え、変化をもたらすことになるだろう。

 ●発行者序

 本論文を読むにあたっての心の準備として、あなたはこれまでに出版されたもののなかで最も物議をかもし、思想的に注意を引いたものに触れようとしているということをお伝えしておきたい。新教(プロテスタンティズム)の開拓者であるルター師によって書かれた本論文の発行者は、必ずしも自分たちが同じ立場にあるので出版するというわけではない。出版の主たる目的は、公けに論議するには最も微妙で危険な問題の一つであるユダヤ問題についてルターが述べた内容の正確な翻訳を読者に提供することである。つまりこの翻訳は、宗派的作業または党派的論文として行なわれたわけではない。

 原語の本論文を発見し、翻訳を始めようとしたとき、多方面からの広範な妨害に直面して驚かされることになった。二名の翻訳者が脅迫されたのである。文章は簡潔であるが、かなり劇的な体験を経て、われわれは翻訳を完成した。翻訳する過程で、われわれは、本論文を秘密にしておこうとする巧妙に仕組まれた計画が存在すると確信するに至った。

 ルターにとって、ユダヤ人との体験は失望させるにじゅうぶんなものであった。彼はユダヤ人を長年にわたって改宗させようと努力しつづけた。聖パウロのように福音を伝えようとしたのである。だが、読者もすぐにわかるように、後年にいたって彼はそうした努力はすべて無駄であったという結論を下さざるを得なかった。本論文は内容の正確さを何よりも尊重する立場から出版される。それゆえ、一六世紀のドイツに関して高度な専門知識を有する研究者が見て誤りが発見された場合には、次の版で改訂する用意がある。本論文についての需要は非常に大きいので、数かぎりなく版を重ねることをわれわれは期待している。

 マルティン・ルターほどの傑出した人物の著述が、巧みに故意に、ルターの崇拝者たちの目の届かぬところに隠されたままであったという事実に対して、誠実なキリスト教徒のあいだに深い怒りが起こっている。ルターのいくつかの言葉は読者に衝撃を与えずにはおかないであろう。われわれの仕事は、彼が書いた内容をそのまま読者に提供することであり、その内容にわれわれが同意するかどうかは関知するところではない。

 この翻訳の基本的な目的は、ユダヤ問題に直面した世代はわれわれが初めてではなかったことを知るためである。第二の目的は、ユダヤ問題に対する関心は、関心の対象となっている個々人が堕落していたり、非キリスト教徒であるからとは、必ずしもかぎらないということを知るためである。  発行者

*原注一――読者は、ルターのユダヤ人に対する見解がプロテスタントとしての立場から必然的に生じたものであると結論づけないでほしい。多くのカトリックの教皇たちも、ルター師が使った言葉ほど強くはないとしても、大同小異の言葉を使っている。事実、教皇の回勅によってゲットー〔ユダヤ人居住区〕が創設され、ユダヤ人をキリスト教徒の社会から分離する政策は、ローマから発せられた回勅によって始められたのである。本注記の目的は、プロテスタントまたはカトリックないしは他の宗派に問題があるわけではないということに注意を喚起するためである。あらゆる信徒が、ルターに同意するか否かなのである。

*原注二――本論文がマルティン・ルターのものであるかどうか、疑いを抱く人もいるであろう。原本はワシントンDCの議会図書館に、または信頼しうるいくつかのルター派神学校に保存されているルター著作集に見いだすことができる。あらゆる宗派の無数の聖職者が本論文の存在に気づいているのである(訳注)。また確かめうるかぎりでは、本論文がアメリカで出版される最初の英訳版であるという事実にも彼らは気づいている。

*原注三――本論文はルターの全著作の最後の部分に含まれている。彼は六十三歳までしか生きなかったが、人生の最盛期に亡くなったのだということを想起しなければならない。

