キリスト教聖書の構成考

 (最新見直し2007.5.13日)

Re:れんだいこのカンテラ時評269 れんだいこ 2007/03/16
 【イエス教聖書の構成考】

 れんだいこは、キリスト教の現在に至るまでの教義構成に異を唱えたい。どうやらキリスト教は、キリスト教として教義確立して以来、開祖イエスの御教えを裏切り続けている可能性が高い。そういうことに気づいた。以下、これを論述する。

 現在の聖書構成はいかにもキリスト教的であるが、元々のイエス教の観点から見ると大いに問題があると考える。というのは、イエスに於いては、キリスト教で旧約聖書とされているユダヤ教聖書に対し、踏襲すべきほどの大きな意味を持たせてはいないと考える。ここは大事なところである。イエスにあっては実際には、ダヤ教聖書は批判の対象であり、その中核的教義である天地創造譚、モーゼ諸律法、預言者の言葉等々に関して、パリサイ派その他本部神殿派、律法学者との論争の都合上熟知しておく必要があり、実際に熟知していた訳であるが、その限りで引用したり説法したに過ぎないと考える。

 イエスは、ユダヤ教聖書を教義として学ぶよう唱えていない。否応なくユダヤ教聖書の宗教観に染まっている面は認められるが、ユダヤ教聖書の選民主義宗教観からの脱却解放を唱えているように認められる。ならば、キリスト教が、ユダヤ教聖書を旧約聖書と位置づけ、先行教義的地位を与えてキリスト教教典に取り込んでいるのは、イエス派の教義を継承する者としては相応しくない態度であろう。旧約聖書は、元に正しくユダヤ教聖書としての座に戻し、キリスト教教典の末尾に参考文献としての地位を与えるべきであろう。教義をかく再構成し直すべきである。

 しかるに、キリスト教は何故にユダヤ教聖書を旧約聖書として崇めるべく取り込んだのか。ここに思案を廻らせねばならない。それは、原始イエス教時代の教徒が福音書執筆に向かった時代において、転宗ユダヤ教徒がそれを作成したからである。彼らはユダヤ教を母斑としており、イエス教を受け入れた後も棄教することがなかった。むしろ、両者の折衷に向かった。故に、イエスをイエスとして理解するのではなく己の甲羅に合わせてイエスを理解し、ユダヤ教聖書を旧約聖書と見なして、それを第一教義と捉え、しかる後にイエス伝を各福音書で列ねその総合を新約聖書とし第二教義とした。キリスト教は、ユダヤ教とイエス教をかく統一的に教義構成した。しかし、ここにそもそもの間違いがあるように思われる。

 且つイエスを称えるのに、各福音書は競ってユダヤ教的神学理論と話法に依拠して書き上げている。特にルカ伝、ルカ伝よりもヨハネ伝にその傾向が著しい。これにより、イエスの御言葉の瑞々しさが損なわれている。というか、ユダヤ教的に捉えたイエスのキリスト化へと歩を進めている。しかしそれはイエスの歪曲でしかない。そういう訳で、キリスト教徒がイエスを知る為には、閉塞偏狭化されている虚像イエス福音書の中に僅かに潜む実像の断片を汲みだして思案し直さねばならないという厄介な仕掛けになっている。

 こうして、イエス教を広める役目を帯びてキリスト教が生み出されたが、この時点で、教義構成の間違いとイエスの言行録記述の間違いが定式化された。この間違い定式が積み重ねられるに及び、キリスト教は次第に本来のイエス教から離れていくことになった。つまり、キリスト教は、その発足の当初よりイエスの御教えとユダヤ教の二足のわらじを履いていることになる。れんだいこはこれをキリスト教の原罪としたい。この原罪が無意識、意図的、故意、過失のどれで行われたかは定かではない。これについては更に検証したい。

 他方、イエスのキリスト化は不可避必然であった。なぜなら、イエス自身がキリストを任じていた形跡が濃厚であるからである。それは、優勢のパリサイ派に対する劣勢のイエス派が対抗する為の止むを得ない自己の絶対化であったのではなかろうか。それはともかく、れんだいこ観点によればその場合でも、第一にイエスの言行実践録、第二に福音書、第三に使徒言行録、第四に書簡、第五に参考文献として黙示録、第六に参考文献としてユダヤ教聖書となるべきであり、かく構成するべきであった。これが総じてイエス教ないしはイエスキリスト教と称せられるべきで、単にその聖書と名づけられるべきであろう。

 これによれば、旧約と新約の識別は不要である。ユダヤ教にはユダヤ教の聖書があり、キリスト教にはキリスト教の聖書があるという立場の違いが画然となった筈である。それで良かった。イスラム教にはコーランがあるように、仏教各派にはその教典があるように、キリスト教も単に自らの教典を持てばよかった。キリスト教は、本来そう画然とさせるべきであったのに為さず、ユダヤ教と折衷混淆させてしまった。第一に旧約聖書、第二に福音書、第三に使徒言行録、第四に書簡、第五にて黙示録という構成にしてしまった。こうして、本来ならイエス教教義原典とは到底為し得ないユダヤ教聖書、黙示録に重要な地位が与えられ、イエスの言行実践録よりもユダヤ教聖書、黙示録に関心を寄せるキリスト教徒を生み出すことになった。

