魔女狩り、魔女裁判考 |
(最新見直し2009.11.10日)
西欧的ユダヤ−キリスト教世界の中世から近世に於いて発生した「魔女狩り、魔女裁判」を確認しておく。ネット検索で、各所より引用転載し、れんだいこ風に整序した。 魔女狩りの原基は、ネオシオニズムの摘発にあった。12世紀から13世紀にかけてヨーロッパに「テンプル騎士団」が結社された。聖地への巡礼者を保護することを誓約した修道僧戦士達の結社であり、ソロモン神殿(テンプル)のあった砦の近くに本部を構えたのでこの名がついた。軍旗は、黒と白(白はキリスト者への友愛を、黒はその敵に対する捧猛さをあらわすとしていた)であった。 1128年、トロワ会議の直後、フランス国王が土地を「騎士団」に寄進したのをかわきりに世俗的発展が始まり、たちまち西ヨーロッパ中に黒と白の旗がひるがえった。「テンプル修道院」は公の通貨の保管所として使われ始め、パリの「テンプル騎士団本部」はヨーロッパの金融の中心となっていった。パリ・テンプルの会計局長は、王室の全収入の受取人兼管理人として任命された。この頃、「テンプル騎士団」の悪魔崇拝、キリストに対する呪詛、黒ミサ、儀式殺人的信仰問題が浮上し始めた。 「テンプル騎士団」は壊滅させられていく。その経緯は次の通りである。1285年、「美男王」と称されたフィリップ4世がフランス国王を継承した。フィリップ4世は、「ローマ皇帝を兼ね、聖地エルサレムを奪回し、諸国家同盟を支配し地上に永遠の平和を実現する」という野望に憑かれていた。しかしあいつぐ戦争で国庫は破産に瀕した。フランス国内のカトリック教会に十分の一税を課し、金持ちからは金銀の容器を供出させた。 1306年7月、国内のユダヤ人を逮捕し、財産を没収した。翌年10月、フランス各地のテンプル騎士団員を逮捕し審問にかけた。逮捕の命令書は9月につくられていた。命令書の記すテンプル騎士団の犯罪とは、「彼らがキリストを三度否定し、十字架に三度唾を吐きかけ、男色を犯し」云々、以下、騎士団が犯した犯罪が書き連られていた。騎士団員は、これに基づき審問され、情け容赦ない「拷問」を受けた。自白すれば赦免され自由の身になると囁かれ、多くの者が自白した。かくて、テンプル騎士団は圧殺された。これが、魔女裁判のステレオタイプになる。 西欧史上の中世期、13世紀頃よりヨーロッパ各地で「魔女狩り、魔女裁判」が表立つような形で発生している。主として、カトリック教会権力に対する「異端系譜の弾圧・抹殺」シリーズとして開始された。これが後に異端審問、魔女裁判として定向進化して行くことになる。その背景にあったものの解析は未だ十分にはなされていない。つまり闇に閉ざされている。 魔女とは元々の正式な意味では、ユダヤ−キリスト教的理論とは別系の伝統的な民間信仰・民間療法に関わる霊能者ないしはそう認められたを異能者と考えられる。魔術師とも妖術使とも云われる。オカルト学の世界では両者は識別されている。但し、仕切りははっきりしない。れんだいこが識別すれば、魔術師とはサタニズムに侵されている霊能者、妖術使とは魔術師とは別刑の霊能者ということになる。魔女は、妖術使に対して被せられた事例が多い。 この時代、霊能者に対する迫害が強められた。それには根拠があった場合と冤罪的な場合の二通りが考えられる。後者の場合、「畑を不毛にし、人間や動物を死に至らしめ、嵐を起こし、伝染病を蔓延させるのは魔法使いなのだ」ということから魔法使いである魔女が「サタンのフィアンセ」と呼ばれ迫害された。他方、「サタンと饗宴を行い、恐るべき夜の舞踏と相淫を行う」秘密結社的儀式が催され、摘発された面もあった。この問題は、ここの識別が肝心である。しかしながら、中世期に何故にこの種の蛮行が進行し始めたのか、はっきりしない。 他方、魔女狩りの動きも進行し始めた。