囲碁落語、囲碁逸話その2

 (最新見直し2015.1.6日)

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで囲碁落語、囲碁逸話を確認しておく。

 2014.04.25日 囲碁吉拝


本能寺の変の予兆としての三コウ事変
 本能寺の変の前夜の「三コウ事変」が語り継がれている。これを確認しておく。

 1582(天正10).5.29日、信長は安土を立って京都四条の本能寺に入った。備中の高松城を包囲攻めしていた秀吉から出陣を請われたからであった。6.1日、信長は、寂光寺の日海(後の本因坊1世算砂)と日蓮宗僧侶の鹿塩利玄(林家元祖)を呼び御前対局させたと伝えられている。「因云棋話」が次のように記している。

 「信長本能寺逗留の節、本因坊も本能寺に参り夜詰す、夜九ツ過ぎ、夜詰を引き本能寺を出で三四町程過てと覚しき時分、物騒しき声聞ゆ、明智光秀本能寺を囲む、信長生害なり」。

 「坐隠談叢」は次のように記している。
 「日海、利賢の対局に碁勢乱離して互いに奇しき石立てとなり遂に『三コウ』を生じたり。元来、『三コウ』は常時出来得べきものにあらず。されば両者協議の上、これをジゴ、無勝負とし、その奇なるを怪しみながら夜半九つ過ぎ本能寺を退出したりしに何ぞ期せん、これ永訣の兆ならんとは。出でて幾ばくもなく金鼓轟(とどろ)きて剣*閃き、旗幟模糊として小嵐に翻り」云々。

 「因云棋話」が正味の話で、「坐隠談叢」は後世の作り話も合わせて脚色していると思われるが、話としては「三コウ事変」が入った方が面白い。即ち、本能寺の変直前の碁に、「まことに面妖(めんよう)なる」三劫(コウ)という珍しい囲碁の形ができ無勝負となった(三劫無勝負)。 夜半九つ過ぎ(深夜12時頃)、「珍しいこともあるものよ」と言いながら算砂と利玄は本能寺を後にした直後、明智光秀が本能寺に奇襲をかけ信長を自害へと追い詰めることとなる。三コウ(さんこう)を不吉の前兆とするのはこの時からである。

 利玄は利賢とも書かれ、1世林門入斎の師に当たる。日海の日記に「利玄と19年以前、備前岡山において、互い先に直り、その後方々にて都合19局打ち、このうち13番勝ち、利玄5番、1番はジゴ」、「利玄と9年の間、定先にて都合三百七十四局仕候うち、三十九番拙僧勝ち越し申し候也」と記されている。

 なお、本能寺の変の当日、家康は泉州堺の妙国寺で和尚を相手に碁を打っていたと伝えられている。急報が茶屋四郎次郎の手の者によって家康側近の本多忠勝まで伝えられた。忠勝は直ちに対局中の家康を次の間へ招いて、事の次第を告げ、聞き終って家康は静かに元の座へ還り、されげなく碁を打ち続けたとのことである(史実か伝説かは定かではない)。

【囲碁吉の囲碁講談「からみの鬼吉
 囲碁講談「からみの鬼吉」の一席。(三堀将「囲碁万華鏡」170P参照)
 「時は江戸時代の天保の頃、季節は秋口、所は東海道は駿府の外れのトロロで名高い丸子の宿。この宿に昨夜から陣取りましたのが年の頃五十五、六、でっぷり肥った赤ら顔の増田屋徳平。もう一人は囲碁の四家元の一つ井上家の流れを汲み、その打ち方から「カラミの鬼吉」と云われた年の頃二十五、六に見えるが実際のところは二十歳になったばかりの福田鬼吉のご両人。

 堅気の商人とその手代と云った風体ではあるが実際は賭け碁の渡世人であった。鬼吉は師匠の元を出奔して既に三年、囲碁繋がりの縁で増田屋と知り合いになり、今では二人して懸賞打ち稼業に精出していた。増田屋が碁が好きで金のありそうな旦那を見つけ、舌先三寸で賭け碁に誘い込み鬼吉と打たせると云うのが商売であった。

 この時代は現代と違って今なら誰でも知っているような定石でも口伝とか奥伝にして一般に教えることがなかった。天保に先立つ文化文政の頃には囲碁書の出版も盛んであったが、伝統的には家元秘伝にしていた。この頃、京都の学者の畠中哲斉という人が当世碁譜と題して各家元の打ち碁を木版にしたことがあったが、為に各家元から寺社奉行に訴えられて処罰されたというほどであった。そういう訳で、地方には豪の碁打ちがあまたいたが、いくら強いといっても所詮は素人に過ぎず、なにしろ十歳の頃から本修行をした鬼吉から見れば、どんなに強くても所詮は田舎者の天狗ばかりであった。増田屋はこの天狗に上手につけ込み、口車に乗せ、鬼吉の餌食にさせていた。

 鬼吉は増田屋の連れてくる相手をひねっていれば良かった。専門家修業をしてきた鬼吉が素人の碁に負けるはずがない。増田屋と一緒に四国から九州と長い旅をしてここに落ち着くまで何人と打ったか分からないが一度として不覚を取ったことがなかった。勝てば賭け金が転がり込んで来る。その間、好きな酒は飲めるし、元来が旅好きな面もあってツイうかうかと日を過ごして来ていた。


