生涯履歴 |
更新日/2018(平成30).4.14日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで井上幻庵因碩の生涯履歴を確認する。 2018(平成30).4.14日 囲碁吉拝 |
<幻庵因碩の略年譜>
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「幻庵因碩の二度の肥前訪問について
<1>」、「幻庵因碩の二度の肥前訪問について<2>
」、「幻庵因碩の二度の肥前訪問について<3>」、「幻庵因碩の二度の肥前訪問について<4>」、「幻庵因碩の二度の肥前訪問について<5>」、「幻庵因碩の二度の肥前訪問について<6>」。
『坐隠談叢』によると、幻庵因碩が遭難した後に身を寄せた先が谷口藍田宅だったあり、帰途の資金が困窮していたを憂いて井上門下への入門を勧めたことが記されている。 幻庵因碩の肥前訪問に直接関係しているかどうかは不明だが、鍋島但馬についても指摘しておく。『幻庵因碩』(日本囲碁大系第十一巻、筑摩書房、1975年)の林裕氏の「人とその時代十一・幻庵因碩」(p.253)によると、跡目安節と名乗ってから門人を取り立てるようになった幻庵の門人帳の最初に書かれてある門人が鍋島但馬であり、「文政三年庚辰七月十八日」とあることから1820年に入門したことが分かる。 鍋島但馬は、佐賀鍋島藩の家老の倉町鍋島家の敬文の子として生まれた茂延のことで、その後より格上の家老六家筆頭の横岳鍋島家(鍋島主水家ともいう)を継承した。 鍋島但馬が囲碁の腕が相当であったことは佐賀では一般に広く知られていたようで、佐賀の数え歌で「一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、五(碁)は但馬、六(禄)は諫早、七(質)は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十万庵」と歌われているほどである。 段附などへの鍋島但馬の記載は下記の表にまとめたとおりである。
1833 (天保4)『諸国名碁鑑』 東4段目7番目 初段/鍋島氏 1834 (天保5)『日本国中囲碁段附』 二段之部井上門下5番目 肥州/鍋島但馬1839 (天保10) 『圍棋勝劣競』 西3段目11番目 二段/鍋島但馬 1841 (天保12) 『大日本圍碁姓名録』二段之部井上門下5番目 鍋島但馬 1857 (安政4)『日本国中囲碁段附』 なし
幻庵の肥前訪問に鍋島但馬の名前が直接出てくることはないが、道中にもあたることから、関係者も含めてなんらかの関わりがあったとしても不思議ではないので、ここに記しておく。 六、まとめ 有名なエピソードであるが、二度にわたる幻庵因碩の肥前訪問は案外掘り下げられて研究されていない。従来の渡邊英夫氏、中田敬三氏の研究を踏まえて、筆者なりの見解を整理してみた。 今回本論文をまとめるにあたっては、たまたま2017年5月に筆者が長崎を訪れた際に、以前水神社のあった銭屋川筋エリアを歩き回ったことがきっかけとなっている。諏訪神社から長崎市亀山社中記念館に行き、若宮稲荷神社を回って、銭屋川に下りてゆき、川筋を通ったのだった。回った時点では水神社がその付近にあるという認識は筆者にはなかったが、結果的に事前に回っていたことが研究の大きな原動力となった。 いずれにしても、幻庵因碩の二度の肥前訪問の間に、秀徹の因碩継承、節山因碩の刺殺事件による退隠、松本錦四郎の因碩継承といった重要事項が立て続けに起きている。当然のことながら、こうしたことが背景に大きく影響していることは否定できない。その意味では、これらの解明そのものを進めてゆくとともに、関連性を考慮しながら把握してゆくことが必要となってくると思われる。
五、二度の肥前訪問に関する考察 <1>島原訪問と長崎訪問の違い 幻庵因碩の肥前訪問は、1847年の島原訪問と1852年の長崎訪問の2回である。この2回の肥前訪問は、幻庵因碩にとっては肩書や環境は大きく異なっていることを指摘しておかなくてはならない。1847年の島原訪問時の50歳の時にはまだ井上家当主因碩であったのが、1852年の長崎訪問時の55歳の時には隠居幻庵となっており、井上家当主も節山因碩(秀徹)を経て松本因碩(錦四郎)と代わっている。
