因徹吐血、丈和の3妙手の局

 (最新見直し2014.07.25日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「因徹吐血、丈和の3妙手の局」を研究する。

 2014.07.25日 囲碁吉拝


因徹吐血、丈和の3妙手の局
 第12世本因坊丈和(1787天明7年-1847弘化4年)は、江戸時代最後の名人碁所である。道策を前聖というのに対し後聖と言われている。本姓葛野、幼名松之助。本因坊元丈に入門し16歳で入段、41歳で家督を継ぐ。名人碁所を丈和(幻庵因碩)と争い、盤外の根回しが上手く結局争碁無しで名人碁所に就任した。就任の強引さが祟って天保6年引退したが、本因坊家は大いに栄えた。丈和の長男は12世井上因碩、3男は方円者2代目社長中川亀三郎、娘の花は碁聖秀策夫人である。

 1835(天保6)年、7.19日、老中松平周防守康任邸で碁会。席上、お好みとして名人本因坊丈和と赤星因徹(七段、幻庵因碩の筆頭弟子)の手合が組まれる。同月24日、打ち継ぎ完了。丈和中押勝ち(松平家の碁会)。この碁は碁所の争いに敗れた幻庵因碩が「名人お止め碁」で本来勝負碁は打てない丈和を松平周防守邸での6組12名の碁会に引きずり出し秘蔵の弟子の因徹を当てた。ここにこの碁の重要性がある。当事丈和54歳、因徹26歳であったが、因徹は既に肺結核であった。
 序盤は、因徹優性であったが、黒1、3の時白4、6が妙手、その後の白16と合わせて3妙手と言われている。因徹の体調の不良からくる弱気と丈和の剛直さでこの3妙手のあと逆転した。因徹はこの碁のあと2ヶ月後に死亡しているのでとても大勝負を打てる健康状態ではなかった。丈和としても負けると引退の可能性もあったので、両者とも命がけの碁として、囲碁史上有名な対局である。





(私論.私見)

 序盤は黒の因徹が井門の秘手と言われた大斜定石の新手を繰り出して優勢に進めたが、その後「丈和の三妙手」などで挽回し丈和勝ち。この時既に重度の肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血したと伝えられており、「因徹吐血の局」として知られる。閏8.28日、「因徹吐血の局」の2ヵ月後、因徹没す(享年26歳)。鈴木知清、四宮米蔵没(米蔵は十月五日)。岩田右一郎、生まれる。赤星因徹『手談五十図』(二月)、林元美『碁経精妙』(六月)、丈和『収秤精思』(九月)刊行。