キリスト教異端者、あるいはそうみなされた集団に対する弾圧が始まった。最初の魔法使いは、悪魔を崇拝するとされた異端者ワルド派の人々であった。リヨンの商人ピエール・ワルドは、12世紀に福音に適った清貧を説き実践したが、ローマ教皇によって異端と宣告された。彼らは、アルプスの谷間に隠れ家を見いだした。ドミニコ派の修道士の異端審問官が、「彼らは、ありとあらゆる反キリスト的な行為を行い、自然災害や病を起こす張本人」と宣告し、容疑者たちは火刑を宣告された。 ワルド事件は、予審が進むに連れて町の上層部等の有力者までが告発されるようになり、町の社会的均衡が損なわれはじめた。公国政府のフィリィップ善良公は訴追をやめさせた。パリの高等法院が犠牲者たちの名誉を回復させた。 この時代、伝染病や災害が起こるたびに霊能者が魔法使いとみなされ、犠牲に供された。 1318年、法皇ヨハネス22世が、魔女狩り解禁令教書を発布した。これにより、異端審問として魔女を裁くことが正当化され、魔女弾圧が本格的な開始された。 1431年、政治的な道具としての異端審問が開始された。英仏間の百年戦争とジャンヌ・ダルクの異端審問がその例証である。やがて魔女裁判に向かう。この年、ドイツのイエズス会士フリードリヒ・シュペーの「裁判官への警告、または魔女裁判について」が刊行され、反響を呼んだ。 1459年、フランス中部のランダルでドミニコ修道会総会が開かれ、ロビネ・ド・ブォーという隠者が妖術を使った罪に問われ、裁判にかけられ死刑に処せられた。ロビネは、死ぬ前に娼婦と画家の二人の共犯者を告白した。異端審問官の要請により、二人の神学博士と司教の判事により、その二人の審問が始まった。当時の審問の仕方は、自白をするまで容赦ない拷問を行うやり方であったので、不運な二人は自分たちが魔法使いであることを認めざるを得ず、さらに数人の共犯者を告発さぜるを得ない事となった。彼らは、全員異端審問から世俗裁判所に引き渡され火刑となった。 同時に、秘密結社の悪魔崇拝的なキリストに対する呪詛、黒ミサ、儀式としての殺人、食人、乱交が摘発された。 1480年、この頃から魔女裁判が狂信的かつ組織的な形を取るに至った。これ以後、妖術師はさまざまな方法によって周囲の人を病気にしたり、死亡させたり、財産とくに家畜を滅ぼし、牛乳を腐らせたりする者だと信じられるようになった。また暴風雨や荒天を悪化させるし、ネコやヒキガエルや三本足の動物に変身する。ホウキの柄や杖や熊手やヤギ、ブタにまたがって空を飛ぶ。姿に関しては必ずかぎ鼻で、鼻はただれ、赤毛、猫背でやせており、杖をつき、頭巾をかぶると信じられていた。更に、社会一般の基準から少しでも外れた者、世論に従わぬ者、付き合いが悪い者などがいると妖術師の疑いがかけられて捕らえられ、魔女裁判にかけられた。この裁判はきわめて残酷な拷問を伴った。 1484年12月5日、教皇インケンティウス8世は、「限りない愛情をもって要望する」の名で知られる教書を公布した。次のように記されていた。概要「いたるところで、男女を問わず多くの人々が、自らの救済を忘れ、カトリックの信仰から逸脱し、男夢魔(インクブス)女夢魔(スクブス)に身をまかせてしまった。それらの人々は呪文やまじない、祓い、その他迷信的な恥ずべき行為や魔術を乱用して、人間や動物のこども、大地の収穫、ぶどうや果樹の実を弱らせ、枯らし、絶やしてしまう」。この教皇の教書によって魔女狩りの火蓋が切って落とされた。この公布で、二人の異端審問官の権限が大幅に拡大された。 1485年、神学者2人による共著「魔女の槌」が発刊された。「妖術に必要な要素:悪魔、魔女、神の許可」、「魔女が妖術を行う方法」、「魔女と異端者に対する教会と世俗制度による法廷・裁判の方法」等々が詳述された。「魔女は、悪魔と結託することによって、おのれの目的を遂げようとする者」と定義された。