来訪時期 1847年 1852年 幻庵因碩の年齢 50歳 55歳 来訪場所 島原 長崎 幻庵因碩の立場 当主 隠居 <3>因碩初段について 俗に「因碩初段」といわれる免状乱発によって、九州には井上家門下の初段が多く存在するといわれている。この免状乱発の目的としては、清への渡航費用調達がだったする説と紛失したことに伴う帰途費用調達だったとする2つの説がある。 1847年の島原訪問時であれば、幻庵因碩自身が当主因碩であるので、免状を発行することは比較的容易であると思われる。一方、1852年の長崎訪問時であれば、当主は松本因碩に替わっており、先々代当主とはいえ勝手に隠居の幻庵因碩が免状を発行するというわけにはいかないだろう。その点を踏まえると、「因碩初段」の免状を乱発したと考えるとすれば、1847年の島原訪問時であると考えるのが妥当と思われる。
<4>長崎訪問の目的について これらのことを踏まえると、1852年の長崎訪問の目的は何だろうという疑問が生じてくる。隠居の身となったこと、その後の刺殺事件のこと、本意ではなかったとはいえ後継に松本が因碩と決まったことなどを考えてみると、より気楽な、懸案が一段落して安堵した上での訪問となっていることは想定される。 筆者の現時点における私見では、各地に点在する井上家門下をめぐり、幻庵因碩の後継となった節山因碩、松本因碩に関する事情説明、弁解するための行脚であった要素もあったのではないかと考えている。 疎遠にしていた井上家の親類縁者、支援者、門人などを訪れていた可能性もあるのではないだろうか。 四、関係者に関する調査 幻庵因碩の二度の肥前訪問に関係している人物について、文献的調査を行ったので、まとめて記しておく。
<1>勝田栄輔 勝田栄輔は、幻庵因碩の長崎訪問の際の対局相手である。 『囲碁史談・星輝庵棋録』の「明治以前棋家打碁遺譜調査表(其の一)」によると、「勝田栄輔」の打碁は12名に対して54局残されており、1番多いのは関山仙太夫との15局、次いで安井俊哲算知との13局、岸本左一郎との6局となっている。 『幻庵因碩打碁集』によると、佐野栄輔時代の1836年4月の江戸日本橋の百川楼での二子番1局、勝田栄輔になっての1849年1月に先番3局(記述はないが、周防小郡での対局と思われる)、そして1852年11月の長崎対局の4局の合計8局が載せられており、渡邊英夫氏の認識よりも幻庵因碩・勝田栄輔戦は残されている棋譜は多いと思われる。また「幻庵―栄輔の対戦成績は、資料を精査された荒木直躬氏(囲碁文化会初代会長)によると四勝四敗四打掛け。」とも書かれてあり、荒木氏は12局の認識で、『幻庵因碩打碁集』に未収載の棋譜を認識していたことが分かる。 また『完本本因坊秀策全集』によると、秀策とは1846(弘化3)年の3月18~19日、20~21日に備後落合で2局、1857(安政4)年閏5月24日に安芸広島横川で1局の合計3局が載せられている。 段附などへの勝田栄輔の記載は下記の表にまとめたとおりである。
1833(天保4)『諸国名碁鑑』東2段目1番目 三段/江戸牛込山伏丁/佐野栄助 1834(天保5) 『日本国中囲碁段附』 四段之部3番目 牛込/勝田栄輔 1839(天保10) 『圍棋勝劣競』東1段目6番目 四段/牛込山伏丁/勝田栄輔 1841(天保12) 『大日本圍碁姓名録』四段之部本因坊門下1番目 江戸/勝田栄輔 1857(安政4) 『日本国中囲碁段附』 本因坊門人之部四段1番目 江戸/勝田栄輔