 この日、鬼吉が二階の手すりにもたれて晴れ上がった秋空をボンヤリと眺めながら、退屈紛れに顎のヒゲを指先で抜いていた。そこに増田屋がやって来て、「鬼吉さん、新たなカモだよ」とニヤリとした。鬼吉「ヘエ、して今度はどんなカモですかね」。増田屋「それがね、御当人をまだ拝んでいないんだが何せどんな相手でも向う先でいくらでも積もうという話しなんだ。どうせ例の通りの田舎天狗でございませう。ムッと来ましたから‘’見ず‘’で話を決めてきましたよ」。鬼吉「へエー、向う先でいくらでも積もうとはよほどの天狗だね。よろしゅうがす。目にもの見せませう」とニッコリ返した。

 鬼吉は、師匠の手元にいた頃から、先で鬼吉に刃向かう者はなかったほどの腕だった。鬼吉には自分が黒を持てば天下に対抗できる者はあるまいという自負があった。当時は本因坊丈和名人が全盛期、井上家は幻庵因硯八段。安井家は安井仙知8世。林家は碁経衆妙、精妙ランカ堂棋話等の著者として知られる林元美。どの家元も囲碁史に残る名棋士であり、その名棋士が揃い踏みしていたことになる。鬼吉は、これらの大先輩たちでさえ、こちらが先を布けば恐るるに足らずという気概をもっていた。故に、こんな田舎宿で「向う先でいくらでも積もう」なる高言を吐く天狗が許せなかった。鎧袖一触にして目にものを見せてやらんとせせら笑った。

 増田屋は久しぶりの上客だと張り切っていた。「今度は一番勝負でグッと大きくしたからね頼むよ。昼過ぎから始めるから」。二人はお刺身つきを特注文し昼食を早めに済ました。早めの食事は鬼吉の勝負前の定石であった。お腹が一杯だと頭の血が下へ下がって緩い手が出る。対局は少し空腹加減が良いと云う警(いまし)めであった。

 そうこうするうち約束の時間となった。見晴らしの良い離れの八畳間に、赤い毛布を布いて、その上に盤石が用意された。この頃は盤石の下に毛布を布くのがしきたりだった。対局者はこの毛布の上に座布団を布いて座る。これは外観上も立派に見えるし、対局者の心境も自ずと静まる効果があるようである。鬼吉が増田屋と共に対局室に入り、床の間に向かって盤に対した。これは相手を上座にしたものであった。碁盤は宿屋一の厚さ六寸のもの。石は本物の日向のハマグリと那智黒の三分石であった。

 鬼吉は出された抹茶を心静かに嗜んで待った。ほどなく二人が入って来た。白髪の品の良い駿府の茶商、長井屋と懸賞うち天狗であった。長井屋が丁寧な挨拶する。「これはお待たせしました。増田屋さん、それではお願いしましょう。オッ、あなたが福田さんですか。お引き合わせしませう。これが私の甥の黒田秋一です。どうぞ宜しくお手柔らかに」。その丁寧さに引き換えて連れてこられた懸賞うち天狗は三十歳ほどの坊主頭で着流しの面長の男だった。ニコリともしない無愛想なまま床の間に座り、白石の碁笥(ごけ)を手元に引き、蓋を払って碁笥は膝の間に、蓋は碁盤右脇に置くや、そのまま眼を閉じて一言も発しなかった。鬼吉が呆れつつ能く見ると、色あくまでも青白く、鼻の脇にある大きなホクロがあり、口は大きく、なんとなく妖気を漂わせていた。


 増田屋と長井屋が万端の打ち合わせを更に確かめ、増田屋「それでは鬼吉さん」、長井屋「それでは秋一さん」と声を掛けた。鬼吉が黒石を手元に引き寄せ、懐中から取り出した懐紙で碁盤をきれいに拭くと、軽く一礼し、第一石を右上の小目に打った。パチリとこの第一石が音を立てた。後手番の秋一が間髪を入れず左上に打ち下ろした。右手をサッと動かしたかと思うと魔につかれたような早さだった。

 鬼吉「オッ」と腰が一寸ほど上がった。というのは、その白石が左上の星より中央に斜め一路近寄る5の五だったからである。当時は小目打ちが常用されていた。後では星打ち、3三打ちも打たれるようになるが、昔も今も5の五は余りにも大胆で見かけない。この天保時代では全く思いもかけぬ奇想天外の一着だった。鬼吉は相手の打ち間違いか、そうでなければよっぽど碁を知らぬ田舎天狗の手だろうと考えた。多分打ち間違いだろうと上目使いにジロリと相手の顔を見ると、秋一は瞑目してどこ吹く風という態度をしていた。身辺からはみなぎる妖気を発していた。

 鬼吉の腕は本仕込み、度胸は江戸前、そんならこうよと、黒3の手を右下の小目に下ろした。これは後に秀策流として知られることになる小目一、三、五の黒必勝形の布石の先取りであった。今度は相手が打たなかった。両手を正しく膝の上に組んで微動もしない。但し眼光鋭く碁盤を睨みつけており、凄まじい気合を発していた。やがて、今度は音もなく白石を摘み上げると幽霊の手みたいな格好でポトリと置いた。ナント右上の黒の小目の石にピッタリくっつけた星の位置であった。

 鬼吉は「フーム」と思わず深く溜め息をついた。見上げれば、秋一が青白い顔をクシャッとさせたかと思うと「ゲラッ」とカン高く笑った。それも瞬間又もとの厳粛な瞑目に戻った。鬼吉はここで座り直した。これは油断ができぬと覚ったからであった。これを解説すると、世にも珍しい二着に驚かされたが、手そのものに凄さを感じている訳ではなかった。この二手は幾分の損であると即座に判断していた。しかし、敵の肝を奪い、意表に出る点ではこれほど凄みのある手はなかった。黒がもし受け手を誤るならば、白のこの二手はたちまちに威力を発揮してくる。よほど慎重に気をつけぬと相手の仕掛けた陥穽に落ちると察知した。

