争い碁、番碁考

(囲碁吉のショートメッセージ)


【争碁番碁考】
 打ち込み制の争碁や番碁は家元制の確立以降に認められる。その概略史は次の通り。
1645(正保2)年-1653(承応2) 年、本因坊算悦-安井算知/六番碁(3勝33敗)
 名人碁所を巡る争いの舞台 道碩の死後、名人の地位を巡って 争碁となった。これが江戸城での御城碁の始まりとなった。争碁はで勝負がつかず、算悦の死後に算知が碁所に就くが許可が下りたのは1668(寛文8)年の御城碁の二日前の日だった。
2世安井算知-本因坊道悦/六十番碁(20局で終了)
 御城碁での算知の相手は算悦を継いだ本因坊道悦で手合割定先。この対局は持碁となった。本因坊道悦が算知の碁所襲位に異を唱え算知との争碁を願い出て遠島流罪を賭けて挑んだ。道悦はこの対局を第1局として道悦定先の手合割で60番の争碁を打つことになった。 16番目終了時に道悦が6番勝ち越して手合割が先先先に直ったため20番で終了し、算知は碁所を引退した。 これ以降の争碁では1局目だけが御城碁として打たれるのが慣習となる。
 道悦の跡を継いだ本因坊道策は、その抜群の技量からさしたる反対もなく碁所に就き、御城碁は16戦して14勝2敗、その2敗も向2子の手合だった。その1局である天和3年(1683年)の安井春知戦の2子局1目負の碁を、道策は生涯の名局と述べている。
1705年(宝永2)年、本因坊道知(15歳)-六段格の安井仙角と御城碁対戦。
 この時の手合割を道知の後見である井上道節因碩が互先を申し入れたため、反発した仙角は20番の争碁を願い出て、御城碁をその第1局として道知先相先で打たれた。道知は第1局で囲碁史上に残るヨセの妙手を放つなど3連勝、仙角は願い出を取り下げることとなった。
井上道節因碩-本因坊道知
 道知が独り立ちできるかの試験碁で、10番を2度打っている。但し、目的を達したのか2度目は7番で終了している。
1766(明和3)年、本因坊察元-井上春碩因碩/二十番碁
 9世本因坊察元と6世井上春碩因碩は1764(明和元)年に8段昇段し、名人を決める争碁20番碁が始まった(名人碁所決定戦)。互先20番の予定だったが初番を持碁のあと察元が5連勝で圧倒したためその後自然消滅した。
 戦績はほぼ互角で江戸期最高のライバルと謳われる。後の十一世井上幻庵因碩・十四世本因坊秀和と合わせ、名人の力を持ちながら名人になれなかった者として「囲碁四哲」と呼ばれる。
1807(文化4)年6.18日、長坂猪之助-丈和/21番碁(長坂猪之助との二十一番碁
 松之助(丈和、21歳)が出羽国(山形県)まで出向いて、安井門下の素人の雄、段位2段だが実力は6段格の庄内藩士/長坂猪之助と対局し21番碁を打った。1808.6.7日まで続き、第12局で、丈和が8勝4敗となり手合いを先々先に打ち込んだ。猪之助に勝ち越すことが昇段の条件になっていた。
12世本因坊丈和-井上因碩(幻庵)
1840(天保11)年、12世本因坊丈和-赤星因徹/一番勝負
 十二世本因坊丈和は幻庵因碩と碁所の座を争い、策略を駆使して名人位に就いた。幻庵因碩が刺客として送り込んだ愛弟子赤星因徹を「三妙手」で返り討ちにした松平家の碁会(1840年)は江戸囲碁史のハイライトとされる。
1840(天保11)年、井上因碩(幻庵)-本因坊秀和/十番碁(1局だけで終了)
 11世井上幻庵因碩は、ライバルであった本因坊丈和の名人碁所からの退位後、名人碁所を望んだが、本因坊丈策の跡目秀和に争碁を申し込まれ、1840(天保11)年の第1局に敗れ、また局中下血し、名人願書を取り下げた。1842(天保13)年にも御城碁で対局するが、再度先番秀和に敗れ、碁所を断念するに至った。
本因坊秀策-太田雄蔵/三十番碁(23局で終了)
 手合割は互先、17番目で秀策が4番勝ち越しとなり雄蔵の先先先に直る。30番の予定であったが23番で終了。
明治以降は六番手直りが四番手直りに変わり、十番碁が主流になる。
田村保寿(後の本因坊秀哉)-石井千治(二代目中川亀三郎)/十番碁3回
 田村が石井千治を互先から先二に打ち込んだ。
1926年、日本棋院-棋正社(院社対抗戦)
 関東大震災後、日本棋院が設立された。発足直後に一部の棋士が離脱し棋正社を結成、読売新聞の正力松太郎社長のお膳立てで院社(日本棋院・棋正社)対抗戦が企画された。棋正社3名、日本棋院18名による前代未聞の対抗戦が読売紙上に繰り広げられることになった。この時の本因坊秀哉名人と雁金準一の対局秀哉名人-雁金準一7段(先)」が新聞上に記載されて大人気を呼んだ。対局は9.27日に始まり、双方激しい闘志で火花を散らせた。中盤、下辺の白模様に突入した雁金の黒石を、秀哉が強引に取りに行ったことから大乱戦となり、満天下を沸かせるスリリングな一戦となった。この碁は打ち掛け6回、最後は10.18日、254手で雁金の時間切れ負けに終った。時間があったとしても白勝ちは動かなかった。
1936年、秀哉名人-木谷実
 日本棋院は本因坊の座を争う棋戦を開催することを決定した。これが本因坊戦であり囲碁のタイトル戦の始まりでもある。秀哉名人は引退するに当たりと数ヶ月に及ぶ引退碁を木谷と打ち(木谷先番5目勝)、終了後まもなく死去した。
呉清源の十番碁シリーズ
 呉清源は戦前より、木谷實・藤沢朋斎坂田栄男ら当時の一流棋士たちを相手に十番碁(十回対局をして優劣を決める)を行い、その全てに勝利した。1950年に九段に推挙され「昭和の棋聖」と呼ばれた。
呉清源の十番碁1/木谷實/互先10局完打ち/呉7段の6勝4敗
呉清源の十番碁2/雁金 準一/互先5局まで/呉7段の4勝1敗、以後中止
呉清源の十番碁3/藤沢 庫之助(第1次)/定先10局まで/呉8段の4勝6敗
呉清源の十番碁4/橋本 宇太郎/互先10局まで/呉8段の6勝3敗1ジゴ
呉清源の十番碁5/岩本薫/互先10局まで/呉8段の7勝2敗1ジゴ
呉清源の十番碁6/橋本 宇太郎/橋本の先相先手合いで10局まで/呉9段の5勝3敗2ジゴ
呉清源の十番碁7/藤沢 庫之助(第2次)/互先10局まで/呉9段の7勝2敗1ジゴ。
呉清源の十番碁8/藤沢 庫之助(第3次)/互先6局まで/呉9段の5勝1敗。
呉清源の十番碁9/坂田栄男/互先8局まで/呉9段の6勝2敗。
呉清源の十番碁10/高川格/互先10局まで/呉9段の6勝4敗。
1946(昭和21)年8月、「呉清源-橋本宇太郎の打ち込み十番碁」。
 呉は第1局を落し、第2局で奇跡的な復活を遂げ、第8局に勝ち橋本を先相先に打ち込んだ。
1951(昭和26)年、第6期本因坊戦「本因坊昭宇(橋本宇太郎)八段-坂田栄男7段」。
 橋本宇太郎が1勝3敗からの大逆転で防衛を果たした。この勝利は関西棋院の危機を救う大きな防衛ともなった。敗れた坂田七段は雌伏十年を余儀なくされる。