種々の魔女のタイプの認定、ただの異端者より邪悪な悪魔と結託した異端者(極刑に値する)、低俗な呪術師から高級な異端者への昇格等々が論ぜられた。シュプレンガーは、神学部教授でドミニコ派修道院分院長となり行政家であった。その知的・宗数的権威によって、この書物に道徳的・神学的裏付けを与える役割をはたした。 17世紀に至るまで、この本は魔女狩りの基礎的な手引き書となった。 魔法使いは単に異端者であるだけでなく、悪魔に従ったゆえの背教者であるとして徹底的に責められた。魔法使いがその罪を告白した場合は火刑を宣告された。起訴事実を否認し続けたとしても、悪魔の助言を受けているとされ攻め続けられた。。疑わしい人間は追放された。「一度疑われたら最後」、逃れる術はなかった。 聖職者たちによる宗教裁判は次第に世俗の法律家にその裁きの席を譲り始めた。16世紀以降の魔女狩りについては、宗教裁判所は何の関わりもない魔女狩りが猛威をふるうようになった。っ 魔女狩りの背景には、宗教戦争、30年戦争、フロンドの乱などの長い長い戦争等による戦争原因、、病気、飢饉、ペストなどの伝染病、獣疫による衛生原因、経済状況等による経済原因、政治原因、個々の事故・不幸な出来事による世事原因があった。その不満をそらすために魔女狩りが流行した面がある。 「魔女」とされた人々は、リンチを受け、追われ、鞭打たれ、石を投げられ、棒で打たれて殺された。口伝えの経験的な(薬草等の)治療法の知識を受け継いでいた病気治癒秘法の会得者が槍玉に挙げられた。いつ誰がかく認定されるのか見当がつかなかった。密告が将励された。「魔女」であることの証拠は、告発された人物を石の重りをつけて水に静めて浮くかどうかを見たり、体のあちこちの部分を剌して痛くない部分がないかどうか探したり、涙が出るかどうか試したり、そう言ったことによって証拠が固められた。「魔女になって何年?」、「魔女になった理由?」、「魔女集会で何をした?」、「魔女としてやったこと?」、「悪魔との契約/性交は?」、「共犯者は?」、「ユダヤ教にしたがったか?」、「魔女であったことを認めるか」等々質問されている。 審問の判事の質問にも、罠が仕掛けられていた。「魔法使いの存在を信ずるか」の質問に、「信じない」と答えれば悪魔の存在を否定することになり異端を意味した。「信じる」と答えれば、「ではどこからどうやってそれを知ったのか」と言う質問につながっていく。単なる尋問で自供が引き出せない時に限り、拷問という手段が採られた。拷問の方法は時と場所で違っていたが、苦痛と恐怖を与えることなら何でも実行された。特に火の拷問は効果的であった。被疑者が自白の供述をひるがえしたら拷問が再開された。あらゆる手段で「告発者」の秘密は保証され、訴訟費用はすべて被疑者持ちであった。外界から遮断され、誰が告発者でどういう内容で訴えられたか知ることはできなかった。裁判官はすでに有罪を確信していて、弁護士は自白を勧める。そして、最後の拷問の試練に直面しなくてはならない。苛酷な法の機構は、抵抗する気力を萎えさせ、ほとんどの場合屈してしまった。疑いをかけられた者が、無罪で放免されることはめったになかった。 1459年、フランス中部のランダルでドミニコ修道会総会が開かれ、ロビネ・ド・ブォーという隠者が妖術を使った罪に問われ、裁判にかけられ死刑に処せられた。ロビネは、死ぬ前に娼婦と画家の二人の共犯者を告白した。異端審問官の要請により、二人の神学博士と司教の判事により、その二人の審問が始まった。当時の審問の仕方は、自白をするまで容赦ない拷問を行うやり方であったので、不運な二人は自分たちが魔法使いであることを認めざるを得ず、さらに数人の共犯者を告発さぜるを得ない事となった。彼らは、全員異端審問から世俗裁判所に引き渡され火刑となった。 