*訳注――H・H・ベンサソン著『ユダヤ民族史』(村岡崇光・訳、六興出版)の第四巻(一四八〜一四九ページ)にこう書かれている。
〈一五三〇年代の後半から現われはじめたルーテルの態度の変化は、ユダヤに対する約九百年前のマホメットの態度の変化に類似した点がある(第三巻中世篇T40‐41頁参照)。この二人の宗教革新者はいずれも、彼らの信仰の優越性とユダヤ人の聖書に対する信奉がユダヤ人を自分たちの信仰に改宗せしめるであろう、とはじめは期待したのだが、この期待が裏切られると、それぞれが置かれた社会の一般的傾向は彼らを反ユダヤ主義の方向へ押しやった。二人ともこの反ユダヤ感情を最大限に表現した。ユダヤ人はルーテルの信仰に帰依しなかったのみならず、キリスト教内に起こりつつあるこの変化が、ルーテルをも含めてすべてのキリスト教徒をユダヤ教に改宗せしめることを期待すらした。一五四三年にルーテルが『ユダヤ人と彼らの嘘について』(Von den Juden und ihren Luegen)と題する恐るべき中傷論文のなかで書いていることは嘘ではないであろう。
〈三人のユダヤ人の学者が、われわれが当地ヴィッテンベルクでヘブル語を読みはじめたというので新しいユダヤ人に会えるものと思って私のところに訪ねてきた。彼らは、われわれキリスト教徒が彼らの書を読みはじめたからには、われわれが変わるのもそう遠い先のことではなかろう、とまで信じこんでいたようである。私が彼らと議論すると、彼らは彼ら流の独自の解釈を私に示した。私が聖書の原文に戻るように彼らに仕向けると、彼らは言葉をにごして、われわれが教皇や学者たちを信じるように、彼らも彼らのラビを信じなくてはならない、と言った。私は彼らを不憫に思って、イエスのために、道中無事に旅行できるように紹介状を認めてやった。しかし、彼らはイエスのことを『はりつけにあった者』と呼んだことが私に知れた……それゆえ、私はユダヤ人とはもうかかわりたくない〉(W. Linen, ed., Luther's Kampfschriftengegen das Judentum, Berlin, 1936, p.144)(続く)  


   「★阿修羅♪ > カルト12 」の仙芳丸氏の2014.1.23日付投稿では「偽ユダヤに対するルターの6提言;会堂学校廃絶、家没収、タルムード没収、ラビ追放、旅人放置、高利貸し禁止」としている。


【マルチン・ルターのユダヤ主義批判、タルムード観】
 ルターは、キリスト教史上、カトリックの体制腐敗を告発しプロテスタント運動を誕生させた史的意義を持つと同時に、他方で、さほどに注目されていない、というか実際には隠蔽されているのであるが理論実証的なネオ・シオニズム的ユダヤ主義批判をしている。東洋の我々は、西欧社会のこの対立、亀裂の深さ凄まじさにつき無知のまま国際社会の波に揉まれてきた。この無知蒙昧はいつまでもは通用しないであろう。

 これにつき、
「角笛」「キリスト教への攻撃」「あやしいメシアニックジュー*ユダヤ人キリスト教徒の隠された使命とは」を参照する。概要次のように述べている。

 「マルチン・ルターはその改革の初めにはユダヤ人の助 けを受け、自らフリーメーソンであったらしい。しかし、ヘブ ライ語、ギリシャ語に極めて秀でていた彼が一度タルムードを読むに及んで、彼のユダヤ人観を一変させた、という。

 マルチン・ルターは、『ユダヤ人と彼らの嘘』というバンフレットを作成している。彼は、その中で『歴史的ユダヤ人』についてあますところなく論述している。その舌鋒は鋭く、理論的であり、彼以外にはこの様なものを書く事はできなかったに違いない。そういう意味で、ルターは天才であった。同じく、ルターと並ぶ宗教改革の勇者カルビンも、歴史的ユダヤ人』のあまりの非道、不遜にあきれ果てユダヤ人の指導者を焚刑にしている、という。やはり歴史的ユダヤ人』を知っていたのであろう」。