 それよりも鬼吉がアッと思ったのは、むしろ白四を打ってから静かに引き上げていく相手の手の表情を見た時であった。「専門家だ!」と直観した。専門家故に相手が同様の専門家であることを見抜いたことになる。今日でも仮に俄か雨などにあって専門家が碁会所などに飛び込み、雨止み待ちの暇つぶしで対局したとする。そういう場合、石を打つ手つき格好から身分がバレる。まして相手が専門家だとすればピンと来ないはずはない。


 鬼吉き頭のテッペンから冷や水を浴びたようにハッとした。しかし待てよ、相手が専門家とあらば自分の知らぬ者はいないはずと、心の中で指折り数えて見た。が、さてどうにも見当がつかなかった。ともかくも容易ならざるしんどい賭け碁になったことをとっさに覚悟した。この三年間、鬼吉は、田舎天狗と渡り合い、その中でも豪の者と廻り合うことはあったが、本修行した専門の棋客と対局したことはなかった。やはり本修行した者は手強(てごわ)い。相手が専門家では一手の緩みが命取りになる。鬼吉は緊張して襟を正さざるを得なかった。

 それから十時間。舞台はそのまま、ただ夜のとばりが降りて、行燈(あんどん)が明るく照らし出していた。両対局者を見れば、床の間を背の秋一は昼間に変わらぬ無表情。一方の鬼吉は、うつ向き加減に全身に冷や汗、両手を盤側について肩で呼吸していた。よほどの疲労と見えた。盤上は形勢不明、その落ち着く先は極微と見えた。増田屋は傍で固唾を呑んで見守っていたが、どちらが良いか判断つかず、その時打った方が優勢に見えるばかりであった。専門家の碁は皆なそうで、打つと打った方が優勢に見える。

 この時、中座していた長井屋が障子をあけて入って来た。さすがに心得ありと見えて、対局者の神経を乱さぬよう、立居振る舞いの要領が良い。長井屋「増田屋さん、どうです、お互いに棒つきではくだびれますね。向こうに行って休みませんか。この碁はまだ長くかかりますぜ」と小声で話す。増田屋「そうですね。ではそうしましょうか」と応じた。長井屋「何でも今聞いたのですが、この間、丈和に負かされて血を吐いた赤星因徹がこの8月に死んだそうですよ」。増田屋「へエー、赤星が死にましたか」。二人は退室する前に碁界の消息をやり取りして出て行った。

 二人が出て行った後、対局者両人がハッという表情で顔をあげた。秋一「因徹 !」。鬼吉「死んだ !」と思わず口走る。思わずこの両人が顔を見合わせたが、その時、鬼吉、膝を叩いて、「読めたッ、あなたは坊門の黒沢5段」と叫ぶなりヘタヘタとその場に崩れてしまった。極度の疲労により貧血を起したものと思われる。増田屋が駆けつける。勝負は中盤のままひとまず打ち掛け。あとは明朝ということになった。

 秋の夜長のその晩、増田屋は寝つきが悪かった。この勝負を甘く見て大きく賭けていたが、こたびの相手が尋常ならざる打ち手であり、相手も専門家であることが判明していた。鬼吉が苦しんでおり、盤上は形勢不明で、一敗地にまみれる懸が拭えなかった。鬼吉が倒れ、勝負を打ち掛けにしたものの、相手次第で負けを宣告されても仕方がない引き延ばしであった。増田屋は増幅する不安の中で眠られず、明け方にトロトロとまどろんだばかりであった。

 やがて鶏声暁を告げ、フト目を覚まして傍をみると、枕を並べていたはずの鬼吉がいない。アッと驚いてハネ起き、鬼吉の枕元をみると一通の遺書があった。あわてて手紙を広げるとこう認めていた。「突然の出立、平に御容赦下されたし。昨夜の一局にて、これまでの小生の修行の懈怠を骨にしみて痛恨仕り候。師と頼む方は争い碁に倒れ吐血して亡くなりぬと聞くにつけても、この上は遅ればせながら江戸に馳せ帰りて再び本修行つかまつるべく、一刻も早く立派な腕となりて、師の仇を盤上にて討つ所存にござ候。昨夜の相手は、坊門の英才として少年時代よりその名の轟きおりしが、若くして脳を患い、引退療養中と聞き及ぶ黒沢5段に相違なしと推察仕り候。遠く及ばざる芸才、教えらるるところ身にしみて汗顔。何としても再修行致したく、不意の出発なにとぞ御許し下さるべく候。鬼吉、九拝。増田屋さま」。

 増田屋は腰を抜かし、手紙を持ったままヘナヘナと座り込み、そのまま小半刻過ごした。しかしこうしてはいられなかった。何より気がかりなのは長井屋との賭け金であった。鬼吉が出奔したのは碁の負けを自白したようなもの。この勝負に思い切って全財産を賭けており、その全財産を失う羽目になった。まさかの事態に狂わんばかりになり悲痛で胸が締めつけられた。いっそのこと鬼吉の跡を追ってドロンを決めようと赤ら顔を青くして立ち上がった時、椿事が起る。長井屋が「失礼、失礼します」と部屋に飛び込んできた。増田屋「オッ、長井屋さん」。長井屋「増田屋さん、実は折り入ってお願いがあって来たのです」。増田屋「実は私の方こそ折り入ってお願いがあるのですが」。長井屋「マッ、先に私のを聞いてください」。増田屋が長井屋を見やると、長井屋「昨日の約束はさりながら、実は昨夜の碁はあれで暫く打ち継ぎを延期していただきたいのです」。