【趙治勲の「百田尚樹/幻庵上中下巻」書評】
 2020.07.21日、趙治勲 (名誉名人・二十五世本因坊)の「百田尚樹/幻庵上中下巻」書評「江戸時代の天才囲碁棋士たちは、なぜ命を賭けて闘ったか」。
 私は囲碁を六十年近くやってきましたが、つくづく思うのは、囲碁を知らない人に言葉で伝えるのは至難の業だ、ということです。囲碁は、非常に複雑で奥が深い、特殊なゲームです。その世界を知らない人にとっては、はっきり言ってしまえば、ゼロの世界です。たとえルールがわかったとしても、ある程度の力量に達しないと、碁という存在自体が無意味なのです。たとえば音楽なら、全くその世界を知らない人でも子供の頃から聴いている人は多いので、言葉で説明されれば、何となくわかります。絵画というジャンルも、絵を見たことのない人はいないので、同様に言葉で説明ができます。同じ盤上のゲームでいえば、将棋は駒に「王将」や「香車」などと書かれているので、将棋について書かれている文章を読めば、役割や動きも含め、盤上で何が起きているかを何となくイメージしやすいかもしれない。しかし囲碁は、白石と黒石があり、敵と味方があるだけで、あとは何一つわからない。技術的に、「ツケて、ハネて、ノビて、切って」と具体的に書かれていても、プロでさえ棋譜なしに完全に理解するのは非常に難しいのです。このわかりにくさが、囲碁小説を成立させる、高いハードルになっています。
 私が囲碁小説といって思い当たるのは、川端康成の長編小説『名人』くらいのものです。これは、二十一世本因坊・秀哉(しゅうさい)名人の引退碁の観戦記を小説の形にまとめたもので、勝負相手の大竹七段は、私の師匠である木谷實(きたに・みのる)(二十世紀を代表する棋士。自宅を「木谷道場」として内弟子をとり、タイトルを争うトップ棋士を多く育てた)先生をモデルにしています。その『名人』が発表されてから半世紀以上が経ち、現代のベストセラー作家である百田尚樹さんが、江戸時代の囲碁棋士たちのめくるめくような戦いの歴史を描いてくれました。百田さんご自身が碁を打ち、またアマチュアでも相当な強さであることは推測できますが、それにしても『名人』の七倍ほどに当たる、上中下巻約千ページという大部の作品を書かれたのは、迸るような囲碁への愛情ゆえでしょう。

