孔子、孟子の囲碁観 |
更新日/2021(平成31、5.1栄和改元/栄和3).1.18日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、孔子、孟子の囲碁観を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【「孔子と孟子の囲碁観」】 | ||||||||||||
「オープニング宇宙(うちゅう)」を転載、参照する。 | ||||||||||||
古代中国の易や天文の摂理をつかさどる王侯貴族の"聖技"(ないし閑技?)といってもよい囲碁は、次第に戦争における用兵や兵法の研究
用具である"戦技"として尊ばれ、さらに僧侶や知識階級へと波及して いった。この頃には、いわゆる勝負を争う"遊技"へと変貌を遂げていたと思われる。 春秋時代の代表的な思想家で、儒家の祖といわれる孔子(前551 ~前479)は、「論語」(陽貨第十七)の中で次のように述べている。孔子の囲碁効用論である。
孔子は、論語のなかで「藝に遊ぶ」と表現している。この一節は、 水戸が誇る藩校の弘道館の軒先に額縁としてかがげられている。
次の句も、碁友を招いた時の句として読めば大いに首肯できるものがある。
孔子より179年あとに生まれた孟子(前272~前289)は、「孟子」 (告子章句上)の中でこう述べている。
別の章で、「不孝有五(5つの親不孝)」(孟子)が、博奕=囲碁そのものを悪とみなしているほどでもないが「博弈好饮酒,不顾父母之养,二不孝也」(「碁を酒を飲み如くに愛好し、父母の孝養を顧みないのは二つ目の親不幸である」)といっている。当時、すでに囲碁の熱中弊害が問題になっていたことが分かる。 |
【論語、孟子の中の囲碁の記述】 | |
中国の古書に囲碁が登場するのは、紀元前770~前221年頃の春秋・戦国時代である。山海経、坐隠談叢、博物誌、史記、論語、孟子など古い文献に囲碁のことや故事などが記されている。 「史記」に春秋時代の宋の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が囲碁だったかははっきりせず、別の博打・双六のようなものだったとも考えられている。 囲碁は戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まっていた。古くから中国では、知識人の嗜みとして「琴棋書画」(きんきしょが)を習わせた。琴(きん)は音楽、棋(き)は囲碁、書(しょ)は書道、画(が)は絵のことを指す。 シルクロードの要衝として有名な敦煌は、490余の石窟群の存在やシルクロードの要衝として著名である。1899年頃、第16石窟からおびただしい経典や古文書が発見され一躍世界中の注目を浴びた。一万点を超える文物の中に、ほぼ完全な「碁経」が一巻含まれていた。 巻物は北周時代の写本といわれ、「世界最古の棋書」となる。長い間大英博物館に眠っていたが、1934年に中国の張萌麟(元清華大教授)が「碁経」を見出して「國聞週報」ではじめて紹介した。 現在最古の棋書(碁書)は、北宋徽宗(在位1100-1125)の時代に 成立した「忘憂清楽(ぼうゆうせいらく)集」と相場が決まっていた。 編者は不明だが、木こりの王質と仙人の対局譜から後漢の呉の武将・孫策と呂範の局、晋の武帝(司馬炎)と王済の局、唐の玄宗と鄭観音の局などが収録されている中国の棋書である。かなり古い時代の碁を取り上げているが、碁譜の信憑性について は大いに疑問の残る本といわれている。例えば、「坐隠談叢」の改補者であり、「中国古棋譜散歩」の編者でもある渡辺英夫プロは、次のように述べている。
孫策と呂範の棋譜は1700年以前であり、晋の武帝の棋譜も1690年前の話になる。20世紀に入ってから出土した古代の基盤を見る限りでは、この当時には19路盤を使用した形跡が少なく、第 一、これほど古い時代から棋譜を残す習慣があったのか、という疑問が浮かぶ。 北宋期以降の棋譜は本書の成立時期と同時代で、登場人物も実在とみなされるので本物と見てもよくその他は"作り物"ないし"遊び心"の発露 と見るのが無難である。渡辺説を尊重して従来の「孫策・呂範局」を作り物と判定し、閻景実・顧師言局ないし賈玄・希燦局を便宜的に最古の棋譜とする。 |
(私論.私見)