 増田屋「エッ、本当ですか。それはまた何ゆえ」。長井屋「こうなったら何もかもお話しますが、あの甥は本因坊家で修業させている中に脳を悪くして、私の家で養生中の者。最近はメッキリと全快したので、好きな碁のことゆえ時々手合いをやらしていたのですが、昨夜はよほど頭を使ったと見え、今朝から発狂して手がつけられないのです。どうか治るまで打ち継ぎを待って下さる訳にはゆきませんか」。長井屋が白髪頭を畳に押し付けてお願いする。増田屋は狐につままれたような思いがした。ホッとして、増田屋「長井屋さん、まァまァ手を挙げてくださいよ。実は私の方もこれこれしかじか」。

【囲碁吉の夫婦(めおと)碁
 これは囲碁吉の創作囲碁落語である。これからどんどん書き直し完成させていくものとする。
 「日本には何々道と名がつくものがたくさんありますが、そこの業界用語が日常生活用語に転用されている例が思いのほか多くありますネ。格闘技系の相撲、柔道、剣道、弓道。演芸系の能、歌舞伎、浄瑠璃、茶道、華道、その他最近では野球からも入って来ています。せっかくの機会ですからこれを少し見て参りませう。

 柔道、剣道、相撲に共通の用語があります。「すり足」、「体さばき」、「踏み込み」などがそうでせう。格言の「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、「礼に始まり礼に終わる」も共通しております。

 柔道独特の言葉としては「白帯、黒帯」、「喧嘩四つ」、「技あり」、「一本勝ち」、「寝技に持ち込む」、「合わせ技」、「押え込み」、「柔よく剛を制す」。

 剣道用語としては「正眼の構え」、「手の内」、「二刀流」、「真一文字(まいちもんじ)」、「寒稽古」。

 相撲用語は国技と云われるだけに思いの外、多うございます。「地力(じりき)」、「かど番」、「けんか四つ」、「相四つ」、「死に体」、「タニマチ」、「給金」、「三役(横綱、大関、関脇)」、「幕内、幕下」、「勇み足」、「腰砕け」、「四十八手(しじゅうはって)」、「一本道」、「電車道」、「ふんどしを締める」、「かかとで残す」等々があります。

 能からのものもあります。「桧舞台(ひのきぶたい)」がそうです。「番組表」の「番組」も能狂言から生まれたものです。出勤(しゅっきん)」、「申し合わせ」、「初心忘れるべからず」、「秘すれば花」等々があります。「千秋楽」も能の「高砂」の最後の文句で、法界の最後の日に奏した事から歌舞伎や相撲の打ち上げを千秋楽と呼ぶようになったものです。「差し金」は人形浄瑠璃で手を動かす細い黒い棒を‘差し金’と言うことから陰で人を動かす人に転じたものです。「二の舞」は前の舞台の踊りを滑稽に真似る踊りから転じたものです。

 歌舞伎の「花道」、「一枚看板」、「市松模様」、「黒幕」、「裏方」、「脇役」、「正念場」、「お家芸」、「大立ち回り」、「十八番(おはこ)」、「楽屋(がくや)」、「切り口上」、「口説き」、「こけら落し」、「二枚目、三枚目」、「千両役者」、「どさ回り」、「見栄をきる」等々キリがありませんナ。「後見」は舞台の後ろで進行を見守る実力者の事を云い「後見人」として使われるようになりました。

 茶道の「茶坊主」、「侘び寂び(わびさび)」、「一期一会(いちごいちえ)」、「おもてなし」、「お茶の子さいさい」、「鬼も十八番茶も出花」、「お茶を挽(ひ)く」、「お茶を濁す」。

 華道用語から生まれたものもあると思われますが知られているのは「イケメン」でせうか。花の師範が皆な良い男で「花を活ける面(つら)が良い」が由来と云うことです。

 邦楽用語の「メリハリ」は「減り張り」と書き、音を減じたり張ったり(大きくする)したりすることから生まれたようです。「トコトン」は踊りで足拍子を取ったり、太鼓を叩いたりすることを擬音化したものでそこからトコトン節と言う歌がが生まれ歌の内容が「最後までやる」だったことから転化したものです。「打ち合わせ」や「合いの手」も音楽の世界で生まれているようです。
 こうして日常言葉に溶け込む芸道用語を見て参りましたが、言葉や格言、ことわざの類が際だって多いのが囲碁です。「手、て」の囲碁用語としては「初手」、「先手を打つ」、「手を打つ」、「手入れ」、「手違い」、「手詰まり」、「先手を打つ」、「手合い」、「手抜き」、「手筋」、「手が見える」があります。「筋、すじ」もあり、「筋が悪い」、「筋が違う」、「筋を通す」と云うように使われております。「目、め、もく」もそうで「目安」、「目算」、「目算が外れる」、「一目置く」と云うように使われております。「局、きょく」もそうで、「局面」、「結局(けっきょく)」、「大局観」なんかもありますね。「活、かつ」もそうで、「死活、死活問題」、「活路、かつろ」。「」捨て石、短い言葉で「白、黒」もそうで「白黒つける」と云うように使われております。他にもダメ、コウ、詰め、布石(ふせき)、寄せ、「敗着、緩手、緩着」、「岡目八目」なんて言葉もあり世間用語としても使われていますネ。