 囲碁は、厳密な技術のゲームです。もちろん棋譜に間違いがあってはいけないし、具体的な勝負の記述は極めて精緻に書かれなくてはなりません。普段は自由に想像力を羽ばたかせて作品を書く作家であっても、大きな制約がある中で読者を飽きさせない面白い物語として成立させなくてはならないわけで、これは相当に困難な作業であったことは想像に難くありません。そのような困難を超えて、これほど圧倒的な物語を書かれたことは、驚嘆に値することです。本作の舞台である江戸時代には、約三千年といわれる囲碁の歴史において、非常に稀なことが起こりました。世界で初めて、盤上ゲームのプロ組織が作られたのです。囲碁家元四家(井上家、本因坊家、安井家、林家)は幕府から禄を貰い、囲碁を庶民に普及させる使命を帯び、また何とか自分の家から名人を出そうと鎬を削ることで、囲碁というゲームが飛躍的に発展しました。これは、世界史上でも類を見ない日本独自の文化です。
 江戸時代は電気もなければ、交通手段も情報も非常に限られていたわけです。その中で、インターネットやAIが発達した現代から見ても、遜色のない、膨大な数の棋譜が残っています。碁打ちの贔屓目で、祖先を大事にしたいという気持ちがあるのは確かです。しかしそれを差し引いたとしても、この作品に登場する先人たちが命がけで─―この時代の囲碁は時間制限なしの打ち掛けが当たり前で、文字通り体力勝負、命がけです。朝から始めて翌日の深夜、明け方まで打つのは日常茶飯事ですから、桜井知達(さくらい・ちたつ)や奥貫知策(おくぬき・ちさく)、赤星因徹(あかぼし・いんてつ)といった、惜しくも早世した天才棋士たちが多くいたのも頷けます─―碁を打ってくれたおかげで、今日の囲碁があるわけです。それは私たち碁打ちにとって、ちょっと想像を絶するほどに奇跡的なことなのです。

 現在の囲碁の世界は、韓国や中国がすっかり強くなってしまい、残念ながら日本の棋士では敵わなくなっています。しかし、韓国や中国の囲碁の歴史というのは、たかだかここ三十年ぐらいのものです。私も韓国や中国に講演などで訪れることも多いのですが、あちらでは碁打ちに対する尊敬の念というものは、あまり感じられません。私の実力が五だとしたら、扱いは二ぐらいのものです。しかし、日本では段違いに尊敬の念を感じます。私が三だとしたら、十くらいの扱いをしてくれる(笑)。これはやはり、本因坊算砂(さんさ)から数えて四百年以上の、日本の囲碁の歴史、文化が大いに関係しているのでしょう。
 さて、百田さんは江戸時代の華麗なる天才囲碁棋士たちの中でも、井上家十世当主(のち十一世)の幻庵因碩(げんなんいんせき。以後、幻庵)を主人公に選びました。彼は自著『囲碁妙伝(いごみょうでん)』の「学碁練兵惣概」に、「余いまだ何心なき六歳の秋より、不幸にしてこの芸を覚え始めつる」と記しています。江戸時代は数え年ですから、六歳は今の五歳です。私も六歳で韓国から日本にやってきて木谷道場に入門しましたから、境遇はよく似ています。幻庵は「不幸にして」と自ら韜晦(とうかい)していますが、私の場合は記憶も曖昧で、何とも言いかねるところがあります。しかし、少なくともさほどの幸福感はないので、幻庵の気持ちは理解できます。

