1938年6.26日 | 秀哉名人引退碁(「(坊)秀哉-木谷実7段(先)」) |
(最新見直し2015.02.12日)
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「秀哉名人引退碁(「(坊)秀哉-木谷実7段(先)」)」を研究する。 2014.07.25日 囲碁吉拝 |
【秀哉名人引退碁(「(坊)秀哉-木谷実7段(先)」)】 | |||
6.26日、東京日日新聞(東日)、大阪毎日新聞主催(大毎)主催による「名人引退碁」が、芝の紅葉館で、「(坊)秀哉-木谷実7段(先)」が打たれた。打ち染め式には「朝野の名士」多数が出席し、持時間は各40時間、中4日の休みを取って打ち継ぎ、手番の者が封じ手をすると決められた。この時、はじめて「封じ手」制が採用された。 「50年間無敗の秀哉(65歳)に対する木谷實7段(29歳)の挑戦」が話題となった。この対局を持って本因坊の名跡が開放され、実力本位の選手権争覇の時代へ移った。解説は呉清源、観戦記を川端康成(39歳)が担当した。観戦記は東京日日新聞(後の毎日新聞)、大阪毎日新聞に66回に渡って連載された。川端は秀哉没後2年の昭和17年(秀哉は試合の1年後に死去)、この勝負を題材に小説「名人」(木谷実七段は大竹七段として登場)を書き初め、1954年(昭和29年)に約10年かけて完成させることになる。呉清源の解説をもとに、対局光景や勝負師の表情、動作、心理などを流麗な筆致で活写し、それは観戦記というより一個の文学作品となっている。 観戦記の書き出しは次の通り。
紅葉館で2回打ち継ぎ、7月11日より奈良屋(箱根塔の沢)に移り、8月14日までが前半戦となる(8回打ち継ぐ)。8月に入って名人の秀哉の衰弱が激しくなり、聖路加病院に入院して中断(白100のツギ、封じ手)となった。加療約3ヵ月間後、後半戦が始まり、11月18日より暖香園(伊藤温泉、伊豆)で再開された。12月14日の終局まで5回打ち継ぎ、実に7ヵ月間、6月~12月まで20回の打ち掛け(双方の合意で対局をいったん中断すること)に及ぶ長期対局となった。消費時間は白19時間57分、黒37時間19分。結果は木谷7段の先番5目勝ち。(コミなしルールの下であり、今日的には微妙な結果となる) 12.4日、戦いを終えた時、木谷が「先生、ありがとうございました」と名人に一礼し、両手を膝にそろえ、青ざめた顔を深くうなだれたまま、しばらくの間身動きもしなかった、と伝えられている。秀哉は2年後に没し、命を縮める対局となった。
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(私論.私見)