 「八百長(やおちょう)」も囲碁用語が語源ですね。これは、明治時代に八百屋の長兵衛さんという人が居りまして、この人が日頃「八百長」と呼ばれていたのですが、この「八百長」さんが相撲の伊勢ノ海五太夫さんと親しく囲碁を打つ仲だったのですが、本当は「八百長」の方が強いのに八百屋を贔屓にして貰いたいので時々わざと負けて機嫌をとっていたことから始まります。或る時、時の本因坊秀元と互角の勝負をしたことで「八百長」さんの本当の強さがばれてしまった訳です。実話かどうかははっきりしませんが、この逸話が「八百長」の語源となっております。

 その囲碁用語がお嬢様の前では云えないような言葉に満ち溢れているというのは知る人ぞ知るところでありまして、それがあまりにもピッタリ表現で何となく楽しいんですナ。囲碁を楽しんでおられるお嬢様も多いのですが特段顔を赤らめたとか怒ったとか聞きませんネ。

 例えば、「キカシ(キカス)、外す(外し)、攻める、引く、当り、石がよれる、添う」なんかはまだしも普通の言葉ですが、「イジメる」、「焼きもちを焼く」、「絡(から)む、絡み攻め」とか「捲(ま)くる」辺りから段々と怪しくなりますネ。「ノゾク(覗く)」なんかはどうですか。これを説明しますと、相手の石が1間に飛んである場合に、切断することを狙って、まさにノゾクと云う感じの手のことを云うのですね。「ノゾキにはババでも裾隠す」なんて駄洒落風に言い合うのですナ。「突っ張る」はともかく、「突く、突つく」なんかはどうでせうネ。なんかこうこそばゆくなりますねヱ。「押さえ込む」、「羽交い絞め」となると穏やかではありませんヨ。「急所攻め」なんて言葉もあります。「突っ込む」、「嵌(は)める、嵌(はま)る」などの言葉となると、これはもう解説するのも憚られますわな。「廻す」となると解説を失いますなア。

 同じような気づきの一文「囲碁の用語は危ない言葉?」に出くわしたので転載しておく。
 ブログ炎上問題が注目されています。スマイリー菊池っていう芸人さんは知りませんでしたが、書き込みに「殺す」と書き込んだのが、脅迫罪あるいは威力業務妨害にあたるとして、刑事事件としての摘発の決め手だったらしいです。ウエブ問題の専門家 (ふーん、そんな人もいるんだね) は、書き込みに、「殺す」なんてかきこんだらアウト、と言ってました。ところが、私は毎日のように、囲碁ブログや囲碁SNS Goxi で、「殺し」たり、「閉じ込め」たり、「いじめ」たり、「目をつぶし」たりして、それを得々と文章化しています。これは、まずいのではないだろうか? ということを、囲碁SNS Goxiにかいたところ、フレンドのみなさんから、さらにこんなのもあるぞ、といって寄せられました。みなさん、こういう話題だと、ノリがいいなあ♪ たくさん集まったので、ここに開陳します。

・頭をはねる、・下から覗く、・急所を一撃する。

 うわー、ものすごくひどいことをするんだなあ、と思いました。一番手の投稿は、私に三子も置かせて碁を打つ高段のKさん。高段であるということは、私に輪をかけて、ひどいことをする人だということになります。

・まくったり、・きりちがえたり、・おいおとしたり、・さしこんだり、・わりこんだり。

 (゚ー゚)(。_。)ウンウン、たしかに、私はそういうことはめったにしない(気がつかない)が、Kさんは、する。わたしは、それほど悪辣ではないから、低段で踏みとどまってるけど、こういう悪いことをしたいほうにしているのがアマ高段であり、また、プロであるとおもえば、下手も悪くないとおもえますね^^。さらに出てきた物騒な囲碁用語。ここから先は、みんなが、面白がってかいています。

・数を背景に攻め上げる:置き碁のコツがわかると、こういう攻めがたのしくなりますね。
・弱いのを横目でにらんでおいて、襲い掛かる:もたれたり、からんだりするんですよね。
・切ったり、放り込んだり、ぐるぐる回したりする!
・執拗に追うからシチョウというという:そうか・・・シチョウは、ストーカーなんですね。

 だから、列車の中で 囲碁の愛好家の会話を他の乗客が聞いたら通報される、なんて噂も・・・・・・「そこは、放り込んで、目をつぶしておいて、追い回せば楽に殺せるだろ・・・・・」って、たしかに、依田紀基九段が和服着て、台湾訛りの王メイエン九段と、大声でそういう話をしていたら、こわい。あのふたりだったら、どこにいるのかを忘れて大きな声でやりそうだな・・・・スポーツ新聞の一面に囲碁のことが載るとしたら、まず、これだな・・・・そういえば、飛行機で 「ハーイ、Jack!」 と挨拶をすると、大変なことになるという噂もきいたことがあります。囲碁の話は、あまり人前でしてはいけないのかもしれませんね。