 これによれば、ルターは、ユダヤ教徒が信奉するタルムード(「タルムード考」参照)の批判的研究を通じて、後のネオ・シオニズムに繋がるユダヤ主義に対して猛烈な批判をしていることになる。「ユダヤ人と彼らの嘘」がその代表的著作であるが、日の目を見ていない。

 こうした現状に対し、歴史修正研究所監訳、太田龍・氏解説の「『ユダヤ人と彼らの嘘』(ルター,マルチン著)、『仮面を剥がされたタルムード』(プラナイティス,I.B著)」(雷韻出版、2003.6.20日初版)が出版され、「ユダヤ人と彼らの嘘」が明るみに出された。(紀伊国屋書店版雷韻出版

 次のように推薦の辞が述べられている。
 「本書には、ユダヤ問題研究の古典中の古典、およそユダヤについてまじめに研究しようとする日本人にとって、必読書中の必読参考書、イロハのイとも言うべき、二冊の著作の翻訳を収録した。欧米では、これらの二冊の内容は、ユダヤを批判的に考えようとするものの常識である」。

 ネオ・シオニズム的ユダヤ主義批判研究者にはまさに待望久しい好著の発刊であったことになる。

 太田龍・氏は、2003.8.3日付け時事寸評「ユダヤ批判原典、ルターとプラナイティスの日本語訳出版を祝し、更にユダヤ批判を深めるべく、前進しよう」で次のように述べている。

 概要「ルター,マルチン著『ユダヤ人と彼らの嘘』とプラナイティス,I.B著『仮面を剥がされたタルムード』の二冊の本は、現代世界に於ける、まともなユダヤ批判の原典であって、今日以降、この二冊をまじめに研究することなくして、ユダヤ問題を云々(うんぬん)すべきではないだろう。

 筆者は、平成四年(一九九二年)春、米英に於ける反ユダヤ反イルミナティ反フリーメーソンNWO陣営の英語文献の蒐集調査研究を始めると、ただちに、そのことを悟った。そして、その二冊を熟読すると共に、何とかして、その内容を、日本語に翻訳し、広く、日本民族有志に周知せしめなければならない、と念願した。そして、今、雷韻出版によって、その願いが現実のものと成る。

 マルチン・ルターの小著(ドイツ語)は、十六世紀、プラナイティス師の著作は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ロシアのカトリック教会により、ラテン語及びヘブライ語で出版された。かってのロシア帝国の国教は、ギリシャ正教、ないし東ローマ帝国のキリスト教会の系統のロシア正教であるが、ロシア帝国の領土には、ポーランドのように、カトリック教会も存在した。プラナイティス師は、ロシア帝国内のカトリック教会の神父であり、また、ヘブライ語とユダヤ教文書の専門学者でもあった。

 さて、以上二冊の、古典中の古典の日本語訳本が日の目を見るに至った今、次の目標が提示されなければならないであろう。

 次に、日本民族有志に紹介さるべき文献は、マイケル・A・ホフマン二世著ユダヤ主義の奇妙な神々(二〇〇〇年)JUDAISM'S STRANGE GODS By Michael A. Hoffman II である。この本は、百四十四頁の小著であるが、その中味は濃い。内容は、三部より成る。即ち、(1)タルムード。(2)カバラ。(3)キリスト教への挑戦。M・ホフマンは、ユダヤ主義は、自己崇拝である(三十六頁)、と定義する。つまり、ユダヤ人(ユダヤ教徒)にとって、自分自身が、崇拝の対象である、と。この件について、注釈説明すべきことは多いが、ここでは省略する。

 更にM・ホフマンは、現在のローマ法王、ヨハネ・パウロ二世が、キリスト教(カトリック)を裏切り、キリスト教(カトリック)をユダヤ主義(タルムード主義、カバラ主義)に売り渡して居ると糾弾する。この評価は正しい。以下略