<2>三神豪山 『坐隠談叢』に「因碩門下に播州の人、三上豪山なるものありて、沈雄大略、又因碩に譲らず。因碩之を知り、語るに意中を以てせしに、豪山の好奇果して其見に違はず、喜んで之に従ふ。即ち共に天下周遊を名とし先づ北越に遊び、転じて中国を下り、長崎に出で、茲に滞在久しきに瀰れり。」とあり、幻庵因碩の長崎訪問の同行者であり、その前に北越地方や中国地方にも訪れたとされている。 『囲碁史談・星輝庵棋録』の「十二世井上秀徹因碩の玄庵跡目となった事に就いて」の中の幻庵因碩から三崎家へ送られた書簡の文意をまとめたものによると、「玄庵が思うに越前公は我が家累代君臣の如く渥い恩沢に浴してきた。加うるに三崎家とは親族であり然して未だ訪うた事がない。我ひそかに三つの願を持って居る。福井城に出頭する事、運正寺廟に香を上げて累世優遇を謝す事、三崎家を訪問して多年絶信非礼を詫びる事の三つがそれであった。遂に決心して本年本保村を先ずたずね暫らく居って後福井に来た。」とある。 先の『坐隠談叢』の記述の「北越」に該当するかどうかは不明だが、越前には幻庵因碩が訪問している証左であり、書簡には書かれていないが、三神豪山も同行していた可能性もある。 後継の秀徹因碩が発狂したのが「己酉仲春」とあるので1849(嘉永2)年2月のことであり、それを受けて越前国本保村の河野良輔が井上家の行く末を案じて江戸東上したのは「庚戌孟夏」とあるので1850(嘉永3)年4月のことである。幻庵因碩の越前訪問は河野良輔の江戸東上を受けた後になるので、1850年4月以降で、後継の因碩に松本錦四郎が決定した後ということになる。 『坐隠談叢』に幻庵因碩と三神豪山が北越、中国、長崎とを巡っているとあるが、単に周遊していたのではなく、越前訪問同様、疎遠にしていた井上家の親類縁者、支援者、門人などを訪れていた可能性もあるのではないだろうか。 『囲碁史談・星輝庵棋録』の「明治以前棋家打碁遺譜調査表(其の一)」によると、「三上豪山」の打碁は幻庵因碩との1局、本因坊秀策との1局の合計2局が残されている。『幻庵因碩打碁集』によると、幻庵因碩とは1852(嘉永5)年1月16日の姫路城での対局とあり、『完本本因坊秀策全集』によると、秀策とは1857(安政4)年6月27日に鳴門館での二子での対局とある。 段附などへの三神豪山の記載は下記の表にまとめたとおりである。
1833 (天保4)『諸国名碁鑑』 西4段目12番目 初段/三神松太郎 1834 (天保5)『日本国中囲碁段附』 二段之部井上門下3番目 甲州/三神松太郎1839 (天保10) 『圍棋勝劣競』 西3段目5番目 二段/三神如松 1841 (天保12)『大日本圍碁姓名録』 二段之部井上門下3番目 三神松太郎 1857 (安政4)『日本国中囲碁段附』井上門人之部二段3番目 甲州/三神松太郎 林門人之部三段1番目奥州/三上豪山
『坐隠談叢』をはじめとして一般的に「三上豪山」と表記されているが、段附では「三上豪山」は1857年のみでしかも林門下、奥州出身とされていることから、別人である可能性もある。井上門下で甲州出身の碁打は「三神」姓で一貫していることから、本論文での筆者の表記は「三神」で統一した。「豪山」という号も妥当であるかどうか議論が必要となるかもしれないが、完全に否定できるだけの論拠を持っていないこともあり、『坐隠談叢』などの表記も踏まえて、ここでは「三神豪山」という表記に留めておいた。今後、検討を進めてゆきたい。
一、はじめに 幻庵因碩が肥前に訪問したことは、海外渡航を試みたとするエピソードも含めて、幻庵因碩の英雄伝説のフィナーレを彩る一頁といえる。史実と虚構が入り混じっていると思われるが、実際には二度にわたって幻庵因碩が肥前を訪問したと考えられる。筆者なりにその二度の肥前訪問について考察し、史実に迫ってゆきたい。
二、従来からの3つの説の相違 『囲碁史談・星輝庵棋録』中の「因碩の長崎周遊と海外渡航企画に就いて」(p221)で、幻庵因碩の肥前来訪についての従来の研究、発表などが網羅されており、3つの説が紹介されている。 一般的には広く流布していると思われる『坐隠談叢』の記述の他に、鹿児島県出身棋士の長野敬次郎六段が伝え聞いた談話(以下、長野説)と島原を訪問した芝田芳洲氏が情報収集して発表した投稿文(以下、芝田説)の3説である。簡単に表にして違いを示しておく。
坐隠談叢 長野説 芝田説 時期 嘉永年間 弘化年間 弘化年間 滞在地 長崎 島原 島原 航行目的 清への渡航 清への渡航 資金提供の依頼 遭難地 長崎沖 平戸沖 熊本→島原 中断理由 暴風雨による遭難 不注意による資金の紛失不注意による資金の紛失 資金提供者 島津家 細川家 提供額 500両 180両 関係者 三上豪山、谷口藍田 蓮香雄助 木村常三郎、小嶺岩三郎