15世紀に悪魔学の神話が生まれた時、宗教裁判所や教皇に責任があったが、16世紀にはカトリック教会はその行き過ぎに対して距離を置くようになっていた。医師達の中には、悪魔学を信奉する判事を相手に、先頭に立って戦う者も何人かいた。 1563年、ドイツ系オランダ人のヨハネス・ブァイヤーが、「悪魔の妄想、まじないと毒」についての学説を公にした。彼は「魔女の幻惑」という本で、悪魔や魔女にとりつかれた者は何らかの形の異常心理の結果であることを説いた。「魔界王国のメンバー一覧」を発表した。 他にも、フランスの悪名高き妖術裁判官ジャン・ボダン(1530-1596)の「魔法使いの悪魔憑き」、スペインの異端審問官ド・ランクル(1553-1631)の「堕天使と悪魔どもの変節の図」等の著作、イタリアの医師・哲学者カルダーノ(1501-1576)の迷信・悪魔学、ネーデルラント出身の学者デル・リオ(1551-1608)の「魔術探究」全6巻等々が発刊されている。 17世紀、数人の医師が弾圧に反対し最前線で戦った。プロテスタントの人々もサタンの役割は否定しなかったが、魔女狩りについてはカトリック教徒の狂信の表れとみなしていた。17世紀初頭のある裁判では、宗教裁判所の判事の一人が魔女とされた人々を有罪にするのを拒み、数百の互いに矛盾する証言を分析してみせた。 1631年、ドイツのイエズス会士フリードリヒ・シュペーの「裁判官への警告、または魔女裁判について」が刊行され反響を呼んだ。1657年、教皇アレキサンデル7世は判事達に、妖術事件の罪科の決定にあたっては最大限慎重に臨むように勧告した。 1633年、ルービィエの修道女の悪魔憑き事件では、「反悪魔憑き派」の陣営が強力になった。 1657年、教皇アレキサンデル7世は判事達に、妖術事件の罪科の決定にあたっては最大限慎重に臨むように勧告した。 1670年、「刑法大典」が作られた。ここでは妖術について触れられていない。パリの高等法院は最もりベラルな考えを人々に広め、上告された事件はほぼ間違いなく減刑され、死刑は流刑になった。間もなく、大部分の地方の高等法院が、パリの高等法院の判例に従うようになった。 1671年、カプチン修道会士ジャック・ドートン神父の「魔術師と魔法使いについての学者の不信と無知の者の軽信」というフランス法曹界の精神に一大転機をもたらした。画期的な書となった。17世紀に法律家と社会の上層部の世論は、伝統主義から徐々に進歩的になっていった。これには、いくつかの大事件が人々の啓蒙に大きな役割を果たした−ウルスラ会女子修道院のルーダン悪魔事件、そこでの陰謀説などが議論された。高等法院の司法官たちは次第に妖術犯を罪に問わなくなった。パリの高等法院は最もりベラルな考えを人々に広め、上告された事件はほぼ間違いなく減刑され、死刑は流刑になった。間もなく、大部分の地方の高等法院が、パリの高等法院の判例に従うようになった。 1682年、ルイ14世の夫人を巻き込む毒殺事件の結果「魔術師、占い師、毒殺者についての布告」が生まれ、妖術の問題に国が介入した。毒物を使うといった物的証拠があった場合に限り訴追されるという規定が設けられた。啓蒙思想の広がりと共に、妖術は次第に俗信や無知、架空の幻想としておとしめられるようになった。 1692年、アメリカのマサチューセッツにおける時代遅れの魔女裁判とされている。これが魔女狩りのエピローグとなった。 現在まで、「魔女」のレッテルが他のレッテル(ユダヤ人、非国民、共産主義者等々)に置き換えられ、かって魔女に仕立てたように犯罪者として社会的な恪印を押している。昔より群衆心理は、レッテルの虚構を剥ぐよりも、レッテル貼りに狂奔する癖がある。マスコミが、これを煽る癖が認められる。現代の中にも形こそ違うがそれが様々な場面で再現されているように思われる。 |
(私論.私見)