 私が門下になった翌日に、木谷一門百段突破祝賀会が開かれ、そのアトラクションの一つとして当時六段だった林海峰(りん・かいほう)先生(現・名誉天元)に五子置きで打ち、中押し(ちゅうおし。囲碁において、地合いの差が大きく開いて優劣がはっきりした際に、終局まで打たずに対局の途中で勝負が決まること)で勝ちました。幻庵の場合は、本作では、井上家外家の服部家当主・因淑(いんしゅく)が三人の弟子志願者と七子置きで打ち、吉之助(きちのすけ)という名前だった幼い日の幻庵のヨミの鋭さを認め、内弟子に取ることを許す、という物語になっています。この時の棋譜は、残念ながら残っていません。同じ年齢で幻庵と比較すれば、たぶん私の方が強かったと思いますが、それは私の時代には棋譜も情報も多く存在していたからであって、何もない時代に「鬼因徹(おにいんてつ。因徹は服部因淑の若いころの名前。江戸時代の囲碁棋士は、名前を頻繁に変えた)」とまで呼ばれた人が認めたわけですから、才能という点では幻庵の方がずっと優れていたことでしょう。幻庵の最初の棋譜というものを、ぜひ見てみたかったです。
 木谷道場には『本因坊全集』があり、碁の最初の勉強として、棋譜を研究したり定石を学んだりするのに使っていました。道策(どうさく)、丈和(じょうわ)あたりの棋譜ももちろん載っているのですが、私たちの世代は、秀和(しゅうわ)、秀策(しゅうさく)あたりを勉強するのが一般的でした。秀和、秀策は突出した天才で、近代碁の夜明けのような碁を打った人たちです。特に、秀和の碁は革命的でした。飄々と打っていき、細かいところを捨て石にして、盤全体を見ていく。これはそれまでになかった碁です。本作でも、「戦わずして勝つ碁」、「強いのか弱いのかわからない、不思議な碁」と書かれています。秀策は、近代碁の中でも圧倒的な評価を得ています。しかし秀策は秀和という天才がいたからこそ登場した棋士であるはずで、さらに言えば、秀和は、幻庵、丈和という二人の天才が残した膨大な棋譜を見て修行したはずです。

 幻庵、丈和の碁は「勝ち抜く」碁ですが、この二人は、いわば江戸時代の碁と近代碁のターニングポイントになった棋士だと考えられます。そして、秀和は大天才で革命児なのですが、その秀和の時代より確実に情報が少なかった時代の棋士である幻庵、丈和もまた、秀和に負けず劣らない才能だったことは間違いありません。

 重要なのは、幻庵と丈和が、十一歳差ではありますが、同時代に存在したという点です。その上の世代の、元丈(げんじょう)・知得(ちとく)時代にも言えることですが、家元制度の下でのことですから、そもそもライバルが少ない。そんな中で同じ力量のライバル─―幻庵と丈和は「悪敵手」と表現されていますが─―に出会い、生涯で何十回も戦うこと自体がまた奇跡なのであり、この二人のどちらかが欠けてもその後の囲碁の発展はなかったかもしれません。
 現代でも棋士のライバル関係は、もちろんあります。私でいえば、木谷道場の同門である小林光一(こばやし・こういち)さんとは、百何十戦も戦って、ほぼ五分五分です。ただ、現代の囲碁のタイトルは、いわばプロテニスに似ているところがあります。対局は一年中あり、国内外に数々のタイトルがあり、連覇したり、取ったり取り返したりしているわけです。しかし、江戸時代のライバル関係は、家名を背負いますし、何より「名人」という地位の重みの次元が違いますから、勝負に賭ける思いも、憎しみの感情も、今とは比べ物にならなかったのではないでしょうか。

 それが具体的な形になって現れたのが、名人碁所をめぐる幻庵と丈和の「天保の内訌(ないこう)」です。ここで戦いは盤上のみならず、盤外の駆け引きや権謀術数へと広がり、この物語の大きな読みどころになっています。興味深いのは、この辺りから幻庵は流転の人生を歩み始めるところです。彼はその後も、名人碁所へのわずかな望みを繋ぎつつ、ことあるごとに碁を打ちますが、一方で、実人生においては突飛とも思える行動を繰り返し、いくつもの大きな挫折を経験します。