三、長崎での対局場所に関する考察 <1>中田説への賛同 中田敬三氏が幻庵因碩対勝田栄輔の有名な長崎対局の場所である「陽水神社」を「水神神社」ではないかと『囲碁史会会報』第48号(2015年3月)で発表しているが、筆者も基本的には中田説に賛同する。ただし、いくつかの点で指摘しておくべきことがあるので、以下に示しておく。
<2>「陽水神社」への疑問 中田氏も「陽水神社」探しにご苦労されたことを記されているが、筆者としてはそもそも探している「陽水神社」という表記が妥当なのかという点を指摘しておきたい。 『囲碁史談・星輝庵棋録』に引用されている1909(明治42)年の『碁界新報』の記事によると、幻庵と勝田栄輔との対局を「さて十一月五日を以ていよいよ初番を対局することになって同地の水神社に於て顔を合わせたが、手合は栄輔の定先で玄庵の中押勝となった。」と記述されている。つまりここでは「陽水神社」ではなく、「水神社」となっているのである。 原典における表記の相違がどうなっているかを検証してゆかなければならないが、これを解決するために元来は「崎陽水神社」というような表記がなされていたのではないだろうか、と筆者は考えている。「崎陽」とは「長崎」の中国風表記であり(ちなみに、シウマイで有名な「崎陽軒」も創業者が長崎出身であったことに由来しているともいわれている)、区切りの点を入れるならば、「崎陽・水神社」となるのではないだろうか。書き写されてゆく過程において、「崎陽水神社」が「長崎陽水神社」と表記される文献も出てきたかもしれないし、「長崎陽水神社」の「長」が脱落したと解釈した者もあったかもしれない。いずれにしても探すべき神社名としては、「陽水神社」ではなく、そもそも「水神社」なのではないだろうか。
<3>当時の水神社の場所 また「水神社」と呼ばれる神社が、長崎においてそれなりの位置づけの神社であったことは、『新長崎市史』に「長崎で神社と称されたのは、諏訪社・松森社・伊勢宮(以上長崎三社)、八幡社・水神社(以上長崎五社)、神崎船魂社・恵美須社(以上長崎七社)」と記されていることからも推察できる。 現在の水神社は中田氏が指摘されたとおり、銭屋川の上流にあたる本河内[ほんごうち]に鎮座しており、1920(大正9)年11月に移転したとのことだが、それまではより下流にあたる倉田水樋[くらたすいひ]の水源である銭屋川の畔の八幡町[やはたまち](地名を隣接する伊良林[いらばやし]と記している文献もある)にあった。元々は寛永年間(1624年~1645年)に出来大工町[できだいくまち]に祠が建立され、明暦年間(1655年~1657年)に炉粕町[ろかすまち]に移転となり、その後1739(元文4)年に八幡町に移転されたという。つまり現在の本河内にある水神社は4箇所目であり、対局当時の水神社はもっと銭屋川の下流にあたる八幡町にあったことになる。 この八幡町の水神社の場所については、『日本の古写真』HP中の「1890年代の長崎・阿弥陀橋」に載せられてある1802(享和2)年の古地図<地図1> (http://www.oldphotosjapan.com/ja/photos/93/amidabashi_jp)にある。⑬の阿弥陀橋の西側が水神社であり、銭屋川をはさんで長崎聖堂(⑭)があり、山に沿って進むと日本最古の黄檗宗寺院である興福寺(地図では左中央部)をはじめとする長崎を代表する寺が並んでいる道にゆきつく入口にあたるような位置にあたる。⑬、⑪、⑤、④、③、①という順番に、上流から下流に第一橋、第二橋、…第六橋と橋名が当時は名付けられていた。さらに下流になる第十橋が観光で有名な眼鏡橋である。また地図の左下側に「かめ山」とあるが、この付近に有名な坂本龍馬の亀山社中(海援隊の前身)があった。 現在の地図を基に作成された復元図<地図2>(『復元!江戸時代の長崎』)でも示されている。 現在の水神社では対局場としてふさわしいとは言い難い、市内から離れた上流域の場所になってしまうが、当時の八幡町であれば長崎の中心地にも近く、対局場としてそれほど違和感のない場所ではないかと思われる。 |
(私論.私見)