碁好きの武将、殿様、軍人、文人、その他著名人列伝

 (最新見直し2014.07.25日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「碁好きの武将、殿様、軍人、文人、その他著名人列伝」を確認しておく。

 2014.07.25日 囲碁吉拝


【本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件】
 
 「まだ下打ちの習慣がなかった頃、本因坊算悦と安井算知が御城碁で対戦した。二人は今や碁界の竜虎として空位の碁所を狙う地位にあり、この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦であった。手合は算知の先番で始まり、老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守っていた。将軍はまだ出座していない。そこへ松平肥後守がやってきた。松平肥後守(保科正之)は碁好きで名高い会津藩主で55万石の大々名。算知を贔屓しており、屋敷に住まわせ扶持も与えていた。甲斐守の脇に座って観戦し始めたが、困ったことに一手打つごとに「ふぅん」と首をひねったり「なァるほど」と膝を叩いたりする。算知が打ち込みを敢行した時、『うッ』とうなり声を上げ、『さても妙手。いかな本因坊も、よも勝つ手はあるまい(本因坊の負けと見ゆ)』と口を挟んだ。算悦、これを聞きとがめ、後ずさって盤の前を離れ、無人の将軍御座に向かって一礼した。『本因坊、いかが致したぞ』。問いかける甲斐守に、背を向けたままの姿勢で、『この碁、もはやこれまでにてございます』。『負けだと申すのか』。『そうではありませぬ。打つことができないのでございます』。甲斐守『なんと』。真意を測りかねて絶句した。算悦が言葉を続けた。『私どもは碁打ちにございます。碁をもってお上に仕えております。碁打ちが局に対するのは武人が戦場に臨むのと同じこと。一手一局に命をかけております。私は本因坊家の当主、天下の上手(7段)であります。その私の碁に関して、横から口挟みがあるようでは打つ訳には参りませぬ』。(中略) 松平肥後守が立ち上がり、御座に向かったままの算悦に正面から相対し、『この通りじゃ本因坊。気分を直し、どうかいい碁を打ってくれい』。算悦『恐れ入ってございます。出過ぎたるふるまい、なにとぞお許し下さいますよう』。一座皆な胸をなでおろし対局が再開された。着手は遅々として進まず、定刻を過ぎ、対局場を甲斐守の役宅に移し、終局は未明に及んだ。結果は算悦の白番1目勝ち。算悦は大いに面目をほどこした」(田村竜騎兵著「物語り囲碁史」参照)。この算悦の態度が、碁家の気節として賞賛されて語り継がれた。

【「碁好きの殿様、牧野成貞の逸話
 「囲碁史物語」の「碁好きの殿様」を参照(転載)しておく。

囲碁史物語story

 囲碁を打つ大名は多く、藩によっては御抱えの碁打ちがいた。道策の時代、碁が好きで強かったのが牧野成貞である。成貞は徳川五代将軍綱吉の側用人として、綱吉の若い頃に仕え、老中などとは比べものにならない権勢を誇った。後に柳沢吉保と対立し側用人の座を退くことになった。この成貞は道策や師の道悦と二子で打っている。アマチュアが名人に二子で打てるのは有り得ないことであった。或る時、成貞は思った。自分が大名であるために手心を加えているのではないかと。そこで安井算知と打つことにした。成貞は本因坊門下となっている。争碁で道悦に負かされた算知が手心を加えるわけがないと思ったのである。二子で対局し成貞の二目勝ちとなっている。この結果に成貞は満足したが、算知の胸中は分からない。

 この牧野成貞が活躍したことがある。時は元禄年間の前半(一六九〇年代)。細川綱利(熊本藩主)が道策に相談をもちかけたところからはじまった。事情ははっきりしないが、綱利が家督相続に際して不手際があり問題がおこった。細川家伝来の刀剣など家宝を公儀に没収されそうになった。へたをするとお家断絶になりかねなかった。そこで道策に相談をもちかけた。なぜ道策なのか。道策の生家山崎家は細川家との関係が深く、道策の母は綱利の乳母であった。つまり道策と綱利は乳兄弟と云うことになる。そういう縁で道策は動いた。とにかく金が必要。二世井上因碩(道策の弟)の家を抵当に当時の三千二百両の金を借り、これを細川家に貸した。これは家の額だけではなく信用も含めての額であろう。


 なぜ本因坊家ではなく井上家の家だったのか。本因坊家は細川家との繋がりが深いため井上家の方も繋がりを強めておこうという道策の判断だった。これが後、井上家を救うことになる。ここで牧野成貞が登場する。道策は成貞に事情を話した。成貞はその金を幕閣にばらまき、細川家のことを穏便にとりはかるよう根回しをした。この運動が功を奏して細川家はおとがめなしとなった。牧野家はこの後も碁界と深い関係を持つ。明治維新の大立者で碁好きで知られる大久保利通の次男が牧野家の養子なる牧野伸顕である。この人物は現在の囲碁の総本山日本棋院の初代総裁である。