 棋士同士の結婚式の祝辞って、忌み言葉連発だろうなあ・・・・。「新郎の得意とするのは、しのぎのないようなところに手をつけて、ぎゃくに根拠を奪ってぎりぎりと攻め上げるところです・・・・・新婦は先日の女流タイトル戦で、遠巻きに相手の目を奪い、最後は放り込んでぐるぐる回しに・・・・・」。やくざの宴会とまちがえられそうwww。
囲碁サイトでも、感想のときに、殺すということばを使ってはいけないところがあるらしく、チャットに使用不可の言葉があるため、囲碁の感想戦の時に障害があります^^という報告もありました。「死活とか、これでこの石は死んでいる、とか、これで殺せる、とかが使えないので、説明が回りくどくなりますよ^^@」。そうなんだ・・・・・たしかに一般生活で、殺すということばはつかわないわなあ・・・・。ホームから突き落とすとか、シルバーシートをゆずらない、とか。喫煙場所以外で煙草をすうとか・・・・そういうことも禁止ですね・・・って、これは、囲碁と関係ないか。タクシーの運転手を後ろから襲うとか、老人宅に息子を装って振り込め電話をかけるのもだめです・・・・って、なんのはなしだっけ。碁の物騒な術語を禁じられたら、やり取りがめんどうくさいだろうなあ。

 「この石は、目なし・・・・というのは、差別用語だから・・・・二眼にするのが不自由な石・・・・・・殺そうとおもったら・・・・・あれれ、これもだめか、生きるのが困難な状態になってもらおうとおもったら・・・・・えーい、検討なんかやってられるかい!」ということになりそうです。 「どうやったら殺せるかな・・・」ということで頭がいっぱいになる囲碁好きの皆さんはブログの検閲だったら要注意人物ですね。

・なぐりこむ、・脅しをかける、・居直る、・半分捨てて逃げる・・・・・。

 すみませんね・・・・・しつこいようですが、まだまだありそう、物騒な囲碁用語。あ、「しのぎ」が、ある、とか、しのげない、とか。やくざの世界だな^^。このブログを見て、囲碁を知らない人が、通報したらこまるなあ。そういうことをされてはこまるから、みうごきできないように隅っこに押しこめるか、執拗においかけるか・・・・・そういや今話題の「ワタリ」もありますねぇぇwww。長文をお読みいただきお疲れ様でした。とても有意義であった、参考になった、碁が強くなった気がするとおもったら、(今日の駄文では、そんなことはなさそうですが・・・・・)こちらも読んでみてください。よろしく!今回の投稿は、囲碁とはかんけいなくなっちゃったんですが、主人公のわたしに一応、魚肉ソーセージといっしょに囲碁の本も持たせました・・・・
 
 囲碁が語源の日常用語」を転載しておく。
 さて、前置きが長くなってしまったのですが……今回は、長い歴史をもつ囲碁がどれほど 日常生活 に入り込んでいるのか、ということをお伝えしたく、囲碁が語源の言葉をご紹介しようと思います。普段何気なく使っている言葉の中には、意外なほどたくさんの「語源は囲碁用語」のものがあるのです。

 最も頻度が高いものは、「ダメ」でしょうか。そんなことしたらダメでしょ。この「ダメ」は、囲碁用語が語源。囲碁では、黒の陣地と白の陣地の間にできたスキマ……そこに打ってもどちらの陣地も増えも減りもしない「無駄な目」のことを「ダメ(駄目)」と言います。碁を覚えたての頃は、何かいいことがあるかもしれないと思ってダメに打ってしまい、強い人から「そこはダメだよ」と叱られるわけです。「何の得にもならない無駄な手だよ」という意味ですが、これを日常でも使ううちに、だんだん禁止色が濃くなっていったのでしょう。

 「結局」も日常でよく使われます。「局」は、将棋や囲碁の盤をさし、試合は一局、二局……と数えます。一局の流れのうち、終盤戦のことを囲碁では ヨセ と言いますが、このヨセは、平安時代には「けち」と呼ばれていました。「結着」の「結」の意味です。つまり、平安時代の囲碁用語が「結局」の語源なわけです。「けじめ」も、「けち」から派生した言葉だという説もあります。

 「玄人」「素人」もそうです。現在は囲碁では力の上の人が白石を、下の人が黒石を持って対局しますが、日本に囲碁が渡ってきた当初は逆だったそうです。つまり、強い人が黒。黒の人⇒くろうと。弱い人が白。白の人⇒しろうと。と変遷したようです。「こいつはそんなに強くないだろう」と甘くみてかかったところ、相手がたいそう強く、黒の人がはだしで逃げたところから「玄人はだし」の言葉が生まれたという逸話も有名です。

 「上手」「下手」は、読み方がいくつかあります。このうちの「じょうず」も囲碁用語が語源。江戸時代に入り、本因坊道策という天才が、現在につながる「九段」「八段」「七段」という合理的な段位制を整えたのですが、それ以前は、九段は「名人」、七段が「上手」と呼ばれていたのです。「下手」という位はなかったでしょうから、「上手」と対になって後から生まれたのでしょうか。

 面白いところでは「八百長」も囲碁にまつわるエピソードが語源です。明治時代に八百屋の長兵衛さんという人がいて、皆から「八百長」と呼ばれていた。彼には伊勢ノ海五太夫という囲碁仲間がおり、本当は長兵衛さんの方が強かったのだが、八百屋の品物を買ってほしいので、ときどきわざと負けて機嫌をとっていた。ところがあるとき、本因坊秀元という強い碁打ちと互角の勝負をしたことで、長兵衛さんが本当は強いということが皆にばれてしまった……というエピソードです。実話かどうかははっきりしないのですが、ともかくこのエピソードが「八百長」の語源。最近は悪質な八百長が増え、マイナスイメージが強くなってしまいましたが、当時はもっと可愛げのある言い回しだったような気がします。「八百長はなしだよ」「それじゃあ、負けて泣くなよ」なんて笑い合いながら対局を楽しんでいたのではないでしょうか。