 それによって、キリスト教を学びながらユダヤ教を学ぶばかりと云う変態が起こることになった。イエスの御教えが隠されてしまったばかりか逆に、第一に位置づけられたユダヤ教聖書を学ぶことが信仰の始まりとされ、こちらが主にされる始末となった。イエスの御教えそのものが従になり、その御教えもユダヤ教神学的にねじ曲げられた福音書を通じてしかイエスを窺い知ることができなくなってしまった。ここに、キリスト教のそもそもの教義ねじ曲げと云う胡散臭さがあるとみなすべきだろう。

 そうは云いながら、各福音書でイエスの残像を偲ぶことはできる。その程度にはイエスが記載されている。しかしながら、それぞれの福音書のイエス像がかなり隔たっており、一向に実際のイエスに迫れない仕掛けにされている。そういう訳で、トンデモキリスト教徒が生まれることになる。どこから見てもイエス教徒では在り得ないブッシュご一統がキリスト教徒として振る舞い、神の名において聖戦を煽り、残虐非道な戦争を仕掛け、それが通用するという痴態が罷り通っている。 悲しいことではあるが、これが実際である。

 日本でも、キリスト教系各派の中には、どこのそれがどうだとまでは指摘しないが、キリスト教という枠内の看板をかけながら、ユダヤ教義で教義を塗り固めているエセ派が跋扈している。あるいはイエスの御教えとユダヤ教義が不恰好に同居させられている。

 問題は、キリスト教の二足のわらじ性のうち、イエスの御教えとは違うユダヤ教義に唆(そそのか)されて、キリスト教の名でもって悪事を謀り侵略と戦争と内乱を引き起こしていることにある。それが為、キリスト教は不当にその名を汚され、悪事に手を染めている。現在日本でも否世界中、「キリスト教の悪の歴史」がキリスト教の本質として左右両翼から指摘されテキストが流布されている。これを能く学んだ者が、宗教問題通として幅を利かせている。実は暗愚者でしかないのだが。これを現代パリサイ派が裏で画策している。キリスト教にはそういう歴史がある。

 しかし、本当は、史上の悪事は殆ど悪魔主義被れのユダヤ教パリサイ派が仕組んだものではなかろうか。ローマカトリック系のキリスト教が常にそれに同調したのは事実ではあるが。彼らの中に浸透した改宗ユダヤ人系のキリスト教徒の殆どが「建前キリスト教徒、本籍はユダヤ教パリサイ派」であることはもっと究明されねばならない。

 れんだいこは、こういう事態が起こるのは、そもそものキリスト教生成過程に於けるイエスの歪曲に原因があると考える。とはいえ、当初の頃はイエスの御教えをそれなりに護持してきた。しかし時代が下がるにつれ、これがイエス教かと面を背けたくなるほどユダヤ教ナイズ化されてしまった。イエズス会系譜のそれはその典型である。現在は、キリスト教圏では更に様々な新興宗教が生み出されているが、より酷いものになっている。

 我々は、イエス・キリスト教の歪曲を黙過すべきだろうか。そういう関心から、れんだいこは、今からでも遅くない、初手に戻ってキリスト教に代わるイエス教の再興と教義の再編成に向かうべしと思っている。イエスの御教えは今もみずみずしいと考えるから。パリサイ派全盛時代の今日、このことが切に求められていると思う。

 イエス論・キリスト論考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/religion_christ.htm

 2007.3.16日、5.13日再編集 れんだいこ拝


【キリスト教の構成】
 「聖書のトップページ」を任意に借用する。新約聖書は、次のような福音書、使途言行録、書簡、ヨハネの黙示録から構成されている。「新約聖書のハイパーテキストへの変換には、日本聖書協会刊行の『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』(1989年版)を使わせて頂きました」とある。2012.3.23日、上記サイトが開かなくなっているので新たに確認しておくことにする。

 
全体の構成は次のようになる。
【福  音  書】 共観福音書 マタイによる福音書 28章
マルコによる福音書 16章
ルカによる福音書 24章
ヨハネによる福音書 21章
追福音書
【使徒言行録】 ルカ伝 使徒言行録 28章
【書簡】 パウロ ローマの信徒への手紙 16章
コリントの信徒への手紙1 16章
コリントの信徒への手紙2 13章
ガラテヤの信徒への手紙 6章
ヘフェソの信徒への手紙 6章
フィリピの信徒への手紙 4章
コロサイの信徒への手紙  4章
テサロニケの信徒への手紙1 5章
テサロニケの信徒への手紙2 3章
テモテへの手紙1 6章
テモテへの手紙2 4章
テトスへの手紙 3章
フィレモンへの手紙  1章
ヘブライ人への手紙 13章
ヤコブ ヤコブの手紙 5章
ペトロ ペトロの手紙1 5章
ペトロの手紙2 3章
ヨハネ ヨハネの手紙1 5章
ヨハネの手紙2 1章
ヨハネの手紙3 1章
ユダ ユダの手紙 1章
【黙示録】 ヨハネ ヨハネの黙示録 ヨハネの黙示録 22章




(私論.私見)