「宝永の争碁(「安井仙角7段-本因坊道知5段 (先相先の先番)」)」

 (最新見直し2014.07.25日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで「宝永の争碁(「安井仙角7段-本因坊道知5段 (先相先の先番)」)」を研究する。

 2014.07.25日 囲碁吉拝


【宝永の争碁(「安井仙角7段-本因坊道知5段 (先相先の先番)」)】
 1705(宝永2)年、10.2日、井上因碩(8段半名人)が道知に「先」(6段格)を許したとして、安井仙角6段に11月の御城碁で互先で打つことを申入れる。仙角がこれを拒絶する。10.12日、片岡因的(36歳、7段)が林門入(3世、後に玄悦)の養子となり、因竹と改名・跡目を許され、10.15日、御目見得。10.23日、仙角、寺社奉行・三宅備前守康雄に対し、因碩指定の御城碁手合割りの不服を称う。11.1日、因碩は月番寺社奉行・本多弾正少弼忠晴に道知・仙角の互先手合直し願嘗を提出。弾正、前月番の備前守に願うよう指示を与える。結局、折衷案を採り、幕府「先相先」の手合割りを裁可。  

 11.20日、「宝永の争碁」と云われる「安井仙角7段-本因坊道知5段 (先相先の先番)」が御城碁の下打ち将棋方・大橋宗桂宅で行わる。先相先の手合割となる。この時、道知は体調不良で、とても対局できる状態ではなかった。序盤から冴えがなく、そこを仙角につかれて劣勢に陥ってしまう。後見の因碩は途中で見ていられなくなって席を立った。道知、終盤戦に入ると様相が一変する。道知は好手筋を連発し、鬼気迫る追い込みを見せる。特に黒125、127が後世に有名な妙手となった。「道知のヨセの妙手の局」と云われる。そして遂に1目抜き去る。道知が先番で仙角に一目勝つ。勝ちと思い込んでいた仙角は三度まで作り直したと言われる。悪条件の第1局でも負けなかったことは道知の地力の証明であり、争碁の行く末を示したものだった。第2局「安井仙角7段-本因坊道知5段 (先相先の先番)」は圧勝。以下は騎虎の勢で仙角を圧倒する。
 これにつき「坐隠談叢」が次のように記している。
 「当時、道知御病にかかり未だ全快に至らざれば衆皆ないかがあらんかと大いに憂いたりしに、道知の客気旺盛にして、強いて手合いせんこと主張せるより、因硯は門下を率い大橋宗桂宅に至れば、仙角既に在りて、朝五つ時(午前8時)より対局を始む。仙角は道知の幼年(16歳)なるをもって組し易しと思惟せしものか、その態*傲に見えしが、道知は少しも遅疑逡巡の色なく、おもむろに手談を施せり。因硯は傍らに在りて注視傍観、その形勢を観察するに、道知病気の為なるか、はたまたいかなる手順にや、局面黒勢いすこぶる振るわず、逐次敗勢表れ、因硯も隔靴掻痒の感に堪えず、必定道知の敗と鑑定し席にも得堪えず、八つ時頃(午後2時)帰宅せり。門下高橋友硯も亦同じ思いにて悄然として、薄暮れ家に帰り、因硯と共にその碁を調べ見るに、道知の敗はいよいよ決定し、今は因硯すら回復の道なしと断念し、共に嘆息せり。(中略)一方、大橋方の道知は、このまま終局すれば無論敗なるべし、さすれば家の大事なりと覚悟し、一層力を極め秘術を尽くして石を下すうち、最終にいたり微妙なる堅め(ヨセ)をなし、翌21日朝六つ頃(午前6時)遂に1目の勝ちとなれり。(中略)因硯は先に道知の敗を予想し寝に就きたるも、終夜煩悶眠りをなさず、今この報を聞くも直ちに真とせず、ようやく帰り来る門人の勝報を聞くに及び、始めてこれを信じ驚喜おくあたわず、座を掃って道知を待つ。(中略)仙角は、この碁己の勝ちと信じたるにや、終局3回までこれを作り直せりせり。これ上手(7段)たる仙角にしてあるまじきことなりと喧伝され、後世に至るもなお論ぜらるに至る。あに慎まざるべけんや」。





(私論.私見)