天文学に密接不可分なものとしての囲碁考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).9.10日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「天文学に密接不可分なものとしての囲碁考」をものしておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【天文学としての囲碁】
 碁は元々天文学占星術から始まったという説がある。碁が始められた当時、天文学から易学が発生しており、碁は易ともっとも縁故の深い帝王学であったと考えられている。囲碁を創始したとされている中国の三皇五帝時代の堯、舜が灌漑事業や暦の整備に尽力しているのも、これに絡んでいるのかもしれない。歴史推理として、囲碁は天文学、暦学(こよみ、カレンダー)、占星術(占い)と密接不可分に、それらの学を究める道具として生まれたものと思われる。即ち、碁盤は宇宙、碁石は星の代わりのものであり、「中国で占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと云われている」。

 次のように云われている。
 「碁の始まりは勝負事や遊びではなく、天文と易を占う道具として囲碁が作られた。盤面には縦横19路の宇宙が広がっており、陰陽の動静があり、風雲と四季の変化があり、星辰分布の理(ことわり)がある。占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないか」。

 囲碁がどんな風に宇宙天体を象っているかと云うと、「碁盤は宇宙、碁石は星」、「碁石の丸い形と盤の四角は天地方円」、「天元の星は万物の起源の大極」、「盤面361路を四分して春夏秋冬の四季」、「各90は四季の日数」、「碁石の白と黒は昼夜」を表象させている。かく囲碁が暦(カレンダー)や占いに使われていたとする説がある。

 東宗の儒学者陸象山は、碁について次のように説いている。

 「天元の一子は中央に位して四方に号令する君主のようなもので、この一子を除く三百六十は周天の数と同じで、これらを四分して春夏秋冬の季節となし、一季は一隅に当たる。また外周七十二候にかたちどり、局面を天地に支配して石の黒白を陰と陽になぞらえた」。

 次のように解説されている。

 「囲碁という物は、その現状で見て、天は天圓、地は四角い模様と似ているように作られていて、黒白の争いには、天地陰陽動静の道理が働くのである。囲碁を打っていく盤面上には、天の星のように秩序整然としていて、局面の推移は風雲の変化のような気運を含蓄している。生きていた碁石が死ぬこともあり、全局面を通して変化して行く流れの様相が、まるで山河の表裡の勢いを現わす調和と同じなので、人間世界の道理や浮沈が、全て囲碁の理致と同じではないものはないのである」。

【呉清源棋聖の囲碁天文学論】
 後に日本人として最初のノーベル文学賞を受賞することになる川端康成が、1953年、呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、「呉清源棋談」を著述している。その中で、呉清源棋聖が次のように述べている。
 概要「囲碁は当初には天文学や易を研究する道具だった。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えたと考えるべきである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で教えたのである。囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えられる」。

 碁盤の路数の大昔は17道×17道の289路だったとのことである。凡そ中国の唐の時代から19道×19道の361路になったと云われる。361路のうちの1路は天元が占め、後の360路を四分して春夏秋冬の四季に分ける。1季は1隅である。1隅の数は90であり、1季の日数に匹敵する。外周は19道×4の72路であり、これは天文の月齢に於ける72候を象(かたど)る。盤面は大地であり、石の白黒は陰陽を示す。

 碁盤の路数の変遷につき、「呉清源棋談」は次のように記している。
 「中国の人でありながら、日本に来て、日本の碁界に一つの時代をつくった天才呉清源氏は、盤面が17道から19道になったという説に対して、面白い見解を持っている。呉清源氏は、碁の始まりは勝負事や遊びではなく、天文なり、易なりを研究する用具であったから、初めから天体を象った19道であったと思う、と言っている。それが遊びごとになった時、19路では広過ぎて見当がつかない。碁の技術が未だ幼稚であったので、広過ぎて勝負がつかない。それで、19道を17道にし、15道、13道、11道ぐらいまでせばめた。碁の技術が進むにつれて、逆に11道が13道になり、13道が15道になり、やがて元通りの19道に戻ったのではないのか、と言っている」。

【「呉清源棋談」考】
 日本人として、最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が、1953年呉清源棋聖と三日間寝食を共にしながら、囲碁に関する対談を通して、呉清源棋聖の囲碁哲学と見解を探索した後、当代の屈指の文学家と棋聖との出会いによる「呉清源棋談」を著述した。その中で、呉清源棋聖が次のように述べている。囲棋文化の真髓を探求した内容が一句一句意味深長に語られている。
 「呉清源棋聖の想像であるが、彼の見解では、囲碁の構成が当初には、天文学を研究する道具だったという考えである。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えてあげたということである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で、教えてあげたという話である。呉清源棋聖の想像では、囲碁を堯帝が創製する前に、既に天文や易の道具に使用していたということである。

 囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えるということである。従って、囲碁板をもって、天文を伺い、易を調べたと見て、堯帝が丹朱に囲碁を教えたことも、祭政の中から、祭の方を任せるようにしたのだという見解が、呉清源棋聖の想像である。伝説は幻想的であり、美しいものである」。

 概要「囲碁は当初には天文学や易を研究する道具だった。堯帝が息子である丹朱に一種の遊びの道具ではなく、天文を研究する道具として囲碁を教えたと考えるべきである。囲碁を勉強して、易や祭礼に関する教養を分かるようにするという意味で教えたのである。囲碁を漢字で棊、又は奕と書くが、奕・易・医は中国の発音で、‘イ’と読み、暦は‘リ’と発音するので、殆ど似ていたということである。遠い昔、中国の統治概念は、祭政一致が基本であったために、易や天文や天命、すなわち神の命令や暗示と深い関係があると考えられる」。

 碁盤の路数の大昔は17道×17道の289路だったとのことである。凡そ中国の唐の時代から19道×19道の361路になったと云われる。361路のうちの1路は天元が占め、後の360路を四分して春夏秋冬の四季に分ける。1季は1隅である。1隅の数は90であり、1季の日数に匹敵する。外周は19道×4の72路であり、これは天文の月齢に於ける72候を象(かたど)る。盤面は大地であり、石の白黒は陰陽を示す。碁盤の路数の変遷につき、「呉清源棋談」は次のように記している。
 「中国の人でありながら、日本に来て、日本の碁界に一つの時代をつくった天才呉清源氏は、盤面が17道から19道になったという説に対して、面白い見解を持っている。呉清源氏は、碁の始まりは勝負事や遊びではなく、天文なり、易なりを研究する用具であったから、初めから天体を象った19道であったと思う、と言っている。それが遊びごとになった時、19路では広過ぎて見当がつかない。碁の技術が未だ幼稚であったので、広過ぎて勝負がつかない。それで、19道を17道にし、15道、13道、11道ぐらいまでせばめた。碁の技術が進むにつれて、逆に11道が13道になり、13道が15道になり、やがて元通りの19道に戻ったのではないのか、と言っている」。
 「大昔には、ご承知のように、文字はありませんでした。しかし、文字ができる前から、天文の研究はおこっていたと思います。堯帝の時代になると、その研究がかなり進んでいたらしく、天文学は帝王の学問とでも言いますか、要するにそれによって、人々に時を授けるのですね。いつ種をまいたらいいかというようなことです。堯舜に天下を譲った時にも、天の暦数は汝の身にあり、と言っています。これには運命という意味もあるでせう。昔の中国では、天は神意や人間の運命を示すと考えられていましたが、もう一つは暦のことで、天の運行によって暦を教えられたのです。大昔の人間の生活、殊に農業は、季節や天候に左右されたものです。帝王は暦を知って、暦を知らない人々に、時を授ける、つまり、種をまく時とか刈り入れる時とかを示すのが、大切なことだったでせう」。
 「ところが、文字のできたのは殷の時代ですか。殷の前からあったとしても、非常に少なかったでせう。例えばいろいろの形に結んで、その形を文字の代わりの符号にしていた時代もあるようです。また文字ができた始めは、誰でも読めるという訳にはまいりません。とにかく、まだ文字がないか、少しはあっても不自由な時代は、天文を研究するにも、今日のように書物や記録によることはできません。そうすると、何によって研究したかというと、今の碁盤ですね。今の碁盤のように線を引いて、白墨で陰陽の動きを知る。天体は360ですから----。おそらく碁盤の目と白黒の石とは、勝負を争うものではなく、天文を研究した道具だったろうと、私は思っています」。
 呉清源が別の機会に次のように述べている。
 「碁は中国神代の時からあったらしい。神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである」。
 「碁というものは中国の哲学であるところの三百六十の陰陽-つまり天文学に関係しておこったものではないかと思います。碁盤の目は三百六十一、そして天体は三百六十から成っていますね。碁は最初は勝負事ではなかったのではないでしょうか。天文を研究する道具じゃなかったのでしょうか」。
 「碁盤の中央、天元(太極)の一点は数の始めであり万物の根源とみなす。三百六十は太陽が天をまわる日数を象(かたど)っている。また、盤を四分して一隅の九十路は四季それぞれの日数を表し、外周の七十二路は七十二候、そして白黒の石三百六十は陰陽にのっとっている」。





(私論.私見)