【「碁好きの文人、正岡子規の逸話
 「碁打ち探訪今昔四方山話」の「碁打ち探訪今昔四方山話【14】無類の囲碁好きだった「坂の上の雲」の正岡子規」を転載しておく。
 閑話休題 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)の二部が始まったところで正岡子規(香川照之)が死んでしまった。このドラマで残念でならないのは東郷元帥も乃木大将も大久保利通も皆碁好きであったと伝えられる。ところが、囲碁のシーンがほとんどありません。正岡子規は軍人ではなくて俳人で有名なことと無類の碁好きという点では共通しています。 どれくらい好きだったかといえば、結核性カリエスという病気と闘いながら句作にとりくむ傍ら、敷きっぱなしの寝床の中に碁盤を持ち込んで、門人と打ったり、詰碁をひとりで解いたりしていたそうです。

 子規は病魔と闘い、死に直面しながら俳句をつくり、後に短歌もつくり続けました。俳句や短歌に関する評論も発表、鋭い舌鋒はとどまるところを知りませんでした。そういう子規でしたがNHKのドラマでは碁を打っているシーンがなかったので消化不良をおこしました。その子規の碁に関する俳句をあげてみると

  • 下手の碁や四隅かためる日永哉
  • 寂しげに柿食うは碁を知らざらん
  • 碁の音や芙蓉の花に灯のうつり
  • 勝ちそうになりて栗剥く暇かな
  • 月さすや碁を打つ人の後ろまで
  • 碁にまけて厠に行けば月夜かな

 どの句も意味はわかり安いので解説の必要はないでしょう。そしてどれもが結核による喀血を繰り返し、やがてはそれが結核性の脊髄カリエスという死の病に冒されてからの作品と思われます。病床に碁盤を持ち込んで石をいじっていたといわれています。

  • 焼栗のはねかけて行く先手かな
  • 蓮の実の飛ばずに死にし石もあり

 囲碁用語を読み込んだ句もあれば、病床を思わせる切ない句もある。

  • 昼人なし碁盤に桐の影動く
  • 碁に負けて偲ぶ恋路や春の雨
  • 真中に碁盤据えたる毛布かな

 部屋の中は子規一人です。碁盤に桐の葉陰がうつって、それが動くことで時間の経過を知る。孤独で寂しさが漂う。碁に負けた悔しさが、昔去っていった恋人を連想するが、いまは病床でどうしょうもない。最後の句は病床の毛布の真ん中に碁盤を据えて碁の相手を待つ―心境をよんだものでしょう。

 NHKの「坂の上の雲」は日露戦争の日本海海戦が近づいているが、ロシヤのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令官東郷平八郎元帥と旅順要塞を攻略、水師営で敵将ステッセルと会見、降伏文書にサインさせて名をあげた乃木希典大将も碁好きだったが、いずれ劣らぬ「ザル碁」だったそうです。戦争と碁の力は別なようです。


【「碁好きの文人、正岡子規の逸話
  「碁打ち探訪今昔四方山話」の「碁打ち探訪今昔四方山話【15】東郷元帥と乃木大将 いずれ劣らぬザル碁」を転載しておく。
 それでは東郷元帥右と乃木大将はどれくらいの棋力であったかと問われると棋譜が残っていないので誰も判定することはできません。そこで、年末年始にかけて囲碁にかかわる著書や散文をむさぼるように目を通していましたところ「乃木と東郷」(著者戸川幸夫・角川文庫)に出会いました。

 東郷平八郎元帥といえば、戦中派の国民にとって教科書に載っていた世界的に有名な名将でした。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で撃破した連合艦隊司令長官として旗艦三笠からZ旗を上げ「天気晴郎なれども波高し、皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と檄を飛ばした場面を少年の頃に空想したものです。

 一方、乃木希典(まれすけ)大将は歩兵第一旅団長として難攻不落といわれたロシアの旅順要塞二〇三高地を攻略、水師営で要塞司令官ステッセルと会見、降伏文書にサインさせて名をあげます。このときの水師営の会見は「庭にひともとなつめの木、弾丸あともいちじるく…」と、小学校唱歌にもなって歌い継がれています。それほど旅順要塞の攻防は犠牲が多く出て乃木大将の息子2人も戦死するという悲劇の将軍として同情と国民的敬愛を受けました。

 この2人の将軍が明治44年に明治天皇の名代としてイギリス皇帝の戴冠式に出席することになりました。当時、イギリスへの船旅は約40日かかります。この長旅を2人は毎日、碁を打って過ごした、と作家戸川幸夫さんは書いています。そして「わしもザル碁じゃが乃木もわしに負けんザル碁で、結局、勝ったり負けたりでいい相手じゃった」―と東郷は語っていたという。さらに2人は終日戦っていても両者とも碁盤を挟んで無言。何も言わずに石を下ろすだけで、乃木の方が少し上だった―とも。

 乃木は何ごとも東郷を先に立て東郷の意見を聞いていたというが白髪白髭の両紳士が互いに譲り合い、尊敬しあって親しむ様は美しいものだったと作者は褒め称えています。好敵手というべきか、少なくとも碁仇の間柄だったということはあてはまらないのではないかと思われます。約40日間も互いに思いやりながら、日がな一日石を打ち下ろす、その心境は凡人にははかりしれないことなのかもしれません。一節では、乃木は明治天皇の健康状態が気になり、東郷はイギリス留学で口数が少なくなったとある。







(私論.私見)