 「布石を敷く」、「一目置く」、「先手をとる」、「後手をひく」なども、さほど頻繁には使いませんが、生活に浸透した言葉ではあるでしょう。

 もう一つ、「手」手(パー) にまつわるものでは、「手抜き」があります。普段は、「手抜き工事」に代表されるように、「手抜き」をして褒められることはありません。でも、囲碁では、単純に手を抜くこと。相手が「次はぜひここに打ってください」と促してきたときに、そこに打たないことを言います。もっといい場所に打てば「あのとき手を抜いたのが勝因だった」と褒められることになりますし、いい場所に打たなかったときには「あの手抜きがよくなかった」と反省することになります。つまり、「手抜き」するのは、大事な場所がよくわからない初心者か、いつどんなときにも広い盤面で一番大事な場所を見極められるとても強い人か、のどちらか。「プロは、まず手抜きから考える」と初めて聞いたときには、日常語の「手抜き」を先に覚えた私は、妙な違和感を持ったものでした。

 野球 野球の「先制点」「中押し」「ダメ押し」という表現の中の「中押し」にも面白いエピソードがあります。
囲碁では相手が「負けました」と言って途中で投了すると「中押し勝ち」となります。これは「途中」で「押し切って勝つ」の略で、「ちゅうおしがち」と読みます。これをあるとき、長嶋茂雄氏が新聞で目にされて「野球でも使える表現だ」と、ご自分がコメントするときに使うようになったそうなのです。ところが新聞にはルビが振っていなかったために、長嶋氏は「なかおし」と読んでしまっていました。それで、野球で使われるときには、そのまま今でも「なかおし」となっているようです。これからも、囲碁用語が意外なところから日常的に広まっていくことがあるのかもしれません。

 最後に、囲碁が日常となっているプロ棋士たちの、対局のあとの検討(反省会)の会話をご紹介しましょう。「ここに打つ方が乙だったかな」、「ああ、乙だね」、「この手でこう打ってみる?」、「おっ! これは盛られてるね」、「それだとさ、ここにゾロッとハネられるでしょ」、「ああ、ゾロだね」。検討はたいてい高尚すぎてついていけず、どう乙なのかも味わえず、盛られた毒が将来どのように悪さをするのかも読めず、ゾロっという感触も語感でしか楽しめないわけですが、これは囲碁用語でもなんでもなく、石を人のように扱い、自身も石の気持ちになったりしながら暮らしている人たちなんだなあと感動を覚えてしまいます。

 中山典之「実録囲碁講談」(日本経済新聞社、1977年初版)の「第三話 落碁 ある稽古先の話」より。
 「先生、コメはいいですねえ。碁打ちはコメでなけりゃ、いけないと思いましたよ」。「そうですか。私もコメのよさが、やっと判ってきました。年をとると、やっぱりコメがよい」。「なにしろ、敵がカカッて来れば、ハサンで攻めるし、こわがって近寄らなければ、手を省いて、デカく地を取るんですわ。おかげさまで、このところ、勝率が上りっばなしでさあ」。「…………」。「特に、あのヒデサク流というのはよい。コメを三ッも打つんだから、もう必勝です。百年も前にドエライことを考えたもんですなあ、ヒデサクは」。私は危うく吹き出すところであった。客人がコメといったのは小目のことであり、ヒデサク流というのは、秀策流のことであったのである」。

 久米幸太郎の仇討ち (石巻市祝田)  日野土地家屋調査士・行政書士事務所(宮城県石巻市)参照。
 「久米幸太郎」と、黙照こと「滝沢休右衛門」。と言っても、知る者は少ない。日本での歴史上、二番目に長い年月をかけた仇討ちという事で有名である。菊池寛などが小説化しているが、菊池寛の小説は「恩讐の彼方に」が有名で、「久米幸太郎の仇討ち」の方はあまり知られていない。
 (インターネット図書館:青空文庫)、(菊池寛 仇討三態
 文化14年(1817年)12月20日、新発田藩の滝沢休右衛門は藩金の使い込みをした事が同僚の久米弥五兵衛に知られ、藩への発覚を怖れて久米弥五兵衛を殺害し、逃走した。(囲碁の対局中、口論となり殺害したとも言われている) この時、弥五兵衛の長男幸太郎7歳、弟の盛次郎5歳であった。
 弥五兵衛殺害から10年後の文政11年(1828年)、幸太郎は幕府に「仇討ち廻国御免」の免許状を願い出、許された。幸太郎は藩主からも多額の金子を賜り、弟の盛次郎、叔父(弥五兵衛の弟)の留六郎の3人で仇討ちの旅に出た。途中、三手に分かれたり重病を患ったり、路銀が尽きて僧姿で托鉢をしたりと、かなりの困難を極めた。仙台藩領で幸太郎は偶然にも黙照という牡鹿半島にある洞福寺の僧侶がどうも滝沢休右衛門らしい…という情報を得、洞福寺に忍び黙照を見たが滝沢休右衛門の面体を知らぬゆえ確証が持てなかった。
 そこで一度新発田藩に戻り、滝沢休右衛門と旧知の板倉貞次と渡辺戸矢右衛門に同行を願い、再び洞福寺に忍び、黙照が休右衛門である事を確信した。伝承によると滝沢休右衛門は逃走中、僧侶の黙照となり、寺院を転々として、最後は洞福寺に身を寄せたが、他国者を異常なほど警戒し、刀の仕込み杖を使用したり、懐刀を常に忍ばせていた。寺社での仇討ちはご法度のため、黙照を本山である湊の牧山にある梅渓寺に誘い出そうと画策し、黙照が梅渓寺から洞福寺への帰路、祝田浜の五十鈴神社麓で仇を討った。
 五十鈴神社麓で、幸太郎は黙照にたいし、「滝沢休右衛門」の名を3度呼びかけ、ようやく黙照は「私のことか?」と答えたものの、自身が滝沢休右衛門であることを強く否定した。しかし旧知の藩士に詰め寄られ、とうとう自分がその滝沢休右衛門であることを白状して仇討ちの勝負となった。正面から一太刀の後にとどめを刺し…歩く足元もおぼつかない、82歳の老人を斬る事にためらいの気持ちも生じたが、意を決して本懐を遂げた。時に安政4年(1857年)10月9日、仇討ちの旅に出てから30年、弥五兵衛の殺害からは41年の歳月が流れていた。
 その後の久米幸太郎は加増されて町奉行に抜擢された。しかし人生の大半を仇討ちの旅に費やした久米に行政を任されるだけの器量は乏しく、厳し過ぎる町衆への取締りで評判がすこぶる悪かった。「やれやれ幸さん、功成り名遂げて、退く工面は少しもないぞや。早々奉行をお投げあれ」と、辞職要求の歌が城下で流行ったほどであった。町奉行の職を解かれてから程なく明治の世となり、旅館業、養豚業、旅の商いなど職を転々としたもののうまくいかず、数奇な晩年の人生を歩んだ。