 一九九五年、米国シカゴのカトリック教会枢機卿、ジョセフ・ベルナルディンはヘブライ大学での講演に於て、ヨハネ福音書を、アンチ・セミティズム(日本流には、反ユダヤ主義)を煽動するものとして弾劾した(百五頁)、だと。(了)


 ユダヤ人と彼等の嘘」に次のように述べられている。

 *この内容は、週刊日本新聞さんのサイトから、転載させていただきました。

 この翻諱は偉大な宗教改革者が、人間関係における世界で最も深刻な問題の一つを取り扱った文書の、最初にして唯一の英語版である。マルチン・ルター(ルーテル)師がユダヤ問題を取り扱ったといふことは事実上、アメリカ国民から一貫して隠されてきており、この本の出版は、キリスト教的アメリカにセンセーショナルな衝撃をあたえ、それに変化をもたらすことを断言するものである。


 2006.2.27日再編集 れんだいこ拝

【小石泉牧師の指摘】
 「以下は小石泉牧師の本からの引用」としてサイトアップされている「タルムード」を参照する。
 これは、何も変なことではない。聖書でもユダヤ人はいつかはキリストを信じると書かれているからである。あのユダヤ教からの脱却を高々と宣言したバウロがキリスト教の基礎ともいうべき新約聖書ロ−マ書に書いているのである。今や、このメサニック・ジューは全世界に何十万人ともいわれる規模になってきた。そして、彼らはいろいろなルートでキリスト教会の中に入り込んできている。それは悪いことではない。ユダヤ人が救われてイユスをキリストと呼ぶことに勝る素晴らしい事もない。

 ただ、なぜかクリスチャンがユダヤ人を自分たちの「信仰の兄」と呼び、彼らが「福音のユダヤ性の回復」などという言葉や本を出すに至ると、私のアンテナは敏感になるのである。実際、「福音のユダヤ性の回復」という奇妙な本は、実に巧妙にキリスト教のユダヤ化、ないしは後退を育んでいるように思えるのである。

 また、ここ数年フロリダ州のペンサコーラという町で強烈なリバイバルと言われる現象が起こっている。何万人もの人々が救われ、悪い道から改心し、麻薬から解放され、犯罪が滅少している。それ自体、悪いものではなく、極めて健全なものに見えるのだが、その中心的指導者には幾人かのユダヤ人がいる。私が、ここまで書くと恐らく幾人もの人々が「なぜユダヤ人ではいけないのか。それは
人種的な偏見で、お前こそ悪いのではないか」と言ってくるに違いないことが私にはありありと分かる。ユダヤ人で何が悪いのか?

 私には消えない一つの懸念がある。それはタルムードである。もし、メサニック・ジューがタルムードを非難し、そこに書かれているイェス・キリストへの冒涜とキリスト教徒を殺害することを目的としているこの書を恥とし民族を代表して悔い改めるのでなければ、私には彼らが本心においてはマラノでありキリスト教会を誤導するために遣わされた蝶者ではないのかと言う疑いを持たないわけにはいかない。ここで言うマラノは、強制されてではなくある目的を持って本心を隠してクリスチャンを装っていると言う意味に置いての言葉である。

 マルチン・ルターはその改革の初めにはユダヤ人の助けを受け、自らフリーメーソンであったらしい。しかし、彼が一度タルムードを読むに及んで(彼はヘブライ語、ギリシャ語に極めて秀でていた)彼のユダヤ人観は一変したという。私はまたしても友人を失うだろう。
 「君は余りにも疑り深い。君の事を聞いていると希望も信仰もなくなってしまう。なぜ、聖霊に逆らうのかね。神の御業に難癖を付けるのかね。見たまえ、兄弟が和合してともに居るのは何と美Lい事ではないか」。

 しかし、私はただ一人になっても、ユダヤ人の中にタルムードがあるかぎり「へびのように聡くあれ」と言われた主イェスの言葉に従いたい。





(私論.私見)