 中でも、清国への密航を企てた点は、幻庵の囲碁人生をよく表しています。この時代の密航は見つかれば死罪ですが、彼にはそんなことは関係ない。百田さんも書かれているように、当時の清国は太平天国の乱で混乱していて、囲碁などといういわば「遊び」を広めたところで、何にもならないかもしれない。しかし彼の中では、当たり前に筋が通っているのです。彼にとって、囲碁は何よりも尊い。囲碁の世界は、現実の政治や社会を超越している、とさえ思っていたわけです。ここに他の棋士とは違う、彼の天才性とスケールの大きさを感じます。
 幻庵の数々の挫折の中でも最大のものは、天保六年(一八三五年)の松平家碁会において、弟子の赤星因徹を丈和と対局させたことでしょう。その顛末は、本文を読んで頂ければと思いますが、それにしても、幻庵が自分で打たなかったことは、返す返す惜しかった。しかし、彼は弟子の才能に惚れ抜いてしまっていたのでしょう。芸事においては、仕方のないことかもしれません。それほど赤星因徹の才能がずば抜けていたのです。

 幻庵は名人碁所に執着する一方、「恥ずかしい碁は打ちたくない」と考えています。この気持ちは全ての碁打ちにあるものです。私も、いくら数多くのタイトルを取ろうが、そんなことは本当に重要なことではないと思っています。恥ずかしい棋譜だけは後世に残したくない。棋譜を見ればその棋士が強かったか弱かったか、一目で分かってしまうからです。これが碁の恐ろしさでもあり、尊さでもあります。晩年の幻庵が、ある棋譜に万感の思いを込めて人生を振り返るシーンがありますが、そのような棋譜を一つでも残せたら、碁打ちにとってこの上ない幸福なことでしょう。幻庵は実人生においては敗者だったのかもしれませんが、囲碁の世界では紛れもない勝者だったのです。

 最後に、現代囲碁におけるAIに言及しておきます。本作品が単行本として出版されたのは二〇一六年十二月のこと。それから三年半の間、AIは日進月歩の進化を遂げ、今やAI同士が対局し続けて鎬を削るようになり、人間は完全に敵わなくなってしまいました。百田さんはもちろんその辺りの事情にも明るく、加筆や付記といった形で最新情報を紹介されています。私は決してAIに詳しくはないのですが、中国の「GOLAXY」が検討した「吐血の局」と「耳赤の局」の棋譜を見ますと、AIが席巻してもなお残る、人間の打つ囲碁の魅力というものを感じます。「丈和の三妙手」や「耳赤の手」は、勝つためには確かに最善手ではなかったのかも知れません。しかし人間の感性からすると、やはりただの石である碁石をそこに打った瞬間に、体が震えるほどの感動を覚える手というものがあるのです。
 そして驚異的なのは、AIは今なお進化を続け、そのような芸術的な手を打ち始めている、という点です。局面では簡単なミスをしても、常に大局を見ている、つまり究極の人間とも呼ぶべきAIまで登場している。これは既に攻略されきった将棋やチェスの世界では、考えられないことでしょう。囲碁がいかに他のゲームとは違った奥深さを持っているか、ということです。

 囲碁は勝敗がつくゲームですが、しかし打つ手によって何ものでもないただの石が生きたり死んだりする、そこに感動がある芸術でもあります。繰り返しになりますが、力量のない人が簡単に理解できる世界ではないし、私自身はそれでいいと思っています。しかし囲碁を愛する者にとって、囲碁は何にもまして素晴らしいものなのだ、と思うことは、決して不遜なことではないと思います。百田さんは囲碁を愛する作家で、その気持ちはこの作品の隅々にまで表れています。また、さすが現代を代表する作家ですから、囲碁をまったく知らない人が読んでもその魅力が十分に伝わるように書かれており、読者は、その深遠な世界と、幻庵をはじめとする棋士の壮絶な人生に触れ、果てしないロマンを感じることと思います。私は一人の碁打ちとして、このような作品を書いて頂いた百田さんには、感謝の念しかありません。そして願わくは、この小説が江戸時代の囲碁棋士たちを知り、現代へと脈々と繋がる囲碁の歴史を知るバイブルにもなって欲しい、と思います。






(私論.私見)