 ★1.碁の勝負を見ているうちに、長年月が経過する。
 『述異記』
(任昉)巻上  
 晋の時代。木こりの王質が石室山へ行き、数人の童子が碁を打つのを見物する。童子は棗(なつめ)の核(たね)のようなものを王質に与え、それを口に含むと飢えを感じなかった。しばらくして童子が「なぜ行かないの?」と言うので、王質は立ち上がって斧を取る。斧の柯(え)はぼろぼろに爛(くさ)っていた。山を下りて里へ帰ると、誰も知る人がいなかった。

 『国性爺合戦』4段目  
 呉三桂が二歳の太子を連れて九仙山に登り、碁を打つ老翁二人と出会う。老翁らは仙術をもって、国性爺の春夏秋冬の戦いぶりを碁盤上に現し出す。見ているうちにいつしか五年が過ぎ、呉三桂は、七歳に成長した太子を見る。

 『仙人の碁打ち』(松谷みよ子『日本の伝説』)  
 菅平(すがだいら)のふもとの仙仁(せに)部落に、太平さんという木こりがいた。今日も一日、山で切った木を背負い、その中の適当な一本を杖にして、山を下った。仙人岩まで来ると、洞穴で二人の老人が碁を打っているので、太平さんはそれを面白く見ていた。「はて、もう家へ帰らねば」と、杖を取り直そうとしたとたん、太平さんはよろめいて倒れた。杖の木はいつのまにか朽ちており、太平さんも白髪のおじいさんになっていた(長野県)。

 ★2.碁が始まるとともに宇宙が始まり、碁が終わるとともに宇宙が終わる。
 『星碁』(小松左京)  
 「あたり!」と先番が言い、「これは手厳しい」と相手が応ずる。「待ちませんよ」「ここは一つ、長考一番」「劫ですな」「寄せですな」・・・と語り合ううち、勝負は終わりに近づく。退化した老地球人が、「宇宙の終わりだよ」と孫に教える。「宇宙の終わりの時には、空が星でいっぱいになって、それがはしから消えて行く、と昔の言い伝えにある」。星は切り取るようにゴソリと消えて行き、宇宙は太初の暗黒に還った。「もう一度しますか?」と先番の声が言った。

 ★3b.碁に夢中の男が、人を死に追いやる。

 『酉陽雑俎』続集巻4-966  
 梁の武帝が、高徳の法師を召し出す。臣下が法師の参上を告げた時、武帝は碁を打っていて石を一つ殺すところだったので、「殺せ」と口に出す。臣下はただちに法師を斬り殺す。碁を打ち終えた武帝が法師に「入れ」と命ずると、臣下は「御命令どおり殺しました」と答える〔*『太平記』巻2「三人の僧徒関東下向の事」や『曽我物語』巻2「奈良の勤操僧正の事」の類話では、天竺の大王が「截(き)れ(=対戦相手の碁石のつながりを断つこと)」と言い、臣下が僧を斬る〕。


 ★4a.仙人が碁を打つ。

 『捜神後記』巻1-2  
 晋代の初め、男が崇高山の北の大きな穴に落ちた。男は穴の中を十日ほど歩いて、仙館(=仙人の修道場)へ到る。そこでは、二人の仙人が棋(=碁あるいは将棋)を囲んでいた。仙人に勧められて一杯の白い飲み物を飲むと、男は気力が十倍になった。仙人が「留まることを望むか?」と問い、男は「否」と答える。「西方に天の井戸があり、そこに身を投ずれば外へ出られる」と教られ、男は半年後に蜀の国へ出た。


 ★4b.老僧が碁を打つ。

 『今昔物語集』巻4-9  
 天竺の寺で、八十歳ほどの老比丘二人が、ひたすら碁を打ち続けていた。二人は自在に姿を消したり現したりした。二人は、「黒が勝つ時は我が身の煩悩が増さり、白が勝つ時は我が心の菩提が増さる」と、陀楼摩(だるま)和尚に語った〔*二人の老比丘と見えたのは実は一人であり、二人に分身して『一人碁』を打ち、自らの煩悩身(黒)と菩提心(白)の戦いを観じていたのだろう〕。












(私論.私見)